太陽と魔法のしずく 第5章 雌狼たちの午後

第5章 雌狼たちの午後


 その部屋も同様に窓は閉めきられて薄暗く、蝋燭の明かりがきらめいていた。

「いらっしゃ~い!」

「お待ちしておりましたわ。“フィーネ”さん

 甘ったるい声でささやくのはアーシャとマウーナだ。

 この姿を見るのはもう何度目だろう。彼女たちのサービス精神にはほとほと感服する。本当にこんな解呪の儀式ではなく、彼女たち自身とじっくり楽しめるなら……

《って、何考えてるんだ-! 今までもずっとやってたのは彼女たちとじゃないかー!》

 だが、そろそろフィンは限界に達していることに気づいていた。そこで思わず……

「……なんて、いつまで自分をごまかしてたらいいんだよ?」

 思わずそう考えてしまったのだが……

「やっぱりそうだったんですね?」

「我慢してたの? 私たちじゃ……やっぱりだめ?」

 アーシャとマウーナが悲しそうな表情でフィンを見つめる。それからフィンは思いが声に出ていたことに気がついた。

「いやっ! そういうわけじゃなくって!」

 だが二人は首をふる。

「分かってますわ。でも、フィーネさんにがんばってもらえないと、私たち死んでしまうんです」

「ねえ、おねがいよ。何でもするから……」

 そう。こうやってたくさんの男たちの呪いを解いていかないと、彼らは生き残れないのだ。

 だが―――そうは言われても無理なものは無理なのだ。

「いや、だからもうダメなんです。これ以上やったら……」

「これ以上やったらどうなってしまうというのですか?」

 え?

 その声にふり返ると―――そこには薄衣をまとったメルファラの姿があった。

 下には何も着けていない。

 薄い布越しにまず目に入ってしまうのが、豊かな胸の膨らみのうえにつんと立った小さな突起に、そこから流れるように続くすばらしい体のライン、その下からは艶めかしい足がのぞいていて……

「私からもお願いします。みなさんを助けてやって下さい。私もお手伝いいたしますから……」

「手伝いって、いったい……」

 メルファラはそのままフィンの前に跪くと、彼のガウンの前を開けた。それからじっと涙ぐんだ眼差しでフィンを見上げると―――そっとフィンのモノを手に取った。

『……ーネさん』

 メルファラはそうつぶやくと、それに唇を近づけていって……

「ちょっと、ファラ、そういうことはやめて……」

『フィーネさん』

 ??

 目を開けると―――そこには不思議そうに彼をのぞき込むメルファラの顔があった。

 ………………

 …………

 ……

「うわわわぁぁぁぁ! ど、どうして……」

 フィンは飛びおきた。

「私が何をやめるのですか?」

「違いますぅぅぅっ!」

 なんて夢を見ているときに、どんな人がやって来るのだ?

 フィンはしどろもどろであたりを見回すと、ここは―――大きな木の下だった。昼食を食べたあと木陰で一休みと思って横になったら、そのまま眠ってしまったらしい。

 フィンは内心の動揺を全力で隠しながら、可能なかぎりの平静を装って尋ねる。

「えと、あの、どういうご用で?」

「後発隊のみなさんが到着したのでお伝えにきました」

「そんなことならあなたが来なくともいいのに」

「いいえ、みんな忙しいんですよ。暇なのは私とティアくらいで。彼女が来た方が良かったですか?」

 フィンはぷるぷる首をふる。あいつが来たりしたらどういう起こし方をされるか分かったものではない。

「ともかく戻りましょう」

「はい」

 フィンとメルファラは連れだって“隠れ家”の方に戻っていった。

 母屋の前の広場に来ると、そこにはすでに大きな荷馬車が二台、荷物を満載して止まっていた。

「そちらの道具は右手の部屋に入れて下さい。台所は入って左ですから」

 パミーナのてきぱきとした指示に従って女たちが荷物を運びこんでいる。

《なんかもう毎週引っ越してるよな……》

 おかげでもうみんな慣れてしまって、ずいぶん手際がいい。

 その姿を眺めながらフィンは思った。

《呪いのせいでこんな便利なことがあるとはなあ……》

 効果のあることを行えば必ず副作用というものも発生する。

 アロザールの呪いのためにレイモンでは男手が使えなくなってしまったのだが、必然の結果として各地で労働力が不足した。人口が半減して、しかも女ばかりになってしまったのだから当然である。

 だがそれでも日常生活に必要な物は生産しなければならない。

 女だからといって男仕事ができないわけではないが、農場を切り盛りするには最低限の人数が必要になる。そのためほとんどの農場がそのままでは立ちゆかなくなったのだ。

 そこで苦肉の策として行われたのが、いくつかの農場が合併することだった。そうすることで人数が確保できて最低限の生産活動が可能になっていたのだ。

 農場が合併する過程には引っ越しが発生する。その結果、現在のレイモン国内では別な農場に引っ越していく女たちの姿があちらこちらでごく普通に見られたのだ。

 それはフィン達が偽装するのにとても便利な存在だった。

 もう一点、そのため各地に放棄された小農場がたくさん出てきたわけだが、現地の人々が彼らにそんな場所を快く貸し出してくれたことだ。

 フィン達がこの“事業”を始めてまず困ったのが、根拠地をどこにするかという問題だった。

 もちろん今までのように宿屋に泊まっているわけにもいかない。そんな彼らにとって、そこはこれ以上ないすぐれた隠れ家となった。

 フィン達が今いたのも、そんな場所の一つである。

 やってきた二人の姿を見てエルミーラ王女とメイ、そしてハフラが一緒にやってきた。

「どうも。道中はだいじょうぶでしたか?」

「はい。こちらは特に何も」

「そうでしたか。それは良かった……」

 王女は普通にそう答えたのだが、フィンは笑い出さないようにするので必死だった。

 そのようすを見てエルミーラ王女がにやっと笑うと尋ねる。

「あら、私の顔になにかついておりますか?」

「ぶはっ!」

「まあ、主君の顔を見て笑うなんて、ひどい臣下ですわね。処刑してしまおうかしら」

「いえ、すみません。でも……」

 王女の姿は―――正直、見るも無惨な有様だった。

 彼女はレイモンの貧しい女が着ているようなドレスをまとっていて、それはあちこち泥などで汚れていた。

 だがまだそれはともかく、いつもの美しいブラウンの髪はばさばさで、目つきはどんよりとして力なく、口元はゆるみ、鼻筋も曲がっている。頬にはいくつか吹き出物が出ており、この女性が一国の王女だとは、そう言われても絶対信じられないであろう。

「あははは。ティア様渾身の作なんだそうですよ」

 横から口を挟んだメイも同様にいつもの可憐さは微塵もなく、単なる田舎の薄汚い小娘だ。後ろにいたハフラなどは―――なんだあれは? 豚の顔か?

 そう。もちろんこれは世を忍ぶ仮の姿である。

 彼らは現地の女に偽装しなければならなかった。前のままの格好ではあっという間に敵に見破られてしまう。

 だが現地風に服装を変えたとしても、メルファラ大皇后やエルミーラ王女などはそこにいるだけで人を引きつけるオーラを放っている。その気品を見ただけで、ただ者ではないとばれてしまうだろう。

 ―――と、そこでなぜか役に立ってしまったのがエルセティアだった。

「本当に単なるお化粧下手とは次元が違ってますよねえ。あはは」

「いやまあ、そうですね」

 フィンも苦笑いしながらうなずくしかない。

 エルセティアが幼なじみのフィーリアンやラルエイマとルナ・プレーナ劇場に入り浸っていたことはフィンもよく知っていたが、彼女たちはそこに出てきたモンスター役の特殊メイクにいたく感動したとかで、自分でもやってみようとずっと研究していたそうなのである。

 そこで培われた技術が今回のブスメイクに結実していたのであった。

《いや、みんな素でかわいい子が多いからなあ……》

 普通にしていたら特にアーシャなどは一発で目をつけられて面倒なことになってしまうに違いない。それをこんな怪物集団に変えてしまうなど……

《誰しも一つくらいは取り柄があるんだなあ……》

 フィンはしみじみと思った。

「それで、今度の村はいかがです?」

 王女の問いにフィンはうなずいた。

「え? はい。順調にいっていますよ」

「そうですか。そうするとこれで“基点”は五ヶ所目ですね」

「はい。そうですね」

「ともかく……がんばって下さいね。あなたの体にみんなの運命がかかっておりますから」

「はい……」

 相変わらずフィンは例の解呪の儀式を続けていた。もちろん連鎖的に呪いを解いていけるので、最初に比べれば楽にはなっている。

 だが呪いを効率的に解いていくには、一ヶ所でやっていてはダメである。解呪には人の動きが必要になるので、ある村を“開放”したなら影響はそこから周囲にじわじわと広がっていく形になる。

 従ってスタート地点となる“基点”を、遠く離れた場所に分散して作っていった方が全体の効率がいいのだ。フィン達が何度も引っ越しを繰り返していたのは、そのようにして各地に基点を作っていたからだった。

 そしてそこではやはり最初にフィンが解呪の方法を“実演”して見せなければならないのである。

《はうー……》

 昨夜もそういった実演を行っていて、おかげで今日は寝不足なのだ。その上、さっきみたいな夢を見てしまったあとでは……

 フィンはまだ横にいたメルファラをちらっと見ると、またもや穴があったら入りたい気分になってくる。

「ん? ご気分がすぐれませんか?」

 そんな彼にメルファラはとても優しく言葉をかけてくれるのだが……

「いえっ、何でもありませんっ!」

 汚れた心の中を見せないように、フィンは全力で取りつくろった。

「そうですか。それでは私はこれで」

「ファラ様もお疲れならお休みになっていて下さい」

「いえ、私もだいじょうぶですから」

 そう言って彼女は去っていったのだが、その後ろ姿が少々くたびれぎみなのはしかたない。この基点づくりには彼女はなくてはならない人だったからだ。

 基点を作る際には次のような手順が必要だった。

 まず村の人から新しい基点に適した場所を教えてもらう必要がある。

 そこにまず先発隊としてフィン達が案内人と共に向かうのだ。いきなり全員で行くと何かあった際に小回りがきかないので、まずは解呪の儀式に必要なアーシャ、マウーナ、アウラが同行することになる。

 だが解呪の方法が方法だ。まず間違いなくすぐには納得してもらえない。そこで村人の説得役としてメルファラが登場することになるのだ。

 そうなるとある程度念入りな護衛が必要になるので、ファシアーナ、リサーン、シャアラが同行し、さらにメルファラの世話役としてパミーナが必要だった。

 だが先発隊の場合、未知の場所に行くため色々なトラブルが発生するのもやむを得ない。この間などすぐ近くに敵の大部隊がやってきたため、あわてて夜っぴて逃げたこともあったのだ。

