二人の王子様 第4章 夢と希望の旅立ち

第4章 夢と希望の旅立ち


 屋敷に戻ってもまだアラーニャはショックから回復できなかった。

 キールは彼女を自室の寝床の上に座らせると、自身もがっくりとした様子で床に座り込んで頭を抱えている。

《ともかく落ち着かせなきゃ》

 ティアは厨房から冷たい水を汲んで来て二人に差し出した。

「ともかくこれ飲んで。お水だけど」

 アラーニャは人形のようにそれを受け取ると一口飲んだが、表情は虚ろなままだ。

 キールはコップを手にしたままじっとそれを見つめるだけだ。

 ともかく二人には説明しておかなければ……

「えっとね……」

 そう思って彼女が話しかけようとしたところをキールが遮った。

「分かっただろ。何で僕たちが隔離されてるか。こいつの呪いを見ただろ?」

「うん、まあ……」

「このままでは本当に砂漠に放り出されるしかないんだ。だから僕はこいつの呪いを解いてやりたかった……だからイルドの考えにも賛成した。結局は……君に迷惑をかけただけだったけど……」

 迷惑と言われれば確かにそうなのだが、今はそんなことを言っている状況ではなくって……

「えっとね……」

 今度はアラーニャがティアの言葉を遮る。

「キール様! もうやめてください! 私はいいんです。今までずっとこうしていられただけでも満足なんです。だから……」

「やめるんだ。アラーニャ。君だけ出て行っても無意味だ」

「えっと、その……」

「でもキール様なら私と違って……」

「その話は済んだことだ。これ以上蒸し返さないでくれ。今日のことは忘れるんだ。大丈夫。まだ何か方法はあるはずなんだ」

「キール様……」

 アラーニャとキールは見つめ合った。

 そして二人はやにわに立ち上がると、がばっと抱き合って熱い口づけを交わし合う―――とかいった展開に普通はなったりするものだが、はにかんだように目をそらしただけだ。

《違うでしょ! そうじゃないでしょっ!》

 全くキールっていうのは本当にちょっといい人過ぎる。こんなときこそ女の子っていうのはぎゅっと力強く抱きとめてもらいたいものなのだ。

 これがイルドだったら間違いなくここで押し倒してるだろうが―――確かにあいつは全くデリカシーのかけらもない奴だが、こういうときにはこう、根拠はなくっても『大丈夫だ。俺を信じろ!』とか言って力強く抱擁してくれる人の方が胸にキュンと来ちゃったりするもんであって―――じゃなくって、えっと、何の話だったか? ああ、そうだ。

「えっと、その、ちょっと二人とも聞いてくれる?」

 二人は今ティアに気づいたかのように振り返った。

 それから慌てたようにキールが言う。

「ありがとう。ティアさん。でもいいんだ。こればっかりは君にもどうしようもないことだし」

「えっと、だからね……」

 今度はアラーニャが言う。

「いいんです。ティア様。びっくりされたでしょう? 怖かったらもうお側には寄りませんから……」

「あの、そうじゃなくって……」

 アラーニャはふと手にしていたコップを見ると、ぴょんと立ち上がる。

「あ、私お茶入れてきます」

 アラーニャがそう言って部屋を出て行こうとしたところを、ティアは袖を掴んで引き留めた。

「ちょっと待ってって!」

 途端アラーニャは縮こまってしまう。

「すみません。すみません。でも……私がいると……」

 大人しくしていたらどうやら埒があきそうもない。

 ティアはついに大声を上げた。

「あのねえ! 人の話を聞きなさいよ! ちょっと二人ともそこに座って!」

「はいっ!」

 キールとアラーニャはティアの剣幕に慌てて床に座った。

 ティアは二人の前に座り込むと人差し指を立てて言った。

「えっとね。どうしようもなくないのよ」

 二人はぽかんとしている。

「だからね、どうしようもなくないって言ってるのよ」

「えっと……なにがですか?」

「だからあれ」

「あれ?」

「そう。あれ!」

 アラーニャの目が段々丸くなっていく。その横でキールが叫んだ。

「なんだって? あれが?」

 二人は驚いたように見つめ合い、それからティアを見た。

 ティアはにっこりと笑う。

「うん。二人ともね、あれって呪いでも悪霊でも何でもないから」

「ええ? それじゃ?」

「あれね、騒霊現象(ポルターガイスト)って言ってね……いや、霊が騒ぐって言っても物の例えなのよ。ほら、ソルティードックだから犬が入っている訳じゃないのと同じで……って、ソルティードッグって知ってたっけ?」

 アラーニャはぽかんとした顔で首を振る。

「ソルティードッグっていうのは……じゃなくって、騒霊現象の方ね、これって魔法の初期発動だから」

「魔法?」

「魔法だと?」

 二人は驚愕の表情でティアを見つめた。

「うん。魔法使いの素質を持った人がね、最初の頃うまく魔法を使えないときあんな風になるのよ。アラーニャちゃん、もちろん魔法なんて習ったことないわよね?」

「はい」

「だとしたらすごいのよ。習ったこともないのにあんなに動かせるってのは。ものすごく才能のある人じゃないとそうはいかないんだって」

 アラーニャは一瞬ぽかんとした表情をして、ティアの言葉を繰り返した。

「もの・すご・く……さい・のう・の……ええ? それって……本当なんですか?」

 ティアは胸を叩く。

「もちろん! 都から来たあたしが言うんだから信じなさいって!」

 それを見てキールがすりっとにじり寄ってきて尋ねた。

「ティアさん、本当にそれって……嘘じゃないんですか?」

「もちろん本当だって。だから都に行ってちゃんと勉強したら、アラーニャちゃん、大魔法使いになれるかも!」

「だい・ま・ほう・つかい?」

 アラーニャがそう言ってまじまじと自分の手を見つめた。

「うん。まあ、もちろん本人の努力次第だとは思うけどね」

 アラーニャは顔を上げると、ティアを見つめたままぴたっと固まってしまう。

 次いでその瞳から大粒の涙がぽろぽろとこぼれ落ちると―――いきなりまるでタックルのようにティアに抱きついてきたので、彼女はそのままマットレスの上に押し倒されてしまった。

