砂漠の女王様
第1章 呪われた女達
こうしてティア一行は更に砂漠を南下して、ついに再び人里と呼びうる場所にたどり着いた。
―――と、一口で言う物の、その旅も正直容易な物ではなかった。
ヌルス・ノーメンを出た後、最初のうちはまだお喋りしたり歌ったりとかいった元気もあったのだが、後半の方はもうほとんど記憶が定かでない。
毎日毎日陽か星が出たら大慌てで移動して、砂嵐が来たらその場でじっと待機する。
昼も夜もただひたすらその繰り返しで、しかも最後の頃は水や食料も結構心細いことになっていて、ティアもアラーニャも空腹と疲労と寝不足でほとんど意識は混濁状態で、ラクダから落ちないようにしているだけで精一杯という状態だったのだ。
そんな中でキール/イルドが元気だったのが本当に掛け値なしに救いだった。
彼/奴は変身すると傷が治るみたいに疲れも抜けるらしいので―――まあ飲まず食わずだと段々弱っていくらしいが―――そういう状況でも元気を保っていられたのだ。
だから“彼”が冷静に方角を定めて、“奴”が少々セクハラ気味に引っ張ってくれるのに悪態をついていられなければ、今頃は砂の上で三人並んでからからになっていたことだろう。
正直あの特異体質だかなんだかはこういうときにはめちゃ便利としか言いようがなく、本当に彼と奴が両方一緒で良かったと心の底から思ったのだった。
そんなこんなで一行がその村にたどり着いたとき―――そこはトルンバと呼ばれる村だったが―――ティアはまたいつもの白昼夢を見ているのだと思っていた。
―――それまでも村や都に到着した夢は何度も何度も何度も何度も見ていたのだが、今回の“夢の村”はその中で最低レベルの貧相さだった。
《なによここ……》
イルドの肩に掴まってふらふらと村の通りに入ったときまず思ったのがそれだ。
山裾に掘っ立て小屋みたいなのがいくつか建っていて、全体が壊れ掛かった木の柵で囲まれている。
“通り”というのもただの踏み跡といった方がいい。小屋の庭には石ころだらけの畑があって、何か貧相な作物が枯れかかっている。
実際この地方は辺境中の辺境だった。
砂漠の南部地方もマグナバリエ大山脈からの雪解け水が頼りで、山麓には南北に転々と連なるように村がある。
ここはその地方の北限にあたっていて、村のちょっと北からはティア達が抜けてきた大砂漠が広がっていた。交易路からも外れていて立ち寄る人はほとんどいない。たまに降る雨のため堅い草が所々生えているので、それを頼りに何とか牧畜ができないこともないのだが―――そんな場所を見てティアは心底失望した。
「なんでもうちょっと綺麗な場所に来ないのよ~!」
せめて夢の中くらいもう少しましな場所にして欲しいというのは人情だ。
「お前そんな無茶言うなって」
イルドが真面目にティアをたしなめるなどまさに非常事態なのだが、ティアはもうそんなことにさえ気づく余裕がなかった。
「うー……」
ティア一行が村の中央広場―――といっても本当に単なる空き地の中央に井戸があるだけの所だが―――に来ると、そこにたむろしていた村人が数名、わっと一目散に逃げ出した。
「あ……」
ティアだけでなく、イルドもアラーニャもそれを見て呆然とした。
何で逃げられなきゃならないのだ? 何か悪いことしたか?
ティアはべたんと地面に座り込んだ。
「ほらみなさいよ。どうせ死にかかってるんだから誰も来ないのよ」
「あの……」
アラーニャが何か答えようとして口ごもってしまう。
何か色々理不尽な気もするが、夢の中とは理不尽な物だと何となく納得してますます腹が立った。
「どうせ死ぬんならもうちょっと綺麗なところがいい~!」
「おい。おちつけって!」
「いやよ。こんなところで死にたくない~!」
「おちついてください」
そういってアラーニャもティアの前にしゃがみ込む。
それを見てティアの頭にふとナイスなアイデアが浮かび上がってきた。
「アラーニャちゃん、せめてこれだったらあの砂丘の上の方が良かったわよね? 中途半端な村なんかより」
「はい?」
アラーニャがぽかんとした顔で聞きかえす。
「だからね、やっちゃって」
「は?」
ああ、もう。鈍いんだからっ!
「こんな村、なぎ払っちゃうのよ! 何もかも吹き飛ばして、ま~~っさらな砂地にするの。そうすれば、空は広くって、星も綺麗よ」
「あの、それって……」
ティアは座った目でアラーニャを見つめると、彼女の後ろに回りこんで……
「やれ~」
そう叫んで彼女の胸をぎゅーっと掴む。
「きゃあああ」
アラーニャちゃんの胸って、結構触り心地いいかも―――と思った瞬間だった。
ばしゃーんと水をぶっかけられた。
「ぎゃああああああああ!」
「いやあああ!」
ティアだけでなくアラーニャまでが水浸しだ。
「な、な……」
見ると桶を持ったイルドが仁王立ちしている。
それからイルドは桶を置くと、ティアの両ほっぺたをつまむとむにゅっと引き延ばした。
「痛たたたたたっ! 何すんのよ!」
「目が覚めたか?」
痛い⁇ 冷たい⁉
えーっと、じゃあこれって、現実なのか? それとも―――びしょ濡れになった夢を見た次の朝は―――ぎゃあああ、この歳になって⁉
「で、ほら!」
今度はイルドが手桶を差し出した。
覗き込むと中には半分ぐらい透明な水が残っている。
ティアは反射的にそれを受け取ると桶から直接がぶがぶと水を飲んだ。
冷たい液体の感触が喉を通ってお腹に満たされていって……
それから彼女は辺りを見回した。
イルドがにやにやしながら見つめている。
アラーニャはちょっと涙目で……
「えっと、じゃあ……」
「ああ。村だ。着いたんだよ」
………………
…………
……
本当なのか? 夢じゃないのか?
