第7章 公開処刑
その日、ルンゴの村は異様な空気につつまれていた。
普段ならば何ということもない街道筋の村が、今日は各地から集まってきた大勢の女たちで埋めつくされていた―――だが、そこにそのような人出には付きものの華やいだ喧噪は微塵もなく、村は妙な静けさに覆われていた。
女たちはただ、言葉少なに四つ辻に組まれた絞首台を取り囲み、それに吊られる囚人が現れるのをじっと待っていた。
処刑台の上には既に処刑人と執行の担当官、それにアキーラから派遣された見届け人が上がっている。
「もうすぐですね……」
「はい」
フィンがそばにいるメルファラにつぶやくと、彼女は小さくうなずいた。
ヴェールの垂れた鍔の広い帽子をかぶっているのでその表情はよく見えないが、落ちついているようなのは間違いない。
彼らが今いるのは処刑台に面した宿屋の二階である。そこのバルコニーはこの見世物を見物するのには最上の場所であった。
《予想どおりの大混雑だな……》
四つ辻はまさに立錐の余地もないほどの人で埋めつくされており、警備兵達もほとんど身動きがとれない状況だ。
《多分僕たちが来るって思ってないんだろうな……》
おかげで彼らはこうして易々とルンゴに潜入できたのだ。もちろん現地の人の協力がなければ、こんな特等席は取れなかっただろうが……
「そろそろ準備を」
後ろにいたアウラとニフレディルが黙ってうなずいた。
ここには彼らを含めてその四人だけだ。他のメンバーも村には来ているが、それぞれ違った場所から成り行きを見守っている。
《ま、うまくいけばこれで十分なんだが……》
何かの間違いで兵士達がここに殺到してきても、ここから脱出さえできれば問題ない。
このメンバーならメルファラだけは瞬間移動で確実に逃がすことはできるし、残ったのがフィンとアウラならあとは何とでもなる。
《それよりも……》
問題はうまくいかなかった場合だが―――フィンはそのことは考えないようにした。
もしそんなことになったとしても、決断したのはメルファラ本人だ。これ以上フィンが口出しできる問題ではない。
《ま、いいさ!》
そもそもうまくいかないわけがないのだ!
そう思ってこれから始まる一世一代の大勝負にのぞむ最後の心の準備をしていると―――人々の間から低いどよめきがあがった。
見ると兵士の一団が、絞首台の向こうから人混みを縫うようにして、馬に乗せられた女を囲むようにしてやってくるのが見えた。
フィンはメルファラ、アウラ、ニフレディルと目配せをする。
さすがに心臓が高鳴ってくる。
兵士達は処刑台の下までやってくると女を地面に降ろした。
それから今度は女を促すと、処刑台の階段を上らせていく。
続いて女が処刑台の上で跪かせられた。
場がしんと静まりかえる。
それから執行担当官が一歩前に出ると、全員に向かって述べた。
「これよりルンゴの女、オリザの処刑を執行する」
あたりからは低いどよめきのような声があがっただけだった。
これから処刑されるのが通常の人殺しなどの犯罪者であったなら、この瞬間に全員から呪詛の言葉が投げつけられてあたりは大喧噪になったことだろう。それはこれからこの世から悪が一つ減るというめでたいことであり、退屈な日常を紛らわすささやかな祭りと呼ぶべきものであった。
だがいま見物人達は、これから起こることに対してどのように向き合っていいのか、誰も分かっていなかった。
担当官は続けて女の罪状を読みあげはじめる。
「このルンゴのオリザという女は、恐れ多くも白銀の都のメルファラ大皇后様の御名前を騙り、あろう事か大皇后様がアルクス殿下の妃となるための栄誉ある道行きの途中に逃亡を行い、レイモンを救うためなどと標榜して各地の部隊や兵舎を襲っていたなどという根も葉もない風説を流布し、国内の治安を乱そうとしたこと、極めて不届きである」
あたりから低い不満の声がわき上がる。
《まさにむちゃくちゃな理屈だよな……》
結局のところ、変な噂を流したから処刑ということなのだが―――そんなことで一々殺されていたら思ったことは何も言えなくなってしまう。
最初フィン達は、ルンゴの女将が処刑されると聞いて、その罪状はまず大皇后の逃亡を手助けしたかどであろうと思った。
だがどうやら相手は大皇后が逃亡したということは公に認めたくはないらしい。
