太陽と魔法のしずく
第1章 惨劇の夜明け
懐かしい声がする。
「……ィン、フィン、起きてよ」
薄目をあけると、見慣れた顔が見下ろしている。
《アウラ……》
こんな目覚めは何時ぶりだろうか?
フィンは手を差しのべると、その横顔をそっとなでた。
「なによ?」
アウラはその手をぎゅっと握ると、少し怒ったような顔でフィンを睨んだ。
「もう昼なんだけど」
「え、あ……」
一瞬記憶が混乱する。えっと―――彼はいったいどうしてここで寝ていたのか? ここはいったいどこなのか?
それから昨日からの記憶が蘇ってきた。
「ああっ!」
フィンは慌てて飛びおきる。
そうなのだ。ここは平原のど真ん中、クォイオという小さな村で、ここでメルファラやアウラと再会して、彼はこれから二十人の女たちをここから安全に逃がさなければならない使命を帯びていて……
途端に頭がクラクラしてくる。
しかも夕べは意味もなく徹夜していて睡眠不足で……
ふらつく体をアウラの腕がやさしく抱きとめた。
振りかえると間近に彼女の唇があった。思わず口づけしようとしたが、すっとそれは離れていってフィンの唇は空を切った。
「え?」
間抜けな顔で振りかえると、彼女の顔にはなにか悲しみともとれる表情が浮かんでいる。
続いてアウラはいきなり核心を突いてきた。
「どうしてファラのこと、教えてくれなかったの?」
「え? いや、その……別に、隠してたわけじゃなくって……教えるつもりだったんだ。あの旅の最後に都に寄る予定だっただろ? そのときにって思ってたんだけど、それがほら、あんなことになっちゃって……」
しどろもどろに弁解するフィンにアウラはたたみかける。
「連れてってくれてもよかったのに」
「え? でも、ほら、その、だから何というか、お前を裏切るみたいな気がして、だからその……」
「だから女の人と何もしなかったの?」
「し、してない。ともかく帰るまではお前以外とは誰もって……」
そう答えながらフィンの脳裏には何度かあった“事故”のことが駆けめぐっていた。
あのリエカさん―――エステアのときには、ちょっとするっと入ってしまったような気がするが、でもあれは両手両足縛られてて身動き取れなかったからだし、オーラ・オヴァーレでチャイカさんの話を聞いてしまったときは―――あはは。ひどい日焼けでぴくりとも動けなくってよかった……
《いや、あのときはマジやばかったが……》
それとボニートもいたが―――あいつは男だからカウント外ということで!
ともかく彼は努力したのだ。若い男性にできうる限りの努力を……
「そんなこと、あたし気にしなかったのに」
「へ?」
「そのチャイカさんって、フィンに親切だったんでしょ? かわいそうじゃない」
アウラはフィンのそんな想いを瞬殺した。
「いや、でもほら、それでも俺は誓ったんだ。少々あれだとは思ったんだけど……」
そんな風に言われてしまったら、本当にフィンの努力はまったく無意味になってしまうではないか!
「ともかくこれは俺の気持ちだったんだ。絶対にお前を裏切らないっていう……」
何が何でもこの点だけは認めてもらわねば……
だがしかし……
「それじゃもしファラが迫ってきてたらどうしてたのよ?」
「へ?」
「あたしがあのときおとなしくフォレスに帰ってたら、ここじゃファラと二人っきりだったんでしょ?」
え? え?
確かに―――そもそもアウラやエルミーラ王女がここにいるということが、本来ならばまず絶対にあり得ないことである。
フィンはまだそのあたりの細かい経緯を聞いてはいないが、昨日ちらっと誰かが、フィンと別れたあとアウラが都に乗りこんで、大皇后の屋敷で暴れて、エルミーラ王女が呼びつけられたとか何とか言ってたような……
やはりこれは相当の例外的事象だったのだ。
だから本来ならばフィンが想定していたとおり、ここに来ていたのはメルファラとパミーナくらいだったわけで……
《そこでファラに迫られたら……だと?》
んな、バカな!
「あははは。どうして彼女がそんなこと……」
「だってファラ、すごく寂しがってたし」
「……………………」
もし、そうなっていたら?
………………
…………
……
全くその可能性は想定していなかったっ!
そして、そんなことになったら―――自信をもって言えるっ!
我慢なんて絶対無理! 不可能! あり得ない!
ということは?
《もしこいつがファラのとこに乱入してなきゃ、確実に裏切ってたってこと?》
―――フィンは最初から自力では勝てない戦をしていたのだった。
「そ、そりゃ……あははははは。でもともかく今はお前がいるし……」
フィンはもう一度アウラを抱きしめるとキスをした。
ごまかしでも何でもいい。ともかく今は彼女と再会できたことを喜ぶしかないっ!
アウラの目が潤む。
ああ、久しぶりのこの感触……
だが……
「あ、ちょっとそこ、道あけてもらえますか?」
??
扉の外からそんな声がする。それからノックの音がして……
「いいですか? 開けますよ」
「あ、ああ……」
入ってきたのはメイである。
後ろの扉の影からはたくさんの視線がこちらに向かっているが……
「ル・ウーダ様、お目覚めですか?」
「ああ……」
思わずそう答えるが、両腕はまだアウラをぎゅっと抱きしめたままだ。それを見たメイはちょっと目を細めた。
フィンはあわてて手を放す。
「分かってるって。今はこんな……」
「いえ、でも九〇分くらいのご休息なら、王女様もとやかく言わないと思いますが?」
ぬああああああ!
