第2章 都訛りの男
果てしなく続く一本道がレイモンの草原地帯を貫いている。
見渡す限りの枯野原が緩やかに起伏し、その合間に刈り残しのように残された木立が見えるだけだ。
その街道に一台の幌馬車が走っていた。
容赦なく吹き付けてくる寒風で幌がはためいている。荷台は各地で仕入れてきた布の生地を入れた箱で満載だ。
街道の彼方にはうっすらと灰色の小山のように都市の外壁が見えていた。
あれこそがレイモン王国の王都、アキーラだ。
《ふわー、結構長かったな……》
フィンは幌馬車の御者台で厚いポンチョにくるまった姿でその光景を見やった。
彼の横には中年の髭面で少し太った男が座っている。
彼の名はヴォランといって、この数ヶ月の相棒だ。
「あれですか?」
「ああ、やっと着いたみたいだな」
男はその体格にはやや似合わず、高いしゃがれ気味の声だ。
シルヴェストでアウラと別れてからというもの、フィンはずっと彼と共にレイモン国内を旅してきた。もちろんヴォランはアラン王がレイモン国内に展開している諜報組織の一員で、主に本国との重要な連絡を行う係らしい。
グリシーナを出たのが九月くらいだったのに、今はもう年を越している。
その間彼は最初はシフラ、それからベルジュ、自由都市メリスを経由してアルバ川を下り、バシリカを通ってこうして今アキーラに到着したところだ―――レイモン国内の大きな町や城塞をほぼ網羅したと言っていい。
《本当ならもうちょっとゆっくりして来たかったんだがな……》
このスケジュールでこれだけの場所を回れば、ほとんど駆け足状態になってしまう。本来ならアウラと二人でもっとのんびり回ってくる予定だったのだが……
例えばシフラは例の攻防戦が行われた場所だ。
フィンはあの図書館でナーザに示唆されて以来、この城塞都市のことをずっと気にかけてきた。
またメリスはアウラと出会う前、都を出てからしばらく滞在していたところだ。その際に世話になった人もいる。
そしてバシリカはフィンの母、ウルスラの故郷だ。
そこで父パルティシオンが彼女を賭けて碁の勝負をしたという話は、父親が酔って機嫌がよくなったような際には何度となく聞かされていた。そういう意味で、そこもまた非常に思い入れのある場所だった。
だが今はそれどころではなかった。
レイモンが動くとしたら春先である可能性が一番高い。軍が動き出すのならそろそろだ。こちらも行動は急がねばならない。
「なあ、ちょっと水筒取ってくれよ」
ヴォランがそう言ってフィンの肩をつついた。
「痛っ!」
思わずフィンは肩を押さえて呻いた。
「あ、そこだっけ? 悪い悪い」
フィンが怪我をしていたのは、昨晩泊まった村でも行っていたあの漫才のせいだった。最後にどつかれる所で勢い余って椅子から転落して、しこたま打撲していたのだ。
「いっつも僕ばっかりが痛い目にあって、たまには代わりませんか?」
「ええ? だってあんたの喋りの方が自然だしなあ」
それはフィンにも分かっていた。あれは彼が本当に都出身だからリアリティを出せるのだ。育ちというのはそうそう簡単に隠しおおせる物ではない。実際彼の話し方には今でも都訛りが色濃く出ている。
「それに商売の口上だってうまいじゃねえか。売り上げだって上がってんだぜ。いい相棒もてて幸せだよ。俺は」
だがそういう褒め言葉は話半分に聞いておく必要がある。なにしろ彼はこの道二十年以上のプロの行商人なのだ。
「にしてもあれって結構広まってたな」
「ああ、そうですね」
フィンはうなずいた。
彼らがあんなことをしていたのはちゃんとした理由があった。
どこの国でも前線で実際に働くのはあのような兵士達だが、フィンはセロの体験から彼らの“やる気”が戦いの帰趨に大きく影響することを思い知らされていた。
そんな彼らがこれから魔導師の総本山である白銀の都に攻め込もうとしているわけだが、それにも関わらず兵士達は相手に対する正しい知識をほとんど持っていなかった。
これはレイモンに限ったことではなく、どういった場所でも一般の人々は魔導師の実態についてほとんど知らない。
以前トレンテ村をアウラと再訪したとき聞かされた例のヨタ話にしても、本物の魔導師にとってはただの噴飯物だ。猫を人に変える魔法なんて聞いたこともないし、そもそも魔法を使う際に魔法陣なんて普通は使わない。
魔法陣や呪文、魔道具などは術者が精神を集中させるためのきっかけとして使われる物で、それ自体には何の効力もないものだ。
これは昔から流布している様々なおとぎ話とごっちゃになっているのだ。
《ま、シアナ様とかはわりとそういうの好きだったけど……》
そこでフィンは今回それを逆手にとってちょっとした芝居を打つことにしたのだ。
あの話を聞いた兵士達は今は冗談だと思っているだろう。
だが実際に都攻めに加わったときにこの日のことを思い出したとしたらどうだろう? そうなったときでも冗談と言って笑い飛ばすことができるだろうか?
不安は伝染していく。それが広まってしまうと払拭するのは並大抵ではない。
もちろんそれで軍団が瓦解するとか、そんなことになるとは思ってもいないが、今フィンにできる嫌がらせとしては結構いい線を行っているのではないだろうか?
