第3章 季節外れのピクニック
フィンが部屋から出て階下に降りると、奥の食堂からがやがやと人の声が聞こえてきた。
アルエッタの他に何人かの針子が朝食を取っている最中だ。
暖炉にはコーヒーのポットが置いてあって、そこから独特の甘い香りが漂ってくる。
テーブル上には黒っぽいパンと、チーズ、ハムなどの固まりがどんと置いてあり、めいめい手にしたナイフでそれを切りとってはパンに乗せて食べている。
「おはようございます」
針子達がフィンの姿を見て挨拶した。
「あ、おはようございます」
フィンは挨拶を返した。
彼女たちとは昨日の荷物の搬入以降、顔馴染みになっていた。
ヴォランの言ったとおり、確かに彼女たちは搬入を手伝ってはくれた。
だがそれが終わると今度は片付けたはずの商品をまた一つずつ引っ張り出してはああだこうだと品評会を始めて、それに午後中ずっと付き合わされていたからだ。
まあそれも仕方ないと言えば仕方ない―――彼女たちの仕事柄、フィン達が取り扱っている反物や端布、リボンといった品物はまさに宝の山だったからだ。
そんなわけでフィンは既に彼女達の間で人気者になっていたのだが、それを素直には喜べなかった。
なぜなら針子という職業で売り物にできるほどの技術を身につけるのは、やはりそれなりの研鑽が必要だ。その結果ここにいる彼女たちは全員がフィンよりも年上で、中には娘とはとても呼べない齢の者もたくさんいたからだ。
《もっとみんな若かったら良かったんだがな……》
などと思ってもこればかりは仕方がない。
「フィンさん、適当に取って食べてね。朝はみんなこんな感じだから。あ、コーヒーのカップはあそこね」
「ああ、わかったよ」
そんな中でアルエッタは一人飛び抜けて若かったが、こちらの工房兼自宅を一人で切り盛りしているようだった。
フィンはカップを取るとコーヒーを注いで、空いた席に座る。それから自分の分のパンやチーズを取り分けた。
「ミルクあったっけ?」
「そのピッチャーの中よ」
「ありがとう」
フィンはミルクコーヒーを作るとそれを一口すすり、チーズを乗せたパンにかぶりついた。
《パンはともかくチーズとかはうまいよな……》
このあたりは元々草原地帯で畑が作りにくかったせいで酪農が盛んだった。そのためバターやチーズ、ハムなどといった製品は相当に質が高い。その代わりパンなどになると今食べているような雑穀の混じった固いパンしかなかったりするが。
《こんなだからあんな大騎馬軍団ができたんだよな……》
レイモン軍といえば何と言ってもあの騎馬隊だ。
彼らがアキーラに来る途中、街道を馬の大群が横切っているのでしばらく待っていたことがあるが、それはなかなか壮観だった。
もしあんなのがこちらに向かって怒濤のようにやってきたら、それはビビってしまうに違いない―――そんなことを考えていると、どたどた足音がしてヴォランが入ってきた。
「おはようございます」
みんなが彼に挨拶する。その顔ぶれを見てヴォランは言った。
「ああ、おはよう……えっと、エッタちゃんは?」
それを聞いてアルエッタが奥から顔を出した。
「なんですか?」
ヴォランは足踏みしながら言った。
「これから行くんだけどさ、昼に弁当用意しといてもらえるかい? 戻って食ってる暇なさそうなんで」
「え? それはいいけど? 今から? ちょっと時間かかるけど?」
それを聞いてヴォランはフィンの顔を見て言った。
「でさ、フィン。それ持って西門のあたりで待っててくれねえか? 正午過ぎまでには行けると思うからさ」
「ああ、そういうことなら」
フィンはうなずいた。
「昼からヴォランとちょっと出かけてくるから、そのときに僕が持ってくよ」
「あ、分かったわ」
うなずいたアルエッタを見てヴォランはそのままどたどたと出て行った。
「ヴォランさん、相変わらず忙しいのね」
針子達が笑う。
《なんだろう……これって……》
こんな雰囲気は最近あまり味わったことがなかった。
いつだっただろうか。前こんな感じだったのは―――そうか。まだ都にいた頃、夏に山荘に出かけたときなんかがこんな感じだったか? 内弟子の人たちとわいわいできるのはあのときだけだったし……
フィンは一応正式な貴族の跡取りだったので、内弟子連中とは別棟に住んでいて、行儀作法なんかもうるさく仕込まれたのだ―――とはいってももちろん隙を見つけては妹と一緒にこっそり抜け出して彼らと遊んでいたのだが……
何しろ彼らは世界各地から集まっているせいで、おもしろい話や遊びなどをよく知っていた。