「きゃあああ」

 ティアが思わず悲鳴をあげるが、アラーニャはそれにも気づかない様子だ。

「ありがとうございます! ありがとうございます!」

 アラーニャはティアをぎゅうぎゅう抱きしめると頬を擦りつけてくる。

「ありがとうございます! ありがとうございます!」

「あわわわ……」

 いや、アラーニャちゃんって結構力強いんだ―――あはは。

 そこにキールがいまだ信じられないといった様子で尋ねる。

「あの、ティアさん。本当にそれって……本当なんですか?」

「ありがとうございます! ありがとうございます!」

「本当よ。実はねえ、あたしのお兄ちゃんが一応魔法使いなのよ。三流なんだけど」

「そうなんですか?」

 キールの目が丸くなる。そういえばその話はしてなかったっけか。

「うん。で、そういうのは結構詳しいのよ」

「ありがとうございます! ありがとうございます!」

 ティアはアラーニャに押し倒された状況のまま親指を立てた。



 フィンはじとっとした目つきでエルセティアを見つめた。

「何よ? その目は!」

「いや、何でもないけど……続きはどうなるんだ?」

「あ、それでね……」

 フィンは危険な信号を察知していた。

 なにしろこいつが調子に乗るとろくなことをしないことは、山のようなデータによって実証済みなのだから……



「で、ね……」

 ティアはぽんぽんと抱きついているアラーニャの背中を叩いた。

 アラーニャは擦りつけていた頬を離すとはっとした顔で起き上がり、次いで首まで真っ赤になってティアから飛び離れた。

「すみません。すみません!」

「ともかく顔拭こうか」

 アラーニャは更に真っ赤になる。

 実際、彼女の顔は涙と一緒に鼻水まで出てきて大変なことになっている。おかげでティアの服の襟のあたりも何だかじっとりしてたりするわけで……

 ティアはキールを食堂に追い出すとアラーニャの顔を拭いてやり、自分も服を着替えた。

 彼女が十分に落ち着くと二人は食堂に向かった。

 そこではキールがじりじりした様子で待っていた。

「彼女は?」

「もう大丈夫よ。それより、アラーニャちゃんって歳、いくつだったっけ?」

「え? 十六歳ですが」

「そっか。まだもうちょっと大丈夫だろうけど……」

「何がですか?」

 アラーニャがちょっと心配そうな顔で尋ねる。

「魔法の勉強って若いときの方が伸びるのよ。まあ何でもそうだけど。だから勉強するなら早めに都に行って勉強しないとって思ったんだけど……」

「都で?」

「都で、ですか?」

 二人が同時に聞き返す。

 言ってしまってからティアは彼女が現在置かれている状況を思い出した。

《一体どうやって都に行くっていうのよ?》

 彼女が乗ってきたスライダはもう使えないし、砂漠越えの道は呪われてるしで彼女はここにずっと滞在していたのではなかっただろうか?

 だがそれを聞いてキールは腕組みをして考え込んだ。

 しばらく経っても彼が何も言わないのでティアが話しかける。

「えっと……キール?」

 キールははっとした様子で顔を上げると答えた。

「あ、すみません。ちょっと考えてたんです。都に行けるかどうか」

「だって行けないって言ってたじゃない」

「はい、言いました。でも何年か前、砂漠を抜けて南から来た人がいるんです。その人に聞けば抜け方が分かるかも……」

 ちょっと待て! 本当か? それって……

「何よ、そんな人がいたの? だったらさっさと教えてくれれば……」

 だがキールはかっと目を見開くと荒い声で言った。

「そんな人って……命がけなんですよ? 砂漠を旅したことがあるんですか?」

「いえ、それはないけど……」

 キールがここまで感情を露わにするなんて……

「多分……良く見積もっても五分五分じゃないでしょうか」

「五分五分って……何が?」

 と、尋ねつつも答えは大体予想が付いていた。

「砂漠を抜けられるのが、です」

「残り半分は?……やっぱり?」

「もちろん乾いてしまいます」

「あはははは」

 彼がこれだけ真剣な顔で言うということは―――間違いなく正真正銘に危険な旅路らしい。

「やっぱりだめかしら……」

 ティアがそうつぶやいたときだった。

「キール様」

 アラーニャがキールをまっすぐに見据えて尋ねた。

「なんだ?」

「イルド様ならどうおっしゃるでしょうか?」

「そりゃ……でもアラーニャ」

 間違いなくあのバカなら『んなもん行ってみなけりゃわかんないぜ』とか言うに決まっているが―――そういや結局あいつは今どこをほっつき歩いてるんだ?

 するとアラーニャは今度はティアの顔を見据えた。

「魔法の勉強ってどんなことをするんですか?」

「え?」

 真剣な眼差しだ。

 今までは兄貴が訓練する所とかしか見たことがないが……

 それを聞いてキールも尋ねる。

「そうだ。ティアさんが彼女に魔法を教えてやることはできないんですか?」

「ええ?」

 何てことを言うんだ! こいつは……

 彼女は魔法使いではないし、訓練の所だってフィンが練習しているのを横から応援して―――今から思えば思いっきり邪魔をしていただけなのだ。

 だが……

「教えてもらえるんですか?」

 アラーニャがうるうるした目でティアを見つめている。

 まあ―――ここまで期待されたんじゃ、試してみるしかないだろう。



「おいっ!」

 さすがにこれにはフィンも突っ込まざるを得なかった。

 もしこのバカの話が正しければ間違いなくアラーニャの素質は相当な物だが―――魔法という物には凄まじい力があるのだ。たとえフィンのような極めてささやかな力であっても人を一瞬で殺せるのだ。

 それ故に素質がある者であればあるほど、その訓練過程もまたデリケートになる。ほんの些細な間違いで本人だけでなくその周辺一帯に渡って致命的な結末を招いてしまう可能性もあるのだから……

 すなわち魔法の訓練とは素人が絶対に手を出してはならない領域であって、都に住んでいたのならそのことくらい常識であるはずなのに、こいつと来たら……

「何よ?」

「おまえなあ、人体発火って知ってるよな?」

 これは見習い魔導師の洒落にならない失敗談としてまず語られるネタなわけだが……

「知ってるわよ。でね、まず最初は呪文から試してみたんだけど……」

 おいっ! 何で目を反らすよ? って、知ってたら試さないだろうが! 普通……

「だったらそんな……」

 フィンが突っ込むより速く、光の速さでティアが逆ギレした。

「うるさいわねえ! 黙っておとなしく静かに聞いてなさいよっ! 知ってるって知ってるって知ってるって知ってるって! そんなの知ってるって! あたしだって子供じゃないんだから。だから滅茶苦茶怒られたんじゃないのよっ! すごーく怖かったんだからねっ! ニフレディル様とファシアーナ様、もうカンカンで。あんたあの二人にステレオで怒られたことあるの? ないでしょ? ないんでしょ? じゃあ黙って聞きなさいよ! それともそんなにあのメイド奴隷さんのおっぱいが恋しいって? よかったじゃないの。人がこう命がけで砂漠を抜けようとしてるときに……」

