第5章 冷えた瓦屋根の上
それから数日後、フィンは宵闇の中ヴォランと共に暗い路地裏で張り込んでいた。
空はどんよりと曇り、ときたま小雪がちらついている。
「寒いな」
ヴォランが体をぶるっと震わせた。
「そうですね……」
フィンも同意した。
ちょっと油断すると寒さで顎ががくがくしてくる。
こんな晩の張り込みなどちょっと願い下げたいのだが―――そうも言っていられない。場合によっては皆の生死に関わる問題なのだから……
二人は狭い路地からはす向かいの商家に注意を向けていた。
「来たぞ」
ヴォランが小声で囁いた。
フィンがそちらを見ると、茶色のポンチョを纏った女性がやってくるのが見える。
ポンチョの裾には目立つ幾何学模様の刺繍が入っている。
「あの人ですか? どこかの店の人じゃなくて?」
その女性が着ているような服は、このあたりでは商人が一般的に纏っている。店ごとに模様が決まっていて、どの店に属しているかよく分かるらしい。
「いや、間違いない。見てみろ」
フィンは近づいてきたその女性を見た。確かに寄ってみれば彼女はアイオラだ。
「よく分かりますね」
「歩き方とかで雰囲気でな」
彼らは長いつきあいだと言っていたが、確かにその通りのようだ。
アイオラはあたりを伺うように周囲を見ると商家の中に消えていった。
「いつもあんな格好はしませんよね?」
「そうだな」
「変装してるって事は、やっぱり?」
「さあな……」
ヴォランは首を振ったが―――こんな時間にこそこそと変装してやって来て怪しくない訳がない。
二人はアイオラが中に入っていったのを確認すると、路地から出てその商家の前に立った。
その店はこのあたりの商家としてはごく普通の作りだ。ドゥーレンの店もそうだったが、表に店舗があって、ちょっとした中庭があり、裏手には住居がある。
だがその規模はドゥーレンの店に比べるとかなり大きかった。住居の方はもう屋敷と言ってもいい。
この何日か二人はこの店について色々と調査していた。
ここは主に小間物を扱う卸商だが、アキーラ城の大口取引先でもある。現在城で使う様々な雑貨はかなりの割合でこの店が卸しているらしいが、城との取引が増えたのはここ数年らしく、この屋敷も去年建ったばかりだという。
店主はアドラーという四十過ぎの男で、妻が一人、子供が二人いる。店の従業員が十数名と、屋敷の方にはメイドが何名かいるらしい。
「じゃ行くぜ」
フィンはうなずいた。
二人は商家の裏手の方に回った。そこはほとんど人通りのない真っ暗な路地だ。
周囲に誰もいないのを確かめるとフィンは軽身の魔法でふっと跳び上がって、塀の中を覗いた。
それからまた飛び降りるとヴォランに囁いた。
「誰もいません。掴まって下さい」
「おう」
ヴォランがフィンの腕に掴まると、フィンは精神を集中して跳び上がった。
二人はふわっと浮き上がって塀の上に降りる。それから再度中に誰もいないのを確認すると、屋敷内に飛び降りた。
「何度やっても便利だよな。これ」
「そうですね」
ヴォランは体格の割に結構運動神経がよく、アキーラまで来る旅の間、何度かこうやって行動したことがあるので、今ではアウラほどではないにしても息はぴったりだった。
二人は辺りを伺いながら屋敷の離れの方に向かう。
調査では屋敷には母屋と離れがあって、離れの方で商談を行ったり重要な客を泊めたりしているらしい。
離れには明かりが灯っている。近くに来ると二人は茂みに隠れて中を伺った。
今のところ人の気配はない。
フィンはヴォランに軽く合図してから、そっと離れの窓に近寄り中を覗いた。
明かりはついていたが誰もいない。フィンは手招きしてヴォランを呼んだ。
「まだ始まってないのか?」
ヴォランが囁く。
「さあ……しっ!」
そのとき母屋からの渡り廊下に人影が現れた。
二人は慌てて身を隠す。
やってきたのはメイドが二人だ。一人は若く、もう一人は年配だ。
彼女たちは離れに入っていった。そこでフィン達は再び中を覗く。
中からはメイド達の会話が聞こえて来た。
「こっちはもう大丈夫?」
「はい。終わってますが。旦那様、すぐ来られるんですか?」
「いえ、あっちで食事中よ。お客様と一緒に。その後でしょう」
「それじゃその間に食事してて構いませんか?」
「そうね。そうしましょう」
二人は部屋の中をぐるっと見回った後、出て行った。
フィンとヴォランは顔を見合わせた。
