砂漠の女王様 第8章 再会の夜

第8章 再会の夜


 そのようなわけでエルセティアがヴェーヌスベルグの女王をなどをやっているという点については納得がいったのだが、まだ重要な疑問点が残っていた。

「それでさ、その女王様がどうしてこんな所をうろうろしてるんだよ?」

「はあ、こんな所って、大体みんなあんたのせいでしょうが!」

「え?」

「だからあんたが悪の手先になってファラをさらおうとしてるっていうから、もう矢も楯もたまらず駆けつけてきたのよ! この極悪人が!」

「いや、だからそれについては夕べ説明したじゃないか!」

 確かに彼が単身レイモンに潜入した理由は、つまるところファラへの未練以外ないのであるが―――でもそれは彼女を救うためであって、断じて彼女に害を為すつもりはなかったわけで……

「そんなの分かるわけないじゃない! 普通に考えたらあんたがファラへの未練を諦めきれなくって、悪魔に魂を売ったとしか考えられないじゃないのよ! 身内がそんな邪悪に染まるのを見過ごすわけにはいかないでしょ!」

 えーっと、それって普通の考えか?

 ―――とは言っても、どう誤解を受けてもおかしくない事をしていたのは間違いないわけで……

「わかった。わかったから、本当にそれについては謝るから。でもさ、お前大体そんな田舎に籠もってたのに、よくファラが危ないとか分かったな?」

 ここは話の矛先を変えておかなければ―――だがそれを聞いてエルセティアは胸を張った。

「へん! そりゃ~ね、もちろんあたしの公演が大人気になったからじゃない!」

「はあ?」

「あんたがねえ、悪の手先になってメイド奴隷さんと乳繰りあってる間にねえ、あたしはヤクートのクオリティをどーんと上げて、あの地域の人気イベントにしてたのよ! そうしたら中原の方からも人がたくさん来るようになって、で、その人達から何か色々あっちではひどいことになってるって聞いてね……」

 ―――だから、それってさ……



 ヴェーヌスベルグオアシスに春が来ていた。

《あー、いい天気……》

 その日ティアはオアシスの畔でぼけっと空を眺めていた。

 アーシャとヴェガの対決から一年半。

 それ以来ティアは開き直ってヴェーヌスベルグの女王をやっていた。

 とは言っても事務的なことなどはアーシャやエルダが補佐をしてくれたし、女王候補対立がなくなってしまうと大きなトラブルの種はなくなってしまうしで、思ったほどには忙しくもなく平穏な日々を過ごせていた。

 一番の問題はやはり人口過剰なイルドの家とキールの家だったが、これはもうティアの強権発動で適当に分割して片を付けた。

 あと考えなければならないのは、今の調子でイルドが子供を作り続けると本当に資源問題が発生しそうなのでそれをいかに抑えるかだが―――単に止めさせるというのも問題だ。

 本当なら本来の姿―――すなわちキール/イルドはティアとアラーニャの物、としたいところなのだが、もうこれまでずっと彼らはヴェーヌスベルグのみんなで共有してきたのだ。いくら女王でも今更独占したとなると、みんなから白い目で見られそうだし……

《去年のヤクートは大成功だったけど……でも冬になると寂しくなっちゃうのよね……》

 ヤクートの後しばらくは男に事欠かない時期が続く。

 特にティアの“改革”によって去年は今までにない豊猟だったのだが、秋が更ける頃にはどうにも避けがたい理由で彼らの魂を送り出さなければならなくなってしまうのだ。

 女王にはその見送りの儀式を執行する役目もあるのだが、おかげで冬になると余計に寒さが心に染みてしまう。

 キール/イルドが来るまでは冬とはずっとそういう季節だった。

 だが一度そんな寂しくない冬を過ごしてしまうと、再び元に戻るというのは正直とても辛いことなのだ。

《うーん……だとすると夏だけでなくって、年何回かするのも有りかしら?》

 そう考えてティアは首を振った。

 地域にいる男の絶対数はそんなに変わらないのだから、同じ場所で何度もやっても無駄である。

《だとするともう……中原とかに打って出るとか?》

 あちらだったらこっちより人口は遙かに多いし、だったらあぶれ男もずっと多いことだろう。

《でも山越えって大変なのよね?》

 中原に出るにはマグナバリエ山脈越えをしなければならないが、噂に寄れば夏でも雪が降るとか、結構大変な所らしい。

 だがこれからの発展を願うのならばやはりここにずっと籠もっているのではなく、やはり何かそういったブレークスルーが必要なのではないだろうか?

 ティアは目を閉じた。

 遠くから女達の歌声が聞こえてきた。

《あ、あれってリブラ達ね?》

 ティアがあの公演を行った後、ヴェーヌスベルグの女達は即座にその魅力の虜となってしまった。

 元々彼女達の祖先のさすらいの一族は戦ってばかりいたわけではなく、良き楽士や踊り手でもあった。その血は現在にも脈々と受け継がれており、一度方向性が示されれば彼女達はその能力をごく自然に発揮し始めていた。

 歌に関してはリブラやダウラおばさんが中心になって、今では大アンサンブルができあがっている。

 踊りに関しては今ではヴェガが中心になって、もはやティアでは口も出せないくらいに高度な振り付けが行われている。

《あのヴェガがねえ……》

 結局のところ、彼女もアーシャ同様、本当は根の優しい娘であったのだ。だが次期女王候補という重圧にテンパってしまって、舐められたら終わりだと引くに引けなくなってしまっていたらしい。

 昨年のヤクートではそんな毒気の抜けたヴェガと逆に自信を得ていたアーシャが二人で踊って伝説級の成功を収めていた。

 その踊りは見事にぴったりと息が合っていて、やっぱり姉妹なんだなと惚れ惚れした物だが……

 そういうわけでステージの演出の実際からは既にティアは離れてしまっていた。

《これからどうしようかしら?》

 正直勿体ないのだ。

 彼女達の才能をこんな所に埋もれさせておいていいわけがない。

 でも、そうは言っても彼女達が呪いを受けているという現実はどうしようもないわけで……

「うーん……」

 呪われた山から持ち帰ったあの謎のパネルについては、あれからもキールとハフラが色々と調べていたが、当然全く何も分かっていない。

《やっぱり都に持ってくしかないのかしら?》

 せめて都に手紙くらいは送りたいと思っているのだが、それを託せるだけの人さえいない。都周辺であれば郵便システムもあったりするのだが、こんな田舎にはそれもないわけで……

「ふあ~!」

 ま、色々思い悩んでいても仕方がない。こういう場合は昼寝でもするに限る! ということでティアが少しうとうとしたときだった。

「ティア女王様? あ、こちらでしたか?」

「ん~? なに?」

 やってきたのは村の少女の一人だ。

「お客様だそうです。ティア女王様」

「お客様?」

「はい。あきーらって所からだそうです」

「アキーラ?」

 えーっと、アキーラとは確かレイモンの都の名前だったか? 一体どうしてそんなところから?

