第6章 王国評議会相談役
五月初頭。フィンがアロザールに来てから二ヶ月あまりが経過していた。
この日、シーガル城の謁見の大広間には国内の各地から集まった地方領主や高官達が一同に会していた。
おかげで広間の窓は全開にされているというのに、中は少々暑いくらいだ。だがそれは人いきれのせいだけではなく、実際に今日がもう初夏のような陽気だったからでもある。
《うー……夏になったらどんだけ暑くなるんだ? ここって……》
フィンはその中で眠気と戦っていた。
彼の育った白銀の都も最近過ごしていたフォレス王国も高原の国だ。そこではまだこの季節はやっと本格的な春が始まったかどうかという時期だ。
だがここアロザールでは、三月も後半になればもう暖かく、この時期はもう高原の夏といってもいい。
《ともかく寝ないようにしないとな……》
フィンは軽く深呼吸すると、周囲に意識を集中した。
謁見の大広間は王国の運営に関して重要な会議が開かれる場所だ。いわばアロザール国政の中枢と言っていい。
その正面には一段高いボックス席があつらえてあって、その中央にザルテュス王、さらにその横にはアルクス王子が座っているのが見える。
王座の斜め前面の椅子上にあぐらをかいて座っているのがトラドール王子で、その対になる位置にいるのが評議会議長のウィレギースだ。
その少し前で今、書記官が長い文書を朗読中だった。
フィンは議長の後方の、広間全体を見渡せる位置に座っていた―――正確には座らされていた。
この場所は彼らを何重にも取り巻くように椅子が並べられていて、すなわち会議の参加者全員から注視されてしまう位置なのだ。
《これってなあ……》
そういった錚々たる顔ぶれに囲まれてフィンは途轍もなく複雑な気分だった。
彼らが招集されたのは先日起こった“破廉恥なる事件”の顛末についての報告を受けるためであった。もちろんそれだけであればここまでする必要はない。
だがその事件の背後にタルタルのウィルガ人一派が関与しており、彼らが収監された結果大幅な“配置転換”が発生したとなれば、その子細を説明する必要があるのは当然だった。
それが今朗読中の文書―――クーレイオン古城の解放とそれに関連して起こった様々な事件に関する報告書に他ならない。
普通こういった長文の朗読会みたいな物があれば聴衆は大抵眠気を催してくる物なのだが、今回ばかりはそのテーマがテーマだ。皆、目を見開いて書記官の言葉に聞き入っている。
《これ聞いて眠くなれるのって俺だけか?》
フィンは今回の事件の中心にいたため、あらゆる出来事を熟知していた。
その上、報告書の概要をまとめて、更には今日の朝方まで校訂に付き合ってもいたのだ。
だから彼にとってその内容は全く目新しいものではない―――というより、何十回も読んでほとんど内容を暗記していたくらいだ。
現在読まれているところは、宿屋の親父に頼んで古城からの使者を呼び出してもらう下りだ。まだまだ先は長い。
フィンは出そうになったあくびをこっそりとかみ殺すと、またあたりを観察した。
この頃にはフィンにもアロザール王宮のシステムがかなり分かるようになってきていた。
最初に来たときにはここの国政は一体どうなっているのか心配になったものだが―――フィンは斜め前方に座っているザルテュス王を見た。王も珍しく話に聞き入っているようだ。
もちろん今回は間違いなく例外で、いつもはこういった場があっても最初と最後に挨拶をするだけで、途中はほとんど寝ている。
代わりに座を仕切っていたのが彼の前に座っている評議会議長のウィレギースだ。
彼がアロザール王国の表の顔で、実質的な首長と言っていいだろう。
だが彼も全権を握っているわけではなく、重要な案件に関しては“王国評議会”という一種の貴族議会で協議され決定される。そのあたりに関しては白銀の都のシステムと少し似ていると言っていいかもしれない。
フィーバスもその議員の一人であるが、特に重要な役割を担っているわけではなく、一般からはアルクス王子の教育係的な立場と思われているようだ。
だがウィレギース議長を始め、多くの評議会議員はフィーバスとアルクス王子の強い影響下にあるように見えた。
《だから分からなかったんだよな……》
フィーバス達がアロザールで派手な動きをしていたのなら何らかの情報が、少なくともシルヴェストなどには伝わっていたはずだ。そうなればそこからベラに情報が飛ぶのは一瞬だ。
多分彼らはそういうことを避けるため、慎重に表に出ないようにしていたのだろう。
《それで殿下なんだが……》
フィーバスがこの宮廷内で隠然とした影響力を持っているのは間違いないが、それが可能になったのは多分このアルクス王子が大きく関与している。
アロザールは王国である以上、最高権力者は当然国王である。
だがザルテュス王が今あんな調子なので、正式な世継ぎであるアルクス王子が実質上の最高権力者となっているのだ。こういった会議などでも国王が“面倒くさい”場合などはアルクスに委任することもよくあるらしい。
その彼の教育係なのだから当然大きな影響力があるわけだが、それだけでは説明できないことも多かった。
数年前に起こった第一王子マリウスの反乱のきっかけは、アルクス王子が正式な世継ぎになったことだったのだが、要するにその時点でフィーバスは何らかの方法でザルテュス王を心変わりさせて、なおかつアロザール現地派の議員をまとめ上げたことになる。
その頃の彼は新参の外国人の一人に過ぎなかったはずなのだが……
《でも殿下の力をうまく利用したのなら……》
これはまだ彼の想像なのだが、その鍵となったのがアルクス王子の能力なのではないだろうか?
王子がどれほどの力を持っているのか、まだフィンは完全には知らない。
だが少なくとも非常に強力な精神感応魔法―――読心だけでなく“操心”の力を持っていることも、あの門番を瞬殺した一件からも明かだ。
《だとしたら……》
だとしたら―――どうだというのだろうか?
まあ確かに反則気味ではあるが、都でも政争に魔導師が絡むことはよくあるし、ベラだってそうだ。
あの能力は少々反則気味には思えるが―――だが少なくともそれならば王子の能力が問題にされるべきなのだが、そういうことにもなっていない。
ただ都と違った点は、魔道の力を持っている王子が“世継ぎ”だということだった。
これは都やベラなら間違いなく女王の禁忌に触れる問題だ。
女王の禁忌では魔導師が国王のような権力者になることを禁じている。実際フィーバスもそのためにベラの国長になれなかったのだ。
だからあの後すぐにフィンはフィーバスに尋ねた。すると彼はこともなげに答えた。
『ベラや都でなら確かにそうだ。だがここはアロザールだ』
そう言われたら何も言い返せなかった。銀の塔やベラの魔道大学出身の者であれば、それは守らねばならない規範だ。だがアルクスはそのどちらにも属していない。そういう者に対しても、女王の禁忌は適用されるのだろうか?
