第7章 新女王誕生
その日の晩。アルスロの家の集会用天幕内には娘達がぎっしりと詰まっていた。
娘達は一様にびっくりしたような表情でティアと横にいるアーシャを見つめている。
《まあ、そりゃそうでしょうね》
彼女たちは今の説明で初めて今回のヤクート対決でティアが何をしようとしているかを理解したのだ。
それまではティアは前述のように個々にコンタクトをとって説明はしていたが、基本的には本人に関わるところしか話していない。彼女達にとって今初めてティアの計画の全体像が明らかになったのだが―――こんなことだとは今まで想像だにしていなかったことだろう。
やがて近くに座っていた娘が尋ねた。
「あの、ティア……本当に十二人で行くの?」
「うん。っていうか、十二人でも少ないくらいだと思うの。でも今回使えるラクダって六頭でしょ? そうじゃなかったらもっとみんなにも来てもらいたかったんだけど……」
そう言ってティアは後方に座っている選に漏れたメンバー達の顔を見た。
その中には呪われた山に一緒に来てくれたリサーンも混じっている。今回の人選は音楽的要素を主眼に選んだため、彼女は外さざるを得なかったのだ―――彼女はダンスは結構上手だったが、ちょっと音痴だったのだ。
《バックダンサー付けられたらもっと映えるんだけど……》
だが使えるラクダの関係で今回は十二人以上は無理なのだ。その枠内でバックダンスを入れるとどうしても音楽が薄くなってしまう。で、どうしようかとあれこれ二晩考えた結果の苦渋の決断なのだ。
また一人の娘が尋ねた。
「三人で一緒に踊るのって有りだったっけ?」
ヤクートを行う場合、普通ならトルンバ村でも見たように踊るのは一度に一人となっていた。
「あ、それはエルダ様にも確認したから大丈夫よ。そんな決まりないって……でも、ほら、今までだと多分喧嘩になるから一人ずつ踊ってたんじゃないかなって」
「ああ……」
娘達は納得してうなずいた。
ヤクートで一番重要になるのは“誰がその男を連れてきたか?”ということだ。男を連れてきた女は当然ながら最大の功労者であり、その男をみんなで分けるときには特別な優先権があるのだ。
一人で踊っていたのであれば、来た男はその女を見てやって来たと明確に言い切れる。
だがもし複数で踊っていたらどうだろう? その男がそのうちの誰を見て来たかなど確実には言えないわけで―――当然それは諍いの種となることだろう。だから今までは複数で踊ることはしなかったのだ。
「今回それについては、シャアラとマジャーラにはトップは譲ってもらうことになってるんで大丈夫よ」
みんなが二人の方を見る。シャアラとマジャーラは並んで座っていたが、仕方なさそうにうなずいた。
このヤクート・マリトスというのはヴェーヌスベルグの女達の最大の伝統行事だった。
その起源は砂漠地帯にやってきた盗賊団を誘い込んだという歴史的事実に遡るが、そのためには何をやってもいいというのではなく意外に細かな決まりがあった。
まず行う時期は原則として年一回夏から秋にかけてだった。
また行う地域は毎年別な地域を選び、再度同じ地域に行くのは数年以上の間を空けることになっている。
これは同じ場所で獲得できる男の数に限界があるからだ。
次にヤクートには担当の家族があって、これが毎年持ち回りで変わっていった。
担当の家族はヤクートの参加メンバーを決定し、色々と実行の段取りをつける。
その際には可能な限り自分の家からメンバーを選ぶのが普通だが、家によっては人数が少なくて適任者が足りない所も少なくない。そんな場合はどの家の誰に依頼しようと構わなかった。
要するにヤクート担当家族とはその年のイベント責任者のようなものだった。
ヤクートの方法にも色々決まりがあった。
まず行くときには必ずラクダで行かなければならない。
また踊る時はラクダの背の上で裸で、ウッドドラムとパンフルートの伴奏付きで踊ることになっている。これは歴史的な伝統なので絶対譲れない一線らしい。
踊り終わった後はその場から速やかに去って、近くの丘の上などで男がやってくるのを待つ。
