第5章 深層の扉
一行が階段の踊り場にさしかかった時だった。
「ちょっと止まって」
ハフラがそう言って手をさしのべるとしゃがみ込んでカンテラで床を調べ始める。
「どうしたんだ?」
「これ、足跡ですよね? やっぱり」
ハフラの指したところを見ると、確かに床にうっすらと積もった埃の上に明らかに複数人の足跡がついている。
「昔住んでいた人の……じゃありませんよね?」
アラーニャの問いにハフラは首を振った。
「住んでいたのは百年以上前だと言われてますから」
「じゃあ……」
リサーンの声が震えている。
ティアはつい悪戯心が浮かんで、リサーンのカンテラの上に顔をぬっと出してにた~っと笑う。
「じゃあ~、彷徨ってる人たちかな~? へっへっへ」
「いやああああぁぁぁぁぁ!」
リサーンはそう叫んで尻餅をついて、思わずカンテラを取り落としそうになる。
その反応にはティアが一番驚いた。
「冗談! 冗談だって!」
「やめてよ! 意地悪!」
リサーンは涙目だ―――うむ。これ以上やったら刺されかねない……
「ごめん。もうしないから」
ティアはリサーンを助け起こした。
彼女達がそんなことをしている間に、ハフラとキールは冷静にその足跡を観察していた。
「踏み跡に埃が積もってます。私たちの足跡は、ほら、床が見えてぴかぴかしてますから、時間がたってるんでしょうね」
「そうだね。でもここってそんなに風も吹かないだろうし、これだけ埃が積もるのってどのくらいかかるんだろう?」
「さあ、何年かはかかるかもしれませんね」
そんな二人に対してリサーンが言った。
「で、何なのよ? その足跡って」
「分からないが、何年か前ぐらいか? 誰か来たんだろうな」
「一体何しに?」
「さあ、そこまでは……」
それを聞いてティアは尋ねた。
「ハフラの他にも誰か来てたりしたんじゃ?」
だが彼女は首を振る。
「いえ、多分違うと思います。これって大きいから男の人じゃないですか?」
「あ……」
確かに彼女の言う通り、このサイズは女の足跡ではない。だとすると―――ティアは言った。
「それじゃ遺跡掘りじゃないの?」
それを聞いてアラーニャが尋ねた。
「遺跡掘り?」
「うん。こういう遺跡からは値打ち物が出て来ることもあるから、そういう人たちがいるのよ」
そうやって出てきた様々な品が都の骨董屋などでも売っていたりするわけで……
「その可能性もありますが……」
ハフラもキールも首をかしげる。
なぜならここに来るにはヴェーヌスベルグを通過しなければならず、少なくとも数年前にそんな連中がいたなら誰か覚えているのではないだろうか? 彼女達を恐れてスルーしていったと考えれば理屈はつくが―――それとも北のオアシスの方からだろうか? だが少なくともオアシスでもそんな話は一切聞かなかったし……
などとこの場で考えていても仕方がないので、一行はその足跡を追ってみることにした。
足跡はそのまま地下三階に向かっていた。
「こいつらは二階には用がなかったってことか?」
「そんなに何もないの? ここ」
ティア達はちょっと近くの部屋を覗いてみた。確か上の階とそんなに差はない。所々に大きな機械の残骸のような物はあったが……
それを見てキールが言った。
「遺跡掘りだったらこういうのって普通調べないか?」
「うーん。多分ね」
遺跡掘りではないから何とも言えないが、では遺跡掘りでなかったのなら何なのだ?
「どうしますか? この階を見ていきますか?」
ハフラの問いにキールは首を振った。
「いや、まずは足跡を追ってみよう。多分何か目的があったんだろう。こいつらは」
確かにそうだ。この足跡の主は下に目的地があったから、二階をスルーしたと考えるのが自然なわけで―――ではその場所とは?