「しばらくここで待ってろってことですか?」
「うう、寒そうだな……」
ヴォランもため息をついた。
「ともかく見張るのにいい場所を探しとこうぜ」
「はい」
今の場所は渡り廊下から丸見えだ。
そこで二人は離れの周囲を回ってみたが、今ひとつ適した場所がない。
離れには二部屋あって、手前の部屋は応接間のようで先程の窓から中が覗けるが、奥の部屋は窓が高くて外からでは簡単に覗けなくなっている。
「あの上どうだ?」
ヴォランが指さす先を見ると、屋根に天窓があるのが見えた。
フィンはうなずくと跳び上がった。
《大丈夫か?》
屋根の上からフィンは周囲を見回した。
だがそこはなかなか良さそうな場所だった。下からは見えないし、外からも庭木の陰に隠れていて見えにくい。それに天窓から覗くと部屋の全体がよく観察できる。奥の間は客用の寝室になっていた。
それからフィンは屋根伝いに隣の窓に移る。そこから応接間の方もよく観察できる。暖炉の火が燃えていて、とても暖かそうなところなどが……
ともかくここならば良さそうだ。フィンは屋根から飛び降りるとヴォランに言った。
「大丈夫そうですよ。ただ動くときは注意して下さい。屋根瓦が音を立てることがあるんで」
「おう」
それから二人は屋根に跳び上がった。
ヴォランが降りると屋根が少しみしりと音を立てる。二人は少し慌てたが、それ以上の音はしなかった。
ヴォランはそろそろと移動して部屋の中を覗くが……
「うわ、暖かそうだな」
「ですよね……」
だがどうしようもない。二人は渋々待ち始めた。
冷たい風が吹き抜けてく。
高い場所なだけあって下よりも風が強い。
その上屋根瓦は冷たく、体から容赦なく熱を奪い去っていく。
それなのにアイオラはなかなかやってこない。
しばらくしてヴォランがポンチョの襟元を閉めるとフィンに言った。
「こんなとき暖かくなる魔法ってないのかよ?」
それはフィンが一番思っていたことだった。
「ありませんよ。家ごと燃やしていいならともかく」
もちろんヴォランもフィンの手の内が何かは知っている。そこで彼はため息をつくと、懐から小さなボトルを取り出した。
「しょうがねえな。ちょっと飲むか?」
「え? ああ、そうですね」
ヴォランはボトルをフィンに渡す。
「ちょっとずつだぞ」
「分かってますよ」
その中身がどういった物かはよく知っていた。
フィンはそれを少し口に含むと舌で転がすように味わう。途端に甘いアルコールの香味が口中に広がってくる。
これはフランマ(炎)と呼ばれるこのあたり特産のスピリッツで、アルコール度数が高いことで知られていた。実際、火を付けたら文字通り炎をあげて燃え出すくらいに強い。
嘗めたのはほんの少量だというのに腹がかっとしてくる。フィンはヴォランにボトルを返しながら言った。
「うっかり寝たら死ねますね」
「寝るんだったら俺下ろしてから寝てくれよな」
「いやですよ。全く……」
あのグラテスで酔っぱらって寝込んで死にかかったことは、いろんな意味で絶対忘れられない思い出だ……
それ以来フィンは深酒はなるべくしないように心がけている。特にこんな場所で寝込んだら大変なことになる。今回は側にアウラはいてくれないのだ。
フィンは天窓からじっと下を見た。
《それにしても……》
この状況だと―――嫌でもあのときのことを思い出してしまう。
あれはまだ夏だったが結構寒かったし、ズボンを履き替えていなかったので紅茶の染みが冷たくて……
《あの覗きで人生変わったよな……》
フィンはしみじみと思った。
あの晩のことは今思い出しても―――いや今だからこそ更にぞくぞくしてくる。
天窓からドレッシングルームの中にフロウが入ってきたとき、彼女が―――いや、そのときはまだ“彼”だと思っていたのだが―――少々慌てた様子で服を脱ぎ始めて、それから不思議な胸当てを外すとその下から見事な乳房が現れてぷるんと震えて……
それまでの“日常”が完全に崩壊した瞬間だった。
それ以来、流れ流れて何故か今またこんな所で同じようなことをしている……
《一体何なんだろう? これは……》
今まで何度となく考えてきたことだが、いつも答えは出ない。
出すつもりもあまりないのだが……
ともかく今は彼女を救うことだけを考えるのだ。もしあの仮定が正しければ、彼女は今まで以上に遙かに危険な立場に立たされているのだ。
でもそれではどうすればいいのだ?
ここにいて何かできることがあるのだろうか?