 ティアは少女に従って集落に戻ると、女王の天幕に向かった。

 そこでは既にアーシャが待っていた。

「お客様?」

「ええ。アキーラから直接こちらに来られたそうよ」

「用件って、やっぱり?」

「ええ。もう他に行くところがないからこちらに置いて欲しいって」

「そう。分かったわ」

 ヴェーヌスベルグには以前からもたまに、世をはかなんだ男が余生を過ごしに自分からやってくることがあった。ティアが来てからは初めての例だが、そういう場合には女王が謁見して滞在を認めるかどうか決めることになっている。

 ティアは奥の天幕で女王の衣装を身に纏うと、謁見用の部屋に入っていった。

 テントの中は様々な刺繍が施されたタペストリが下がっていて、何かちょっと幻想世界的な雰囲気だ。

 ティアはその奥の女王の座に腰を下ろす。ヴェーヌスベルグで一番ふかふかした座布団だ。

 それからティアが入り口に控えていた少女に合図すると天幕の入り口が開いて、中年の少し禿げた疲れ切った表情をした男が入ってきた。

「あちらがヴェーヌスベルグの女王、エルセティア様です」

 男は入って来るなり地面にぺたっとひれ伏した。

「ああ、女王様、このような哀れな男にお目もじ頂き、誠に恐悦至極に存じます……」

 えっと―――こういうのはやっぱり苦手だ……

「あは。どうか楽にしてくださいね」

 親しげなティアの声を聞いて男は恐る恐る頭を上げる。

 にこにこ笑って手を振っている自分の娘ほどの歳のティアを見て、男の表情が少し和らいだ。

「えっと、お名前は?」

 これが全然女王らしくない喋り方だとは重々承知の上だ。最初はもっと女王らしく重厚に喋ろうとしてはみたのだが何だか全然様にならなかったので、諦めてもう素で話すことにしているのだ。

「あ、はい。私めはアキーラの商人、ザヴォートと申します」

「ザヴォートさんですか。アキーラから? ここから随分遠い所ですよね?」

「はい」

「どうしてこんな所に? こちらのことはもちろんご存じですよね?」

「はい……」

「えーっと、冗談だとか思ってたら今すぐ帰った方が身のためですよ? 一旦ここで歓待を受けてしまったら、本当に二度と元の世界に戻ることはできませんからね?」

「それで結構でございます」

 男は迷いなくそう言った。決意は固そうだ。

 そこでティアは男の顔を見て言った。

「それではどうしてそんな決心をしたか、お話してもらえるかしら?」

「え? はい。もちろんお話しします……」

 ザヴォート氏は彼の身の上を話し始めた。

 このあたりの会話は実はある程度マニュアル化されている。

 こういう場所に来る男達は得てして頭に血が上っていることが多く―――大抵は女に振られたとかで、理由をじっくり聞いてやったらやっぱり思い直して帰る者も結構多かったりするからだ。

「私は生粋のレイモン人でございまして、祖先より代々、アキーラでずっと雑貨屋を営んでおりました。それほど裕福な暮らしではございませんでしたが、良くできた嫁と、息子、娘に恵まれまして……本当に私は幸せでございました……」

 ザヴォートはそこまで話すとうつむいて体を震わせ始めた。

《うわ! どんな目にあったのかしら?》

 ティアは入り口付近に控えていた少女に目配せする。彼女はうなずいて下がると、すぐに飲み物を持って戻ってきた。

「どうぞお飲みください。少しお酒の入ったお茶です」

 少女からカップを受け取ってザヴォート氏は押し頂くようにそのお茶を啜った。

「ありがとうございます」

 お茶を飲み終わって少女にカップを返したザヴォート氏は一息ついて、少し遠い目をしながら話し始めた。

「娘は……ちょうどこの子ぐらいでしたか、そろそろ年頃でして、好きな人ができたから結婚するとか言っては私たちを困らせておりましたが……私たちが慌てるのを見てからかっておったのでしょうが、バードが嫁をもらうまではお前は絶対嫁には出さんと言ったら、すぐ口をとがらせて拗ねて見せて……ああ、バードとは私の息子でございますが、こちらはそろそろ身を固めても良い歳だというのに、ふらふらと遊び歩いておりまして……」

 このまま子供達の昔話が続くのだろうか? そう思いながらティアがザヴォート氏を見つめていると、彼はふっと気づいたのか少し恥ずかしそうにうつむいた。

「あ、いや、ともかくそんな様子で……」

「いいご家庭だったんですね」

「ありがとうございます……」

 そう言うとザヴォート氏はまたうつむいて肩を震わせる。

《ってことはその子供達を亡くしちゃったのかしら?》

 それは辛い話だろうが、ここは女王の義務として聞き出しておかなければならない。

「もしかしてそのご家族に何か起こったの?」

 ザヴォート氏は歯を食いしばり、やがて吐き捨てるように言った。

「アロザールの奴らです!」

 ティアはうなずいた。

 大体予想はできていたのだが、最近の中原の方でレイモン王国とアロザール王国の戦いが起きているという噂は耳にしていた。ザヴォート氏がレイモン人であれば敵国のアロザール人にやられたというのは筋が通る。

 とは言ってもどちらもティアにとっては遠い外国同士だ。いまいちぴんと来てはいなかったのだが……

「本当なら……もっと早く逃げておけば良かったんです。バシリカがあんな事になって……でも、レイモンが、あのルナール様のお築きになったレイモン王国が、あんなにあっという間になくなってしまうなんて、誰が思っていたでしょうか?」