来た男には必ず呪いの事実をきちんと説明し、それでも良いという男だけを連れて戻ることになっている。
もちろん妻子や恋人がいるような男を無理に連れてくるようなことは厳禁である―――トルンバでティア達がイルドを連れ返しに行った時、アーシャ達がびっくりしたのはそういうわけだったのだが―――ヤクート・マリトスの基本ルールはこんな物であった。
だがそれに加えて幾つか不文律というべき物もあった。
前述の“踊るときは一人で踊る”というのもそうであるし、人数が十二人というので驚いていたのも、普通はトルンバに来ていたように六人くらいで来るのが常識だったからだ。
これは結局得られた男を分配する際に、参加した人数が多ければ多いほど一人あたりの分け前が減る、という事実による。
男を分ける際には、最優先が男を得た女、二番目がヤクートに同行した女、三番目がヤクート担当家族、そしてそれ以外、という優先順位があった。
もちろんこれに更に年齢とか妊娠歴とかが絡んできて色々ややこしいのだが、ともかくこれを見れば二番目のヤクート同行者は少ない方が一人あたりにとって有利になる。
しかし人数が少なすぎてもまた色々と困るので、結局のところ六名ぐらいに落ち着いていたのだ。
また参加するメンバーは“若くてスタイルの良い踊り上手な娘”ということになっていたが、この理由はもはや説明不要だろう。
だがしかし、これらの不文律はそれなりの根拠はあったにしても結局単なる習慣でしかなかった。
そう。だからダンサーが三人になろうと、人数が十二人になろうと、BGMにコーラスとヴォーカルを加えようと、太めのおばさんがメンバーに入っていようと、一切ルール違反はないのである。
《ふっふっふ。しかもこっちにはアラーニャちゃんもいるし!》
ティアはそう思ってもう一度メンバーの顔を見渡した。
まず彼女の横にいるアーシャ。
同じ女王の血を引いているのだから自信さえ持ってくれればヴェガにだって負けない踊りを披露できると思うのだが―――彼女の表情はまだ完全には明るくはなっていない。まあ一朝一夕に信じろと言っても難しいだろうが……
その先にいるシャアラとマジャーラ。
どうやら結局黒の女王はマジャーラがやることになったらしいが、二人ともやはりちょっと表情が硬い。
その反対側にリブラとダウラさんが並んで座っている。
二人ともずっと目を丸くしっぱなしだが―――この二人が間違いなく今度の“ステージ”を成功させるためのキーマンになる。
その横にいるヤーラ。
彼女はトルンバにも来ていて、そこでもパンフルートを吹いていたのだが、もちろん今回もそれを任せられるのは彼女しかいない。
その先に、ミア、マウーナ、サフィーナが並んでいる。彼女達にはコーラスとドラムをお願いする。
その反対にアルマーザとアラーニャが並んでいるが、アルマーザもコーラス、アラーニャはサブヴォーカルとそして“特殊効果”だ。
《ふっふっふ……》
何か武者震いしてきそうな気分だ。
実際これはささやかな形ではあるが、ティアの夢の実現とも言えるわけで……
《そうよ! これってあたしの作った初めての本格的ステージなのよね!》
小さい頃からティアは演劇とか歌や踊りが好きだった。
リアンやエイマと連れ立ってそういう物を見に行っていたし、結婚後はある意味仕方なかったとはいえ、ルナ・プレーナ劇場に入り浸りの生活だった。
そして彼女の中でむくむくと、見ているだけではなくそんなステージを作ってみたい! という欲求が頭をもたげてきていたのだ。
実際、今回僅か二日で“上演計画”を練られたのも、ヴェーヌスベルグに来て彼女達の踊りの素質などに気づいて、彼女達を使ってバレエの公演とかを行ったらどんなだろう? と、暇なときなどにつらつら考えていたりしたからだ。
都にいる際にはそれは全く不可能だった。彼女のその複雑な立場上、そんな表だった行動をすることはできなかったのだ。パトロンになるくらいなら可能だが、自分の手でステージを作るようなことなど、正直論外だった。
だが今、ささやかながらそれが実現しようとしているのだ!