一行は足跡を追って地下三階に下りた。
そこも埃は少なくなっているが、基本的には上の階同様の有様だった。
階段は更に下の階に続いているように見えるが、足跡はそこから通路の方に向かっていた。
「この下には何があるの?」
そういってリサーンが下を照らすと、踊り場のところが壁になっているのが見えた。
「あそこで行き止まりなんだ?」
「はい。そう聞いています」
ハフラの情報ではこの洞穴は地下三階までで終わりのはずだった。
「この先には何があるんだ?」
「確か部屋がいくつかあって、通路はすぐ行き止まりになっていたと聞いていますが……」
そして一行が通路の角を曲がった時だ。
「あ?」
前方に光が見えたのだ。
!!
一同は驚いて身を隠した。
それから何呼吸かの間、互いの顔を見合わせる。それからもう一度怖々と曲がり角から先を覗いてみると……
前方に白い点のような光が見えた。
一同は再び身を隠して顔を見合わせる。それからまたもう一度、慎重に顔を出してその光をじっくりと観察した。
それは単に輝いているだけで、全く動く様子はなかった。
「えっと……」
ティアがハフラの顔を見るが、彼女は黙って首を振った。そりゃそうだ。こんな光があったなら、それこそ絶対記録に残っているはずだが―――ということは?
「ともかく行ってみよう」
というキールの言葉の後に……
「ええ?」
「ここに残る?」
「行くわよ!」
というおなじみのハフラとリサーンの掛け合いの後、一行はそろそろと注意深く、いつでも逃げ出せるように身構えながらその光に近づいて行った。
近寄ってみるとそこは通路の行き止まりになっていて、光はその行き止まりのちょっと手前の壁に埋め込まれた小さなガラス玉が光っていたのだった。
ガラス玉の表面は傷だらけで濁っている。
「なに? これ……」
と、問われてもみんな首をかしげるばかりだ。
「足跡……」
そのときハフラが足下を指さした。
彼らが追ってきた足跡は何だかその行き止まりの向こう側に続いているように見えるのだが……
一行はまた顔を見合わせた。
「まさか……この先があちらの世界とか?」
ティアは冗談のつもりではなかったのだが……
「ひいいいいっ!」
リサーンが悲鳴を上げて壁にべたっと張り付いた。
その勢いで彼女の腕が光る玉の下のパネルにぶち当たった―――と、そのときだ。
ゴゴゴゴゴ!
―――そんな響きと共に行き止まりの壁が開き始めて、その先からまばゆい光が差してきたのだ!
さすがにそれには全員が腰を抜かしてしまった。
それにはフィンも驚いた。
「本当かよ?」
「いや~、あれにはほんと、びっくりしたわ」
遺跡関係の伝説のなかでも特によく流布しているのが、その底に隠された秘密の扉があるといった類の話だ。だが実際にそれがあったという証拠はいっさいないのだが……
フィンは信じられないという表情でエルセティアを見る。
「何よ? あたしが大法螺吹いてるとでも?」
フィンは首を振った。
「いや、嘘付くならもっと上手につくだろ。普通。だから……」
「ああ? あたしが嘘つきだって言うのね? なによ! 本当に命がけの危険を冒して、みんなの呪いの源を探しに行ってたのよ! それをなに? メイド奴隷さんのおっぱいにまみれてた人に……」
「アホ! だから信じるって言ってるだろうがっ! こんな嘘っぽい嘘、つく奴なんていないっつってんだよ!」
「え? あれ? えっと……」
おいおい。こいつもう思考力ないだろ?