だが―――それについては未だに有効な手立てを思いつけてはいなかった。
《とすれば、やはり都に行くしかないのか?》
そこならば裏切りがあるかどうか調査することも不可能ではないだろう。
少なくともカロンデュールに通報して注意を促すことくらいはできる。そうすれば彼の人脈から調査することだってできるだろうし……
だが何年も姿を消していた挙げ句、いきなり現れて裏切りがあるなどと言って信じてもらえるのだろうか? 自分が彼の立場なら間違いなく疑ってかかるだろうし……
ということはやはり何か証拠を見つけてからでないと、行っても意味がないかもしれない。
《でも証拠なんてどうやって見つければ……》
そのとき側にいたヴォランの体ががくっと動いて、屋根がみしりと音を立てた。
フィンは慌てて彼を見る。ヴォランも驚いたように目を見開いている。
「ヴォランさん?」
ヴォランは決まり悪そうに答えた。
「お、悪い。何か気持ちよくなってな」
どうやら寝かかっていたらしい。
「だめですよ。こんな所で寝たら死にますよ?」
「ははは。まさにそういう状況だな? おい」
「笑い事じゃないんですから」
こんな所で死なれたら大変困る。
「ともかく何か話していましょう」
そうすれば眠気は抑えられるはずだ。ヴォランもそれを聞いてうなずいた。
「そうだな……んで、何かおもしろい話はあるか?」
「そうですね……」
そこでフィンは都に行ってみるかどうかヴォランに相談することにした。
ヴォランにも都に内通者がいたら、という仮定の話は既にしてある。
だがそれを聞いたヴォランも首をかしげるばかりだ。
「うーん。確かにいきなり行って裏切り者がいるから探せってのもな……」
それから彼はしばらく考えた挙げ句、大きくため息をついた。
「本当にどうすりゃいいかね? これって……どこもかしこも裏切りだらけで……全く情けないよな……大体あいつを、こんな風に監視しなきゃいけないこと自体、どうかしてるしさ……」
ヴォランは再びため息をつく。
何だかひどく落ち込んでいる様子なのでフィンは尋ねてみた。
「アイオラさんって昔からの知り合いなんですか?」
だがそれを聞くとヴォランはくっくっくと笑った。
「確かに昔からだよな。最初あいつに会った時、あいつまだ三歳だったしな」
「三歳?」
それは確かに古い知り合いだが……
「ああ。俺が、十五ぐらいだったかな? どこかの孤児だったんだが、何でかメラになついちまって、それでアジトに居着いちまったんだ。あいつが丁度ウィルガの大地を立ち上げた頃でな……」
それを聞いて今度はフィンが驚いて音を立ててしまった。
「おい、静かにしろよ」
「すみません。でも今“ウィルガの大地”って言いませんでした?」
「え? ああ。まあな。言ってなかったっけ?」
「いや、聞いてませんよ?」
「じゃあまあそういうことだ」
「それじゃ……他の人も?」
「まあな」
フィンはその名をアイザック王の図書館で知っていた。
ウィルガ王国がレイモンに滅ぼされた後、ウィルガ貴族の一人であったティタニオンという男が脱出してラムルス領内に潜伏を始めた。
当初彼は盗賊まがいのことをして糊口をしのいでいたらしいが、やがてウィルガの王位継承者を得て、王家復興を標榜した“ウィルガの大地”という反政府勢力を築く。
それはウィルガ滅亡から十四年、ラムルス滅亡からも八年ほどが経過した頃であり、各地に潜伏していた旧臣たちは相当な焦りを感じていた頃だった。
そのため彼の元に多くの残党が集結し、最盛期には数百のメンバーを擁してレイモンに大きな脅威を与える勢力にまで拡大することになった……
歴史の本にはそんな感じで記述されているのだが―――フィンは目の前にいるヴォランをまじまじと見つめた。彼らがそんな歴史の生き証人だとは知らなかった……
「おいおい。そんな目で見るなよ」
「いや、本でしか知らなかった人と実際に会ってるって思ったら、何か……」
「そんな大層なもんじゃないって」
ヴォランはそういって目を伏せた。
だがフィンはもう興味津々になっていた。
「もし良かったら……話してもらえませんか?」
互いの過去は詮索しないというルールではあるが……
「……そうだな。昔話でよきゃな」
少々酒が入っていることもあってか、ヴォランは話し始めた。
「ティタニオンって奴は、格好良かったんだぜ。元が貴族様だからってのもあるだろうが、ともかくそこにいるだけで安心しちまうって言うか、存在感のある奴で、だから俺もドゥーレンもメラもみんなあいつが大好きだったさ」
「メラ?」
「ああ、メラグラーナだ。知らね? メラグラーナ・フェレスって」
「あ! 確か、えっと聞いたことあります」
その名も彼の読んだ本に書いてあった!