フィンはそれまでそんな事例を聞いたこともなかったし考えたこともなかった。
また魔導師がなぜ国王になってはいけないのかと問われても『そう決まっているから』という以上に明確な答えを持ち合わせていなかった。
《いいのかなあ……本当に……》
禁じられているからには何らかの理由があるはずだと思うのだが―――とは思っても、答えが見いだせない以上は当面の間保留にしておくしかない。
そのようなことを思い起こしているうちに、朗読はクーレイオン古城の下りを終えて、次の見せ場に差し掛かっていた。
―――四月。タルタルでは毎年恒例の春祭りが行われていた。
この祭りはこの地域では最も大きく伝統のある祭りなので、遠くからの観光客もたくさん訪れる。
フィン達が行商を行った中央広場にはたくさんの露店が軒を並べ、各地から集まった大道芸人達が芸を競っている。
だが彼らは今年は少々運が悪かった―――というのは何か港の方で特別な催しがあるということで、客がそちらの方に流れてしまっていたからである。
港には今や人だかりができていた。
一部には帳で囲われたVIP用の区画も出来ている。
だが野次馬達はそこでこれから何が起こるのかは誰も詳しく知らなかった。
知っているのは正午から港でアルクス殿下が直々に演し物を用意してくれているということだけだ。
やがて正午を知らす鐘の音がする。
しかし特に何も起こった様子ではない。人々が少々戸惑いの色を見せたときだ。
パパーンと沖合の方から音がした。
「おい! あれを見ろよ!」
誰かが叫んだ。その声の方を見ると―――そこから派手に飾りつけられた船が近づいてくるのが見えた。音はその船から打ち上げられた花火のようだ。
その船は王室の専用船で、マストにはアロザール王家の紋章のついた旗が翻っている。
船は滑るように近づいてくると、彼らの前の岸壁に横付けした。その甲板の中央にはステージがしつらえられていて、その前にはずらっと楽団が並んでいる。
そして接岸と同時に指揮者が立ち上がると、いきなり派手な前奏曲を奏で始めたのだ。
その演奏だけでも来ていた観客の度肝を抜くには十分だった。
彼らは通常はシーガル城内でしか演奏しない王立楽団員で、国中から集められた名人級のメンバーばかりだったからだ。
その演奏はやがてゆっくりした流れになり、最後は金管の長いファンファーレで終止する。同時にステージに引かれていた幕がすうっと開いていった。
そこから現れたのは―――なぜかみすぼらしい格好をした若い娘達だ。
観客のどよめきが困惑に変わる。
そのとき、その間を裂くような叫び声が上がった。
「ロゼットォォォ!」
それを聞いて娘の一人が立ち上がる。
彼女が野次馬をかき分けるように走ってくる若い漁師の姿を認めると……
「ナダァァァァル!」
途端に彼女も舞台から飛び降りて甲板の手すりまで走った。
ナダールはもう岸壁の端にまで達していた。
「ロゼット!」
ナダールは大きく手を開く。
それと共にロゼットが宙に舞う。
「ナダール!」
二人の様子を呆然と見ていた見物客から悲鳴のような叫びを上がる。
だがロゼットはなぜか落下はせずにすうっと飛ぶように宙を滑っていくと、そのままふわっとナダールの腕の中に収まったのだ。
観客からどよめきがあがる。
途端に再びファンファーレが響き渡る。
人々が振り返ると舞台の幕は再び閉じられていて、その前に道化の格好をした男が立っていた。
男は芝居がかった調子で話し始めた。
「さて、お集まりの皆様。今ご覧になりましたる光景、如何お感じになりましたでしょうか?」
男は手を耳に当てて聴衆の反応を聴く仕草をするが、当然観客達は全く意味が分からず呆気にとられている。
道化はそれを見てさも残念といった風に腕組みすると続けた。
「え? 何のことか分からない? ちょっとそれは冷たいのではありませんか? 引き裂かれていた二人があのように再会できたと言いますのに……」
そのとき舞台脇から別の道化が出てきて、その男をひっぱたいた。
「この馬鹿者が! お前は台本を読んで知っているだろうが、皆様方はまだご存じないのだぞ? この物語は本邦初公開! 我々以外にお話の展開を知っている者などおりはせぬ!」
「おおそうだったそうだった。これは申し訳ありませぬ。それではこれよりどうして彼らが引き裂かれ、どうしてこのように再会できたか、その顛末をお見せいたしましょう。名付けて『クーレイオンの解放』でございます」
その言葉と共にまたオーケストラが音楽を奏で始める。
観客達はどっと沸いた。何だか知らないが、これが王子の演し物だと分かったのだ。
果たせるかな再び幕が上がるとそこは田舎の村のセットになっていて、合唱がナレーションを歌い始める。
それからその後長い間語り継がれることとなる“クーレイオンの解放”の初演が始まったのだった。
それを舞台脇で見ながらフィンはちょっと感極まっていた。
《あれがこんな風になるのかよ……》
この企画を考えたのは彼自身だったのだが、当初はここまで大がかりな物になろうとは思ってもいなかったのだ。
彼が考えたのは、ともかくあの事件の顛末をなるべく多くの人に分かるように告発できればいいということだった。
ところがザルテュス王は実は大変な音楽好きで、アロザール宮廷にはハイレベルな楽団や劇団があったのだ。そこで祭りで告発するならそんな劇にしたらどうかと誰かが言い出すと、そのままあれよあれよという間にこんなことになってしまったのだ。
おかげでフィンはこの劇の脚本を書くために何日も徹夜する羽目になった。
もちろん彼は素人だったから、彼の下書きを更に宮廷詩人が校訂して、今度はそれに宮廷作曲家が音楽をつけてと、もう殺人的なスケジュールだったのだ。
でもそれがこうして形になったのを見ると、何かこみ上げて来るものがある。
《でも……うまくいくかな?》
ここまではいい。客の掴みは最高だ。
劇のプロローグは田舎の村の子供達の話だった。
男の子がふざけて女の子に火傷をさせてしまうエピソードが語られている。このあたりは当事者だけしか知らない話だから、観客達も当然フィクションだと思っているだろうが……
やがて物語が進み、二人が成長して更に誤解を重ねてロゼットはついに身売りしてしまう。
そこで彼女を連れて行った女衒の名前が“ザモス”だと分かったとき、所々で疑問の声が上がるのが聞こえた。
さらに話が進むと“シュピーラー”や“メダックス”という名前も現れる。そのたびにあちこちでちょっとしたひそひそ話が起こる。