実際昨夜の村では兵士の何人かが既にホモ魔法の話を知っていた。
もちろん噂を広めているのはフィン達だけではない。彼らは各地を経由しながら現地の連絡係などと接触してきて、彼らにも噂を広めるのを手伝ってもらっているが、それにしても人数をそれほど投入できるわけではない。
なのにあの噂は想像以上の速さで広まっているようだ。
《内心結構気にしてるみたいだな……》
クォイオの戦いやシフラ攻防戦で歴史的な戦略転換を成し遂げたレイモン王国だが、長い歴史に培われた魔導師への思いをそう簡単に変えてしまうことはできなかったようだ……
―――そんなことを考えているうちに、幌馬車はアキーラの外縁までやってきた。
フィンは初めて来た“敵国”の都を興味津々で眺めた。
この町も他の町同様に高い城壁で囲まれている。
だが他とは違い、ここは町の外にも低い粗末な建物が立ち並んでいた。
そこにいるのは汚い身なりをした者ばかりだ。馬車が近づくと何人かが寄ってきて手を差し出す。
フィンは一瞬躊躇してヴォランの顔を見るが、ヴォランは軽く首を振る。こういうのに付き合いだしたらきりがない。フィンは黙って馬車を進めた。
レイモン王国は辺境に位置し、元々はかなり貧しい国だった。
そのためアキーラは王都だったとはいえ、バシリカやシフラといった貿易の要となっていた都市に比べてかなり規模が小さかった。そこが急発展したため都市の拡張が追いつかず、城壁の外部にまでこうしてスラムが広がっているのだ。
だがフィンはこれからしなければならないことを考えるだけで精一杯で、そういった人々を思いやってやる余裕など一切なかった。
馬車が城門をくぐるとアキーラの市街に入る。
こちらは通りの両脇に石造りの建物が立ち並んでおり、たくさんの人々でごった返している。
「賑やかですね」
それを聞いてヴォランがにっこりと笑った。
「ああ。いいとこだよ。商売にはもってこいさ」
「ですねえ……」
相づちを打ちながらフィンは複雑な気分だった。
何しろここは敵地のど真ん中なのだ―――だがここまで来た正直な感想として、レイモンは行商人という彼らの表向きの仕事にとっては大変良い所だということだった。
フォレスからずっとここまで旅してきて、色々と危ない目に会ってきた。
もちろん自分から首を突っ込んだ事もある訳だが、それ以外でも単に追いはぎなどに絡まれることはよくあった。
だがレイモン国内に入ってからは、ほとんどそういうことがなかった。
《マオリ王が何考えてようと、この人達には関係ないんだよな……》
住んでいる人間にとっては、安全に超したことはないだろう―――それを思うとフィンは何か自分がやろうとしていることが悪いことのような気がしてきていた。
それから慌ててフィンは首を振る。
そういうことを考え出したらきりがない。
「で、どっちなんです?」
「ああ、この通りを真っ直ぐ行ってだな……」
フィンはヴォランの指示するとおりに馬車を走らせた。
やがて彼らは少し奥まった通りにある一軒の仕立屋の前にやってきた。
フィンが馬車を止めるとヴォランは先に降りて扉を叩いた。
「はーい!」
中から顔を出したのはお下げ髪の若い娘だ。
「あ? ヴォランおじさん? いらっしゃい!」
ヴォランは彼女を見て一瞬戸惑ったようだったが、ふっと目を見開くと言った。
「エッタちゃんか? 見てないうちにずいぶんきれいになったな」
「え? 本当?」
彼女は満面の笑みを浮かべる。
「身長も伸びたか? でもこっちはあまり変わってないか?」
そう言ってヴォランは彼女の胸を触ろうとする。彼女は慌てて胸を手で遮ると、むっとした表情で言った。
「なによ! もう、いつもエッチなんだから! 泊めてあげないわよ!」
「うわあ、それは困る。今日はこいつもいるし」
ヴォランは御者台のフィンを指した。
「初めまして。私フィンと申します。最近ヴォランさんと組ませてもらっています」
娘はフィンに気づくとぽっと顔を赤らめた。
「え? あ、初めまして、その……あたしアルエッタっていいます」
「何赤くなってんだよ。それにこいつはもう先約があるからだめだよ」
フィンに婚約者がいるということをヴォランに知られてからは、ことあるごとにからかわれていた―――というのも彼は今見た通りかなりの好き者で、暇があれば各地の郭にしけ込んでいたのだが、いくら誘ってもフィンが付いてこようとしなかったからだ。
もちろんフィンとしてもあの誓いさえなければ、付き合うのにやぶさかではなかったのだが……
「違うわよー! バカッ!」
それにしても可愛い娘だ―――決して美人とは言えないが、その笑顔が側にいる人をなぜか和ませる、そんなタイプだ。
「で、ドゥーレンは?」
「待ってるわよ。あ、馬車、裏手に止められるから」
「ありがとう」
フィンは言われるままに馬車を裏手に止めて戻ってくると、アルエッタが待っていて中に導いてくれた。
入ったところはちょっとした広間になっていたが、そこでフィンはまず目を見張った。
壁際に所狭しとドレスを掛けられたハンガーがつり下げられている。いずれも一目見ただけでかなり見事な仕立てだと分かる。結構値が張りそうだ。
フィンは近寄ってもっとよく見ようとしたが、そのときアルエッタが言った。