「へへ。あいつもすごかったんだぜ。すらっとした美人でさ、まるで猫みたいな身のこなしなんでフェレスって呼ばれてたんだがな。あんな女、あれ以来見たことないぜ」
そう言ったヴォランの顔には何か恍惚といった表情が浮かんだ。
「だからな、最初は結構楽しかったんだぜ。それまでははっきり言えばチンケな盗賊団だったんだけどさ。主にレイモンの物資を狙って襲ってたんだが。まあそのころからあいつは内心は含む物があったんだろうな。俺たちは単にそっちの方がいい物が多いからって思ってたんだけどな。でもそんな噂を聞きつけてあの野郎がやってきたんだ」
ヴォランはそう言ってどこかをじっと睨んだ。
「あの野郎とは?」
「リーバ卿だよ。本人が言うにはウィルガの王位継承者だったそうだ。今となっちゃ本当かどうかも分からないけどな。でもそんなことはもうどうでもいいさ。それであいつがやる気になったってことだ。ちょっと国家転覆させてみようかって」
そう言ってヴォランは笑った。
「それでヴォランさんも?」
「ああ。何ていうかな、そのときは本当にできるような気になってたし。何しろみんな若かったからさ。俺なんかまだ十五歳だったし」
十五歳―――自分は何をしてただろう? まだ都でのほほんと暮らしてた頃だ。何の心配もなく……
「実際あながち間違ってもなかったんだな。これが。旗揚げしてみたら、本当にあちこちから馳せ参じて来る奴が一杯いてさ、みんなこれは行ける! って思ったんだよ。でもさ、やっぱり世の中そうはうまくいくことばかりじゃなくてさ……」
フィンはうなずいた。
ヴォランはちょっと間を開けると、続けた。
「まあ色々考えが足りなかったってことだ……例えば、それだけの大所帯になったら、食い物だってたくさんいるわけだが、それをどう調達する? とか。それに野郎ばっかりだったからやっぱり女っ気も欲しくなってくるし、とか……」
ヴォランはそう言って自嘲気味に笑う。
「えっと、それじゃもしかして……」
「ああ。盗賊時代と同じく、レイモンの物資で足りなきゃ、その辺の村から“寄付”してもらってたわけよ」
そりゃまずいかも……
「奴らは表向きは俺たちの活動に賛同してるような口ぶりだったからな。本当に寄付してくれてると思ってたんだ。でも実際は俺たちが怖かっただけなのさ。だから逆らわずに欲しい物をくれてたんだ。食料も、女もな。もちろん俺たちは借りた物は返すって約束はしてたが……あいつらにしたら税金を二重に取られてたようなもんだしな」
「………………」
「まあそんなわけであの国王襲撃計画は、失敗しちまったんだ」
「国王というと、当時のルナール王ですか?」
「ああ。あいつはけっこう各地を視察して回ってたんだが、その途中でクルーゼ村に逗留するって情報が入ったんだ。それで襲いに行こうって話になってな」
「でもあの頃のルナール王って、もう六十を超えてましたよね?」
「確かにな。放っておきゃ良かったんだろうな。実際あのあとすぐ死んでるしな。ははは。でもともかくティタニオンがそう決めたんで、俺たちはそうしたんだ」
「はい」
「でも、その計画が相手にだだ漏れだったんだよ。部下の中にさ、うっかり村の連中にそのことを喋った奴がいて、それを村の奴らがレイモンにチクりやがって、そして計画の前夜アジトにみんなが集まってるところを奴らに踏み込まれて、もう俺は逃げるのに精一杯で……でもあのあとの事は今でもよく覚えてるよ……」
「逃げた後のことですか?」
「ああ。俺たちは辛うじて逃げ出して、別なアジトに逃げ込んでた。そこで起こった事さ」
ヴォランはその夜の事を語り始めた。
―――その秘密の地下アジトの中は重苦しい雰囲気に包まれていた。
レイモンの急襲から逃れ、何とかここにたどり着いたのはほんの一握りだった。他の者がどうなったのかはほとんど分からない。
確実なことと言えば、リーバ卿が虜囚となったということと、ティタニオンがたった今そこで息を引き取ったということだけだ。
その場にはアウダス、メラグラーナ、ベルナリウス、ドゥーレンといった幹部クラスのメンバーが揃っていたが、誰一人声をあげようとしなかった。
それからどれほどの間そうしていただろう?