そのとき後方に座っていたファリアという娘が言った。
「で、ティア、あたし達のすることって?」
彼女は選ばれなかった娘達の一人だが―――何でこんな所に呼び出されたか、不審に思って当然だろう。
「うん。みんなにはね、実は衣装を作ってもらいたいの」
「衣装?」
「そう。まずシャアラとマジャーラ用に、白と黒のドレスでしょ? リブラとヤーラとアラーニャちゃん用に巫女のドレス、コーラスのみんなにもおそろいの、天使みたいなのがいいかな? ともかくデザインを考えて作るの。ファリア、そういうの得意でしょ?」
「え? ええ」
「それとアーシャにはこれ、仕立て直してあげて」
そういってティアは足下に置いてあった袋から、彼女のナイトガウンを取り出した。
女達の口からどよめきが漏れる。
当然だ。それはティアがジアーナ屋敷から拉致されてきたときに着ていた黒のナイトガウンだ。もちろん都最高の縫製師の仕立てた物で、その布地もこんな地方ではまずお目にかかれないような高級な繻子だ。
「それって……」
もちろんそれがティアの宝物だということは、彼女達全員が知っていた。今の彼女と都とを結ぶ、ただ一つの品物なのだ。
だがティアはにっこり笑って言った。
「ここで使わずしてどこで使うって言うのよ?」
ティアはナイトガウンをファリアに渡した。
「分かったわ!」
ファリアはそれを受け取るとしっかりと胸に抱きしめてうなずいた。
「お願いね! じゃ、他に質問は?」
娘達は首を振る。ティアはうなずくと言った。
「それじゃ、出発まであと二週間もないからすごく忙しくなるとは思うけど、みんな頑張ってね!」
娘達は一斉にうなずいた。
それからみんなめいめいに分かれて、自分たちの作業を始める。
そのときティアの側にリサーンがやってきた。彼女には予め、別の任務をお願いしていたのだが……
「ん? どうしたの?」
「ねえ、本当にヴェガ達、妨害なんてしてくるかしら?」
彼女は首をかしげている。
「だって様子見にあの子達を寄越してたりしたじゃない」
「でも見に来ただけでしょ?」
「うーん。そうだけど……でも、絶対しないとは言えないと思うし……例えばアーシャの靴の中に画鋲、じゃなくって、栗のイガとかが入ってて踊れなくされたりしたらもう終わりでしょ?」
「うん。そうだけど……」
「だから、そんなことがないようにきっちりと見張ってて欲しいの」
「そりゃもちろん任しといてよ。ハフラも手伝ってくれるって言ってるし」
「え? ハフラが? 家が違うのに?」
それを聞いてリサーンはにたーっと笑った。
「ふっ。あたしだってあの子の弱みくらい握ってるのよ⁉」
どうやら遺跡でいじめられたのを相当根に持っているようだ。
「あはは、まあそれじゃお願いね」
こうなったときにまず頭をよぎったのがこのことだった。
計画が明らかになれば相手側が妨害してくる可能性は常にある。だがリサーンとかの反応を見ると、どうもそこがぴんと来ていないみたいで……
《もしあたしがヴェガだったら絶対やるけど……》
それともティアが都会の毒に侵されすぎなのだろうか?
こればっかりは杞憂であれば有り難いのだが。だが念には念を入れておかなければ……
《で、これで完璧かしら?》
多分そうだ。今考え得ることは全て手を打った。
そう思ったらティアは何かとても満足した気分になった。
《ふっふっふ! あのガキども! 覚えてなさいよ?》
人のことをニワトリだのビヤ樽だの言った報い、受けさせてやる! あはははは!
《要するにただの私怨じゃん……てか、ヴェーヌスベルグにビヤ樽があるのか?》
明らかに当初と目的が入れ替わってるよな? まあ、こいつには良くあることだったが……
フィンは軽くため息をついた。もちろんそんなことに突っ込んだって時間の無駄である。
エルセティアは話し続ける。
「でも確かにちょっとあのころは、少し太めだったかなって思うのよね。だからそれからはずっとダイエットに励んでるのよ」
「へえ、そうか」
「どう? 頑張ってるでしょ?」
そう言ってエルセティアはいきなり上着の前をまくり上げてお腹をむき出しにすると、脇腹の肉を掴んだ。
兄とはいえ男だぞ? もうはしたないとかそういう感覚をどこかに置き忘れてるよな? こいつ……
「……ああ、まあ、ぷにぷにしてていい感じじゃないか?」
フィンは素直な感想を述べた。
「ぷにぷに? あたしが太ってるって? イルドはちょうどいいって言うわよ?」
知るかよ! そりゃあいつの好みだろうが!
どう見たって掴んでいる肉の厚さは四センチはあるだろ?―――ってか、ダイエットしてこれだったら、もはや私怨ですらないんじゃないか? どっちかと言ったら逆恨みで……
「いや、だってアウラとかもっと薄かったし……」
思わずフィンはそう口に出してしまって、心の底から後悔した。
「ひどい! そりゃお姉ちゃんはすらっとしてきれいだけど、あたしだって頑張ったんだから! 大体あたしが……」
うわ! ここでまたメイド奴隷かよ!
「わかった! 分かったから、対決はどうなったんだよ!」
何の話だよ、もう……
こうしてついに対決の夜がやってきた。
場所はマグナバリエ山脈の麓にあるマルテ村だ。
ここはこのあたりでは一番人口が多く、しかも中原からやってくる人も多い。すなわち一番観衆が多くてやりがいのある場所だ。
《あとはやるだけだわ!》
てっきりヴェガ派から妨害があるかと思ってリサーンとハフラに夜回りまでしてもらったというのに、そのようなこともなく、つつがなく準備は完了していた。
村の反対側にはヴェガ達が陣取っているはずだが、もはやティアにはそんなことはどうでも良くなっていた。
あとはもう、練習してきた全てをぶつけるだけだ。
ふわっとあたりを冷たい風が吹き抜ける。
「ちょっと寒いですね」
横にいるアラーニャがつぶやく。
「始めちゃえば寒さなんて吹っ飛んじゃうわよ」
「でもアーシャはともかく、あたし動きが小さいし……」
などと言いつつもその表情に迷いは全くない。
《よしっ!》
ティアは最後の確認を始めた。
松明の点火用のローソクはOKだ。凹んだ黒い器の中で燃えているので、外から光は見えないはずだ。手桶の水も大丈夫。周りのみんなはどうだろう?
