第3章 季節外れの行商人
それから数日の後、フィンはタルタルという港町に向かう船上にいた。
もちろん観光などではない。そこは第二王子トラドール領の中心都市で、王子本人もこの町の郊外の城にいる。
すなわち“作戦”が行われる地域の予備調査というわけだ。
ちなみにプリムスは数日シーガルに滞在しただけで、本当にシフラに向かって旅立ってしまっていた。
《何か結構まめな奴だよな……》
いると気が休まらないが、いなくなると孤立無援という感じだ―――とは言ってもレイモンに潜入して以降は基本的に似たような状態ではあるのだが……
フィンはそんな漠然とした不安と共に、流れゆく景色を眺めていた。
船は左手に陸地を見ながらゆっくりと北上している。もう湾内に入っているので波は比較的穏やかだ。
《あれが続いてたらどうなるかと思ったが……》
アロザールの首都シーガルからタルタルへは船で二日弱の行程である。
その航路はアルバ川を下って一度外海に出て、再びタルタルのある湾内に入るルートになるのだが、フィンはそこで生まれて初めて大海という物に接したのだった。
《ありゃたまげたよな……》
海という存在の迫力にフィンは心底圧倒されていた。
何しろ見渡す限りの水面が、まるで生き物のようにのたうっているのだ。
彼はそれまで大平原と呼ばれる物は何度も見てきている。だから海というのもそんな物の延長かなと思っていたのだが―――それはその想像を遙かに超える代物だった。
《あの大波……》
フィンがこれまで体験したことのある船旅は全て湖か川だ。だからあんなうねりを体験するのは生まれて初めてだった。
何しろ船と同じくらいの高さの波がやってくるのだ。まさに小山が迫ってくるように見える。
船出の際に、今は冬だからちょっと波は高いかもとか聞かされていたが、ちょっとどころの騒ぎではない。
そのとき、がっちりとして陽に焼けた大男がフィンに話しかけた。
「タルタル。もうすぐだ」
「ああ」
彼はファーベルといって、アルデン将軍配下の部隊長の一人だ。本来は生粋の軍人なのだが、今はまるで用心棒のような格好をしている。実際用心棒なのだが……
あの翌日行われたアルデン将軍との会見で、フィンが自分でも現地を確かめてきたいという話をしたら将軍はかなり驚いた様子だった。
もちろんこの地域に関しては既に彼らが十分な調査を行った後で、それで特に不足というわけではなかった。
だが目にしたことが聞いた話と全然違っていることも多い。
特にアロザールというのは全く未知の土地だ。ここはやはり色々自分の目で確かめておかなければならないと思ったのだ。
そのために護衛を兼ねた案内が欲しいと言って紹介してもらったのが、このファーベルだった。
そんなわけで現在のフィンは北からやって来た織物商人で、ファーベルがその用心棒という触れ込みになっている。
それともう一人……
「あいつは?」
「くたばってる」
「そうか」
ボニートも何故か付いてきていた。
もちろん最初は置いてくるつもりだったのだが、どうしても来ると言って聞かなかったのだ。
確かに一人残ったら不安なのは分かる。考えてみれば彼がここで生きていられる理由というのは、みんながフィンの身内だと思っているというただその一点に尽きるのだ。
でなければ彼の存在価値など全くない。彼がフィンにくっついていたいという気持ちは理解は可能だ―――論理的には。
それに奴も一応、レイモン-シルヴェストの男娼ルートで色々と危ない橋を渡った経験があるわけで、何か役に立つ可能性が全くのゼロというわけではないという気がしないでもない。
そんなわけでボニートも一緒に付いてきていたのだが―――彼は外海に出た途端にあっという間に船酔いでぶっ倒れてしまっていた。
船酔いに関してはフィンも全く平気というわけではなかった。
こちらに来てから少し風邪気味でずっと頭痛もしている。だから船室に籠もっていたらボニートと同じ目に会いそうだったので、ファーベルに言われたとおり甲板に出ていたのだ。
確かにその方があまり酔わなくて済んだのだが、そうすると今度は乗っている船が大波に次々に翻弄され続け、いつ転覆するか分からない―――少なくともフィンにはそうとしか見えない、そんな光景を目撃することになる。
はっきり言ってこれまた神経によろしくない。
外海から湾内に入って波が穏やかになったときには、彼自身も随分ほっとしていた。
その横でファーベルがぼそっと言う。
「ずっと天気、よくて良かった」
「あはは」
フィンは苦笑するしかない。聞けばファーベルは生粋の海の男らしく、彼にとってあの程度はさざ波が立っているくらいらしい。
実際この季節に海が荒れたらそれこそ凄まじいと言う。
視界は全くなくなり、船の高さの何倍もあるような波を縫うように操船していかなければならないそうで、実際彼は何度もそんな荒波を乗り越えたことがあるというのだが……
『それでもしひっくり返ったらどうなるんだ?』
フィンがそう尋ねたら……
『一日くらい浮いていられる。それが普通』
ファーベルはあっさりとそう答えた。
それを聞いて絶対こいつら何かがおかしいと思ったが、それ以上突っ込むのはやめておいた。
これからしばらくは彼と共に過ごさなければならないのだから、あんまり気を悪くさせるようなことは言わない方がいいに決まっている。