そんな思いにふけっていると針子の一人にアルエッタが言うのが聞こえた。
「えっと、ステイシアさんは?」
「まだ寝てるわよ。朝方までやってたから」
「ええ? そうなの? じゃあ今日のお買い物……」
アルエッタは口に手を当ててそう口ごもると、次いで話しかけた針子をじっと意味ありげに見つめた。
それに気づいて彼女は慌てて首を振った。
「え? ちょっと今日中に仕上げないといけないのがあるし……」
アルエッタははあっとため息をつくと、はっとしたように振り返って奥に向かって言う。
「じゃあ……リエカさんは……」
奥からリエカの声がする。
「え? でもお掃除はどうします? ドゥーレンさん、昨日怒ってましたよね?」
「あ…あ…あ……」
アルエッタは頭を抱えた。何となく状況が読めたので、フィンは彼女に声をかけた。
「どうしたんだ?」
「いえ、ちょっとお買い物の人手が……」
予想通りだ。そこでフィンは言った。
「何なら手伝おうか?」
「え? いいんですか?」
アルエッタの顔がぱっと明るくなる。
「いいよ。ついでにその辺を案内してもらえれば」
「ありがとうございます!」
アルエッタは満面の笑みを浮かべる。
実際午前中は特に予定も入っていなかったのでどうしようかと考えていたところだった。
そんなわけでフィンはアルエッタと一緒に買い物に出かけることになった。
市場への道すがらアルエッタがフィンに尋ねてきた。
「あのー、フィンさんって、白銀の都に住んでたっていうの、本当ですか?」
「え? まあね」
フィンはうなずいた。下手に隠したって訛りからばれてしまうので、最近は都の下町出身でずっと通してきている。
「あそこの銀の塔ってすごいんですってね」
「ああ。確かにでかいことはでかいな。入ったことないけど」
「へえ。見てみたいな」
「うん……」
フィンは曖昧にうなずいた。さすがに『なんだったら連れて行ってあげるよ』とか言うわけにはいかないし―――いくら三十年以上戦いがないとはいっても敵対した国家同士だ。通行証や確実な身分証を持っていない者はなかなか国境を通してくれないのだ。
実際彼らがレイモンの国境を越える際は、ちゃんとした通行証があっても結構な取り調べを受けている。
ただレイモンの場合国境線が長いのでいろいろと抜け道はあるらしい。だが当然そういった経路は堅気の人間を連れて歩く所ではないのも間違いない。
そんな話をしているうちに二人は市場に着いた。
「おお?」
今度はフィンが思わず声をあげた。
これは壮観と言っていいのではないだろうか?
かなり大きな広場が見渡す限り色とりどりの露店で埋め尽くされている。
その間を買い物客が町中総出といった感じで歩き回っている。
「すごいね」
「今日は十日に一度の大市なんですよ。だからみんな買いに来るんです」
アルエッタは慣れた足取りで人混みを縫って歩き始める。
フィンは彼女を見失わないように慌てて後を追った。
アルエッタは最初に肉屋が集まっている一角に行って、そのうちの一軒の前で足を止めた。
「おじさん。すじ肉ある?」
「やあ、エッタちゃん。今日はいいのがあるよ」
そう言って店の親父がすじ肉の入った箱を指す。
「じゃあそれ、二盛りちょうだい」
「随分一杯買うんだね?」
「お客さんが来てるの。ありがとう」
アルエッタは支払いを済ませて店の親父からすじ肉を受け取ると、フィンに渡した。
「これお願いします」
「ああ」
それから彼女は別の店でベーコンやハムなどを買い込み、次いでは野菜を売っている一角に行くと同じように芋やタマネギや何だかよく分からない根っこのようなものなどを大量に買い込んでいく。
その時点でフィンの抱えている荷物はかなりの重さになっていた。
「これみんな食べるのかい?」
「え? 今日食べるんじゃないわ。今日はすじ肉のシチューだから。そっちは保存用。少なくなってたから」
「ああ、そうか。ははは。あと要る物は?」
アルエッタは指折りながら言い始めた。
「パンとか卵も買っとかないと。あ、それからニンニクとかもなかったかも。小麦粉も少し要るかしら……」
フィンは苦笑いした。どうやらたまの男手なので、思いっきり有効利用されているようだ。
そんな調子で買い物が終わったときには二人とも、食材満載の袋を背中に担ぎ両手にもぶら下げた姿で、歩くのも苦労する状態になっていた。
「ちょっと買い過ぎちゃったかしら」
「いつもこんなに買うのかい?」
「市の日にはね。普通三人くらいで来るんだけど……」
「荷車でも持ってこれればいいんだけどな」