「で、どうなったんだよ? その先は?」
「ああ、それでね……」
どうやら本当に興味深い出来事が起こったらしい。
これにはさすがにフィンの眠気も吹っ飛ばざるを得なかった。
五人はしばらくそこにへたり込んで、開いた通路の先を呆然と見つめていた。
開ききった壁の先にはこちらと同じような通路が続いている。
だが決定的に違うのは、そちらには照明があったことと―――実は最初に思ったほど明るくはなかったのだが―――床も壁も塵一つなく綺麗に磨かれていることだった。
やっとの事でキールがハフラに尋ねる。
「えっと、ここで行き止まりだったんだよね? 言い伝えでは」
「ええ、はい、はい……」
「じゃあこの先ってなんなの?」
ティアがそうつぶやいたとき、後ろから歯がかちかち鳴る音が聞こえてきた。
もちろんリサーンだ。
「あちら、あちらの、あちらの……」
彼女はがくがく震えながらそんなことをつぶやいている。目の焦点が合っていないが―――これはちょっとまずいかもしれない。
そこでティアはリサーンの手を握って言った。
「大丈夫よ。あちらの世界の入り口とかじゃないわよ。どっちかというと深層の扉よ。これって」
実際彼女にはそうとしか見えなかった。遺跡の底に隠された扉があって、それを開けることができたらその先には―――といった状況の方にぴったりだったからだが……
「おお! そうか!」
途端にイルドの声がした。
「じゃあ、この下には美女が眠ってるんだな?」
途端にむくむくとキールの体が脈打ち始めるとイルドに変身する。
「よっしゃ! じゃあ行くぞ!」
そのままイルドはずんずんと奥に歩き出した。
「あ!」
慌ててティアは後を追う。
「ちょっと待て! こら!」
追いついたときには―――二人とももう扉の向こうだった。
「ティア! イルド!」
「イルド様、ティア!」
後ろからリサーンとハフラの悲鳴が聞こえる。
そのときになってティアは慌てた―――もしかして彼女は取り返しのつかないヘマをしてしまったのでは?
「ティア様~、イルド様~、そっちは大丈夫なんですか?」
アラーニャも真っ青な顔でこちらを見ている。
《そうよ。もしここがあちらの世界なら……》
ティアは自分の体をぽんぽん叩いた。
「ええ? うん。何ともないけど……」
もしそうなら自分自身が見えなくなっているはずだが、全く今までと同じで何も変わっていない。
「えっと、本当?」
涙目のリサーンが尋ねる。
「うん。本当よ」
リサーン、ハフラ、アラーニャの三人は安心のあまりそこでまたへたり込んでしまった。
そのときそのやりとりを見ていたイルドが言った。
「だな。じゃあ行くぞ!」
歩き出そうとしたイルドをティアは全力で蹴り飛ばした。
「このアホが~っ!」
「いて! 何するんだよ?」
ティアはイルドの胸ぐらを掴む。
「当たり前でしょうがっ! こんな所にいきなりずかずか入ってって、本当にあっちの世界だったらどうするつもりだったのよ?」
「え? でもお前が深層の扉って……」
「かもしれないってだけでしょ? このどアホが!」
イルドをぽかぽか殴っているティアの側に、残りの三人がおっかなびっくりな様子で入ってきた。
「いいからキールに戻りなさいよ!」
「ええ?」
「あんたがこんなとこに出てたら何しでかすか分からないでしょうがっ!」
ティアの剣幕にイルドは渋々うなずいた。
「分かったって。戻るから、ちょっと待てよ」
そう言ってイルドは背嚢から水筒を取り出すとごくんと飲んだ。
「ちょっと腹減ったし、ここらで一休みしないか?」
確かに色々と疲れたところなので、昼食には早いがちょっと一休みするのも悪くない。
「じゃあまあ……」
「それじゃビスケット出しますか?」
「あ! うんうん」
一同は輪になって座り込む。
アラーニャが例の葉っぱにくるまれたビスケットを取り出してみんなに配った。
何だか休むには変な場所のような気もするがビスケットの味が変わるわけではない。
「あ~! 美味しかった!」
そうやって人心地ついた時だ。
何だか遠くの方からブーンといった音が聞こえてくる。
「ん? 何の音?」
その方を見ると―――リサーンが叫んだ。
「あれ、なに?」