本来ならもう少し冗談とかも言いたいのだが、彼はずっとこんなぶっきらぼうな調子で喜怒哀楽がさっぱり掴めない。そのせいで何が地雷かも分からないから、結局当たり障りの無いことだけを話さざるを得なかった。
《まあ、なめられてる感じじゃないけど……》
ファーベルの年齢は四十にも近いだろうか? それに比べたらフィンなど若輩者もいいところなのだが、少なくとも彼の態度にはフィンを蔑ろにするような様子は感じられなかった。
正直フィンはよそ者であるし、魔法使いでもある。更にはセロの経緯とかが妙に歪められて伝わっているきらいもある。
そのためどちらかというと恐れられているようにも思うのだが―――ともかくこちらの現地の人は感情が読みにくい。
《それでタルタルに着いた後だが……》
そろそろ目的地が近い。そこでフィンはもう一度現状の再確認を始めた。
先日アルデン将軍から詳しく聞いたところでは、アロザール王国では数年前までほとんど内戦に近い状態だったという。
争いのきっかけはザルテュス王が第三王子アルクスを継承者に正式に任命したことにあった。
確かにまだ第一王子のマリウスが継承者だと正式には表明されていなかったのだが、どういった国でも普通、長男にその権利があるのが常識だ。
しかもマリウス王子に特に非があったわけでもなかった―――というより、三人の王子の中では一番人気もあって家臣達の信頼も厚かったと言っていい。
それを差し置いてのアルクス指名で、なおかつその理由も不明確となればマリウス派の不満が爆発しても仕方がなかった。
その反乱は結局鎮圧されてマリウス王子は捕らえられて処刑された。
聞けばアルデン将軍はその戦いの際に功績をあげたことで現在の地位があるらしい。ファーベルも彼の配下として戦ったという。
《でもアルクス派も盤石というわけじゃないんだよな……》
マリウス王子反乱の際に内戦に近い状態になったということは、王子についた領主や勢力が多かったということであり、それはとりもなおさず国王が第三王子を継承者にしたことについては広い範囲で不満があることを意味していた。
最終的に国王派が勝利したのは、第二王子トラドールが結局国王側に付いたためだという。
だがそれはトラドール王子本人の判断でそうしたというよりは、彼が優柔不断だったせいで結果的にそうなったという方が実情らしい。
ともかく実質的にそういった“功績”があったわけなので、彼は亡き第一王子の所領を与えられることになった。
だがその地には第一王子の取り巻きだった者達がまだたくさん残されていた。そのため元々そんな強い意志で国王に付いていたわけではない第二王子は、あっという間に彼らに籠絡されてしまったのだ。
その結果、今その旧勢力が再び造反を企てているとの噂があるのだ。
トラドール王子はマリウス王子のように決断力のあるタイプではなかった。
それはすなわち背後勢力がより操りやすいということである。
しかも彼は“第二”王子なのだから、本来はアルクスよりも彼の方が王権の継承順位が上だ。
《これほど擁立しやすい奴もいないわけだ……》
そんな者を担いで反乱を起こされると間違いなく厄介だ。血筋だけでなく大義名分まで兼ね備えているのだから……
そういうわけで彼らは、今こそ見かけ上は大人しくしているのだが、もしレイモン侵攻で本国が手薄になった際には動き出す可能性が極めて高いと言わざるを得なかった。
《そんなことになったら……》
これはフィンに取っても極めてまずい事態である。
そんな事態になれば侵攻軍は撤退せざるを得ないだろうし、レイモン側はバシリカ防衛軍をシフラなどに回すことも可能だろう。そうなればシルヴェストやサルトスは当初の想定以上の大軍を相手にしなければならなくなる。
だからフィンに与えられた使命はそれを未然に防げということなのだが……
《って言われてもなあ……》
そもそも現地のアルデン将軍にできなかったことが、よそ者のフィンにそんなに簡単にできるわけがない。
将軍がよっぽど無能だったのならともかく、話を聞いてみると彼は確かに知将タイプではなかったが、いろいろな常識はきちんとわきまえていた。
実際彼らの事前調査は十分すぎるほどだった。
聞けばこの地方はファーベルの地元なのだそうで、タルタルに程近いカンパラという村の出身なのだそうだ。調査はそんな彼も含むかなり大勢によって行われている。
だからトラドール王子が現在籠もっている城塞は要害の地で、力攻めでは味方に相当の被害が出てしまうという説明には反論の余地がなかった。
もしやるのなら大軍勢を差し向けて兵糧攻めにするくらいしかなさそうだが、それでは陥落までものすごく粘られてしまいそうだ。
またタルタル近辺では最近まで結構長く戦闘状態が続いていて、やっと平和になったと住民達はみな喜んでいるらしい。彼らがまたそこを戦場にしたくないという心情もよく分かる。
まともに攻めるのが困難だとしたら少人数で侵入して暗殺してくるようなことになるが、もちろんトラドール側とてその手の事を予想していないはずがない。王子周囲の警備は非常に厳重で、信頼置ける者以外は城に近づくこともままならないらしい。
とはいっても完璧ということはありえない。その気になればそういった警備をかいくぐって事を為すことは不可能ではないだろうが―――特にフィンにはそういったところに関してそれなりのノウハウがあったりするわけだが……