「え? バシリカがどうしたの?」

「去年の秋、炎上しました」

「えええええ?」

 ちょっと待て! バシリカってウルスラ母様の故郷ではないか⁉ それが燃えてしまったって⁇

 その叫び声にザヴォート氏が驚いて顔を上げる。ティアは慌てて手を振った。

「あ、いえ、あたしのお母さんがバシリカ出身なの」

 それを聞いてザヴォート氏はちょっと驚いたようだ。

「そうなのですか? それは……残念な」

「えっと、どうなってるの? レイモンとアロザールが何か戦をしてるって話は聞いてたんだけど……」

 ザヴォート氏は首を振る。

「もはやレイモン王国は……ございません。アロザールは今は西に向かって、シルヴェストやサルトスと戦っているようですが……」

「ございませんって……なに? レイモンが負けちゃったの?」

「はい」

 それは歴史や地理に疎いティアにとっても晴天の霹靂であった。

「だって、レイモンってあんなに強かったのに? 確か、何だっけ? こいの戦い?」

「クォイオでございますか?」

「そうそう。それ。それで都の軍に勝ったんでしょ?」

「はい。ですが……」

「そのレイモンが負けちゃったの?」

「はい……」

「どうして? また……」

「それが私たちにもよく分からないのです。呪いと呼ぶ者もおりますが、私は奴らが何か禁じられた魔術を使ったのではないかと思っておりますが……」

「禁じられた魔術?」

「はい。ともかくあのバシリカがどうして陥ちたのかもよく分からないのです。敵の軍勢が歌ったら壁が崩壊したとか、もうそんなよく分からない噂ばかりが先立っておりまして……ともかくそれで私たちは逃げようと算段しておりました。ところがそうしているうちに私と息子が妙な病に冒されてしまいまして……」

「病気?」

「はい。とにかく体がだるくて力が入らないのです。それ以外には大したことはなく、熱が出たりもしないのですが、歩くにしても誰かに支えてもらわないと不自由するような事になってしまいまして……」

「うん……」

「そうこうしているうちにアキーラにアロザール軍がやってきてしまったのです」

「うん」

「そしてあの晩がやってきたのです。私は妻達に、お前達だけでも先に逃げろといいました。もちろんそんなこと聞いちゃくれません。私たちを乗せていく荷車を今何とかしているからと、そのときでも私はまだ、まさかそんなひどいことになるとは思ってもいませんでした……アキーラが戦場になるなんて、全く想像もできなかったんです……でも、やがて遠くから低くうなるような、獣の叫びのような声が聞こえてきたんです」

「それって?」

「市内になだれこんできたアロザールの獣たちのわめき声です。ああ、そうです。あいつらこそが人の皮を被った獣なんです!」

 ザヴォート氏は歯を食いしばった。

「そのときになって初めて私は嫌な気持ちになりました。ともかくこれは早く嫁や子供達を逃がさなければと思ったのです。でももう遅かったのです……奴らはもう、私たちの家のすぐ前までやってきていたのです。嫁が、気丈な女だったのが災いしたのでしょう、外の様子を見ようとして窓を少し開けたところを……奴らに見つかってしまって、途端に奴らはうちの店に群がっては玄関をたたき壊して押し入ってきたのです。奴らは飢えた獣のように、嫁と、その後ろで怯えている娘に目を付けました。そこに出て行ったのが息子で……あいつも私同様ほとんど身動きすらできない状態だったのに、火掻き棒を振り上げようとして……でもそれを持ち上げることすら叶わずに、奴らは……奴らは、息子を……」

 えっと……

「ああ、どうして私はまだ生きているのでしょうか? あそこで殺されていた方がまだましだった。私は力の限り、嫁と子供達の方に向かいました。床をずりずりとナメクジのように這っていくことしかできず、そうやって出てきた私を見て奴らは、ゲラゲラと笑いました。それから奴らは私を散々に打ち据えると、嫁と娘を……私の、私の……嫁と娘を……」

 ザヴォート氏は頭を地面に擦りつけながら、激高して話し続ける。

「……あの晩、地獄の夜です。どうして私たちが? どうして嫁が? 娘が? 息子が? あの悲鳴が、もう耳から離れないのです。私の愛しい妻が、娘があいつらに……あんな奴らに……泣き叫ぶ声が……悲鳴が……あいつら、獣め! もしこの身が少しでも動けば、せめて食らいついてでも……でも一歩も動けなかった。ただその悲鳴を、悲鳴を聞き続けることしか……息子はもうぴくりとも動かず、それなのに私は、どうして、自分で自分を殺すことさえ、奴らはそんな私をあざ笑って……挙げ句の果てに……うああああああああああ」

 ザヴォート氏はついに大声で叫びながらがんがんと地面に頭を叩きつけ始めた。

《あわわわわ!》

 ティアは思わず女王の座から飛び出すと、ザヴォート氏を助け起こして、その頭を自分の胸にぎゅっと押しつける。

「わかった! わかったから、ちょっと落ち着いて、ね、ね? もう大丈夫だから、ここならもう大丈夫だから……」

 そう言いながら子供をあやすようにザヴォート氏の背中を叩く。

 やがてザヴォート氏は落ち着いてきて、自分が今、女王に何をされているかに気がついた。

「ひえええええ!」

 ザヴォート氏は慌ててティアから飛び下がると、ひれ伏した。

「申し訳ございません。申し訳ございません」

 ティアは笑って手を振った。

「いや、大丈夫だから。ザヴォートさんの方がずっと大変だったの、分かったから」

 まあ女王の衣装がザヴォート氏の涙と鼻水でちょっと汚れてしまったようだが……

「えっと、あの……」

 ティアは再び女王の座に戻ると言った。

「ともかくお話は分かりました。ザヴォートさん、どうかこちらでゆっくりとされてください」

「ありがとうございます……」

 そのとき少女がもう一杯お茶を持ってくる。

 ザヴォート氏はそれを受け取ってゆっくりと啜った。

 一息つくとティアはザヴォート氏に尋ねた。滅多に来ない外来の客だ。もっと色々話したいことはある。

「それにしても、中原はひどいことになってるのねえ?」

「はい……」

 ただでさえ色々と問題があるのに更にこんな戦乱まで発生しては、都はますます遠くなってしまうのだが……

「それでここの事って誰から聞いたの?」

「ああ、それは……昨年、知り合いの行商から聞きまして……そのときはここにお世話になる事になるなんて思ってもおりませんでしたが……来る途中でもあちこちでお美しい女王様のお話は何度となく……」

 あは お美しい女王様だって!

