第2章 オアシスの落日
頭ががんがんする。
《ぐっぞ~……飲み過ぎたか?》
ティアはベッドの中で毛布に潜ったまま、目を閉じて虚ろに思った。
昨夜はせっかく楽しい夜会だったというのに、その後勝手に一人で落ち込んで寝酒をかっ食らっていたような気がするが……
そのせいか、何か気分がよろしくない。熱っぽいようだ。汗も出ているし―――風邪でも引いたのだろうか?
だったら今日はもう少し寝ていることにしよう……
そう思ってティアは寝返りを打ったが……
「ん?」
何かベッドの感触がいつもと違っている。
《あれ? また床で寝ちゃった?》
「床ぁ? お前いつもそんなところで寝てたのかよ?」
「なによ。ジアーナ屋敷って絨毯がどこもふかふかだから、どこだって寝られるのよっ!」
そういう問題かよ?
「でも一応お前だって“建前上”は貴婦人なわけで……」
「あによ? どうせあたしなんてそんな柄じゃないって言うんでしょ。そうよ。あんたが綺麗なメイド奴隷さんといちゃいちゃしてる間、あたしは寂しく床の上で寝てたのよっ!」
「………………」
迂闊なことを言うと全て同じブーメランが帰ってきそうだ。
フィンは今後こいつが何を言っても突っ込むのは我慢するしかないと思った。
とても辛い苦行になりそうだが……
ティアは目を閉じたまま頬でベッドの感触を確かめる。絨毯の感覚とは異なっている。すべすべしたシーツのような感触だが―――彼女が使っているベッドとは何か違う。こちらの方が柔らかすぎて体が沈み込んでいるような……
「ん~……」
どうするべきか? ここで目を開けてしまったら負けのような気もするが―――多分どこかの長椅子かクッションの上に違いない。酔っぱらって寝てしまっているのをルウさんが見つけて毛布をかけてくれたのだ。
《こういうのってもっと控えるべきよね……やっぱ……》
そのとき、どこかから若い女性の歌声が聞こえてきた。
聞いたことのない歌だ。綺麗な声だが―――何か少々音程が上ずっているようだが?
《ん~…… 誰かしら?》
今日、客が来る予定があっただろうか?
そんなこといちいち覚えていないからルウさんに確認しないと―――でもそうだとしたら……
「うわっ!」
ティアは慌てて飛び起きた。
さすがに来客に対して長椅子だかどこかで寝とぼけている姿を見せるわけには―――って?
彼女は周囲を見回した。
次いで顔を両手で何度もしっかりこすってから、もう一度じっくりと周囲を見回す。
それからおもむろに彼女は考えた。
《ここ……どこだろう?》
少なくとも水晶宮の中ではないことは確かだ。
本邸にもこんな場所はない。
まずある意味予想通り、彼女が寝ていたのは床に敷かれた細長いマットレスの上だった。すべすべした表面で中の綿が柔らかいため、体が沈み込んでいる。
部屋の床には毛足の短い絨毯が敷かれていたが、何よりもびっくりしたのはそれが極彩色の幾何学模様になっていることだ。
ジアーナ屋敷にはそんな絨毯を敷いた部屋はなかったし、都でもこんな趣味の悪い絨毯が流行っていることはない。
部屋は水晶宮より遙かに狭く、五メートル四方くらいのサイズで、壁面は真っ白な漆喰のようなもので塗られている。都ではおおむね木造の屋敷が多い。田舎に行けば土壁造りの家もあるのだがこんなに白く塗るようなことはない。
また壁の一面には小さな窓があってそこから真っ青な空が見えたが、正直その窓は小さすぎだ。窓というより壁の穴ではないか?
―――要するにティアは今までこんな造りの部屋は見たことがなかった。
《どこよ? ここ……それに、何かすごく暑いけど?》
汗をかいていたので彼女は最初熱を出したのかと思っていたのだが、どうやら寝ていた部屋がやたら暑かったからのようだ。
そんなところで毛布に潜っていれば熱っぽくもなるだろうが――― 一体どうしたというのだ? この真夏にストーブでも焚いているというのか?
そう思って彼女は自分の姿を見た。
何か見たこともない寝間着のような物を着ている。さらっとした肌触りで着心地はよいが―――それはともかく……
「ん~……?」
何なんだ? これは……
そのときだった。後方でがさっと音がした。
ティアが振り返るとそこには部屋の入り口があって、ドアは付いておらずただカーテンのような物が下がっているが、その隙間から誰かが覗いているのにに気がついた。
ティアとその何者かの目が合う。
「ひえっ!」
その者は泡を食ったように姿を消した。
その声から覗いていたのは若い女だということが分かった。さっきの歌声の主かもしれない。
「えっと、誰?」
ティアは入り口の方に声をかける。
しばらくの沈黙。
それから何かずりずりと這うような音がして―――今の娘が四つん這いになって入ってきて床に額を擦りつけると体を震わせた。
「あの……あの……」
娘はそれ以上の言葉が出てこないようだ。
一体何がどうしたというのだ?