それよりも一番の問題は王子を暗殺する大義名分がないことだった。
彼らが反乱するかもしれないという情報はあるのだが、まだ表立っては何も動きはない。
そんな所で王子が不審死したりしたら逆効果になる可能性大だ。殉教者のようになってしまったら、それをきっかけに大規模な反乱が起こってしまうことだってある。
《結局そこに行き着くんだよな……》
アルデン将軍が手間取っていたというのはそういった背景があったからなのだ。
これだけでも結構頭の痛い話なのだが、この何日かの聞き取り調査でさらに面倒くさそうな事実が発覚していた。
それは現地人とウィルガ人のかなり微妙な関係についてだった。
ウィルガ人とはレイモンに滅ぼされた旧ウィルガ王国由来の人々のことである。
シルヴェストで出会ったハスミンの旦那、バラノス氏がラムルスから脱出してきていたように、ウィルガ王国崩壊時には結構な数の人々がこのアロザール王国に脱出してきていた。
その彼らが“ウィルガ人”としてアロザール国内の外国人勢力となっていたのだ。
アロザール王国は元々漁業と農業でそれなりに潤っていた牧歌的な小国だったが、その北に位置していたウィルガ王国が豊かな海産資源などを狙って度々侵略してきた歴史がある。
しかしアロザール人はそれには屈しなかった。国境付近にあった岩山の城塞はそういった歴史を物語っている。
だがそのウィルガ王国がレイモンに滅ぼされた際には、アロザール人達は流入してきたウィルガ人を拒まずに受け入れてやっていた。アロザール人とは戦いでは絶対に怯まないが、友好的にやってくる者は拒まない、そんな国民性なのだ。
それは結果的にはかなり良い方向に働いた。
というのはウィルガは長い歴史を持つ先進的な国だったからだ。
彼らが来たことでアロザールの文化的水準は大きく上がったし、またウィルガ人達は商売上手でもあった。それまでは近くの国に売ってそれでよしとしていた海産物を、例えば白銀の都まで直販しだしたのは彼らである。
その結果アロザール王国は中原ではレイモンの次に勢力を持った国に発展したのだ。
だが当然そんなウィルガ人と地元民との軋轢も発生する。
最大の問題は、一部のウィルガ人が豊富な資金をバックに王宮内に派閥を作ったことだ。
そして何年もしないうちに王宮ではウィルガ派が大きな発言力を持つこととなった。
そのことに対して当時から旧来の国内勢力はかなりの不満を持っていた。
フィーバス達が今の立場を築けた理由は、そんな国内勢力を味方に付けることに成功したかららしい。
アルクス王子が次期国王に指名されたということは、王宮内の権力闘争に旧国内勢力派が勝利したことを意味していた。
《結局これってウィルガ勢力と地元勢力の争いってわけなんだよな……》
だとしたらたとえ何らかの方法でトラドール王子を“排除”したところで終わりではないわけだ。
彼のバックには王宮のウィルガ派が付いている。そもそも反乱したがっているのは王子ではなくその背後勢力なわけだから、もし旗頭が一つ失われたとしても、また別な物を探してくるに違いない。
実際正式な王子は確かに三名なのだが“国王の血を引く男子”であればまだたくさんいたりする。
《何なんだろう……これって……》
フィンの母親はバシリカ出身の生粋のウィルガ人だ。だから元々彼は“ウィルガ人”にかなりの親近感を持っていたりするのだが……
《まともにやったら大粛正になっちまうよな?》
ウィルガ派が敵だからといって見つけ次第排除を始めたりしたら、それこそ大恐怖政治以外の何物でもない。
《一体どうすりゃいいんだよ?》
今回こうしてタルタルまでやってくることにしたのは、こういった話を聞いてその場では全くアイデアが出なかったためでもあるのだが……
「うえ~。気持ち悪い~」
真っ青な顔でやって来たのはボニートだ。
「お前大丈夫か?」
「やっと直ってきたけど……タルタル、まだ?」
外海にいたときは完全に生ゴミ状態だったが、とりあえずは動けるようになったらしい。
「もうすぐだってよ」
「うー、海なんて嫌いだ~」
「だから来なくていいって言っただろうが」
「やだ! フィンと一緒にいたかったんだよ~」
こいつはもう完全にフィンになついてしまっていた。彼の立場では必死なのもわかるが……
だったらもう少しいろいろ控えめにしろ! と言いたいのだが―――大体なんだ? 今着てるのも女物の襦袢のように見えるが……
そんなフィン達を見ながらファーベルがにやっとしたように見えた。彼が見せた初めての感情表現のようにも思うが……
《くそ! もう何だか完全に誤解されてるよな……》
こちらではどうもフィンがそういった習癖を持っているということが既成事実化されかっていた。だが―――そんな小姓を連れている上に女に見向きもしないというのであれば、そう思われても仕方がない。
《くそ! せめて郭にでも行ければ……》
こういうのはあんまりムキになって否定しても逆効果だし、でも今の状況では……
それよりも一番の問題は、もし今後彼が裏切って逃げるようなことになった際に、彼をどう扱えばいいのかということだった。一緒にいれば思いっきり足手まといになってくれそうなのだが―――かといって見殺しにするにはもう馴れ合いすぎてしまっているし……