「でもそんな戦争の中、ここまで来るのって大変だったでしょ?」

「あ、いえ、西の方ではもう戦いは起こっておりませんで……」

「あ、そうなんだ。てことはもう、西の方って全部アロザールの領土になっちゃったってこと?」

「はい……」

 ティアは昔やった地理の授業を思い出そうとした。先生が中原の地図を開いて色々話していたが、その中で西の方にレイモン王国がひときわ大きく描かれていたのを思い出すが……

《地図って変わってく物なのね……》

「それにアキーラからバシリカへの街道は、大皇后様がお通りになるとかいうこともございまして、本当に安全でございました」

「へえ……って、なに? 大皇后様?」

 大皇后ってどこのだ? 普通王様のお后は王妃様って言うような気がするし……

「はい。それがアロザールの奴ら、レイモンに勝って調子に乗ったんでしょう、何と罰当たりにも白銀の都の大皇后様を、自分の王子の后にするとかで……」

 ………………

 …………

 ……

「は?」

 ティアがぽかんとしてザヴォート氏を見つめたので再び彼は言った。

「ですからアロザールの王子のお后に、都の大皇后様を……」

「はあ?」

 ティアが座った目をしてじりじりとにじり寄ってきたので、ザヴォート氏は少し身を引いた。

「あの……」

「訳分かんないこと言ったら殺すわよ? 今なんてった?」

「ですから……その、アロザールの奴らが大皇后様を……」

 ティアは顔がかっと熱くなった。

 それから彼女はザヴォート氏に飛びかかって馬乗りになると胸ぐらを掴みあげてわめいた。

「ふざけないでよ? ファラはデュールの奥方じゃないのよ! どうしてそんなことができるのよ! あんた自分のお嫁さんをそんなどこともしれないガキに差し出せるわけ?」

「ひいいいいい!」

「きゃあ! ティア!」

 後方で控えていたアーシャ達が慌ててやってきてティアを引き離す。

「ティア! 落ち着いて! ティア!」

「お水。お水もってきて!」

 その騒ぎが収まるまでにはしばしの時間がかかった。

 腰を抜かしているザヴォート氏にティアは謝った。

「ごめんなさい。ちょっとかっとしちゃって……怪我しなかった?」

「いえ、あの……」

「えっと、実はちょっとその大皇后様とは個人的な知り合いだったりして……まあ信じられないと思うけど」

 さすがにザヴォート氏はそれを聞いて目を白黒させた。

「ともかくそれって本当なの? アロザールがその、メルファラ大皇后を自分とこの王子の后にしようとかしてるって」

 ザヴォート氏は大きくうなずいた。

「は、はい。それは間違いございません。来る途中の村々はどこもその準備で持ちきりで……」

「準備って、いつ来るのよ?」

「聞いた話では七月にはシーガルで挙式だとか……」

「七月⁈」

 もう五月だ。あと二ヶ月しかないが―――色々準備とかを考えたらもう都は出立した後ではないか?

《なによ……これ……》

 ティアは目の前が真っ暗になった。

 本当に何が何だか……

 そのときザヴォート氏が恐る恐るといった様子で尋ねてきた。

「あの……女王様は大皇后様とお知り合い……なのですか?」

 とても信じられないといった表情だが―――無理もない。これに関してはアーシャ達だってまだ半信半疑なのだ。都に行ければ一発なのだが……

「あ、あはは。実はあたし、都出身なのよ。生まれは実はル・ウーダ一族だったりして。まあちょっと信じられないと思うけど」

「はあ?」

 それを聞いたザヴォート氏の目が丸くなった。

「なによ? そんなに変?」

「いえ、そういうわけでは。ただ、よく聞くお名前でしたので」

「よく聞く?」

「それが……アロザール王国の宣伝担当が、同じくル・ウーダのご一族のようなのですが……」

「アロザールの? 担当?」

「はい。こちらに来る途中、村々に高札が立っておりまして、大皇后様の移動経路になるからくれぐれも無礼のないようにといった内容でしたが、その御署名が確かル・ウーダ様と……都の名字でしたので不思議に思って覚えておりましたが……」

「ああ? なによ! それ……」

 だがザヴォート氏は首を振った。

「いえ、でもル・ウーダ様方はあちらこちらにいらっしゃいますれば……」

 それを聞いてティアも思い出した。

「ああ、まあ、荷馬車屋だしね。アロザールにいてもおかしくないけど……」

 ル・ウーダ一族は荷馬車組合の元締めをしている関係で、結構世界各地に散らばっているのだ。

「はい。アキーラの組合にもル・ウーダ様はいらっしゃいましたし」

「え? そうなの?」

「はい。あちらにおりましたときには色々お世話になりましたが……あのお方も今はどうされている事やら……」

「それってどこの家の人だった?」

「サンダルカンの家とおっしゃっておりました」

「ああ、サンダルカン? 知ってる知ってる。じゃあ遠い親戚かも」

「そうでございますか……女王様はどちらの一族でございますか?」

「ヤーマンだけど、知ってる?」

 パルティシオン父様の事なら囲碁好きの間では結構有名だから……

 ………………

「は?」

 だがその途端にザヴォート氏が驚愕したように目を見開いたのだ。

「ん? どうしたのよ?」

「いえ、いえ……」

「何よ?」

「ですが、その……」

「だから何よ?」

 ザヴォート氏は少々青ざめた顔で、ものすごく言いにくそうに答えた。

「その……宣伝担当の方が……ヤーマンの家でございましたが……」

「は?」

「ですから……その、アロザールの宣伝担当だったル・ウーダ様が、ヤーマンの家のファイナルフィンと……それともフィナルフィンでしょうか?」

 ………………

 …………

 ……

「は?」

 ティアがまた座った目をしてじりじりとにじり寄ってきたので、ザヴォート氏は真っ青になった。

「いえ、ですから私は……」


「訳分かんないこと言ったら殺すわよ? い・ま・何てった?」


 今回は状況を察したアーシャ達が早めに飛び出してきてくれたおかげで、哀れなザヴォート氏はそこで不幸な人生を終わらせずに済んだのだった。



「それ聞いてさあ、あたしがどんだけショック受けたか、分かる?」

「いや、まあ……」

 それに関しては否定すべくもない。

 “メルフロウ”はかつての彼女の想い人であり、“メルファラ”は今の親友である。二人の間にある絆はもう何と言っていいのかよく分からないのだが、彼女にとっては誰よりも大切な人であるのは間違いないのだ。

「だから思ったのよ。あんたが黒幕だって分かったとき、ファラを手に入れるために絶対悪魔に魂を売ったんだって! そんな奴が自分の身内なんて絶対許せないでしょ? どうなの?」

「いや、黒幕じゃないんだが……」

「だからそのときわかったのよ。あたしがどうしてヴェーヌスベルグなんかに流れてきていたのか? それは白の女王様が私に与えた使命だったのよ! ファラを救い出してあんたに天誅を加えるのは、もはやあたしの義務、宿命、天命なんだってね!」

 もう人の話聞いちゃいないし……

「だからあたし、出て来るときにみんなに約束してきたんだからね? あんたの首に縄付けて引きずってきて、干からびるまでみんなに吸わせてあげるって」

「おい!」

 もう正真正銘悪魔だろ? こいつ……

「そしたら何よ? あたしに嘘つきになれって言うの?」

「そんなこと言われたってさ……お前が勝手に約束したんだろうが!」

「ともかく、悪魔の手先じゃなくて良かったけど……」

 そう言ってエルセティアは鼻をすすり上げた。

 こいつ―――もしかして泣いているのか?