《よし。いいみたいだな?》
フィンは内心ほくそ笑んでいた。このあたりは少々心配だったので、サクラを仕込んだりもしているのだが……
多くの者にとってはまだこれは単なる物語だ。アルクス王子がタルタルの住民のためにしてくれたサービスだと思っている。
だがこの劇はそれだけではなく、もう一つ“告発”という重要な役割がある。それが成功しなければ意味がないわけで……
舞台上ではロゼットが幸運にもある高貴な方のお屋敷で侍女として雇ってもらえると聞いたときの、喜びのアリアが歌われている。歌っているのは王宮専属の歌手だ。ルナ・プレーナ劇場でも通用しそうなすばらしい歌声だ。
そんな素晴らしい舞台もあって、人々は純粋にロゼットの運命がどうなるか、興味津々に見続けてくれている。
だが人々は幸せを掴んだかに見えたロゼットの落ち込んだ運命に衝撃を受けた。
このままハッピーには終わらないだろうと踏んでいた観客にしても、その予想を遙かに裏切られる展開になっていくのだ。
やがてクライマックスの、古城の地下で淫虐の限りを尽くされ恥辱のあまりに死を覚悟したロゼットの歌に―――それでも実際の出来事に比べたらとんでもなくソフトに書換えられていたのだが―――観客達はもはや茫然自失という態だった。
最後に彼女の声が届いて古城が開放されたシーンの後、最終和音が響き終わっても人々はしんとして声を発しなかった。
フィンは何か失敗したのかと一瞬蒼くなった。
―――だが違っていた。人々は一様に皆、泣いていたのだ。
次いであたりが大歓声に包まれる。劇は大成功だった。
フィンはひとまず胸をなで下ろした。
《さて、これからが本番だぞ》
今回の演し物はそこで終わりではなかった。
カーテンコールが一段落した後、なぜか再び音楽が鳴り始めたのだ。
そして幕が開くと最初に出てきたみすぼらしい娘達が再び壇上に立っている。
それと共にまたあの道化の服を着た男が現れる。
今度は彼は化粧はしていない。シーガル城に勤める者であれば、彼が一等書記官の一人であることが分かっただろう。
「さて、皆様、音楽劇『クーレイオンの解放』はいかがでしたでしょうか?」
それと共に船から桟橋に向かって広い渡り板が渡された。
「それではこの物語の主人公ロゼットは……」
道化が岸壁の方に手を差し伸べる。
そこにはずっと抱き合って劇を見ていたロゼットとナダールがいた。
「最初にナダールの元に戻っておりますれば、残りの娘達も同じく戻さねばなりますまい」
人々がえっと言った顔で壇上を見つめる。
「サイリア村のコベルタ」
その声と共に娘の一人が前に出る。人々からおーっと言う声が上がる。
今は彼らはもうその名前をよく知っていたからだ。彼女はロゼットの友人として、絶望して命を絶とうとした彼女を勇気づける重要な役柄だった。
それと共に群衆の中から一人の老人が前に出た。それを見てあちこちから「え? あれって?」といったささやき声があがる。
老人は少ししわがれた声で名乗った。
「サイリア村長のベニールにございます」
道化はベニールに向かって言った。
「彼女がコベルタに相違ないか?」
「間違いありません。コベルタにございます」
それからコベルタが壇上から走っていくとベニールに抱きついた。
「村のお父様……」
「コベルタ……すまん」
老人は彼女を抱きしめた。
人々の多くは未だ何が起こっているかよく理解していなかった。
「リチェーチ村のサリーナ」
その声と共にまた一人娘が前に歩み出し、それを見てリチェーチ村の村長が現れた。
このようにして娘が一人一人村に帰っていくのを見て、段々と人々は悟っていった。観客のかなりの者が、いずれかの村の村長ならば知っていたからだ。
そして道化の最後の言葉でそれは確信に変わった。
「かくして村の娘達は故郷の村に帰ることができました。そして彼女達をこれほどまでに苦しめました、ウィスクム伯爵、トルージャ、バレッタ、スヴェーリアらは今、シーガル城の暗い地下牢の中、此度は彼ら自身が太い鎖につながれて陛下のお裁きを待っているのです」
人々はどよめいた。
そう。これは全て事実だったのだ。
クーレイオンの解放とは単なる物語ではなく、実際に起こったことなのだと……
「アルクス殿下、万歳!」
「アルクス殿下、万歳!!」
どこからとも無くわき起こったシュプレヒコール。
人々は最高の春祭りを堪能していた。
だがその中で生きた心地のしない者達がいた。
彼らはVIPボックス内にいたため群衆に引きずり出されたりはしていなかったが……
トラドール王子やメダックスらはクーレイオン古城の手入れに関しての情報は入手していたのだが、はっきり言って他人事だと考えていたのだ。
実際メダックスはシュピーラーを通して娘を売っていただけで、その先彼女達がどうなったかなど考えてもいなかった。そのためこの一件が自分に降りかかってくるとは思ってもいなかった。
だが今、この劇が真実ならば、彼らはロゼット達の悲惨な運命にこれ以上ない位に関わりあってしまっていた。所々出てくる実名の登場人物は全て実際にその通りのことをしているし、そのことを知っている者も大勢いるのだ。
トラドール王子が帰順したのはその日の晩のことだった―――
かくして当初の目的である、トラドール王子一派の“処理”に関しては完全に成功裏に終わったと言って良かった。
だが事態はそれに留まってはいなかった。
というのはウィスクム伯を取り調べることで彼の“顧客”に関しても当然分かってくる。
彼の扱っていたような商品を購入して維持するには、それだけの金や地位が必要になってくる。
すなわちそれは国内だけでなく、様々な国の金持ち、貴族、王族につながる裏の人身売買ルートが明らかになっていくことを意味していたのだ。
これはもう、うっかりすると国家間の大スキャンダルへと発展する可能性さえ秘めていた。
それ故にそのルートに関してはいくつかの見せしめを除いては表沙汰にされることはなかった。そういう相手であればいきなり暴露するよりも、そういう情報を握っていると囁いてやった方が何かと有益なのも間違いない。
要するに事態はもうフィンの手を離れて“高度に政治的な分野”に突入しつつあった。
《良かったんだよな……これで……》
もちろん彼に最初からそんな意図があったわけではない。
暗殺のような手段に代わる何かいい方法がないか探していただけなのだが―――タルタルが戦乱の渦に巻き込まれたりするよりは、遙かにこちらの方が良かったとは思うのだが。多分……