《他の連中はともかくなあ……》

 彼らはそもそも彼女を救うためにがんばっているのであって、その本人にこんなことをさせるのは心苦しいのだが―――そんなことを考えていたときだ。

「あ、みんな着いたあ?」

 元気な声とともに走ってきたのはリサーンだが―――王女達の顔を見ると目を丸くして、体を折り曲げて地面にうずくまって痙攣しはじめた。

「ほら、あんたいったい何しに来たのよ?」

 ハフラがその横腹を蹴っとばす。

「い、痛いじゃないのよぉ、この豚ぁ!」

「あ? なんつった? 今」

 ハフラがリサーンをあお向けに転がすと顔を突きつける。

「きゃーっははは! だめえ。もうだめ。その顔見せないでーっ!」

 リサーンはのたうち回りながら笑い出す。

《まったくこの娘は……》

 最近は彼女でも王女の顔を見ていきなり爆笑しないくらいの礼儀は身につけていると思ったのだが―――しかし確かにこれで笑うなと言うのは少々酷だろう。

「あの、王女様? そろそろメイクを落とされた方が……」

「まあ、そうですわね。それでは私はそろそろおいとましますわ」

 それから横にいたメイに向かって言う。

「あなたは?」

「え? その前にちょっと回りを見せてもらおうかと」

 それを聞いたハフラもうなずいた。

「ああ、そのほうがいいわね。これ落とすの時間がかかるし……って、ほら! いつまでのたくってるのよ! とっとと案内しなさいよ」

 ハフラはまだ笑っていたリサーンをまた蹴っとばした。

「痛いじゃないの。分かったって」

 リサーンはやっと笑いを抑えると立ちあがって埃をはらった。

「で、フィーネさんも来ます?」

「あ、もういちど回っておこう。あの裏道っぽいの、使えそうだったのか?」

「あー、ありゃダメね。ケモノ道みたい」

「そっか」

 リサーンに案内されてフィン、メイ、ハフラは隠れ家の奥の方に向かった。

 彼らが今いる隠れ家なのだが、ここはまさに何の変哲もない草原の農場主の館だった。こんな場所はレイモンには無数にあるので簡単に見つかることはないと言っていい。

 しかしそれでも絶対はあり得ないから、いざというときの撤退経路などは確保しておかなければならない。

 リサーンが森の小径を抜けると、ちょっとした広場に長い柵のある場所に来た。柵の向こうは森が急傾斜に落ちこんで崖のようになっている。

「ここがこんな感じなんで、こっちから来ることはないと思うの」

「そこがさっき言ってた裏道?」

 ハフラが指さしたところから、森の下の方に踏み跡がのびている。

「うん。ちょっと下ってみたけど、すぐに藪になってて道はなくなってるの」

「じゃあこっちは降りられないのね?」

「まず間違いないわ」

「他の方向は?」

「これから行くけど、北もだいたいこんな感じで、東は深い森。開けてるのは南だけね」

「ふーん。なかなかいい場所ね」

 ハフラの言うとおり、今回の隠れ家の立地はなかなかだった。

 前回の場所は草原のど真ん中でその気になれば敵はどの方向からでも来られたが、ここだとほぼ南に限られる。またメジャーな街道筋から見えてしまうこともない。

 しかしそういう袋小路のような地形の場合、一般的には敵に表をふさがれたら困ってしまうものなのだが―――そのときメイが尋ねた。

「この下にはやっぱり川が?」

「うん。けっこう大きな川があって、いま小舟が用意できないか確かめてるとこ」

「あ、それじゃ何かあったらここに集合なんですね?」

「そうなるわね」

 しかし、こんな崖は普通の人間には大きな障害になっても、魔法使いがいれば無問題なのだ。あの駐屯地で使ったような方法で、彼女たちが逃げるのにはまったく困らないのである。

 そんな会話を聞きながらフィンはしみじみ思った。

《彼女たちがいてくれて本当に助かったなあ……》

 リサーンとハフラがバターリア―――戦争ごっこに熟達してくれていたのは本当に幸運だった。

 聞けばそれはヴェーヌスベルグでは伝統的に行われている、五人から十人くらいのチーム同士で戦って勝負を決める遊びだそうだ。

 ルールはリーダーを決めてそれを倒すといったものや、陣地を決めてそこの攻防をおこなうといった、要するに小隊バトルのシミュレーションである。

 もちろん遊びは遊びだからいきなり実戦ができるわけではなかったが、ともかく飲み込みが早く、何よりも集団戦闘の基本がしっかりできていたところが嬉しかった。

 彼女たちは個人の戦闘力というのであればアウラやリモンに劣っている。

 だがその二人はずっとエルミーラ王女の護衛であり、軍隊の一部として戦ったことはない。そしていくら強くてもリーダーの指示に従わずに独断で行動されては、勝てる戦も勝てなくなってしまうものだ。

 フィンはそんなところを一から訓練しなければならないかと思っていたのだ。

《そんなことになったら軽く死ねてたよな……本当に……》

 正直体力はかなりの限界であった。

 ―――だがその一方で、まさに想定外の事態も発生していた。というのは彼女たちはフィンが思っていた以上に“想像力豊か”だったのだ。

 言いかえると、彼女たちの立てた作戦は良くいえば型破り、悪くいえば非常識だった。


 ―――駐屯地の襲撃から戻った翌日、フィンがハフラやリサーンともう少しゆっくり話してみたときだ。

 最初は彼女たちもまたメイと同様に、すごい魔法使いがいるのだからあの二人に蹴散らしてもらえばいいのでは? などということを言いだしたので、ああ、そうは上手くいかないよなあと思いはじめたときだ。

「……やっぱりどんなに強くても、袋だたきにされたら負けちゃうのね?」

 リサーンの言葉にフィンはうなずく。

「まあ、そういうことなんだけど……」

 そこでハフラがリサーンに言う。

「ほら、私の言ったとおりだったでしょ?」

「別にあたしだってそう思ってたわよ? でも二人で吹っ飛ばせるのなら、それが一番早いじゃないって言いたかったの」

 それから彼女はフィンの方に向きなおる。

「それじゃ、こういうのはどうかしら。行く人数を減らすの」

 ハフラもうなずいた。

「私もそれがいいって思ったんですが」

「は? 行くって、攻撃しに行く人数を減らすってことか?」

 フィンは首をかしげた。意味がよく分からないのだが……

「うん。だから一人で突っ込んだらやっぱりダメだけど、今の人数じゃ多すぎるから減らすのよ」

「今が多すぎ⁇」

 彼らのなかで一応まともに戦えるメンバーは多くても十五人そこそこだ。しかもほとんどが女なのだ。たしかに中には突出した者がいるにしても、これでは敵がよっぽど少ないか、うまい待ち伏せ場所がなければ被害なしには戦えない。

 それなのにこれからはそんな幸運は基本的に期待できないのだ。

 だからフィンはこの少人数で、しかも草原を中心とした戦いをどうもっていくかで、悩みに悩んでいたのだった。

 彼はそういったことを説明しようとしたのだが……

「うん。だってだってこの間みたいな所ばっかならいいけど、普通はそうじゃないでしょ? 平たい草原ばっかりで。そんなところで乱戦になっちゃったら勝ち目ないじゃない」

「ああ……」

 まさに彼が言おうとしたことなのだが……

「だからねえ、行く人数を減らして、ヤバくなったらとっとと逃げられるようにしておくの。シアナ様とリディール様なら四人ずつくらい抱えて飛べるでしょ?」

「は?」

「それに連れてくのを最精鋭にしておけば。どうせアカラとかルルーがいたって枯れ木の山なんだし」

 フィンは一瞬彼女たちが何を言っているのかよく分からなかった。

 ―――だが次の瞬間、目から鱗が落ちた。

「要するにあの二人が抱えられるくらいの少人数で攻撃して、危なくなったらすぐに飛んで離脱するってことか?」

「そうそう。それにフィーネさんも言ってたじゃない。別に皆殺しにしなくても、二、三割無力化できれば勝ちだって。だったらこれでわりと良くない?」

 フィンは考えた。

 そもそも彼らの攻撃力はほぼあの二人の大魔導師に依存している。

 すなわちもし敵の反撃を気にしないのなら、まさにほとんど二人でことは済んでしまうのだ。だがもちろん敵も黙って立っていてはくれない。そのため二人を守るための護衛が必要になってくる。

 こういった議論から、魔導師は壁役兵士に守られた中から大魔法を打ち込むという古典的な戦闘スタイルが確立していったわけだが……

《でもここはレイモンだよな?》

 レイモンは基本的に大草原なので、大部隊で動けばまず発見されてしまう。

 だが同時に平原といっても単に平たいのではなく、ゆるい丘陵や木立、灌木の茂み、急に現れる深い谷などが各地に点在している。

 そういう場所を利用すれば少人数で待ち伏せするにはまったく問題がない。

 だが最初の切り通しのような場所と違って、敵味方の間を遮る地形がない。そうなると奇襲といっても先制攻撃ができるだけで、そのあとの戦いにおいては数の論理が優勢になってくる。

 特に逃げようとしたって相手も同じ条件だ。追いつかれてしまって、いまリサーンが言ったような敵味方の乱戦になってしまうことだろう。

《でもその人数なら確かに簡単に逃げられるよな?》

 こんな空の広い場所なら、ファシアーナもニフレディルも心おきなく全速力で飛んでいくことができるだろう。そうなったら馬など相手にならない。

 そしてファシアーナとニフレディルが各四人ずつ。合計十名の部隊を作ったとしたら、確かに今よりほんの少しだけ攻撃力は落ちるかもしれないが、だがそれを補って余りある“機動力”を手に入れられることになる……

 そもそも戦闘において退路の確保というのは、指揮官が真っ先に考えておかねばならない基本中の基本である。

 だが同時にもっとも判断が難しいところでもある。

 戦いでは普通は前に出て行かなければ勝てないが、そうすると必然的に撤退線が長くなって、負けたときには大損害を被ることにもなりかねない。

《そんなことを気にせずに戦えるとしたら?》

 なにしろこちらは空を飛んで逃げられるわけだから、敵に完全に囲まれてしまったって怖くないわけで……

 そのうえリサーンが補足したとおり、勝つためにはいちいち敵を全滅させる必要はないのだ。

 軍隊というのは単なる人の集まりではなく有機体のようなものだ。従って構成員の三十パーセントも失うとほぼ機能が麻痺するし、それが有能な指揮官だったら一人失うだけで潰れたも同然だ。

 こういう構成は―――それこそ大将首狙いの一点突破に最適な布陣ではないか?