「いつまでこうしているつもり?」
しびれを切らしたようにメラグラーナが首を振ると言った。
他のメンバーは顔を見合わせる。それを見て彼女の顔に怒りの表情が浮かぶ。
「あたし達がここでこうしてたって、何も変わらないわ。そうでしょ?」
それは確かにそうだが―――一同は曖昧にうなずいた。
「じゃあ、この後のことを考えましょうよ?」
それを聞いてアウダスが答えた。彼はこの中では一番年長だった。
「どうするつもりだ?」
「どうするって、それはリーバを奪還するしかないでしょ?」
「奪還だって? そんなこと簡単にできるわけないだろ?」
報告によれば現在リーバ卿はクルーゼ村郊外にある領主の館に監禁されているという。
だがその周囲はレイモン軍が取り巻いている。
「できるわけなくてもするのよ! それをこれから考えるの!」
メラグラーナの声は絶叫に近かった。
「無茶言うな」
「無茶? そんなことは分かってるわ。でもリーバがいなくなったら本当に全部終わってしまうでしょ?」
アウダスは返事をしなかった。確かのその通りだったからだ。
メラグラーナは立ち上がると、その場の一同の顔を見回した。
「彼が……ティタニオンが何のために戦っていたか覚えてる? あなたたちはレイモンが憎くないの? 奴らに全てを奪われたんじゃないの? だから一緒に戦ってたんじゃないの? 彼は今、志半ばで倒れたわ。だったらその後を私達が継いでやらなきゃ、彼の死は本当に無駄になってしまうんじゃないの? そうでしょ?」
それを聞いて人々は動揺した。
確かに今まで彼らはそのような事を主張して行動してきたのだから―――彼女の言葉はまさに正論だった。
そのときだった。それまで黙っていたドゥーレンが口を挟んだ。
「だがその後はどうするんだ? たとえあいつを奪還できても、多分帰って来れるのは半分もいないだろう。他の奴らも散り散りだ。その後活動は続けられるのか?」
メラグラーナは一瞬言葉を呑んだが、きっとドゥーレンを睨むと答えた。
「……そんなこと、やってみなきゃ分からないでしょ?」
だがドゥーレンは首を振る。
「もう村の連中は協力してくれないぞ。一度こうなったら」
「あんた、怖じ気づいたの?」
ドゥーレンは真っ向からメラグラーナを見返した。
それからしばらく歯を食いしばっているように見えたが、やがて答えた。
「俺は、はっきり言わせてもらえば、リーバのために命なんか賭けたくない」
意外な返答にメラグラーナも他のメンバーも彼の顔を見た。
「なんですって?」
メラグラーナの体はわなわなと震えていた。
だがドゥーレンは冷静だった。
「メラ。お前だってどうなんだ? 命を賭けるのは、あいつのためなのか?」
メラグラーナは乗り出すと絶叫するように答える。
「誰もあいつのためなんて言ってないわよ! ティタニオンの遺志のためよ!」
「遺志? 本当か? 単にお前は死に場所を探してるだけなんじゃないのか? 誰だってお前が……あいつをどう思っていたか知ってるぞ?」
「なんですって?」
メラグラーナは真っ赤になって懐の短剣を掴む。
危険な雰囲気を察してアウダスが腰を浮かせた。
だがドゥーレンは動じなかった。
「単にお前があいつの後を追いたがってるんじゃないのなら、ここで誓ってくれ。お前は死なないと。あいつの遺志を継ぐのなら、そうしてウィルガを再興させると。そう約束してくれ」
それからドゥーレンは少し言葉を切ると、続けた。
「そうすれば俺は喜んで“お前のために”死ぬから」
メラグラーナは二の句が継げなかった。
ドゥーレンは他のメンバーの顔を見渡した。
「お前たちはどうだ? ティタニオンの後、ウィルガの大地のリーダーは誰がいいと思う?」
ドゥーレンの問いかけを聞いて、アウダスもベルナリウスもうなずいた。
「確かにメラなら適任だ。誰も文句はないだろう」
「ああ、そうだな」
それを聞いてメラグラーナが慌てた。
「ちょっと待ってよ! 私は……」
それをアウダスが遮った。
「大丈夫だ。お前一人にかぶせようってんじゃない。それこそ俺たちが命をかけてサポートするさ。でも組織にはリーダーが必要なんだ。分かるな?」
「それだったらあんただってそうでしょ? どうしてあたしなのよ?」
その問いを聞いてアウダスが答えた。
「それはお前がメラグラーナ・フェレスだからだよ」
「なによ! それ?」
「その名前がティタニオンの次によく知られているからだ。アウダス、とか言われたって誰も分からないが“メラグラーナ・フェレス”なら誰だって知ってる。これからまた人を集めなきゃならないんだが、そんなときどっちがいいかは分かるだろ?」
メラグラーナは返答に窮して黙り込んだ。
「大丈夫。あんたにはできる。それにもう一度言うが、俺たちが命をかけてあんたを支えてやるって」
メラグラーナはしばらく黙っていたが、顔を上げると言った。
「ごめん……ちょっと、一人で考えさせて」
それから彼女はふらふらと隣室に消えていった。
そこにはティタニオンの遺体が安置されている。一同は顔を見合わせたが、彼女の好きにさせておいた。それこそ急に結論を出せる問題ではないだろうからだ。
だが彼らが彼女の姿を見たのはそれが最後になった。
次の日、アジトのどこにも彼女の姿は無かった―――
ヴォランはそこまで話して大きくため息をついた。
「彼女には悪いことをしちまったよな……結局さ、みんな自分じゃかぶりたくなかっただけなんだよな。今から思えば……結局俺たちはティタニオンがいなきゃ何もできなかったんだ。あいつが死んだ時点でもう詰んでたと、そういうわけだ」
「その後……彼女はどうなったんですか? 全く消息不明で?」
ヴォランは首を振った。
「いや、出て行った後何をしたかは分かる。メラは……一人でリーバ卿が監禁されてた領主の館に乗り込んだんだ」
フィンは驚いた。何か滅茶苦茶じゃないか?