「……以上がクーレイオン古城城主、自称ウィスクム伯爵の元で行われていた恥ずべき行いと、その摘発に関する一部始終と相成ります」
書記官はそこで一息ついて軽く咳払いをすると続けた。
「つきましては皆様にここでご紹介致したい方がございます。ではどうぞ」
書記官は振り向くとフィンに向かって手を差し伸べた。
フィンは黙って立ち上がると一同に向かって礼をする。
「こちらがル・ウーダ・フィナルフィン殿にございます」
一同から低いどよめきがあがる。
「今回の事件の解決にあたりましては、ル・ウーダ殿の尽力が不可欠であったということは、もう皆様方にもご理解頂けていると思います。つきましては、今後ル・ウーダ殿に王国評議会に客員相談役として参加して頂こうと考えておりますが、その件に関して異存はございませんでしょうか?」
このあたりは事前の根回しは済んでいるので、ここでトラブることはないはずだが―――フィンは少々緊張した。
だが一同は一様に胸に手を当てて軽くうなずいた。同意の仕草だ。
フィンは内心安堵しながら一同に向かって言った。
「それでは若輩者ではございますが、このル・ウーダ・フィナルフィン、アロザールの海と大地と人々のため、今後も我が血潮を捧げていきたいと思います」
これはこちら風の言い回しで、今後頑張りますといったぐらいの意味らしいのだが―――何度聞いても大げさ感が拭えない。
一同は再び同意の仕草をする。
それから会議はその他の細かいことへと移っていった。
《ふう……》
大仕事が一つ終わってフィンは軽く一息ついた。
こういうのももちろん当初の予定には全くなかったことだ。
彼がアロザールに協力するのは命を助けられた恩返しをするためであって、それ以上でも以下でもないはずだった。なのにこれは……
《これじゃ向こう側に利益が出てるんじゃないのか?》
本当だったら大量の死者が出ていたかもしれなかった事態を無血で収めたと考えれば、数勘定から言えば全くその通りだ。そう強硬に主張すればあの約束を変えてもらえる可能性もあるわけだが……
《あの顔を見ちゃうとなあ……》
今回のことについて一番感謝してくれていたのがあのアルデン将軍だった。
あの強面の老将軍が今ではすっかりフィンを尊敬していて、先日もずっとこちらに仕えてはくれないかと懇願されたばかりなのだ。
実際彼もファーベルも、アロザールの人はちょっと無愛想だが、その実すごく情にもろい良い人達だということが分かってしまっていた。
おかげで結局彼らを振り切ることが出来ずにこんな役目を承認してしまったわけで……
《とにかく今後は大人しくしていよう……》
もう十分やることはやったのだから、後は目立たず騒がず時を待てばよいのだ。会議に出るといってもどうせ発言することなどないだろうし、黙って聞いていればいいのだ。
《うっかり寝たりせずにな……》
疲れで眠気がピークになっているが、今ここで寝てしまうわけにはいかない。
フィンがお茶を飲んだり足をつねったりして眠気と戦っているうちに、会議の残りの部分もつつがなく終了した。
《やっと終わった!》
フィンが大きくのびをして退出しようとした。そのときだ。
「やあ、ル・ウーダ殿」
そう言ってやってきたのはトラドール王子だ。
「これは……トラドール殿下」
王子はいきなりフィンの両肩を掴んで頭を垂れる。
「ル・ウーダ殿には大変感謝している。なんと礼をすべきか言葉もないのだ」
フィンは一瞬心臓が縮んだが、これはこちらでは本気で謝りたいときに行う仕草だ。
フィンは慌てて王子の両肩に手を当てて言った。
「頭をお上げください。殿下のそのお気持ちだけで結構ですから……」
それを聞いて王子は首を振る。
「いや、貴公がいなければ未だに私はあの邪悪な取り巻きどもの言いなりになっていたところだ。その私の目を覚まさせてくれた貴公には、本当に感謝しているのだ」
「過分なお言葉、痛み入ります」
「そういうわけで今度、私の城に遊びに来てくれ。歓迎するよ」
「あ、もちろん喜んでお伺いさせて頂きます」
「そうか。で、ル・ウーダ殿の都合の悪い日というのはあるのかな?」
「いえ、こちらは別にいつでも結構でございます」
「分かった。ならば日取りは後でお知らせしよう」
王子はにこにこしながら言った。
《あー……そうだよな……》
フィンは首長クラスとの会食みたいなことには慣れていたから、王子の所に呼ばれること自体には問題はなかった。
だが、王子と親密になるということはそれだけで目立つということである。
《今後この手のことは増えそうだな……》
なるべく今後は地味に生活したいと思っていたのだが……
そのとき王子がふっとフィンに尋ねた。
「それはそうと一つ気になっていたことがあったのだが……」
「なんでございましょうか?」
「村に帰った娘達だが……どうしているだろうか? 彼女達も好きで身売りしたのではないはずだが、村が支えきれずにやむなくそうしたなら……戻ってもまた出て行かざるを得ないのではないだろうか?」
フィンは驚いて王子の顔を見た。こういう立場でそんな心配するなんて―――なかなか出来ることではない。
だがそれに関しては既に対策済みであった。
「ああ、それでしたらこちらで、申し出があれば侍女などの職場を紹介することにしています。トラドール殿下のお城でも何人か雇って頂ければ感謝されると思いますよ」
それを聞いて王子は手を叩いてうなずいた。
「おお、そうだったか。やはり君は抜け目がないな」
「いえ、これに関しては私の案ではなくて……」
「ともかく今度、私の城にも遊びに来てくれ。歓迎するよ」
「ありがとうございます」
王子は去っていった。
こうやってみると本当にこの王子は好人物だ。こんなところに生まれなければ、もっとずっといい人生を送れたかもしれないのに……
それはともかく、おかげでフィンはまた重要なことを思い出さざるを得なかった。
クーレイオン古城には、あの場にいた六人以外にもまだたくさんの奴隷予備軍が連れてこられていたのだ。当然そういった者達についてもどうにかしなければならない。
実際王子が心配したとおり村に戻って普通にやっていける娘はごく僅かで、残った者に関してはその行く先を手配してやらねばならない。
だが侍女の勤め先などがそんな簡単に出てくるわけがない。そのため関係者が分担して世話をしてやらなければならないのだ。
そう。“関係者”が……
その日の夕方、フィンは城からちょっと離れたところにある閑静な住宅街を歩いていた。