《とはいっても……》

 フィンは大勢の敵に取り囲まれた彼女たちが、ファシアーナなどに連れられて飛んで逃げる場面を想像してみる。

 地上の連中は手も足も出ないだろうが―――弓で射られたら危険だろうか? だが飛んでいく的に正確に当てるのは難しいし……

「ちょっとお二方にもこれは聞いてみないことには……」

「あ、そりゃそうですよねー」

「危険が全くないわけではありませんから」

 そこでフィンはニフレディルとファシアーナを呼びに行かせたのだが―――それを聞いた二人の大魔導師も、最初はさすがに目が点になっていた。

「あたしがおまえらを抱えてぶんぶん飛び回るってのか?」

 というファシアーナの問いに……

「あ、まあ、そんな感じですけど」

 と、リサーンなどはあっけらかんとしたものだ。

 こんなことが言い出せたのも、彼女たちが魔導師を育てるのにどれだけの費用と期間、それに専門的なノウハウが必要か知らなかったからに違いない。すなわち一級魔導師一人を失うだけで、国家予算規模のロスを意味していたのである。

 フィン達もエルミーラ王女達も、それがもう常識として身に染みてしまっていた。なにしろ、白銀の都やベラ首長国はこれまで、魔導師を他国に派遣するだけで世界をほぼコントロールしてきたのである。

 従って戦いが魔導師の安全第一になるのはほぼ必然で、こんな形で最前線に出るなど論外だ。

 たしかに王侯クラスの重要人物が孤立しているのを救出に行った例などはあるのだが、それは相当の例外的状況であろうし―――フィンがアリオールに囚われていたときにロクスタやプリムスが救ってくれたのは事実だが、あれはレイモン側に対抗できる魔導師がいないことを知っていたからだろう。相手側に魔導師がいれば、飛んでいく相手を叩き落とすことは簡単なのだ。

 ファシアーナがじろっとフィンの顔を見つめる。

「おまえ、あたし達にこんなことをさせるために呼び出したのか?」

「え? いえ、その……」

「天下の大魔導師にこんな要求した奴はじめて見たよ」

「いえ、その、すみません。しかし……」

 ところがそんなしどろもどろのフィンを見て、ファシアーナがにたっと笑う。

「で、フィーネちゃん あんたの意見は?」

「は?」

「あんたの意見だ。こいつらの言ってることは結局どうなんだ?」

「え? あ、はい。その、上手くいけばかなりおもしろいんではないかと」

「ほう? おもしろいか?」

「その、だから、今の私たちの戦力を一番活かせる方法なのではないかと思います」

 それを聞いたファシアーナはにっこり笑った。

「そっか。だったらいいぞ?」

「え? 本当ですか?」

「ああ。あたし達だって分かってるから。こんな状況じゃ、少々無理なことでもやるっきゃないでしょ。だろ?」

 横にいたニフレディルもうなずいた。

「私もそう思いますね。それに飛ぶだけならむしろ負担は少ないですし」

 確かに飛行魔法などは彼女たちにかかっては軽いランニングのようなものだ。だいたいファシアーナなどはそうしないと住めないような家に住んでいたりするし。

 というわけでこの作戦をやってみることになったのだが―――


 ところがこれが実に有効だったのだ。

 まず、南方に展開していた部隊が援軍にきたのだが、彼らの連携は全く取れていなかった。各地からこの地域にバラバラにやってきては、中にはそこで初めてディロス駐屯地壊滅のことを知った部隊もあったくらいだ。

 そんなようすをフィン達は、村人からの連絡によって手にとるように知ることができる。

 そこでそんな部隊を先だっての方法で次々に襲ってみたわけである。

 もちろん最初の襲撃の情報は伝わっていたので敵もまったく無警戒ではなかったのだが、草原のどまん中で奇襲されるとは夢にも思っていなかったようだった。

 たとえば先日、敵の中隊をきりきり舞いさせたときは以下のような展開だった。


 ―――やってくる敵はアロザールの中隊で、総勢は百名近くはいるだろう。襲撃予定地点は見渡す限りの緩くうねった平原のど真ん中で、所々に灌木とか木立はあるにしても通常はまったく障害物はないと言っていい場所だった。

 中隊は街道を二列の縦隊でやってくる。

 まず先頭に騎兵の部隊、中間に歩兵の部隊、それに混じって中隊長の部隊があり、その後ろから弓隊がやってくるという布陣である。

 その街道脇の草むらの中に、ファシアーナとニフレディルの小隊が道を挟むように潜んでいる。

「最後が弓隊ですね。やり過ごして後ろから行きましょう」

 ハフラがニフレディルにささやく。彼女がそのことを対面にいるファシアーナに連絡する。

 こちら側には彼女たちの他に、リモン、マジャーラ、それにサフィーナが一緒だ。ヴェーヌスベルグ組はみんな弓を背負っている。

 反対側にはファシアーナの他にリサーン、アウラ、シャアラ、それにマウーナが入っている。ここでもヴェーヌスベルグ組は弓が主武器だ。

 二隊の間を何も知らずにアロザールの部隊が通りすぎていく。彼らが行きすぎて背を見せたとき、ハフラが号令を出す。

「それじゃ始めます」

 その言葉とともに、ニフレディルの両脇にリモンとマジャーラが立って三人で腕を組む。後ろにはハフラ、さらにその後ろにサフィーナが立って、前の者の腰を抱える。

「お願いします!」

 次の瞬間全員がふわっと浮きあがると、地面ぎりぎりの高さで一気に敵の斜め後ろに迫っていった。反対からはファシアーナ達が同様に音もなく飛んでくる。

 敵が襲撃に気づいたのは彼女たちが間近に着地して、女たちが弓の第一撃を放ったあとだった。

「敵襲だーっ!」

 誰かが叫ぶが、そこに大小の火の玉が降りそそぐ。それは威力はそれほどでもなかったが、弓兵の大切な武器をことごとくダメにしていった。

「後方に敵だぁぁ!」

 その声を聞いて前にいた歩兵隊や、その前の騎馬隊が翻ってこちらに戻ってくる。場所が草原だけにそういった展開は迅速に行える。

「撤退ーっ!」

 それを見た女たちは泡を食ったように、草むらの中に逃げこんでいった。

「追えーっ」

 部隊長の指令に、歩兵達が彼女たちを追って草むらの中に走りこんでいく。

 だが―――そのときはすでに彼女たちはまた“飛行隊形”になって側方に回り込んでいたのである。追っていった兵は敵の影さえ見つけられない。部隊長があまり深追いさせてもまずいと思った、その瞬間だった。

「キィェーイ!」

 そんなかけ声と共に、いきなり横にいた副官がのけぞった。みると見慣れぬ武器を持った金髪の女が、彼を一刀両断にしていたのだ。

「なんだ?」

 彼が慌てて剣を抜こうとしたときに視界の隅に入ったのは、同じく長い柄の武器を持った黒髪の女が“降ってくる”姿だった―――それが部隊長が最後に見た光景だった。

「もう一斉射ーっ!」

 弓弦の弾ける音と共にあたりにいた護衛に次々に矢が突きささる。

 続いてバーンという音とともに、火の玉が弾けた。

 兵士達が混乱から抜けだしたときには、あたりにはもう誰もいなかった―――


 と、こんな調子だったのだが、これが敵部隊に多大なる心理的効果を与えていた。

 まず相手は、まるで自分たちが見えない敵と戦っているような気分になっていた。

 敵の正体が分からないということは、何にもまして不安が煽られる要素なのである。

 もちろん、女の戦士に襲われたということは分かるのだが、その実体に関しては目撃した各兵士の言い分がまったく異なっていたのだ。

 ある者は少数の襲撃だったと言うし、別な者は大群に囲まれたと言うし、また別の者は敵は巨大な怪鳥に化けてやってきたなどと言いだすし、駐屯地を襲った怪物の話もあって噂は尾ひれがついてだんだん収拾がつかなくなってきていた。

 そうなったのも、彼女たちが襲撃を行う際には可能なかぎり迅速に行動し、事が終われば即座に撤退することを徹底していたからだ。

 そのため敵が最初の攻撃を凌いだときにはもう相手は引いていて、逃げていく敵を追いかけていってもその先には誰もおらず、気づくとまた背後が襲われていることになるのである。

 そのため敵兵達は平原を行軍することを恐れはじめた。だがこの国を支配する以上それは不可避である。従って彼らは大きな集団を組んで、慎重に移動するようになってくる。

《おかげでやりやすくなったよなあ……》

 それはまさにフィン達の思う壺であった。

 敵が固まってくれればそれだけ大皇后探索の網は荒くなって、こちらはその間をすり抜けやすくなり、相手の動きは分かりやすくなっていくのだから。

 また彼らはすぐに野営をすることも危険だと思い知った。

 もちろんそれは夜襲に最適だったからだ。夜陰にまぎれて近づいて、あとは大魔法を何発かぶち込むだけの簡単なお仕事だ。

 そこで宿泊は村の宿屋などを接収して利用しようとしたわけだが、そういう場所ではなぜか従業員にちょっと変わった訛りの女がいたりするのである。そこで珍しくおいしい料理を堪能した兵士達が気分よくぐっすり寝ていると、宿屋に謎の出火があって大損害が出たりする。

 そんな噂があちこちを駆けめぐり、そしてアロザール兵たちはやがて気づいたのだ。

 彼らは大皇后の一行を追跡しているのではなく、逆に狩られているのではないかと……

 ―――このような作戦のかなりの割合がフィンとメイの他に、このハフラとリサーン二人の協力の元に生みだされたのだった。

「それでこっちで近々出ていくことは?」

 ハフラが尋ねると、リサーンがふり返る。

「ああ、フィーネさん、何か聞いてます?」

「いや、今のところ付近に大した部隊はいないようだ。動くに動けなくなっているみたいで」

「だってさ」

 敵軍は駐屯地襲撃のダメージからまだ抜けだせていないらしい。本来なら何よりも指揮系統の立て直しをしなければならないはずなのだが……

「だから今日はゆっくり休むといい」

「なんだー、残念だなー。こっちでもあたし達の華麗な戦いを見せてあげたかったのに。まさに蝶のように舞い蜂のように刺す、みたいな?」

 それを聞いたメイがぼそっと突っこむ。

「蝶ですか? どっちかというと蛾の方が似てませんか? ほらあの草陰からびゅんって飛ぶの」

「スズメガ?」

 それを聞いたリサーンが眉をひそめる。

 フィンは吹きだしそうになった。いやまさに言いえて妙なのだが……

「そうそう。みなさん、あんな感じでびゅーんって飛んでくじゃないですか?」

「えー? あたしあれ嫌い。胴体がぼてっとしてて」

 そこに今度はハフラが突っこむ。

「なにそれ。自己嫌悪?」

「はあ? なに言ってるのよ。あんたの方が太いじゃないのよ!」

「胸とのバランスでこのくらいがちょうどいいのよ」

「あーっ、この言ってはならんことをーっ!」

「あはは。でも蜂の方はスズメバチくらいの破壊力はありますよね」

「おお。たしかに! じゃあなに? スズメガのように飛んでスズメバチのように刺す?」

「何か怖いわよ。それ」

 あげくに普段はスズメのように小うるさいよな―――と、フィンは突っ込みを入れたくなったが、なにか十倍くらい言いかえされそうだったので黙っておいた。



 フィン達が隠れ家周辺を一周して、再び母屋の近くに戻ってきたときだ。

 ワンワンという吠え声とともに、森の陰からいきなり白黒の中型犬が走りだしてくる。

「待ってよ! メローネ!」

 そのあとをリードを持った小さな女の子が、引っ張られるように駆けてきた。

 それを見たリサーンが囃すように言った。

「あーっ、また散歩させられてるーっ」

「違うもん、メローネが速いだけなんだもん!」

「置いてかれるなよ!」

「だいじょうぶだよっ!」

 一人と一匹はそのまま走り去ってしまった。

 もちろんその少女とはネイである。彼はなかなかの美少年であったから、こうして女装するだけで女の子で通ってしまうのだ。

 そして彼が散歩させていた牧羊犬のメローネが、彼らのとても重要な仲間になっていた。

 というのは、夜間の見張りを“彼女”に一手に引き受けてもらっていたからである。

 彼らは世を忍ぶ存在であったから、本来ならば隠れ家周辺には見張りを立てたかった。

 だが夜間の歩哨となると辛いだけでなく、いざというときには一番危険な役回りである。

 従ってそのためには少なくとも一度に二人以上の人員を割り当てなければいけないし、途中で交替する必要もあると考えると、そもそも根本的に人数が足りていなかったのだった。