「そんなの無理よ」
「まあ、見りゃ分かるが……」
この人混みにそんな物は持ち込めそうもない。
《……にしても重いな……》
フィンは内心毒づいた。
ここでは彼が魔法を使えることは秘密にしてある。もしそうでなければ例の軽身の魔法で軽くしてやれるのに。それならこの程度の荷物など楽勝なのだが……
だが、レイモン国内では魔法使いというのは相当に希な存在だ。下手に目立ってしまったら元も子もない。
そう思って横を見るとアルエッタも少しふらついている。もう少し持ってやろうかと言いたくても、自分も結構ぎりぎりだ。
《大丈夫かな……》
そんなアルエッタに注意を取られていたため、フィンは前方から着飾った娘がやってくるのに気づくのが遅れた。
「うわ!」
フィンはその娘を避けようとしてバランスを崩すと尻餅をついてしまった。
「わわわ!」
転んだ拍子に手提げから芋が転がり落ちる。フィンは慌ててそれを拾い集めた。
そんな彼を着飾った娘が驚いた表情で見つめている。
「あはは。ごめん……」
フィンは彼女に向かって笑いかけた。娘もそれを見て我に返ったようで、慌ててぺこりと頭を下げるとそのまま行ってしまった。
「フィンさん、大丈夫ですか?」
「ああ、何とか」
フィンは埃を払いながら立ち上がった。
「あ! 汚れてる」
アルエッタはハンカチを取り出すとフィンのズボンの汚れを拭き始める。
「あ、いいよ。汚れちゃうじゃないか」
フィンは彼女のハンカチを見て言った。真っ白で綺麗なレースで縁取りされた上等そうなハンカチだ。
だがそれを聞いてアルエッタは言った。
「何言ってるのよ。こんなときに使うのがハンカチでしょ?」
「え? そうだけど……」
「それにこれって失敗作だって言うから。他にもまだあるし」
「失敗作?」
フィンがハンカチを覗き込むと、彼女はその一部を指さして言った。
「ほらここ。波紋の大きさが揃ってないでしょ? リエカさんが作ったんだけど、片眼があまりよく見えなかった頃で」
「へえリエカさんが?」
「そうなの。大けがして来てすぐだったから。彼女本当はすごく上手なのよ。ちゃんとしたのはこっち」
そう言って彼女は別なハンカチを取り出した。こちらの方は更に手が込んでいて、縁取りのメッシュ部分にはビーズまであしらってあってきらきらと輝いている。
「さすがにこれで物拭いたりはできないけど」
アルエッタは笑った。
「綺麗だね。蜘蛛の巣みたいで……」
それを見てフィンはついうっかりそう言ってしまった―――もちろん褒め言葉のつもりだったのだが、それを聞いてアルエッタはちょっとむっとした顔になった。
「蜘蛛? ひどい! なによ、それ」
フィンは慌ててフォローした。
「あ、いや、蜘蛛ったって、あの黒い奴だけじゃなくて、黄金色のきれいなのもいるんだ。蜘蛛の巣に朝露がついてる所に朝日が当たると、きらきら虹みたいに輝くんだ。それってまるで宝石みたいなんだよ」
「え? そうなの?」
アルエッタがぽかんとした顔で聞いている。
「でも……普通蜘蛛っていったら台所の天井とかにいる、あの手のひらみたいな黒いのを言うんじゃない?」
「いやまあ、そうかもしれないけどさ。ははは……」
苦笑いするフィンを見てアルエッタも笑顔に戻る。
「フィンさんって面白いんですね」
「いや、これを言ったのは元々俺じゃないし」
「へえ。じゃあお友達はもっと面白いんですね」
「そうかな? あははは」
とりあえずはアルエッタの機嫌は直ったようだ。
《でもまあ、こっちの方が普通だよな……》
もちろんそういうことを言った“お友達”というのはアウラのことだが、やはり蜘蛛が綺麗だとか言う娘はあまりいないようだ。
それから二人はふうふう言いながら家に戻った。
荷物を厨房に置くと、座って一息つく。
「ふえー、重かった……」
「ごめんなさいね。でもこれでおいしいシチューが作れるから」
そう言ってアルエッタは立ち上がると、すぐさま料理の下ごしらえを始めた。
その姿を見てフィンは思わず尋ねた。
「シチューって昼食なのか?」
「違うわよ。晩ご飯よ?」
アルエッタが不思議そうに答えるが……
「夕食を……今から作るのか?」
それを聞いてアルエッタは納得したといった顔で答える。
「だってすじ肉ってよく煮込まないと固くて食べられないのよ。今から始めて午後はずーっと煮込むの」
フィンはうなずいた。そういうことなら確かに仕方がない。
だが彼にはもう一つ懸案があった。
「じゃあ……昼の弁当は?」
シチューを作りながら弁当が作れるのだろうか?