《大守は内々に処理したがってるんだろうなあ……》
自分の領地内で大皇后が行方不明などと言ったらあのアルクスがどんな処分を下すことか。
その点に関してはちょっとだけ大守には同情する。まあ、おかげで追跡部隊が国外から投入されることもなく、こうしてかなり自由に動けているのだが。
「よってルンゴのオリザをここに死刑に処すものである」
担当官はそういって言葉を切ると、あたりの群衆をじろっと見わたした。
それから執行官に合図を行う。うなずいた執行官が布の袋を取りだすと、それを女将の頭にかぶせようとした。
―――そこでフィンはメルファラの肩に手を触れた。
彼女は振りかえって軽くうなずくと、意を決したように数歩前に出た。
そして……
「その処刑、お止めいただけませんか?」
透きとおるような声音が処刑場に朗々と響きわたり、人々はバルコニーの上に、白いローブをまとった見るからに高貴そうな女性が現れているのに気がついた。
担当官も処刑人も思わず手を止める。
一同の視線が集まると、彼女は静かに告げた。
「どうか私の願いを聞いていただけませんか? フランコ様」
その言葉とともに女が帽子を取ると―――その下から現れた顔にあたりから低いどよめきがわき起こる。それがこれまでに見たこともないような美しい女性であったからだ。
だが処刑台上の見届け人だけは、まったく別な意味で驚愕していた。
「私の顔がお分かりではありませんか? アキーラ城で大守のグスタール様にお会い致しました際、一緒にいらっしゃいましたね?」
「た、大皇后様……」
フランコはやっと絞り出すようにそう言った。
《やっぱり来るとは思ってなかったな? しかも本人が……》
彼らは間違いなく、来るにしてもどうせ替え玉だと高を括っていたのだろう。
女たちのどよめきが大きくなっていく。
今のやりとりで、そこにいるのが本物の大皇后なのだと気づいたのだ。
「もういちど申しますが、その処刑、取りやめていただけませんか?」
フランコは慌てて首をふった。
「大皇后様のお言葉でも、それは致しかねます!」
「どうしてなのでしょうか? 私にはその方に罪があるようには思えませんが」
「罪状は今述べましたとおり……」
「でも彼女は事実を述べていたのではありませんか? なぜなら私はこうして逃げだして、私の友人達があなた方の部隊や駐屯地を襲っているのは事実です。根も葉もない噂ではありませんよ?」
刑場から上がるどよめきがさらに大きくなる。
彼女たちはこれまでそのような噂を聞いてきたが、実際のところはどうなのか知らなかった。だが今、その真実の目撃者となっているのだ。
「それならばこの女は大皇后様方の逃亡を手助けしたことになりますが? それは死に値する罪です!」
メルファラはそれを聞いて首をかしげる。
「確かに私どもはこのお方の宿に逗留致しまして、おいしいお食事を頂き、それから旅立ちましたが……それが逃亡の手助けになるのですか? 宿屋の女将さんなら当然のことをなさっただけなのでは?」
フランコは絶句する。それから大きく手を振った。
「大皇后様! もうおやめ下さい! このようなことを続けてどうなります! 一体誰に頼まれているのです!」
メルファラは首を振る。
「いえ、私は誰にも頼まれておりません。私は私の意思でここにいるのです」
「ではいったいぜんたい、どうしてそんなことをなさるのです!」
それを聞いたメルファラはにっこりと笑った。
「それはもちろん、レイモンの治安回復のお手伝いをさせて頂いているだけです」
「治安回復?」
「はい。レイモンの治安を乱している侵略者達を、少々痛めつけて差しあげたのですが」
途端にあたりから大歓声が上がって、逆にフランコは真っ赤になって絶句した。
それからしばらくして彼は大きくため息をつくと、剣を取りだして鞘でがんがんと処刑台を叩く。
「鎮まれーっ!」
その声に歓声がトーンダウンすると、フランコは腰を折って大皇后に願った。
「大皇后様、どうかもうこちらにお戻り下さい。そうして頂ければ、処刑も取りやめにいたしましょう」
人々は思わず息をのんだ。
彼女がこうして姿を現した理由は、まさにそうやって身をもって処刑を回避するためだと察したからだ。だが――― 一介の宿屋の女将の身代わりに都の大皇后がやってくる? そのような交換が成立するのか?