「わかった! わかった! 悪かったって、すまなかったって。ごめんって」

 何だ? この反応は―――どうやら……

《こいつ……何かやったな?》

 ということは―――今問いただしたってぶち切れるだけだ。まあどうせすぐボロを出すだろうが―――でもまあ少なくともそのアラーニャって子は生きてるみたいだから、まあ、最悪は免れたんだろうけど……

《いや、まさかオアシスを壊滅させてこいつらだけ生き残ったとか?》

 ………………

 …………

 ……

「あははははは!」

「なによ? まだ何か……」

「何でもない。何でもない。それでどうなったんだ?」

 考えるまい。考えるまい……



 ティアはアラーニャに言った。

「えっと、じゃあねえ、まずは心を落ち着けるのよ」

「心を、落ち着けるんですか?」

「うん。魔法をコントロールするには、平穏な心が必要なのよ」

「平穏ってどんな感じですか?」

「んー……なんて言うんだろう? 平たく穏やかにって感じかしら?」

「??」

 あはは。兄貴の受け売りだから突っ込まれるとよく分からないが―――まあ何とかなるだろう。

 ティアは人差し指を建てるとおもむろに話す。

「ともかく慌てず騒がずね、やりたいって思うことを心に思い浮かべるの。それじゃこのコップ……だと割れたら嫌だから、このハンカチにしよっか」

 ティアは手近に置いてあったハンカチを結んで玉にした。

「これを動かそうと考えてみて」

 アラーニャは言われたとおりにしばらくじっとそれを見つめたが―――何も起きなかった。

「どんな感じに考えればいいんでしょうか?」

 そういう難しい事を訊かれても……

「えーっと……これが動いている状態をイメージするんらしいけど、魔法使いの人だとそれを直接頭の中に教えてくれるんだって。あたしには無理だけど……」

「そうですか……」

 アラーニャはまたしばらくハンカチを睨んでいたが、やはり何も起きない。

「それじゃ呪文を使ってみよっか?」

 フィンの説明では呪文を使うことで力を安定させられるとかいう話だったが……

「呪文……ですか?」

「うん。どんなのがいいかな……そうだ、風を起こすみたいな感じだから……風の精霊さん、私に力を貸してください。シルフ・シルフィー・ダル・エス・サラーム、とか」

「それ、どういう意味なんですか?」

 アラーニャが訝しそうに尋ねる。

「いや、今思いついたんで、あまり深い意味はないんだけど……」

「そんなのでいいんですか?」

 アラーニャが更に首をかしげるが、ティアはここぞとばかりに胸を張った。

「呪文ていうのはね、その言葉に力があるんじゃないのよ。その言葉の響きが唱える人の力を引き出すしょくばいになるの。だからね、呪文って言うのは自分の好きな言葉でいいのよ」

「しょくばい?」

「魔法の力を引き出すためのきっかけみたいな物ね。だから心を落ち着けて、とりあえず今の呪文を唱えながら精神を集中してみて」

「はい」

 そこでアラーニャはじっとハンカチを凝視しながら小声でつぶやき始める。

「風の精霊さん、私に力を貸してください。シルフ・シルフィー・ダル・エス・サラーム、風の精霊さん、私に力を貸してください。シルフ・シルフィー・ダル・エス・サラーム……」

 だが、相変わらずハンカチはぴくりともしない。

 しばらく試してみたがやはり埒があかない。

「まあ、一朝一夕には無理かもね。ああ、それじゃアラーニャちゃん、お守りみたいな物持ってる?」

「お守り、ですか?」

「うん。魔法使いの中には呪文を使わずに、たりすまんを使う人も多いの」

「たりすまん?」

「何かこう、魔法の道具みたいな物なんだけど、これも呪文と同じでそれ自身に力があるんじゃないんだけど、精神集中のしょくばいになるんだって。大切な物の方が効果が高いらしいんだけど」

「そうなんですか?」

 アラーニャは自室に戻ると綺麗に磨かれた縞模様の石のついたペンダントを持ってきた。

「こんなので大丈夫でしょうか?」

「あら、綺麗。うん。多分大丈夫だと思うけど」

 そこでまたアラーニャは、今度はペンダントを握りしめてじっとハンカチの玉を見つめるが―――やはり何も起こらなかった。

 それからしばらくティアとアラーニャはあれこれやってみたが、やはりどうにもならなかった。

「うーん……やっぱりだめかな? あたし魔法使いじゃないし、本当は魔法使いじゃない人が教えちゃいけなかったりするのよ」

 それを聞いてそれまで横で見ていたキールが言った。

「ああ、そうなんですか? すみません。無理なこと言って」

「ううん、気にしないで」



《気にするわい!》

 このキールという奴が暢気でいられたのも、多分魔法を教えるのには教師の資格のような物が必要だくらいに考えていたからだろう。

 だがこのバカのやっていたことは、医師でもない者が勝手に手術していたような物というか、花火師でもない者がうろ覚えで火薬を調合していたというか―――聞いているフィンの心臓の方がどうにかなってしまいそうだ。

《まあともかく何も起こらなかったわけだ……》

 フィンは少しほっとしたが―――ではこのバカが逆ギレした理由とは一体何だったのだ?

 まあそのうち本人がべらべら喋ってくれるだろうが……



「それじゃやっぱり都に行かないと?」

 アラーニャの問いにティアはうなずいた。

「うーん。やっぱりねえ……でも……」

 都に行くには砂漠を抜けていくしかないらしいのだが、その危険性については以前から散々言われている通りで……

 三人は顔を見合わせた。

 しばらくは誰も何も言わなかった。

 やがてアラーニャが顔を上げるとキールに言った。

「あの、キール様……」

「なんだい?」

「あの、私思ったんですけど、その……」

 アラーニャが口ごもる。

「なんだ? 言ってごらん?」

 アラーニャは再び口ごもり、それから意を決したように話し始めた。

「あの、やっぱり、その、ここでずっと悪霊憑きって言われて過ごすより、行ってみた方がいいと思うんです。その……たとえ砂漠で乾くことになったって、それはそういう運命だったってことだから……それに、もし族長様になにかあったらやっぱり……だから……」

「ちょっと、何を言い出すんだ。アラーニャ」

「キール様」

「………………」

 キールはアラーニャにじっと見つめられると、それ以上は何も言えずに黙り込んでしまった。

 彼女の目は、もうこれ以上ないというくらい真剣だ。

 確かに今のままでもしばらくは安全だろう。

 だが彼女は今、族長がどうのと言わなかったか? 何かあったらって―――ということは、もしかして彼らがこうしていられるのは、今の族長が個人的に庇護しているということなのか?