その心配は見事に的中していた。
「あ!……え?……やだ。どうしよう?」
しろどもどろになったアルエッタを見てフィンは笑いながら言った。
「わかったわかった。自分で作るからさ」
「え? いいの?」
「大丈夫だよ。その辺のパンとかハムとか少しもらっていいだろ?」
「ええ。それは……ごめんなさい」
「いいって。それにどうせ食うのはヴォランだし」
「うう、今度本当にちゃんと作るから。ごめんね」
フィンは笑いながらうなずいた。彼女は快活で働き者だが―――ちょっと手際は悪いようだ。
そういうわけでフィンは自分で昼食にするためのサンドイッチを作り始めた。
パンを切ってバターを塗って色々挟むだけだから別に難しいことではない。だが……
「ありゃ?」
そんな物を作るのは久方ぶりなので、少しばかり量の見積もりを誤ってしまった。
できあがったサンドイッチは用意したバスケット一杯になっている。
それを見てアルエッタが目を丸くした。
「すごい。フィンさん、そんなに食べるんですか?」
フィンは頭をかきながら答える。
「え? ちょっと多いかな? でもヴォランもいるから何とかなるだろ?」
「ヴォランさんって結構小食でしょ? あの体で」
「そういやそうだけど、まあ、街の外を回ってくるし、体動かせば腹も減るだろう」
「余ったら持って帰ってその辺に置いとけば誰か食べちゃうと思うわ」
「あはは。そうするよ」
―――といった調子で午前中は過ぎていった。
その日の午後、フィンはヴォランと一緒にアキーラの郊外で馬を走らせていた。
真冬にしては天気が良く風もあまり強くない。
こちらに来る何日か前には雪が降ったらしく日陰には少し雪が残っている。しかし日の当たるところは完全に溶けていて、来るときに見たような枯れ野原がずっと広がっている。
「いい天気ですね」
フィンが話しかけるとヴォランが答えた。
「ああ。これなら迷うこともないだろうな」
「そんなにわかりにくいところですか?」
「いや、何もないからな。吹雪に巻かれたりしたらえらいことだ」
言われてみればその通りだ。視界が遮られて方向を見失ったら、間違いなくどこに行くか分からない。
ル・ウーダ山荘の近くの霧の湿原がそんな所だったが―――あそこは迷ったと言っても良くて数時間程度で何とかなるが、ここではうっかりしたらそれこそ、どこまで行ってしまうか全く分からないだろう。
しばらく行くと街道から太い道が分岐している所に来た。それを指しながらヴォランが言う。
「ここ行ったら駐屯地の正門だ」
フィンはうなずいた。
だが二人は今日はそちらには向かわず、もう少しまっすぐに馬を走らせる。
ヴォランはやがてあまり目立たない細道が分岐しているところで馬を止めた。
「ここから周りを回って来れるんだ」
「ここですね」
フィンは周囲の景色を忘れないように注意した。それから二人は細道の方に馬を向けた。
二人が入り込んだ道は狭いが車の轍が残っていて、生活に使われていることを伺わせる。
「これはどこへ行く道なんです?」
「どこへ行くって言うか、このあたりはずっと牧場みたいなもんだから。夏だったら牛とか馬が一杯いるんだけどさ。その牧舎をつないで網の目みたいにこんな道があるのさ。だから現地の奴じゃないと迷っちまうが」
「ああ、そうなんですね」
二人がそれからしばらく馬を走らせると低い丘の上に来た。
「ここから見えるぜ」
そう言ってヴォランが馬を止める。
フィンは言われた方を見てみた。遠くに黒っぽい村のような物が見える。
「あれですか」
「ああ。あそこがレイモンの王都警備隊の訓練場だ。あいつらの拠点は王宮の宿舎とあそこなんだ。もし出陣とかがあるんなら、少しは賑やかになるはずなんだがな」
フィンは目をこらしてよく見た。
「何か寒々としてますね」
「ああ。そうだな」
この季節だ。人がいれば煙突から煙が出ていないとおかしいが、それがほとんどない。
かなりたくさんの建物があるが上がっている煙は数条だけだ。
ということはあの駐屯地にはあまり人がいないということだ。フィンはそう思って尋ねた。
「これって人が減ってるって事ですか?」
だがヴォランは首を振った。
「いや、この季節はいつもこんな物だぞ。演習の時以外はあまり常駐してる奴はいないんでな」
「そうですか……」