あまりにもあり得なさそうな取り引きに、人々は声も出せずに成り行きを見守った。
ところが大皇后はそんな多くの人々の気持ちに反して、首を振ってこう言ったのだ。
「いえ、それはお断りします」
あたりからええっといったどよめきが上がる。
同様にフランコもしばらく絶句して、それから彼女に尋ねる。
「何とおっしゃいました?」
「それはお断りしますと申し上げました」
二の句が継げないフランコにメルファラは語りかける。
「私はその方の無実の証を行いにきただけです。なので証さえ立てられれば、それ以上のことをする義理はございませんが?」
それを聞いたフランコがついに声を荒げる。
「お戯れを! そのようなことができるはずないではありませんか!」
そして彼は処刑人に続きをするように促した。
処刑人は一瞬躊躇したが、すぐに命令に服して女将に袋をかぶせようとする。
《やっぱりそうきたか……》
彼の立場として女将が無実でももはや処刑の中止などできないことは分かる。だが……
ふたたび刑場に凛とした声が通る。
「私が行かないと処刑をやめて頂けないと、そうおっしゃいますか?」
あたりがしんと静まりかえる。
「もちろんです」
フランコがうなずくと、同時にメルファラもうなずいた。
「ならばしかたございません」
彼女はあたりをさっと一瞥すると、続いて着ていたローブをはらりと脱ぎすてた。
その姿をみた観衆から、おおっとどよめきが上がる。
彼女がその下にまとっていた漆黒の打衣は、レイモンにおける伝統的な死に装束であったからだ。
続けてメルファラは見事に細工の施された懐剣を懐から取りだすと、すらりと抜き放ち、その刃を自らの首筋にぴたりとあてがったのだ。
同時に後ろに控えていたアウラがすすっと前に出て、抜き身の薙刀を立てて介錯の準備をする。
人々は息をのんで彼女達の次の挙動を見守った。
「それでは私の首を差しあげますので、どうかアルクス殿下にお渡し下さいませ。これでいかがでしょうか?」
「あ?」
フランコはあんぐりと口を開けて固まってしまった。
―――フィンはその場のみんなに説明を始める。
「譲れない一線というのは誰にでもあるものです。すなわち目下の敵であるアキーラ大守のグスタールについても」
「それって?」
「それは大皇后様の命です」
女たちはやっとみんながフィンの言わんとしていることを理解した。
「あの大守にとっても、大皇后様を死なせるわけにはいかないことは分かりますよね?」
「ああ! だから人質には人質なのね!」
「それじゃどうするの? 女将さんを返さないとファラ様を殺すって言って脅すの?」
「それはちょっと身も蓋もないんじゃないの?」
口々に話しはじめる女たちにフィンは割って入った。
「まあ確かに、そういう脅し方じゃなくって、女将さんを返さないと死んでやるぞ、みたいな感じかな。ともかくそんなようなことになったら相手はどうするでしょうか?」
女たちは顔を見合わせる。
「これが命どころか、ちょっと傷がついただけで良くて失脚、悪ければ首が飛ぶでしょう。だとしたら、大守はそんな危ない橋が渡れますか?」
だがメルファラが少し心配そうに尋ねた。
「本当にだいじょうぶでしょうか?」
それに答えたのがエルミーラ王女だ。
「ご心配はございませんわ。あの大守にとってファラ様が傷つくような結果は不可能なのですから。あなたが危険になるようなことはまったくございません」
彼女はそう太鼓判を押した。だが―――
フランコはしばらくそうして固まっていたが、それから我に返ったように首をふった。
もちろん彼も本当にそんなことになったら自分がどうなるか、ありありと想像できただろう。そのためにわざわざアルクス殿下の名前を出してもらったのだ。
だが……
「ご冗談を! そのようなハッタリには騙されませんぞ! そんなことできるはずがない! さあ、もうお戯れはやめて、お戻り下さい!」
その言葉を聞いてフィンもメルファラも、全員が緊張に包まれた。
―――だがその作戦には一つ問題があった。
「でも……」
そこで口を挟んだのがハフラだ。
「もし相手が逆上して、やれるもんならやってみろって言いだしたらどうしましょう?」
フィンはうっと言葉につまる。代わりにエルミーラ王女が答えた。
「ちょっとでも理性があればそんなことは言えないはずですが」
「でもその場の勢いとか……それにやっぱり本当に大皇后様が自殺するなんて、あまり考えられないじゃないですか?」
それを聞いて王女も口をつぐむと、ちらりとメルファラの顔を見る。
そうなのだ。要するに誰にとってもメルファラの命は絶対に失えないのだ。
従ってこっちがそう言っても相手はハッタリと信じてしまうかもしれない。
なにしろこれはあちらにとっても一つの極限状況になる。そこで誰もが冷静な判断ができるとは保証できない。すなわち―――頭に血が上ってしまって、後先考えずに処刑命令を出してしまうかもしれないのだ!