「お父さん、上よ」
「おお」
ヴォランがそれを聞いて部屋の隅の階段の方に向かったので、フィンも慌ててその後に続く。
ヴォランは勝手知ったる様子で、二階の奥から二番目の部屋にノックもせずに入っていった。
その部屋には五十歳くらいの眼鏡をかけたやや小柄な男がいて、テーブルの上に広げた型紙に何か印を付けているところだったが、ヴォランの姿を見るとその作業を止めて立ち上がった。
「おお、よく来たな」
「久しぶりだな」
二人は親しそうに肩を抱き合うと、男は後ろにいるフィンに目を留めて言った。
「そちらが?」
ヴォランがうなずいた。
「ああ。彼がフィンだ。で、この人がドゥーレン」
フィンは彼に挨拶した。
「始めまして。フィンです」
ドゥーレンは軽くうなずくと値踏みするようにフィンを見つめる。
彼もフィンがフェデレ公の男娼ルートを壊滅させたことや、グリシーナ城で大暴れしたことは知っているはずだ。ここに来る途中に会った各地のメンバーも同様で、どうしても最初はこんな反応になるのは仕方ない。
《この人が仕立屋ドゥーレンか》
それよりもフィンの方が少し緊張していた。
何しろ彼はアラン王がレイモン国内に作った裏組織の総元締めなのだ。
言い換えればあのアラン王に絶対的な信頼を受けているということだ。それだけでもただ者のはずがない。
ちなみに“裏”と言うからには実は“表”もある。アラン王がレイモン内に張り巡らせていた諜報網はフィンの想像以上に複雑だった。
どうしてそうなったかというと、元はフェデレ公の内通ルートのためである。
フェデレ公はシルヴェストを裏切ったという建前でレイモンに情報を流していたが、もちろんその中にはシルヴェストの諜報網に関する物も含まれていた。それは当然ながらレイモン側が最も欲しい情報の一つである。
だからと言って本当の情報を流すわけにはいかない。そのため作られたのが“表組織”の方だ。
彼らもまたレイモン国内の様々な情報を調査してシルヴェストに送っているが、その活動は秘密裏にレイモンの監視下に置かれている。
そのため“裏組織”があって、表とは独立に真の諜報活動を行っているのだ。
表組織と裏組織は現地では一切干渉しないことになっている。表組織の方は裏組織のことはほとんど何も知らされていない―――その果てしない騙しあいには頭がくらくらしてくるが、目の前にいる男はそんな任務を任された者なのだ。
だからフィンもここに来るまではもっとごつそうな男を想像していたのだが、目の前にいる男は一見どこにでもいそうな普通の仕立屋の親父だ。
しかしその眼光にはやはりただ者ではない光が秘められているように見える。
フィンが手を差し出すとドゥーレンもその手を握り替えしてくる。
それからフィンの顔を見るとにっこり笑いながら言った。
「何だか思っていたのとは随分違っててびっくりしましたよ。ま、ともかくお座りなさい」
「え? あ、ありがとうございます」
どうやら相手も同じようなことを考えていたらしい。ここにアウラがいたらもっとびっくりしただろうが……
一同が席に着くとドゥーレンがヴォランに言った。
「で、どうでした?」
「ああ。どこもかしこも平和なもんさね……」
ヴォランはこれまで通ってきた各地のことをかいつまんで話し始める。
それを聞きながらフィンは考えた。
実際来る途中はひどく平穏だったのは確かだ。
だが今はもう正月過ぎだ。春までそんなに期間があるわけではない。それなのに兵士達に異動があるような気配はなかったし、基地近くの警備が特に厳しくなっているようなこともなかった。
もしレイモンが本気で都を攻めようとするのなら、そろそろ何らかの動きがあってもおかしくないはずなのだが……
「……てな調子だったんだがな。はっきり言ってどうだ?」
それを聞いてドゥーレンも首をかしげた。
「うーん。でもあれがでたらめとは思えませんがね。それに大将はやっぱりガルンバだったし……」
フィンは思わず口を挟んだ。
「え? あのガルンバ将軍ですか?」
それを聞いてドゥーレンが笑って答える。
「あ、いや、小ガルンバの方ですよ」
「小ガルンバ?」
ぽかんとしているフィンにヴォランが補足した。
「ガルンバ・アリオール。息子の方さ。と言っても血はつながってない。大将軍の方には子供がなかったんで、ティグレの息子を養子に取ったんだそうだ」
「ティグレってあの東方将軍の?」
「ああ。血筋は立派なものだ」
フィンはそのティグレ将軍のこともよく知っていた。
レイモン戦役ではガルンバ将軍の名が特に有名だが、その盟友として彼を支えたティグレ将軍の功績も実は計り知れない。
彼が自分の首を賭けてガルンバを支持していなければ、クォイオの戦いはそもそも行われておらず、レイモン王国は戦わずしてウィルガ王国に併合されていたか、良くとも属国となっていたことだろう。
その誰もがあり得ないと思っていたガルンバの勝利を彼が信じたからこそ、今のレイモン王国があると言ってもいい。
「ともかく彼が侵攻軍の指揮をとるのは、これはもう間違いありません」
「そうか……」
ヴォランは腕組みをして考え込む。フィンも同様だ。
彼を疑う理由はないが、でもそれならばどうして兵は動いていないのだろうか?