アキーラから不自然に兵が減っているようなことがあれば、何かのヒントにもなったのだろうが―――だがそういったことがあれば多分ドゥーレン達も気づいていただろう。昨夜の話では少なくとも彼らは変わったことがないと言っていた。
「もうちょっと回ってみますか」
「いいけどそれよりちょっと何か食おうぜ。腹減ったよ。フィン先生の大作もあるらしいしな」
そういってヴォランが腹をさする。そう言われてフィンも空腹になっているのに気がついた。
「そうですね……でもここで食べます? ちょっと寒くないですか?」
比較的風は弱いと言っても、座っていたらやはり凍えてきそうだ。
「ああ、この下の方に確か木立があったから、そこだったら風も来ないだろ」
「じゃあそこまで行きましょうか」
二人は再び馬を走らせると丘を下った。
ヴォランの言ったとおり、そこにはちょっとした林があった。
道は林の中に続いている。その中に入ってしばらく行くと、丁度ぽっかりと林が開けて日当たりの良い、なかなか気持ちの良さそうな場所を見つけた。
「ここなんかどうだ?」
「いいですね」
こういった季節の休息地としては申し分ない場所だ。
フィンとヴォランが馬から下りて近くの木につなごうとしたときだ。少し離れたところから別な馬のいななきが聞こえた。
「あれ? 先客がいるのか?」
声がした方を見ると、少し離れた木陰に馬が一頭つながれているのが見える。
「誰だ? こんな季節にピクニックか?」
「人のこと言えませんけどね」
こんな場所で人に会うとは思ってもいなかったので二人は少々困惑した。ヴォランがつぶやく。
「どうしようか。この先また吹きっさらしだぜ」
フィンも少々迷っていた。任務柄あまり他人と接触はしたくなかったのだが、腹も減っているしここは休むにはいい場所だ。そこで彼は言った。
「ここでいいんじゃないですか? 弁当を食べるだけだし」
「だな」
ヴォランも同様のようだ。
そこで二人は自分たちの馬をつなぐといななきの聞こえた方に歩いていった。
休み場所に先客がいる場合は挨拶するのが旅人の礼儀だ。
だがあたりには誰もいなかった―――不思議に思ってフィンが何か言おうとしたときだ。
「おお? 戻ったのか?」
上の方から男の声がしたのだ。
「えっ?」
慌てて二人が上を向くと―――近くの木の上に人影が見えた。
「なんだ?」
驚いてヴォランもその先が出ない。
その声を聞いて、樹上の男が枝の間から顔を出した。そしてすぐに彼らが他人だと気づいたようだ。
「ありゃ、すまん。連れが戻ったのかと思ってしまった」
「いやいや、こっちこそ。ここでちょっと休もうかと思うんだが、構わないかな?」
「構わんよ。どうぞ休みなされ」
フィンはよっぽどそんな所で何をしていると訊こうかと思ったが、止めにしておいた。
そこで二人は少し離れたところに座るとたき火を起こす準備を始めた。
適当に薪が集まったところでヴォランが言う。
「じゃあやってくれよ」
だがフィンは首を振って小声で言った。
「あの人が見てたらまずいでしょ?」
「あっ! そうか……しょうがねえな」
ヴォランは渋々火打ち石を取り出すと火を付け始めた。
やがてたき火の炎が燃え上がると、フィンはお茶を沸かす準備を始める。
湯が沸くまではしばらくかかる。二人はぼうっと燃える炎を見つめていた。
するとがさがさと音がして先程の男がやってきた。
灰色のポンチョを身に纏い、年齢は五十歳くらいだろうが、髪はもうかなり白くなっている。
男は二人にちょっと挨拶をすると言った。
「あたらせてもらっていいかな?」
「いいですよ?」
こんな場合にはごく普通のことだ。フィンは開いているところを指さした。
「すまんな。連れがなかなか帰って来んのだよ」
男は頭をかきながら座り込むと、手を伸ばしてたき火に当たった。男に向かってヴォランが尋ねる。
「お連れさんはどちらまで?」
「町までちょっとな」
「へえ。じゃあ食事とかはどうされたんで?」
「いや、まだなのだ。その辺もあいつが買ってくるはずなんだがな」
フィンとヴォランは顔を見合わせた。
「それじゃ一緒に食いませんかい? こっちは少したくさん持って来すぎてて」
ヴォランの言葉に男は驚いたように二人をみた。
「いや、それは……」
だが途端に男の腹が鳴った。男ははにかむようにちょっと笑うと言った。