「じゃあ? 一人で奪還しに行ったんですか?」
それを聞いてヴォランはくっと笑ってから答えた。
「いや、殺しに行ったんだ」
「え?」
フィンは絶句した。一体どうして?
「俺たちもそれを知ったのは騒ぎの後だった。それまでは彼女が逃げたとばかり思ってたんだが……レイモンの連中は当然俺たちがリーバ卿を奪還しに来ると思ってた。だからわざと警備を甘くして罠を張ってたみたいでな。だからあいつが奴の喉を掻き切った所で、向こうも慌てふためいて、結局彼女を取り逃がしたらしい……」
「……でも何でまた?」
ヴォランは大きくため息をついた。
「さあな。こればっかりは本人に聞かないと分からねえな……でもそれで俺たちはある意味、軛から解放されたってのは確かかな? あいつがいなけりゃ俺たちにはレイモンと戦う理由なんて無いしな。大体ウィルガの大地とか言いながら、構成員はほとんどがラムルス出身だったし。だから結局その後ウィルガの大地は完全終了したわけだ」
「その後みんなは?」
「アウダスとは別れてそれっきりだ。俺はドゥーレンやベルナリウスと一緒にまた盗賊まがいのことをやってたんだが、そしたらあるときシルヴェストのアラン王の使いの者だとかいう奴がやってきてな……」
「アラン王の?」
「ああ。そいつが今度四カ国連合というのを作ってレイモンに対抗するが、その手伝いをしてみないか、とか言いやがるんだ。最初はどこの馬の骨だ? とか思ってたら、そいつがアラン様本人だったりしてな、まあそれ以来こんな調子さ」
それはまたフィンを驚かせた。
「ええ? 本当ですか?」
「ああ。あの王様、それ以外にも結構無茶やってるみたいだぜ」
「へえ……」
若い頃のアラン王か―――確かに色々やってるかもしれない。あの人ならば……
そう思ったときだった。母屋の方から誰かがやってくる気配がする。
「来ましたよ!」
「おう。ようやく本番だな?」
二人は身構えた。
やがて応接間の扉が開くと、中に男女が入ってきた。
女の方はアイオラだ。ここに来たとき同様に商人用のポンチョを纏っている。
男がここの主人のアドラーのようだ。小太りな感じで、こうして上から見ると頭頂部が薄くなっているのがよく分かる。
《ようやく来たな》
極寒の中、小一時間以上こうして待っていた甲斐があったというものだ。
さてこれからどういう話をする気なのだろう?
ところがそう思った瞬間だ。男はやにわにアイオラを抱きしめると、いきなり口づけを始めたのだ。
「おいおい……」
横でヴォランがつぶやいている。
「えっと……これって……」
「まだ分からんが……」
「あ、はい……」
アイオラは兵士向けの酒場で働いているが、いろんな客とよく“親密”になることで知られていた。もちろんそれも彼女の“任務”のうちだったのだが。
だとすれば彼女は今、何らかの仕事中なのだろうか? ならば邪魔してはいけないが……
「あんっ」
アイオラの呻きが聞こえる。見ると男がポンチョの中に手を入れて、彼女の胸を揉みしだいているのが見える。
「もう、そんないきなり……」
「何週間も待ったんだよ。もう我慢できないよ」
それと共に男の手が彼女の下の方に伸びていく。
「いやん。もう……こんな所じゃ……」
「じゃああっちに行こうか?」
男が彼女を促すと、アイオラは素直に彼に従って寝室に入っていった。
フィンとヴォランは顔を見合わせた。
「えっと……あっちに移りますか?」
フィンはもう一つの方の天窓を示した。
「ああ……」
呆然といった様子でヴォランがうなずく。
二人は音を立てないように注意しながら寝室の天窓に移った。そこから中を覗くと……
「うわ……」
既にアイオラの上半身は露わになっていて、彼女の大きな乳房に男が顔を埋めているところだった。
「あん……やだ……」
男の指が彼女の下半身でもぞもぞと蠢いている。これじゃ本当に本番が始まりそうだが……
ちょっとこれは色々まずいのではないだろうか?