《うぐ……》
こうなったらもう、なるようになってもらうしかなかった。
次の日の朝、フィン一行はタルタル中央広場のはずれで既に疲労困憊だった。
今日は月に三回の大市で、中央広場には色とりどりの露店が軒を並べている。
一行の後ろには幌付きの荷車があって、中には防水された衣装箱がぎっしりと積み込まれている―――もちろんそれは彼らの商品だ。行商人という建前でやって来た以上、こんな日に店を出さないわけにはいかない。
「ふう……よく見たらちょっと坂になってたんだな」
彼らの積み荷は船で運んできたので荷車はこちらで借りたのだが、中央広場までは平らだと聞いていたので馬車は借りなかったのだ。
《くそ……夕べ下見に来ておけば……》
だが昨日は荷下ろしや現地の組合への挨拶などで忙しかったし、慣れない船旅でかなり疲労も溜まっていた。
「疲れたよう~」
フィンの側でボニートが甘ったれた声を出す。こいつがそう言うと問答無用にむかっ腹が立つ。
「うるさい。お前はほとんど押したふりしてただけだろうが!」
「だって~」
「やかましい! とにかく店を広げるぞ!」
フィンは疲れた体に鞭打って店開きを始めた。
まず荷車から幾つか衣装箱を引きずり出すと道ばたに並べて蓋を開く。
箱の中には様々なドレスが入っている。彼はそれを取り出すと慣れた手つきで幌付き荷車の側面に吊るし始めた。
しばらくすると荷車は一面綺麗な衣装で飾り付けられたようになった。
この辺の手順に関してはもう慣れたものだ。シルヴェストからヴォランと一緒にずっと行商をしてきた頃は、道中に村がある度にこうして店開きしてきたのだから。
そしてこんな大きな町の大市の日は、もちろん行商人にとってもかき入れ時だ。世を忍ぶ仮の姿ではあっても何だか気分が高揚してくる。
そんなフィンを見ながらファーベルはどうしていいか分からないといった風でおろおろしている。
「あ、ファーベルさんはそこで怖そうにしててください」
「怖そう?」
「用心棒ですからね。でもあまりお客さんを驚かさないようにね」
「ああ」
ファーベルがうなずく。それを聞いて今度はボニートが口を挟んだ。
「ねえ、ぼくは? ぼくは?」
「だから陳列を手伝えっての」
フィンは荷車から反物を幾つか取り出してくると、道ばたに並べた衣装箱の上に陳列し始める。
それを見てボニートが目を輝かせる。
「わあ! 綺麗だね」
「汚すんじゃないぞ?」
「うん」
そんなこんなでとりあえず準備が一段落して、フィンは店の前に座り込んで一服していた。
やっと落ち着いて周囲を観察する余裕ができたのだが、そうして見ると……
《ああ……やっぱりここって……》
彼らに宛がわれた場所は広場の外れで、近くに出入りの道もなく袋小路のようになっている。従って人通りもかなり少ない。
《しょうがないけど……》
彼らは昨日荷揚げした後、その足で地元の行商人組合に行って出店場所の交渉をしてきた。
だが、手数料をはずんだにしても新参の行商人にいきなりそんないい場所を回してくれるはずがない。
その上来たのもちょっと遅すぎた。本当ならもっと前に入って色々根回しすべきところだったのだが―――などとぼやいていても仕方がない。この場所しかないのならここで何とかしなければならない。
そこでまずフィンはしばらく待ってみた。もしかしたら他の店目当てとかで人が来るかも知れないし―――だが近くにある別な出店のオーナーも同じようなことを考えているらしかった。
《どうしよう? このままじゃ一日が無駄になっちまうぞ?》
そのとき横に座っていたボニートが大あくびをした。
それを見てフィンはいいことを思いついた。
フィンはボニートの肩を叩くと言った。
「そうだ、お前、客を引いてこい」
「どうやって?」
ボニートがぽかんとして訊き返す。フィンは後ろの荷車を指さした。
「その辺のどれかを着て、ちょっと愛嬌を振りまいてこい」
途端にボニートが満面の笑みを浮かべる。
「うん。わかった!」
認めたくはないのだが、こいつがかなりとびきりの美少年なのは事実だった。
ならば客引きさせれば若い娘が結構引っかかったりするのではないだろうか?
ボニートは大喜びで荷車に上がってごそごそし始めた。それから声がする。
「ねえ、どっちの服がいいと思う?」
「ああ?」
フィンは振り返ってボニートが手にしている服を見て―――大きくため息をついた。それから立ち上がると可愛らしいドレスを手にしたボニートをゴツンと殴る。
「いてっ!」
「何着るつもりだ! このボケが!」
「だって着ていいって言ったじゃないか!」
「女物は却下だ!」
「でも、可愛いし。これ」
「あのなあ、お前それ着てどんな客を引いてくるつもりだ?」
「え?」
フィンが調達してきた品物の主力は、ドレスなどの女物の服とウールの反物だ。
「そんなの見て付いてくる奴が、これを買うか? おい?」
フィンは商品を指さしながらボニートににじり寄る。
「わかったよ」
「ったくもう……」
女装した男なんて見たら間違いなく普通の客はドン引きだろうし、喜んで付いてくるような奴は―――確かにドレスは売れるかもしれないが―――だが、そんなことが知れたら公序良俗を乱したとかでぶち込まれたって文句は言えない。こういった田舎では特にだ!