《もしそうなってしまったら?》
そうなってしまったら―――こちらとしても話の筋を通さざるを得ない。すなわち、メルファラは言ったことを実行しなければならなくなってしまうのだが……
《そこまで……バカじゃないよな?》
しかしフィンはここまでの大守達の対応のまずさを思い出す。彼らが冷静に行動していれば、そもそもここまで来ることができただろうか?
だとしたら?
………………
…………
……
と、そのときだ。いきなりメルファラが大きな声で笑い出したのだ。
「どうなされたのです?」
驚くエルミーラ王女に彼女は答える。
「あははは! いえ、みなさんがものすごいお顔で悩んでおられるのでつい……」
「笑い事ではありませんが……」
真顔で諭す王女に、メルファラは笑うのをやめた。
それから大きく深呼吸すると、にっこりと笑って全員にこう言ったのだ。
「そうですね。ではその場合は約束どおり、私が死ねば良いのではありませんか?」
「はいぃ?」
王女の顔が引きつる。
「ちょっと、なに言いだすのよ! ファラ!」
それまで黙っていたエルセティアも体を乗り出して叫ぶ。
「そうです。あなたが死んでしまったら……」
エルミーラ王女も必死に止めようとする。
だがそこでメルファラは再び真顔になると一同の顔を見わたした。
「ミーラ様が先ほどおっしゃいましたね? 譲れない一線とは何なのだろうと? 私もずっとそれを考えていました。そして少なくとも一つ言えるのは……私の命というのは、私にとって特に譲れない一線ではないのです」
抗弁しようとするエルミーラを抑えて、メルファラは続ける。
「私は……あの山荘で果てていてもおかしくなかった身の上です。今の命は借り物のようなものなのです。あのときには本当にみなさんにはお世話になりましたが……」
メルファラはそう言ってちらっとフィンとティアに微笑みかける。
「でもそれ以来ずっと考えているのですよ。私に本当にそれほどの値打ちがあったのだろうかと」
「ファラ様!」
もうほとんど泣きそうな表情のエルミーラ王女に、メルファラはにっこり笑って首をふる。
「ミーラ様。あなたとお会いしてから、それにティアとヴェーヌスベルグの皆さんともそうですが、この一月ほど私はとても楽しかったのです。まさに明日をも知れぬ生活でしたが、なぜか本当に生きていて良かったと思ったのです。それはどうしてだと思いますか?」
それから女たち全員の顔を見ると、さらにこう付け加えた。
「そしてあなた方はいかがでしたか? 私にはとても生き生きしていたように見えたのですが……」
女たちは言葉を失った。
なぜなら彼女の言うとおり、それは実際にひどく充実した一ヶ月だったからに他ならなかったからだ。
「私のために単に逃げ惑っていたのでは、こんなに楽しくはならなかったと思います。そうではなくて、私たちが価値あることを行っていると信じていたから……そして私たちを信じてくれる人たちに囲まれていたから、だからそう思えたのではないでしょうか?」
メルファラは再び全員の顔を見わたすと、その質問を発した。
「みなさんにとって譲れない一線とは、本当に私の命なのですか?」
今度はもう誰も答えなかった。
なぜならみんな気づいてしまったからだ。
他のすべてを失ってもメルファラの命さえ助かればいいのか? いや、そういうわけではないのだ。彼らが守りたかったものとは―――それはまさに……
メルファラはかるく目を伏せる。
「確かに始まりはそうではなかったかもしれません。でも少なくとも私は、今は違います。私たちが得たレイモンの人々の信頼の輪の先に見えるかすかな灯火。私はそれが大きな炎となって燃えさかる様を見てみたい、今では本気でそう思っているのです」
言葉のない女たちを、メルファラは再び見わたすと……
「そのためにこの首が役立つなんて……私は少々驚いているところなのですよ」
彼女はそう言ってくすりと笑った。
それを見て、エルセティアが焦ったように叫ぶ。
「ちょっと、ファラ! でもやっぱりファラが死んじゃったらダメでしょ。ファラがいてくれてこその私たちじゃないの! あなたがいなくなったら私たちどうしたらいいのよ!」
「そうです。やっぱりファラ様がいなくなっては……」
「そうですよね、フィーネさん」