「えっと、ごめんなさい? ちょっと聞きたいんだけど……」
ティアはごく普通に尋ねたつもりだったのだが……
「ひぇぇぇぇ!」
娘はそのままずりずりっと数歩下がって、ちらっとティアの顔を見るとまたひれ伏してしまった。
なんか瞳が涙でうるうるしているが、結構かわいい娘だ。
年齢はティアよりもちょっと下だろうか? 真っ黒なつやつやした髪の片側を綺麗な飾り紐で縛っていて、身長はほぼ同じくらいだろうが、だが胸は……
《やたっ! ちょっと勝った!》
じゃなくって!
「えーっと……」
娘は伏したまま体を震わせている。
「あの……」
相変わらず伏したまま体を震わせている。
このままでは埒があかないので、ティアは立ち上がると娘に歩み寄った。
その途端にあたりでがたがたっという音がした。
「あん?」
ティアは驚いて周囲を見回すが、特に変わったことはない。
「あの、本当に申し訳ありませんっ!」
娘がやっとの事で意味のある台詞を喋ったが―――何だか随分おかしなイントネーションだ。
「いえ、別にあなたをどうこうしようってんじゃなくて、その、ちょっとここがどこか知りたいんだけど」
娘は涙目でティアを見上げると、再びひれ伏しながら答えた。
「オアシスでございます」
「オアシス?」
なんだ? そこは? 聞いたことがない―――というか、確か、オアシスっていうのは砂漠って所にある所ではないだろうか?
そういえば確か聞いたことがある。
中原の西にマグナバリエという大山脈があるが、その向こうには砂漠という砂だらけの土地が広がっていると……
《いや、そうだって。お前、地理の時間寝てただだろ?》
フィンはそういう突っ込みをしたくてたまらなくなったが、そんなことを言ったら、あたしが砂漠で砂まみれの間にあんたは綺麗なメイド奴隷さんと云々などと言われることが目に見えていたので黙っておいたのだが……
「あん? なによ! その目は! どうせ学校で寝てたからとか思ってるんでしょ! いいわよねあんたは! あたしがさらわれて明日をも知れぬ運命って時に、綺麗なメイド奴隷さんといちゃいちゃできて!」
―――こいつは本当に時々読心ができるのではないかと思うことがある。
だが間違いなくこいつにそんな能力はないわけで……
フィンはため息をつくことしかできなかった。
そのときだ。
「あのお二人って本当に仲良かったんですね」
メイの声だ。脇にいたパミーナに話しかけている言葉が漏れ聞こえてきたのだが……
「あ、なに? それって聞き捨てならないわねっ!」
十分小声だったが、悪口を聞きとがめる能力だけは魔法使い級のエルセティアの耳からは逃れることはできなかった―――というか、悪口でも何でもないような気がするのだが……
「え~? いや、そんなつもりじゃあ……」
「いーくーらメイちゃんでも言っていいことと悪いことが……」
だから別に、言っていいことだと思うのだが……
「すみませ~ん。でも、これ、お夜食持ってきたんですけど、どうしましょう?」
「え? 本当? あ、これ、この間作ってくれたのね? うわ! ありがとっ!」
メイはお茶と夜食を用意した盆を持ってきたのだ。
夜食とはパンの耳を揚げて砂糖をまぶしたような物で、それを見た途端にエルセティアの態度が変わるが―――それはともかくこりゃ高カロリーだぞ?
「おい。お前ダイエット中じゃなかったのか?」
フィンは思わず突っ込んでいたが……
「なによ? あたしに食べずに死ねと言うのかしら? いいわね。あたしが飢えて死にそうなときに、あんたは綺麗なメイド奴隷さんの胸の中で死ねて!」
もう段々訳が分からないのだが。
「分かった分かった。でどうなったんだよ? 話は」
「ああ、それでね……」
エルセティアは話し始めた。
その背後でメイとパミーナが微妙な笑みを浮かべて手を振った。
《どうやら彼女達も……》
こいつが食い物で釣ればどうにでもなるということは、既に見透かされてるようだった。
ともかく一つ明らかなのは、どうやらここは都ではないということだ。
《そう言えば……》
ティアの脳裏に昨夜のことが思い出されてきた。
確か風呂上がりにテラスで涼んでいたら、何か星が飛んできて―――そこから降りてきた奴に……
《さらわれたっていうの?》
再度ティアは周囲を見回した。その考えはほぼ間違いないような気がするが……
「えっと、で、そのオアシスっていうのはどこにあるのよ?」
「はい?」
娘はとても困った顔をした。
「どこと言いましても……」
どうやらこの子も地理の時間は寝ていたのだろう。
「えーっと、砂漠の中のオアシス?」
「はい」
「もちろん都じゃないのよね?」
その単語を聞いた瞬間、娘はまた真っ青になった。
「はい。はい……その……」
一体何を怯えているのだろうか?