《なんだかなあ……》
フィンがため息をついていると、またボニートの声だ。
「これでいい?」
今度は―――羽の付いた帽子に白いシャツと緑色のズボンをぴしっと着こなしたボニートが立っている。
「OK。行ってこい!」
こいつはこうしてみたら本当に悪くはないのだが……
ともかくボニートが客を連れてくるまで一休みだ。
そこでフィンはずっと腕組みをして立ち尽くしていたファーベルに声をかけた。
「ファーベルさん。ちょっと休みませんか?」
ファーベルはうなずくとフィンの側に腰を下ろしたが、なんだか妙にニコニコしているように見える。
《くそ! また笑われたか?》
だが彼が見ていたのはフィンの方ではなかった。
「なにか、あったんですか?」
「んん?」
ファーベルが訝しげにフィンを見る。フィンは慌てて答えた。
「いや、何だかちょっと嬉しそうに見えたから」
それを聞いて彼は軽くうなずいた。
「いや、懐かしかった」
「懐かしいって?」
「この市には、子供の頃、よく来た。親父と」
「カンパラ村からですか? 結構遠くありません?」
彼の故郷の村はこの近辺だと言っても、それなりに距離はあったはずだが……
「ああ。泊まりがけで。飴が楽しみだった」
「飴って、途中で売ってた魚の形をした?」
「ああ」
ファーベルが嬉しそうにうなずく。
「へえ。そういえばあんな飴、グラテスでも売ってるの見ましたよ」
「グラテス?」
「ああ。北東の山の中にある町でね、そこの収穫祭ではすごく出店が出るんだけど……」
そんな調子でフィンはファーベルと雑談を始めたが、彼と一緒に来て初めて少し打ち解けることができたような気がした。
それというのもこのタルタルという町の雰囲気のせいなのかもしれない。
彼もちょっと感じていたのだが、この町は首都のシーガルとはまた何か違った空気があった。
町と言うにはぎりぎりくらいの規模で、すごく大きな村と言った方がいいかもしれない。
首都のシーガルは、基本はアロザール的なのだが、その中にバシリカやシフラといった中原の都市を彷彿とさせる何かがある。
しかしここタルタルにはそういった文化的な香りが希薄だ。
その分田舎と言っていいのだろうが―――でもファーベルのような現地出身者にとっては懐かしい原風景なのだろう。
二人がそんな感じで話をしていると、ボニートが母娘連れの客と共に戻ってきた。
「ここだよ。見てってよ」
ボニートがフィンの露店を指さす。それを見て娘らしい方が目を丸くした。
「どこさ? え、ここ? あら? うわぁ!」
「いらっしゃい。奥さん。お嬢さん!」
フィンは即座に商売人モードに入って、品物の説明を始める。
それを聞きながら母親の方が生地を手にとって品定めする。
「どうです? いい手触りでしょう?」
婦人はうなずいたが、やがてちょっと首をかしげる。
「いいわねぇ……でももう冬物はねぇ」
「これってさ、みんなウール?」
「え? ええ、まあ」
娘の問いにフィンは仕方なくうなずいた。
「そうなんだぁ……ごめんね。また今度」
「毎度ありがとうございます」
フィンは内心がっくりした。ある程度の予想はしていたのだが……
彼らが持ってきた商品は毛織物のドレスや反物だった。
だがそろそろ季節は春に近い。そういった商品には少々季節外れだったのだ。
とはいっても仕方がなかった。フィンがタルタルへの潜入調査を決めたのはつい数日前のことだ。当然非常に迅速に商品を調達しなければならなかったわけで、じっくり吟味している暇などあるはずがない。
そこでシーガルの市場でたまたま見つけた行商人の商品を丸ごと買ってきたのがこれなのだ。
その行商人は旅の途中のトラブルとかで、本当だったら秋くらいに来るつもりが遅れてしまったらしく、売り時期を逃しかけて途方にくれていた。
おかげでフィンはかなり安く買いたたくことができたのだが―――しかしその商品を今度彼が売る場合には同じ状況になってしまうわけである。
しばらくして別な二人連れの娘が通りかかる。
「え? こんな所にお店あったぁ?」
「あ、あれって可愛くね?」
「うわぁ。こないだんよりこっちが良かった?」
「お嬢さん。よろしければ買い取りもしてますよ」
そんな様子をみてまたフィンは声をかけるが……
「え~?」
「まだまだ寒い時期も続きますし、どうですか?」
娘達はちょっと心が動いたようだが、やはりぷるぷると首を振ると立ち去ってしまった。
その後もボニートの客引きや一度来てくれた客の口コミなどでフィンの露店を訪れてくれる客はそこそこの数にはなったのだが、売り上げという点ではかなり寂しかった。
《まあ商売しに来たわけじゃないから……》
彼らの目的はあくまで調査だ。売り上げは二の次ではあるのだが―――だが商談が成立しないと話すきっかけも掴みにくい。調査という意味でも微妙に効率が悪い気もするし……
そんな調子で午前は過ぎて、フィン達は昼食を取って一息ついていた。
フィンはファーベルに今食べた昼食のことを尋ねていた。近くの屋台で売っていたのだが、炊いた米の上にほぐした魚が乗っている弁当だ。
「あの飯の上に乗ってたの何て魚だって? 油が乗っててえらくうまかったが」
「トリキア。大した魚じゃない。貧乏人の食い物」
「え? でも美味かったじゃないか」
「新鮮なうちは。でもすぐ……」
そこでファーベルが不自然に口をつぐむ。
「すぐ何だ?」
ファーベルがそれには答えずフィンの後ろを目で示す。
振り返ると彼もファーベルが見た物に気がついた。
向こうからちょっと身なりの良い男がやってくるのだ。もちろんそれだけなら問題はないのだが、その男は後ろにごつい男を二人も引き連れている。
そいつらはどう見ても喧嘩慣れしていそうで―――堅気じゃないのは間違いない。
フィンの露店があるのは袋小路の奥のような所なので、多分通り過ぎるのが目的ではないだろう。
《他には?》
そのあたりには彼の店の他にも何件かの店はあったが、男達はそれには目もくれずにまっすぐやってくる。
フィンはファーベルと顔を見合わせた。
それからボニートに小声で指示する。
「ボニート。下がってろ」
「うん」
ボニートも気づいていたようで、慌てて荷車の陰に隠れる。
果たして男達はフィンの出店の前に立ち止まると、彼とファーベルをじろっと見おろした。
フィンは二人に話しかけた。
「何かご入り用でしょうか?」
だが身なりの良い男はそれには答えず、あたりをぐるっと見回すと言った。
「これはこれは……」
「えっと? あの?」
「どうしてここで?」
男の口調は穏やかだ。だが―――どういうことだ? 『どうしてここで?』ということは、何でお前達はこんな所で商売しているのだ? ということか?