あたりは煌々とした満月に照らされて仲間の一人一人の姿がよく見える。
一番目立つのは三頭横に並んでいるラクダだ。
左と右のラクダは座っていて、中央のラクダは少し引っ込んだところに立っている―――その子は、ティアと一緒に北のオアシスからやってきたキャミーだ。
ラクダの上に今は誰もいない。だが左右のラクダの上にはシャアラとマジャーラが伏しているはずだ。
正面にはちょっとした祭壇のような物が置かれていて、その後ろにアーシャが隠れている。
左右のラクダの前には歌や演奏担当のメンバーが三人ずつ座っている―――左から照明とコーラスのアルマーザ、合唱指揮とウッドドラムのダウラおばさん、パンフルートのヤーラ、その右にメインヴォーカルのリブラ、合唱とドラムのサフィーナ、最後にまた照明とコーラスのマウーナだ。
彼女達の前には様々なサイズのウッドドラムが置かれているが、一番目だって大きなのはこの日のために急遽風呂桶を改造して作ってもらった物だ。
彼女達の更に手前の一番目立つ場所には真っ白な巫女服のような物を纏ったアラーニャが立っていて、その両脇を固めるようにミアと、そしてティア本人が陣取っていた。
「いっかな?」
ティアが一同に小さく声をかけた。それを受けて全員がうなずく。
姿が見えないシャアラ、マジャーラ、そしてアーシャも手でOKのサインを出しているのが見えた。
《行くわよ!》
ティアは大きく深呼吸をした。
それからミアに合図すると、二人は同時に手にしていた松明を足下のローソクにかざした。
ぱっと松明が灯りあたりが明るくなる。
見ていた者はいきなり中央に純白の巫女が現れたように見えたことだろう。
その後方にはおそろいの衣装を纏ったコーラスの女達の姿が見えるが、その先にはまだ真っ暗な帳がおりている。
ティアは一呼吸おくと、手にした松明を高く掲げた。
それと共にヤーラのパンフルートの音が響き渡った。沼地に生える葦を切って作った素朴な楽器だが、とても心に染みいる音色だ。
フルートの旋律を追いかけるようにゆったりとしたコーラスが始まった。
だがコーラスといってもミアとティアまで含めて全部で六人だ。このくらいの人数だと結構ごまかしが効かないので音を溶け合わせるのには結構神経をつかったものだ。
《うふ! いい感じ!》
その点に関してはダウラおばさんがものすごく頑張ってくれた。彼女はトゥフーラで子供に歌を教えたりしていることもあって合唱指揮を全部任せることができたのだ。
合唱が一フレーズ終わると、唐突にドンドコドコドコ、ドンドコドコドコといったドラムが始まった。
途端に左のラクダの前にいたアルマーザの松明が灯る。
するとラクダの上に黒い衣を着た女―――マジャーラが現れた。
彼女が今着ているのはティアのナイトガウンを改造した衣装で、踊ると彼女の体がちらちらと見えるようにあちこちにスリットを入れてある。
《さすがにファリアの手も震えてたけど……》
あんな上等な服にハサミを入れるのだから当然だろうが、でもおかげで黒の闇の中にちらちらと見えるマジャーラの肢体はそれだけでとても幻想的で美しい。
一コーラス終了するとマジャーラは空に手をさしのべた形でぴたっと停止する。
すると今度は右のグループの端にいたマウーナが松明を点火して、ラクダの上に白い衣を着たシャアラが現れた。
彼女が白い衣をひらひらさせながら踊り始める。
こうやってみると二人とも決して下手ではない。それどころか既にティアなど足下にも及ばないレベルの踊り手だ。
だがしかし……
コーラスがまた一曲終了してドラムの音が止む。
同時にシャアラとマジャーラは中央のラクダの方に手をさしのべ、対称型に片膝をついた。
《よし! いけ!》
ティアは横のアラーニャに軽くうなずくと、手にしていた松明を高く差し上げた。
アラーニャはそれまでは正面を向いていたが、ここでラクダの方に振り返ると前に手をさしのべてゆっくりとした祈りの歌を歌い始めた。
その台詞は呪われた我が身を嘆き、大聖に祈る言葉だ。
祈りの言葉の一節が終わるごとにそれに答えるような合唱と短いドラムの響き。
やがて歌が終わる。
だが祈りに答えはなく、あたりは静寂に包まれた。
アラーニャはがっくりと肩を落とすような仕草をするが、やがて再び気を取り直したように歌い始めた。
今度はより強い調子で、より複雑な旋律で……
歌が終わったが―――再びその歌に答えたのは静寂だった。
三度目、アラーニャは身を震わせて泣き叫ぶような調子で歌い始めた。
さらに彼女は歌いながら着ていた衣装を次々に脱ぎ始める。
やがて最後の一枚をも脱ぎ捨てて一糸纏わぬ姿となったアラーニャは、その姿のまま大きく両手を差し伸べると祈りの最後の一節を高らかに歌った。
Qui tollis peccate mundi
miserere nobis!