多くの女たちが彼女の言葉に賛同しはじめるが……
「え? あ……」
だがフィンはまたも素直にうなずくことはできなかった。
そんな彼にエルミーラ王女が不審そうに尋ねる。
「どうなさいましたか?」
「いえ、ですからその、一般論なんですが……伝説の完成には必ずしも……」
そこまで聞いたエルミーラ王女の表情が変わる。そして冷たい声で続けた。
「むしろ永遠の存在になった方がいいと?」
再び多くの者がその会話の意味に気づかなかった。
だが今度はメルファラがその意味に気づいたのだ。
「まあ、エルミーラ様、でしたらあとをお頼みしてよろしいのですか」
エルミーラ王女がうっと口ごもる。
話がよく見えていない女たちに向かって、メルファラが微笑みながら説明した。
「私たちがいま何を行っているかご存じでしょう? 白銀の都の大皇后が敵国だったレイモンのために戦っているんですよ。これってまるでおとぎ話ではありませんか」
メルファラはにっこりと笑う。
「それがおとぎ話の主人公なら、もはや生身でなくとも構わないのです。むしろここでこの首を差しだしてみた方が、そのあとの物語がドラマチックになると、そういうことではありませんか?」
「何をおっしゃいます!」
「でも、そのあとも物語を紡いでいくことはできるのでしょう?」
メルファラに見つめられ、エルミーラ王女は―――否定しなかった。
彼女はそんな王女の手を握る。
「ですので、もしもそういうことになったら、あとはお頼みしますね」
「でもファラ様……」
王女は本当に泣きそうな表情だ。フィンはエルミーラ王女のそんな顔は初めてだった。
そんな彼女にメルファラはにこっと微笑む。
「ミーラ様。そんなお顔をなさらないでください。そもそもこれは仮のお話ではありませんか。私もあの大守に会いましたが、とてもそのような度胸がある者とは思えませんでしたし」
「でも……」
「それにある意味これはとても単純なお話だと思うのです」
「単純?」
「はい。みなさんが命をかけているものに、私も命をかける、それだけのことではありませんか?」
そう言われてはもはや誰も言い返せなかった―――
フィンの前に立つメルファラの背から、緊張がふっと消えてなくなった。
それから彼女は両手を広げると……
「ここにいらっしゃった皆さん! どうかお聞き下さい」
彼女はゆっくりと人々の顔を見わたした。
「わが白銀の都とあなた方のレイモン王国とは、長らくの仇敵同士でありました」
―――いきなり何なのだ? と、人々の間から疑問の低いどよめきが上がる。
だがメルファラはそんな空気にはかまわず話しを続けた。
「ご存じの通り、かつてこの南にあるクォイオにて、大ガルンバ将軍がウィルガ王国軍を撃破したことに始まり、そのあとに行われたシフラ攻防戦においては、史上初のわが都とベラ魔導軍の共同作戦が同じく打ち破られました。それによって中原においてはあなた方が覇を遂げることになり、私たちはすごすごと故国に引っ込んでいったのでございます」
―――それはまごうことなき歴史的事実であったが、今それを語っている人のことを思えば、人々はそれに対して素直な喜びの声はあげられなかった。
「先年もレイモンによる都攻めが行われたことは記憶に新しいと思いますが、一つ、間違いなく言えたことは、あなた方は私たちの最強の敵であったということです。私の祖国に住む者達は長い間、あなた方、平原の人々を心の底から恐れておりました」
―――人々の間から低い不審のつぶやきがうなりとなってもれ広がる。なぜならば……
「しかし運命というものは変転いたします。どのような覇者であろうとも、いつかは必ずそれに挑戦する力に直面せざるを得ないのです。そして、それに負けた者は強者に平伏するのが世の習わし。そう。あなた方もまたアロザールの非道な術によって滅ぼされ、レイモンという国はこの世から消えてしまったのでございます」
―――そう。そのようなことはもはや過去の話なのだ。そんなことを今さら蒸し返してどうしようというのだ? と……
そこにメルファラはさらに続けた。
「そのとき私たちが不遜な希望を抱いたのは事実です。あなた方の滅亡によって、再び自分たちの時が来るのではないのかと」
―――人々が一瞬絶句する。彼女はレイモンの滅亡を喜んでいるのか?