《それじゃ結局、今のこれってただのその場しのぎなわけ?》

 ティアだって別にここに骨を埋めたいわけではない。帰れるものなら今すぐ帰りたいのだ。都にはファラや家族が残されている。彼女達が今どれほど心配しているだろうか?

 だとすれば?

 ティアの考えも決まっているような物だった。彼女はキールに向かって言った。

「えっと……アラーニャちゃんの言うことももっともって気がするの。それで、その、砂漠越えって本当にそんなに危険なの? 太陽も星もあるし、方向さえ間違わなければいいような気がするんだけど……」

 それを聞いてキールは首を振る。

「そう簡単じゃないんです」

「でも南から来た人もいるんでしょ? 砂漠を抜けて」

「それはそうですが……」

 さすがにティアもこの件に関しては渋るキールをどやしつける訳にはいかなかった。

 そのときアラーニャがぽつっと言った。

「イルド様なら……」

 それを聞いてキールがぴくっと体を震わせる。アラーニャが慌てて首を振るが……

 間違いなくイルドなら、じゃあ行ってみるか、何かあったらそのときはそのときだ、みたいなことを言うに決まっているが……

 うーむ。さすがにこれはそういった勢いだけで決めたらまずそうだし―――でも……

《そういえばあいつ今どこにいるのよ? こんな大切なときに!》

 考えてみればあいつだって“呪われ仲間”だった。ならばこれはあいつの問題でもあるわけで、だったらあいつの意見も聞くべきではないだろうか?

「ねえキール。イルドどこにいるのよ?」

 二人がぴくっとして顔を見合わせる。

「これってあいつの問題でもあるのよね? 一応意見聞いてみないとダメなんじゃない?」

 だが二人とも黙りこくったままだ。

「いや、仲悪いのは分かってるけど、これってアラーニャちゃんの問題でもあるわけでしょ?」

「そうですが……」

「あの、ティア様、その……」

「アラーニャちゃんだって行きたいんでしょ? 都に。あたしも帰りたいの。都に。それで行くのがどうやっても無理ってわけでもなくって、何か大変そうだけど。だったら試してみる価値はあると思うんだけど……それにいつまでもこのままじゃいけないんでしょ? 族長様が亡くなったりしたら……」

 ティアの最後の言葉が二人にぐさっと突き刺さったようだった。

「ですが……」

 煮え切らないキールにティアは段々腹が立ってきた。

 何を考えているのだ? このヘタレ男は! 今すぐ砂漠に行けとか言ってるわけじゃなくて、単にイルドも混ぜて相談しろと言ってるだけではないか!

 確かにイルドなら行くとしか言わないだろうが―――別にその場合にキールが付いてこなければならないわけではない。

 まあ、旅に出たとき相方がイルドみたいなバカだけだと少々心許ないというのはある。いろんな所で冷静なキールがいてくれた方がいいと思うが―――それに二人で来てくれた方が人数だって合うし……

 って、何の話だったっけか?

「えっとだからね、こういった大切なお話は、イルドも混ぜて一緒に話した方がいいと思うの」

「ですが……」

 煮え切らないキールを見てついにティアの頭の中でプチプチと何かがちぎれる音がした。

「あんたねえ! 本気で怒るわよ? 確かにあんたがイルドのお兄さんなんだろうけど、こんなこと勝手に決めちゃっていいの? それともイルドがみんなを連れてっちゃうのが嫌だから? ちょっとそれって勝手じゃないの?」

「ティア様、その……」

「アラーニャちゃんは黙ってて!」

「あの、でも……」

「しーっ!」

 ティアはアラーニャの口に人差し指を当てて黙らせると、キールを睨んだ。

「で、どうなのよ?」

 キールはがっくりとした様子でうなずいた。

「分かった……ちょっと待っててくれ」

 それからキールはふらふらと部屋から出て行った。

 部屋にはティアとアラーニャが残される。

《ってか、そこまでがっくりすること? イルドを呼んでくるのが……》

 そんなことを思っていたティアに、アラーニャがおろおろした様子で言った。

「あの、ティア様、その……」

 アラーニャちゃんは本当に優しい子よね。

「あのねえ、アラーニャちゃん。だめなの。こういうときにはがつんと言わないと。これはアラーニャちゃんの問題なんだから」

「あの、はい……でも……」

「都に行きたいんでしょ?」

「え? はい。それは……」

「だったらいいのよ。私に任せてて!」

 彼女はずっと小さかった頃からキールとイルドに仕えてきたという。まあそういう立場では仕方ないとは思うが……

 そう思いながらティアは立ち上がった。

「あの、どちらへ?」

「お手洗いよ」

「あ、はい」

 祭りで結構飲み食いしていたから、さっきから少々催していたのだ。

 それから用を足して元の部屋に戻ろうとしたときだった。

 イルドの部屋の方から話し声が聞こえてきた。

『行くのが当然だって言ってるだろ?』

『どれほど危険だか分かって言ってるのか?』

『分かってるさ。お前と同じくらいにな!』

 キールとイルドの話し声だ。

 オアシスでは部屋の扉という概念があまりなく、部屋の入口には布の暖簾が下げられているだけなので、中で話していることはどうしてもこうやって聞こえてしまうわけだが……

《って、イルドの野郎、何でこんな所にいるんだ?》

 キールは町の方まで探しに行ったとばかり思っていたのだが―――ということは……

《なに? あいつここに隠れてたっての?》

 何なんだ? だったらさっさと出て来ればいいじゃないか? ティア達がどたばたやっていたことに気づかなかったのだろうか?

『連れて行くのは娘二人なんだぞ?』

『じゃあティアは置いておけばいい。事情を話せば族長も理解するさ』

 え? ちょっと待ってよ!

 ティアは部屋に乱入してやろうかと思ったが、いきなりそんなことをするのも何となく気が引けたので、結局そこで立ち聞きを続けた。

『連れて行かずにどうする? 都で誰を訪ねればいいんだ?』

『紹介状でも書いてもらったらどうだ?』

『もしそうしたとしても……アラーニャ一人でもやはり危険だ』

 行くなら自分だって一緒に行くに決まっているけど……

『まだそんなことを言う気かよ。何度も言うがお前は永久にこのままでいいのか? アラーニャが行きたがってるんだろうが?』

『分かっている。だが死んでしまっては元も子もない。これが普通の旅なら何も文句は言わない。だが行こうとしているのは死の砂漠なんだ』

『お前がそう言うのは分かってたさ。だがお前は俺の言うことが正しいと知ってるんだ。だからスライダを使うのだって黙認したんだろう? そのせいでこうして可能性が見えた。今ここでやめてどうする? このままじゃただの人さらいだろう?』

 お、何だかイルドがまともなことを言ってるような気がするが―――別に、このままじゃなくってもただの人さらいだけどね。

『分かっている。分かっている! でもそれなら分かっているだろう!』

『分かってるさ。俺はどっちだって構わないぜ』

『だろうな。ああ。分かってるさ。俺じゃだめなこともな……だったら、やはりお前が残るべきなのかな』

 一体何を二人で分かり合っているのだ?