そのときだ。
彼女の祈りに答えるように遠くから山びこのように歌声が聞こえてきたのだ。
もちろんその歌声はリブラだ。
アラーニャはまるで力尽きたように崩れ落ちる。
《アラーニャちゃん、演技も上手よね……》
この後のこともあって彼女には、中央のみんながよく見える位置にそういう格好でいてもらわなければならないのだが、それはとりもなおさずものすごく目立つということで……
これが以前の彼女だったら絶対無理だっただろうが、今ではこうして衆目監視の中、村にいる男達の目は今、間違いなく彼女のお尻に釘付けになっていると思うが、そんな姿で立派に演技してるなんて―――ちょっと目頭が熱くなってしまう。
山びこのような美しい歌声が段々大きくなっていって、それがクライマックスに達した瞬間だった。
下からすっと魔法のように中央のラクダの上に薄衣を身に纏ったアーシャが現れた!
もちろんこれはアラーニャの仕業だ。彼女が祭壇の後ろにいたアーシャをラクダの上に持ち上げてやったのだ。
アーシャは半透明の衣装を身につけている。
それはティアのナイトガウンの裏地を剥がして作った衣装で、彼女の見事な肢体が透けて見えている。
アーシャが座り込んでいるアラーニャと、それから両翼のシャアラとマジャーラに手をさしのべると、再びドンドコドコドコ、ドンドコドコドコといったドラムと合唱がが始まった。
それに合わせてアーシャの踊りが始まる。
《はあ……》
見ていた者は誰もがここでため息をついたことだろう。
そう。彼女の踊りは一段レベルが違うのだ。
誰にも真似ができないような体の柔らかさを生かして、全ての動作がまるで水に流れていくように滑らかで艶めかしい美しさを持っている。
今やバックの音楽は合唱とドラムだけではなく、リブラの歌声とヤーラのパンフルートも加わっていた。
アラーニャは地面に座り込んで体を揺らしている。
合唱メインのパートが一段落するたびに、今度はアラーニャとヤーラ、そしてリブラの独唱や二重唱、三重唱が間に挟まる。
《三人とも、乗ってる!》
これがほとんどアドリブだとか言ったらまたみんな驚くだろうが……
掛け合いのルールとベースの進行さえしっかり決めておけば、結構出たとこ勝負でも素晴らしい音楽になったりするのだ―――とデルビスに教えてもらっておいて良かった。
もちろん彼女達が毎日すごく練習していたのは知っている。アラーニャは他にもやることがたくさんあったというのに……
《アラーニャ様々よね。本当に!》
そのような音楽がいつ果てるともなく続き、その間アーシャは中央で舞い続けていたが―――やがてふっと音楽が途絶えた。
アラーニャが顎を挙げ、きっと前を見据えると胸に手を当てて祈るようなポーズを取る。
と、あたりにきゅいーんと不思議な音が響き始めた。
これは例の呪われた山で手に入れた広口のガラス瓶に水を入れて、その縁をこすっているのだ。
《結構ラッキーだったかも!》
ああいう均整のとれたガラス瓶とか食器とかは、都ならともかくこんな所ではなかなか手に入らないわけで。でもこの音はこういう幻想的な雰囲気にはぴったりなのだ。
と、そこにリブラのソロの歌声が響き渡る。
それに合わせてアラーニャが身もだえするような仕草をした。
再びリブラの歌声、そしてアラーニャの身もだえ。
そして三度目の歌声が響いた時だ。
中央のアーシャがふっと両手を広げると、同時に両翼のシャアラとマジャーラがふわっと飛び上がり、綺麗なひねりの入った伸身宙返りをしながら、数メートルも距離があるアーシャの広げた両の手にすとんと、まるで鳥のように降り立ったのだ。
見ている者は自分の目を疑ったに違いない。
そう。まさにこのために彼女達をスカウトしたのだ!