《さて、どうしたもんか……》
こちらに来てからというもの面倒事が日に日に増え続けている。
これもまたそのうちの一つだった。
この付近はアロザールの高級官僚の屋敷が建ち並ぶ一角だ。彼はそこの中央通りを抜けるとその外れにある“彼の屋敷”の門をくぐった。
フィンは今回の功績に対する報償としてこの屋敷を下賜されたのだ。
だが彼がここに来るのは今日でやっと二度目だった。
先週の頭に一度検分には来たのだが、それっきり忙しくて来る暇が全然なかった。なにしろ今日の会議の原稿の下書きや校訂で、先週中はずっと夜遅くまで城に缶詰状態だったのだ。
《で、どうなってるんだろう?》
先週見たときには屋敷はしばらく使われていない様子でかなり荒れ果てていた。まずはそこをどうにかしないといけないのだが……
そのために“彼女”が準備はしてくれているはずだが、一週間程度でどの程度できるものなのだろうか? あまり贅沢は言わないが、せめて寝る場所と食べるものくらいあるといいのだが―――そんなことを思いながら屋敷の前庭に入っていくと……
《お?》
フィンは目を見張った。
以前はあちこち雑草だらけで、玄関への小径も枯れ葉でほとんど埋まっていたのだが、今は見違えるようにきれいに掃除されている。確か家の片付けは彼女の他にもファーベル達が手伝ってくれるということは聞いていたが……
そんなことを思いながらフィンが館の玄関の扉を開けると……
「お帰りなさいまし。ご主人様」
「おかえりなさいましごしゅじんさま」
いきなり彼を出迎えたのは若い女と子供の声だ。
《あ゛~……》
フィンが下賜されたのはこの周辺では一番小さな屋敷だったが、それでも一人暮らしするには広すぎた。ボニートはあの調子で置いておいても散らかすばかりだ。
そこでメイドを紹介してもらえないかと頼んだわけだが……
玄関ホールの真ん中には、クーレイオン古城でフィンが助けたチャイカと、もう一人十歳くらいの少年が床にぺったりと平伏している。
いや、そんな風に来られると困ってしまうのだが―――見るとその横にはふて腐れたようにボニートまで跪いている。
《なんでこいつまで?》
そう思った瞬間だ。
「くぉら! この無礼者が!」
チャイカがいきなりボニートの首根っこを掴むと、そのまま床に叩きつけた。ゴツという鈍い音がする。
「ご主人様がお帰りだというのに、何でございますか? その失礼な態度は?」
「お・が・え・り・な・ざいませ……」
ボニートが頭を床にこすりつけられたまま挨拶をする。
彼が顔を上げると―――何だか目の回りに痣ができているようだが……
「どうしたんだ? それ」
フィンが尋ねるとボニートは涙目で言った。
「聞いてよ。ひどいんだよ。この女! 僕が何もしてないのに殴るんだ」
「はあ?」
それを聞いてチャイカはむっとしたような顔でボニートを睨む。
「どういうことだ?」
フィンの問いにチャイカはまっすぐ彼を見ると答えた。
「申し上げてよろしゅうございますか?」
「ああ」
「確かにこのオカマは何もしておりません」
「は?」
驚いて聞き返すフィンに向かって、チャイカは一気にまくしたてた。
「といいますか、私めやファーベル様が一生懸命家の中の片付けをしておりましても、自分はご主人様にとって特別だからなどとほざいては何もせずにゴロゴロしているだけでございまして、それでも本当にご主人様の大切な御方でございますれば我慢も致したのでございますが、あり得ないことだと思いましたので問いただしてみれば、やはり嘘八百並べていただけだったのでございます。それならばもはや手加減無用でございまして、このオカマに仕事を申しつけようと致したのでございますが、こ奴め、抵抗致しますのでやむなく一発張り倒してやったのでございますが、すると今度は逃亡を企てた挙げ句に、勝手に階段から落ちていったのでございます」
驚くほどわかりやすく納得いく説明だ。
「おい、本当かよ?」
「嘘だ!」
ボニートはしどろもどろだ。何だか色々と勝負になっていないようなのだが―――フィンはちょっとボニートが哀れになった。
「どっちの言ってることが本当かわかるか? ネイ」
もはや聞くまでもなかったが―――少年は黙ってチャイカを指さした。
「裏切り者~っ!」
フィンは大きくため息をついた。
「まあ。分かった。ともかくこいつの自業自得ってことだな」
「フィン~!」
フィンはボニートを睨む。
「うっさい。今後は彼女の指示に従って、家事の手伝いぐらいしろ。ネイだってやってるんだろ?」
「はい。この子はとても一生懸命な、よい子でございます」
「あー、そうか。よくやったな」
「はいっ」
少年はそう言ってにっこり笑った。
そうなのだ―――いろいろある中でも最大の問題はこの少年、ネイだった。
―――それは数日前のことだった。フィンはアルクス王子に呼び出されたのだ。
「やあ、フィン」
「今日はどういったご用でしょうか?」
フィンは彼に呼び出される理由が分からなかった。
「ほら、君が家のメイドを探してたじゃない。いい子がいたから紹介しようと思って」
「え、あ、はい……」
確かにそれは頼んであったが―――どうしてそんなことを王子直々に? そう思って王子を見ると彼はにやっと笑った。
「それともう一つ、君に『報償』をあげようと思ってさ」
「報償ですか? あんなお屋敷を頂いただけでも過分なことだと思いますが……」
「まあ、そう謙遜せずに。それじゃ入っておいで。二人とも」
二人とも? メイドは一人でいいと言ったのに。
だが入ってきた二人を見てフィンは目を見開いた。
一人はあのチャイカだった。
彼女は今きちっとした侍女の服装をしている―――とは言ってもアロザール風の侍女服だ。彼女のスタイルや胸の谷間などがあのときよりも際だって見えるのだが……
それはともかく、その横に十歳くらいのブルネットの髪をした少年が寄り添うように立っていた。
《なんだ? この少年は……》
そんなフィンの内心を知るのに当然読心など不要だ。
アルクスはにやにやしながら彼女達を紹介し始める。
「彼女はチャイカ。もう知ってるよね。君がメイドを募集してるって言ったら、是非やらせてくれって言うから」
「あ、はい……」
フィンの頭の中に彼女を救出したときの光景が去来した。
《あんな娘が今後家の中に?》
嬉しいと言えば嬉しいが―――いや、間違いなく目の毒だ。メイドなんてもっとおばさんで良かったのに。
というか、こんな子に本当に家事ができるのか?