 最初の数日の間、ちょっと分担してやってはみたのだが、相当数の仲間が翌日の昼間に使えなくなってしまう。そこでどうせ中途半端なことになるくらいなら夜間の見張りなど止めてしまって、代わりに番犬を飼おうということになったのだ。

 そのためにもらい受けたのがメローネだった。ここは牧畜が盛んなので慣れた牧羊犬もふんだんにいるのである。

 そしてここまであまり役割のなかったネイに、彼女の世話という大役が任されたのであった。

「ネイ君、元気になったわねえ」

「最初はずっと怯えてたもんね」

 まあ、いきなり血まみれの剣を持った怖いお姉さん達に囲まれてしまったわけで……

 だが今ではネイもメローネも彼女たちのかわいいマスコットなのである―――それが彼の情操教育にいいかどうかはいまいち不明なのだが……

「あとはどこかある?」

「あとは……“巣”があの木かな」

 ハフラの問いにリサーンが母屋から少し離れた所にある高い木を指さした。

 見るともう梢近くに見張り台ができあがっている。

「またシアナ様ですか?」

 メイがフィンに尋ねる。

「ああ、午前中にはもう作っちゃってたけど」

「シアナ様って高いところ、お好きですよねえ」

「あはは、そうだね」

 本来そこは隠れ家の周囲を見張るための施設のはずなのだが、ファシアーナが暇なときはそこで昼寝をしていたりするので、いつの間にか彼女の巣ということになっていた。

「これでだいたい見たかな」

「それじゃ戻りましょうか」

 ハフラとリサーンは連れだって戻ろうとするが、なぜかメイがフィンのそばから離れない。

「あれ? メイさんは?」

「あ、もうちょっと用事があるんで……」

「あ、そう。それじゃ」

 二人は去っていってしまった。

《用事って?》

 二人きりになってフィンは(いぶか)った。なにか王女からの伝言とかでもあるのだろうか。

 するとメイがあたりをきょろきょろと見回しながら小声でささやくように言う。

「えっとフィーネさん、ちょっとこっそり話せるところ、ありませんか?」

「え?」

 こっそりって、いったいどんな話だ?

「一応あの奥ならだいじょうぶだと思うけど?」

 フィンは東の森を指さした。

「それじゃ行きましょう」

 メイはすたすたとそちらに歩いていく。フィンは慌ててついていった。

《いったい何なんだ?》

 二人っきりで話したいこと? まさか告白?―――なんてことはあり得ないが……

 フィンが首をかしげながらメイのあとを追っていくと、いきなり近くから声がした。

「よっしゃ。それじゃ今度はおっぱいなしでやってみようか」

「ええ? でも……」

 ファシアーナとアラーニャの声だ。

 思わず二人が立ち止まってそちらを見ると、森の空き地で二人が魔法の訓練をしているところだった。

「だってやっぱり両手が使えないと困るでしょ? それにそういうのって必殺技に取っておかなきゃね。ふふっ……あなたはついに私を怒らせましたね? 私のこの技を見て生きて帰ったものはいませんよ? 必殺! メガマンマ・マギクス! とか言って

「??」

 だがアラーニャにはあまりぴんとこなかったようだ。

「あれ? ちょっと難しかった?」

「えっと、その……⁇」

「アラーニャさん。世の中には知る必要のないこともありますから。無視しておきなさい」

 そう言って姿を現したのはニフレディルだ。

「はい」

 その言葉にアラーニャはとても素直にうなずいた。

「おいおい」

「いいからお続けなさい」

 ニフレディルの怒った声に、ファシアーナがしかたなさそうにうなずく。

「分かったって。それじゃほら、やってみよう」

「はいっ!」

 続いてアラーニャはじっと精神を集中しはじめる。すると彼女の体がすうっと浮きあがった。

《お、いい調子だな……》

 彼女はいま飛行魔法の訓練を受けていた。念動の魔法であればかなり熟達していて、相当大きな物を複数動かすことも自在なのだが、自身が飛ぶとなるとまた感覚が別なのである。

《結局俺はできなかったけど……》

 魔法がもう少し上手だったらもっと色々変わっていたのだろうか?

 アラーニャはそんなフィンの前方を、今度はゆっくりと飛びはじめたのだが―――いきなり宙でバランスを崩すと落下してしまった。

「あっ!」

 フィンは思わず声を上げるが、そのときには落下はぴたりと止まり、アラーニャはファシアーナにお姫様だっこされていた。

「ほーら、気を散らしたらダメじゃないの」

「すみません」

 そんな姿を見てフィンはつぶやく。

「はは、はは。シアナ様、アラーニャちゃんには優しいな」

「そうなんですか?」

 メイが不思議そうに尋ねる。

「俺たちだったら地面に叩きつけられてたとこだけど」

「あはは、そうだったんですか?」

 フィンの訓練時代には彼女たちにはさんざんしごかれたものだが……

 ともかくずっと見学しているわけにもいかない。二人がその場を離れようとした瞬間だった。


「おいこら! おまえいい加減にしろよなっ‼」


「うわっ! すみませんっ!」

 ファシアーナの怒声にフィンは反射的に飛び上がった。

 だが―――それはフィンに向けられたものではなく、代わりに近くの茂みの上に娘が一人、逆さ吊りにされていた。

「アルマーザさん?」

 メイが驚いたようにつぶやく。

「なんですかーっ? あたし何か悪いことしましたかーっ?」

 アルマーザは逆さまのまま叫ぶ。そんな彼女をファシアーナが睨みつけた。

「コソコソするんじゃないよ。練習の邪魔だろうがっ!」

「だから邪魔にならないようにコソコソしてたんじゃないですかーっ」

「アホ! よけい気が散るんだって。そんなにアラーニャのおっぱいが見たいのか?」

「いえっ。見るよりも触る方が好きですっ」

「は?」

「だってー、やっぱりおっぱいって手触りじゃないですかー。なのに最近、疲れててすぐ寝ちゃうから、じっくりふにふにできないんですよー」

 その正直さに、さすがのファシアーナも少々絶句する。

「あの、降ろしてあげて下さい」

 アラーニャがファシアーナに頼んでいる―――そんな光景を見ながらメイが感慨深そうにつぶやいた。

「そういえば……アルマーザさんって、アラーニャさんの抱きごこちが忘れられないんでついてきたって言ってましたねえ」

「そうだったのか?」

「自己紹介でそんなこと言ってましたよ」

 あはは。もうなんと言っていいことやら……

 と、そのときニフレディルがファシアーナに一言二言ささやいた。それを聞いたファシアーナはなにか考えこんだ。

 そんな風景をこれ以上見ていたら、それこそ邪魔になってしまうかもしれない。そこで……

「ま、ともかく行こうか」

「そうですね」

 と、二人がその場を離れようとしたときだ。

 いきなりファシアーナがアルマーザの首根っこを掴むと、二人の前に飛んできたのだ。

「ちょっとメイちゃん。いい?」

「え、はい。なんですか?」

「こいつって何の担当?」

 そう言ってアルマーザを彼女の前に突き出す。

「え? アルマーザさんですか? 特に担当があるってわけじゃないんですけど、というか、わりと何でもできるんで、手の足りないところに入ってもらってる感じで……」

 各メンバーの作業分担などもメイの仕事の一つだった。

 それを聞いたファシアーナはにこっと笑う。

「へえ。じゃあ、こいつがいなくなっても、どこが困るってわけでもないんだな?」

 いや、その言い方はちょっとかわいそうなんじゃないか?

「あはは。いえ、何というかほら、全体が平均的に少しずつ困るみたいな?」

 メイも何かすごくがんばったフォローをしているが……

「そんじゃ、こいつもらってっていいな?」

「はい?」

 メイがびっくりして目を丸くする。

「えと……どいうことでしょ?」

 首根っこを吊られたままのアルマーザもびっくりして尋ねる。

 ファシアーナは彼女を自分に向けると言った。

「ちょっとアラーニャちゃんの修行を手伝って欲しいのよ」

「え、あたしがですか?」

「嫌か?」

「嫌じゃないですけど……でもあたしに何ができるんです?」

「まずは魔法の勉強をしてもらう」

 それを聞いたアルマーザは目が丸くなった。

「え? それってもしかして……あたしにも魔法の才能が?」

「いや、それはない」

 ファシアーナは即座に否定した。

「???」

「勉強っつったら勉強に決まってるだろ」

 当然ながらアルマーザもメイもまったく意味不明といった表情だ。

 そこでこのやりとりを聞いていたフィンがファシアーナに尋ねた。

「あの、ファシアーナ様? もしかして彼女を“道しるべ”に?」

「ああ」

「まあそういうことなら……」

「あの、どういうことですか?」

 メイも不思議そうな顔でフィンに尋ねる。

「いや、魔法の修行をするために、その人とすごく親しい人が協力しなきゃならない場合があるんだ。それを道しるべって言うんだけど……」

 それを聞いたアルマーザがファシアーナに尋ねる。

「ともかくあたしがアラーニャちゃんのお役に立てるんですか?」

「かもしれないってことだ」

「だったらしますよ。協力でも何でもしますっ!」

「よしっ。よく言った。それじゃ契約成立! もらってくぞ?」

「あ、はい……」

 ファシアーナはそのまま彼女を連れて飛んで行ってしまった。

《そういえばアラーニャ、ずっと心話を習いたがってたからなあ……》

 ファシアーナとニフレディルの心話がとても便利なことは、彼らがここで活動を始めてからというもの誰もが思い知っていた。実際もしそこにアラーニャも混ざることができたら、作戦の柔軟性はさらに増大する。だからハフラやリサーンもその訓練を優先できないかと何度も希望していたのだ。

 だがファシアーナもニフレディルも、さらにはフィンも含めた魔法に詳しい者たちは、ともかく今はやめておけと止めていたのだ。

 なにしろ心話の修行というのには常人では想像できなような困難があって、気軽に教えてやるというわけにはいかないのである。

《でも……これってシアナ様たちは本気でアラーニャを修行させようと思ってるんだ……》

 確かに彼女の才能はすばらしいの一言だった。

 それに彼女は誰よりも真摯に魔法の学習をしたがっている。

 そんな生徒が目の前にいたら、教師というのは教えたくなってしまうものなのだろうが……

 フィンがそんなことを考えていたときだった。

「それでフィーネさん、本題なんですが……」

 あたりに誰もいなくなったことを確かめると、メイがそう切りだしてきたのだ。

 フィンはこの森に入ってきた当初の目的を思い出す。

「あ、ああ……」

 そういえば彼女がなにか話したいことがあると言ってきたのだった。

 でもいったい何なんだ? あらたまって―――まさか……

「実は、好きになっちゃったみたいなんですよ。フィーネさんのことを……」

 ………………

 …………

 ……

「ぶはーっ!」

 フィンは盛大に吹きだした。

「な、なんだってーっ?」

「だから、好きになっちゃったんですって。サフィーナさんが。フィーネさんのことを」

 ………………

 …………

 ……

「は?」

 フィンは固まった。

「えっと……君じゃなくって?」

 メイは目を丸くした。

 それからはっと気づくと盛大に笑いだす。

「あははははは! まっさかあ! 私じゃないですってー!」

 あ、あのなあ、そういうときはちゃんと主語から先に言わないとダメだろうが!