 えーっと、こういう場合は―――フィンは、ハンカチを取り出して彼女に渡した。

 エルセティアは黙ってそれを受け取ると鼻をかむ。それからじろっとフィンを見つめると……

「大体お兄ちゃんが悪いんだからね! お兄ちゃん、ずっとファラが好きだったじゃない。ファラがデュールと結婚した後も、そうだったでしょ!」

 う、いや、だから……

「だったらさっさと山荘からさらってけば良かったじゃない。なのにうじうじうじうじして! だからファラがこんなひどい目に遭っちゃったんだからね!」

 え、それは、だから……

「あげくに何よ! 大皇様付きの秘書官の話まで断って、どこかに逃げちゃうし、一体どこをうろうろしてたのよ! それにお姉ちゃんまでほったらかしで……」

 あう、それは……

「その挙げ句によ? 敵の手先になって、綺麗なメイド奴隷さんと毎晩毎晩いちゃいちゃと……」

 結局ここに戻るのかよ?

「いや、だからチャイカさんとは何もしてないって言うの!」

「何もしてなきゃ何してたのよ! 毎晩?」

 このガキは―――うー! もう怒った!

 フィンはティアの首根っこを捕まえると、その髪の毛をぐしゃぐしゃかき回す。

「だーかーら、アウラにもう一度会うまでは、女は抱かないって決めてたんだよ! だからレイモンとかじゃ郭にだって行ってないんだよ! 俺があのチャイカさんの色気を我慢して、どんな気持ちで毎晩過ごしてたかお前に分かるか? 毎晩やりまくってた奴とは違うんだっての!」

「きゃああ! なによ! この変態!」

「うるさい! 誰が変態だ! 絞めるぞ! このガキは!」

「きゃあああ! 人殺し!」

「あんだと?」

 フィンがぶち切れて本当に彼女を絞めそうになったときだ。エルセティアがぽかんと口を開けて黙り込んだ。

 それからにこにこ笑いながら、フィンの後ろに向かって手を振る。

 振り返ると―――そこにはメイとヴェーヌスベルグの娘が一人、ばつの悪そうな顔をして立っていた。

「あのー、おはようございます」

「あははは」

「あ、アカラ、メイちゃん、おはよう!」

 今の―――見られていたのか? フィンは顔から火が出そうになった。

 それから慌ててエルセティアの首根っこから手を離す。

「もしかして……徹夜してたんですか?」

 アカラの言葉にエルセティアが笑いながら答える。

「あはは。ちょっとね。この外道が言うことを聞かなくって」

「外道とか、おのれに言われる筋合いはないぞ! こら!」

 フィンが真っ赤な顔で叫ぶ。

 メイが慌てて取り繕うように言った。

「えっとみなさん、朝ご飯、頂きますよね?」

「え? もちろんよ」

「じゃ、お二人の分も準備しますんで、もうちょっと待っててくださいね」

「はーい!」

 二人はそそくさと厨房の方に去って行った。

《もうこんな時間かよ……》

 何だかすごく無駄な時間を過ごしてしまったような気がするが……

 えーっと、それでなんだっけ? ともかくどうしてこいつがファラのことを知ったかって所までだな? 後は―――こうなったらもう毒食らわば皿までだ。気になっていることは全部聞いてしまえ。

「えっと、それでさ」

 フィンは気を取り直してエルセティアに尋ねた。

「なによ?」

「その、ヴェーヌスベルグから一緒に来てくれた子って何人くらいいるんだ?」

「あ、あっちの仲間は十人よ。それにアラーニャとキールとかを入れたら全部で十三人かな。後でみんな紹介してあげるね。すごくいい子達よ」

 それってフィンの脱出計画にそのすごくいい子達の人数が加算されるって事だよな? あはは。

「そっか。それでいつみんなと合流を?」

「一週間くらい前かな? 結構ぎりぎりだったのよね」

 そして彼女はメルファラ達と再会した経緯を話し出した。



 時は今から一週間ほど前、普段は静かな街道筋のルンゴ村には、いつもとは異なったひどく物々しい雰囲気が漂っていた。

 ティア達がじっと見つめるその先には村の宿屋があった。

 そろそろ深夜だが月明かりに村の家並みははっきりと見て取れる。

 宿屋の一階にある酒場は、普段ならこのくらいの時間ならまだ明かりや人声が漏れていただろうが、今日はずっと前から締め切られていて、その前に兵士が二名、武器を携えて立っている。

 通りにはそれ以外の人影は見あたらない。

《そろそろかしら?》

 そのとき偵察に回っていたサフィーナが戻ってきた。

「どうだった?」

「ん。宿屋の周りは誰もいなかった」

「そう。じゃ、本当にあまり警備の人数は多くないんだ」

 こちらに来たとき一番心配だったのは、大皇后の一行がものすごい数の護衛に囲まれていたらどうしようかということだった―――だが実際に来てみたら一行は全部合わせて二十名前後と、かなりささやかな人数だ。

《大皇后様がいらっしゃるて言うのに、こんなのでいいのかしら?》

 何かちょっとバカにされてるような気がしたが、おかげでティア達にとっては好都合だ。

《ふっふっふ。人を舐めくさった報い、今日こそ受けさせてあげるわ!》

 ティアは後ろを振り返る。

 そこにはヴェーヌスベルグから彼女に付いてきてくれた一行が勢揃いしている。

 アーシャ、シャアラ、アルマーザ、マウーナ、リサーン、サフィーナ、アカラ、ルルー―――彼女達はみんなティアの家族だ。更にマジャーラとハフラ。この二人は家が違うのについてきてくれたのだ。

 そしてもちろんアラーニャとキール/イルド。

 正直今回はティアの我が儘というだけでなく、真剣に命の保証がない旅だ。だから無理に来なくてもいいとは言ったのだが……

《ありがとう……みんな……》

 彼女達の姿を見ると胸に込み上げてくる物がある。

 そうは言ったものの、やはり三人―――彼女とアラーニャ、キール/イルド―――では心許なかったのだ。みんなが来てくれてどれほど嬉しかったことか……

 そして今、彼女は夢にまで見たファラのすぐ側までやって来ている。

《何かもう、現実感がないのよね……》

 数週間前まで彼女は砂漠の中のオアシスにいて、何かひどく長閑な毎日を暮らしていた気がするのだが……

 中原に向かって出立したのは、ザヴォート氏がやってきた翌々日のことだ。

 そこからはものすごい強行軍だった。

 聞いていた話ではヴェーヌスベルグから中原のバシリカまでは、普通ならば一ヶ月近くはかかるということだったのに、結局山越えも含めてクォイオ村まで二週間と二日で到着してしまったのだから。