だとするとやはりこれはハッタリなのだろうか? それなら一番いい話なのだが……
そのときノックの音がした。
「何ですか?」
「お茶をお持ちしました」
女声の返事だが、アルエッタとは違う声だ。
「お入り」
扉が開くと黒い服を身に纏った女性がお茶菓子の盆を持って入ってきた。
だが彼女は部屋の中だというのにつばの広い帽子をかぶっていて顔がよく見えない。
それを見てヴォランも不思議に思ったようでドゥーレンに尋ねた。
「この子は?」
「ああ、リエカだ。ちょっといろいろあって、今うちに引き取ってるんですがね」
「色々って……」
ヴォランは何か言おうとしたが、そこで声が止まってしまった。
その理由は同時にフィンにも分かった。彼女がお茶を配るために顔を上げた瞬間、その左半分が醜く焼けただれているのが見えてしまったのだ。
リエカはそんなことは気にしない様子で黙ってお茶菓子を配り終えると、そのまま軽く礼をして出て行った。
ヴォランとフィンはしばらく顔を見合わせる。それからヴォランが尋ねた。
「どうしたんだ? あの子?」
ドゥーレンはため息をついて首を振る。
「それですがね、少し込み入ってるんですが……実はネイードがやられたんですよ」
ヴォランが驚いた。
「え? ネイードが? どうして?」
「詳しくはわかりません。多分配下の誰かがへましたんじゃないかと思いますがね。実際あの後、ガルンバの屋敷の侍女が一人、殺されて川に浮かんでるのが見つかってますから」
ヴォランはふうっとため息をつくと首を少しかしげた。
「それとあの子がどう関係してるんだ?」
「最初私が彼に頼んでたんですよ。奥方が信頼できる娘が一人欲しいって言うから。それで奴が見つけてきてた娘だったんですよ。出身はセイルズって言ってましたか」
ドゥーレンは少し言葉を切った。
「ところが運の悪いことに、彼女がアキーラにやってきたときなんですよ。ネイードが殺されたのは。その際に奴の家は炎上してしまったんですが、そのとき丁度上の部屋で寝てたらしくてね。何とか命は取り留めたけど、あの顔だ。あれじゃさすがに侍女に上げるわけにもいかないし……で、それからうちに置いてやってるんですよ」
「なんとまあ……」
不運と言うしかない。いいお屋敷の侍女になれるとかいう話で上京してきたのだろうが、それがこんな結果になってしまうとは……
それに見たところ、あの火傷さえなければ随分な美人にも見えたが……
「それでちょっとあなたに相談があるんですよ」
ドゥーレンはヴォランにちょっと眉をひそめながら言った。
「なんだ?」
「ネイードの件、ちょっと調べてもらえないかって思って」
今度はヴォランが眉をひそめる。
「何をだ?」
「彼の素性がばれた理由ですよ」
ヴォランは目を見開いた。
「メイドがヘマしたってあんた、今言ったじゃないか?」
「まあ、そうなんですが……なんか気になるんですよ。その侍女が川に浮かんでた件でね」
「ええ? ってことはそれがインチキだったってことか?」
「そうかもしれないってことです。何かあからさまじゃないですか? いや、本当にそうだったらいいんですが……何しろあんまり疑いたくないんで」
ヴォランはドゥーレンをじっと見つめる。
「で、俺にあいつらを見張れって言うのかよ?」
「こんなこと頼めるのはあなたしかいないんですよ」
「かはー!」
ヴォランは天を仰いで絶句した。
何だこれは?
「もしかして、その、お仲間を疑われているんですか?」
フィンはドゥーレンに尋ねた。
「そんなことは考えたくもないんですけどね。でも、ネイードの裏稼業の事を知っていたのはそうはいませんから」
何だかいきなり妙な話になってないか?―――だが彼らにとって死活問題なのも確かだし……
そのときだ。どたどたと足音がしたかと思うとどんどんとドアが叩かれた。
「お父さん、お父さん!」
今度は紛れもなくアルエッタの声だ。
「何だ?」
「お客様よ。マルコスさんの所の人」
「分かった。今行く」
ドゥーレンは立ち上がると言った。
「まあそういうわけなんで、続きはまた夜にでも。本業の方の話もいろいろありますしね」
「ああ……分かった」
ヴォランが不承不承という感じでうなずいた。
それを見てドゥーレンは部屋の扉を開ける。そこにはアルエッタが立っていた。
「エッタ。お二人を案内なさい」
「うん。分かったわ」
それを聞いてドゥーレンは立ち去った。
「それじゃこっちよ」
アルエッタが手招きするので、二人はその後に続いた。
彼女は奥にある別な階段を下りると店の裏手に出た。そこには小さな中庭があって、反対側にもう一軒別な建物が建っていた。
その棟に入ると何人かの針子が脇目もふらずにドレスを縫っている。アルエッタはその脇を抜けると二人を二階に案内した。
「ここね。ヴォランおじさんがこっち、フィンさんは端っこね。荷物入れるなら言って。みんなで手伝うから」
「おう。ありがとよ」
アルエッタはばたばたと階下に降りていった。