ともかく娘がびくびく怯えているばかりで埒があかないので、ティアは話題を変えてみた。
「あなた、名前は?」
「アラーニャ……です」
「あら? 何かよく分からないけどいい響きの名前ね。略したらニャアちゃんでいいのかしら?」
「………………」
やっぱりあまり埒があかない。
「えっとだからね? あたしが聞きたいのは、あたしがどうしてこんな所にいるかってことで……」
それを聞くとまたアラーニャはべたっと床にひれ伏してぶるぶる震え始めた。
「あの、本当に申し訳ございません。でも、でも、その、イルド様は決してそんなに悪いお方ではなく、その、ちょっと、ちょっとだけ、その、やるとこう決めたらやるお方と申しますか……」
「えっと……?」
「ですから、その、お許しください。オアシスの者はみんな知らないのでございます。お怒りとは存じますが、ですのでできればイルド様も……いえ、このようなことを申し上げられる身ではないのですが……」
「えっと……??」
「たしかにその、イルド様は、その、少々あれなのですが、でも私にはお優しくって……じゃなくて、ですから、でもこのままでは吊されてしまいます。いえ、その……」
「えっと……???」
「オアシスの者もあなたに害為そうなどとする者はおりません。ですから焼き尽くすのはどうかご勘弁を……」
一体何の話だ?
「えっと、ちょっといい?」
「はいっ!」
アラーニャはちょっと跳び上がった。
「あの、もうちょっと分かるように言ってもらえないかしら? 焼き尽くすってなにを?」
「このようなご無礼を致しました以上、お怒りなのはごもっともだと……」
「いや、確かにそりゃちょっとは怒ってるというか、びっくりしてるんだけど、まずこっちの質問に答えてもらえないと、本当に怒るわよ?」
「ひぃぃぃ!」
いや、この怯えようは半端じゃない。ティアはちょっとおもしろくなってきた。
「で、誰がどこを焼き尽くすって?」
「ですから、その、このオアシスの町を、その、ミュージアーナ様が……」
???? 何の話じゃ?
ティアがぽかんとしてアラーニャを見つめたので、アラーニャはまたすくみ上がった。
「えっと、何でミュージアーナ様が?」
「はい?」
二人はしばらく見つめ合った。
それからティアの頭の中に一つの可能性が浮かび上がってきた。
「えっと、あなた、その、あたしを誰だと思ってる?」
「はい? ミュージアーナ様では?」
………………
…………
……
ぶはははははははは!
ティアはひっくり返って笑い始めた。その姿をアラーニャが怯えた顔で見つめるが……
ひとしきり笑い終えたところでティアは言った。
「んなわけないでしょ!」
「は?」
「あたしがミュージアーナ様のわけがないでしょ?」
「でも……」
「確かにあたしはジアーナ屋敷にいたけど、大体ミュージアーナ様なんて何十年も前に亡くなってるわよ!」
「ええっ!」
アラーニャは驚愕したが、そのとき入り口の向こうでがたっと音がして、別な声が上がった。
「何だって?」
ティアとアラーニャが入り口の方を見ると、そこには腰を抜かしたようにぺたっと床に座り込んでいる若い男の姿が見えた。結構端正な顔立ちで、見たことのない変わった服だが、着こなしはきちんとしているようだ。
それはそうとこいつは盗み聞きしていたのか?
その姿を見てアラーニャが叫んだ。
「キール様!」
ティアはその男を睨み付ける。
「あんた? あたしをさらってきたのは?」
「あの、キール様は……」
「ん?」
男はふらふらと部屋の中に入ってくると、いきなりティアに尋ねた。
「あの、本当なのか?」
「は? 何が?」
「ミュージアーナ様がもうこの世にはおられないということだが……」
「当たり前じゃない!」
「じゃあ……あんたは誰だ?」
ティアはぶち切れた。
「何寝ぼけたこと言ってんのよ! この人さらいが‼ そういうときは自分から名乗るのが筋でしょ?」
何か違う気もするが、男は勢いに呑まれて答えた。
「わあああ、すまん、すまん。俺はキールだ。それで君は?」
「あたしはエルセティア」
「……ああ。あの、よろしく」
「よろしくじゃないでしょ! どうしてこんな所にさらってきたりしたのよ!」
「いや、それが……」
キールが口ごもってしまったので、アラーニャが言った。
「あの、キール様は違ってて……」
「違う? じゃあ誰が?」
「あの、だから、イルド様が……」
「じゃあそのイルド様とやらを連れてきなさいよ!」
「いや、ちょっと今は……」
「今は何よ?」
「ちょっとその……」
「ちょっとその、何よ? まさか逃げてるとか? 自分がさらってきた娘が目覚めたら怖くって近寄れないとか? どういうヘタレよっ!」
ティアの剣幕に押されてキールはふらふらと後ずさると、
「分かった。待っててくれ」
そう言って姿を消した。
ティアはしばらく呆然としていた。
一体何なんだ?