「うーむ。それじゃ少しご相伴に預かるかな?」
そういうわけでフィン達はその男と一緒にランチを食べ始めた。
食べながら男は自己紹介した。
「わしはロクスタというのじゃがな。あんたらは?」
「ああ、俺はヴォラン。こっちはフィンって言うんだ」
ロクスタは軽くうなずくと尋ねた。
「ふうむ。それにしてもこんな所で何をしておるのだ?」
こんな場合はまあ当然の疑問だ。だがヴォランはすらすら答えた。
「ああ、この先の牧場に知り合いがいてな、訪ねてく途中なのさ」
あらかじめ誰かに聞かれたらそう答えようと示し合わせていたのだ。
「ああ、なるほどな! ピクニックには少々寒いなと考えておったのでな」
ロクスタはそう言って笑った。そんな彼に対して今度はヴォランが尋ねる。
「それで旦那の方はどうなんです? さっきは木に登ってたみたいだけど」
それを聞くとロクスタはなぜか子供のような笑みを浮かべた。
それからポンチョの中に手を入れてなにやらがさがさしていたかと思うと、コルク栓をしたガラス瓶を一つ取りだした。
「これじゃよ。これ」
フィンとヴォランはその瓶を覗き込んだ。中には―――毛虫が何匹か入っている。
………………
二人は顔を見合わせた。
「なんですか? それは」
それを聞いてロクスタはにっこりと笑う。
「ふっふっふ。これはな、シロホシガの幼虫なんじゃよ?」
「はあ?」
ぽかんとする二人に対してロクスタは続けた。
「シロホシガ。見たことないかな? 夏の夜、かがり火の回りでよく飛んでおる。茶色い羽に白い斑点があるやつなんだがな」
「見たことあるような気もしますが……」
フィンが答えるとロクスタは言った。
「そいつはな、秋に卵からふ化すると、毛虫のままああいった木の皮の隙間に入って冬を越すのじゃ。そして春になって新芽が出てくるとそいつを食って、夏に成虫になる」
「ああ、はい……?」
何なのだ? このおじさんは……?
「ところがな、シロホシガにそっくりなレイモンシロホシガは成虫で冬を越すのじゃ。姿形はそっくりなのにその行動は全然違っておるのだ。面白いとは思わんかね?」
「ええ? まあ……」
何と反応して良いか分からず、フィンは曖昧にうなずいた。
だがそういった態度はこの場合かなりまずい選択だった。
「そうかそうか! じゃあこいつはどうだ?」
ロクスタは満面の笑みを浮かべるとまた別な瓶を取り出す。中には別な毛虫が入っている。
「こいつはなあ、ハイイロマダラといってなあ……」
―――といった調子で延々と虫の話を始められてしまった。
フィンとしては決してそういう話が嫌いではなかったのだが、さすがに今ここだと少々困るし、ヴォランに至ってはちんぷんかんぷんという顔だ。
ロクスタは食事の間中話し続けた。それどころかランチが終わり、食後のお茶を飲み終わってもまだ話を続けようとするので、ついにヴォランが業を煮やしてそれを遮って言った。
「……それにしても旦那の連れって遅いですねえ。どっかで迷ってるんじゃないですかい?」
それを聞いて男ははっとしたように膝を叩いた。
「うむ。確かにその通りじゃ。こんな所で油を売っている訳にはいかんな」
フィンとヴォランはこっそりと顔を見合わせて苦笑いする。
ロクスタは前に並べてあった様々な昆虫の入ったガラス瓶を片付けると、二人に向かって深々と頭を下げた。
「わざわざ昼食まで頂いて、じゃがお礼をしようにも大した物を持っておらんのだが」
「いえいえ、構いませんよ」
ヴォランは手を振った。この程度のことならよくあることだ。毛虫の瓶をもらっても困るし。
「うむ。ならば今回はお方々のご厚意を受け取っておくことに致そう。もしまた会うようなことがあれば今度はわしがごちそうするからな」
「そのときはお願いしますぜ。旦那」
「ははは! 任せておきなさい!」
そう言ってロクスタはよっこらしょと立ち上がると自分の馬の方に歩いていった。
フィンとヴォランは再び顔を見合わせるとくすくす笑って、それからたき火の後始末を始めた。
旅をしていると時々面白い人物に出会えることがあるが、今の男はその中でもトップクラスの変わり者だ。
「もう少し暇だったらもっと聞いてても良かったんですけどね」
あんなに昆虫に詳しいなんてどこかの学者なのだろうか?