だが、その思いが噴出する前に、メルファラは大きく首を振った。
「ですが……それははかない望みでした……」
―――そう言って彼女は処刑台の方をふり返った。
そこにはアロザールの見届け人フランコや執行担当官、それに処刑人が、跪いたルンゴの女将を取り囲んでいる。
「ご覧の通り、アロザール王国はもはや何をも尊ぼうとはしておりません。私たちは別に助けられたのではなく、単に奴隷の所有者が交替したというだけだったのです。皆さんもご存じの通り、こうして私は虜囚として敵の国に嫁がねばならなくなったのですから!」
―――メルファラはそこできっとフランコの顔を見据える。男の顔がかっと赤くなるが、彼が何かを言いだす前にまた彼女は聴衆に向かって語りはじめた。
「まさに……あたりはすべて闇でした。私は絶望の深淵の底におりました。私はもはやこの世で命を長らえている意味などないと思っておりました。それでもなお、辱めに耐えながらここまで来たのは、私には自分の命を絶つ勇気さえなかったからに他ありません」
―――あたりがしんと静まりかえる。
彼女は祈るように前に手を組んだ。
「そう。私はまさに生ける屍でした……」
―――彼女はまるで黙祷を捧げるように下を向く。
しばしの沈黙に、ふたたび不審のどよめきが上がりそうになった瞬間だった。
メルファラはきりりと顔を上げた。
「しかしそんな私に、希望を失っていた私に再び光を見せてくれたのは、あなた方、レイモンの人々だったのです!」
―――人々はしばし呆然とした。いま彼女の言ったことは本当なのか? 人々はその言葉を反芻しながら、やがてためらいがちに歓喜のどよめきが上がりはじめる。
その人々にメルファラはさらに語りかけた。
「私は、滅ぼされた国とは屍の大地のようなものだと想像していました。私はどれほど寂しい場所を通って行かなければならないのだろうと思っていました……でも、違ったのです! 私がそこで見たものは、そのような逆境にも関わらず、立って歩いている人々だったのです!」
―――それはもしかしたら少々褒めすぎだったかもしれない。
今ここに来ている彼らとて、絶望にうちひしがれていたのは間違いなかったのだから。
だがそれでも人々は毎日を必死で生きようとしていた。
女たちは動けなくなった男の代わりにこの国を必死で支えていた。
それはむしろ生き物としての最後の生存本能だったのかもしれないが……
「それがただ悲嘆にうちひしがれていた自分と、どれほど違ってみえたことでしょう? そして気がついたときには、私の心の中にもほんの少しだけ、勇気と呼べるものが芽生えていました。その灯火は、まさにあなた方が私に与えてくれたものなのです!」
―――メルファラの言葉を聞いている人々の表情が一変した。
なぜならその言葉こそが、レイモンの人々がいま一番欲していたものだったから。
「だから私は決意したのです。このまま為すがままに流されてはいかないと。そのために何をしなければならないのか? その第一歩が、まずは私が自由にこの大地を歩き回ることでした。そのときに大きな手助けをしてくれたのが、そのオリザさんだったのです」
―――メルファラがそういって処刑台の上の女性に手を差しのべると、今度はあたりから大歓声がわき起る。それが収まると彼女は続ける。
「彼女がいなければ、私が今こうしてここにいることもなかったことでしょう。私が彼女に大きな恩を受けたというのは、まごうことなき事実です。従いまして、その方がこうして咎なくして囚われ、無道にその命を奪われようとしているのであれば、それを見すごすわけには参りません!」
―――再び歓声がわき起こり、今度はその中にアロザールの役人へのヤジが混ざりはじめる。
それを聞いたフランコの顔がさらに赤くなる。
そんな彼に向かって今度はメルファラが挑発的に言った。
「何かご不審な表情ですね? フランコ様。もしかして私の命と宿屋の女将の命が釣り合うかどうか値踏みしていらっしゃいますか? でしたらそれはお門違いというもの。私は単に彼女を救うために来たのではなく、わが誇りを成就するために来たのですから」
―――その言葉を人々は素直には理解できなかった。歓声がトーンダウンしていく。
そこでメルファラはにこっと笑って続ける。
「皆様もご存じのことでしょう。かつて大聖が西へ渡ってくる途中、彼らの前に立ち塞がったベラの人々に自身の息子を与えたというお話を。それはどうしてかご存じですか?」
―――その逸話はもちろんその場にいる誰もが知っていた。
だがなぜ彼女はいま、それを持ち出してきたのか?
「大聖様はおっしゃいました。私は自分を愛する者を愛すが、自分に敵対する者はもっと愛するのだと……でも、これは単にその言葉どおりの意味ではありません。なぜなら、敵は他にもいたからです」
―――メルファラはそういって再び処刑台の方を見る。
人々は思い出していた。確かに大聖の一行に敵対したのは、ベラの人々だけではなかった。
ということは?