アラーニャは二人を飛ばすことについては問題ないが、さすがにそれに綺麗な回転まで加えるのはちょっと重荷だった。
だがこの二人ならとりあえず飛ばしておけば自分でこんな風に綺麗に回ってくれるのだ。
それでもうまくタイミングを掴むまでは、泉で随分みんなずぶ濡れになっていたのだが……
次の瞬間、シャアラとマジャーラがアーシャの両脇にふわっと着地したかと思うと、今度はアーシャが二人の両肩に手をついて逆立ちし、更にそこから飛び上がってくるっと宙を舞うと、それと共にアーシャの纏っていた衣がひらひらと飛んでいき――― 一糸纏わぬ姿となったアーシャが今度は、シャアラとマジャーラの差し出した手の上に見事なバランスで静止する。
リブラの歌声があたりに朗々と響き渡り、ドンドコドコドコというドラムと合唱が始まる。
それからアーシャはシャアラとマジャーラの手の上で舞い始めたのだ。
《アーシャ、きれい!》
何だか今までになく自信に満ちた舞だ。これならティアがこんな風に口出ししなくても勝てたのでは? と思えるくらい素晴らしい。
やがて音楽も踊りもクライマックスに達し、再びふっと静寂が訪れたかと思うと合唱が低いハミングを始め、リブラ最後の独唱が始まった。
アーシャはゆっくりとそれに合わせて舞いながら動きをゆるめていき、やがてY字バランスの状態でゆっくりと回転し正面を向く。
それと同時にリブラの歌唱もついに彼女の出せる最高音に到達して……
《おっしゃあああ!》
ティアは思いっきり松明を差し上げた。
途端にアーシャとシャアラ、そしてマジャーラは後方に回転しながら背後の虚空の中に消えていった。
ドンドン、というドラムと共にガラス瓶をたたき割る音。
ティアは足下に置かれた手桶のなかに持っていた松明を思いっきり突っ込んだ。
松明を持っていた者は皆それに習い―――あたりは暗闇に閉ざされた。
うーむ。確かにこりゃ一見の価値はあったかも知れないな。どちらかって言うとバーボ・レアル向けの演目ではあるが……
エルセティアは興奮して話し続けている。
「……ってね。もう終わったときは全力を出し切ったっ! って感じで、もうその場に大の字になっちゃいそうだったんだけど、その後の片付けが大変でね。ほら、ルールに、終わったら速やかに退去しなければならないっていうのがあるでしょ。でも何だかんだで大荷物になってて」
それにしても、マジ楽しそうだな?
こいつは―――まあ昔からこういうのは好きだったからな。それにスカウトになるって夢、なにげに叶ってたりするし……
だがフィンはここまでの話を聞いてきて、何か微妙な違和感を感じていた。
《何なんだろう? なんかちょっと引っかかるんだが……》
何かもう東の空が白みがかっているのだが―――まあ、そのうちわかるだろう。ともかく続きを聞かなければ……
「で、結果はどうなったんだ?」
まあ、もう聞かずとも分かってるが―――フィンは苦笑いしながら尋ねた。
「あん? なによ? その笑いは? 何かいろいろあって実は負けたとか思ってるでしょ? 演出があざとかったとか、田舎の人には高級すぎたとか、そういうオチを狙ってるのね?」
「思ってないよ!」
どこまで疑心暗鬼なんだ? ってか、隙あらばメイド奴隷で突っ込もうとしてるな?
「そう? もちろん六-〇の圧勝よ!」
そう言ってエルセティアは親指を立てた。
「だろうな」
フィンはうなずいた。
長いことこいつの兄をやっているからよく知っているが、彼女は“○○ごっこ”とかを考案して仕切るのが上手で、学校の朗読会の舞台を勝手に劇仕立てに変えて怒られてたこともあったが―――そういう意味じゃこいつらしいというか……
だがしかし……
《魔導演出とか、これじゃちょっとヴェガって娘が可哀相なんじゃないか?》
演劇などでの魔導師による特殊効果は都の舞台では普通とはいえ、他の地域では滅多にお目にかかれる代物ではない。だからそのノウハウなどは普通は知られていないわけで―――なにか子供の喧嘩に親が出張ってきて全力で相手をボコボコにしたみたいな大人げなさを感じるのだが……
《って、これか? 引っかかってるのは……》
そろそろ頭が朦朧としてきつつあるのだが、それよりもっと大きな問題があるような気がするのだが―――それとも気のせいだろうか?