何だか膝くらいの高さの丸い円筒形の物体がこちらにやってくるのだが……
五人は慌てて立ち上がった。そいつは更に近づいてくると声を発した。
『コノふろあデノインショクハ、キンシサレテイマス』
古い言葉だが意味は分かる。
「え?」
「は?」
ティア達はずりずりと後ずさりをすると、それから振り返ってどどっと逃げ出した。
深層の入り口を抜けて最初の廊下の曲がり角まで全力疾走したせいで、上がってしまった息が整うまでには全員しばしの時間がかかった。
「なに? あれ」
リサーンがティアに尋ねるが……
「あたしに聞かれたって知らないって!」
「遺跡の……守護者でしょうか?」
ハフラが首をかしげる。
そのとき曲がり角から覗いていたアラーニャが言った。
「あの……あれ……ゴミ拾ってますよ?」
「え?」
怖々と顔を出してみると―――その物体は上から細い手を出して彼らの散らかしたビスケットの包みなどを拾って食べてしまい、更に横から管のような物を出すときゅーんという音と共に細かいゴミを吸い込んで、それから行ってしまった。
一同は顔を見合わせた。
しばらくそこで様子をうかがっていたが、それ以降は何も起こらない。
やがてアラーニャがぽつっと言った。
「もしかして散らかしたからでしょうか?」
それを聞いてティアはうなずいた。
「確かに……いきなりやってきてあんな風に散らかされたら、むっとくるわよね?」
「それで怒ったってこと? あの丸いの? じゃあもう行けないんじゃない? あそこには……」
リサーンの言葉にハフラが応える。
「そうかもしれないけど……追いかけてこなかったって事は、そこまでは怒ってないんじゃない?」
そこでティアは言った。
「要するに、子供がやってきて散らかしたから、こら! って怒ったみたいな?」
もちろん、誰も確かなことを言えるはずがない。
だがそのときイルドが言った。
「ってことは、散らかさなけりゃ大丈夫って事だな?」
「え?」
「要するに俺たちは礼を欠いていたということだ。ちゃんと礼儀正しく入ってきゃいいわけだ」
えーっと―――まあ確かにそうかもしれないが……
「よし、じゃあ行こうぜ」
といって歩き出そうとしたイルドを、ティアは引き留める。
「ちょっと待て!」
「なんだよ?」
「だからさっさとキールに戻りなさいよ!」
「ええ? いいじゃないか……」
「だめ!」
ティアの剣幕に、渋々イルドはキールに戻る。大体こいつの口から礼儀とか、一体何の冗談だ?
こうして今度は彼らはなるべく礼儀正しくその奥の区画に入り込んだ。
実際そうしていればあの丸い奴も特に文句はないようだった。
そこで再び彼らは探索を始めた。
廊下の要所要所に明かりがついていたのでそれ以降カンテラは不要だったが、明かりは小さくて数も少ないので全般に薄暗い。
「足跡の人たちはどこに行ったんでしょうか?」
それは問題だった。ここからは床が綺麗に掃除されているので、彼らがどこに向かったかはもう分からない。
「とりあえず片端から見ていくしかないかな?」
「そうですね……」
一行は周囲に注意を配りながらその区画内を探検し始めた。
その区画もおおむね上の階と同様で、通路があってそれに面して扉が並んでいる。
上の階では扉はおおむね壊れていたが、ここではみんなちゃんと閉まっている。
特徴的なのはそのうちの幾つかには、手前に丸が三つあってその奥にもう一個丸があるような―――“☣”という紋章が付いていたことだ。
「ティア、こんな紋章どこかで見たことがあるかい?」
キールの言葉にティアは首を振る。
「ううん、都の公家のじゃないし、大昔の王族の紋章とかじゃないの?」
「だよな。考えてみたら大聖様の来る前なんだもんな。ここができたのは」
「じゃあ……例えば東の帝国の紋章とかですか?」
ハフラが尋ねるが、もちろん誰にも答えは分からない。
閉じた扉は横にあるパネルを触ると開くことがすぐに分かった。
部屋に入ってみると、やはり暗い照明がついている。
中にある物はテーブルや椅子の他は、何かよく分からない装置としか言いようのない物ばかりだ。
特に特徴的なのは大きく不格好な陳列ケースのようなものだが―――奥に穴が空いていたり、一体何を入れた物だろうか?