ティアは自分で自分の頬を何度か叩いてみる。
どうやら本当っぽい。
それからごろんと地面に横になる。背中にちょっと堅い草の感触がする。
これもどうやら本物っぽい。
空は良く晴れているし、近くにはごつごつした岩山が見えるが……
これもどうやら本物っぽいが―――もしそうならば……
ティアは目を閉じた。本当ならばもう一度目を開けても同じ光景が見えるはずだが……
………………
見えた光景は違っていた。
なぜなら気づいたのはそれから二日後だったからだ―――
と、いうわけで……
じゅっと焼きたての獣脂の香りが口の中に広がってくる。
《うわー! 生きてて良かったぁぁぁ!》
それから更に一週間が経過していた。
ここはトルンバ村の村長宅の前庭だ。
庭の中央には大きなたき火が起こされていて、その上には羊が一頭吊されている。
目前の卓にはそれからそぎ取ってきた肉や野菜や芋類みたいなごちそうが並べられている。
周囲には数十名ほどの人が集まっているが、これがこの村のほぼ全員らしい。
ティアは焼かれた羊肉の味を噛みしめながら、あたりを見回した。
ここにやってきたときの印象は決して間違ってはいなかった。
村長宅はこの村の中では一番立派な家だったが、それでも正直ボロ小屋と形容した方が良かった。
以前オアシスに来たとき、“控えめに言わなければ何でこんな所で人が生きていけるのか全く不明としか言いようのない地の果て”などと形容したことがあったが、正直ごめんなさいである。オアシスは確かに中原とは隔絶されていたが、それでも小さな町と言っても良い。あの悪霊屋敷だって、野原の中の可愛い一軒家と言うこともできるわけで……
だがこの村を控えめに形容しなければ―――ティアは頭の中に浮かびそうになった悪口雑言を無理矢理心の奥底に沈める。
《いやいや、こんないい人達の住むところをそんな風に言っちゃダメでしょう……》
ティアは皿に盛られた肉をもう一欠け取って口に含む。
そんな彼女を見て斜向かいに座っていた婦人が声をかけてきた。村長さんの奥さんだ。
「こんなもんだぎゃ、嬢ちゃんのお口に合うかどうか~」
「とんでもない! とーっても美味しいです!」
それが社交辞令でも何でもなくて、ティアの前には既に羊の肋骨が何本も転がっているのをみて、奥さんはにっこりと笑った。
「アラーニャさんもどうかね」
「え? ありがとうございます」
彼女も横で食事中だが、前より随分食欲は出てきているようだ。
実際村に着いてから二日ぐらいはみんな爆睡していたらしく、目覚めてもふらふらでお粥くらいしか喉を通らなかった。
そんな彼らを村人達は親切に介抱してくれていたのだ。
目覚めて一番に村長さんの奥さんに『汚い村ですみません』とか言われて、穴があったら入りたいというのはそのことだが、ともかくそれから一週間。色々とお世話になって体力も回復してきたし天気も良さそうだったので明日にはまた出発しようとしたときだ。村の人たちがこんなお別れの宴を開いてくれたのだ。
見るからに貧しい村だ。それなのに彼女達のためにここでは結構貴重な羊を一頭潰してくれて―――恐悦至極としか言いようがないが、実際娯楽という物に全く縁のなさそうな場所だ。村の人たちもこの珍しい来客に興味津々だったのだろう。
実際砂漠の北のオアシスについては、こちらの地方でもそろそろ伝説になりかかっていたこともあって、今でもそこでみんな元気に暮らしていることを話したらそれだけで大満足してもらえたくらいだ。
もしこれでティアの正体やキール/イルド、アラーニャの呪いのこととかまで話したらどれほどびっくりしてもらえるかとも思ったが、さすがに過ぎたるは及ばざるがごとしだろう。どん引きされてまた砂漠に放り出されないとも限らないので、適当な理由をこしらえておいたが―――アラーニャの父親が実は砂漠を渡ってきた人で、その人の遺言で故郷のバシリカに向かおうとしているとか何とか。
そうしたらまた親切に南への道を教えてもらったりして―――だからここらでこちらも感謝の気持ちを伝えておかなければならないだろう。
ティアは肘でアラーニャをつついた。
「そろそろやろっか?」
「え? ほんとうに歌うんですか?」
「もちろんよ。大丈夫だって。いつも通り歌えば……」
「でも……」
「みんなに良くしてもらったじゃない。お返しみたいなものよ」
アラーニャは恥ずかしそうにうなずいた。
「それじゃ皆さん」
一同がティアの方を向く。
「この一週間、見ず知らずの私たちにご親切、ありがとうございました。そこでほんのささやかなことなんですが、ちょっと歌います」
一同から歓声が湧く。
「おー! 頑張れよ!」
一番盛り上がってるのはイルドだ。あのバカは既に酔っぱらっているようだが―――よく飲めるな? さすがにちょっとここのお酒は口に合わないというか、何か酸っぱいし、悪酔いしそうなのだが……
「それじゃいきまーす!」
そういってティアは歌い始めた。
それは中原ではよく知られた民謡の旋律だった。
村人もそれは結構知っていると見えて、足でリズムを取ったり一緒に鼻歌で歌ったりしている。よしよし。
ワンコーラス終わったところでティアはアラーニャをちらっと見た。少々上気しているようだが、彼女は軽くうなずく。
続いて彼女がツーコーラス目を歌い出したのだが、それを聞いた村人達から低いどよめきが上がる。
それは旋律は同じなのだが、あちこちにころころとした装飾が入って、綺麗な透き通ったソプラノの声色と相まって、もはやただの民謡ではなくなっていたからだ。
人々は目を丸くしてアラーニャの歌声に聞き入った。こうしてツーコーラス目が終わる。
《それじゃ聞いて驚きなさいよ?》
そしてティアはスリーコーラス目を歌い出す。
だがそれはワンコーラス目と同じ単純な旋律だ。人々が一瞬残念そうな表情になったそのときだ。アラーニャがティアの歌声の上にオブリガート旋律を重ねてきたのだ。
そして二人の歌声が絡み合い、ときには対立しながら最後の終止和音に行き着いたときには、あたりはしんと静まりかえっていた。
多分みんなそういう曲を聴いたことがなかったのだろう。一瞬ティアまで滑ったのかと心配になったくらいだ。
―――だがそれからは村中の大喝采だ。
「はいはーい。こちらが歌姫、アラーニャちゃんで~す!」
「ティア様ったら」
アラーニャも赤くなっているがまんざらでもなさそうだ。
《っていうかもう、もっと早く教えてくれれば良かったのに。恥ずかしがり屋なんだから……》
彼女が実は歌好きだということが判明したのはヌルス・ノーメンを出てからの話だった。
あの事件以降、彼女とは前よりずっと親密になれていた。