 それとも彼のことをからかっているのだろうか? 彼女の主君が主君だし―――と思ってメイの顔を見るが、彼女はふざけているようすはない。

 ともかくフィンは気を静めると尋ねた。

「えっと、サフィーナっていうと、この間ケガをした?」

「はい。彼女なんですけど」

 あのときはメイが落ちこんでしまって大変だったのだが、それ以来ハフラとリサーンが前線でがんばってくれているので、彼女にそういう役目を負わせる必要はなくなっていた。

 またサフィーナの傷も大したことはなかったので、数日のうちには彼女も回復していたのだが……

「それでフィーネさんが彼女にする場合、やっぱりある程度、頭がよくないとダメですか?」

 いや、だから何を言いだしているのだ? この娘は……

「は? いや、なんというか、あまり気にしない?……ってか、どうしてそんなことを?」

 それを聞いたメイが少しほっとした表情になる。

「いえ、実は彼女がそう信じちゃってて、このところ毎晩ずっと勉強してるんですよ。一緒に」

「勉強?」

「そうなんです。はじめは彼女、本とかあんまり読めなくて、拾い読みできる程度だったんですけど、それが一生懸命がんばって、今じゃ子供向けの本ならすらすら読めるようになってまして、じゃあもっと大人向けの本にもチャレンジしてみようかってところなんですけど」

 フィンは絶句した。これってどう答えたらいいのだ?

「多分、しっかり読めるようになったら告白しようって思ってるんですよ。きっと。これってすごく健気だと思いませんか」

「いや、まあ……」

 それが本当ならかなりの純情娘ということになるのだが……

「それにですねえ、彼女、小さいけど引き締まってて意外とスタイルはいいんですよ。胸はちょっとないけど……」

「え?」

「フィーネさんって、あまり胸の大きさにはこだわってませんよね?」

「いや、まあ……」

「それに彼女、身のこなしが綺麗っていうか、ちょっと動物的な感じで……」

 それって基本的にアウラの特徴ではないか⁈

《どういうトラップだよ! それって……》

 そんな子に迫られたりしたら―――まさに危険きわまりないのだが!

「えっと、でもほら、彼女はヴェーヌスベルグの子だし……」

 フィンはともかくこう言っておけば何とかなると思ったのだが、それを聞いたメイが大きくうなずいた。

「まあそうなんですけど、でも場合によったらそんなこと、もう関係なくなっちゃうことだってあるかもしれないし……」

「え? あ……」

 フィンは息をのんだ。

 そうなのだ。なにやらこんな生活が続いているせいで忘れがちになってはいるのだが、実は彼らはまさに明日をも知れぬ日々を過ごしている真っ最中だったのだ。たまたま作戦が上手くいっているからいいようなもの、一歩まちがえたら瞬時に奈落の底なのだ。

 そうなればもう二ヶ月先のことなど気にする必要もなく、今生の思い出をここで残しておかなければ―――などという局面にいつ陥ってもおかしくないわけで……

「で、いろいろ考えたんですけど、そんなときにフィーネさんに無碍にされちゃったりしたら彼女、本当にかわいそうだと思ったから、やっぱりこっそり教えておこうかなと思って」

 メイはにっこりと微笑んだ。

「あの……これって彼女に頼まれたとかじゃなくって?」

「はい。だから私が言ったってことは秘密ですよ?」

「ん、だけど……」

 こんなこといったいどうすりゃいいのだ?

 フィンは頭を抱えた。

 ―――というのも彼はすでにヴェーヌスベルグ娘の天然エロ攻勢にかなり参っていたのだ。

 彼女たちは聞けば確かに本当にかわいそうな身の上なのだが、そのおかげでいわゆる貞操観念というものが崩壊しているのである。

 アーシャとマウーナの二人とは解呪の儀式でずっと一緒だが、彼女たちはいつ間違えてくれても構わない―――というかむしろそうして欲しがっているのが見え見えだ。まあ、そのように本気でいてくれるからフィンがずっと儀式を続けていられるというのもあるのだが……

 それにシャアラとマジャーラの二人は、いつでも夜這いをかけるぞ! というオーラを全身にまとっている。この二人にそうされたりしたら、物理的に逃げられそうもないし……

 そのほかの娘たちも同様だ。リサーンやハフラ、それにアルマーザなどはフィンがいてもまったくお構いなしに裸でうろついているし、風呂にだって平気で入ってくる。

 アカラとかルルーといった一見おとなしそうな子でも、ふっと地面に座っている姿を見たら下はなにも履いてないとか―――ヴェーヌスベルグでは寒いときとか月の障りがあるとき以外は、あまり下着にはこだわらないそうなのだが……

 ともかく彼女たちはまさにそちら方面が“無防備”なのである。

《それに加えてプチ・アウラみたいな純情少女が懸想してるだと?》

 そもそもフィンは結局あれ以来、まだアウラとは何もできていなかった。

《ってか、それというのも……》

 事態をさらに混乱させているのがアウラのその態度である。

 彼女が駐屯地襲撃のときに『フィンがいいなら』とか口走ったことは、すでに全員の間に知れわたっていた。

《こういう場合、普通は拒否するもんだろ?》

 いったいアウラはフィンのことをどう思っているのだろうか?

 もしかして実はファラのことを本気で怒っていて、彼女なりの報復しているのだろうか?

《うわ、そんなことになったら……》

「フィーネさん、フィーネさん」

「え?」

「そろそろ行きませんか?」

「あ、ああ……」

 フィンは混乱した頭でその場をあとにした。



 フィンとメイが母屋の前まで戻ってくると、前庭ではシャアラとマジャーラがアウラとリモン相手に剣の練習をしていた。

「あの二人、なんだかめきめき上達してませんか?」

「うん、そうだよねえ」

 彼女たちの運動能力は驚嘆すべきものだった。ヴェーヌスベルグ最強の二人を連れてきたからということもあるのだろうが―――最初は全く手も足も出なかったのに、最近では二人がかりならアウラを追いこむ場面まで出てきているのだ。

《さすらいの一族か……》

 フィンは彼女たちの祖先のことに思いを馳せた。さすらいの一族とは、あの大聖が西に向かう際に別れた子孫ということになっている。

 大聖の后、すなわち初代大皇后の一人である黒の女王は、その凄まじい魔法の力だけでなく、剣の腕も天才的だったと伝えられている。さすらいの一族が強かったのはその力を受け継いでいるのだと。

《もしかしてアウラの遠い親戚なのかもな……》

 彼女がガルブレスに拾われる前のことは本人もあまり覚えていないそうなのでよく分からないが、何だか馬車に乗って旅をしていたらしいのだ。そしてヴェーヌスベルグの女たちの姿や物腰には、アウラを彷彿とさせるところがある。

《落ちついたらその辺が調べられたらおもしろいかなあ?》

 この戦いが終わったら云々というのは古来から縁起が悪いとされているのだが……

 そんなことを思っていると……

「ほっ、ほっ、ほっ」

 と、薪の束を担いだ男が目の前を走っていった。

「イルドさん、精が出ますねえ」

「だな……」

 見ればもう風呂用の薪は十二分に割り終わっているようだ。

「毎晩お風呂に入れるのはいいんですけど……」

 メイが微妙な笑みを浮かべる。

「あはは、まあそうだな」

 そんな会話をしながら母屋の玄関をくぐると、厨房の方からよい香りが漂ってきた。

「おっ、この匂いは!」

 メイがそのまま厨房に引き寄せられていくので、フィンも思わず一緒についていった。

「アカラさん、その下ごしらえが終わったら、こちら手伝ってもらえますか?」

「はーい」

 中では何人もの女たちが、夕食の支度をはじめていた。

 全体を指揮しているのがパミーナだ。彼女はメイの姿を見ると手を振った。

「あ、メイさん、ちょっといいですか?」

「はい?」

 パミーナはソースの瓶を持ち上げながら、レシピの書かれたノートを示す。

「遅くなったから手早くできるものにしようと思ったんですけど、あのとき使ったソースがここにはなかったみたいで、こっちで代用してだいじょうぶでしょうか?」

「あ、このマニカ風の炒め煮ですね」

 メイはレシピをちらっと眺めると、そのソースをちょっとなめる。

「あ、これでもできると思いますよ。また違った風味になりますけど。ただちょっと甘いんで、すこし塩胡椒をきつめにした方がいいかも」

「わかりました」

 そのノートは、メイがここまで旅して来る途中に見聞きした料理のレシピを書きとめたものだった。それは純然たる趣味だったそうなのだが、宮廷風のものから田舎の手料理まで非常に幅広い種類の料理が含まれていた。

 そのため彼女たちは夕食のバリエーションに困ることはなかったのである。

「それじゃ私も手伝いますよ」

 と、彼女は自分のエプロンを取りに行こうとするが……

「ちょっと。それ落としてからにしてらっしゃいな」

 そう言ってメイの顔を指さしたのはエルミーラ王女だった。

「あっ!」

 あたりから笑い声がわきおこる。

 彼女はまだ世を忍ぶブスメイクのままである。

「あはっ。それじゃ、ちょっと行ってきますっ!」

 メイはそのまま洗面所に走っていった。それを見送ると王女が切った野菜の籠を見せてパミーナに尋ねる。

「これはこんな感じでいいですか?」

「はい。ありがとうございます。王女様」

「あとは……あちらを手伝いましょうか」

「お願いします」

 そちらではエプロンをしたメルファラが一生懸命芋の皮をむいていた。

《前にくらべてずいぶん上手になってるなあ……》

 ―――これもちょっと普通ではお目にかかれない光景だった。一国の王女や都の大皇后が、厨房でみんなに交じって夕食の用意を手伝っているなど……

 それを最初に言いだしたのはエルミーラ王女だった。彼女は直接的な行動はあまり行わないため、普段はかなり暇なのである。また王女はかつて自炊をしていたことがあったので、料理はけっこうできたし好きだったのだ。

 そこで王女がやるのならとメルファラも釣られて参加しようとしたのだが―――彼女の方は包丁を持つことさえ初めてだった。

《最初に指を切ったときは大騒ぎだったけど……》

 だが彼女はそれでめげることはなく、今ではそれなりの戦力になっているのである。

《ある意味、あり得ないくらい贅沢な食卓だよな……》

 食卓を囲むということは家族の絆を深めるということだ。

 すなわち大皇后や王女が手ずから作った食事を共にしていることで、彼らの間にはまるで大きな家族のような結束ができあがっていたのである……

 だがそのとき奥の方から、そんなフィンの感慨をぶち壊すような歌が聞こえてきた。


「レイモンのみんなの呪いを溶かす♪

 アーシャのおっぱい♫

 マゥーナのおしりに♪

 フィーネさんのすてきなしずく、しずく♫

 真っ白い魔法のし・ず・く♪」


 あたりの女たちがフィンを見ながらくすくす笑う。

 フィンは頭に血がのぼった。

《あ・ん・のガキは~~~っ!》

 それからずかずかと奥の部屋に入っていくと、もちろんそこにいたのは何やら怪しげなねばねばする芋をすり下ろしているエルセティアだった。

「あ、お兄ちゃん。どしたの?」

「どしたのじゃない! 何じゃ今のは~っ‼」

 ティアが手にした芋を持ち上げると、とろっと長い糸を引く。

「あ、これ? 村の人にもらったのよ。すごく精がつくんだって」

「違~う! 今の下品な歌だっ!」

「あ、さっきちょっとインスピレーションがわいてね……ってどこが下品なのよ? アーシャとかマウーナが下品だっていうの? それってひどいんじゃない?」

 ええい! ああ言えばこう言う!