「それから彼はネイ。ファーベルが救出した子の中に含まれててね。で、引取先を探してるんだ」
フィンはぽかんとしてその少年を見つめた。
「え? でもこの子は男の子では?」
「君がそんなこと言うのかい?」
アルクスが相変わらずにやにや笑いながら言う。
《ああ?》
フィンはうっかり聞きかえそうとして、いきなり咳き込んだ。
そうなのだ。フィンは巷では稚児好きという評判なのであった。
「でさ、彼の世話もしてやらなきゃいけないんだよ。分かるだろ? この子も帰るところがないんだ。だからどうしようかって思ってたんだけど、そこで思いついたんだ。君の所が一番いいんじゃないかなって」
そう言ってアルクスはまたにやっ~と笑う。
《ちょっと待て!》
フィンは蒼くなった。本気なのか? 冗談なのか?―――というか、今囁かれているフィンの評判を聞いたら逆に危ないって思われるだろ? それともそれが狙いなのか?
っていうか、さっき奴は“報償”って言ってたか? ってことは……
「えっと、その、あの……」
しどろもどろのフィンをにやにや見ながらアルクスは言った。
「ま、そういうわけで来週から君の所にいくから。よろしくね」
その言葉と共にチャイカとネイが跪いて礼をする。
「よろしくお願いいたします」
「よろしくおねがいします」
と、こんな感じでなし崩しに彼らと共に暮らすことになってしまったのだったが―――
《どうもこうもないよな……》
何だかずるずると深みにはまっていないか? このままではどんどんお荷物が増えて行ってしまうのだが……
それはともかく今は昼間の行事などで色々と疲れていた。
「で、ともかく食事にしたいんだが……」
「承知いたしました。こちらにどうぞ」
そう言ってチャイカは立ち上がるとフィンを食堂に案内する。
食堂への廊下を歩きながらフィンは内心感心していた。
先週検分したときは、ほとんど幽霊屋敷然としていたのだが、今は見事にさっぱりと片付いている。
床には真新しい絨毯が敷かれていて、壁や窓も前は埃っぽかったが今は埃一つなくつやつやしている。
天井から吊り下がっているランタンもきれいに磨かれて、互いの光できらきら輝いている。
屋敷をもらったはいいが当面は片付けだけで手一杯になりそうだと諦めていたのだが、これならフィンは何もすることが無さそうだ。
《彼女が先週からずっとやってくれてたのか?》
確か片付けにはファーベルやその部下達も駆り出されたとは聞いていたが、それでも数日でここまでに仕上げるのは、かなり大変だったのではないだろうか?
《彼女ってもしかしてすごく腕のいいメイドなのかな?》
彼女とは古城で別れてそれっきりだった。あそこではそんなことを思わせる要素はまるでなかったわけで―――あのときの様子を思い出して、あの服の下にはあんな体が隠されているかと思うと……
フィンは慌てて明後日の方を向いてそんな妄想をかき消した。
次いで案内された食堂もきれいに内装が終わっていた。
中央のテーブルには清潔なテーブルクロスがかかっており、その上には食器のセッティングも終わっている。
厨房の方からはブイヤベースの良い香りが漂ってきていた。
《うわ……》
これってもしかして、もしかするのでは?
「ネイ。お料理を出すのをお手伝いなさい」
「はいっ」
「お前もだよ?」
「はーい……」
テーブルの上座に座って食事が出てくるのを待っていると、様々な思いが頭をよぎる。
何だろう? これって自分の家族ができたらこんな感じになるのだろうか……
だがアウラがあんな風に家事をやってる姿ってあまり想像がつかない。
それにアウラは王女の警護という役目がある。だとしたら家を管理するためにメイドを雇う必要があるわけで……
《一体何を考えてるんだ?》
何かそんな幸せってもうやって来なさそうな気がするのだが……
また暗くなりかかったところに、チャイカ達が料理を持ってやってきた。
先ほどから香りがしていたブイヤベースに海草の入ったサラダ、白いソースのかかっている蒸した赤魚に、色々な具の入ったピラフなどだ。
一緒に上等の酒まで用意されている。
「これって君が作ったのか?」
フィンが目を丸くして尋ねると、チャイカはちょっとはにかみながら答える。
「いえ、申し訳ございませんが今日は買い物に行く余裕がございませんで、これはファーベル様の奥方様より下ごしらえした材料を頂いたのでございます。お酒はアルデン将軍様よりの頂き物にございます」
「ああ、そうなんだ」
ファーベルの家もこの近くにあるという。後で礼を言っておかなければ……
そう思ったが、ともかく今は空腹だ。フィンは出てきた食事を頂こうとして、ふっと気がついた。
出てきた食事は一人分しかない。
そしてチャイカとネイ、それにボニートはフィンを取り囲むようにして立っている。
《一体何で……》
フィンはそう尋ねようとして気がついた。
当然だった。彼女達は給仕に徹しようとしているのだ。
だが城の会食とかならともかく、自宅でこれでは肩が凝ってしまう。しかもネイとボニートを見ると間違いなく空腹でよだれを垂らしそうだ。
だがテーブル上には彼らの分の食器は置かれていない。今から替えさせても余計手間がかかるだろうし、せっかくの食事も冷めてしまう。
そこでフィンはチャイカに尋ねた。
「君たちの食事は?」
「厨房の方にございます」
フィンはうなずくとネイとボニートに向かって言った。
「じゃあ、おまえら、そっちで食べてていいよ。チャイカさんは悪いけど、今日は頼むな」
それを聞いてチャイカが不思議そうな顔をする。
「はい? 今日はと申しますと? 明日以降いかが為されますか?」
「明日からはみんなで食べることにしよう」
「ええ?」
「真ん中にどんと盛っておいて、めいめいが取って食べたら気を遣わなくていいだろ?」
フィンの実家では特に山荘に行ったときなどはいつもそんな感じだった。
「ええ? そんな、ご主人様と同じ食卓ででございますか?」
「うちはそういうとこ気にしないから。それに僕の母さんも侍女出身でね」
「はあ……ご主人様がそうおっしゃられるのでしたら……」
微妙に納得のいかない顔でチャイカがうなずく。
「じゃあ、ほら、行け。ボニート、ネイ」
「はーい!」
二人は大喜びで厨房の方に消えていった。チャイカは少し首をかしげながらその後ろ姿を見ていたが、すぐにまたフィンの後ろに控えた。
フィンは目の前の食事に手を付けた。
《これはなかなかだぞ?》
そう思ってフィンは振り返った。
「味付けは君が?」
「はい。お口に合いませんでしたでしょうか?」
「いや、とっても美味しいからさ」
「お褒め頂き、まことに恐悦至極でございます」
彼女の言い回しがいちいち大げさなのは、もうちょっと何とかならないものだろうか?