「えっと……これ、どうしましょう?」
「どうしましょうって……終わった後だろうが? 何か話すとしたら」
「ですよね……」
これをずっと見てろっていうのか? 別に男である以上、決して興味がないとかそんなわけではないが―――それに仲間の命がかかっていると考えれば、ここで俺がやらなければ誰がやるというか……
男の声が聞こえてくる。
「へへ、なんだ? この可愛い下着は?」
「だって綺麗にしとかないと……」
「可愛いよ。アイオラ……」
「いやん。だめ、そこは……」
男は形ばかりの抵抗をするアイオラの下履きを引きずり下ろした。
彼女の茂みが露わになる。
男は自分も服を脱ぐと、アイオラの前にいきり立っている物を突きだした。
「さあ、これをどうしたい?」
うわあ! どうもしたくないって!
「あんな格好でもあそこは寒くないんだよな……」
横でヴォランがつぶやいている。
もう何がなにやら。いろんな意味でこれ以上見ていられない―――というかうつぶせになっていると固くなった物が当たって痛いし……
「あんっ」
下からアイオラの呻きが聞こえた。
見ると―――もう男はアイオラの腰を後ろから抱きかかえて突き立て始めていた。
ぱしんぱしんという音にアイオラと男の喘ぎが混じって聞こえてくる。
《だめだ……これ以上見てたら……》
フィンは屋根の上に仰向けに寝転がって空を見上げた。
真っ暗で何も見えない。せめて星空でも見えればまだ気が晴れた物を……
一体これはどういう拷問なのだ?
それがどのくらい続いただろうか―――やがて二人の声が途絶えた。
フィンが恐る恐る下を覗くと ベッド上にはアイオラと男が裸で倒れ込んでいるのが見えた。
二人とも肩で大きく息をしている。
「やっと終わりやがったか……じじいだからしつこいんだよな」
ヴォランがつぶやいた。
それはともかくこれからが本当の本番だ。何らかの密談が始まるとすれば、これからなのは間違いない。でないと……
だがそう思った瞬間、アイオラが男に話しかけるのが聞こえた。
「ねえ、あんた、もうこんなこと止めにしない? こんなのやっぱり……」
それを聞いた男はアイオラにキスをして黙らせると、言った。
「もうちょっと待ってくれ。そしたらあいつと別れられるから、な」
フィンとヴォランは顔を見合わせた。
「どうしてさ。いい奥さんじゃない。さっきの食事だって美味しかったし」
「食事だったらお前の作った物の方が美味いさ」
「そりゃ、あんなところに勤めれてばいろいろ覚えるけどさ。でもすごく暖かかったよ?」
男はアイオラの胸をまさぐりながら言った。
「お前は俺が嫌いか?」
「そうじゃないけど……」
アイオラの声は何か自信なさげだ。
「じゃあ俺を信じろよ」
「信じてるけど……でもやっぱりここって、奥さんが近くにいるかと思うと」
「夜家を空けるのはまずいんだよ。ここで商談中なら一番誰も来ないからさ」
「分かってるけどさ……」
「ともかくもうちょっとの我慢だ。辛抱しろ」
「うん……」
それからアイオラは後始末をすると再び服を着始めた。
男はそれをにやにや眺めていたが、やがて自分も服を着ると、二人して部屋を出て行ってしまった。
フィンとヴォランはしばらく呆然としていた。
「えっとこれって……」
不倫なのか? ただの不倫なのか?