それからフィンは用意された部屋に入る。中は小さいながらも清潔に片付いている。
フィンがベッドに座って一息ついているとヴォランが入ってきてぼやいた。
「まったくあの親父は、いつも人に無理難題を押しつけやがる」
「まあ、でも確かにあなたは中立だから、角も立ちにくいかもってことじゃないですか?」
「まあそうなんだろうがな……」
ヴォランは気が重そうだ―――確かにそうだろう。仲間を嗅ぎ回るというのは気分のいいものではない。だがこうなった以上は仕方ない。
「で、訊いてもいいですか? 他の仲間って?」
「あん? 手伝ってくれるのか?」
「しょうがないじゃないですか」
はっきり言ってこの何ヶ月かは彼におんぶにだっこ状態だった。少しは恩を返しておきたい。
「それに忍び込みとかなら、まああれだし」
ヴォランはにっと笑った。
「分かったよ。頼む。怪しいのは多分三人だ。ベルナリウス、オールデン、それにアイオラだ。みんな昔からの仲間なんだがな、ベルナリウスはアキーラの行商の元締めだ。オールデンは卸問屋、アイオラは酒場で働いてる。ネイードが裏でやってることを知ってた奴といえば、奴が使ってた女以外だったらこいつらしかいない……ああ、あとドゥーレンもそうだがな」
「ドゥーレンさんも疑うんですか?」
「こういうのは公平にやってやらないとな。はは」
だがヴォランの目は笑っていない。それからまたふうっとため息をつくと言った。
「それはそうと明日は行くんだろ?」
「もちろんですよ」
フィンはうなずいた。
「午後からになるけどいいよな? 午前中はいろいろ片付けとかないといけないことがあってさ」
「いいですけど、でも時間は足りるんですか?」
「駐屯地は町のすぐ外だから大丈夫さ。それにいっぺん行っとけばあとは一人でも大丈夫だろ?」
「そうですね」
フィンは再びうなずいた。
そもそもアキーラまで来た最大の目的は、レイモンの王都警備隊の動向を調べたかったからだ。
王都警備隊はレイモン軍でも精鋭だ。
しかも場所的に都攻めに投入しても小国連合の方にはほとんど影響がない。
だからアラン王もレイモンが都攻めの軍を編成するとしたら、王都警備隊が主力になる可能性は非常に高いと考えていた。
もちろんその動向に関する報告は色々されているが、実際目で見てみないと分からないこともある。だから本当は裏切り調査どころではないのだが―――それ以前に組織が崩壊してしまったりしたら話にならない。
フィンは部屋の窓から外を見る。アキーラの雑然とした町並みが広がっている。
《さて……これからが大変だな》
ともかく彼の為すべき事を為さねばならない。まずは……
「ま、ともかく荷物をだな」
「そうですね」
彼らは行商人としてここまで来ている。馬車には商品がまだ載せられたままだ。放置しておくわけにはいかない。
「それにしてもヴォランさん、人望あるんですね。みんな手伝ってくれるなんて」
「ああ? あいつら仕入れてきた生地を見てきゃーきゃー言うだけだから。結局運ぶのは俺たちなんだぜ」
「え? ああ、そうですか」
二人は苦笑いしながらアルエッタを捜しに降りていった。
どこだろう? ここは?
ああ、そうだ。あの岩棚の上だった……
脇腹が焼けるように熱い。
ちょっと気を抜くと何故かすぐ気が遠くなってくる。
『フィン?』
懐かしい声がする。
薄く目を開くと暗闇に彼を覗き込む瞳が見えた。
声を出すのも億劫だが、フィンは何とかうなずいた。
彼女だけは、彼女だけはどうにかしてやらなければ……
下の方で誰かが動く気配がする。もしかして助けが来たのか?
『……ってきたぜ』
『遅え……』
『あんだと? てめえは……』
誰の声だ?
フィンは目を開けて下を見ようとしたが、暗くて何も見えなかった。
『……さっさと撃ち落とし……』
どこかでぎりっと弓を引き絞る音が聞こえる。次いで近くの岩壁にがちっと何かが当たる音が聞こえた。
『どこ狙って……』
『……難しい……』
再び弓の音がする。今度の命中音はもう少し近くで聞こえた。
フィンは胃を鷲掴みにされたような気分がした。
違う! これは助けなんかじゃない!
フィンは歯を食いしばった。
《どうするんだよ?》
そのとき彼の手を握る小さな手の感触を感じた。
フィンが振り返ると月明かりの中、ファラが彼を見つめているのがうっすらと見える。
彼女の唇が何か動いている。何と言っているのだろうか?
『……のですか?』
『え? 何です?』
『他の魔法はないのですか?』
途端にフィンは胸が張り裂けそうになった。
そう。ないのだ。何も……
彼にできるのは小さな火の玉を出すことと、身を軽くすること、それに弱い衝撃波を出すことだけだが、この状況ではどれも使いようがない……
どうしてなのだ?
どうして彼はこんなに無力なのだ?
魔法というのは他には簡単には真似できない才能のはずなのに……
だが必要なときに役に立たなければ、それで命を落としてしまったのならば、それは何も持っていないのと同じだ!