『えらく弱気だな? キール』

『弱気にもなる。俺は多分……何もしてやれないんだ』

 しばらく部屋の中から声が途絶えた。

《確かにキール、何、弱気になってるのよ?》

 まあ何かいろいろあったのだろうが……

『……そろそろ決めなければならないのかな?』

 そう言ったキールの声は妙に真剣だった。

『いいのか?』

『ああ。都に行ったのはその目的もあったはずだ。ティアはミュージアーナ様じゃなかったが、それを決めてもらうことくらいはできるな』

 決めるって一体何を?

『ああ。あいつがどっちを選ぶか、それで片をつけようか。選ばれなかった方は約束通り永久に消え去るということで』

『そうだな。いい機会かもな……』

 ………………

 …………

 ……

 はあ?

《永久に? 消え去る? だって⁉》

 それって何だ? どっちかが死ぬってことなのか?

 っていうか、永久に消えるっていうのに他にどんな意味がある?

「ちょっと待ちなさいよ! 勝手に変な話を進めないでよ! 何でそうなってるのよ?」

 ティアはイルドの部屋に乱入した。

「あんた達いくら仲が悪いからって、殺し合うのはやめてよ! 何でもうちょっと仲良く……」

 そこまで言ってからティアは部屋の中を良く見回した。

 そこには―――キール一人しかいなかったのだ。

「あの……イルドはどこよ?」

 キールが驚いた顔でティアを見つめた。

「全部……聞いていたの……ですか?」

「全部って言うか、途中からだけど、どうしたのよ? あいつ。また逃げたの?」

 ティアは部屋の中を見渡す。何度見てもイルドの姿はない。

 だが今の瞬間に逃げ出す余裕なんてあったか? 大体この部屋の造りは他と大差なく、窓はひどく小さいからあそこを抜けて逃げるわけにはいかないし―――だとしたら部屋の入り口を通るしかないわけだが……

《??》

 そのとき騒ぎを聞きつけてアラーニャが入ってきた。

 そうなのだ。そもそもこの家は大した広さではないから、他の部屋で何かあったらすぐ分かってしまうのだ。

「キール様? ティア様?」

 彼女は部屋の中を見回して手を口に当てた。

「今ここにイルドがいたみたいなんだけど、入ったらいないのよ……ってまさか……」

 ティアはキールに尋ねた。

「イルドって瞬間移動できるの?」

「は?」

「今声がしてたじゃない。なのにいないってことは、瞬間移動でどっかに行ったんでしょ? それってもっとすごい魔法なんだけど」

 だがキールは首を振った。

「いや、違います」

「え? じゃあ……」

「彼はここにいますよ」

 はあ?

「ここってどこに?」

 部屋の中を見回したが―――どこをどう見てのキールとアラーニャ以外誰もいない。

 ティアがぽかんとした顔でキールを見返した時だ。


『俺はここだ』


「ひゃんっ!」

 いきなりイルドに話しかけられてティアは思わず跳び上がっていた。

「え? イルド、どこよ?」

『ここだ』

 ティアはあたりを見回す。だがイルドの姿は―――ない? んなバカな! 声は聞こえているではないか?

『ここだって』

 ティアはもう一度声のした方をよく見る。そこにはキールしかいないって―――いや、その声はキールの口から聞こえている?

「は?」

 いったいどういうことだ?