それまでは何となく距離を置いたつきあいだったのだが、色々わだかまりが取れたこととか、彼女がティアのおかげで魔法がちゃんと使えるようになったと信じていることとかで、両者を隔てていた垣根が随分と下がったのだ。
そしてあの、アラーニャが“魔法制御”に成功した次の日のことだ。ラクダの上でティアが鼻歌を歌っていると、アラーニャが綺麗な歌ですねと興味を示してきたのだ。
そこで彼女にちょっと教えてみたところ、実はかなりの歌い手であることが判明したのである。
彼女が言うには聞かれると恥ずかしいから、ティアの近くでは歌っていなかったのだというのだが……
《そういえば初めてオアシスに来たとき、彼女歌ってたっけ……》
そのことを訊いてみると、とっても怖かったんで気を落ち着けるために思わず歌ってみたらしいが―――おかげで変な歌になってしまって、とのことで……
ともかくそれ以来彼女には、単調な旅の暇つぶしにいろいろと都の歌などを教えていた―――旅の後半ではそれどころではなくなっていたが……
今日歌ったのもその一つで、デルビスとパライナの十八番のひとつだ。ルナ・プレーナ劇場でもアンコールで時々歌う歌だが、元は酒場で歌うために編曲したのだという。そういうところの客はよく知っている旋律の方が受けがいいと言っていたが、確かにその通りだ……
―――そんなことを考えていたときだ。
「あんたたち、本当に上手なんだね~」
村長さんの奥さんが感慨深そうに言った。
「いえ~、それほどでも~」
と、いいながらつい口元が緩んでしまう。
だが、奥さんは続けて深いため息をついた。
「こんなん聞いとれば、あの子も行かんかったかも知れんのに……」
途端に村長が奥さんを叱りつけるように言う。
「おいこら! こんなときになんだ? ティアさん方には関係なかろうもんが!」
「でも~」
「え? あ、あははは。大丈夫。気にしてませんから」
そういってティアは二人に手を振った。
とは言っても、奥さんの立場から言えば仕方のないことなのだ―――というのは、その奥さんは何年にも前に息子さんを亡くしているのだが、その理由というのが何とヴェーヌスベルグの女達にさらわれていってしまったというのだ。
ヴェーヌスベルグは北のオアシスでは伝説だったが、ここでは実際に砂漠の向こうに存在している現実だった。
そこは呪われた女だけの世界で、彼女たちは定期的に周辺の村に現れては男をさらっていってはこの世の物とも思えないほど甘美な歓待をしてくれるという。
だが一度その歓待を受けてしまうともう二度とこちらの世界には帰ってこられないのだ。
『さらうって、女が大人の男を? 魔法かなんか使ってるの?』
その話を聞いたときティアは思わずそう尋ねていたが、話をしてくれた村長は苦笑いしながら答えた。
『確かに魔法みたいなもんじゃろうか?』
聞けば彼女達は別に村に押し入ったりはしないらしい。
ただ月の明るい夜、妖しい格好をした女達が麗しい音楽と共にラクダに乗って村の周囲を練り歩くのだそうだが―――それだけで十分だった。どの村にも結婚相手が見つからない若い男というのは何人か居るもので、そんな男がふらふらと付いて行ってしまうのだという。
彼女達がトルンバ村にやってきたのは数年前のことだが、そのときに付いていってしまったのが村長の三男だった。
《こんな村で男手が減ったら大変よねえ……》
と思いつつも、こんな場所で嫁にあぶれた三男の気持ちも分からないではない。聞けばずっと村を出て行きたがっていたそうだが……
などと思っているとイルドが隣の村人に尋ねているのが聞こえてきた。
「へへ。その女達って美人なのか?」
「そりゃあまあ、砂漠の悪魔なんじゃから、びっくりする程綺麗に決まっとるがな」
「へえ……そりゃ拝んでみたいなあ」
おいこら!
ティアがぎろっと睨んでいるのに気づいてイルドは慌てて素知らぬふりをするが―――まったくもう、油断も隙もない!
というか、これまでは砂漠で三人きりだったからよかったが、これからは多かれ少なかれ他人と関わることになるわけで……
《うへー……》
このバカの手綱はよっぽどしっかり握ってないと大変なことになりそうだ。
そのとき村長の奥さんがティアに言った。
「これから南に行くってなら、気いつけたほうがええよ。南の方でまた出てたって聞いたからね。まあ嬢ちゃん方なら可愛いから大丈夫と思うがね」
え? かわいい? うふふ! じゃなくって!
「出てたって、そのヴェーヌスベルグの人が?」
「ああ。ありゃ本当に男には目の毒じゃわ」
「見たことあるんですか?」
「……まあ」
うっかりそう訊いてしまって奥さんがまた沈んでしまったのを見てティアは慌てて尋ねた。
「あはは。でもそれだったら帰ってもらったらいいのに」
「なに? 追い返せってかい?」
「うん」
それを聞いて奥さんは肝を潰したような顔をした。
「いや、だめだよ? そんなことしたら、村ごと滅ぼされてしまうんだわ」
「ええ? 村ごと?」
「ああ。そんな風に滅びた村がいくつもあるそうだが」
ちょっと待て。村に押し入ったりはしないと言っていなかったか?
ティアとアラーニャは顔を見合わせた。
「でも別に突っかからなけりゃどうもしないさね」
「はあ……」
本当に大丈夫なのだろうか? 心配になってきてしまうが―――まあ、ここの人たちが大丈夫と言うのなら大丈夫なのだろう。あのカメラーニャみたいに、こちらから余計なちょっかいを出しさえしなければ安全なのだろう。多分……
などと思っていたらイルドの声がまた聞こえてくる。
「おい。こっちに来てるって本当か?」
「ああ。こないだの行商が言ってたさ」
「へへッ!」
下心丸出しの笑いまで丸聞こえなのだが―――要するにそこがちょっとだけ不安の元ではあるのだが……
こうして宴も終わり、ティア達は彼女達の小屋に戻った。
「ああ! お腹いっぱい!」
ティアは小屋の中を見回した。その小屋は村はずれの物置になっていたところだが、アラーニャと一緒にせっせと片付けたせいで今では結構綺麗で住みやすくなっていた。
だがこことも今夜でお別れだ。こんな所でも出て行くとなるとちょっと後ろ髪引かれる思いがする。
そんな思いはアラーニャも同じようだった。
「いい人達ですね。ここの人たち」
それを聞いてイルドがにやにやしながら言う。
「そうだな。何なら残るか? 女には不自由してるみたいだしな」
アラーニャはとんでもないという様子で首をぷるぷる振る。確かにいくら周りがいい人達でも、さすがにここにずっと住むのはちょっと……
「それはそうと聞いた道はちゃんと覚えてるんでしょうね?」
「あったり前じゃないかよ」
「だといいけど」
「あん? 信用してないな?」
「まあね」