「彼らに抗ったのは、かつての東の帝国の魔導師達もそうでした。それなのに彼らは大聖の恵みを与えられることはなく、永遠の滅びの運命が与えられました。それはいったいどうしてでしょう?」
―――人々の心の中にひとつの期待が生まれつつあった。
もしかして彼女がこれから語ろうとしていることは……
「それは彼らが自分の足で立っていたからなのです! ベラの人々は、自らとその先祖達が開いた土地に侵入してきた敵に、命と誇りをかけて刃向かったのです。でもそんなものは、帝国を一夜にして滅ぼした黒の女王の力の前には、まさに無力な赤子同然であったというのに……だから大聖は心を打たれたのです。もしここで現れたのが単なる東の帝国の手先であったのならば、彼は一顧だにせずに骨も残さず焼き尽くしたことでしょう!」
―――いまや彼女の意図は明らかになった。
彼女は先ほど言ったのだ。レイモンの人々は自らの足で立って歩く人々だと!
だとすれば……
「我が名はベルガ・メルファラ。ご存じの通り、私はその大聖の直系の子孫にあたります。この体の中にその大聖と白と黒の女王たちの血が脈々と流れているということだけが、この私の持てるただ一つの誇り。それなのに……私にはその末裔として、大変申しわけのないことに、あなた方に与えられる息子がおりません。それゆえに……」
メルファラは片手を胸におし当てると、高らかに宣言した。
「この首でご容赦いただくほかはないのでございます!」
………………
…………
……
彼女の言葉に応える歓声は上がらなかった。
フィンは背筋に冷たい物が走る。
《もしかして……なにかしくじったのか?》
この流れは彼らがこの一週間、ほとんど寝ずに考え抜いたものであったからだ。
だが……
あたりから低い嗚咽の声が聞こえはじめたのだ。
《!!!》
続いて人々がメルファラの方を向いて、一人、また一人と跪きはじめた。
やがてそれは波を打つように全体に広がっていき―――女たちの泣き叫ぶ声で、世界は飽和していった。
逆だったのだ。
メルファラの演説は、レイモンの人々の心をこれ以上もなく完璧に捕らえたのだ。
彼女はしばしそんな人々の姿を見つめると、静粛にという仕草をする。
それから彼女は、処刑台の男たちに向かって静かに尋ねる。
「それで、どうなさいますか?」
―――途端にざわりという音が響く。
それは、その場の女たち全員が、一斉にフランコに向かってふり返った音だった。
続いてあたりは張り裂けそうな緊張に包まれた静寂となる。
その空気にフィンまでが口がからからになった。まさにこれは正念場だ。
《もしあいつが拒否したら……》
彼女は本気だ。
そして彼もエルミーラ王女も彼女に約束をしていた。
もしそんなことになったら―――すべてを擲ってでも、その伝説を成就させてみせると!
だからもし相手が怯まなければ、彼女は手にした短刀で自らの首を掻ききるだろう。アウラがいるから苦しむことはないはずだが……
《それでも……》
フィンにとっては彼女の伝説などより、生きた彼女を見ていたかった。
だがいくら後悔しようとも、もはや決断の時は過ぎている。
あとは―――フランコがどう出るか? ただその一点にかかっている。
その次の刹那はまるで一生のようにも思えた。そして……
「ひいいっ!」
その場すべての女たちの視線に貫かれたフランコは―――腰を抜かして尻もちをついたのだ。
それからあわてて手を振ると……
「は、放せ……」
処刑人はそれを聞いて一瞬呆然とするが、続いて泡を食ったように女将さんの縄を解く。
そして―――処刑台からは自由になったルンゴの女将が降りてきた。
今度こそ、あたりは喜びの大歓声に包まれた。
「そのときの大皇后様は、まさに太陽のように光り輝いておりました!」
リエカはまさに感極まったという表情だ。
それを見たメルファラはくすりと笑う。
「リエカさんはお世辞がお上手ですね」
「いいえ、そんなことはございません!」
ふり返ったリエカの、火傷でただれて筋のようになった目から涙がこぼれ落ちる。
「あの場にいた誰もが大皇后様に勇気を頂いたんです。これは偽りではございません!」
彼女のその真摯な表情に……
「ありがとう」
メルファラがそういって彼女の肩を抱くと、リエカは端から見ても分かるくらい硬直し、赤面した。
そんな姿を見てアリオールがおもしろそうに言う。
「ほう? お前はお姉様一筋だと思ってたんだが……」
「もちろんそうです!」
リエカはぎろっとアリオールをにらむと、ふんと後ろを向いてしまった。
「それで大皇后様のところを訪ねたというわけか? だがその宿屋の部屋にずっといたわけではあるまい? どうやって居場所をみつけた?」