「なんなの? これ……」
リサーンがつぶやくが、もちろん誰もが首をひねるばかりだ。
触ってみたら何か分かるかもしれないという考えは皆の頭の中をかすめただろうが、既にイルドはキールに代わっていたのでそれを実践に移す者はいなかった。
その隣には今度は不思議な形をしたガラスの器具がたくさん置いてある部屋があった。
「なんなの? これ……」
リサーンがつぶやくが、もちろん誰もが首をひねるばかりだ。
そのときハフラがティアに尋ねた。
「魔法使いの部屋ってどうなんですか?」
「え? いや、こんな道具のある所とか、見たことないけど」
ティアは間違いなく大概の人よりはよく銀の塔の内部を知っていたが、魔導師達がこんな道具を使っている姿は見たことがなかった。
そうやってその区画を全部見て回ったが、相変わらず何が何だかさっぱりだ。
分かったのはここには誰もいないということと、時々例の円筒形の奴がうろうろして床を掃除しているらしいということ、それに彼らが降りてきたのとは別の階段があって更に下の階に続いているということだった。
「じゃあ下に行ってみるか?」
もうこうなったら行くっきゃない状態だ。
そちらの階段も上下に続いていたが、こちらは上の踊り場のところが壁になっている。どうやら上の階が埋まっていたあたりなのだろう。
五人は更に下に降りていった。
下の階も上とあまり差がなかった。彼らは同様に各部屋を回ってみたが、基本的には色々なよく分からない装置があるというだけだ。
ただ上の階と違って、廊下は少し行ったところで頑丈な扉で行き止まりになっていて、そこに例の“☣”という紋章が大きく描かれていた。
その下に“3”という数字が大きく表示されている。
「この先には何があるんだろう?」
だがキールが扉横のパネルを触っても今度は扉は開かなかった。
「あれ?」
ハフラが触っても同じだ。代わる代わる全員が触ってみたが、扉は開かない。
「どうしたのかな? 壊れてるのかな?」
「大昔の遺跡ですから……」
ハフラの言葉は非常に納得がいったので、彼らはその先は諦めて行ける場所を調べることにした。
その階の部屋も上層とそんなに変わってはいなかったが、その中で一部屋、ちょっと何かが違う部屋があった。
その違和感の理由はすぐに分かった。
「何かテーブルの上が散らかってますね」
「あ!」
そうなのだ。
これまでの部屋は綺麗に整頓されすぎていたせいで全く無機質な雰囲気だったのに対して、ここは何だか雑然としている。
「あの人達、ここに来たのかしら?」
「かもしれないが……」
一同は部屋の中を見回した。だがもちろんそれで何が分かるというわけでもない。
「ちょっとよく調べてみようか?」
一行はうなずく。それから分散して部屋の中を調べ始めた。
とはいってもそれほど大きな部屋ではない。
大体十メートル四方くらいで、部屋の中央には少し大きめのテーブルがあって、その上には四角い板のようなものがいくつかと、先のとがった小さな棒がいくつか転がっている。
周囲には椅子が何脚かあって、そのクッションは一見綺麗に見えたが、触ってみると脆くなっていた。
部屋の壁沿いにはもう少し小さな机がいくつか並んでいて、そのうちの一つには楕円形の台の上に四角いガラスが垂直に立てられたものがあった。
「何だろう? これは?」
「鏡? でも透明よね」
キールとティアがそういって覗き込んだ時だ。
ぱちっと小さな音がしたかと思うと、いきなりそのガラスが明るくなった。
「わ!」
「ひゃん!」
キールとティアは同時に飛び下がる。
「なに、どうしたの?」
「それは?」
残りの三人もやってきてその装置を覗き込む。
「なにそれ? って、あ?」
見るとそのガラスの上、というか、ちょっと手前の空中に四角い枠が二つ現れていて、その下にはきらきら光る星のような物がある。
枠の横には“イド”と“通過語”という単語が書かれていた。
「これってどういう意味?」
ティアの問いにキールが首をかしげながら答える。
「さあ……イドっていうのは確か、心の奥に秘められた欲望、みたいな意味だったっけ」
「じゃあ下のは?」
「通過する言葉、としか……」
それを聞いてハフラが首をかしげながら言う。
「心の奥に秘められた欲望を通過させる言葉?」
五人は顔を見合わせた。何なのだ? これは?