「お前あんな虫の話が好きなのか?」
「毛虫はともかく、小さい頃はカブトムシとか好きでしたよ」
「ああ、あれならよく喧嘩させてたよな」
そんな話をしながら二人も自分たちの馬のところに戻り、再び首都警備隊の駐屯地の回りを回り始めた。
結局その日は収穫無しだった。
あれから午後の間ずっと駐屯地の周囲を走り回っていたのだが、特に変わったことは見つけられなかった。
もちろん彼らもそんなに簡単に何かが発見できると期待していたわけではないので、そこまで落胆はしなかった。
だがやはり残り期間の事を考えると少々暗い気分にはなってくる。
アキーラへの帰途、ヴォランがフィンに言う。
「まあ。こういうのってのは大抵こんなもんさ。確か来週にオールデンが駐屯地に行くから、そのとき付いてってみたらどうだ?」
フィンはうなずいた。
「オールデンってのは、確か卸問屋の人でしたっけ?」
「ああ。駐屯地の資材も色々扱ってるからさ。中からも見れるぜ」
「そうですね」
内部から観察できればまた何か分かるかもしれない。フィンはもうこれ以上考えないことにした。
帰り着いたときには既に日はとっぷりと暮れていた。
二人が馬をつないで家に入ると、中はシチューの香りが充満している。
「あ! お帰りなさい」
二人が食堂まで行くと、気配を感じ取って厨房からアルエッタがエプロン姿で出てくる。
「エッタちゃん。ただいま。いい匂いだね」
ヴォランが言うとアルエッタはにっこり笑った。
「うん。今日のは特製だから。フィンさんが買い物手伝ってくれたのよ」
「聞いた聞いた。えらく持たされたんだってな」
フィンが苦笑いしながらうなずくと、アルエッタは訳を説明し始める。
「それがね、ステイシアさんと行くことにしてたんだけど、ステイシアさんに急な仕事が入っちゃって。そしたらフィンさんが来てくれるっていうから」
その場にいた針子の一人がそれを聞いて言った。
「フィンさんって優しいのね! いい旦那さんになれそう!」
途端にあたりが笑いの渦に包まれる。
フィンが何と反応していいか困っていると、ヴォランが更に追い打ちをかける。
「おい。何だか大もてじゃないか? いいよな」
「そんなんじゃないですよ」
フィンは慌てて手を振った。それを見て別な針子が言った。
「そう言えばフィンさんってまだ独身だって?」
フィンはうなずいた。
「え? まあ一応。でも婚約者はいるんで……」
そう答えると針子達は一斉にええっという顔をして、口々に言い始める。
「ええ? そうなの?」
「ちぇ。つまんないな」
これはとりあえずは喜ぶべき事なのだろうが―――だがここにいる彼女たちは、アルエッタを除けば間違いなく彼より年上ばっかりだ。
その中でも一番おばさんと言っていい針子が尋ねる。
「フィンさんの婚約者ってどんな人? 美人?」
「え? まあ、そう言えなくもないかな。ははは」
フィンはまた苦笑いしながら答えたが―――これはおおむね事実である。アウラは黙って立たせておけば間違いなく貴婦人で通る。
そんなフィンの顔を見て、ヴォランが言った。
「こいつさ、どうもその彼女にぞっこんみたいで。こっちに来る途中だって、彼女がいるから僕は郭には行けません、ってな」
途端に針子達はまた驚いた声を挙げてから、口々に言い始める。
「ええ? 本当?」
「うわああ! その彼女って幸せ者ね!」
なんだよ! これは? もう……
「ちょっと、ヴォラン!」
フィンはヴォランの袖を引っ張った。
「いいじゃねえか。本当だろ?」
「だからってこんな所で言いますか? 普通?」
「あはは。悪い悪い」
それを聞いていた針子がまた突っ込む。
「こっそりだったら分からないのに。フィンさんってまじめね」
だからそういう悪魔のような事は言わないで欲しいのだが―――彼女たちのノリには今ひとつ付いていけない……
そのときだった。アルエッタがはっと思い出したような顔でヴォランに言った。
「あ、そうだ。そういえば午後にアイオラさんが来てたんだ」
「アイオラ? 何しに?」
「何か服を買ってきてあげるって約束してたんじゃないの?」
それを聞いてヴォランがあっといった顔をする。
「ああ、そうそう。そうだったぜ。で、今日来たのか?」
「うん。また明日来るからって」
「分かった。はは、そういやそうだった」
アイオラと言えば昨夜の話に出ていた裏組織のメンバーの一人だったはずだ。
だがここでそのことについて尋ねるわけにもいかない。
そんなわけでやがて一同が集まって夕食になった。
夕食のシチューはフィンが苦労して担いできた甲斐あってなかなか絶品と言って良かった。
「これおいしいな」
フィンがそう言うとアルエッタが微笑む。
「そうなの。じっくり煮込むとスープも出るし、すじも柔らかくなって美味しいのよ。しかも安いし」
「なるほどね」