こいつのことだ。うっかりすると迷ってしまってから実はよく聞いていなかったとか言い出しかねない。
ティアはため息をついた。
村人の前では変身したり不自然に入れ替わったりできないから、村に入る前にキールに変わっていれば良かったのだが―――あのときは正直そんなことに気を回している余裕はなかった。
《あのときあれだけヘロヘロじゃなかったら……》
村に到着したときは比喩でもなんでもなく“命からがら”だった。目が覚めてからイルドの奴がしれっと『今度ばかりは俺も乾いちまうかと思ったぜ』などと言ったくらいだ。
あいつがそんなことを言うなんて、既に乾きかかっていたとき以外あり得ない。
実際水がどう節約してもあと一日~二日分しか残っておらず、それが尽きたら本当にどうにもならなかったところらしい。そんな状況でもイルドだから平気でいられたのであって、キールに変身したときはずっと胃が痛くてしょうがなかったそうだ。
キール/イルドの場合、変身すれば空腹ならある程度我慢できるらしいが、喉の渇きだけはどうしようもないのだという。そのため食料は随分彼の分をティアやアラーニャに回してくれていたらしいが……
そんなこととは知らず、ティアもアラーニャもイルドが元気だから大丈夫と思って何とか頑張って来られたのだ。
目覚めてからその話を聞いて、ティアは素直に涙が出てきた。
何だかんだ言ってもこいつはいい奴だし、信頼も置け―――ないこともないのだ。アラーニャとのことさえなければそのまま首に抱きついてキスの雨を降らしてしまいそうだったが、それは都までおあずけの約束だ。
《そうなのよ。とっとと都に着いちゃえばいいのよ》
そんなことを思い出しながらティアはイルドににっこりと微笑んだ。
「なんだよ? 気持ち悪いな?」
「あん? 気持ち悪い? 何がよ?」
「いきなり笑ったりするし。どっか調子が悪いのか?」
このガキは……
「うるさい! とにかくそれで……道は分かってるんでしょうね?」
「ああ? だから村から南に道があるから、それに沿っていきゃいいらしいぜ。そうしたら一週間くらいでマルテって村に着くらしいから、そこからロギスモス越えの道が出てるらしい」
「道がついてるのよね。今度は?」
「行商が来たりしてるから、大丈夫だろ?」
それを聞いてアラーニャが嬉しそうに言った。
「じゃあ、もう普通に旅できるんですね?」
「ああ、そうだな」
アラーニャも微笑んだ。
実際あの砂漠越えはきつかったなんて物ではない。正直もう二度とご免なのだ。
もちろんこれからの道程が楽なわけではない。
だが少なくとも朝出発して行動して夜寝ることはできる。そんな当たり前のことがこんなに嬉しいとは!
「それより、その先は大丈夫なんだろうな? 峠を越えた後は?」
イルドの問いにティアは胸を張って答えた。
「峠の後? 本当にバシリカに着けばもう大丈夫よ。何とでもなるから」
話ではロギスモス峠を越えると旧ウィルガ王国の都だったバシリカに着くという。
「本当なんだろうな」
「あん? 信用してないわけ?」
「そういうわけじゃないけどな」
この野郎に疑われるというのは、なんかすごくムカつくのだが……
「あんたねえ、あたしがル・ウーダ一族だったって話はしたわよね?」
「ああ。聞いたが?」
「じゃ、分かるでしょ?」
「何が?」
ティアは大きくため息をついた。
「キールにはいっぺん話したでしょ? 一緒に聞いてなかったの?」
「そんなことあったか?」
キールとイルドは互いに相手が表に出ているときも意識はあるのだという。単に体のコントロールが効かず相手の動くなりになっているそうなのだが。そのためイルドの見聞きしたことは大体キールも覚えていた。
だがその逆だと本人曰く『大切なことしか覚えてない』らしいのだ。
《これって大切じゃないわけ?》
いや、大体分かってるのだが。こいつの大切なことというのは、アラーニャの魔法練習中にうっかり入ってしまったときとか、オアシスの水浴びでぽろっとやってしまったときとか、“そんな時”なわけで―――そういうことに関しては実に詳細に覚えていやがったりするわけで……
ともかく……
「えっとね、あんた、さすがに大聖様のお話くらいは知ってるわよね?」
「あ? そりゃ当然だろ」
「じゃあそん中でル・ウーダ一家が何の職業だったかも知ってるわよね?」
「ああ。荷馬車屋だろ?」
「そうよ。ってことは、わかるでしょ?」
「は? 何が?」
ティアは大きくため息をついてから言った。
「だ~か~ら、荷馬車の組合に顔が利くってことよ。組合ならバシリカにだってあるんだから、そこに行けば都までくらいツケで乗せてってくれるのよ。それにママの実家があったりもするし」
そこまで説明してイルドは納得したようだ。
「ああ! そうだったんだ!」
なんかちょっとがっくりだ。前キールに話したときは、彼女がル・ウーダ一族だって言っただけで通用したのだが……
それはともかく、この件に関しては間違いない。
都の小公家はその伝説的な出自にちなんだ業界の元締めをやっている。
農家出身のアスタル一族は農産物市場、鍛冶屋のカマラ一族は鍛冶組合などだ。
そして荷馬車屋上がりのル・ウーダ一族は同様に、各地の運送業の元締めをやっていることが多いのだ。
またその仕事柄、都から出て暮らす者も多く、結構広い範囲に一族のネットワークがあった。彼女の父親が気軽に囲碁修行に出られたのもそのせいだ。
そしてティアは今、一族の中では知らぬ者のない存在だった―――何しろ一時はメルフロウ皇太子の妃だったのである。もし“彼が存命”だったらなら現大皇は彼で、彼女は大皇后なのだ。
ル・ウーダ一族は小公家の中でも格式が低かったので、そういう政治的なことにはあまり関わってこなかった。おかげでそのときには本当に一族中が大騒ぎになったものだ。
そして皇太子が“病没”してしまった後は、何というか安堵の空気が流れたのを覚えている。
《まあ、確かにそんな柄じゃなかったけどね……》
時々ふと思うことがある。もし今ファラの座している場所に自分が座っていたとしたならば、一体どんな気分なんだろうかと?
でも正直、今ひとつうらやましいとは思えないのだ。
特に今のファラを見ていると……
《あれって……結局どうだったんだろう?》
あのときはああでもしなければ都落ちしかないと思って、それだけは避けるべくみんな頑張ったのだ。
でも何というか今、それこそこんな地の果てで半乾きになったりしてはいるが、それでも今まで味わったことのない充実感を感じているような気がするのだが……
今日の羊の丸焼きとか、ヌルス・ノーメンのマルムとか、オアシスのココメロとかアラーニャちゃんの朝粥とか―――あれ?