「あら? え?」
そのときだ。画面を覗き込んでいたリサーンが驚きの声を上げた。
「なに?」
「これ、ほら……」
その言葉と共にきらきら光る星が動いたのだ。
「ええ? どうやったの?」
「それが、じっと見てたら動かせるようになって……何か私が見てるところに動くの!」
そう言ってリサーンは星を動かして見せた。
「すごい。やらせてやらせて!」
ティアは彼女に代わって星を見つめ始めたが―――何も起こらない。
「ええ?」
ティアが不審そうにリサーンの方に振り返ったときだ。
「あ、今ちょっと動いた!」
ティアが再び星を見つめると、今度は思い通りに動かせるようになっている。
そうなってしまえば操作はものすごく簡単で、単に星を動かしたい場所を見つめるだけだ。
「どうして最初は動かなかったのかしら?」
「慣れるまで時間がかかるのかな?」
理由はともかく残った三人も試してみたら、最初のうちは何も起こらないが、やがてふっと動かせるようになって、その後はいつでも操作できるようになっていた。
「わあ、面白いですね」
だが一つ根本的な問題が残っていた。
「で、これって何?」
リサーンが問いかけるが、もちろん誰もが首をひねるばかりだ。
そのときだった。
「あん?」
装置を覗き込んでいたアラーニャが驚きの声を上げてティア達の方を見た。
「どうしたの?」
「あ、これ……」
見ると現れていた四角い枠の一つに“あれあんあ"と表示されているのだ。
「どうしたのよ? それ」
「それが、星をその枠に合わせてじっと見てたら、何か枠が光って……思わずあれってつぶやいたら、あれって出て、びっくりして何か言ったら、またそう出て……」
「枠を見てたって?」
そう言ってティアは星をその枠に合わせてじっと睨んでみた。すると確かに枠の輪郭線が光った。
「あ、ほんとだ!」
その途端に枠に文字が追加されて“あれあんああほんとだ”と表示された。
「うわ!」
文字は“あれあんああほんとだうわ”になった。
どうやらその枠はじっと睨みながら何か言ったら、言った言葉が現れるという機能があるらしい。
だがその枠は声を聞いているのではなく読唇術をやっているらしく、顔を向けていなければ言葉は現れないし、向けていたら無声で唇を動かすだけでもほぼ間違いなく理解できるようだ。
「じゃ、下の枠は?」
リサーンの言葉にティアは下の枠を同じように睨みながら話してみた。
「ここはどうなるのかな?」
すると下の枠には“**********”と表示された。
「これって何?」
リサーンが問いかけるが、もちろん誰もが首をひねるばかりだ。
そうやってしばらく色々喋ってみたが、埒が明かない。
そのうち両方とも言葉や*が枠に入りきらないくらい長くなってしまったらしく、それ以上言葉も*も追加できなくなった。
それを見てアラーニャが心配そうに言った。
「これ、これ大丈夫ですか? 消しとかないと怒られません?」
「怒られるって誰に?」
「あの丸いのとか……」
………………
…………
確かにその可能性はあった。ちょっと食事したくらいで怒られるのだから、何が逆鱗に触れるか分からない。
一同はまた顔を見合わせる。
「でもどうやって消すの?」
「ん~……どうやるんでしょう?」
アラーニャの視線に合わせて画面上を星が飛び回ったが―――それだけだ。
それを見てハフラが言った。
「怒られたらまず謝ってから、消し方を尋ねたらどう?」
「あ、そうね。ちゃんと謝れば向こうだって分かってくれるわよ」
「そうですね。そうしましょう」
まあ、そのときはそのときだ。
それから一行はまた部屋の別なところを調べ始めた。
《って言ってもねえ……》
部屋はそんなに広くないとはいっても、何だか細々とした道具はたくさんある。
しかもガラスの瓶とかいった基本的な物を除けば、どれ一つとして用途が分からないと言って良い。
しばらく彼女達は漫然と周囲を調べていたが、そのときだ。
「あら?」