「いえ、大丈夫ですっ! 気にしないで下さいっ!」
「そうですか? それじゃ」
お辞儀するとメイは部屋を出ていった。同時にざわざわ立ち去っていく足音。
《はははは。ご休息って、衆人環視の中じゃないかっ!》
フィンは立ちあがるとアウラの顔を見た。彼女にもちょっと残念そうな表情が浮かんでいるが……
「ともかく、王女様のご依頼を何とかしなきゃ」
「うん」
「だから続きは今夜」
「うん」
アウラはぽっと顔を赤らめて、それからぽつっと言った。
「でも、ちょっと嬉しかった」
「え?」
「あたしのこと、想っててくれたこと」
それを聞いたフィンはなぜか顔が熱くなる。
再び二人は深いキスを交わす。
「それからアウラ……」
「なに?」
「坊やの名前も考えないとな」
「うん」
にこっと、アウラが微笑んだ。
それからしばらくの後、宿屋の小さな一室でフィンはひとり考えこんでいた。
与えられた課題は一つ―――メルファラ一行をこの地から安全に逃がすことである。
それに関して元々考えていた計画は、行商人に化けて出ていくことだった。そのためここに来るまでに馬車や商品をいろいろ調達して、クォイオ付近の廃村に隠してあるのだ。
だがそれがいいアイデアとはまったく思えなかった。
戦乱のあとで、このあたりにはまだあまり行商人は出入りしておらず、検問があったらかなりの確率でばれてしまうだろう。そうなればもう馬車をおりて徒歩で逃げ隠れしなければならない。
それだけでも気が遠くなってくるのに、今ではエルセティアのアホが連れてきた“すごくいい子たち”が十名以上追加されているのだ。
だとすれば残るはやはり、少人数に別れて別々に逃げることくらいか?
確かにそのうちの誰かが囮を勤めてくれれば本人が逃げられる可能性は高まるが……
フィンは首をふってつぶやいた。
「だめだろうが……」
そんなことをしたって結局みんな捕まってしまうというのがオチだ。
よしんばそれで逃げられたとしても、まさに誰かの犠牲の上に誰かが助かる、エルミーラ王女曰く“つまらない”結末だ。
《全員一緒に助かる方策なんて……》
ありっこない!
そういう勝利条件のゲームなら、まさに投了ものの状況なのだが……
―――と、かちゃりとドアが開いてメイがコーヒーとクッキーを持って入ってきた。
「コーヒー、濃くしときましたから。ここに置いておきますね?」
そう言って背を向けるメイにフィンは呼びかけた。
「あ、待ってくれ。メイ」
「はい?」
「せっかくだから、ちょっと一緒に考えてくれないか?」
彼女は驚いて自分を指さす。
「え? 私とですか?」
「だってあれ考えたの、君だろ?」
ファシアーナ、ニフレディル、それにアラーニャの魔法使い三人で二二五〇人の軍勢に匹敵するとか……
「え? それはまあそうですけど……」
「それにほら、二人で考えたら一人じゃ浮かばないアイデアが出るかもしれないし」
「あー、そういうことなら。それじゃちょっと待ってて下さい。資料とか持ってきますから」
メイは納得したようにうなずいて、部屋をあとにした。
《あんなこと言いだされた手前、せめて付きあうくらいはしてもらわないとな……》
それから椅子の背にもたれて、天井をあおぐ。
とは言っても正直、お話にならないと思うのだが……
それでも考えると答えた手前、しばらくは考えてみなければならない。
やがてメイが何冊かの本やノート、筆記具などを持って戻ってくると、小さなテーブルの反対側に座った。
フィンは黙ってその姿を眺めた。
《この子と最後に話したのって、いつだったっけ?》
最後に会ったのは視察旅行に出たあと、ベラで王女一行と再度合流したときだが―――そのときの彼女はまだ秘書官補佐で、しかも例の王女ご懐妊騒ぎでてんてこ舞いしていた。その他のときも大抵はばたばたと忙しそうで、じっくりと話ができた記憶はほとんどなかったが……
《だとすると、ハビタルに派遣されたときか?》
あのときの彼女はまだ厨房勤めで、そちらの用事で同行していたのだが……
フィンは暑さでぶっ倒れたり、雷の夜更けに怯えてやってきた彼女の姿を思いだした。
あのおどおどしていた少女が、今では打って変わって落ちついた、というよりはなにやら余裕に満ちた表情なのだが……
《彼女にしてもリモンにしても、なんだか前とはずいぶん雰囲気ちがうよな?》
別れてからまだ二年も経っていないが、その間にいったい何が起こったのだろう?
確かに彼女の場合、そういう予感はちょっとあったのだが……
《あのときもビビりまくってた魔法使い相手に、最後はタメ口だったし……》
ともかく人間きっかけがあれば一気に成長することはよくある話だ。
《でも……体の方はあまり成長してない?》
彼女もそろそろ二十歳くらいになると思うのだが、まだその姿は見事に少女然としている。
―――などとフィンが感慨に耽っていると、メイが不思議そうに言った。
「えっとそれで、どうしましょうか?」
フィンはいきなり言葉につまる。
いったいどこから切り込んだらいいものやら……
「あ、えっとそれじゃどうしようか。まず、そうだ。あんなことを思いついたきっかけとかを聞かせてもらえるかな?」
メイはちょっと困った表情になる。
「きっかけって言われましても……前に魔導師一人が五百人って習ったのと、あとはやっぱり皆さんが来てくれて、ちょっと気が大きくなったからですかねえ。あはは」
「皆さんっていうのはヴェーヌスベルグの?」
「はい。みんなけっこうお強いんですよ」
確かにそれは事実だろう。少なくとも二回、彼女たちはアロザールの護衛兵を襲撃して倒しているのだ。最初はルンゴで大皇后の護衛を、二回目はここでフィンに同行してきた兵士たちをだ。
とは言っても護衛はともに十名そこそこの人数だ。しかも襲撃なんて全く予期していなかっただろうから、完全な不意打ちだったわけで……
フィンは大きくため息をついた。
「たしかに戦いにおいて、魔導師一人を五百人の兵力として換算することはあるんだけど、それっていうのは主に合戦なんかで古典的な魔導陣をはった場合なんだ」
「魔導陣ですか? あ、覚えてます。魔法使いを壁役の兵隊で囲むんですよね?」
「うん。そうやって相手を攻撃する場合は、魔導師の魔法が五百人の突撃に匹敵する場合もあるのは確かなんだ。草原の戦いで、枯れ野を火の海にして大勝した例もあるし」
メイはうなずいた。
「でも、これが防御に回ったときはそうはいかないんだ」
「防御、ですか……?」
「ああ。例えば壁役の兵士なしで魔導師が一人だけいて、そこに五百人の敵が突撃してきたとする。どうなると思う?」
メイはあっと言う表情になる。
「それは……大変ですね」
「ああ。簡単にひねり潰されてしまうよ。全員を一瞬で皆殺しにでもできないかぎりね」
「そうですよねえ……」
「また拠点制圧といって、どこかの城や町なんかを占領したい場合も、それだけの人数の兵隊がいないと無理だ」
「はい……」
「そのうえ、魔導師だって人間だから、夜は眠らなければならない。そんなところを襲われたらひとたまりもないし、それに何より一人倒されたら何百人分の兵力を失うことと同じ意味にもなってしまう。だから、戦いには魔導師だけでなく、十分な数の一般兵が必要になるんだ」
「そうでしたか。何か上手くいきすぎだとは思ってたんですけど、そうですよねえ……」
メイは大きくため息をつく。それから力なくつぶやいた。
「それじゃやっぱりあれしかありませんか……」
「あれ?」
「今、パミーナさんとアーシャさんの服を合わせてるんですよ」
「服? どうして?」
「だからファラ様の服をお二人に合うように。で、それを着てみんなで別々の方に逃げようってことで」
フィンは咳き込んだ。
「ちょっと待て、まだそれは早いって」
そう反射的に答えてしまったのだが……
「え? でもいま無理だって……」
メイの不思議そうな表情にフィンは少々後悔した。実際どんな方策があるというのだ?