「………………」
返事がないので見ると、ヴォランが手を握りしめ体をわなわなと震わせている。
「ヴォランさん?」
「あのジジイ、ぶっ殺してやる!」
声が本気だ。フィンは少し慌てた。
「ちょっと、どうする気ですか?」
「あいつを騙しやがって、何が俺を信じろだ? あいつもあいつだ。何であんなハゲの言いなりになってやがるんだ?」
ヴォランが体を起こしたので、屋根がみしっといった。
「だめですって。そんな」
「でもあの野郎……」
「ともかく今はやめて下さいよ。アイオラさんが裏切り者じゃなかったことは確かになったんだし」
それを聞いてヴォランは目を見張ると、それからフィンの顔を見る。
「ああ、そうだな……」
「ともかくここから出ましょうよ」
「ああ……」
フィンはヴォランをなだめながら屋根から降りると、商家から抜けだした。
寒いところでずっとじっとしていたので、体が寒さで強ばってしまっている。
「うー……」
ヴォランがぶるぶるっと体を震わせた。フィンも屈伸運動をして体を暖めた。
少なくともこれで彼女の嫌疑は晴れたということだ。
そういう意味では良かったとは言えるが―――裏切りの件に関しては振り出しに戻ってしまったということだ。
だがヴォランが言うには、彼女以外は取り立てて怪しいところはなかったという。
もちろん彼らが来てからの調査だ。まだ二週間も経っていない。
それに“裏切り者”はこちらの動きに感づいて大人しくしているのかもしれない。
だからまだ他の者がシロと決まったわけではないが―――いずれにしてもこれからの話だ。
そんなことを考えていたときだった。
「おい、フィン。ちょっと暖めてもらいに行かねっか?」
ヴォランがそう言いながら腰を突き出す身振りをする。
「え?」
ヴォランの言いたいことは非常によく分かった。ちょっと郭にでも行って、人肌で暖めてもらおうということだ。
実際フィンの体も先程の二人の絡みを見て、かなり限界に近づいていた―――のだが……
《うう……あそこで誓っちゃったんだよな……あいつ以外は抱かないって……》
あの晩、彼女の前でそう誓ったのだ。
それを誰に聞かれたというわけではない。自分の心の中で誓っただけなのだから、それを破ったって誰も分からないわけだが……
《だめだって!》
フィンは彼女だけは裏切りたくなかった。
だからこれまでじっと我慢をしてきた。
なのにここで誓いを破ってしまったら―――何かもう歯止めが全く効かなくなってしまいそうだ。
だが、普段ならともかく今回のこれはかなり限度を超していた。なので……
「すみません。やっぱやめときます」
そう口に出すためには、彼に残されていた全精神力を費やす必要があった。
それを聞いてヴォランは軽く首をかしげると言った。
「なんだよ。まあいいけどさ。じゃ、俺は行くぜ」
今まで何度もこうして断ってきたので、彼も無理強いはしなくなっていた。ここでもう一押しされていたらフィンの決意は崩壊していたに違いないが……
「それじゃ」
去っていくヴォランの後ろ姿を見ながら、フィンは心底ほっとしていた。
フィンはとぼとぼと一人ドゥーレン工房に戻り始めた。
全くひどい夜だ。
これだけ寒い思いをして、結局収穫無しか……
しかもやったことと言えば、要するに単なるノゾキではないか? 情けないったらありゃしない……
しかもこの別な意味で火照ってしまった体は一体どうしてくれよう?
その上、戻ってもアウラはいないのだ。冷たいベッドがあるだけで……
《うう……商売女以外は抱かないって誓いにしとけば良かったかな……》
そろそろ夜も遅いが、まだ風呂は沸いているだろうか? せめて温かい風呂さえあれば……
そのようなことをうじうじ考えながら歩くうちに、工房の付近までたどり着いた。
すると向こうからやってくる人影があった。何となく歩き方に見覚えがある。
「ん?」
「あれ? フィンさん? 今頃お帰りですか?」
来たのはアルエッタだ。フィンは少し驚いた。
「え? エッタちゃんこそ、どうしたんだ? こんな夜遅く……」
それを聞いてアルエッタは笑った。
「え? あはは。ちょっとね。友達の家に行ってたの」
彼女は相変わらず屈託のない笑顔だ。
だがそれにしても、こんなに遅い時間に彼女一人だけとはちょっと危ないんじゃないのか?
《その友達ってのももう少し考えてやれよ。誰かに送らせるとか……》
それとも何か別な理由でもあるのか?
と、そこまで考えたときだ。
《え? 別な理由?》
フィンは自分の考えに驚いて、声をあげて立ち止まった。
「ん? どうしたの?」
アルエッタがフィンの顔を見る。フィンは彼女の顔を見つめた。
彼女が裏切り者⁉―――なんてことが……⁇
「いや、なんでもない。くしゃみが出そうで」
フィンはごまかした。それは実際本当だし……
それを聞いてアルエッタはにっこり笑うと答える。
「今晩寒いわよね。帰ったらお風呂入る?」
「ああ、そうだね」
「じゃあ早く帰りましょ!」
先行して歩き始めたアルエッタの後ろ姿を見ながらフィンは考えた。
彼女は裏組織のメンバーではないし、父親達がそういうことをしていることも知らないという。
だが間違いなく彼女はアジトの日常的な状況をよく知っているはずだ。
それにフィンがここに来た次の日だったか、彼の荷物が調べられていたような気がしたが―――少なくとも彼女はそうすることができる。
《だからって、彼女が?》
そんな馬鹿なことがあるのか?
だが―――女は化けるというし……
彼女だって一見子供みたいだが、その本当の心の中は誰も知らない―――かもしれないし……
だとすると⁉
そのときフィンは鼻がむずむずしてきて、大きくくしゃみをした。
「大丈夫ですか?」
「ああ。大丈夫だよ。早く帰ろう」
「はい!」
どうしようか? 彼女を見張っておくべきなのだろうか?
だがそれってアイオラを見張っていたのよりもっと何というか、恥ずかしいことのような気がするのだが……