 ティアは一瞬、腹話術か二重人格なのかと思ったが、少なくともキールとイルドは体格も違っていたし―――と思った瞬間だった。

 いきなりキールの体がもりもりと脈打ち始めたのだ。

 続いてキールの端正なややおとなしそうな顔が野蛮な面立ちに変わっていく。

 体格もそれまではほっそりした感じだったのが、ごっつりした感じに変わっていった。

 そして最後に髪の毛をぐしゃぐしゃかき回して逆立てると―――そこにいるのはまごうことなきイルドだった。

 ティアは目を点にしてそれを見つめていた。

 もちろんびっくりして声も出ない。

「どうだ?」

 イルドの声は何か意気消沈した風だ。

「は?」

「どうだって聞いてるんだ」

「だから何がどうなのよ?」

「どう思ったかって聞いてるんだ。これが俺たちの呪いだ」

 ………………

 …………

 ……

「えっと……まあ、びっくりしたわ」

 自分でも少々間抜けだとは思ったが、そうとしか言いようがない。

 それを聞いてイルドは意外そうな顔をする。

「それだけか?」

「それだけって?」

「気持ち悪いとか思わないのか?」

「え? いや、それは別に?」

 正直そんなことを考える余裕もなかったわけで―――だがその返答は少々意外らしかった。

「じゃあ都にもこんな奴がいたのか?」

「ううん、それはいなかったけど……」

 魔法使いの中には他人に幻影を見せられるような人もいたりはするが……

 ティアは思わずイルドの体をぽんぽん叩いていた。

 間違いなく実体はある。このごつごつした感じも間違いなくイルドだ。キールは本当に今はイルドになっているのだ。

 確かに自身がこんな風に変身するような魔法使いなど聞いたことがないが―――でも魔法の全てを知っているわけではないし、目の前で変身された以上認めるしかないわけで……

「えっと、何? 要するにあんた達、二人で一人、ってこと?」

「ああ」

「キールがあんたになれるんなら、あんたもキールになれるわけ?」

「ああ」

 何だかまだ頭が混乱しているが―――そのときティアの頭にすばらしいアイデアが閃いた。

「それじゃ何か他の物には化けられないの?」

「あ?」

「例えばドラゴンとか。それだったら変身して飛んでいけば都まで行けたりして」

「ドラゴン?」

「こう、おっきなモンスターで、羽が生えてるんだけど。去年ねえ、ルナ・プレーナ劇場でやってたのよ。ドラゴンに変われる少年の話」

 逆にぽかんとしたのはイルドの方だ。

「何か分からんが、無理だ。俺はキールにしか変われない」

 まあ、そううまくは事は運ばないか。

「ああ、それはしょうがないわね。やっぱり。まあ、これだけでも十分すごいけど」

「すごい? だと?」

 イルドはちょっと怒った様子でじろっとティアを見る。

《あ、そうか。これが呪いだって思ってるからどうにかしようとしてたわけで……》

 とは言っても、別に互いに変身できるからって別にそれほど困るわけではないし……

 ってことはないか? 今日もイルドがバカやってたからキールが因縁つけられてたわけで―――二人で体を共有するというのは不便なことも多そうだし―――だけど……

 えーっと……

「だって……ほら、やっぱり何だかすごいじゃない。誰にもできないことができるって。何かかっこよくない?」

「ああ?」

 イルドはじろっとティアを睨む。

 やばい。イルド怒ったか? ともかくここは……

「あ、それじゃ今キールってどうなってるの? あんたの中にいる、みたいな?」

「ああ? 側から見てるんじゃないのか?」

「じゃないのか? って?」

「俺がキールの中にいるときはそんな感じだ」

「ふうん。じゃあ……キールが見てる物って、あんたにも見えてたわけ?」

「ああ」

 ………………

 …………

 ということは⁉

 ティアはぎろっとイルドを睨んだ。

「じゃあ、あたし達がオアシスで泳いでたのも……あんたも見てたわけ?」

「ああ。見てたが? それがどうした?」

「それがって、ちょっと! ふざけないでよ?」

「そんなこと言われたって、キールの中のときにはどうしようもないんだ。それにキールが見なきゃ俺にだって見えないだろうが!」

「ああ! じゃ、やっぱりキールも……」

「男なら当たり前だろうが」

「何が当たり前なのよ! この変態!」

「あのなあ、お前らが裸で水浴びしてる間見張っててやったんだぞ。そのくらいいいだろうが!」

「やっぱりそれが本音なわけね! 何て奴!」

「おまえ、そんなことでいちいちわめき立てるなよ。いい加減……」

「そんなこと? 何がそんな事よ!」

「あのなあ……」

 そのときだ。いつもならここから大喧嘩が始まるところなのだが、なぜか彼はいきなりティアに背を向けると部屋の隅に行って、小さな黒板を取り上げると白墨で何か書き始めた。

「ちょっとあんた、いきなり何よ……」

 ティアがイルドを振り向かせようと近寄ると、いきなりイルドはティアに黒板を見せた。

ケンカはやめてください

 は?

 ティアは不思議そうな顔でイルドを見る。

 イルドは再び書いた。

イルドのときはこうします

「あ、もしかして中のキールが書いてるの?」

はい

「なんでこんな面倒なことするのよ。さっきは喋ってなかった?」

 それに答えたのはイルドだった。

「中途半端な変身は気持ち悪いからな」

「中途半端って?」

「喉の所だけ変わるんだ」

「あ、そうなんだ……って、じゃあどうしてキールのときには喋ってたのよ?」

「書くのなんて面倒だろう?」

「………………」

 要するにイルドはこういう奴だからキールが嫌がるのも構わず喋ってたのか?―――まあいいけど……

「で、何だったっけ?」

「何がだ?」

「何の話してたんだっけ?」

「さあ……」

 だめだ。何だかすごくダメな気がする。えっと―――ああ、そうだ。

「そうよ。あんた達がどっちか死ぬとか、そんなこと話してたわよね?」

「ああ、そういやそうだな」

「何でそんなことする必要があるのよ?」

「ああ?」

 イルドはティアを凝視すると言った。

「だって変だろう? こんなんじゃ」

 いや、確かに普通ではないが……

「えっと、やっぱり何か困ってるのかな? 二人で一人だと……」

 思わずティアは尋ねていたが―――って困ってないわけないだろ! 何言ってるんだ?

 さすがのイルドも困惑した表情でティアを見つめる。

 こう来られるとますます困る。とりあえず……

「あはは。えっと、それじゃ変身って、いつでもその気になったらできるの?」

「まあな」

「じゃあ、ちょっとキールに戻ってみてよ」

 イルドは黙って立ち上がると逆変身を始めた。

 がっちりした体がほっそりとしていって、表情には知恵の光が宿る。最後に逆立った髪の毛を直すと、そこにはキールがいた。

 ティアは思わず口に出していた。

「へえ! 面白いわねえ」

「面白いって……」

 当然キールも困惑するが……

「ねえ、イルド、聞いてる?」

『聞いてる』

「わっ! 何か変!」

『あのなあ』

 うわ! しまった! えっと、で、今何してたんだっけ……

「あはは。ごめん。変って言うのは変なんじゃなくって、こうなんて言うか、ほら、そういうわけで……」

 支離滅裂になってきたティアにキールが言った。

「ともかくティアさん。僕たちは決めたんですよ。もうこんな状況を続けるわけには行きませんから。だからどちらかひとりになろうと思ったんです」

 そうなのだ。そうだったのだ!

 すぐ脇道にそれてしまいがちだが、ともかく彼らはそういう大変真剣な話をしていたところだったのだ。

 だが……

「あの、ちょっとそれ、悪いんだけど……」

「はい?」

「なんで今のままじゃいけないの?」

「は?」

「別に今のままでもそんなに困ってない、とか言ったら怒られるかもしれないけど……」

「もちろんです!」

 珍しくキールが声を荒げる。

 だがティアは彼の肩に手を置いて言った。

「でもね、その、このオアシスにず~っといるつもりならそうかもしれないんだけど、ここ出ちゃったらどうなの?」

「え?」

「もし旅に出るんなら、あたしたちだけよね? 別にあたしは今のままでいいし、アラーニャちゃんだって……」

 その瞬間、それまで黙って二人の話を聞いていたアラーニャが間髪を入れずに割り込んだ。

「私もそう思いますっ!」

 ティアとキール/イルドが思わずアラーニャの方を見る。

 そんな場合彼女はいつも恥ずかしそうに目を背けてしまうのに、今回は違った。

「私もお二人共にいて欲しいです!」

 それからはっと気づいたように赤くなってうつむいてしまう。

「アラーニャ……」

 キールが驚いたようにつぶやく。

 彼女がそう思っているのならなおさらだ。

「あたしだってどっちかを選べとか言われても困るし、別に二人いてもいいじゃない? だってその方がいいでしょ? 考えなきゃならないところでキールが出てきて、やらなきゃならないところでイルドが出てくれば」