要するになんだ? そのイルドとかいう奴はティアのことをミュージアーナ姫と間違えて拉致してきたらしいのだが―――いくら何でも馬鹿馬鹿しすぎてそんな話、誰も信じてくれないのではないだろうか?
ティアは彼女の横ですくみ上がっているアラーニャに尋ねた。
「えっと……」
「はいっ!」
「本当にそのイルドって奴が、あたしをミュージアーナ姫と間違えてさらってきたっていうの?」
アラーニャは黙ってうなずいた。
………………
…………
ティアは大きくため息をついた。
「はあ? いくら何でも非常識にも程があるでしょうがっ!」
「すみませんっ!」
「いや、あなたに言ってるんじゃないけど、誰も知らなかったの?」
「すみません。でも都に行った者はこの何十年もおりませんで……」
何十年も? 誰も都に行ったことないだと?
「じゃあ……何? ここじゃまだ、ミュージアーナ様は現役だって思われてたわけ?」
「はい……」
ティアは絶句した。
一体どういう田舎なのだ? ここは?
それはともかく……
「で、またどうしてミュージアーナ様をさらおうなんて?」
「それがその……姫様ならば呪いを解いて頂けるのではと……」
「は? 呪い?」
ミュージアーナ姫は伝説の舞姫ではあるが、呪いと何の関係があるのだ?
「ミュージアーナ様は神々とも渡り合えるほどの魔法使いだったのでしょう? いつか天の神々がこの世界を滅ぼそうとお考えになった際に、取りなしの舞を踊られたとか……」
「はあ?」
そんな話あっただろうか? 残月の舞のエピソードが何か他の話と混じってないか?
「やっぱり違うんですか?」
「うん。都じゃ聞いたことない。そんな話」
「ああああ!」
アラーニャは顔を覆ってまた泣き伏してしまった。
要するになんだ?
そのイルドという奴がそういう伝説を信じ込んで、何かの呪いを解くためにミュージアーナ姫をさらいに行って、間違えてティアを連れてきてしまったと?
というか、その伝説が正しかったとしても、姫が呪いを解けることにはつながらない気がするのだが……
ますます訳が分からないが―――ともかく一つ明らかなのは、ここで目を真っ赤にしている娘は被害者らしいということだった。
すなわち彼女をいじめるのは可哀想なのだということで―――こういう場合は……
「とにかくなんか食べるものある? おなか空いちゃったんだけど」
「あ、はいっ!」
アラーニャは飛び上がるようにして姿を消した。
《あはははは……》
ティアは何だかひどく脱力した。
《一体どうしてくれよう?》
まずはそのイルドとか言う糞馬鹿をどう罵り倒してやるかだが……
ティアが心の中で思いつく限りの罵倒語を並べていると、アラーニャが食べ物を乗せた盆を持って戻ってきた。
「お口に合いますかどうか……」
それもまたティアが今まで見たこともない物ばかりだった。
変わった香りのする茶色っぽいどろどろしたシチューみたいな物と、何かの固まり、としか言いようのない揚げ物、か? それにこの平べったいのは―――パンだろうか? その横の果物は、メロンみたいに見えるが中が真っ赤だし……
とはいえお腹が空いているのは確かだし、ティアはそのシチューのような物を一口含んだ。
ぴりっとしていてつんとしたスパイスの香りが鼻を突き抜けるが……
「あら、おいしいわ」
「本当ですか?」
見知らぬ料理をぱくぱく食べ始めたティアを見て、アラーニャの顔に初めて笑みがともった。
こうしてみるとかなり可愛い娘ではないか?