「だからまだ無理だって決まったわけじゃなくって……」
ほとんど形式的に答えたその言葉に、フィンは自分で勇気づけられた。
そうなのだ。まだ不可能だと証明されたわけではないのだ。
フィンがいま言ったことは単なる一般論だ。だが現在は普通の状況ではない。まさに極限状況なのだ。そんなときに一般常識に囚われていてどうする?
それに実際これまで何度もそんな苦境を乗り越えては来なかったか?
フィンはメイの顔を見つめて答える。
「ともかく考えようってことなんだ。まだすべての場合を考えつくしたわけじゃない。誰かが犠牲になるなんていうのは、それからでも遅くないから」
「はいっ!」
メイの顔がぱっと明るくなる。
《こうやって見るとかわいいよな、この子……》
女性の魅力という意味ではまだ発展途上(?)だが、ともかく一緒にいることで人を安心させる何かがある、そんな笑顔だ。
「それでまず、ヴェーヌスベルグからきた娘さんたちのことをもう少し聞かせてもらえるかな? けっこう強いってどんな感じで?」
「あ、はい。それがヴェーヌスベルグでは伝統的にみんな剣や弓を習うんだそうです。女ばかりの村なんで、わりとよく変な奴らが襲ってきたりするそうで。だから全員が一通り、剣も弓も使えるんですよ」
「へえ……」
「中でもシャアラさんとマジャーラさん。このお二人はダントツでして、まあ、確かにアウラ様やリモンさんにはかなわないんですけど、そこらの兵隊なんかよりずっと頼りになりますよ」
「ほう……」
「それにサフィーナさんも小さいけど筋がいいってアウラ様が褒めてましたし。その他、アーシャさんやアルマーザさん、リサーンさんなんかも結構いけてますし。あとマウーナさん。あの人は剣はそれほどじゃないんですが、弓が上手で、百歩離れた的を軽々と射ぬいたりして」
「え? そうなのか?」
「はい。いちど見たけどびっくりしました。他の人も、五十歩先くらいならみんな当ててましたけど」
フィンは目を見ひらいた。
「それって……結構すごいよな?」
メイがまた笑って答える。
「ル・ウーダ様もそう思います? 私もそうじゃないかなーって思ってましたが……」
フィンは考えた。もしかしてこれはかなりの戦力と考えていいのではないだろうか? 少なくとも彼女たちはお荷物なんかではなく、その力を当てにできるということだ。
《ということは?》
彼女たちの勝利が単なる幸運ではなく、実力に裏付けられていたのだとすれば……
「それって……敵中突破できるってことか?」
「敵中突破、ですか?」
「ああ。この地域に何千もの敵兵がいるとはいっても、固まってるわけじゃない。一度に対面するのは多くて数十名と考えれば……」
「おおぅ、なるほどーっ!」
メイは大げさに納得してくれたのだが、そのときにはもうフィンには残念な事実が幾つも見えてしまっていた。
「いや……やっぱダメか」
「え? どうしてですか?」
「だって、ここはレイモンのどまん中だろう? 一番近い味方のいるところまでどれだけ距離があると思う?」
「え? それは……」
「その中に地図あるだろ?」
フィンはメイの持ってきた資料を指した。
「はい。ありますけど……」
そう言ってメイは地図を広げたのだが……
「行くとすれば都に戻るか、アイフィロスに向かうか、シルヴェストに行くかだが……どこも何の障害もなくても二週間は優にかかるよな?」
「そうですね……」
「それに敵を一発やっつければいいだけならともかく、そうでなきゃ相手だって対策してくるだろう?」
「対策……ですか?」
「ああ。メイ。それじゃ君がアロザールの指揮官だったとする。そこで大皇后の一行が守備隊を蹴散らしながら、例えば北東に向かっているという報告を受けたら?」
「そりゃ……そちらに兵隊を送りますが……」
「だろ? しかもその戦い方から、こちらが全部合わせても二十人くらいで、魔法使いが主力って分かるだろ? だとしたら?」
「え? えーと……待ち伏せして、弓隊で遠くから撃つとか?」
「ああ。すごくいい考えだな。それじゃ相手がそうしてきたらどうする?」
「ええ? えーっと、流れ矢に当たったら危ないから……丈夫な馬車とかを用意しますか? でもそんなのって……目立っちゃいますよねえ……」
「そうだな。そんな馬車だと小回りがきかなかったりもするし……それに、こちらの居場所が分かったなら敵は夜襲を仕掛けたりしてくるかもしれないしな。そうされたらどうする?」
「え? 夜は見張りをたてるとか……」
「でも僕たちはネイまで含めて二十三人しかいないわけだから、不寝番に回せる人数は限られてるよね? 交替だってしなきゃならないし」
「あー……」
メイは頭をかかえた。
「しかもこのあたりは後方だから敵の数は少ないけど、どこに逃げようにもメリス、トルボ、シフラの線を抜けなきゃならないんだけど、そこって今は前線になってるわけで、まさに敵がうじゃうじゃいるんだ」
「うー……」
「だから可能性はゼロとは言わないけど、正直まったくできる気がしないんだ」
メイはしばし考えこんだ。
「ですよね……でも……」
「でも?」
「それじゃ別な方向に逃げたらどうでしょう?」
「別な方向?」
「はい。たとえば西の方に。このさい山を越えてヴェーヌスベルグに行ってみるとか」
「あっちに逃げるってことか?」
「はい。あっちなら敵が少ないですよね?」
確かに一理はある。というより、フィンが逃げる場合もまずは西に行こうかと考えていたくらいだ。だがそれはそれ以外にやりようがなかったからで……
フィンはため息をついた。
「やっぱどうだろうなあ。袋小路に逃げ込んでるみたいなものだろ? 逃げるにしても何の痕跡も残さず行くのは無理だし、追っ手に僕たちの意図が分かったら、あとは大軍で追いかけられるだけだしなあ……」