ティアがなぜ食べ物のことしか思い出せないのか考えようとしていたら、イルドが彼女の顔の前で手を振った。
「おーい!」
「何よ?」
「明日は早朝に出発するから、今日はとっとと寝とけよ? それとも一人が寂しきゃ……」
こいつは毎晩毎晩毎晩毎晩同じギャグを……
「寂しかったらアラーニャちゃんと寝るわよーだ!」
「ああ? おまえそれって不健全だぞ?」
「おのれに健全を語る資格があるか!」
なんか最近もうこれがおやすみの挨拶のような気が……
ティアはイルドを部屋から追い出すと寝床の準備をしてごろんと横になった。
暖かな干し草の香りがする。それからアラーニャの方を見ると―――彼女はまた諸肌脱ぎになっている。
「明日は早いから、今日は寝たら?」
「ちょっとだけ練習してから、それから寝ます」
「あ、そう。それじゃおやすみ」
「おやすみなさい」
あれから夜、寝る前に彼女はずっとこうして練習をしているのだ。おかげでティアにはもう完全におなじみの光景になっている。
もちろん砂漠の旅の終わりの頃はそんな元気もなかったが、トルンバ村に着いてからはまたこうした日課に戻っていた。
アラーニャがじっと床の石ころを見つめながら胸をそっと掴むと、ふわっと石ころが浮かび上がった。しかも以前は一つの物をふらふら動かすのがやっとだったのに、今では頑張れば二つを動かせるようになっている。
《うわあ……》
蝋燭の明かりにアラーニャの真剣な表情が浮かび上がっているが、そんな彼女はちょっと素敵だ。
ティアはそれをちょっと複雑な気持ちで眺めながら、うとうとと眠りに落ちていった。
一寝入りしたと思ったときだった。
「……ィア様、ティア様!」
アラーニャの声がする。
「んん? どうしたの?」
「それが……」
ティアは寝ぼけ眼をこすりながら目を開けたが―――まだ真っ暗だ。小屋の窓から月明かりが差し込んでいるだけで……
そのときティアはちょっと普通と違うことに気がついた。
小屋の外からなにやら音楽らしき物が聞こえてくるのだが……
《音楽⁉》
誰がこんな深夜に?
ティアが上半身を起こすと、寝間着姿のアラーニャがくっついてきた。
「何の音楽?」
まだ頭がはっきりしないが……
「それが、もしかしてあれって……」
アラーニャはティアの寝間着の裾を引っ張って窓際まで連れて行く。
そこから外を覗いて―――ティアは思わず声を上げた。
「えええ?……むぐっ」
アラーニャが慌てて後ろからティアの口を塞ぐ。
すぐにティアも気づいてアラーニャの手をぽんぽん叩いてうなずくと、今度は二人で肩を並べて窓の外を覗いた。
彼女達が泊まっていた小屋は村外れなので村境の柵がすぐ側にある。その先には不毛な荒れ地が広がっているのだが―――今そこに月明かりの下、ラクダが三頭ゆっくりと動いているのが見えたのだ。
そのラクダの背には四角い荷台のような物が乗せられていて、小さな篝火が焚かれている。
その荷台に人が二人ずつ座っているようで、音楽はその上に乗っている誰かが奏でているようだ。草笛のような何か素朴な音色で、しかも微妙に音程がずれてるような気もするが―――それが妙に寂しげな感じで雰囲気にマッチしている。
「練習のあと寝ようとしたら聞こえてきて……」
「これって……まさか……」
いやまだそうと決まったわけではないが―――でも状況は昼間聞いた話とすごく符合しているのだが……
「南の方に来てたって行商の人が言ってたんですよね?」
ティアはうなずいた。だとしたら彼女達がここに来たって別におかしくはない。だが……
「まだそう決まったわけじゃ……」
と言いかけて、ティアとアラーニャは同時に息を呑んだ。
《!?》
真ん中のひときわ大きなラクダの背の上で誰かが立ち上がったのだ。
それは見間違えようもなかった。若い女性だ。
しかもその身には何も纏っていない。
その女性は体中に油を塗っているのか、その見事なプロポーションに篝火と月明かりが妖しく反射して淡くきらめいている。
次の瞬間、太鼓に合わせてまたあの笛の音が聞こえてきた。
すると今度はそのシルエットの女性がラクダの背の上でくねくねと踊り始めたのだ。
《!!》
こうなってはもう間違えようがない! これがヴェーヌスベルグの女達に違いない!
ティアとアラーニャは思わずその踊りに見入っていた。
《でも、これって……》
なんだ? 何と言えばいいのだろうか? 一糸纏わぬ女が男を誘惑する踊りを踊っているのだ。女のティアから見てもひどく扇情的ではあるが―――そんなに卑猥という印象は感じない。
月光のステージという神秘的な舞台だからだろうか?
いや、その要素もあるがティアには分かった。
あの女性は一流の舞姫なのだ!
ルナ・プレーナ劇場ではバレエの公演も良く行われたが、そこでの演目はもうほとんどが男女の愛をテーマにした物と言って良い。すると当然クライマックスでは愛の踊りになるわけだが、演出家によってはストリップダンスすれすれの振り付けになることもある。
でもそれが一流のダンサー達によって踊られると、何か次元の違ったとても美しい舞と化すのだが―――今見ている光景からはまさにそのときのことが思い出された。
「綺麗ですね……」
横のアラーニャが思わずつぶやいた。
「うん」
ティアの相づちに気づいて、アラーニャは慌てて口を塞ぐ。
ティアはにやにやしながらささやいた。
「あれ。すごく上手だと思うわ」
「そうなんですか?」
「間違いないわよ」
あの後試しに本当にそういう場所に行ってみて、辟易して帰った記憶があるから自信を持って―――げふんげふん。
それから二人でまたその踊りに見入っていたのだが、やがて音楽がふっと止むと、踊っていた女性は姿を消してしまった。
《第二ステージが始まるのかしら?》
ティアは今度はどんなステージになるのだろうと、ちょっとわくわくしながら続きを待った。
だが……
「あれ? 帰っちゃいましたね?」
「え? ええ……」
それだけだった。
ラクダの一行はそのまま村から去って行ってしまったのだ。
ティアとアラーニャはぽかんとして顔を見合わせた。互いに少々欲求不満という顔だ。二人ともちょっと息が荒くなっているが―――それにしても確かに目の毒だ。
「どうせならもうちょっとやってくれてもよかったのに」
「そうですね」
二人はそんな会話をしながら思った。
いや、なかなかいい物を見せてもらった―――彼女達でさえそうなのだ。もしこんな物を若い男が見たりしたら……
《若い男が見たら?》
………………
…………
しかもそいつがちょっと女日照りだったりした日には……
………………
…………
……
ティアとアラーニャは同時に振り返って互いの顔を見合わせると―――全力で隣の部屋に突入した。
「イルド!」
「イルド様?」
その剣幕に隣室の窓に張り付いていたイルドがびっくりして振り返る。
「うわ! なんだよ?」
それを見てティアとアラーニャは同時に大きく安堵のため息をついた。
「今の、見た?」
「え? まあな。いや、すごい体だったな」
こいつが見るのは―――まあそこだけだと思ったが。
「はいはい。いいもん見られたんだからとっとと寝なさいよ? 明日は早いんだからねっ!」
「分かってるって」
ほっとして二人は自分の部屋に戻った。
―――魔が差すというのはこういうことを言うのだろうか。
為さねばならなかったことをつい怠ってしまって、取り返しの付かない結果になる―――どうしてと後から悔やんでも遅いのだが……
ともかく人生の陥穽とはこんな所でこっそり口を開けていたのだった。
「あんの馬鹿がぁぁぁぁ!」
翌朝、空っぽの隣室を見てティアは心底後悔していた。
何で思い浮かばなかったのだろうか?