これだけの頭数があると食費も結構かさむだろう。そんな話をしているうちにドゥーレンが入ってきた。
「お帰りなさい」
針子達が一斉に挨拶をする。
「ああ」
そう言ってドゥーレンが席に着く。
アルエッタが彼の分のシチューとパンを持ってくると、ドゥーレンがそれを見て目を細めた。
「ああ、これか……」
ドゥーレンはスープを一口二口啜る。
「どう?」
アルエッタが尋ねると、ドゥーレンは目を細めて答えた。
「うん。良くできてるよ」
「ありがと!」
彼女がまたにっこり笑う。
フィンがそのやりとりを見ていると、横に座っていた針子がフィンに小声で耳打ちした。
「これってね、エッタちゃんのお母さんの得意料理だったのよ」
「え? そうなんだ。お母さんは?」
フィンがそう尋ね返すと、その針子はちょっと目を伏せて答えた。
「三年くらい前に、病気で亡くなられたの」
フィンはちょっと言葉に詰まった。
言われてみればこんな家の切り盛りを若い彼女が一人でやっているというのは、変と言われれば変だった。
「ああ、そうなんだ……」
「彼女それからずっと頑張ってるのよ」
フィンはアルエッタを眺めた。一見幸せな町娘に見えるが、やはりそれなりに辛いことは抱えているのだ。
そんな調子で夕食が終わり、一同はまためいめいの作業に戻っていった。
フィンも自分の部屋に引き上げた。
何だかんだでくたくただ。これは風呂に入ってゆっくり休むしかない―――そう思ったときだった。
《あれ?》
フィンは部屋の中に何か違和感を覚えた。
その原因を探して部屋をあちこち観察する。
何か出たときと物の配置が異なっているような気がするが……
《誰かが部屋の掃除をしたのかな?》
だがその割にはベッドは起きたときのままで毛布などはくしゃくしゃだし、床にもゴミがちらほら見える。
フィンはトランクの中の荷物を調べた。一見無くなっている物は―――ないが……
気のせいなのだろうか?
いや、ちょっと待て? トランクの中が前より整理されてないか?
《何だ? 誰かトランクの中を見たのか?》
フィンは再び注意して荷物を調べた。だがやはり物が無くなっているわけではない。
どういう事なのだろうか?
そのときだった。ドアをノックする音が聞こえた。
「どうぞ」
その声に応じて、ヴォランとドゥーレンが入って来た。
「あ、何でしょうか?」
ドゥーレンはフィンの顔を見て笑って言った。
「ああ、フィン君。今日はお疲れでしたね。何だかエッタに荷物持ちをさせられたそうで?」
「いえ、まあ、ははは」
「まあすみませんがしばらく我慢してください。うちも人手が足りなくて」
「いえいえ……」
そう言いつつフィンは内心苦笑いした。あの荷物持ちは結構大変だったのだが―――まあほぼ居候としか言いようがないので反論できない。
それからドゥーレンは真顔になると言った。
「それより来週なんですが、奥方様のところに行くのに付いてきてもらえますか?」
「え? 構いませんが?」
奥方様とは彼らの最大の情報提供者だった。
「実は、彼女の方からあなたに会いたいと言ってきましてね」
「え?」
「まあ、アラン様じきじきとあれば、興味を持たれるのも当然ですがね」
「あ、いえ……」
“奥方様”のことはフィンもこれまで何度も話は聞いていた。
彼女はマオリ王の側近であるコモド大臣の正妻だという―――それを聞いただけでどれほど重要な、そして危険な立場にあるかは明白だ。
実際、都攻めをするという情報に関しても、彼女から最初にもたらされた情報だという。
その本人に話を聞けるというのは願ってもない機会だ。
「分かりました。お供しますが……」
それからフィンはちょっと口ごもった。今気づいたことを話すべきだろうか?
「ん? どうしました?」
ドゥーレンがそれに気づいて尋ねる。
だがさすがに何の証拠もない。今ここで言っても余計な混乱を招くだけだろう。
それにここには見られて困るような物は一切持ってきていないのだ。ファラにもらった短剣も逆に無くしたりしたら嫌なのでと預かってもらっている。
《もし本当に監視されてるのなら、また何かあるはずだしな……》
そこでフィンはごまかした。
「いえ、オールデンさんが駐屯地に行くのはいつだったかって思って」
「それなら違う日でしたよね?」
そう言ってドゥーレンがヴォランを見る。ヴォランはうなずいた。だったら問題はない。
「わかりました」
それからしばらく雑談した後、二人は出て行った。
フィンはふうっと息を吐くと、ベッドの上に大の字になって考えた。
《さて、これからどうなるかな……》
しばらくそうして天井を眺めた後、フィンは首を振ると着替えを持って立ち上がる。考えても仕方ないときは風呂で汗を流して寝てしまうに限る。
今はこうして一日一日を大事に過ごしていくしかないのだ。