ところがそこでメイがはたと膝をうった。
「でもですよ? そうだ! このさいオアシスまで逃げちゃえばどうでしょう? あそこまで行ければイルドさんの飛空機が……」
「でもあれってチャージが足りないんだろ?」
「うわあっ!」
メイはいきなりのけぞる。
「うぐーっ。こんなことと分かれば銀の塔でもらってきたのにっ! って、そうだ、もしかしてニフレディル様とかに瞬間移動の魔法で持ってきてもらえませんか?」
「いや、そりゃ無理だって」
「どうしてですか?」
「瞬間移動って難しいだけでなく、特定の“受け手”が先にいないと行けないんだ。ニフレディル様の受け手になれるのはファシアーナ様だけだし」
「そうなんですか?」
「ああ。大体そんなことができれば一人ずつ都に運んでもらっておしまいじゃないか」
「あはーっ!」
メイはがっくりうなだれた。
「いい考えだと思ったんだけどなー。飛空機……」
そうか⁇
「だいたい、オアシスに行くまでにすごい砂漠を越えなきゃならないわけだし、追っ手が来たらそれこそヴェーヌスベルグの人たちにも迷惑がかかっちゃうだろうし」
「あー、まあそうですね。ダメですね。あはは」
この落胆ぶり―――もしかして彼女は飛空機に乗りたいだけなのでは?
《そういえばあのときも……》
むかし彼女と一緒にハビタルに行ったとき、二人はちょっとした事件に遭遇したのだが、その解決の鍵となったのが彼女の馬車に関する妙に詳しい知識だった。
《要するに乗り物なら何でもOKってことで?》
メイは大きくため息をつく。
「はあ……王女様に思い残すことのないようにって言われてるんですけど……飛空機に乗れたんならそれこそ本望なんですけどねえ……」
「それが……本望?」
フィンは思わず突っこんでいた。
「だって……いけませんか? そりゃ誰かいい人とかがいればいいですけど、そんな人いないし……」
拗ねたような顔で問い返えされて、フィンは言葉につまる。
「いや、別に悪くはないけど……」
「あのリザールがもうちょっとマシな奴だったらよかったんですけどねえ。ははっ。あれ以来なんかもうそちらには縁がなくって……」
「リザール?」
その名前は初耳だったので思わず尋ね返したのだが……
「あは。いや、大した話じゃないんですよ。ちょーっと初恋だったんですけどね。あのときは私もわりと本気だったりして……でもね、あいつ真剣にバカだったんですよ。バカ。百年の恋もさめちゃう勢いの大・バ・カで……うぬーっ。思いだしたらだんだん腹が立ってきたっ!」
フィンは少々慌てた。
メイの初恋話に興味がないわけではなかったが、さすがに今それで時間を浪費するわけにはいかない。
「あー、その、もう一杯コーヒーをお願いできるかなあ」
「あ、はい。すぐお持ちします」
メイもちょっと熱くなったのが恥ずかしかったのか、飛び上がるように立ちあがると部屋を出ていったのだが……
「あわっ!」
誰かとぶつかって転びそうになっている。
「んわっ! ごめんなさい」
そう答える小柄でボーイッシュな感じの娘がちらりと見えた。
《あは。まだ覗いてたわけ? でもお望みのことなんて起こらないぞ? メイ相手じゃ……》
彼女と密室で二人っきりだとしても、それこそ小さい妹と一緒にいるみたいなもので、そんな気分にはなりっこないのである。
それはともかく、フィンは深呼吸すると再度考えなおした。
《まず重要な点は、選択肢が増えてるってことだよな?》
ここに来るまでフィンはどうやって逃げるかしか考えていなかった。
だが今、彼らにはちょっとした相手なら蹴散らせる力があることが分かったのだ。
確かにそれで単純に敵中突破はできないかもしれないが、ほかに何か手立てがあったりはしないのか?
フィンは先ほどメイから聞いた“戦力”のことを思いおこす。
まずかなり強力な剣士が数名。アウラとリモンも加えれば、それだけでかなりの破壊力だ。さらにはヴェーヌスベルグの娘はみんな弓が上手だという。それにファシアーナ、ニフレディルの両大魔法使いに、アラーニャもいる。
《うまくフォーメーションを組んだら、けっこう強そうだよな?》
何より弓が使えるというのが心強い。肉弾戦になったらやはり体格差は如何ともしがたいが、遠隔戦ならその差はずいぶん埋められるわけで。
これを活かさない手はないわけだが……
「お待たせしましたーっ!」
メイがコーヒーポットを持って戻ってきた。
空のカップにコーヒーを注ぎながらメイが言った。
「途中で考えてたんですけど」
「ああ」
「敵中を突破するのが難しければ、どこかに立てこもって敵を迎撃するのはどうでしょう?」
フィンは即座に首をふる。
「いや、やっぱり囲まれたらまずいよ。そりゃ単純に正面から突っ込んできてくれたらいいけど、遠巻きに兵糧攻めにされただけで困りそうだし、あとはやっぱり夜襲がきびしいよな」
「どこかの砦を落としてとかでもダメですか?」
「砦を落とす?」
一瞬フィンは言葉につまる。確かに―――強力な魔法使いがいるから敵の虚をつければ、小さい砦くらいなら一気にいけないこともないだろうが……
「あー、砦なら確かに守りやすくはできてるだろうけど、やっぱりダメだろうなあ。人数が絶対的に少ないし、それにもう一つ、籠城する場合ってのは援軍が来るって分かってないと。たとえば一週間持ちこたえれば味方が来るみたいな状況でないと、守り手の士気が持たないしね」
メイはうなずいた。
「あー、やっぱりですねえ……でも、だとしたらですよ?」
「だとしたら?」
「要するに敵中を突破するのもダメで、どこかに籠城するのもダメだとしたら……」
「ダメだとしたら?」
何かいいアイデアがあるのか?