お腹がいっぱいになって、しかもデザートの赤いメロンみたいな物がやたら気に入ったせいもあって、ティアはとてもいい気分になった。
《うーん。ここも悪くないかもね》
そんなところは自分でもちょっと幸せな性格だとは思うが―――それはそうと、もう少し話を聞いておかなければ。
食後のお茶を入れてくれているアラーニャにティアは尋ねた。
「えっとそれで、このことって他の人は知ってるの?」
「このこと?」
アラーニャの顔がまた曇る。
「あたしが都からさらわれてきてること」
アラーニャは慌てて首を振る。
「そんなこと、知られたら吊されてしまいます!」
「アラーニャちゃんまで?」
アラーニャはびくっと体をすくませてから、再び泣き顔でこくっとうなずいた。
《なんつうばちあたりな奴だ! そのイルドって奴は……こんな子まで巻き込んで!》
ティアはため息をついた。
「でもほら、あたしがいいって言ったならいいんじゃない?」
アラーニャは驚いてティアを見上げるが……すぐに顔を伏せて答えた。
「だめなんです。スライダを勝手に使ったことが知れたら……」
「すらいだ?」
「あなた様をお連れした乗り物ですが……」
「ああ、もしかして昨夜の飛んできた星?」
あれはスライダといったのか?
そのティアの言葉にアラーニャが驚いた。
「星? って、ご存じないのですか?」
「だって都にもあんなのなかったし……」
「ええええ?」
アラーニャはまた驚愕してへたりこんだ。
「ちょっとちょっと」
ティアが手を差しのばすとアラーニャは慌てて跳ね起きた。この娘のオーバーアクションはちょっと弄り甲斐があるのだが……
「スライダなんて初めて見たけど、じゃあ、こっちにはたくさんあるの?」
アラーニャは首を振った。
「いいえ。一台しかありません。大切な儀式の時に族長様がお乗りになるものなのです」
「って……そんな大切な物を勝手に使ったの? そのイルドって奴」
アラーニャはこくっとうなずいた。
そりゃ叱られるというか、厳罰を下されても仕方ないような……
何かもう、この娘が可哀想の一言なのだが……
二人の間にまた重い沈黙が訪れる。
ティアは変わった味のするお茶のカップを取り上げて一口すする。
「それにしても遅いわねえ。イルドとかいう奴、まだ逃げ回ってるのかしらね?」
彼女がそう言ったときだった。
「あんだと?」
彼女の背後から声がする。ティアは思わずお茶を吹きそうになった。
振り返ると―――あの小さな窓から男が首を突き出している。
さっきのキールというのに似ているが―――髪はもじゃもじゃでもう少しバカそうな顔つきだ。
《こいつだ!》
ティアは昨夜のことを思い出した。
あのスライダとやらから出てきた奴―――確かにこいつだ!
「どっから覗いてんのよ!」
「どこだっていいだろ。俺の家だ」
何という言いぐさ!
「あっそ! 正面から入ることもできないヘタレだったわけね?」
「あんだと? 今行こうとしてるところだっ!」
男は清々しいほどにあっさりと挑発に乗ると、すぐさま部屋の入り口に現れた。
「ほら! 来てやったぜ!」
《何なのよ? このどアホは?》
都にも色々とダメな男共は多かったが、今目の前にいる男はその最低ラインを遙か下向きに突破していそうだ。
さっきのキールという男と顔立ちが似ているということは、兄弟か何かなのだろう。
だが彼と同じような服をきているのに、あちらこちらから裾がはみ出してぶらぶらしているし、髪型もぐちゃぐちゃだ。
なんというか、粗野で頭が悪そうな雰囲気を全身からオーラのように発散させている。
ティアは腕組みして立ち上がった。
「んで?」
男の方が背が高いから下から見上げる形になるが―――ともかくここでがつんと一発言ってやらなきゃ気が済まない。
「何だよ?」
男は横を向いて答えた。
「何も言うことはないの?」
「一体何をだ?」
「あたしを勝手にこんな所につれてきたことよっ!」
男は明後日の方向を向いたまま横目でティアを見ながら言った。
「ああ、まあ、そりゃ悪かったな」
「そんな謝り方が……あるか!」
ティアはイルドの臑を思いっきり蹴っ飛ばした。
「いてっ! 何しやがる! このアマは!」
うわ! しまった。ついいつもの調子で……
ティアは慌てて手でガードしながら身を引いたが、男はティアに殴りかかってきたりはしなかった。
それから今度はまじまじとティアを見つめると言った。
「あはは。元気のいい女だなあ」
「やかましいわ!」
ティアは再びイルドを蹴飛ばそうとしたが、今度は避けられてしまった。
「逃げるか! 卑怯者!」
「だから謝ってるだろ!」
「そんな謝り方があるかっ!」
「じゃあどう謝まりゃいいんだよ?」
「知らなきゃ教えてやるわ! まずそこに跪くのよ!」
「やだね」
「なんですって?」
ティアがまた蹴飛ばそうとするのをイルドが避ける。ティアは滅茶苦茶腹が立ったので、思わず手近な椅子を振り上げていた。
「このガキ! いっぺん死ぬか!」
「うわあああ、危ない。やめろって!」
「じゃあ謝りなさいよ!」
「わかった。わかったからそれを下ろせ」
それからイルドは嫌そうに座り込んであぐらをかくと、両手をついて謝った。
「すまん」
それだけかよ‼―――などと言いたいことは多々あったが、これ以上騒いでも疲れそうなだけなのでティアは渋々怒りを収めて振り上げた椅子を下ろした。
彼女はそれに座りこんで足を組むと、上から目線でイルドを見下ろした。
「で、どうしてくれるのよ? これから?」
「どうするって、どういうことだ?」
「だからこのままじゃあんた達吊されるんでしょ?」
「何でだ?」
何でだって……
「何でも何も、あんたの国は人をさらってきて何のお咎めも無しなわけ? おまけに儀式用のスライダとかを勝手に使ったんでしょ?」
「そんなこと、お前が黙っててくれたら分かりゃしないさ」
バカか? こいつは?