だがまあ、そのあたりはおいおい直してもらうことにして、ともかくフィンは予想外に素晴らしいディナーにありつけて、何かひどく幸せな気分になっていた。
《これならこっちは彼女に任せてて心配ないかな?》
考えたらフィンがこのような館の主になったというのはこれが初めてだった。
だから家屋敷をもらえると聞いて嬉しかった反面、一体どう管理したらいいのか不安でもあったのだ。
《フォレスに戻ったらアウラとこんな生活になるのかな……》
そのことを考えてフィンは再び暗い気持ちになる。
《いや、もう無理かも……》
これが当初の予定通りだったらそうだっただろうが、今のフィンの立場はほとんど裏切り者である。レイモンの野望が挫かれてフォレスに戻ったとしても、もう彼の居場所などないのではないだろうか?
どちらにしてもプリムスなんかと馴れ合ってしまった以上、少なくともアウラだけは許してくれそうもないし……
「はあ……」
フィンは思わず声に出してため息をついていた。
「あの、何か至らぬ所がございましたでしょうか?」
心配そうな顔でチャイカがのぞき込んでいる。
フィンは慌てて手を振った。
「いや、そういうわけじゃなくて。仕事のことでね」
チャイカは明らかにほっとしたといった表情でフィンを見つめた。
「お疲れですか? でしたらお休みなさいますか? お風呂も沸かしておりますが?」
何だか至れり尽くせりだ。
「ああ、それなら後で入らせてもらおう……それにしてもチャイカさん、君、すごいね」
フィンは思わず彼女を褒めていた。
「え?」
「ここの片付け、みんな君が? 先週見たときはお化けが出そうだったんだが」
それを聞いてチャイカはにっこりと微笑んだ。
「はい。もちろん力仕事はファーベル様方にやって頂きましたが、飾り付け等はやらせて頂きました」
「カーテンとかもみんな君が?」
「はい。いかがでございましたでしょうか?」
「うん。とってもいいセンスだと思うよ。住み心地が良さそうだ」
「過分なお言葉、痛み入ってございます」
そういってチャイカはまた跪こうとする。
「ちょっと、もういちいちそんなに大げさにしなくていいから」
「え? でも……」
「君ももう家族みたいなものなんだから、もっとこう普通にしてていいから」
それを聞いてチャイカの目が見開かれた。
「それでは……あの……」
彼女の頬がぴくぴく震えている。
「ん?」
「ル・ウーダ様が、私めのマスターになって頂けると思ってよろしいのでしょうか?」
「マスター?」
ぽかんとして訊き返すフィンにチャイカは言った。
「本当のご主人様のことでございます」
「は? 本当とか本当でないとか、そんなのがあるのか?」
「はい。チャイカは本当のご主人様には端女として一生お仕え申し上げる所存なのでございます」
そういって彼女はいきなり土下座をした。
《おいおい!》
一生だの何だの、本当にいちいち大げさな娘なのだが―――命を助けられて感謝しているのだろうか?
フィンはびっくりして彼女の側にしゃがむと、その肩に手を触れた。
「あうっ」
途端にチャイカが悶えて身をひいた。
「え?」
慌てるフィンにチャイカはまた平伏して答える。
「いえ、何でもございません。ちょっと打たれた所が痛んだだけでございます」
「あ、ごめん……」
それを聞いてフィンは思い出した。
彼女もクーレイオン古城のスタッフだった関係で、一応処罰を受けていたのだ。
とはいっても様々な証言から彼女は古城の別館の管理をしており、本館の地下には直接関与していなかったこと、そして彼女自身がかつての“被害者”だったことなどを考慮した結果、鞭打ち二回という非常に軽い罰で済んでいたという。
だが刑罰としての鞭打ちはあそこで見たような生やさしいものではない。ごつい刑吏が太い棒のような鞭で叩くのだ。二回といっても生半可な痛みではなかったろう。
《そうか……彼女のこれまでって、そういうことだったんだな?》
彼女は今までずっと奴隷にされていたのだ。
だから他人に対してそういった接し方しかできないのかもしれない。
《だとしたら……》
フィンは彼女の傷に障らないようにそっと腕を掴む。
「ともかく顔を上げて」
「はい」
チャイカがフィンを真っ直ぐに見上げる。その眼差しを見てフィンは一瞬どきっとする。
フィンは思わず目をそらし、それから再び彼女の顔を見つめると言った。
「えーっとね、もう君は自由なんだ。主人とか奴隷とかそういう関係じゃもうないんだ。僕が君を助けたのは、それがあそこでは当然のことだったからだ。だから君はね、もっと自由に生きていいんだよ」
それを聞いてチャイカの目に恐怖の光が走る。
「あの……私がいるとお邪魔なのでしょうか?」
なんでだよ?