「手当り次第ってのはどうでしょう?」
「は?」
不審そうなフィンの表情を見て、メイは得意げに続ける。
「結局、突破するのが難しいのは、こっちの目的が分かれば相手がそこで待ち構えてて、逆に攻撃されちゃうからですよね? 防御に回ったらこっちはすごく弱いわけですから」
「ああ……」
「だから敵が待ち構えてない方に次々と襲いかかるんですよ。そうすればずっとこっちが攻撃し放題ですよね?」
「えっと……ということは、このあたりを手当たり次第に荒らせってことか?」
「ん、まあそんな感じになりますか?」
「それで?」
「はい?」
「だからそれでどうするんだ?」
「どうするんだって言われましても……」
ちょっとまてこら! 要するにそれ以降はノープランってか?
「あのなあ!」
フィンが思わず声を荒げると、メイはちょっと飛び上がった。
「うわあ、すみません、すみませんっ!」
その姿にフィンは脱力した。それから『もっと考えてから喋れ!』と怒鳴りつけそうになったのだが―――そのとき脳裏にふっとある言葉が浮かんだ。
―――わしは怒って怒鳴りだそうとした。
だがその瞬間、どこかからちょっと待てという声が聞こえたのだ。
もう少しこの娘の言うことに耳を傾けても悪くはないだろうと―――
あれってアイザック王が―――たしかロンディーネ事件のあとにエルミーラ王女が、自分が王位を継ぐと言ったときのことだったか―――ちょっと今とは状況は違うが……
それはともかく、そうなのだ。怒っていてもしかたないのは間違いない。
それに冷静に考えてみると、いまメイの言ったことは、何の役に立つのかはともかく間違ってはいない。
むしろフィン達の所持している“戦力”の利用法を端的に表していると言ってもよい。
彼らは高い攻撃力は持っているが、防御力がほとんどゼロといった状態なのだ。剣は持っていても盾や鎧は身につけていない―――そんな状態で戦おうとするならば、こちらから素早く攻撃し、相手の反撃はひらりとかわすとか、ともかくそれなりに考えて戦わなければならない。
それにその“剣”である両大魔法使いの力は、まさに天下の名刀と言ってもいいだろう。
フィンは怒りを抑えると静かに尋ねた。
「たしかにそうすれば敵を大混乱に陥れることはできるだろうけど……」
「はい」
「でもそれで逃げられるのか?」
「うーん……」
メイは首をかしげて考えこむ。
もちろんだ。これじゃ単にその辺をぐるぐる回ってるようなものだ。
だがフィンはそこに何かが少し引っかかった。いったい何が? と考えようとしたときだ。
「あの……やっぱり逃げたら、絶対見つかっちゃうでしょうか?」
「え? だってこの人数だぞ? 大皇后の一行がいなくなったってことはすぐに分かることだし、そうしたら検問だってあるだろうし……」
「でも地元の人なら裏道を知ってるんじゃ?」
「え?」
「実は厨房のおばさんが、近くの村までなら裏道を知ってるから案内してくれるって言ってたんです」
「裏道?」
それを聞いてフィンは思いだした。
この平原地帯は主街道を外れると道が網の目のようになっていてひどく分かりにくいことを。もちろん地図はあるが、そこにすべての道が描かれているわけではない。
「はい。だから村の人に聞いて行けば、けっこう敵に見つからずに進めるんじゃないかなって思うんですが……」
「ああっ!」
フィンは移動すれば遅かれ早かれ敵に見つかってしまうのは、ほぼ必然だと考えていた。街道を通っていれば、その要衝には必ず敵がいる。それら全てに気づかれないように通り抜けるなど至難の業だと。
だが考えてみれば―――地元の人は全員味方と思っていいかもしれないのだ!
こちらに来てみて再確認したことだが、彼らは心底アロザールを憎んでいた。その蛮行を見れば当然だが……
しかもその人たちは―――かつては都やベラ魔導軍を撃破し、アラン王率いる小国連合が心の底から恐れていたあのレイモン軍団を支えた人々なのだ。
そんな最強の敵だった人々から今、全面的な協力が得られるとすれば?
フィンは背筋がぞぞっとした。
《でも……やっぱ絶対ってわけにはいかないよな?》
彼らの協力によって発見される可能性は減るかもしれないが、百パーセントはあり得ない。そしてもし敵に見つかってしまった場合……
「巻き添えにしちゃいそうだしな……」
「はい?」
「いや、ほら、地元の人の協力は嬉しいんだけど、もし僕たちに力を貸したことが分かったら、その人たちがひどい目にあうかも知れないだろ?」
「うわっ、それって……かわいそうですよねえ……」
メイはまた力なくうなだれる。
だがその瞬間フィンは素晴らしいアイデアを思いついた。
「いや、でもそうか! 僕たちがアロザール兵を駆逐していって、敵がいなくなった村は自力で守ってもらえば、それを繰り返していくうちにどんどん味方が増えて、そうすれば大規模な反攻だって……」
―――と、思ったのだが……
「自力で守ってもらうって、動けるのはみんな女の人ばかりですよ?」
「うわあっ!」
フィンはテーブルに突っ伏した。
そうなのだ。
そもそも敵がこのあたりにこんなに少ないのは、アロザールの呪いのせいなのだ。
もしここの男たちが元気ならば黙って占領されているわけがない。呪いがなければアロザール軍はいま東方に侵攻している余裕などなく、全軍をあげてこの地方の平定に力を注いでいる最中のはずなのだ。
「あはは、今ごつんっっていいましたけど、大丈夫ですか?」
「え? まあな……ははっ」
やっぱり望みは―――ないのかもしれない……
フィンが諦めてしまいそうになったときだった。
「あの、ル・ウーダ様?」
「あん?」
「やっぱり……呪いの解き方って分からないんですよね?」
「ああ、まあな。昨日も説明したとおり、解呪の儀式ってのは見たことがあるんだけど、あの真似をしたって解けるわけないと思うし」
「でも、呪いが解けたらル・ウーダ様がいま言ってたことって、できるんですよね?」
「え?」
アロザールの呪いの原因はいまだ全く不明だった。原因が分からない以上手の打ちようがないが―――でも仮にアロザールの呪いが解けたとしたならば?