その声に皆が振り返ると、リサーンがテーブルの上にあった四角いパネルを明かりにかざしている。
「どうしたの?」
「何か、字が出てきた」
「ええ?」
リサーンの周りにみんなが集まる。
彼女の手にしていたのは枠が茶色の額縁のような薄いパネルだ。
「最初二つ折りになってたの。それで開いたら内側はこんな風になってて、最初は何も書かれてなかったのに、急に字が出てきたのよ」
確かに内側の白い部分には大量の文字や記号が書かれているが……
「なんだこれは? 暗号なのかな?」
キールの言うとおり、所々に理解できる単語が混じってはいるが、それ以上に意味不明の単語や記号に溢れていて、文章としては全く意味不明だ。
するとふっと画面に表示されていた内容が変わった。
「え? 今何したの?」
リサーンは首を振りながら答える。
「何って、ここ触っただけで……あ!」
その途端また画面の表示が変わる。
良くみるとパネルの縁の所に三角形のマークがいくつか付いていたが、そこを触ると表示する内容が変わるようだ。
「あ、こっち触ると元に戻るのね。何か本のページみたいになってるのかしら?」
どうやらその通りのようだった。
そこさえ分かれば簡単だ。リサーンはすぐにページの送り方を覚えて、次々にページを表示させていった。表示はしばらくそういった意味不明の文字列が続いていたが、あるページに一応意味の分かる言葉があった。
//受容体の過剰反応を抑える
一行はまた顔を見合わせて首をかしげる。
それからリサーンがまたページを送っていくと今度は、下記のようなコメントがあった。
//ここから判定シーケンス完全版
//SRYの有無だけに頼るとバグる。X因子発現の量的評価は必須。端折ってはいけない
もちろん、『だから何?』だ。
リサーンが更にページを送っていくと、急に謎の記号列は途絶えて今度は画面上半分に大きな蛾の絵が現れた。
その下には……
ファラエナ・ルキーナ
成虫は開張60~70mm、薄黄色の翅に赤い斑点が特徴である。幼虫は主にクリやクヌギなど樹木の葉を食べる。幼虫は10~11月に出現し、そのまま樹皮下で越冬する。幼虫は体長30mm前後で、短い黒い毛が班状に生えている……
と、どうやらその蛾の説明が書いてあるが……
「うわ! なんで蛾なんかが?」
と問われても、もちろん誰もが首をひねるばかりだ。
リサーンがページを送ると、今度はそんな調子でひたすら蛾の精細な絵と説明が続く。
やがてページが尽きたのか、それ以上先には進まなくなってしまった。
五人は我に返ったように顔を見合わせた。
「えっと、これどうしよう?」
リサーンがその額縁をひらひらさせながら言った。
「とりあえず持って帰ってみたら?」
ティアが答える。それを聞いてキールが言った。
「持って帰ってどうするんだ?」
「誰か分かりそうな人に見せられない?」
「村に誰かいるのか? そんな人が?」
「そりゃいないけど……」
都の学者に見せたら分かるかもしれないし―――と言おうとしてティアは口をつぐんだ。
なぜなら学者に見せるためには誰かが都に行かねばならないが、ティアもアラーニャも既に呪われてしまっている。
キール/イルドは呪いは効かなかったにしても呪われた女達に触れっぱなしだ。絶対に呪いまみれになってるに違いなくて、そんな奴をヴェーヌスベルグ外に送り出すなんて魔獣を野に放つようなもので……
「……そのうち来るかもしれないじゃない」
「ああ……まあそうかもな」
それを聞いてアラーニャが心配そうに言った。
「でもいいんですか? 勝手に持ってったりして……」
一同は顔を見合わせた。もちろん誰にも確かなことは言えないわけだが―――それを聞いてハフラが言った。
「本当にだめならもっと前に止められてたと思うんです。でも何も言われてないってことは……」
確かにそれにも一理あるが、でも物を勝手に持って行っていいかというとまた話は別で……
だとすれば……
「それじゃこうすればいいんじゃないかしら」
「こうって?」