それが使えないのならば後は……
フィンは剣を構えて大きな男と対峙した。
《畜生! 何でこんなに重いんだよ!》
相手だってそんなに剣がうまい訳じゃない。都の剣の教師に比べたら明らかにへっぴり腰だ。
だが間違いなく目の前の男は実戦を何度も経験してきているようだ。
男はじりじりと間を詰めてくるとやにわに斬りかかってきた。
フィンは男の一撃をかろうじて受け止めたが、圧倒的なパワー差だ。フィンはそのまま吹っ飛ばされて尻餅をついた。
『じゃあな』
男が剣を構える。フィンは目をつぶった。
『だめ!』
メルファラの叫びが聞こえる。フィンの心臓がどくんと脈打った。
当たり前だ! こんな所で諦めてどうする? 彼女はどうなってしまう?
フィンは再び目を開く。男が大きく剣を振りかぶっている。
《この野郎!》
フィンは思い切り精神を集中した。
『おああ?!』
男が妙な声を上げて体をのけぞらせた。見ると服の袖が燃えている。
《やった!》
こんなに瞬時に着火できたのは初めてのような気がするが―――フィンは這々の体で男の側から逃げ出した。
だが妙に体に力が入らない。足がふらふらしている。
『てめえ、何しやがった?』
振り返ると男が鬼のような形相で襲いかかってくるのが見えた。
フィンは身がすくんでしまった。そんな純然な敵意が向けられたのは初めてだったからだ。
『あが!』
フィンは脇腹に妙な感触を覚えた。ちらっと見ると大きな傷口が開いている。
えっと思った瞬間―――気づいたら彼は男の下敷きになっていた。
『ほら、もっぺんやってみろよ!』
男が拳を振り上げると、フィンの顔面に叩き下ろした。
目の前が真っ白になる。なんだ? これは?
これでもうおしまいなのか?
《いやだ!》
フィンは残った力を全て振り絞ってもがいた。
だが男はびくともしない。
そのときだった。
『うが!』
何故か男が悲鳴を上げてのけぞっている。そのせいで剣を持った右手が自由になった。
フィンがほとんど盲目的にその剣を振り回すと、それはざくっと何かに刺さった。
『あう!』
そんな呻きと共に男の体が浮き上がった。
フィンはほとんど無意識にあらん限りの力を込めて下から蹴飛ばす。
それを食らって男が数歩よろめいた。フィンは地面を何度か転がると、剣を支えにして最後の力を振り絞って立ち上がった。
心臓は早鐘のように打っている。腰からはだらだらと血が流れているのが分かる。もう立っているだけがやっとで、剣を振るうだけの力も気力もない。
だがフィンの心の中で何かどす黒い感情が渦巻き始めていた。
『もういっぺんやれって言ったよな?』
それは妙にかすれていて、自分の声なのにまるで他人の声のように聞こえた。
男が振り返ってフィンの顔を見る。
彼は襲ってこようとはしなかった。
代わりに男の顔に浮かんでいたのは―――紛れもない恐怖の表情だ!
《何だ? この野郎? いまさら怖いだと?》
それはフィンの心の中の真っ黒い炎を更に煽り立てる。
フィンは手を前に差し出した。
男は逃げるか反撃するか判断に迷ったようだ。だがその迷いが命取りだった。
《死ね!》
次の瞬間、男の頭はいきなり膨れあがり、ぼしゅっという音と共に破裂した。
同時に頭の中身が周囲に飛び散って……
それを見た瞬間フィンの腹の底から喜びが沸き上がってくる。
勝ったのか? 自分は勝ったのか?
だがその喜びは次の瞬間吹き飛ばされてしまった。
『いやあああ!』
ファラの絶叫だ! いったいどうして?
見ると男に組み敷かれたファラが脳漿まみれになっている!
『うわ!』
フィンは慌てた。
『熱い! 熱い!』
彼女が顔を押さえて悲鳴を上げる。
水だ! 水はどこだ? だが近くに沢はあっても汲む物がない。このままでファラの顔が……
「うわわわ!」
フィンは起き上がると呆然とあたりを見回した。ここはどこだ? 見慣れない部屋の中だが……
いや、ここは昨日やってきたドゥーレンの工房だ。
「何なんだよ……これは……」
再び彼は辺りを見回す。彼一人だ。
フィンはふうっとため息をついた。
これまでなら目覚めたのがどんなに見慣れない場所だったとしても、側には必ずアウラがいた。それが全く当然のことになっていた。
《アウラ……》
フィンはそう思って何度もため息をつく。
やはり彼女を連れてきた方が良かっただろうか? 実際荒事になったら彼女がいた方が心強いのは間違いないし……
でもそうしたら今度は余計なところでトラブルが発生していたのも間違いないだろうし―――彼らは目立たないように行動しなければならないのだから……
そう思ってはまた首を振る。
いくら理由を付けようと、彼女を連れてくるのが億劫だった真の理由は別にあるからだ。
《ファラを助けるために利用するなんて……》
アウラと別れてからというもの、ファラの夢を見ることがやたらに増えていた。
どうせ見るのならばあの結婚式や戴冠式での華麗な姿を見せて欲しい物なのだが……
あの森での出来事はまた別な嫌なことを思い出させてもしまう……
―――あの戦いの翌日のことだった。
フィンは腰に受けた傷のせいでまだ山荘のベッドで寝たきり状態だった―――とはいっても誰かが治療してくれていたようで、傷はもう塞がっていた。ただまだそれは完全とは言えず、体を動かすとずんと鈍い痛みが伝わってくる。
テーブルの上には果物の籠があったがあまりお腹はすいていない。
昨日のことはまるで夢のようだ。
この痛みがなければ本当に起こったこととは信じられないかもしれない。
フィンがそんな調子でぼうっと天井の木目を数えていると、誰かが入ってくる気配がした。
入ってきたのは薄紫色のローブを身に纏った中年の女性だった。
一目見ただけでフィンは彼女が誰か分かった。銀の塔の大魔導師の一人、ニフレディルだ。
「ル・ウーダ君?」
「あ……ニフレディル様……」
フィンは体を起こして挨拶しようとしたが、それを彼女は押しとどめた。
「だめです。また傷が開きますよ? せっかく私が治療したのだから、それを無駄にさせないでくださいね?」
なんと―――彼女が治療してくれていたのか……
「申し訳ありません……」
「いいのです。ともかくまずは体を治さないとね?」
「はい……」
だがフィンは内心不安に怯えていた。どうして彼女が? 確かに治療魔法のエキスパートなのも間違いないが―――でも治療だけなら彼女が出張ってくる必要はないはずだが……
「本当ならば治ってからでもいいかと思ったのですが、ちょっとその前に訊いておきたいことがあるのです」
フィンは目を見開いた。もしかして―――あのことか?