 おかげで毎日みんなくたくたで、夜になってもイルドと戯れることさえせず即座にぶっ倒れるように寝ていたくらいだ。

 しかも途中には慣れない山越えまであって、道は悪いわ雪は降るわでティアも一瞬やばいかと思ったくらいだが―――雪がすぐ止んでくれたのはラッキーだった。

 そこからはティアが先頭に立って一行を引っ張り下ろしてきたのだが、みんな南国育ちで雪には慣れていなかったせいか、結構堪えていたようだ。

 ティアの育った白銀の都は、冬になれば街中でさえ一面銀世界になるので、彼女にとってはまあいつも通りというくらいであったのだが……

 こうして何とか山を越えてしまったら、後は中原と呼ばれるなだらかな平原地帯だ。

 山麓のカルネという村で話を聞いたら、大皇后の一行はずいぶん前に都を出ているはずで、もうそろそろアキーラについているかもしれないということだ。

 そこで今度はカルネ村からクォイオ村までのショートカットコースを全力で突っ走った。

 クォイオについたのが十日ほど前のこと。そこでついに大皇后の移動の日程を詳しく知ることができた。

 そしてファラ救出作戦の決行地点はクォイオよりもう少し北にあるルンゴという村に決定した。



「あのさ、ちょっと訊いていいか?」

 話し続けるエルセティアにフィンは尋ねた。

「なに?」

「ファラを助け出すのはいいとして、その後どうするつもりだったんだ?」

 あらゆる事がこの点にかかっているのだが―――こいつ、まさか何かいい考えがあったりは……

「ファラを解放した後? もちろん逃げるのよ?」

「どこに?」

「どこって……いろいろあるじゃない」

 ―――するわけないか。

「ん? なによ?」

「いや、まあいいけど……それで?」



 ティアは一行に向かって小声で尋ねる。

「いいかしら?」

 十一人の女と一人の男は黙ってうなずいた。男の方は今日はイルドだ。こういった荒事の時にはやっぱりこいつが頼りになる。

「じゃ始めるわよ」

 一行が二手に分かれて散っていく。

 残ったのはティアとアラーニャの二人だ。彼女は他のメンバーとは異なって、一人だけ灰色のマントを纏っている。

 二人はしばらく前方の宿屋の方を窺う。どうやらみんなが配置についたようだ。

 ティアはアラーニャに目配せする。アラーニャも黙ってうなずくと、二人は通りに出ると宿屋に向かって歩き始めた。

 少し進んだところで見張りの兵士が二人の姿に気づいた。だがティアとアラーニャは知らない素振りで真っ直ぐ近づいて行く。

 ついに兵士の一人が二人に声をかける。

「おい! 止まれ!」

「え? なに?」

「こちらには高貴な方がお泊まりだ。それ以上近づいてはだめだ」

 兵士はそう言って剣の柄に手をかける。

「ええ? どうして~?」

 ティアが甘えた声を出してみるが、もちろんそれで何とかなるはずはない。

「なんだ? お前ら?」

 それを聞いてもう一人の方も近づいてきた。

「あの、ちょっとお願いがあるんですけど」

「だめだ!」

「ちょっとこれ見てもらうだけでいいんですけど……」

「??」

 次の瞬間、ティアはアラーニャの羽織っていたマントをばっとはぎ取った。

 もちろんその下の彼女は下履き以外何も着けておらず、何か扇情的な様子で自分の乳房を両手で掴んでいる。

 男達の目が丸くなった瞬間だ。二人がふっと浮き上がったかと思うと、いきなり空中でごつんと鈍い音を立ててぶつかって、そのまま地面にどすんと落ちて伸びてしまった。

 途端に横から数名の女達が出てきて、倒れた男達を慣れた手つきで縛り上げる。

 そのときには宿屋の入り口には別な一団が集まっていて、突入の機を窺っている。

 ティアはアラーニャにマントを着せながら微笑んだ。

「やったわね!」

「はい!」

 それと同時にシャアラとイルドを先頭にする一団が宿屋に突入していった。

「あたし達も行くわよ!」

「はいっ!」

 ティア達もその後を追って宿屋に駆け込んだ。

 不意を突いたせいか、ティア達が来たときにはもう中の戦いは終わっていた。

 そこは吹き抜けになった酒場で、床に数名の男が血にまみれて倒れている。それを取り囲むようにシャアラ、イルド、マジャーラ、リサーン、アルマーザが立っている。こういう喧嘩沙汰になったら彼女達はとても信頼が置けるのだ。

「敵は?」

「まだ上にいるはず……」

 その言葉どおり、ばたんと音がしたかと思うと二階の部屋の扉が開いて、中から剣を持った兵士が飛び出してきた。

 途端に周囲からびゅんと弓弦の弾ける音がして、出てきた兵士達がもんどり打って倒れる。弓を射たのはマウーナとサフィーナ、アカラとルルー、そしてハフラだ。

 ヴェーヌスベルグでは子供達はみんな一緒に育てられて、誰もが弓や剣の扱いの手ほどきを受ける。

 その中でも腕の立つ者がシャアラやマジャーラのように猟師になったりするが、そうでない者でもみんなそれなりに武器や弓を使えるのだ―――少なくとも中で一番そういうことの下手くそなアカラだって、この程度の距離なら絶対外さない。

「よっしゃ! いくぞ!」

 イルドが先頭になって二階に突進していった。階段が狭いのであまり多人数では突入できない。

 アーシャがアルマーザに指示を出している。

「マウーナ達と下に他に誰かいないか見て!」

「ええ」

「えっとあたしは……」

 まごまごしているアラーニャにアルマーザが言う。

「あたしと来て!」

「あ、はいっ」

 ティアとアーシャは二階に向かった。

 イルド達は警備兵の控えの間に突入していった。中から騒ぎの声が聞こえるが、ティア達はその前を通り抜けて奥の間に向かった。

 廊下を真っ直ぐ進んだ突き当たりに少し立派な扉があった。ここがこの宿屋の“ロイヤルスイート”だ。

《この先にいるんだ!》

 夢にまで見た、ティアの人生その物だった人。ファラが……

 ティアはばたんと扉を開いてその部屋に飛び込んだ。

「ファラ~~ああああ?」

 だが、その途端何故か足下の床がなくなってしまったのだ。足を踏み出しても空を切るばかりで―――おまけに目の前の光景が上下逆さまになって……

「動くな!」

 気づくと鼻先にものすごく鋭い刃物が突きつけられている。

《え? え?》

 視界の隅で、アーシャも同じように逆さまにされているのが見えるが―――

 えっと……

 えっと……

「動かないで」

 寝間着を着た金髪の女性がアーシャの鼻先に柄の長い―――あれは薙刀という奴だろうか? それを突きつけているのが見えるが……

 どうやら自分も、何か怖い顔をした黒髪の女性に同じく薙刀を突きつけられている!