 キールはまるで恐れているかのような表情でティアを見つめた。

 そのまま彼が何も言わないので、ティアはアラーニャに尋ねた。

「えっと、今の考え、どう思う?」

「私も、賛成です!」

 アラーニャは即座に答える。彼女の中ではもう結論は出ているらしい。

 だとすれば後は……

「ねえ、キール、それにイルド。どう?」

 だがキールもイルドも黙ったままだ。

《何よ? これだけ言ってるのにまだ何かうじうじしてるわけ?》

 そのときティアの頭にまた素晴らしいアイデアが閃いた。

「ねえ、そう言えばあんたたち、途中で変身をやめるとかできるの?」

「は?」

 キールが不思議そうな顔で首をかしげる。

 ティアはここぞとばかりにそのアイデアを披露した。

「そしたらちょうど二人を足して二で割ったみたいな人になれたりしない?」

 それを聞いてアラーニャが目を輝かせた。

「そんなことができるんですか?」

「いや……変身の途中で止めるのは……」

 だがキールが答え終わる前にティアは今のアイデアの致命的な欠陥に気づいてしまった。

「あ、やっぱだめだわ。うっかり間違えたらバカでヘタレのどうしようもない人になっちゃうかも。やっぱり今の無し! 何かそうなりそうな気がするし」

 アラーニャの笑いが引きつる。

「あの、ちょっとあまりからかわないでください……」

 そう言ったキールは真顔だ。

 いや、確かに彼らにとっての死活問題なのは間違いないが……

「ごめん。そんなつもりじゃなかったのよ。でもともかくね、何て言うか、そのあたしね、あんた達二人、それなりに嫌いじゃないんだから、まあ、あんたはちょっとうじうじしてて、あいつは正直バカの野蛮人だけど。別にどっちにもいいところがあるっていうか……わかった?」

「でも、ティアさん……」

「だ~か~ら、要するにあんた達二人で一人なんでしょ? どっちか消えたら半人前じゃない。そういうことなんでしょ?」

「でも……」

 煮え切らないキールについにティアはキレた。

「だからあんた達どっちも好きだから消えてほしくないって言ってるんでしょうがっ! 何で分かんないのよっ!」

 言ってしまってからティアはカッと顔が熱くなるのを感じた。

《うわっ! 何か変なこと言っちゃったかも……》

 顔を上げるとキールがびっくりしたような表情でティアを見つめている。その口から……

『あんだと?』

 キールの喉からイルドの声がする。

「なによ? 聞いてたんでしょ?」

 だがイルドは何だか勘違いしているようだ。

『お前……俺に惚れていたのか?』

 ティアは吹き出しそうになった。

「何言ってんのよ。誰があんたを愛してるって言ったのよ? 好きだって言っただけでしょ?」

『でも今……』

「あのねえ、また一発食らわないと分からないわけ? あんた『愛してる』と『単に好きだ』の区別も付かないほど脳みそ膿んでるわけ? これは言葉の綾ってものでしょ! ともかくね、そんなに消えたきゃ消えたっていいけど、それはあたし達を都に送り届けた後にしてくんない? あたしをこんな所に連れてきた以上責任とんなさいよ? いいわね?」

 ティアの剣幕に呑まれたのかどうなのか、キール/イルドはうなずいた。

「ともかく今日はもう寝るっ! 後は明日っ!」

 そう言い放つと彼らを残してティアは一目散に自室に駆け込み、そのまま寝床に突っ伏した。

 何だか知らないが胸がどきどきしている。

 勢いに駆られて何か変なことを口走ってしまったが―――いや、これが恋とかそんなはずはない!

 でも―――何で胸がこんなになってるんだ? 冗談めかして誰かに好きとか言ったことなんて何度もあるのに……

《んなわけないんだから……》

 そうだ。多分あれだ。こんな田舎に閉じ込められて随分経つわけで、これは要するに例えば山歩きしてクタクタになってるときには、その辺のどうでもいい小川の水でもすごく美味しいみたいな、そんな状況なのだ。

 決してティアが悪食であんなのが本当に好きになったというのではなくって。

《それにあいつら……二人じゃん》

 そういうのを一般的に二股がけというわけだが……

《でも一人なのよね?》

 そう思ったティアの口元はなぜか緩んでいた。



 次の年の春、オアシスの族長の館の前にはちょっとした人だかりができていた。

「では母上、行って参ります」

「気をつけていくのですよ。キール、イルド、それにあなた方も……」

 そう言ってオアシスの族長エレオーネはティアとアラーニャを抱きしめた。

「分かってますって。エレオーネ様」

「はい。族長様」

 あれから半年以上が経っている。

 おかげでやっと都に帰れるという喜びと、この場所への名残惜しい気持ちとが半分半分という気分だ。

 あの秋祭りの夜に色々と重大なことが判明して、ティアは何もかも問題解決したと思っていた。

 だがオアシスの環境をを舐めてはならなかった。

 その次の日、オアシスに運良くたどり着けたという人の話を聞いてみると、南の砂漠ではかなりの頻度で砂嵐が荒れ狂い、風が収まっているときでも細かい砂が巻き上げられているせいで太陽や星が全然見えないらしいのだ。

 ただ一年のうちでも春から初夏にかけては比較的穏やかになるので、そういった時期に運がよければ砂漠を抜けることも不可能ではないらしい。

 ということでまずは翌年の春まで待つことになってしまったわけだが、それならばもう悪霊憑きを演じている必要もないわけだ。

 こうしてティアが都から来たことを明かし、そもそもアラーニャは全然呪われてなどいないし、キール/イルドだって都まで行けば何とかできるかもしれないし、アラーニャは訓練次第で大魔法使いになれるかもしれない、などということを話したときにはちょっとした騒動になった。

 だが結局オアシスの族長エレオーネはティアの言葉を信じてくれて、それ以降彼女達は族長の屋敷で歓待されることになったのだった。

 エレオーネはティアを抱きしめて耳元でささやく。

「ありがとうございます。ティア様。あなたにはどう感謝してよいのか……」

「いえ、そんなこと。何というか、ちょっとした通りすがり、みたいなものですから、あははは」

 とは言いつつ、この半年はまるで家族みたいに過ごしてきたので結構名残惜しい。

「それでせめてこれを持って行ってください」

 そう言って族長はティアに磨かれた石の付いたアミュレットを手渡した。

 アラーニャが持っていたペンダントに似ていて、綺麗に磨き上げられた縞模様の石が填められている。

「これってアラーニャちゃんも持ってましたね?」

「時々砂漠の中で見つかるのですよ。長い時をかけて風と砂が磨き上げるのです。私たちは精霊の瞳と呼んでいます」

「そうなんですか」

 ティアはそのアミュレットをもう一度しげしげと眺める。すごく素朴だがそれだけに逆に霊験があらたかな感じもする。

「これは私の母から受け継いだ物です。砂漠の悪い精霊からあなたを守ってくれます」

「え? そんな大切な物、いいんですか?」

「もちろんですよ。あなたにこそお渡しする価値があるというものです」

 そう言った族長の目に涙がにじんでいる。うわ、あまりこういうのは苦手なわけで……

「それじゃお言葉に甘えて、ありがとうございます」

 ティアは族長をそっと抱きしめた。

 彼女の母ウルスラよりももっと細い感じだ。砂漠の生活はやっぱり色々と辛いことが多いのだろう。

 この半年一緒に暮らしてみて分かったことは、結局族長のエレオーネ様も普通の母親だったということだ。

 本当ならば呪いが判明した時点で砂漠に放り出されていたはずなのだが、それが族長の息子だったということであのような隔離になったらしい。アラーニャもそのせいで運良くキール/イルドの召使いということであそこに置いてもらえていた。