それを見て彼女はちょっと微笑んだ。
「お分かりのようですね? 森の奥でおかしな死体が発見されたのですが……」
「あの、すみません……でも……」
そんなフィンをニフレディルは今度は冷たい目で見据えた。
「あれは禁止されていたはずですね?」
フィンは心臓がぎゅっと握りしめられたような気がした。
「いえ……はい……」
「あえて禁を破った理由をおっしゃってください」
そう言ってニフレディルはフィンの額に手を当てた。
《ちょっと待って、これって……》
そう思った瞬間ニフレディルが言う。
「私も忙しいのであまり待てませんよ?」
「すみません。でも……」
彼女は真実審判師としても知られていた。彼女が恐れられている最大の理由だ。
「言い訳は不要です。あなたが何故あそこであの男の頭を吹き飛ばしたか、その訳を正直にお話いただければ、それでいいのです」
フィンは観念した。
こんな状況で都の大賢者に逆らうなんて、そんな真似ができるはずがない。
フィンは順を追って起こったことを正直に話した。
ニフレディルは黙ってそれを聞いていた。
「……だから、あの時はファラを助けたい、そのことしか考えてなかったんです。あの状況ではああしなければ殺されてました。だから……」
そこまで聞いたところでニフレディルは急に尋ねた。
「そのときあなたはどう感じましたか?」
「え?」
どう感じたって?―――フィンの心の中に再びあの時の光景が浮かび上がる。そして、怯えた男の顔を見て妙な高揚感に囚われたこと、男の頭を吹き飛ばした瞬間には間違いなく何の迷いもなかったこと、そしてそれが……
気づいたらフィンは目からぼろぼろと涙がこぼれ落ちていた。
ニフレディルは額から手を離すと静かに言った。
「ちょっと復習しましょうか。ル・ウーダ君。あなたは“女王の禁忌”の事を覚えていますね?」
「もちろんです」
女王の禁忌とは伝説の大聖と共に来た黒の女王が、世の魔導師全てに課したと伝えられる制約で、魔導師として教育を受ける者はまず最初に習う事項だ。
これは都だけでなくベラの魔導大学においても共通だ。この世界の魔導師の基本常識と言っていい。
それは幾つかの条項からなるがその中でも最も重要な物の一つに“魔法で直接人を殺してはならない”というのがある。フィンの行為は間違いなくそれに違反していた。
「でも……」
「分かっています。だから事情を聞いたのです」
ニフレディルはじっとフィンを見つめた。それから彼女はテーブルの上に乗っている果物の籠からリンゴを一つ取り上げると、フィンの目の前に差し出しながら尋ねた。
「どうして直接殺してはいけないのでしょうか?」
「それは……」
だがフィンが答え終わる前にそのリンゴがぽんと音を立ててはじけ飛んだのだ。
「うわ!」
フィンは慌てて顔を覆う―――だが恐る恐る目を開けてみると、はじけ飛んだリンゴの破片は空中に花火のようにぴたっと静止している。
次いでそれは団子のように固まって、部屋の隅の方にあった屑入れの中に飛んでいった。
「覚えていますね?」
「はい……」
何故いけないのか? それはこれがとんでもなく簡単な事だからなのだ。
火の玉を出す魔法なんて初級中の初級だ。
だがそれでもああいう風に使えば簡単に人を即死させることができる。
物を飛ばす魔法などでも同様だ。ちょっと放り上げて地面に叩きつけてやるだけで、どんな奴だって大人しくなってくれるだろう。
そして最大の問題は、それが相手にとっては全く防御不可能だと言うことだ。
これが刃物を持って迫ってくる相手だったらどうだろう?
誰だってそれに対する対処方法は思いつく。そうなったとき実際に実行できるかはともかく―――だが目前にいるだけで触れもせずに瞬殺されるかもしれないとしたらどうだ?