 これってもしかして暴漢か何かと間違えられたのか?

 ティアは叫んだ。

「違うの。あたし敵じゃないから。ファラを助けに来たのよ!」

「え?」

 黒髪の女性の顔に少し驚きが走る。ティアは構わず大声で叫んだ。

「ファラ~! ファラ~! どこにいるの? ティアよ! 助けに来たのよ! ねえ、ファラ~~!」

 そのときだ。部屋の隅でうずくまっていた女性が顔を上げた。

 それから彼女はじーっとティアの顔を見ると……

「ティア様?」

 その顔は―――見違えるはずがない!

「きゃあ! パミーナさんじゃない! あたしよ。分かるでしょ? ティアだって。ねえ!」

 ティアに薙刀を突きつけていた女が彼女に尋ねた。

「知ってる人?」

 パミーナは口に手を当てて目を丸くしながら答えた。

「え、ええ。ティア様よ。エルセティア姫。あなたの……」

 途端にその女が目を丸くして驚いた。

「え? ええええ?」

「何だって?」

 それを聞いて奥のベッドに腰掛けていた年配の女性が近づいてきた。

「ああ? 確かに。見覚えあるね」

 ティアもその女性の顔には見覚えがあった。

「ファシアーナ様、ですか?」

「あんた、本物?」

「はい。はいっ! もちろん本物ですって!」

 そのときだ。奥の部屋の扉がばたんと開くと、寝乱れたブルネットの髪をした、少しやつれた様子の美しい女性が駈けだしてきた。

「ああ! 急に出て行っては……」

 奥からそんな声が聞こえるが、女性はそのままティアの前までやってきては、がくんと跪いた。

「ティア……なのですか?」

「ファラ?」

「ティア~!」

 メルファラはティアを逆さまのままぎゅっと抱きしめた。

 ティアの顔がメルファラの大きな柔らかい胸にぎゅっと押しつけられて―――この感触! これは、夢じゃない! けど……

「もがあ、あら、あら!」

 息ができず手をばたばたさせるティアに、メルファラは慌てて手を離す。

 それからファシアーナの方を向くと魔導師は軽くうなずいて、途端にティアはくるっとひっくり返ってすとんと床に着地した。

「ファラ……」

 目の前がうるうる歪んできて、まともに声が出せない。

「ティア、どこに行ってたのですか?」

「ほれが……ほれが……」

 メルファラはティアの顔を愛おしそうに撫でた。

「何か日に焼けて……すごく元気そうですね、ティア」

「ファラだって……」

 元気そうと言おうとして、ティアは彼女の顔に拭い去りようもない疲労の色を見た。

《えーっと……》

 そのときだった。

「ティア、こっちはどうなっ……たああ?」

 部屋の入り口から入ってこようとしたシャアラが、あの黒髪の女性に剣をたたき落とされて喉元に薙刀を突きつけられている。

 ティアは叫んだ。

「やめて! みんな友達なんだから! ああ! ねえ、ファシアーナ様、アーシャも元に戻してあげて!」

 振り返ってみればティアだけは戻してもらっていたが、アーシャは依然逆さまのまま、もう一人の女性に薙刀を突きつけられたままだった。

 それを聞いてメルファラがファシアーナに言った。

「あの、シアナ……」

「でもなあ……」

 ファシアーナが首をかしげる。

 そのとき奥の部屋からまた別な寝間着姿の女性達が出てきた。

 出てきたのは四十過ぎの女性と、見たこともない若い貴婦人だ。

「一体何が起こっているのですか?」

 年配の女性がそう言ったが、彼女は―――間違いない。大魔導師のニフレディルだ!