昨夜隣にいたのはイルドなのだぞ? 奴なら必ずや、やるに決まっていたことを……
ティア達は前の晩、比喩でも何でもなくあの男の首に縄をつけて交代で見張っておかなければならなかったのだ。
そういった用心を怠った結果がこれなのだ。
「どうしましょう?」
ティアはおろおろしているアラーニャの両肩を掴んだ。
「どうもこうもないでしょ! 追うわよ!」
「は、はいっ!」
ティアとアラーニャが慌てた様子で彼女達のラクダの縄を解いていると、村人達がやってきて不思議そうに尋ねた。
「どうなさっただね? そんな慌てて」
「それが……」
ティアが事情を説明すると村人達も真っ青になった。
「なってこった!」
「あの人達の行き先って見当つきます?」
「どこか見通しの良い丘の上でキャンプしてると思うがね、行ってどうするんだね?」
「もちろん連れ戻すんだけど」
そう言った瞬間に村人は強い調子で首を振る。
「だめだが!」
「どうして!」
「もう遅い。朝まで帰ってこなかったってこた、もう歓待を受けてしまってるに違いねえ。そうなったらもうだめだが」
「だめだって、何が?」
「そいつはもう呪われてしまったが」
また呪いか!
ティアとアラーニャは顔を見合わせた。
だが呪われてるとか言われて一々躊躇していたら話が始まらない。二人は黙ってラクダによじ登る。
「どうするんだね?」
「もちろん行きます」
「でも」
「おじさん達には迷惑かけませんから!」
引き留める村人を振り切ってティア達は女達の後を追った。
追跡は簡単だった。
昨夜彼女達が現れたあたりには数頭分のラクダの足跡がはっきりとついていて、それを追っていくのに何の困難もなかったからだ。
そうして小一時間ほども追跡したときだろうか。
「あ、あれ!」
アラーニャの指さす方を見ると、ちょっと小高くなっている丘の上に三角のテントが張られていて、その側にうずくまったラクダの姿が見える。
「あそこね!」
二人は全力でその丘に向かった。
彼女達は特に妨害も受けずにそのキャンプにたどり着いた。
そのときになってティアは少し不安になってきた。
《もしかして……これって罠?》
ちょっとあっさりとたどり着きすぎただろうか?
ティアは注意してそのキャンプを観察した。
綺麗な刺繍の施された三角のテントの脇に簡易テーブルがしつらえてある。側のたき火はすっかり消えている。ちょっと離れたところでは女達のラクダが二頭うずくまっていて、もう一頭はのんびりと草を食んでいる。ティア達がやってきても誰も出て来ない。
「えっと……ティア様?」
アラーニャも不安そうだ。ティアも急に恐ろしくなってきたが、ここで怖じ気づいてしまったらおしまいだ。
「大丈夫よ。多分」
ティアは最大限の空元気を出すと、アラーニャの手を取ってそろそろとキャンプの中に進入した。
「あの~……」
ティアはテントに向かって声をかけるが―――返事はない。誰もいないのだろうか?
だがそのとき風向きが変わると、ふっと甘い香油の香りがティアの鼻をとらえた。
《これって……》
間違いない! 女の臭いだ!
ティアはテントの入り口にまで歩み寄り、それから振り返ってアラーニャの顔を見る。
アラーニャもこくっとうなずく。それからティアはテントの入り口を、ばっと開いた。
汗と香油の混じったようなむっとした香りが鼻をつく。
そこに彼女達が見た物は……
「イールドーーーっ! あんた何してるのよっ!」
裸の女達に埋もれてすやすや眠っているイルドの姿だった。
ティアの叫び声に女達が慌てて体を起こす。
「きゃああああ!」
「なに?」
「えええええ?」
パニックになったのは女達の方だ。
「ちょっと! なによ? あなた?」
「なによじゃないでしょ? 人の……連れを勝手に連れてっといて!」
「ええ?」
「見張りは? 見張りっ!」
「ああ! アカラ! 何でそんなところに!」
「ええ? マウーナが……」
などという騒ぎになって初めてイルドは目を覚ましたようだ。
「うおお? どうした?」
その頃には怒りのため、怖さも何も吹っ飛んでいた。
ティアはつかつかとテントの中に入り込むと、イルドに馬乗りになって一発平手打ちをかませる。それからぎろっと睨み付けると言った。
「用事は済んだ? じゃあ帰るわよ?」
「えーっと……」
まだイルドは寝ぼけているようだ。そして起き上がろうとすると―――服を何も着ていなかったので、寝起きでそそり立っている物がにゅっと顔を出す。
………………
「服を着ろーっ!」
「あ、ああ……」
さすがにイルドも慌てて服を着始める。
そんな様子を女達は呆然として見ていたが、やがて女の一人が尋ねた。
「あの、あなたは?」
ティアは振り返った。女は一糸纏わぬ姿で、前を隠そうともしていないが―――いや、見事な肢体だ。女のティアから見ても惚れ惚れしてしまいそうなおっぱいが―――じゃなくって!
「すみません。ご迷惑だったでしょう? すぐ引き上げますんで。こいつを回収したら……ほら! もたもたしてるんじゃないわよ!」
そう言いながらイルドをごつんと殴っているティアを見て、女は目を丸くした。
それから彼女はイルドに尋ねた。
「あの、イルド様?」
「え?」
「この方々は?」
女はティアとアラーニャを指した。
イルドはあからさまに挙動不審になる。
「えっと、その……ちょっとした知り合いだ」
はああ?
今度はティアがイルドの胸ぐらを掴む。
「へええ~? ちょっとした、知り合い? そりゃたった一年じゃそうかも知れないけどね? あたしとは。じゃあ、アラーニャちゃんはどうなの? ちょっと十年くらい前から一緒だっただけかしら?」
「いや、だから……」
それを聞いて女の方が青くなった。
「あの、イルド様? それって本当なのですか?」
ティアがその女の顔を見ると、どうも本気で驚いているようなのだが……?