ニフレディルはじっとフィンの目を見据えると言った。
「恐怖は二つの反応を引き起こします。怯えて目を閉じてしまうか、見境なく襲いかかってくるか……いずれにしても、もはや彼らは私達を友としては見てくれなくなるのです」
フィンは黙ってうなずいた。
ニフレディルはフィンの肩に手をかける。
「今回の事については不問としますが、このことは忘れないようにしてくださいね?」
「はい……申し訳ありませんでした」
「それではゆっくりと養生してください」
ニフレディルはそう言うと部屋から出て行った―――
「ふわー……」
フィンはベッドの上で大きくため息をついた。あの時のことを思い出すと、今でも冷や汗が出る。
《ニフレディル様、怖いからなあ……ファシアーナ様なら良かったのに……》
ファシアーナとはフィンの魔法の直接の教官だった。
彼女もニフレディル同様の大魔導師だが、ずっと親しみやすく学生の間でも人気が高かった。ただし怒らせさえしなければだが……
《あの二人が魔法少女ペアとか呼ばれてたなんて、信じられないよな……》
そう思ってフィンはくすっと笑った。
噂に寄れば今からずっとずっと昔のこと、銀の塔に二人のとても可愛らしい天才少女がいたという。技のリディール、力のシアナとか呼ばれて、二人揃ったら当時の大魔導師達でもかなわなかったというが―――今では二人とも超怖~いおばさん教官となってしまっている。
《そういえばファシアーナ様だけだったよな……レイモン軍なんかが来たら自分が蹴散らしてやるとか言ってたのは……》
他の魔導師達は、ニフレディルですらその話題を口に出したこともなかったが……まああれも進級パーティーでかなり酒が入っていた時だったからだと思うが……
フィンは再びため息をついた。
話がレイモンの事になると、魔導師達ははっきり言って当てにならない。それは女王の禁忌によって魔導師が政治に関わることを禁じられているからというのもあるのだが……
そのため銀の塔では各魔導師がいかに己の技を磨くかということに集中し、それをどう利用するかといったようなことはあまり眼中になかった。
そういう意味ではフィンは例外的にそういったことを考えていた。
だがそれは実のところ半分くらいは僻み根性によってだった―――彼はあの後、もっと魔法がうまくなるようにと随分と頑張ったのだ。あんな思いは二度としたくなかったからだ。
だがそんな努力にも関わらず魔法の腕は結局あまり伸びなかった。
魔法能力は例外もあるが、おおむねかなり若い時の修練に依存する。フィンはその点少し年を取りすぎていたのだ。
だからそんな自分の無力さをごまかすために、魔法の無能力さを証明しようといろいろ粗探しをしていた。
だが都を離れてみるとフィンの魔法でもああして実は結構使えることが分かったし、アイザック王やナーザの元で色々研究した後では、魔導軍とは相変わらず国家の存亡に関わるような存在なのだと考えるようになっていた。
そう思ってフィンはまたため息をつく。
《だからって何で俺がこんなことしなけりゃならないんだよ……》
そもそも都がもっとしっかりしてくれていれば、こんなことなどする必要はなかった。
フィンはアウラと共に戻って、アイザック王に中原の異変のことを報告すればそれで終わりだったのだ。
そう思ってフィンが首を振ると、枕元に置いたトランクが目に入った。彼の個人の荷物の入っているトランクだ。
フィンはずるずる起き上がると、トランクを開けて中から一着のドレスを引っ張り出した。
それは別れる際にアウラから借りてきたものだった。
アウラがアラン王の御前で舞ったときに身につけていたもので、元は彼らがベラのクレアスの村を訪ねたとき、アウラが助けたシレンという仕立屋の娘からもらったものだ。
フィンはそれを広げてかざしてみる。
グリシーナ城でそれを着たアウラが現れたとき、低いどよめきが上がったのを覚えている。
ベラの風俗では女性が肌を露出することにあまり抵抗がないため、このドレスもあちこちにかなり大胆なカットが入っている。
ただアウラの場合、単純にそうすると肩口からの傷が見えてしまう。そのためシレンはその傷がうまく隠れるようなデザインを考えてくれたのだ。
その結果ドレスは何だか左右が非対称になっていたのだが、それが逆に新鮮に見えた。
それを眺めているとアウラがそれを着て舞っている光景が瞼に浮かんでくる。
《アウラ……》
フィンはドレスを抱きしめるとそのままベッドに倒れ込んだ。
《さっさと終わらせて帰るぞ!》
フィンは心の中でつぶやく。
できれば今すぐ帰りたかった―――でもそうするとファラはどうなる?
いや、そもそも彼女を守るのはもう彼の役割ではないし。都が全力で守ってくれるはずだろう? ならば……
だが銀の塔の中のことは彼が一番よく知っていた。
正直彼らに任せておけるだろうか?
いや、痩せても枯れても銀の塔は銀の塔だろう? フィンごとき若輩が心配する筋合いなんてないはずだろう? だったらさっさと終わらせて帰ってしまえば……
「うわあああ!」
フィンはアウラのドレスを抱きしめたままベッドの上を転がった。
いつもここで無限ループしてしまう。全くどうしたらいいのだ?
そのときドアをノックする音が聞こえた。
「フィンさん? フィンさん?」
アルエッタの声だ。
「え? はい」
フィンは慌ててドレスを隠すと答えた。
「朝ご飯なんだけどどうします?」
「今行きます」
ともかく今はやるべき事をやる。それに集中しなければ。
フィンはベッドから下りると大きくのびをした。