対決が終わり、ヴェーヌスベルグに戻って結果報告をした日の夜、ティア達は居残り組も含めての祝勝会を開いていた。
「それじゃ、アーシャの大勝利を祝して乾杯!」
シャアラの音頭に娘達が一斉に声を挙げる。
「乾杯!」
それと共にティアも手にしたグラスの中身を飲み干した。
《うわ! おいしい!》
これほど心に染みる一杯は初めてだ。
都にいた頃は最高級のワインとかを飲み放題で、正直お酒に関してはここはちょっと褒められないのだが―――でも、これはティアが今まで飲んだお酒の中でも最高の一杯だ!
と、思うと妙な笑いが出てきてしまう。
「にゃはー……」
そこにやってきたのはリサーンだ。
「ティアティア、話聞かせてよ!」
「うん。みんなすごかったんだから。もうどこから話したらいいのかしら?」
そのときだ。
「それじゃ今回の大勝利の最大の功労者、ティアに一言!」
シャアラがティアに手を差し伸べている。
「え? あたし?」
「いいじゃない、ほらほら」
リサーンに促されて立ち上がったはいいが、みんなの視線が一気に集まると何だか顔が熱くなってくる。
「えっと……あの、みんなありがとう!」
あたりがしんとなる。
《え? 何か滑ったこと言った?》
だが、ティアはみんなが続きの言葉を待っていることに気がついた。
「えっと、その、今回はみんなが頑張ってくれたからうまくいったと思うの。アーシャもシャアラもマジャーラもすごかったし、それにリブラ、あなたの歌もそうだし」
一同の視線がリブラに集まる。多分そんなことは初めてだったのだろう。彼女は真っ赤になった。
「ダウラさんにミア、アルマーザにマウーナにサフィーナ……みんなの合唱もドラムもすごく良かったし、もちろんヤーラのフルートも素敵だったし、ファリアやルルーとかが作ってくれた衣装、とっても綺麗だったし、それにアラーニャちゃんも、一番頑張ってくれたし」
そう言ってティアはアルマーザの横にいるアラーニャに手を振った。彼女はちょっとびっくりしたように周囲を見回すが、横のアルマーザにぎゅうっと抱きしめられてじたばたするのが見えた。
「ともかく、これって誰が欠けてもうまくいかなかったと思うの。ほんとうにみんなありがとう!」
あたりは一瞬しんとして―――それから割れるような拍手と歓声がわき起こる。
「じゃ、ほら、今日の主役はアーシャでしょ? ほらほら!」
ティアはアーシャを急かして立たせる。
それからぺたんと座り込むと―――何かすこし目頭が熱くなってきた。
「ちょっとティア! 杯が空っぽよ!」
リサーンがワインを注いでくれる。
「ありがと。リサーンもずっと夜番しててくれて」
「あは。別に昼寝てただけだから」
「そういえばハフラはどうしたの?」
「ちょっとあっちの家の用事があって来られないみたいで」
「ああ、そうなんだ……じゃあ後で何か持ってってあげないと」
「いいのよ。ティアは気にしなくって。あの子の分も確保してあるから」
そう言ってリサーンは手籠に入った鴨のローストを示した。
「あ、美味しそう。どこにあったのそれ、アカラ特製でしょ?」
「あっちのテーブルだけど、もう。また太るわよ?」
「いいのよ。今日くらい!」
―――などという話をしていたときだ。
あたりがふっと静かになった。
《んん? 一体何が……!!》
理由は一目瞭然だった―――宴の場にヴェガが入ってきたのだ!
あたりに気まずい沈黙が流れる。
《何しに来たのよ? こいつ……》
ヴェガは黙って一同の顔を見回すと言った。
「楽しそうね?」
一同は何と答えていいか分からず、沈黙を続ける。
「喜んで当然よ。あんた達が勝ったんだから。そう。私の負けよ」
再び沈黙が流れる。
「でもね。一つだけ言わせてもらうわ。負け惜しみと取られてもいいけど、でもね、これだけは言っとくから」
そしてヴェガはアーシャをきっと睨んだ。
「アーシャ。私、あなたに負けたとは思ってないから」
アーシャが目を見開く。
横に座っていたシャアラが激高して立ち上がろうとした。
だがその瞬間ヴェガはいきなりくるりと体を回すと……
「私が負けたのは、この子にだからね!」
そう言って真っ直ぐにティアを指さしたのだ。
「へ?」
ティアが片手に鴨のもも肉を持ったまま、思わず間抜けな声をあげる。
全員の視線がまたティアに集まる。
「え? え?」
えっと、だから何なんだ? この状況は……
そのときだった。
「おま……」
シャアラが何か叫ぼうとしたが、アーシャに口を塞がれているのが見えた。
アーシャはシャアラをなだめるように座らせると静かに立ち上がる。
「ええ、そうね」
アーシャはヴェガを、そしてティアを見つめた。
「私もそう思うわ」
それから彼女はそこにいる全員の顔を見渡して、今度は人々の間をすすっと抜けてティアの側に来ると、彼女の肩に手を置いた。
「私達が勝てたのはみんな、ティアのおかげよね?」
えっと? ちょっと待って欲しいのだが……
「あの、ほら、でもみんなが頑張ったから、ね?」
だがアーシャは首を振った。
「ええ。でもティアがみんなを導いてくれたから勝てた、そうじゃない?」
それは既にそこにいる者全てに対する言葉だった。
誰もそれに異議は唱えない。
そしてアーシャはとんでもない提案を述べてしまったのだ。
「だから女王は彼女の方がふさわしいと思うの。これだったら文句ないでしょ? ヴェガ」
ちょっとまて!