何でもなにも、行商人だからに決まっている。そのためここの元締めに場所代を払ってもいるわけで、文句を言われる筋合いはないのだが……
そこでフィンは思い当たった。
《何か抗争があるのか?》
こういった露店のいわゆる“出店管理”のために、ちょっとした町なら必ず行商人組合というのがある。
当然そういった組合を仕切ると色々と儲かる訳だが、そのため時々一つの町に複数の組合がしのぎを削っている場合があるのだ。
それにこの男の話し方は現地風のアクセントとは違う。ここでも実は現地派とウィルガ派の軋轢があったりして―――だとしたら……
《おいおい! まさかあのジジイ……》
今の場所は昨日港にあった組合の老人に場所代を払って指示を受けたのだが、彼はフィン達がよそ者なのを見て他人のシマを指定したのか?
フィンは男の様子をじっと見据えながら言った。
「ここは組合のエネルって方に紹介されて開いてるんですが?」
それを聞いた男がちょっとぽかんとした顔で答える。
「そりゃそうでしょうが、そんなことではなくって、どうしてそのような物を売ってるかお聞きしたかったんですよ?」
そのような物って、ここで衣料品を売ったら何か問題があるのか?
「どうしてって、これがこちらの商売ですから」
フィンの言葉に含まれる棘を感じ取ったのか、男は手を振った。
「いえ、それは見れば分かります。そうではなくって、この時期に来られていることについてなんですが」
この時期って? 何でそんなことを訊く?
「いや、メリスから来たんだけど、ちょっと旅の途中でトラブルがあって……」
それを聞いて男は大きくうなずいた。
「ああ、そうなんですか。やっぱりそれではお困りじゃありませんか?」
「え?」
フィンはまだ話がよく見えなかった。
そして男も何故かフィンが当惑していることに気づいたらしい。
それから男はちょっと考えると―――いきなり振り返って後ろの二人の大男を見るなり、大きな声で笑い始めた。
フィンはファーベルと顔を見合わせる。男はそれを見て笑い止めると言った。
「すみません。いや、別に喧嘩に来たんじゃないんですよ? 市場に毛織物の商店が出てるって言うから、見に来たんですよ」
「え?」
「いや、旦那様が、もしいい物だったら車ごと持ってこいとおっしゃておられて」
「えっと……」
「すみません。私、上のコルティナ商会という呉服問屋の者で、ファナーリと申します。実はうちで少し木綿の在庫を余らせてまして、それでお宅の商品と交換できたら互いにお得なんではないかと、そういうことで」
その頃にはやっとフィンも状況を理解できた。
だがそれならばこのごつい二人は?
それを見てファナーリは笑いながら広場の向こうに見える低い丘を指さした。
「うちはあちらですし。行くなら人手がいるでしょう?」
フィンは一気に脱力した。
「なんだ、そうだったんですか。びっくりしましたよ」
波止場からここまでほとんど平坦なのだが、それでも荷車を引いてくるのに結構くたくたになったものだ。あんな坂道を上がることを考えたらぞっとする。
「では来て頂けますか?」
「もちろん。喜んで」
全く神経に悪いが―――どちらにしてもこれ以上ここで店を開いていても、あまり儲かりそうもない。これならばファナーリの申し出を受けた方が良さそうだった。
それからしばらくの後、フィン一行はコルティナ商会の暖かな応接間で主人と歓談していた。
彼らの案内された部屋は伝統的なアロザールの造りだそうで、草を編んだ床面に様々な大きさのクッションが置かれている。その間には低いテーブルが置かれていて、お茶とお菓子が置いてあった。
ここでどうしたらよいのか最初はちょっと戸惑ったが、個人の好みでその上に座っても寄りかかっていてもいいらしい。お茶やお菓子も適当に取っていいらしい。
そこでフィンは大きめのクッション上に腰掛けていた。
彼の斜め前にはコルティナ商会の主人が座っている。
背が低い老人で、あぐらをかくと足が痛いとかで座布団に足を伸ばして座り、脇に置いたクッションに寄りかかっている。そのせいでフィンが彼を見下ろすような格好になってしまっているのだが、そういった所はこちらの人間はあまり気にしないらしかった。
「いやあ、本当に助かりましたよ。せっかくこんな遠くまで来たのに、物が捌けないんじゃどうしようかと思ってたところで……」
「いえ、こちらこそ残り物で」
フィンの言葉に主人は微笑みながら答えた。
「いや、なかなかああいう物は手に入りませんから。さすが地元ですね」
「おだてられてもあれ以上は無理ですよ?」
「いやあ、そんなつもりじゃないですよ。こちらもまだ駆けだし者ですし」
二人は笑った。
実際フィンとしては結構いい取引をしたんじゃないかと思っていた。
得られた木綿の反物は、かなりの良品と思われる。こちらの持ってきた毛織りも悪い品ではないと思うが……
だがフィンは商人としては新参である。もしかしたら何か重要な事を見落としていて、それで旦那は内心ほくそ笑んでいるのかもしれないが……
もちろん彼はそんなことをおくびにも出さなかったし、もし本当にそうだったとしても、それを見抜けなかったフィンの目が節穴だったということだけだ―――その辺の基本はヴォランとの旅の間にみっちりと仕込まれていた。
「フィンさんはこちらは初めてですか?」
旦那の問いにフィンが答える。