「アホか! んなもん、どっからばれるか分からないでしょうが! それにこの子まで巻き込んでるんでしょ?」
そう言ってティアがアラーニャを指すと、イルドは彼女を睨み付けて言う。
「アラーニャ。お前も他人に言ったりしないよな?」
「脅迫してどうするかっ!」
ティアはイルドの頭を思いっきりはたく。
「いてっ! 乱暴な女だな」
「やかましい! バカかお前は? 大体あたしがここにいたらいずればれるでしょうがっ!」
「ああ、まあそうかもな」
………………
…………
ああ、まあそうかもなって……
「そしたらどうする気よ?」
「そんときはそんときだ」
………………
…………
ちょっと何なのよ? これって……
ティアは怒りと脱力に同時に捕らわれて、ただぷるぷる体を震わせることしかできなくなった。
それから彼女は大きく深呼吸するとイルドににじり寄った。
「あのねえ、いいこと? とっても簡単な解決法を教えてあげるわ」
「どんなんだ?」
「あたしを今すぐ都に戻せばいいのよ」
もちろんこれが最善の策に決まっているのだが―――イルドはぽかんとした顔でティアを見返した。
「どうやって?」
なに? まさか―――ティアは心臓が締め付けられたような気がした。
「どうやってって、スライダに乗せて連れてきたんでしょ? だったらそれ使えばいいじゃない」
「だってお前、一回でもやばいんだぞ? 二回使ったことがばれたら……」
ティアは再びイルドをはたき倒した。
「知るか! ボケ! 一回も二回も同じよ! 何か文句ある?」
「いや……分かった……でも……」
「でも何よ?」
「夜になってからでいいか? この時間に飛ばしたら目立ってしまう」
まあ、確かにそれはその通りだ。
「……分かったわよ。夜まで待ちましょう」
二人の横でアラーニャがはあっとため息をつくのが聞こえた。
ティアももう何だかぐったりした気分だ。
だがイルドは元気だった。
「ところでこの後はどうする?」
「この後?」
「晩まではまだ時間があるが、それまでここに籠もってるか?」
それは―――言われてみれば退屈そうだが……
でも外に出たら目立ってしまわないか?
そのときアラーニャが言った。
「私の服を着て出ますか?」
「あ、それいい考えかも……いいの?」
「ええ」
アラーニャがうなずいて、先導して歩き出す。
ティアは後についてアラーニャの居室に行った。
その建物は全体がコの字型になっていて、中庭は綺麗な花壇になっていた。そこにはティアが見たことのない花が咲き乱れている。建物の屋根は赤い瓦で葺いてあって、こうやって見ると小振りだけど結構可愛い家なんじゃないだろうか。
アラーニャの部屋も先ほどの部屋と同様の派手な絨毯が敷いてあって、片隅には同じような感じで細長いマットレスが敷いてある。どうやらこの国ではそうやって寝るのが普通らしい。
壁にはドライフラワーがいくつも掛かっていてふわっと甘い香りが漂っている。
アラーニャは片隅にある不思議な模様のついたチェストを開けると、中から服を何枚か取りだした。
「へえ。綺麗」
見慣れぬデザインだが結構かわいいかも……
幾何学的な刺繍の入った白いブラウスのような上衣に、こちらも刺繍の入ったぶかっとしたズボンのような下衣だ。
だが着てみると所々にスリットが入っていて結構涼しいし動きやすい。
「それからこれを」
アラーニャは頭巾のような物を取り出した。
「これかぶるの?」
「そうすれば顔は分かりませんし、日差しが防げます」
「ああ、そうよね」
顔丸出しでは多分まずいだろう。
準備が整って二人が家の入り口まで行くと、そこには既にイルドが馬を二頭用意して待っていた。
「ほう? 結構似合ってるぞ。こっちでも暮らせるんじゃないのか?」
そう言ってイルドはティアが馬に乗るのを助けようとしたが、
「やかましいわっ!」
ティアは男の手を振り払って用意されていた馬の一頭に一人でするっとよじ登った。
それを見てイルドが言った。
「ほう? 都のお嬢様は馬に乗るのも上手なんだな?」
「ははっ! 侮ってもらっちゃ困るわねっ! 自慢じゃないけど裸馬で走って、一回転して肩脱臼したことだってあるんだからねっ」
さすがにそれを聞くとアラーニャだけでなくイルドも目を丸くした。
《ふっ! 驚いたか!》
そう思うとちょっといい気分になる。
それはともかく、その日の午後は意外に楽しいひとときとなった。
ティアは元々乗馬が好きだった。
都にいた頃も機会があったらファラと一緒に遠乗りに出かけていたものだが、いま彼女が走っているのは初めて来た土地だ。見る物聞く物全てが目新しい。