 それに答えたのはファシアーナだ。

「それがなあ、なんて言うんだ? 要するに、あのエルセティア姫が襲撃してきた、ってことかな?」

「はあぁ?」

 さすがのニフレディルもそれを聞いて目を丸くした。

「違うのよ! あたしファラを助けるために来たんだから!」

 ニフレディルはそう言ったティアの顔を穴が空くほど見つめた。

「エルセティア様? 一体今までどちらにいらっしゃったんです?」

「それが、色んなことがあって……でもファラが大変だって言うから、それで、それで……」

 もう涙でそれ以上声が出ない。

 そのとき、ニフレディルと一緒に出てきた貴婦人がメルファラに尋ねた。

「あの、エルセティア姫とおっしゃいましたが、その方が?」

 メルファラはうなずいた。

「はい。彼女がティアです」

「エルセティア姫って、あのル・ウーダ様の妹姫の?」

 ニフレディルの後ろに隠れるように立っていた小柄な侍女がそう尋ねるのが聞こえる。

 それを聞いてニフレディルは答えた。

「ええ。確かに。本人に見えますね」

 それを聞いた貴婦人が言った。

「ならば敵ではないということですね?」

 だがニフレディルは冷静に答える。

「本物でしたら、多分」

「本物なんだって! ファラを助けに来たんだって!」

 それを聞いてニフレディルが言った。

「申し訳ありませんが、それが本当かどうか確かめさせて頂けますか?」

「え?」

 ティアの返事には構わず、ニフレディルはつかつかと近づいて来ると、エルセティアの額に手を当てた。

 一瞬頭の中をかき回されるような嫌な感触がして……

「ご本人のようです」

「だから本人なんだって……」

 そう言うティアに貴婦人がにこっと微笑みかける。

「でもあんな“お友達”を見てしまったら誤解してしまいますわよね?」

 部屋の入り口では返り血を浴びた女が数名、血に濡れた剣を手にしておろおろしている。

 あわわわ! 確かに冷静に考えたら、これって押し入ったと思われてもおかしくない状況のような……

「大丈夫。みんなあたしの友達だから! みんな、大丈夫だから。それ、しまって」

「え? でも……」

 彼女達の目の前でシャアラが喉元に薙刀を突きつけられてぴくりとも動けない状態になっているのだが……

「いいから言うこと聞いて!」

 ティアの言葉に女達は不承不承といった様子で剣を収める。

 それを見て貴婦人が言った。

「アウラ、リモン、もういいわよ」

 シャアラとアーシャに薙刀を突きつけていた女性もそれを聞いて武器を収めた。

 それと同時にファシアーナもひっくり返ったアーシャを元に戻してベッドの上にすとんと座らせた。アーシャは目を白黒させている。

 それから貴婦人は彼女達に尋ねた。

「こちらには男性の警備兵がいたと思いますが……」

 それに答えたのはシャアラだ。

「……やっつけちゃったけど?」

「やっつけた? 全員をですか?」

「ああ」

 貴婦人は目を丸くしてしばらくシャアラを見つめていた。

 しばらく誰もが何と言っていいのか分からないといった沈黙が訪れたが……


「おう、下は終わったぜ。ん? お前らそこで何してるんだ?」


 それを破ってずかずかと部屋に入ってきたのは―――もちろんイルドだ。

《ああっ!》

 それから絶句している女達を見回すと、次いでティアと抱き合っているメルファラに目をとめた。

「あ? もしかしてその人が大皇后様かよ? うひゃああ! ほんとうにすごい別嬪さんだなあ」

 などとほざきながらこのバカは、血まみれの剣を抜き身のままで近寄ってきた。

「ぐばあああ!」

 次の瞬間イルドはファシアーナの魔法によって天井に貼り付けられていた。

 同時に少し離れたところにいたあの二人の薙刀使いも飛び出してきていて、イルドの喉元と股間にぴたりと狙いを定めている。いや、すごい反応だ!

「だだだああああ」

 イルドが何か呻いているが―――何かあたりの空間が歪んでないか?

「何ですか? これは?」

 ニフレディルがイルドを睨みながら冷たい声で言う。

「あ、あははは。一応、味方なんだけど、その、バカなのよ。縛り上げといていいから」

 ニフレディルはちょっと首をかしげるとファシアーナと薙刀使い達に目配せする。

 天井に張り付いていたイルドがふわっと落ち始めると同時に薙刀使いが引いて、部屋の隅にあった縄が生き物のように動き出すと、ほとんど一瞬のうちにイルドをぐるぐるに縛り上げていた。

「だわあ!」

「こんな感じで?」

 ニフレディルがティアに言う。

「あはは。OKです」

「ティア! なんだよ、これは!」

「うるさい! あんたはちょっと黙ってなさいよ!」

 その様子を見ながらメルファラやニフレディル、それに謎の貴婦人が顔を見合わせて首をかしげていたが、やがて貴婦人が気を取り直したように言った。

「で、外は一体どういう事になっているのですか?」

「あ、見てこようか?」

 黒髪の薙刀使いの言葉を聞いて、ニフレディルがそれを手で押しとどめるとティアに尋ねた。

「外にはまだ誰かいるのですか?」

「えっと……一階にはアルマーザとかアラーニャちゃんが……」

 それを聞いてニフレディルが答える。

「それではエルセティア様、先導して頂けますか? 危険がないように」

「ああ、もちろん!」

 確かに迂闊に知らない人が出て行ったら矢ぶすまにされかねない。

 ティアが慌てて前に出ようとすると、入り口付近にいたシャアラが心配そうに声をかけてきた。

「ティア?」

「あ、大丈夫だから。みんなここで待ってて」

「ああ……」

 それからティアの背後に薙刀使いが二人並び、その後からその貴婦人とメルファラ、それにニフレディルが続く。

 ティアが吹き抜けの所まで来て二階の手すりから下を覗くと、アラーニャが気づいて手を振った。

「上は大丈夫ですかあ?」

「うん。終わったから大丈夫よ!」

 だがそのとき、ティアの横から黒髪の方の薙刀使いが顔を出したのだ。

「え?」

 下にいた女達は武器をしまおうとして、いきなり見知らぬ女性が出てきたのを見て躊躇した。

「ああ、大丈夫よ。この人、ファラの護衛の人みたい」

「まあ、ティア、それは違うわよ?」

 そう言って出てきたのはメルファラだ。

「え?」

 ティアが振り返ると彼女と貴婦人が妙に意味ありげな笑みを浮かべている。

 それから横の黒髪の人の方を見ると―――何だかすごく困ったような表情が浮かべているのだが?

「彼女、あなたのお姉様よ」

 ………………

「は?」

 お姉様って、ティアにはそんな人はいないのだが―――じゃなくって、お姉様と言われるっていうことは……??

「彼女はアウラ。フィンの奥方になられる方です」

 ………………

 …………

 ……

 その言葉の意味が脳に染み通るには、しばしの時間が必要だった。

「え? えええええ?」

「ファラ、ちょっとこんな所で……」

「いずれ話すことですし、よろしいじゃありませんか?」

 奥方? フィンの? ってことはあのバカ兄貴の?

 ティアはアウラの顔を思わずじーっと見つめる。アウラがだんだん赤くなってくる。

「えっと、あの……あ……あ、ども。エルセティアですっ!」

「あの、あの……アウラです」

 アウラはそう言って下を向いてしまった。

《何か、すごく可愛い!》

 でも確か彼女、さっきあのシャアラを一瞬で片付けていなかったか? それってもしかしてすごく強かったりするのでは?―――ってか、どうしてそんな人があのバカ兄貴の奥方なんかに? もう何かまったく想像が付かないのだが……

 ティアとアウラがそんな調子で二人で固まっていると、メルファラが囁いた。

「ともかく下を見てしまいましょう。お話はその後で」

「あ、はい、はいっ!」

 ティアは慌てて一行を先導して歩き始めた。

 一行はそれから宿屋中を検分して回った。

 随行してきたアロザールの兵士達は全員が倒されるか縛り上げられるかしており、逃げ出せた者はいなかったようだ。

 検分の中心になって色々と質問してきたのはニフレディルと謎の貴婦人だった。

 ティアはやがて近くにいたメルファラにこっそり尋ねた。

『えっと、ニフレディル様に並んでいるあの方、どちらのお方なの?』

『彼女はフォレス王国の王女、エルミーラ様です』

『はい?』

 地理の苦手だったティアは、その名前だけは何とか記憶にあったが、その場所については随分遠いところという以外に全く分からなかった。

 しかもそんな遠国の王女様が、どうしてファラの付き添いなんかをしているのだ?

『えっと、フォレスってどこだっけ?』

『東の山の中の小国ですよ。都に似てとても綺麗なところだそうです』

『??? どうしてそんな方がここに?』

『それは話せば長いんですが……』

『あはは』

 そう言われてしまったら身も蓋もないが……

 やがて状況を確認した一行は、再び元の部屋に戻った。

 ティア達一行が全員入ると、部屋の中は女達でぎっしりになった。

 その様子を見てエルミーラ王女とメルファラ大皇后は顔を見合わせる。

 そこで大皇后が尋ねた。

「それでどうしましょうか? これは……」

 王女は面白そうな笑みを浮かべながら答えた。

「ともかくまずは……自己紹介から始めましょうか?」


 ―――かくして西の果ての砂漠の民と白銀の都の大皇后、それに東の山国の王女一行が、敵地まっただ中の宿屋の二階で親睦を深めることになったのだった。