「はい。いつもは平原の東の方中心で。こっちの方に来たのも初めてなんですよ。でも、良かった。コルティナさんに会えて。このままじゃ叩き売るしかないかと思ってましたよ」
「東ですか? でもその喋り方は北の方では?」
「はは。出身は都なんですよ。そこの馬車屋の倅で……」
フィンが話をするとまずは大抵そこに突っ込まれる。そこで彼はすらすらと用意していた昔話をする―――もちろん今回は例のホモ魔法の話は抜きだが……
「へええ。それで各地を?」
「はい。去年は東の方へ。シルヴェストとかフォレスにも行きましたよ」
「フォレス? あの山の向こうの? ではあの商品はそこから?」
「いえ、そっちでは絹を仕入れて、戻って毛織りに替えたら何か大量になってしまって」
「絹ですか? それだったらもっと高く買えたのに」
「あはは。そうですね。でもあちらでも欲しがっていた人がいて。それに毛織りだってこっちでは高く売れるって話で。それで帰りには木綿を積んで帰るといいって聞いて」
フィンが買い取った商品の元の主はメリスで仕入れたと言っていた。そのため荷は主にアイフィロス産だったが、中に幾つかフォレス産の物も含まれていた。
こんな所でそんな荷札を見るとは思っていなかったので、ちょっとじーんと来たものだが、この地方では綿花の栽培が盛んで、木綿は安く大量にある。
だから今回の取引は双方にとってかなり満足のいく物だった。
「ああ。確かにあれはいい取引ですよね。私も昔はそれで儲けさせてもらいました」
「旦那さんも行商から?」
「はい。戦争の前ですけどね。ウィルガとシルヴェストやアイフィロスの間を何度行き来したことか。でもあの頃は今よりも辛かったですよ」
旦那はちょっと昔を思い出しているような表情だ。
「そうなんですか?」
「国境付近が危なくて」
フィンはうなずいた。
「ああ、アルバ川沿いですか?」
「そうです。船だと海賊が出るし、陸だと山賊が出るし。空飛んでも空賊が出るんじゃないかって言ってましたがね」
アルバ川沿いは重要な交易路なのだが、かつてはウィルガ、ラムルス、レイモン、メリスなどの勢力が割拠していて国境線が複雑だった。そういう所は得てして治安が悪くなりがちだ。
「それで陸路で行ってみたら、今度は平原の真ん中で馬車が壊れて立ち往生したりして。そんな所に嵐はやってくるしで」
「それは大変でしたね。商品は大丈夫だったんですか?」
「いや、ちょっと濡らしてしまいましてね」
「うわ……」
フィン達の商品に取っては水濡れは致命的である。
「あのときは本当に首を括ろうかと思いましたよ……でも諦めたらダメなんですね。すごすごと帰ってみたら何だか戦争が始まってて、そんな物でもいいから売ってくれって、捌けてしまったんですよ。まあ相場の半額くらいでしたが、そうじゃなきゃゴミですからね」
「戦争で布が?」
フィンがちょっと首をかしげると、旦那は笑って言った。
「怪我人の治療にいるとかで」
「ああ、なるほど……」
フィンは納得した。
「でもおかげでその後は大変ですよ。それこそ行商どころではなくなって。それで結局国を離れてこちらに逃げてきたんですがね」
その戦争でウィルガ王国という国は無くなってしまったわけで……
「こちらには、着の身着のままで?」
「そこまではいきませんが。いつかは店を持とうとそれなりに蓄えもありましたし。でも持てる荷物には限りがありましたし、こっちに知り合いがいるわけでなし、最初は苦労しましたよ」
「それは大変でしたね」
「でも運のいいことに嫁の妹が、一緒にこちらに逃げてきてたんですが、腕のいい織り子でね、錦織とかを織らせてみたら評判になりましてね、それで織り方を教えて欲しいと言うから、それじゃ一つこっちで広めてみようかと」
「へえ……」
旦那は応接間の奥にかかっていたタペストリを指さした。
「あれを作ったのも地元の娘ですよ。まだ若いんですがね」
「ええ? そりゃすごい」
それはフィンも気になっていたもので、都でもかなりの値がつきそうな逸品だった。
「こうなるまでにはまた色々あったんですよ。そもそも織機自体がなくて、部品も手に入らないし……」
それから旦那は現地にウィルガの織物技術を広めたときの苦労話を始めた。
《うーむ。バラノス氏の時もそうだったが、大変だったんだな……》
あの木訥としたハスミンの旦那も、ラムルスから逃げてきてあの農場を継ぐまでには大変な苦労をしたと言っていた。
そういった旦那の昔話もなかなか興味深い所だったのだが、彼が来たのは別な任務のためだ。
そこで話が一段落した所でフィンは尋ねた。
「そういえばこちらはお城との取引は為されているのですか?」
「いえ、うちは。どうしてですか?」
「あはは、もし良ければ紹介して頂けたかなと思って……」
旦那はまた笑ってうなずいた。だがすぐにちょっと暗い顔になる。
「それは残念です。でもお城との取引は難しいですよ」
「それはまたどうして?」
「元々お城の取引は何軒かの特別な商人に独占されていて簡単に割り込めなかったんですが、最近はますますそれに拍車がかかってるんですよ。何でもトラドール様のお命が狙われているとかで」
「そうなんですか。残念です」
ほぼ予想通りとはいえ、フィンはやはりちょっと落胆した。さすがに城の内部にそう簡単に潜入できるはずがないのだが。
「お役に立てませんで」
「いえいえ、でもこちらとこんな取引をしてもらえるのなら、秋にでもまたお伺いするのが良さそうですね」