だがヴェガは即座にうなずいた。
「ええ、そうね」
ティアは慌てた。
「えっと、あの……ほら、あたしよそ者だし。まだ来て一年ちょっとしか経ってないでしょ?」
「でも一番ヴェーヌスベルグのために貢献してくれたでしょ?」
「えーっと……」
そのとき、ヴェガの後ろの方からまた別の声が聞こえた。
「私もそう思いますよ」
落ち着いた年配の女性の声だ。この声は―――エルダ女王だ!
現れたのはまさにヴェーヌスベルグの現女王、そしてヴェガとアーシャの母親でもある。
「私も次の女王にふさわしいのはあなただと思いますよ。ティア……いや、エルセティア」
「えっとでも……」
抗弁しようとするティアに、女王は黙って首を振る。
「あなたはたった一年でヴェーヌスベルグをこんなにも変えてくれました。そのことは誰もが認めることだと思います。何十年、何百年の間ここで淀んでいた私たちの国に、新しい風を吹き込んでくれたのです。先日のヤクートは私も見ていましたが、まるで夢を見ているような光景でした。確かに歌い、踊ったのはここの子供達ですが、でもあなたなくしては決して生まれ得なかった光景と言っていいでしょう」
彼女は人混みをかき分けてティアの前にやってきた。
「ル・ウーダ・エルセティア。ヴェーヌスベルグの次期女王になっては頂けませんか?」
ティアは目を白黒させた。
「もちろん今すぐ答えて頂けなくても構いませんが……」
女王は周囲の女達を見回した。
「皆さんはどう思いますか?」
一瞬の沈黙。
それから今度は割れんばかりの拍手と歓声がティアを包み込む。
え?
えっと……
えーっと……
ええええええええええええ?
「ってことでね、結局断り切れなくって、で、それでちょっと今、女王様やってるのよ。分かった?」
「……ああ。そういうわけね」
とりあえずこいつがレギーナとか自称していた謎は解けたわけだが……
確かに話どおりならこいつがヴェーヌスベルグにとって大変な貢献をしたのは間違いないわけで、彼女達がこいつを女王に推挙したというのも納得がいくわけだが……
《でも、やっぱそんな責任のある立場、もうちょっと慎重に決めるべきじゃないのか?》
こいつは勢いに乗れば確かにこういう事をしでかしたりするのだが、正直普段はただの穀潰しだろ?
まあ、女王と言っても結局大きめの村の村長レベルだ、と考えればこいつでも何とかやって行けるのかもしれないが……
フィンは首をひねった。
って、さっきからちょっと引っかかってるのはこれだろうか?
いやそれとも何か違うような気がするが、えっと―――そういえばこいつの“公演”ってどっちかっていうとバーボ・レアル向けだよな、とか思ったときだったっけ?
《バーボ・レアル?!》
フィンはそのときやっと一番基本的な問題点に気がついた。
《そうなんだよ! 何かすごくいい話っぽくまとまってるけどさ……》
要するに彼女達がやってることって、甘い音楽と魅惑的な踊りで不幸な男を自分たちの“楽園”に誘い込んでは、からからになるまでその精を吸い尽くしてる、みたいなことだよな?―――確かにそうせざるを得ない切実な理由があったにしてもだ。
そこでこいつの成し遂げたことが何かと言えば―――要するにその“生け贄を集める効率を格段にアップさせた”ということであって……
………………
…………
……
それってさ……
フィンはじとっとした目でエルセティアを見た。
「ん? なによ?」
「いや、なんでもない」
ヴェーヌスベルグの女達とはやはり、どうひいき目に表現したところで“砂漠の魔女”と言うべき存在なのであって……
それを率いる女王ということは?
《それって……砂漠の魔王?》
友人や兄妹がしばらく会わないうちに変わり果てていたというのは、巷では良くある話ではあるのだが……