「んー……その場合、男の手が借りられるようになるとはいっても、あくまで村人だしなあ。相手はやっぱりプロの兵士だし……」
「でも兵隊さんならあちこちに匿われてますよ?」
「あ? そうなのか?」
「はい。この村にも何人かいらっしゃるそうですが」
その情報は初耳だったが―――いや、むしろ当然の話ではないか!
「それって……だったら、そんな兵士をリーダーにして自警団みたいな組織が作れたら、村を彼らに守ってもらうことだってできるってことか?」
「そうなりますね」
「でもそれだけじゃ指揮系統が……いや、でもアリオールがいるか?」
各村が散発的に決起したところで、バラバラに行動していたらそのうち各個撃破されるだけだ。本気で勝とうと思うのなら、全体を統率できるリーダーが必要なのだ。
しかしフィン達にその役割はまず無理だった。彼らは現地の事情にはまったく疎く、何よりもほんの少し前までは敵だった完全なよそ者なのだ。
だが―――かつてフィンを虜囚にしたあの小ガルンバ・アリオールだが、彼は白銀の都を攻めたあと、最終的にアキーラまで撤退していたことは掴めているが、その後見つかったという報告は少なくともフィンは聞いていない。
《だということは、アキーラ付近に匿われている可能性が高いってことか?》
もしここでアリオールの手が借りられたらどうだ?
彼の命令ならばレイモン兵は必ずや動くだろう。戦前の組織だってある程度残っているかもしれないし、そうなれば……
「そうなったら……行けるのか?」
本格的な叛乱というか―――もしかしたらアキーラ奪回することだって夢ではなかったりして? そうなったりしたら……
《レイモンの……再興?》
まさに思いもかけなかった可能性に、思わず頬が緩んでくる。
「えっと、どういうことですか?」
不思議そうな顔のメイに、フィンは今のアイデアを説明した。
「うわあっ! そんなことができたらすごいですよねえ!」
「だろ?」
フィンは鼻高々だったが……
「はい。もし呪いが解けたらですけど」
………………
…………
……
フィンはまたテーブルに突っ伏しそうになった。
そうなのだ。結局ここに行きつくのだ。アロザールの呪い―――これがすべての元凶なわけで……
ところがそこでいきなりメイが頭をかかえてうなりだしたのだ。
「あれ? えーっと……えーっと……」
「どうしたんだ?」
「いや、何かちょっと引っかかってて、何だったんでしょう?」
「何かって、何についてだ?」
「多分、呪いに関してだと思うんですが……」
「それって重要なことか?」
「そこがあれであれなんですけど……」
おいおい……
「もし本気で重要そうなら、ニフレディル様に……」
見てもらうこともできるが、と言おうとした瞬間だ。
「思いだしたーっ! そうそう。あの人ですよ。あの人。たしか何とか言った人」
「はあ?」
それじゃ分からんだろうが!
「ほら、覚えてませんか? ティア様のところに来た商人の人。アキーラから」
「え? あ? そういえば……」
今日の未明あたり何やらそんな話を聞いていたような気もするが……
「その人、呪われてたはずですよね? それなのにどうしてヴェーヌスベルグまで来られたんでしょう?」
「あ?」
………………
二人はしばらくお互いの顔を見つめあい、それからやにわに立ちあがると部屋を飛び出していった。
フィンとメイはエルセティアが寝ている部屋のドアを蹴破るように開くと、中に駆けこんだ。
ベッドの上では妹が大の字になってぐうぐう眠っている。
「おい、ちょっと起きろ」
彼女はびくともしない。
フィンは頬っぺたをぴしゃぴしゃ叩く。
「起きろって! ティア!」
「ふみゅ」
彼女は寝言を唱えただけだった。
フィンは彼女の胸ぐらをつかまえると揺さぶった。
「おいこらっ! 起きろよ!」
ティアは薄目をあけるが、のぞき込んでいるのがフィンだと気づいたら―――鼻で笑ってまたばたんと寝てしまった。
「うわわ」
と、その勢いでティアの寝間着の前がはだけて胸があらわになってしまう。
《こんのボケがぁぁぁ!》
メイが慌てて彼女の前を整えているあいだに、フィンは怒り心頭に達してテーブルの上にあった水差しをひっ掴んだ。
「それ、ぶっかけるんですか?」
苦笑いしながらメイが尋ねる。
「こんな奴、かまわん!」
フィンはティアの頭にざばっと水を注ぐ。
「…………mmぬぅぎゃぁぁぁぁぁ~~~~っ!」
魔界の獣を絞め殺そうとするときのような奇声が宿じゅうに轟きわたった。
「んにゃ、んにゃ、にゃにするのよ~~~~っ! 変態ぃぃっ!」
「ん誰が変態だぁぁっ!」
「人殺しぃぃぃっ! 人殺しぃぃぃっ!」
「い・い・加減に、目を覚ませぇぇぇ!」
フィンはティアの両頬をびしゃびしゃ叩く。
ぱたぱたと足音がすると、部屋に誰かが駆けこんできた。少しふくよかな感じのヴェーヌスベルグ娘だ。
「どうしたんですか?」
「こいつを起こしてるんだっ!」
「でもティア様は先ほど寝付かれたばっかりで」
「重要なことなんだっ!」
目を白黒させている娘に、メイが言った。
「アカラさん、本当に重要なことなの。あ、そうだ、みんな呼んできてもらえないかな」
「みんなですか?」
「うん。特にヴェーヌスベルグの人はみんな」
「はい……」
首をかしげながらアカラは出ていった。
ほどなくして部屋の中は女たちでいっぱいになった。
「いったいどういうことなのですか? ル・ウーダ様?」
エルミーラ王女やメルファラも一緒だ。
「それがですねえ、呪いさえ解ければ私たち助かるかもしれないんです」
答えたのはメイだ。
「ええ? 本当ですか?」
そこでフィンがかいつまんで先ほどのアイデアを説明した。
エルミーラ王女の目が丸くなった。
「要するに……そうやって地元の方々を味方につけて、レイモンを取り返してしまおうと、そういうことなのですか?」
「ありていに言えばそうです」
王女はフィンの顔を呆然と見つめた。
「ル・ウーダ様、ご正気ですか? 冗談をおっしゃってるんじゃありませんよね?」
確かににわかには信じられない話だろうが……
「もちろんです! 冗談でこんなこと言えますか‼」
王女はさらにしばらくフィンの顔を見つめると―――今度は突然笑いだした。
「あっははははは! なんてこと!」
それからいきなりフィンの首に腕を回すと、頬にキスをした。
《ぬぁ? ★♂♀☆qうぇhrgf◎◆あsdgh!!!》
あたりからおおっと声が上がる。
「ぅえっと、あの……」
「もう、最高ですわ! 本当にル・ウーダ様に来ていただいてよかった‼」
王女は耳元でそうささやくと、腕を解いてフィンに正面から微笑みかけた。
「まさに素晴らしいお考えですわ! こんなこと想像もつきませんでした。安全な地に逃げるんではなくって、この地を安全にしてしまおうなんて!」
だがフィンは首を振りながら答えた。
「いえ、でもその前に呪いが解けなければ絵に描いた餅みたいなもので……」
この問題がある以上、あまりベタ褒めされても困るのだ。
王女はこくっとうなずくが、それから不思議そうに首をかしげた。
「そのためにティア様の犠牲が必要なのですか?」
「はい?」
いったい何の話だ?