フィンは何の気なしにそう言ったのだが、旦那はそれを聞くと急にまじめな表情になった。
「ええ。喜んで……と言いたいんですが、その場合はちょっと注意して頂かないと」
「注意?」
訝しげなフィンを見て旦那はうなずいた。
「ええ。毛織物と木綿の交換は利ざやが大きいですからね。難癖を付けられることも多いんですよ」
「難癖? ですか?」
「はい。国境の役人と癒着してる奴らがいましてね。めぼしい商人がやってきたら何かと言いがかりをつけてくるんですよ。この国で商売するには認可がいるとか何とか」
「え? 確かにそうですけど……あの認可ってそんなに取るの大変でしたっけ?」
もちろんフィンも行商人という建前で来ている以上、その認可は取ってある。
だが別に裏から手を回したわけでもなく、城の役人に頼んだらすぐ取ってきてくれたので気にもしていなかったのだが。
それを聞いて旦那は首を振った。
「いえ、簡単ですよ。申請すれば誰だって取れます。それに認可は商売するときにだけいるんで、運んでるだけなら通行税だけです。だからシーガルやここに来て初めて認可を取ったっていいんです」
「ですよね」
フィンはうなずいた。今までもそうだったからだ。
「でもそういうことをしようとすると色々嫌がらせされたり、場合によっては何故か盗賊が出たりとか……」
盗賊が出るって―――役人に袖の下を渡さなかったら襲われるってか? おいおい……
「そんなことしてるんですか? そいつらは?」
「証拠はありませんけどね。そういう噂ですよ」
「へえ……」
「それで仕方ないからその役人に認可証を作らせたら、今度は色々と裏書きされたりして」
「裏書きを?」
大抵の国で行商人は好き勝手に商売していい訳ではなく、少なくとも取引する商品の品目は限定されるのが普通だ。フィン達だったら衣料品限定で、例えば食べ物や酒を売ってはいけないのだが、そういった事は行商の認可証の表に明記されている。
認可証の裏書きとはそれを更に細かく制限する場合に書かれる。
例えば様々な理由で特定の期間や場所、それに取引先が指定されるような場合は裏書きになるわけだが、そういう制限は主に武器や宝石・貴金属などの取引以外では普通はないとしたものなのだが……
実際フィンの持っている認可状にはそんな裏書きはない。
「それに気づかないと、あいつらの息のかかった店としか取引できなくなって、安く買いたたかれたりするんですよ」
「はあ、そうでしたか……」
なんだかこれって結構ひどい話じゃないか?
「フィンさん方は時季外れだったから良かったのかも」
「ああ……じゃああいつが倒れてなきゃもっとヤバい目に会ってたってことですか?」
フィン達が来るのが遅れたトラブルとは、一緒にいた仲間が途中で病気になってしまったということにしてあった。
「そうだったかも知れないですね」
いや、何というか―――もちろんフィンはシーガルで途方にくれていた行商人の荷を買い上げただけだから別に被害はないのだが、あの男は結果的にかなり運が良かったことになる。
「ちなみに、あいつらって?」
「メダックスですよ」
旦那がそう言うと、横にいたファナーリが憎々しげに付け加えた。
「金になるなら何でもやる奴らです」
それを聞いてファーベルの表情がちょっと変わった。それに気づいてフィンは小声で尋ねる。
「知ってた?」
ファーベルは小さくうなずいて言った。
「王子の取り巻き」
それを聞いてファナーリが言った。
「ご存じだったんですか? そこなんですよ。おかげで奴ら、やりたい放題で。そのせいでもうウィルガ出身ってだけで肩身が狭いくらいで」
「そのメダックスって奴もウィルガ出身で?」
「はい。こっちが旦那様と一緒に苦労してやっとこんな店を出せるようになったっていうのに、あいつらは薄汚いことばかり。で、儲けた金に飽かせて賄賂三昧で……」
ファナーリは彼らのことをよっぽど腹に据えかねているようだ。
「フィンさんを驚かせてしまったあいつらですけどね。あんなのを雇ってないと危ないんですよ。なぜか出先で妙なごろつきに絡まれたりして。それで怪我をして店を畳んだ知り合いも何軒かありますよ」
「へえ……」
「でも役人とかがバックに付いているから、全くおとがめ無しなんです」
「それはひどい……」
それからフィンは彼らにもう少し詳しくメダックスについて尋ねてみた。
二人の話によればその男はトラドール王子の背後にいるウィルガ派の重鎮で、かなりの発言力を有しているという。
その力の根拠はやはり彼の持つ豊富な経済力によるものらしい。メダックスはそれこそ金になるならなんでもやるという系統の男らしく、元々はチンケな金貸しから成り上がったのだという。
《そんな奴が背後にいるってことは……何か使えるか? これって……》
そういう連中なら叩けばいくらでも埃は出てきそうだ。だとしたらスキャンダルみたいなもので評判を落とす作戦というのはどうだろう? 白銀の都ではよく行われていたことだが……
《でもなあ……埃くらいじゃなあ……》
どう考えてもぴんと来ない。
国境の小役人が行商人に嫌がらせをしているからと言っても、大したニュースにさえならないだろう。その黒幕が王子の取り巻きだったとしても……
《セコいことはしないように申し伝えておく、で終わりだよな? こんなの……》
フィンは今までいろんな立場であちこちを旅して回ってきたわけだが、腐敗した役人がいない国というのには未だ行き当たったことがなかった。