「ん? まあ……」
途端に女は怒り出した。
「どうなさるんですか? こんな可愛い恋人が二人もいるなんて……」
それを聞いたアラーニャが反射的に答える。
「いえ、その、恋人とかそういったことじゃ……」
いや、だから、そんな弱気じゃだめだから―――じゃなくって!
そんな彼女にその女性は言った。
「でも大切な方なのでしょう? こんな所まで追って来る以上……」
「え? まあ……」
それを聞いて女性は振り返ってイルドを見た。
「夕べ申し上げましたよね? 本当にもう後戻りはできなくなるのだと」
「ん、まあ……」
そっぽを向いているイルドを見てその女は深くため息をつくと、ティアとアラーニャの前で平伏した。
「申し訳ございませんが、事情はお話しいたしますので、ここはお引き取り願えますか?」
「いや、いきなり引き取れと言われても……事情って?」
「事情と言いますのは……ああ、この格好では失礼ですね」
女は初めて自分が裸なのに気づいた風だ。
周囲の女も慌てて服を着始める。
《えーっと……》
これが本当にヴェーヌスベルグの人たちなんだろうか? 何というか、呪われた魔女という印象ではないのだが……
女達はすぐに身支度を終えると、テントの中に輪を描いて座った。
それから先ほどの女が口を開く。
「私はヴェーヌスベルグのアーシャと申します」
「あ、あたしはエルセティア、彼女はアラーニャです」
礼儀正しい彼女に二人も反射的に礼を返す。
《えっと……なんだろう? この展開は……》
と思っているとアーシャが言った。
「あなた方もヴェーヌスベルグのことはご存じでしょうね?」
「ええ、まあ」
「私どものことに関して色々な噂が流れているのは存じておりますが、あれはおおむね真実と思って頂いて構いません」
ティアはうなずいた。そうだろう。見たところそんなに悪そうな人たちにも見えないし、何かの誤解でそんな噂が……
………………
って、今なんて言った?
「あの、今、“おおむね真実”って言いました?」
「はい」
「………………」
えっと―――てことは?
ぽかんとしているティアとアラーニャに、アーシャは話し出した。
「私どもの国ヴェーヌスベルグは、かつてミエーレと呼ばれたオアシスにございます。そこが女だけの国だというのは事実です。そして私たちが、呪われているのもまた……」
「えっと、その、呪われてるって……」
もしそれがアラーニャのような場合なら無問題なのだが、ティアはすごく嫌な予感がしていた。
「はい。私たちと交わった男は、その呪いのために半年もせずに死んでしまうのです。そのために私たちは女ばかりの国になってしまったのです」
………………
…………
「え? あ……」
なんだってぇぇぇ?
「これは私の祖母の祖母の時代からの呪いで……でも私たちは一族を滅ぼしたくありませんでした。だからこうして男の方を集めておりました。来て頂いた男の方には、私たちにできる限りのおもてなしを致しておりますが……でも、決してこちらから無理強いすることはございません。だから最初にまずそういうことを説明して、もし大切な方がおられるようでしたらこちらからお断りしていたのですが……」
そう言ってアーシャはちらっとイルドの方を見た。
ちょっと待て! これってどういうことだ?
「えっと……その、今のって本当なの? その、あなた達とその、交わったらって、それって要するに一緒に、その寝るってこと? そうしたら死んじゃうって?」
なんかの言葉の綾ってものではないのか?
だがアーシャは首を振った。
「いいえ、嘘ではありません。私もみんなもこれまで何人もの男の方を看取って参りました。今まで私どもの所に来て生きておられる方はございません」
………………
…………
……
ティアはアーシャと女達の顔を見る。
からかっているようには見えない。
アラーニャの顔を見る。
彼女は―――ちょっと目の焦点が合ってないようなのだが……
それからイルドの顔を見る。
こいつは―――本当に状況が分かっているのか?
だから何なんだ?
えーっと……
えーっと―――要するになんだ? 彼女達の言うことが本当だと仮定しよう。
すると彼女達と交わった男は半年で死んでしまうわけだ。
ここでイルドの馬鹿は夕べは弁解の余地なく彼女達と“交わりまくっていた”わけで―――ゆえに、奴はあと半年で死ぬ、と、そういうことなのかな?
えーっと……
えーっと……
その意味が脳に染み渡っていくに連れて、ティアの顔からは血の気が引いてきた。
それから振り返ると幽鬼のような声でイルドに尋ねる。
「あ・ん・た~……今の本当なの?」
「え? まあな」
「まあなじゃないでしょうが! 一体どうするのよ?」
「一体って、そりゃ……」
「ねえ、本当に今までみんな死んじゃったの?」
女達は暗い顔でうなずいた。
「あはは。あたし達をだまして追い返そうとして、そんな話を……」
だがそれを聞いて女達は怒り出すどころかうつむいて泣き出してしまった。
《いや、マジ本当なの? これって……》
頭の中は真っ白だ。
そのときだった。
「おいおい。そんな顔するなよ」
イルドの脳天気な声がする。
「誰のせいだと思ってるんじゃぁぁぁ!」
ティアはイルドの胸ぐらを掴むが、奴は涼しい顔だ。
「だからさあ、呪いなんだろ? これって」
「は?」
イルドは女達ににこやかな笑顔を向ける。
「お前達もあんまりくよくよするなって。大丈夫だ。こいつがいるから」
イルドはそう言いながらティアを指さした。一体何を考えてるんだ? こいつは……
《って、まさか……》
………………
―――そのまさかだった。
「そこのアラーニャも前は呪われてたんだけど、こいつが呪いじゃないことを教えてくれたんだぜ」
女達は驚いたようにティアを見た。
「だからさ、彼女達の呪いって、どんな魔法の初期発動なんだ? 勿体ぶってないで教えろよ」
………………
…………
……
ティアの頭の中で血管がぷちぷち切れる音がした。
「……らん」
「あ?」
「知らんっ!」
「え? どうして?」
「どうしても何も、知らない物は知らないって言ってるのよ!」
「え?」
イルドはぽかんとした顔をした。
「だーかーら、そんな魔法、見たことも聞いたこともないって。Hしたら相手を殺しちゃう魔法なんて!」
思わずティアの目からも涙がぽろぽろこぼれてくる。
それを見てイルドも悟ったらしい。
「じゃあ……」
「そうよっ! あたしにどうにかできるわけないでしょ?」
「じゃあ……」
「そうよ! あ・ん・た・は、死ぬのっ!」
「え? えええ?」
イルドの顔に初めて驚愕の表情が走る。
《こ・の・バ・カ・が……》
ティアは何だか気が遠くなってきた。
「ティア様!」
ぐったりしたティアをアラーニャが抱きとめる。
ティアはもう本気で脱力していた。そこにアーシャが言った。
「あの、ですので……」
「はい?」
「イルドさんのことは私たちが誠心誠意面倒を見させて頂きますので、エルセティアさんとアラーニャさんはどうかその、お引き取りを願えますか?」
「引きとれって……」
ちょっと待て!