「だから白いしずくとか……」

 それを聞いたエルセティアはにた~っと笑った。

「ええ? “真っ白い”って言葉は“魔法”にかかるんだけど。呪いを浄化する白魔法って意味なのよ

 隣の部屋から爆笑が上がる。

《こんのガキはぁぁぁぁぁ!》

 このバカの脳みそはエロと屁理屈で埋まっているのか?

 絶句するフィンにエルセティアがたたみかける。

「お兄ちゃん、毎晩のことで疲れてると思うから、せっかく特別な料理を用意してあげてたのに。なに? ひどいっ!」

 誰もそんなことは頼んでない! と、フィンがわめきだそうとしたところに、ぱたぱたっと誰かが入ってきた。

「あれ? メイはこっちじゃない?」

 その子は小柄なショートカットのボーイッシュな感じの娘で―――サフィーナだ!

「ん? ここにはいないけど?」

 と、サフィーナはそこにいるフィンの姿に気づくと、ぴくっとして一瞬固まり、それからぺこっとお辞儀すると、たたたっと部屋を駆けだしていった。

 ………………

 彼女を意識して見たのはこれが初めてだと思うが―――いや、確かにその機敏な身のこなしとか、アウラを少し思いおこさせるようなところもあって……

《……ちょっと可愛いかも?》

 その瞬間フィンは顔が熱くなる。

「ん? どうしたの?」

「いや、なんでもない」

 このいろいろと忙しいときに、さらにややこしくなるようなことを考えているわけにはいかないのである。



 お腹がいっぱいだと幸せである。

 今日の夕食は、実は都に来る途中のマニカという村の宿屋で教わった厨房メニューだ。

 これは肉に余った野菜やキノコを加えてさっと作れる料理なのだが、簡単な割にはけっこう美味しいので忙しいときにはうってつけなのだ。

 しかもここで手に入る肉は新鮮で上等だし、大皇后様と王女様が二人で作ったフライドポテトとか、しぼりたての牛乳を使った濃厚なポタージュスープと、なかなか満足できる夕食だった……

 メイが気分よくそんなことを思いおこしていると、パミーナが尋ねてきた。

「あ、メイちゃん。今日も夜はいつもと同じでいい?」

「あ、はい。このあとまた作戦会議をします。他の人は後片付けとかお願いしますね」

「はーい」

 もう何だか日常のようになってしまった光景であるが、冷静に考えたら相当にとんでもない状況である。

 何しろ中央に並んでいるのは都の大皇后にフォレスの王女だ。その横のティア様もいちおう女王様だったりするし、その取り合わせだけでもあり得ないのに、同じテーブルではメイやパミーナなどの侍従と西の果てから来た女たちが和気あいあいと談笑しているのである。

《合宿ってこんな感じなのかしら?》

 メイがかつてベラの魔導大学に短期留学したとき、そんな楽しいものがあるという話だけは聞いていたのだが、自分で体験してみることはできなかったのだ。

《なにしろずっと教授とマンツーマンだったし……》

 おかげで留学時の同級生もいないのであるが―――まあそれとはちょっと違った人たちとお友達になれたのは良かったが……

《あー、そういえばお二人ともどうしてるかなあ……》

 聞けばサルトス王国は王様や王子様が大勢戦死してしまったとか。それ以上の詳しい状況が分からないので何とも言えないが、色々大変なことになってるのは間違いない。

 そんなことを考えているとシャアラがアルマーザに話しかける声が聞こえてきた。

「今日の洗い物当番はおまえとアラーニャだったよな?」

「はーい。分かってますって」

 アルマーザといえばあの後どうなってしまったのかちょっと興味があったが、これから少しばかり忙しい。見た感じ特に変わったようすでもないから、聞くのはあとにしておこう。それよりまず……

 食事が終わって女たちが三々五々と食卓を離れていく。一緒にメルファラ大皇后も立ちあがったのでメイは慌てて立ちあがると彼女に声をかけた。

「あの、ファラ様? またサインをお願いできますか?」

「構いませんが、もうなくなってしまったのですか?」

「はい。けっこう入り用な物もあったので」

「わかりました」

 そこでメイはペン立てと一緒に、用意していた借用書の綴りを渡した。

 というのは、彼らは実はあまり現金を持っていなかったからである。王女一行は元々アロザール任せだったので、あまり金を持っておく必要がなかった。

 一方フィンは逃げるためにある程度の金は用意していた。

 だが、なにしろ所帯が二十三人と一匹ともなると食費だけでもけっこうかかるのである。

 その上いろいろな服を買ったり、武器や(やじり)の補充をしたりとかしていると、そんな金はあっという間に底をついてしまったのだ。

 そこで彼らはいろいろと必要な物資を調達するために、メルファラ大皇后の直筆サイン入り借用証を使っていたのだ。

 もちろん本人がその場でサインするわけにはいかないので、こうしてあらかじめサインを入れておいて、項目欄が空白の借用書をたくさん用意しておくのである。

《十分な利息をつけて返してあげたいわよね……》

 人々はタダでもいいと言ってくれたりもするのだが、むしろこういう場合だからこそちゃんとしておく必要がある。そこでこうしてメイが大皇后のツケで買った物品の管理をしているのだ。

《ツケと言えば……最初のときもそうだったっけ……》

 メイがエルミーラ王女に仕えて初めてベラに行ったときまず最初にやったことが、クレアス村に行ってそこの雑貨屋の支払いをしたことだったのだが、その前の晩の騒ぎは……

《あはははは!》

 あれはメイが王女様のあんな側面を初めて身に染みて知った夜だったが……

「なにをニヤニヤしているの?」

 エルミーラ王女がメイの顔をのぞき込む。

「うわわ! いえ? 別に……あ、みなさんもう揃いましたか?」

 食堂には大皇后の他にエルミーラ王女、ニフレディル、フィン、キール、ハフラ、リサーンなどが集まっている。

「このメンバーでいいですか?」

 メイが尋ねるとフィンがうなずいた。

「ああ。今日はこれでだいじょうぶだろう」

 彼らは夕食のあとに毎日作戦会議を開いていたが、最近ではこれがメインスタッフになっていた。

 当初は全員参加でやっていたのだが、難しい話になると寝てしまう娘が続出して、そのくらいなら風呂に入ったり早寝してもらった方がマシということで、特殊な場合以外はこのメンバーに落ちついていたのである。

「それじゃ始めましょうか」

 メイはノートを広げるとフィンに向かってうなずいた。

 フィンが軽く礼をすると、

「それじゃ始めます。えっと、まず今日の引っ越しもつつがなく終わったみたいで、みんなお疲れでした」

「ここはなかなか良さそうなところですね」

 エルミーラ王女の言葉にフィンがうなずく。

「はい。前のところよりはずっと住みやすそうで。場合によったらここを本拠地にできるかもしれません」

 それを聞いてリサーンが嬉しそうに尋ねた。

「それじゃここにずっといられるの?」

「そうできればいいなと。解呪の基点はずいぶん作ったし、あまりうろうろしてると見つかる可能性もあるんで」

「おー、さすがに引っ越しばっかりじゃ疲れちゃうもんね」

 だがそれを聞いたエルミーラ王女が尋ねる。

「基点の数は今ので十分だと?」

「はい。だいたい何とかなるんじゃないかと」

 そこで質問したのがメルファラだ。

「いま動ける男の方は何人くらいになっているのですか?」

「えっと……どのくらい?」

 フィンがメイの顔を見る。そのあたりの記録はもちろんばっちりだ。

「今だと百人ちょっとだと思いますが」

「おー! 百人か!」

 リサーンが嬉しそうな声を上げるが、メルファラは首をかしげる。

「あの、それで……間に合うのですか?」

 フィンは彼女の心配の理由に気づいたらしい。にっこり笑うと答える。

「あ、だいじょうぶですよ。これってですね、解呪を始めてから三週間くらいですが、その間にやっと百人なんじゃなくって、百倍に増えたってことなんです。だからもうあと三週間したら、百人が百倍になるんですよ」

「え? ……あ!」

 メルファラは一応は納得したようだが、今ひとつピンときていないようだ。

 うむ。この点はなかなか実感がわかないものなのだ。メイも理屈では分かっているつもりなのだが、心配になってしまう気持ちもよく分かる。

 そこにハフラが尋ねた。

「でもそうすると本格的な作戦の期日はけっこう近いってことですよね?」

 それを聞いたフィンがうっと言葉につまる。

 そうなのだ。アロザールの呪いが解けていくのはいいのだが、人員が揃ったならば迅速に作戦を実行しなければならない。

 作戦とはもちろん“アキーラ奪回作戦”である。

 でなければ遅かれ早かれ、男たちの呪いが解けていることに気づかれてしまう。そうなったら相手だって本気で人員を投入してこちらを潰しに来るだろう。だからその前に決着をつけてしまわなければならないのだ。

「アリオール将軍とかの居場所は相変わらずなんだよね?」

 フィンがみんなの顔を見回すが、誰も答えない。

 そのことは新しい人に出会ったら必ず尋ねてはいるのだが、彼らの居場所は皆目分からなかった。少なくともどこか国内に潜んでいるらしいのはほぼ確実なのだが……

 アキーラ奪回作戦を実行する際の最大の問題は、その指揮を誰がどうやって取るかということだったが、フィン達はずっと彼―――小ガルンバ・アリオール将軍の協力を当てにしていたのである。

 将軍に関しては、元々フィンがある程度の情報を掴んでいた。

 昨年の夏、彼はレイモンの都攻めに加わったが結局それは成功せず、背後で小国連合が動き出したためまずメリスまで撤退していた。

 秋にはアロザールによってバシリカが陥落する。

 そこで彼はレイモンの首都アキーラを防衛するために首都に戻っている。

 それから今年の二月、結局アロザールの呪いが蔓延してしまったためにアキーラも陥落してレイモン王国は滅亡してしまうのだが、その際に彼が捕まったり討ち取られたという報告はなかった。