「先ほど断末魔のようなものが聞こえてきましたが……」
フィンは吹きだしそうになった。
「いや、殺しませんって。こいつ寝ぼけたらわけの分からないこと叫ぶんですよ」
王女がびっくりしてあたりを見回すと―――メルファラ以下、ヴェーヌスベルグの娘も全員同じような苦笑いを浮かべてうなずいている。
「おほほ。まあ、そういうことでしたか。でもティア様が呪いの解き方をご存じなら、どうして今まで教えて頂けなかったのでしょう?」
「いや、それをこれから聞き出すんです。というか、聞き出せるかもしれないんです」
それからフィンはティアの方に向きなおる。
ティアはいまだにわけが分からないといった表情だ。
「おい、ティア、お前アキーラから来た商人のこと覚えてるか?」
「あきーらからきた⁇」
ぽかんとする彼女にメイが尋ねた。
「えっとほら、ティア様に中原の危機のことを教えてくれた人がいたじゃないですか。それを聞いてティア様がこちらにやってくることになって」
「ザヴォートさんですか?」
代わりに答えたのは、その横にいた素晴らしいスタイルの娘だ。
「あ、そうそう。アーシャさん。その人って、聞いた話ではアキーラで呪われてしまってひどい目にあってましたよね?」
「ええ」
「でもその方がヴェーヌスベルグに来たってことは、どこかで呪いが解けてますよね?」
「えっ?」
「ああ……」
「おおっ!」
途端に王女も含む何人もが同時に驚嘆の声を上げた。
「まあ、ティア様、なにか覚えてらっしゃいませんか?」
今度はエルミーラ王女がエルセティアににじり寄る。
「えと……え?」
だが彼女は相変わらず何も分かっていない表情だ。
「おまえまだ寝ぼけてるのか?」
「違うわよ。分かる。言ってることは分かるけど、別に普通だったし……ちょっと禿げて小太りな感じだったってだけで……そんなこと何も言ってなかったし……」
この表情は―――嘘ではなさそうだ。
「えっとたしかアーシャさんとかも一緒にお話を伺っていたのでは?」
メイの問いに彼女も首をかしげる。
「ええ。確かにその場に私もいましたが……」
「ともかくみんなで覚えてることを思いだしてみたらどうでしょう」
「わかりました」
そこで彼女たちはザヴォート氏がやって来たときのことを思い起こしてみる。
- ザヴォート氏は生粋のレイモン人で、アキーラで雑貨屋を開いていたこと。
- 奥さんと娘さん、息子さんがいて、なかなか幸せな家庭だったこと。
- それがアロザールの侵攻によって無惨にも踏みにじられてしまったこと。
- 彼は呪いにかかって動けなくなり、アロザール兵に家族を皆殺しにされてしまったこと。
- そこで世をはかなんで死んでしまおうと思い、噂に聞いたヴェーヌスベルグに旅立ったこと。
- その途中でアルクス王子がメルファラ大皇后を妻に迎えようとしていること、および出迎え役がル・ウーダ・フィナルフィンという男であることを知り、それを聞いたティアから殺されそうになったこと……
「なによーっ! あんなこと聞いたら誰だって頭に来るじゃないのっ!」
「もうそれはいいから」
ティアがむくれるが、そんなことは真剣にどうでもいい。
それよりも問題は……
「たしかにこれってどこかで呪いが解けてないとダメよね」
と、ちょっと悪戯っぽい目つきの娘が言った。
「解けたのは多分アキーラで襲われたあと、わりとすぐじゃないかしら」
答えた娘は、顔つきはやや地味だが、しかし胸は結構あるような―――けふんけふん。
「どうして? あ、そっか」
最初の娘が質問して勝手に一人で納得する。
「どうしてよ? リサーン」
アーシャの問いにリサーンという娘は胸を張って答えた。
「だって呪いが解けなきゃ旅に出られないし、そんな何日も床に転がってたら餓死しちゃうじゃないの」
いや、まったくその通りだ。
「そのザヴォートさんは、誰かに呪いを解いてもらったって話はしてなかったんだよね?」
「ええ」
フィンの問いに娘たちはうなずいた。
何らかの解呪行為を受けたのなら、その話はしていて然るべきだろう。彼がそういう話をしなかったということは、自分でも知らないうちに呪いは解けていたということか……
《まさか単なる体質とか?》
それだったら単に彼の運がよかっただけということで、フィン達の希望にはならないのだ。ヴェーヌスベルグの呪いが効かなかったキール/イルドのように……
そのときフィンに先ほどのむっちりとした胸のある地味顔少女が尋ねてきた。
「アロザールの人にはあの呪いって効かないんですよね?」
「え? まあ、アロザール人だけじゃなくって、味方する者には、かな? だから僕にも呪いは効かないんだけど」
「ではもし解ける人がいたなら、それってアロザール人かその味方なのですよね?」
「まあそうだと思うけど……?」
「何が言いたいのよ。ハフラ」
リサーンが口を挟む。
「ん、だからザヴォートさんが、あの後そういう人に接触してなかったのかなって」
「その人が呪いを解いてくれたってこと?」
「うん」
「でもそんな親切な人がいたら、ザヴォートさんだって覚えてたんじゃないのか?」
フィンの問いにハフラが答える。
「いえ、なんというかたまたま、というか、それで解けちゃう? みたいな気づきにくい方法でだったら覚えてなくても」
気づきにくい方法⁇
「えっと、旅を始めてから会った人は関係ないわけだから、倒れて転がってるときにやってきて、何かしてくれた人がいるかもってこと?」
リサーンのまとめにハフラがうなずいた。
「うん。みんな何か覚えてない?」
娘たちは考えこんだ。だが何も思いだせなかった。
《いや、この子たちってけっこう頭がいいんだな……》