ティアとアラーニャは顔を見合わせる。
確かに彼女達のせいでそうなってしまったのだから、彼女達が面倒を見るというのはある意味当然だが……
でもそうするとこれからキール/イルドなしにどうやって旅をすればいいのだろう?
いや、旅をするだけなら不可能ではないだろう。危険な砂漠越えは終わって、都へはもう道がつながっているのだ。
だがそう思っても何かぴんと来ない―――その理由はすぐ分かった。
そうなのだ。この旅はもはや単なるティアの帰郷の旅ではないのだ。
彼女とアラーニャ、それにキールとイルドが全員で都へ行く旅なのだ。
だからその中の誰が欠けたってもう目的は達成できないわけで……
そのときアラーニャがぽつっと言った。
「えっとでも……看取るなら私たちでも……」
ティアはうなずいた。
全く彼女の言う通りだ。どうせ死ぬのなら自分たちが看取ってやった方がいいのでは?
「うん。そうよ。ここで別れなくっても……イルド、どうなの?」
「………………」
イルドは半口を開けてぼうっとしている。どうやらやっとショックを受けているようだ。
だがそれを聞いてアーシャが言った。
「それはおやめください」
「どうして?」
ティアは彼女を睨む。
「呪いは男性からも移るんです」
「は?」
「だからイルドさんからあなた方に移ってしまうんです」
「え?」
「以前一度そうやって帰ってしまった人がいたんですが、その人の村の男の人が大勢死んでしまって、その村の女性が大挙して来た例があるんです。この子のおばあさまがそんな方で」
そう言ってアーシャは二つ隣にいたちょっとぽっちゃりした娘を指さした。
それを聞いたアラーニャが不思議そうに尋ねる。
「あの……帰った男の人が別な男の人に呪いを移したんですか?」
それを聞いて女達は一瞬ぽかんとしてから、一斉にぷっと吹き出した。
アーシャが慌ててフォローした。
「いえ、その方は、ちょっと女性にだらしない方でして……」
「あ、そうなんですか」
アラーニャは移った理由は納得したようだが、笑われた理由は今ひとつ理解していないようだ。
いや、さすがに彼女じゃ想像がつかなかったか。あははは、じゃなくって……
それはともかく“だらしない”と言えば―――そう思った瞬間にティアは目の前が真っ暗になった。
それからアーシャに恐る恐る尋ねた。
「えっと……この呪いって、その、彼と一緒に寝たら移るのよね?」
「はい」
アーシャはうなずく。
えっと―――ということはどういうことだ?
要するにここに一人呪われた男がいて、そいつが女と寝たらその女に呪いを移してしまうわけで―――しかもその男には正直理性なんて物が全く期待できなくて、女と見れば見境なく―――そんな奴だとしたら……
《それって絶対どこかに隔離しておかなきゃならない第一級危険人物じゃないのよ!》
ティアは振り返ってアラーニャの横顔を見た。
彼女もどうやら分かったようだ。拳を握りしめて体が細かく震わせている。
だとしたら?
選択肢は二つに一つだ。
アーシャの言うように、一つはここを去って都に帰ること。最大の難所の砂漠越えは終わっているから、後はまあ何とかなるはずだ。
《でも一人で?》
ティアには確信があった。アラーニャは来ない。キール/イルドを残して彼女が一人で来るはずがない。
だとしたら?
ティアはアラーニャに尋ねた。
「あの、アラーニャちゃん。一応聞くけど……」
「はい?」
「もしあなたが都に行きたいというのであれば、私も一緒に行ってあげるけど……」
アラーニャは即座に首を振る。
「ありがとうございます。ティア様。でも私……」
「分かってるわよ。聞いてみただけ。あたしだって一人はもう嫌だし」
「え? でも……ティア様は……」
「こうなったらしょうがないでしょ?」
その会話を聞いていたアーシャが尋ねた。
「えっと、どうなさるのです?」
「もちろんついてくわよ」
「付いて行くって?」
「ヴェーヌスベルグまでに決まってるじゃない! このバカ放っては行けないでしょ?」
それを聞いてイルドは混乱した表情で言う。
「ええ? でもお前ら……」
「やかましい誰のせいだと思っとるんじゃ!」
ティアはイルドの頭をまたごつんと叩いた。
それからアラーニャと並んでアーシャ達の方を向く。
「そういうわけなんで、これからよろしく」
「よろしくお願いします」
二人がそう言って頭を下げたのを見て混乱したのはアーシャ達だ。
「えっと……でも……」
「あ、そうだ。荷物とか村に置きっぱなしじゃないの。取ってこなくちゃ」
「えっと……あの……」
「じゃ、すみません。ちょっとここで待っててもらいますか?」
「え? でも、その……」
「あ、もしかして疑ってる? じゃああなた手伝いにきて。結構荷物多いから……」
「え? あたしがですか?」
ティアは手近にいたヴェーヌスベルグの娘と……
「そうそう。それとほら、あんたも来るのよ! 女の子に荷運びさせるつもり?」
遅まきながらショックを受けているイルドの手を掴むと、呆然としている女達を尻目にトルンバ村に向かった。
《これってもしかして?》
フィンは考えた。なんか頭の隅に引っかかる物があるのだが―――そうだ。その呪いというのはアロザールの使ったあの“大魔法”に関係してはいないか?
あれは……
だが、じっくり考えてみれば、意外に共通点は少なかった。
男にしか呪いの効果がないというところは同じだが、呪いの移り方は全然違うし、呪いの発動した男も死んでしまうわけではないし、それにどうやってか呪いを解く方法もあったようだし……
そもそもみんなが呪いと言っていたからそんなものだと思っていたが、そもそもそうである保証もないし……
《やっぱ関係ないか?》
正直よく分からない。でももしかしたらヒントになるようなことがあるかもしれない。
そう思ってフィンはエルセティアに尋ねた。
「その彼女達なんだけど、どうしてそんな呪いに捕らわれちゃったんだ?」
するとエルセティアはため息をついて答えた。
「だ~か~ら話すって。みんなすぐそれを聞きたがるんだから。でも物には順番ってものがあるのよ」
どうやら他の皆も考えることは一緒だったのだろう。
「でね。それからあたし達はアーシャ達についてヴェーヌスベルグに行ったのよ。そうしたらね……」
今までの話もまとめたらもっと短くなりそうな気がしていたが、そんなことを言って更に時間をロスしても仕方がないのでフィンは黙って続きを聞いた。