ティアは不審げなリサーンからそのパネルを取り上げると、頭の上にかざして大きな声で言った。
「あの~、これ持って帰りたいんだけどいいですかあ?」
「きゃあ! ティア!」
慌ててリサーンがティアの口を塞ごうとするが、ティアはそれを押しとどめて言った。
「大丈夫だって。誰か聞いてるんなら出て来るでしょ? いいですかあ? いいんですね? 持ってきますよ? 本当ですよ? 本気ですからね~!」
「だから出てきた人が怒って、もうここから返さないとか言われたらどうするのよ?」
「あ、えっと……」
一同は顔面蒼白になった。もしそんなことになったりしたら……
だが誰も怒って出てきたりはしなかった。
その後彼らはもうしばらくあちこちを調べ回ったが、結局それ以上に意味のありそうな物は見つからずじまいだった。
「そんな感じでもうしょうがなかったら、お土産持って帰ったの。お腹も空いてきたし」
「お土産?」
「うん。上の階にね、まだ使ってない綺麗なガラス瓶が一杯あったのよ。これだけあったらちょっと貰ってってもいいだろうって。アカラがハーブを入れる瓶を欲しがってたし」
「はあ……で、そのパネルってのは今あるのか?」
「もちろん。ニフレディル様に預けてるけど、ニフレディル様にもよく分からないみたい」
「そうか……」
結局こいつの話は結論から言えば、行ってみたけどよく分かりませんでした、ということなのだが―――まあ、仕方ないと言えば仕方ない話だ。
大体遺跡のことなんて学者だって結局何も知らないような物なのだ。素人がちょっと行っていきなり謎が解けたりするはずがない―――というか、そんなフロアを発見しただけでも超弩級の大発見なのだが……
《アイザック様も興味ありそうだよな。間違いなく……》
確かアイザック王が王女をほったらかしにして没頭していた研究というのが、古い遺跡に関することだったというが―――それはともかく、これに関しては彼女達はできうる限りのことをしたと言っていいだろう。
《この騒ぎが収まったら調べに行くこともできるだろうし。今度は学者とかを連れて……》
場所が場所だ。そう簡単に荒らされることもないだろうし、そうなればもっと有益な発見もできるはずだ。
それよりフィンは頭の隅にちょっと引っかかっていたことがあったので、何気なくエルセティアに尋ねた。
「そういやおまえ、呪われてしまったって言ってたよな? そのせいで都にパネルを持ってけないって」
「うん。そうだけど?」
「呪われたかどうかって自分で分かるのか?」
今までの話では、ヴェーヌスベルグの女と普通の女との見かけの違いなんて全く無かったと思うのだが―――彼女達の呪いとは床を共にした男が死んでしまうという呪いだが、来た男は何十人といった女を相手にするのだ。男が呪われて死ぬためには、その中に呪われた娘が最低一人いればいいわけで……
それならば後から行った彼女が確実に呪われたかどうか、どうやって判断できたのだろうか?
それを聞いてエルセティアは頭を掻きながら言った。
「あは、それね、ちょっと流産しちゃって」
「は?」
「どうもね、呪われると男の子を身籠もったら流産しちゃうらしいの。だから。ファラの気持ち、ちょっと分かるな。でもあまりお腹は大きくならなかったから。あはは」
「おい! って、じゃあ、アラーニャとかも?」
「うん。彼女もね。子供、できなかった子もいるけど……」
えっと……
しまった。悪いことを聞いてしまったかもしれない。さすがにけろっとした顔をしているが内心では―――と思ったときだ。
エルセティアははっとして顔を上げると、頬を緩ませながら言った。
「そうよ! だからあんたがメイド奴隷さんといちゃいちゃしてた間、こっちはね、生まれて来れなかった可哀相な坊やを忍んでね、砂漠の砂を涙でい~っぱい濡らしてたんだからねっ! 大体帰ったら今度は本当に大変なことになってたってのに……」
あああ! 今思いついただろ! いいよ。言わせてやるから。もう……
―――って、大変なこと⁉