 もし彼が別の場所に逃げのびていたのであればそれなりの活動を行うだろうが、それもない。

 従って一番ありそうな状況が、防衛計画を練っている間に彼もまた呪いを受けて動けなくなり、アキーラ近郊のどこかに匿われているという可能性である。

 そこで当初はこんな活動をしていればすぐに居場所が分かるか、相手の方から接触してくるのではないかと期待していたのだ。

 ところがこれだけの期間がたってもまったく何の情報も出てこないのである。

《私たちが指揮するっていってもねえ……》

 そもそも指令系統もなにもないのだ。しかもこの異国の地の異国の兵たちである。そんなことは正直不可能だ。

 そうなるともう、あとは日時を決めて一斉蜂起するしかないとフィンは言っていたが……

《どうなっちゃうのよ? そうなったら……》

 これはもうメイの想像力を越えた話だ。いわゆるもう“なるようにな~れ”なのである。

 そのときエルミーラ王女が尋ねた。

「ところでこのあたりの敵はどれくらいいるのです?」

「あまりいないみたいです。東の方に二日ほど行ったところに部隊が駐留しているそうですが、そこからずっと動かないようです」

 当初は毎日のように敵と戦っていたものだが、リサーンやハフラ達ががんばってくれたせいで敵は恐れをなして少人数では動き回らなくなっている。おかげでこの何日かは戦いは起こっていなかった。

 それを聞いたハフラが尋ねる。

「そこって駐屯地?」

「ああ、でもこの間みたいに堅固なところじゃないみたいだ」

「それじゃまた夜襲してみる?」

「そうだなあ。とりあえず寝かせないでおくのもいいかもな……情報を集めといてくれるか?」

「分かったわ」

 そこにふっとキールが口を挟んだ。

「あの、それにしても、アキーラの方は全然動きはないんでしょうか?」

「うーん。今のところそういう話はないなあ……」

 フィンも首をかしげている。

 ディロス駐屯地を落としたことで敵を混乱させたのは間違いないのだが、さすがにしばらくすれば体勢を立て直してくるはずだった。

 ところが敵はいまだに立ち直っていないようなのである。

「それってわざとっていうことはないのでしょうか?」

「わざと?」

 キールの問いにフィンは考えこむ。

 どういうことなのだ? 相手が実はまだ混乱しているふりをしていると?

 そうだとしたら相手は相当の策士ということになるわけだが……

「うーん……でも、そんなことするメリットが思いつかないし……何か効果が上がっているようにも思えないし……」

「ですよねえ……」

 どう考えてもそうすることで相手方に利する要素というのが思いつかないのだ。

 その理由が相手がノロマだったからならば、大変心がなごむのだが……

「いずれにしてもそろそろ動きはあると思っておいた方がいいでしょうね」

 フィンの言葉にみんな沈黙する。

 これに関してはもう相手の出方を見ているしかないのである。

 そこでキールが話題を変えた。

「あの、さきほど基点は十分だといったことを言ってましたが、もっと北方には必要ありませんか?」

「いや、もちろんあった方がいいんですが、これより北だとロータの渡しが近くになって、あのあたりはさすがにちょっと危険かと……」

 ロータの渡しというのは大河アルバに橋がかかっている数少ない場所で、現在はアロザールに占領されている。敵は大皇后の国外脱出を防ぐために国境線の警備をがちがちに固めているが、その中でも一番堅固な場所といっていい。

「それに北方は別の駐屯地の管轄下になりますから、南のようには動けませんし。ともかく明日は村の人にも話を聞いて今後の方針を決めたいと思っています」

「その場合……また駐屯地を攻めるようなことも?」

「……あるかもしれません」

 再びあたりに沈黙が訪れる。

 駐屯地攻めといえば、どうしてもサフィーナのケガを思いだしてしまうが……

《今度は前みたいに簡単にはいかないだろうし……》

 それこそ相手は絶対なにか対策をしてくるはずだが―――みんなそんなことを考えているに違いない。ということは……

「でもまだ実行すると決まったわけではありませんよね?」

 そう尋ねたのはそれまでは黙っていたニフレディルだ。

「はいもちろんです」

「それではこの三週間ほど働きづめでしたから、ここで少し一段落することを考えてもよいのではありませんか?」

 一段落? 一休みということか? それは―――わりと嬉しい気もするが……

「まあ、そうなんですが……」

 フィンが曖昧に黙りこむ。

 メイにはそんなフィンの懸念もよく分かった。多分いまは一刻一秒を争っている状態のはずなのだ。そこで力を抜いてしまって、あとで後悔することにはならないだろうかと。

《でもフィーネさん、疲れてそうだし、ちょっとは休まないと……》

 女のメイには分からないのだが、あの解呪を一日に何回もするのは相当に体力を使うのだそうだ。実際、顔色もかなり悪い気がするし……

 そのときエルミーラ王女が言った。

「フィーネさん。今あなたに倒れられたらみんなが困ることはご存じですよね?」

「え? あ、はい。ですが……」

「だからそのことも想定に入れて、予定は組んでおいて下さいね?」

「あ、はい。ありがとうございます……」

「また、一人で仕事を背負い込まないように。何かありましたらそこのメイとかもバンバン使って構いませんから」

 あはは! やっぱりこう来たか!

「はい。ありがとうございます」

 フィンが苦笑いしながらちらっとメイの方を見る。彼女も同様に苦笑いで返すしかない。

 それを見て王女は締めにかかった。

「それでは今日は解呪もうまくいっているようですし、緊急の対応が必要な敵もいないということでよろしいでしょうか?」

「はい」

「では、本日はそろそろお休みになりませんか? ほかに何かございますか?」

 するとハフラがさっと手を上げた。

「あの、フィーネさん、昨日聞いたんですけど……」

「なんだい?」

「前の村の人の知り合いに、やっぱり自然に呪いが解けた人がいたそうなんですが、その人は乱暴されてはいないって言うんです」

「またなのか?」

 あのザヴォート氏のような事例は探せば他にもあった。その多くは彼と同じくアロザール兵にレイプされたからだったのだが、そうではないと思われる例もちらほらあったのだ。

「はい。だからやっぱりもう少し調べてみたらどうですか?」

「あー……」

 フィンは考えこむ。

「もしその理由が分かれば、フィーネさんが無理しなくてもよくなるかもしれないし」

 だがしばらく考えてフィンは首をふった。

「ありがとう。でも今は時間が惜しいんだ。そういう研究をしてる余裕はあまりないし、確実な方法があるわけだから……」

「そうですか」

 ハフラはうなずいた。

「それじゃ他にはもうないかな?」

 今度は本当に会議はお開きになった。



 一同がばらばらと食堂から出ていくと、ちょうどパミーナがやってきた。

「あら? 今日はもう終わりですか?」

「はい。だから夜食はいりませんよ」

「あ、そうですか。でもクッキーを焼いてしまったんですがどうしましょう?」

「それなら日保ちするし、明日でもいいんじゃないですか?」

「そうですよね」

 重要な作戦を行うようなときには、けっこう遅くまで会議をしていることもあったのだ。

 パミーナと別れるとメイは自室に戻る。自室といってもこの隠れ家は大部屋になっていて、大皇后や王女などもみんなと相部屋なのである。

 メイの部屋は東組といって、メルファラ大皇后とエルミーラ王女の一行が一緒だった。隣の部屋は西組で、こちらにはヴェーヌスベルグ組がまとめて入っている。二階は男組で、フィンとキール/イルドが一緒だ。そこにはアウラとエルセティアも一緒である。

 今日は早朝からずっと馬車旅をしてきたせいもあって、もう寝てしまっている人も多い。

 そこでメイはなるべく音を立てないようにして風呂の支度をした。すると……

「今日は一緒に入りましょうか?」

 声をかけてきたのはエルミーラ王女だ。

「え? リモンさんは?」

「メイと一緒に入るからって、先に寝てもらったわ。朝からずっとだったし」

 王女の湯浴みの手伝いは主にリモンの担当だった。

 だが彼女は今日の引っ越しのときに、ずっと馬車の御者をしてきたのだ。これは単に走らせているだけでなく、あたりに敵がいないか常に注意を払っていなければならない。気疲れする役割なのだ。

 そのうえ新しい隠れ家に着いたあとはシャアラやマジャーラに稽古をつけたり、そのあとは食事の準備を手伝ったりと彼女は大忙しだった。

 メイはといえば馬車の上ではずっとうたた寝していたので、この時間でもわりと元気なのである。

「分かりましたっ!」

 メイも一時期侍女をしていたから、湯浴みの手伝いくらいならお手の物である。それにこの王女様の場合は放っておいても自分でいろいろやってしまうので、正直あまり手がかからない。

 それよりメルファラ大皇后の方が大変だった。彼女の場合いろんなことが侍女に任せっきりで、いつもパミーナがつきっきりで世話しなければならなかったからだ。代わってあげたいと思っても、フォレスと都では作法が異なっているので、簡単には手が出せない。

 二人が風呂場にやってくると、そこには先客がいた。

「あ、王女様! メイちゃーん」

「お先してます」

 リサーンとハフラだ。ここのお風呂は広いので、それでも十分に余裕がある。

「湯加減は?」

「気持ちいいよ~!」

 リサーンが幸せそうに答える。聞けばヴェーヌスベルグは砂漠で水が貴重なので、お風呂というのはここぞというとき以外はなかなか入れないそうなのだ。夏だったらオアシスで泳いだりもできるのだが、冬場はけっこう大変なのだという。

 メイと王女はさっと汗を流すと一緒に湯船に浸かった。

「あぅ~……」

 思わず至福の声が出てしまう。

 メイは目を閉じてしばらく幸福に浸っていたが、やがて目を開けると……

《うーむ……》

 ちょっとした現実にぶち当たらざるを得なかった。

 彼女の前にはハフラが入っているのだが……

《やっぱ大きいわよねえ……》

 彼女の大きな乳房がお湯の中にふわふわ浮かんでいる。そのぶん体はやや太めと言ってもいいのだが、それはむしろ豊満と言うべきで、ぎゅっと抱きしめてもらったらすごく気持ちよさそうだ。

 その隣のリサーンは何というかすごく親しみやすい裸である。ハフラほどではないにしても、メイから見たら十分立派な胸だし、腰つきもしっかり引き締まっている。

 横のエルミーラ様についてはもう見なくても分かるが、こちらはまさに気品のある裸であって、まあちょっとお腹のお肉が国家機密になりかかっているとはいっても、やはりすばらしいお身体なのには変わりない。それに対して……