ティアは都から離れたのはこれが初めてだったことを思い出した。
一番遠くに離れたときがもしかしたらあのハネムーンのときだったかもしれない―――あの頃から確かに遠くの土地には憧れていたのだが……
《もうちょっとましな来方だったら良かったのに……》
オアシスの国はティアの想像を絶する、もう完全な異国だった。
イルド達の家は町外れにあったらしく、家のすぐ外は野原で、白っぽい砂のような土の道をちょっと下ると少し急な坂道があって―――そこからオアシスの町並みが見えた。
建物は背が低くみんな白い漆喰塗りでできているが、屋根瓦の色は赤だけでなく青や緑もあるのでその見かけは意外にカラフルだ。
坂道を下ると町の中に入る。
すとんと長くて上で傘のようになっている並木の道を抜けるともう町の中央で、ひときわ大きな建物があったが―――大きいと言っても都の建物とは比較にならないが―――そこが族長の館だそうだ。
町中はほとんど人気は無かった。
《そりゃこの暑さじゃねえ……》
見上げると雲一つ無い真っ青な青空に、ぎらぎらと真夏の太陽が輝いている。
アラーニャが日差し避けに頭巾がいると言っていたが、無ければ話にならないレベルだ。
《これ兄貴だったら溶けちゃうかもね……》
ちょっと暑いとすぐぶつぶつ文句を言っていたあのヘタレ男とは違って、彼女はまだ暑さには強かったのだが、本質的に高原育ちなのだ。限度という物がある。日当たりの良いところの暑さは半端ではない。
《げ~っ! やっぱ死ぬかも……》
二人が町を抜けると道は林の中に入っていったが、すると急に涼しい風が吹き抜けた。
《あら? 結構気持ちいいじゃない?》
陽が遮られてさえいれば風があるし空気もからっとしているので存外過ごしやすいのだ。
うむ。これだったら何とかなるかもしれない。
―――そんなことを思っていると林が急に開けた。
「うわ~!」
「ここがオアシスだ」
「へえ、そうなんだ」
目の前には深いコバルトブルーの水面が広がっており、午後の太陽を反射して美しく輝いている。
周囲を林に囲まれたその湖は―――湖と言うには小さいような気がするが、池と言うにも大きいし―――あたりには誰もおらず、銀の湖のほとりをフロウと一緒に散策したときのことを思い出す。
「綺麗なところね」
「ああ。そうだろ」
「ここ、泳げるのかしら?」
「ああ。もちろん。泳ぐか? 俺が見ててやるから」
そう言うイルドの表情は……
「結構!」
「ええ? どうしてだよ?」
「今にもよだれを垂らしそうな顔で言ってんじゃないわよ!」
ティアは本当は心の底からそこで一泳ぎしたかったのだが、さすがにこんな男の前で気を許す訳にはいかない。
二人はそこで軽く一休みしてから、今度は町の西に向かった。
そこでは町が途切れたあたりにちょっとした野原が広がっていたが、それはすぐにまばらな草地になり、その先には砂の海が広がっている。
「うわあ……広い……」
ティアは生まれて初めて地平線という物を見た。
それまでは盆地育ちだから、これだけの距離をまっすぐ見渡せる土地があるということを知らなかった。
「ああ。そうだな」
だがイルドは無感動に先行する。ティアがその後に付いていくと、今度は町の南方に来た。
こちらも同様に砂の海が広がっていたが、ここでは少し離れたところに巨大な波のような砂丘がいくつも聳えている。
最後に二人が町の東に来ると砂丘が町のすぐ側にあった。
「あれ、上がれるの?」
「ん? 行けるが?」
「行ってみよ」
「別にいいが?」
そこで二人は砂丘に上った。
馬が砂に足を取られたために砂丘の頂に着いたときにはもう陽が傾いていた。
頂に着いたとき、ティアは思わず歓声を上げていた。
「なに? あれ、真っ赤なの、どうして?」
「は?」
ティアが西の空を指さして言うのを見て、イルドがぽかんとして答える。
「空が真っ赤じゃない」
「当たり前だろ? 夕方なんだから」
「こっちじゃそうなの?」
白銀の都は山国だったので、夕暮れ時には雲や山の端が赤くなったりはしたが、砂漠の地平線に日が沈むような光景は見ることができなかった。
「ああ。見てくか?」
「うん。うん」
二人は西の砂漠に日が落ちていくのを眺めた。
《あああ、何か来て良かったかも……》
こんな光景はジアーナ屋敷とルナ・プレーナ劇場を行き来するだけの生活では絶対見られなかっただろう。
そう思った途端急に、都での喪服に身を包んだ生活には戻りたくないような気がしてきた。
《だめよ!》
ティアは慌てて首を振る。都にはファラがいるではないか! 彼女を一人で置いておくことなんてできるわけがない!