なにやらいつの間にかその場の会話をこの二人が仕切っているのだが……
ハフラとリサーンといえば、たしかティア達が呪われた山に行ったときに同行した二人だったか?―――だとすればハフラというのがかなり知的だというのは分かるが、このリサーンという娘もかなり鋭いようだ。
「ってことはやっぱり、ザヴォートさんがアロザール人に触れたのが確実なのは、あの夜だけだったってこと?」
リサーンの問いにハフラがうなずいた。
「まあ、聞いた範囲では」
「あのときザヴォートさんって何されてたんだっけ?」
襲ってきた兵士が親切に呪いを解いてくれたりするんだろうか? と、フィンは疑問に思ったが、ともかく他に手がかりはない。それこそ気づきにくいことを何かうっかりやらかしていたかもしれないのだ。
そこで娘たちはみんなでその夜の話を思いだした。
―――あの晩、地獄の夜です。どうして私たちが? どうして嫁が? 娘が? 息子が? あの悲鳴が、もう耳から離れないのです。私の愛しい妻が、娘があいつらに……あんな奴らに……泣き叫ぶ声が……悲鳴が……あいつら、獣め! もしこの身が少しでも動けば、せめて食らいついてでも、でも一歩も動けなかった。ただその悲鳴を、悲鳴を聞き続けることしか……息子はもうぴくりとも動かず、それなのに私は、どうして、自分で自分を殺すことさえ、奴らはそんな私をあざ笑って……挙げ句の果てに……うああああああああああ―――
「ああ、こんな感じだったわよね」
「うん。そのあと泣いちゃって大変だったんだから」
「あのおじさんが?」
「だって家族がみんな殺されたんでしょ?」
娘たちが口々に感想を述べるが―――いや、そんなもんじゃなかっただろう?
多分ザヴォート氏の奥方と娘さんはその場で兵士たちに……
彼はまったく動けない体でその蛮行を見せつけられたわけで……
フィンは想像しただけで気分が悪くなってきた。
「でも……“挙げ句の果てに”なんだったのかしら?」
ハフラがつぶやくように言った。
「何かひどいことをされたわけよね? それを思いだしたから泣いちゃった、みたいな?」
「すごく殴られたとか?」
「殴られたくらいでそんなに泣くかしら?」
アロザール兵に何か“されて”、そのあと大の男が思いだしても泣いてしまうようなこと?
彼女たちの話を聞きながら、フィンは一つの嫌~な可能性に思いあたっていた。
「ねえねえ、何でもいいから他にザヴォートさんのことで覚えてること、ない?」
リサーンの問いにしばらくして一人の娘が答えた。
「そういえば……あの晩お相手してあげた子から聞いたんだけど、あの人の後ろを慰めてあげようとしたら、ものすごい剣幕で怒られたんだって」
あはぁ?
「後ろ? 最初はびっくりしても喜ぶ人多いじゃない」
「そうそう。こりこりっとしてあげたら、ね?」
「でもやり過ぎると出ちゃって、もったいないのよね」
いや、だから……
「そういえばル・ウーダ様?」
いきなりエルミーラ王女が尋ねてきた。
「え? はい」
王女の顔には何やら微妙な笑みが浮かんでいるが―――いや、まさか……
「たしかアロザール軍は、レイプ禁止でしたわよねえ。“男女”ともに」
あはははは!
それは事実だった。
バシリカ侵攻後、アロザール兵は狼藉の限りを尽くして古都バシリカは炎上してしまったのだが、当然そのとき婦女子の大勢が乱暴された。
ところがそのあとすぐにザルテュス王じきじきの命令で、現地人を強姦することは男女ともにまかりならぬという厳命が出されたのだ。
それに違反した者がいたら、見つかりしだい公開処刑された。それも単なる処刑ではない。公開“断種”である。
兵士たちもさすがにそれにはおののいて、その方面に関してはおとなしくなった。でなければ文字通りに羊の群れに狼を放りこむようなもので、アロザール支配下の女たちは全員がケダモノの慰みものにされてしまったに違いない。
それはともかく、その禁令の理由というのが『アロザール人は常に品位を保っていなければならない』とか何とかだったわけだが……
《んなわけあるか!》
その真の理由がもし、そのような行為によってアロザールの呪いが解けてしまうからだとしたら? そして“男を”だったらまさに不自然なので“男女ともに”と触れを出したのだとしたら……?
そんな禁令があれば兵士たちが欲求不満になるのは当然だ。そこにアキーラ侵攻戦のような派手な戦乱があれば、どさくさまぎれにやってしまおうという兵士は間違いなく一定数は現れるわけで……
フィンの脳裏にそのような考えが駆けめぐる。
それから顔を上げると―――エルミーラ王女と目が合った。
王女は満面の怪しい笑みを浮かべながら、フィンにささやいた。
「ル・ウーダ様には……呪いは効かなかったのですよね? ふふっ」
ふふっって何だよ! 王女様、あまりはしたないことをお考えになっちゃ……
と、声を出そうにも、かすれた笑いしか出てこない。
「ん? どういうことなの?」
ティアが王女に尋ねる。
「それはですね……うふふっ」
王女は笑いをこらえながらその場の全員に理由を説明する。
聞き終わった女たちはみな、目を丸くしてフィンを見つめた。
「いや、でもですね?」
「でも、もしそうだったなら、私たちは助かるかもしれないんですよね?」
王女の言葉はフィンをどかんと押しつぶした。
「ですが……」
「ねえ、メイ。この村には呪いのかかった男性は何名くらい?」
「あは。えっと……数えてませんが結構いらっしゃいますよ」
「それでは、ル・ウーダ様お好みの方も、きっといらっしゃいますね」
いや、あの、その……
だが―――理屈はわからないがともかく大当たりだった。