 そのため裏では結構色々と陰口を叩かれたりもしていたらしい。確かに建前上はこれは公私混同な訳で―――でも彼女がそうしなければキール/イルドもアラーニャも今頃は砂漠のどこかでからからになっていたわけで……

《うふっ! もしかしてあたしって彼らを救うために使わされた天使?》



 フィンが冷静に話を聞いていると、エルセティアがじろっと睨んで言った。

「何よ? せっかく面白いこと言ったのに、何で何も反応しないのよ?」

 突っ込みどころでいちいち突っ込んでたら話が進まんだろうが! 俺がどれほど我慢してるか分かってるのか? このガキは……

「いや、うん。そうだね。あはは」

「なにそれ? やっぱりあたしの悲惨な運命を聞くことよりもメイド奴隷さんのおっぱいの方がいいのね?」

 いや、正直本当にその方がいいんだが―――というか、そもそも今のところそれほど悲惨でもないんじゃないのか? こいつは結局あっちでも食っちゃ寝してただけに思えるのだが?

 などということを言ったらますます紛糾するだけなので、フィンは続きを促した。

「いや、聞きたいって。それでどうなったんだよ」

「ああ、それでね、あの子可愛かったのよ!」

「??」

 聞き返すとまた話がおっぱいに飛びそうなのでフィンは黙って続きを待った。



「じゃあお願いね! キャミー!」

 そう言ってティアは側に佇んでいたラクダの横腹をぽんぽんと叩いた。

 ラクダはそれに反応して地面にうずくまる。ティアがひょいとその上に乗って合図すると、ラクダは立ち上がった。

《うわーっ》

 ラクダというのは馬と違って背中が高い。更にその上に大きなこぶがあってその前に乗っかるのだが、何だか二階から見下ろしているような素敵な感覚だ。

 話によれば砂漠の奥地に出て行くのならラクダで行くしかないらしい。

 馬の方が乗り心地はいいのだが、ラクダだと最初にたくさん水を飲んでおけば一週間くらい飲まなくてもいいという。

 今回の旅には族長はそんなラクダを一人一頭ずつ出してくれていた。結構貴重な動物なので、これだけでも族長の本気度が伝わってくるというものだ。

 ティアがラクダに乗ったのが見えると、町の人が周りに集まってくる。

 エルセティアは微笑みながら手を振った。

「エルセティア様、ありがとうございます」

「子供を元気にしてありがとうございます。どうか無事お戻りになってくださいまし」

「エルセティア様のお陰で頭痛がとれました」

 等々、みんな口々に勝手なことを祈っているが―――なるべく正確なことを話したつもりなのだが、彼女はあの伝説のミュージアーナ姫の末裔で、オアシスを救うためにやってきたことになってしまっているのだ。

 一応誤解を修正しようとは試みたのだが、何だかますます噂はねじ曲がり、彼女を拝むと病気が治るという事になってしまい、そんなことあるはずがないと高を括っていたら、本当に直ったという事例が出てきたりして、もう何が何やらである。

 少し離れたところでキール/イルドがラクダに乗ったのが見えた。するとあたりから若い娘の声が上がる。

「イルド様!」

「イルド様、どうかお達者で」

「なによ。どうしてあんたが……」

「えー、どうして?」

 周りで喧嘩が始まり掛かっている。

「えっと、おい、お前ら……その、な……」

 結局の所イルドはティアが思っていたほどには女の所を泊まり歩いていたわけではなかったのだが、やっぱり欲望のままにオアシスの娘に手を着けていたのは事実らしい。

 実際族長の息子であるし、磨けばそれなりのところがないこともないわけで、更には娯楽の少ない場所ということもあって相手の娘も結構言いなりになっていたようで―――そんな娘がこれが最後とばかりに集まってきているのだ。

 まあ自業自得なのだが、でもあのときアラーニャの魔法が発動したのはイルドが彼の弟の許嫁に手を出していたせいだったりもするわけで……

「ちょっと! 行くわよ!」

 ここは助けてやるか。これからの道案内にあいつは必要なんだし、ここでいきなり刺されて終わられてはこちらが困る。

「おう。じゃあな。帰るまで待ってろよ!」

「イルド様!」

「きゃあああ」

 イルドはラクダを歩かせるとティアの横に並んだ。

「アラーニャは?」

「前よ」

 彼女はちょっと前にラクダに乗って少し先で待っていた。

 ティア達が近づいていくと、その側から中年の女性が一人走り去っていった。

「お待たせ。今の人は?」

「母です……多分」

「多分って……」

「あまりよく覚えていないんです」

 彼女が悪霊屋敷に引き取られたのは彼女がかなり小さかった頃で、彼女は両親の顔をあまり覚えていないと言っていた。

《そっか……》

 こういう場合何と言ったらよいのだろう?

 だがアラーニャはにこっと笑って言った。

「お二人とももうよろしいんですか?」

「もちろんよ」

「では、出発しますか?」

 まだ一年も付きあっているわけではないが、こんなに目が輝いているアラーニャは初めてだ。

 それはティアもそうだった。

 これからものすごく危険な旅に出かけようとしているのに―――それなのになぜかウキウキした気分が止まらない。

 まあ呪われたヴェーヌスベルグとか不毛の砂漠とかヌルス・ノーメンとか地獄の砂嵐とか酷寒のマグナバリエ越えとかまあ何やかやがあるにしても、その先にはこれだけは間違いなく掛け値なしに―――夢と、そして希望があるのだから!

「じゃ、行きましょっか。都へ」

「はいっ!」

「おうよ!」

 こうして三人―――それとも四人?―――の旅が始まったのだった。