でも……
《そうよ。また来ればいいんじゃない?》
ここは死ぬほど田舎だが綺麗なところだ。それに昼に食べた食事も結構変わっていたが美味しかったし。ファラだっていい気晴らしになるのではないだろうか?
それにスライダを使えば一晩で来られたわけで、確かに儀式用の大切な物なのだろうが、都の大皇とか大皇后を連れてくると言えばここの族長の人もOKしてくれるかもしれないし……
とすると―――もしかして今回のトラブルって結果的には結構ラッキーだったのでは?
などとにやにやしているティアを不思議そうな顔で見ながらイルドが言った。
「そろそろ帰るか?」
「うん」
まあ、こういうのは楽しんだ者勝ちなのだ。
こうして二人が家に戻ったときにはもうかなり暗くなっていた。
玄関では心配そうにアラーニャが待っていた。
「遅かったですね」
「こいつが日没を見たいと言うから見てたんだ」
「は? 日没をですか?」
「うん。すごく綺麗だったから……」
それを聞いてアラーニャが不思議そうな顔で尋ねる。
「あの、都では日が沈まないんですか?」
「んなことあるわけないでしょ!」
「すみません。すみません」
「いや、謝らなくてもいいから……ともかく晩ご飯ある?」
「はいっ! もちろんです!」
こうしてアラーニャの夕食を再び頂いた後には、ティアは全てが許せる気分になっていた。
その日の夜更けにティアはイルドと共にアラーニャに見送られて出立した。
二人は黙ったまま町並みの外周を回る道を通って、北西の町外れに開かれた広場に出た。広場の一角にはちょっとした小山が作られていて、その横腹には穴が開いていて大きな木の扉が閉められている。
「ここだ」
イルドは慣れた様子で鍵を外す。扉が開いた際にぎぃ~っという結構大きな音がしたが、人家からは離れているので多分聞こえることはないだろう。
二人は横穴に入っていった。中は真っ暗で入り口からの星明かりだけが頼りだが、奥が少し広くなっていて、黒っぽい何かが鎮座しているのが分かった。
「こっちだ」
イルドがティアの手を引く。ティアは黙って従った。
やがてガシャッという音がして黒い物体の横腹に入り口が開くと共に、中からまばゆい明かりが漏れた。
「わっ!」
「大丈夫だよ」
イルドは平気で乗り込んでいく。
ティアも恐る恐るその後に続いた。
明るさに目が慣れると中は細長い部屋になっていて、二人並んで座れる座席が両側に三つ、計六個付いている。上半分は屋根も窓も全部が透明になっている。
ティアがそれらをぽかんとして見ていると、イルドは機体の一番前にあるパネルに向かって何かごそごそし始めた。
ティアは手近な座席に座ってみた。
何か変わった座り心地だ。手触りも不思議だが、こういう座席をどこかで見たことがあるような……
《あ、銀の塔か……》
確か昔、あそこの魔法能力試験に行ったときの待合室の座席がこんな感じだっただろうか? 都の子供は十歳になるまでに試験を受ける決まりになっているが……
「ん? あ?」
そんなことを思い出していると、急にイルドが妙なうめき声を上げた。
「どうしたのよ」
「それが……」
イルドは彼がごそごそしていたパネルを指さした。
ティアはイルドの横からのぞき込んだ。
そこには赤い文字が明滅している。古典の授業で習う古い言葉だが―――そう難しくは無かったのでおおむね意味は理解できたのだが……
入力された行き先【白銀の都】に行くためにはチャージが足りません
イルドはティアに尋ねた。
「ちゃーじって何だ?」
もちろんティアにも分かるはずがなかった。