《………………》

 なぜ彼女の体は成長しないのであろうか? 厨房にいた頃であれば、それこそ未来の可能性が云々と主張することもできたのだが、彼女はもう二十歳を超えてしまったのだ。

《まあ胸のサイズならサフィーナがいるけどっ!》

 彼女とならまだタメを張っている!―――と言えないこともない。

 だが彼女はメイと違ってすごくしなやかな体つきで、とてもきれいな足をしているのだ。

《うーむ……》

 やはりずっと野山を駆けまわっていた野生児と、屋内にこもりっきりだったもやし娘では、体の造りが根本的に違っているのだった。

「ま、いいんだけど……」

 メイがふてくされるようにつぶやいたのをリサーンが聞きとがめる。

「ん? なにがいいの?」

「何でもないですっ! ちょっと運命について考えてただけですっ!」

「どうしたのかしら?」

「さあ……」

 リサーンがなにやら余計な興味を示しそうだったので、メイは先んじて話題を変えた。

「そういえばハフラさん。さっき呪いが自然に解けたって言ってましたよねえ」

「ええ」

「それってどんな状況だったんです? アロザール兵がいなかったのに解けたとか?」

「いえ、やっぱりアロザール兵に襲われたことは襲われたみたいなんだけど」

「それでどうなったのです?」

 エルミーラ王女も興味を示してくる。

「それが、兵隊が侵入してきて家を荒らそうとしたんだけど、その方の奥さんっていうのがすごく気丈な人で、返り討ちにしちゃったみたいなのよ」

「返り討ち?」

「ええ。うまいこと言って相手を油断させて、隠し持ってた包丁でぐっさり」

「うわあああ、勇気ある!」

「そしたら呪いが解けたんですか?」

 メイの問いにハフラは首をかしげる。

「さあ。ともかくそれでも相手が暴れるんでメッタ刺しにしてたら、部屋じゅう血みどろになって掃除が大変だったとか。でもそうしたらその翌日、旦那さんが動けるようになったとかで」

 それを聞いたリサーンが首をかしげる。

「はあ? どういうこと? 要するにそれって呪われた人のいる部屋でフィーネさんをメッタ刺しにすればいいってこと?」

 王女が笑って言った。

「それはいくらなんでもダメでしょう」

「ええまあ。でも……」

 ハフラがそこまで言ったときだ。


 がたり!


 窓の外で怪しい音がした。

 そこにいる全員が顔を見合わせてため息をつく。

 それからやにわにリサーンが立ちあがると、手桶の水を窓の外にぶちまけた。

「うわあああ! 冷てえじゃないか!」

 もちろんイルドの馬鹿声である。

「どアホ! 何度言えば分かるのよ? 今はエルミーラ様が入ってるのよ!」

 そう。夕方に彼が一生懸命お風呂の用意をしてくれていたのは、これが理由だった。草原ではわりと水が貴重なので、風呂を沸かすのはかなり大変な作業なのである。

「覗くんならあたし達だけのときにしなさいよ!」

「だってお前らの裸なんてつまんねーよ。隅から隅まで知ってるし」

「あんだと? こらぁ!」

 あはははは! このイルドという人のことは最初ティア様から話を聞いて、さすがにそれってありえないんじゃないか? と思ったものだが、彼女はまさに事実を伝えていたのだった。

 もう何というか、清々しいまでのバカで欲望に忠実な人なのである。

「あ、ちょっとあいつシバいてきますね」

 そう言ってリサーンは風呂から飛びだしていった。

「あ、それじゃ私もそろそろ」

 ハフラもその後を追う。

「はい、おやすみなさい」

 エルミーラ王女と二人残されて、また顔を見合わせて苦笑する。

 確かに彼は馬鹿力やスタミナは随一であるから、いろんな力仕事には便利だった。だがそれこそまさに学習能力というものがなかったのだ。

《変身するたびに忘れちゃうのかしら……》

 すでに三度も大皇后の湯浴みを覗いては、そのたびにファシアーナにお仕置きをされているのだ。

 またエルミーラ王女を覗くのも初めてではない。そのときはリモンに、首を落とされたら再生できるのかしら? とか脅されていたのだが―――それで懲りるどころか、そのリモンやパミーナ、それに大魔法使いのお二人までが被害に遭っているのだ。

 なのに最大の屈辱は、メイはいまだ一人でいるときに覗かれたことはないのである。

《なんか本当に納得いかないんですけどっ》

 などと怒っていると外からは……

「おいこら、リサーンやめろって……そんな棍棒で……」

「やかましいわ! どうせすぐ治るんだから骨の一本や二本構わないでしょうがっ」

 べきっ! ぼかっ!

「うわああぁぁぁ」

 ―――などといった騒ぎが、まあ隠れ家の夜の風物詩なのであった。

 そんなわけで本当ならもっとゆっくり浸かって雑談でもしていたかったのだが、気分が一気に冷めてしまって、メイ達も早々に引き上げて王女様には休んでいただくことにした。

「メイもあまり遅くまで、無理するんじゃないのよ?」

「はい。わかってます」

 とはいっても、もう少し片づけねばならないことがある。メイはノートや書類の束を抱えると、食堂に向かった。

 そこにはもうサフィーナがやってきていて一人で本を読んでいた。彼女は入ってきたメイに気づくと、顔を上げてにっこり笑う。

「あ、メイ。えっとここなんだけど……」

「どれどれ」

 メイは書類の束を置くと、サフィーナの手元をのぞき込む。


『マルゴは窮地におちいっていました。命のように大切にしていたカテリーンと別れてまで追ってきた男が、いまや命の恩人なのです。マルゴの両頬に涙が流れおちました……』


「えっと、“きゅうちにおちいる”ってすごく危ないことになるってこと?」

「うん。そんな感じね」

「でもここじゃもうマルゴ、助かってるんでしょ? 敵はやっつけてもらったんだし」

「あ、それはねえ、マルゴの気持ちの話なの。この騎士は主君を裏切ったザンジバルを倒すために恋人まで捨ててたでしょ? なのに今ここでその仇に命を助けられてしまって、もうどうしていいか分からなくなってしまったのを、そんな風に表現してるのね」

「へえ、そうなんだ。おもしろいね」

 サフィーナはまたにっこり笑うが、文章の解釈にまで突っ込んできた彼女の進歩にメイは少々驚いていた。

《この間までは絵本を読んでたのに……》

 彼女は決して頭が悪いから字が読めないのではなかった。リサーンの話ではむしろ頭は鋭い方だったのだがなにしろ勉強嫌いで、読み書きの時間はずっとサボって外を駆け回っていたらしい。

 なのでこんな風にやる気になればできる子なのである。

 その彼女をなぜメイが教育しているかというと、それはこんなわけだった。


 ―――事の発端はリサーンがどこかに簡単な本はないかとメイに尋ねてきたことだった。

 本といえばエルミーラ王女がトランクいっぱい持ってきてはいたのだが、中原の歴史書とかが主で、簡単な本はあまりない。

 そこでメイが村に行った際に童話や絵本を借りてきて渡していたのだ。当初はリサーンがそういうのが好きなのかと思っていたのだが、すぐに彼女はハフラ同様に難しい本をすらすら読んでいることが判明した。そこで理由を尋ねたら彼女は笑って答えたのだ。

「ああ、あたしが読むんじゃないの。サフィーナよ」

「サフィーナ? 彼女、童話が好きなの?」

「いや、違うでしょ? だいたいあの子、本なんて読んだことないし」

「え? それじゃどうして?」

 そこでリサーンは声をひそめる。

「実はここだけの話なんだけどね、あの子、フィーネさんが好きみたいなのよ」

「えっ」

 メイは思わず驚いたが、考えてみればヴェーヌスベルグ娘なら誰がフィンを狙っていても全然おかしくはない。

「でもそれでどうして本を?」

 リサーンはうなずいた。

「それがあの子ねえ、ぼそっとあたしに、賢い人ってやっぱり賢い子が好きなのかなあ……なんてこぼすから、あたし答えたのよ。あんたのおっぱいはもうそれ以上大きくはならないけど、勉強ならすればするだけ頭はよくなるからって。そしたらなんだかやる気になっちゃって」

「あは、そうだったんですか」

「でもちょっとほら、あたしこういうの教えるのってあんまうまくないし……」

 そう言ってちらっとリサーンがメイの顔を見る。

「あはは。そういうことならいいですよ。別に、夜とか時間があれば私が見てあげますから」

「あは。ありがとう! じゃサフィーナにそう言っとくから……」

 このようにしてメイは彼女の先生になっていたのだったが―――


 そんなことを思いおこしながら、一生懸命本を読んでいるサフィーナの横顔を眺める。

《えへ。何か恋する乙女って可愛いなあ……》

 いちおう年齢は彼女の方が二つ上なのであるが―――そんな風にニヤついているメイにサフィーナが気づく。

「ん?」

「いや、なんでもないって。あ、そうだ、これ持ってきたんだけど、食べる?」

 ここに来る途中、厨房からくすねてきたパミーナのクッキーを差しだすと……

「ありがと」

 何だかすごく幸せそうな笑顔にメイもなごんでしまう。

「そういえばもう傷は痛くないの?」

「え? そんなのずっと前に治ってるよ。メイ、心配のしすぎ」

「でも痛かったんじゃない? あたしなんかこれがまだ痛いし……」

 と、メイは袖をまくると何本かのひっかき傷がかさぶたになっている。

「どうしたの? それ」

「このあいだ藪の中を歩いてたら茨に引っかかっちゃって……」

「治らないならなめてあげようか?」

「いやいいって」

「ええ? なめれば治るのに」

「だいじょうぶだって」

 まったくこの子は猫ですか? リサーンが動物っぽいと言ってたのもまさに納得であるが……

 と、彼女とこうしているのはわりと楽しかったのだが、まだ仕事が残っている。あまりじゃれ合っているわけにもいかない。

「それじゃ分からないところがあったらなんでも聞いてね」

「うん」

 メイはサフィーナが読書しているそばで書類の整理を始める。これだけ人数が多くなると必要な物資はちゃんと管理しておかないとわけが分からなくなってしまうのだ。それに今後の作戦計画に関する資料も作っておかなければならないし……

 ―――そんなこんなでその日の整理が終わったときにはもう深夜になっていた。

 だがサフィーナはまだ本と格闘している。

「もう遅いよ。そろそろ寝ない?」

「あともう少し。この章が終わるから」

「分かった。それじゃ私、先に寝るね。あまり夜更かししないようにね」

「うん」

 読書の楽しみが分かってくるとつい時間を忘れてしまうものだ。そんな思い出はメイにも何度となくあった。

 メイは食堂をあとにすると自室に戻る。

 そこではもう王女や大皇后、大魔導師達にネイなどがすやすや寝息を立てていた。

 このファシアーナとニフレディルには相当の負担をかけているのは間違いない。お二人ともそろそろお歳だし……

 でも彼女たちがものすごく楽しんでいるように見えるのも事実だった。

 いや、魔法使いだけでなく、他の仲間たちもみんな―――どうしてなのだろうか? 彼らはまさに綱渡りと表現するのがふさわしい毎日を過ごしているのに……

《やっぱり……それって光が見えるから?》

 暗闇の先に見える灯火はまだ消えていない。それが見え続けるかぎりだいじょうぶなのだ。

 だから……

《それじゃ明日もがんばろうーっ》

 寝床に入ってそう思ったとたんに、彼女はすとんと眠りに落ちていった。