フィンは慌ててフォローする。
「いや、そういうわけじゃなくて。一生端女として仕えるとか、そういったことではもうないんだ」
チャイカは分からないといった表情でフィンを見つめる。それから悲しそうに言った。
「それでは、その、マスターにはなって頂けないということなのでしょうか?」
「いや、君が世話してくれるのは嬉しいんだよ。これからもずっと家の中のことをしてもらいたいんだけど、それってマスターとかにならないとだめなのか?」
「いえ、私めは現在はアルクス殿下の端女でございますれば、殿下よりご主人様のお世話を何でもするようにと申し遣っております。ですので今後もかように家事などを行うことに問題はございませんが……でももし殿下よりのお召し等があれば、そちらを優先致さねばなりません。そう致しますとご主人様のご要望に添えないこともございましょう。それ故アルクス様は、もしル・ウーダ様よりのお申し出があれば、私めをあなた様にお譲りしても良いとおっしゃいました」
要するになんだ? 彼女は今アルクスの管理下にあるが、そのせいでフィンの世話を百パーセントできないかもしれないから、と言っているのか? そしてフィンから頼めば彼女を譲ってくれると、そういうことなのか?
そういうことならそのマスターとやらになってやればいいのか?
だがそう思ってフィンは躊躇した。
何か変だろ? それって―――物じゃないんだし譲るとか譲らないとか……
《それに……》
よく分からないが、何か彼女のマスターになるということは、一生面倒を見てやるというのと同義っぽく聞こえるのだが……
しかしフィンは一生ここに住む予定はまったくなかった。すべきことが終わったらフォレスに帰るのだ。
そのとき彼女をどうするのだ?
フォレスに連れて帰る? それって色々問題がありそうなのだが―――じゃあ誰かに譲ればいいのか? でもそうなれば当然うんと信頼できる人に預けなければならないわけで……
それに場合によったらここからこっそり逃げ出すような可能性も少なからずあるのだ。そんなときに余計なお荷物は少なければ少ないに超したことはない。
だが既にボニートとネイという大荷物が存在しているわけで、ここで彼女まで抱え込んでしまったら……
《それなら王宮から派遣してもらってるって形の方がいいかな?》
その方が身軽に動けそうだし―――いずれにしても早計はできない。
《なんでメイド一人雇うのにこんな面倒な……まったく……》
そう思いながらフィンは彼女に尋ねた。
「えっと、その、アルクス殿下からのお召しってそんなに多いのか?」
王宮には侍女なんて腐るほどいるみたいだが……
それを聞いてチャイカは首を振った。
「いえ、そういうわけではございませんが……ほんの時々お召しがかかるだけで……」
「なら別に殿下に呼ばれた時だけそっちに行ってもらって構わないよ。それ以外の時はこの屋敷の管理をしててくれれば。それに支障が出るほどお召しが多くなったら考えよう」
チャイカはしばらく考え込んだが、顔を上げると恐る恐るといった感じで尋ねる。
「あの、それでは私めがご主人様のお側にいても構わないのでしょうか?」
「もちろんだよ」
「ありがとうございます」
チャイカは感極まった様子でまた土下座をする。
「いや、だから一々土下座しなくていいから!」
「あ、はい。申し訳ございません」
そう言ってチャイカは土下座した。
そんな彼女を見て少々呆れながらフィンは思った。
《多分何か想像も付かない過去があるんだろうけど……》
彼女はあの古城で外界と全く途絶された生活をしていたのだ。言動のピントが多少ずれていても仕方ないのかもしれない。
《そういった物なら直していけるだろうし……》
それに彼女のメイドとしての能力が非常に高いことはほぼ間違いない。
ともかく彼女がいれば家のことは心配しなくていいということだ。
それにあのボニートを一瞬で支配下に置いてしまうなど―――そういえば彼女さっき気になることを言ってたな?
そこでフィンは尋ねた。
「ああ、それと一つ聞きたかったんだけど」
「なんでございましょうか?」
「ボニートがいつも吹聴してることを、君、あり得ないって言ったよな。どうしてそう思ったんだ?」
こちらに来てからというもの、フィンは稚児好きという評判が立ってしまっていた。それは主にボニートが事あるごとにフィンの愛人の真似をしてくれたせいだが―――だがあの夜の誓いを守るのには便利なところもあるし、最近は少々放置気味だったのだ。
それを彼女はきっぱりとあり得ないとか、どうして思ったのだろうか?
チャイカはにっこり笑ってうなずいた。
「ああ、それでしたらクーレイオンでご主人様に助けて頂きまして、その後地階に同行致しました際に、目の前にはトルージャとスヴェーリアの両方が吊されておりましたのに、ご主人様はスヴェーリアの尻ばかりご覧になっておられました故……」
「あ、あはははは!」
確かにあのとき目の前に男と女が両方逆さに吊されていたが―――彼女は観察力も鋭いらしい。
《まあこれであいつが大人しくなってくれるのならOKか?》
そのときフィンはそんなピント外れなことを考えていた。
その部屋は薄暗く、甘い龍涎香の香りが立ちこめていた。
中央のベッドの上には若い娘が二人、あられもない姿で横たわっている。
「いいよ。入って来なよ」
その間に座っていたアルクスが扉の方に声をかけた。
入ってきたのはチャイカだった。
「どうだったんだ? マスターになってもらえた?」
「いいえ、だめでございました」
「ええ? どういうこと?」
「それが私めにもよく分からないのですが……」
驚くアルクスにチャイカも首をかしげる。
「へえ。君が頼んでだめだったんだ……変な奴だな。もしかして本当にあっちのほうだったとか?」
「いえ、それはございません。あのオカマには白状させてございます」
むっとした表情で睨むチャイカを見てアルクスはクスッと笑った。
「へえ……じゃあやっぱり気づいてないとか? だったら……いいっか。一緒にいるうちに気が変わるかもしれないしね」
「そうでございましょうか?」
「それは君次第なんじゃない?」
「はい……」
「じゃあ頑張ってごらん。時々どうなったか教えるんだよ」
「承知いたしましたが……それで今日は如何致しましょうか?」
「こっちは間に合ってるから。フィン君の所に帰っておやり」
「承知いたしました」
チャイカは出て行った。心なしか足取りが軽そうに見える。
アルクスはしばらく考え込んだ。
「何でかなあ……フォレスの彼女ってそんなに嫉妬深いのかなあ?」
アルクスはベッドに倒れ込むとしばらくまた天井を眺めて考え込む。
「ま、いっか……」
そうつぶやいてまた脇に横たわる娘をまさぐり始めた。