アリオールが取りつくろうように尋ねると、リエカがまたふり向いてにっこり笑う。
「いえ、逆に見いだされてしまったんです」
「見いだされた?」
「はい。お姉様に」
そういって彼女はアウラに身をすり寄せた。
「あ、上から見てたらエステアがいるのが見えたから」
それを聞いたアリオールが不思議そうに首をかしげる。
「上から? 下は大群衆じゃなかったのか?」
アウラはあっさりとうなずいた。
「そうだけど、エステアなら分かるのよ。きれいだから」
「お姉様ったら、私はそんな……」
リエカ―――かつてはエステアと呼ばれていた娘は、恥ずかしそうに焼けただれた顔を隠す。それを見てアウラは首を振った。
「ううん。帽子で顔なんて見えないし。あなた身のこなしがきれいなのよ」
「お姉様……」
二人が何やら自分たちだけの世界に入っていってしまったので、アリオールがふり返ってフィンに尋ねる。
「それでフランコとかはどうなったんだ?」
「何もできずにそのまま退散していきましたよ。一応いろいろ準備もしてたんですが」
「準備?」
「この期に及んで逆上して暴れたりしたら、今度こそ取り押さえようと思ってたんですが、おとなしく帰ってくれて良かったです」
「そういえば君たちには心強い仲間がいたんだな」
「ええ、まあ……」
それからアリオールは真顔になる。
「君たちが実際にあちらこちらで暴れていたことはずいぶん前から知っていた」
フィン達にはそれはちょっと意外だった。
「え? それならば私たちがあなたを探していたことも知っていましたよね?」
アリオールはうなずく。
「もちろん。だが、そんな怪しい話にうかうかと乗れないことはご理解頂けるだろうな?」
「ああ、まあ、そうかなとも思ってましたが……」
確かに彼らが慎重になるのは非常によく分かる。甘い話にうかつに飛びついて、それが罠でしたでは洒落にならない。
アリオールはフィンと、それに続いてメルファラ大皇后、エルミーラ王女の顔を見る。
「それで尋ねたいのだが……君たちは結局、何をしようとしているのだ?」
部屋にいた男たちがみんな真剣な表情になった。
当然の質問だ。フィンは軽くうなずくと答えた。
「当初はここから脱出するためだったんですが、なんだか手段と目的が入れ替わってしまいまして、今は文字通り、レイモンの解放をしたいと思っています」
男たちは顔を見合わせる。
「レイモンの解放だと?」
「はい。そこでそのための協力がほしいのですが」
アリオールは不審そうに尋ねる。
「だがいったいどうすればそんなことができるのだ? 女だけで軍隊を作ろうとでも言うのか?」
彼の問いはまさにもっともだった。
フィンの言葉を実現するために戦いは必至だ。それなのにここにいる男たちは呪いのために歩き回るにも難渋しているのだ。
そんな彼らを見て、フィンはなにやら微妙な表情になる。
「いえ、実は……呪いを解く方法が分かりましたので……」
男たちが絶句した。
彼らはしばらく目を丸くしてフィンを見つめると、互いに顔を見合わせる。
「いま……呪いが解けると言ったのか?」
アリオールが信じられないといった表情で尋ねる。
「はい……」
「いったいどうやって?」
だがそれを聞いたフィンは絶句する。それから彼は大皇后や王女の方をちらりと見る。
アリオールは彼女たちの顔にも微妙な笑みが浮かんでいるのに気づいた。
「どうしたのだ?」
「それがですねえ……」
フィンはアリオールにその方法を小声でささやいた。
それを聞いたアリオールもまたしばし絶句すると、大きな声で問い返す。
「釜を……掘るだと?」
それから高貴な女性がいたことに気づいて、アリオールは咳払いでごまかすが……
そこにフィンが説明する。
「えっと、それがアキーラやバシリカの略奪時になぜか呪いが解けた人がいたんです。それで調べてみたらみんな、アロザール兵に、その、犯されていたことがわかりまして、それで試してみたら本当に呪いが解けてしまったんですが……」
口をあんぐり開けて言葉が出ないアリオールに、エルミーラ王女が言った。
「フィーネさんの言うことは嘘ではございません。実際にそのようにして呪いの解けた者が既に数百人以上はいるのです。追ってこちらにも何名かいらっしゃることになっております。その方々が証言して下さいますよ」
と、そのときだった。
「あ・な・た・と・い・う・ひ・と・は……」
いきなりリエカがふらっと立ちあがると、つかつかっとフィンの前に歩いてきたのだ。
「ふぁ?」
間抜けな声をあげるフィンに対して―――リエカはいきなり懐の懐剣を抜き放ち……
「あ・な・た・は、お姉様だけでは飽き足らず、アリオール様まで奪おうというのですか!」
そう叫んでいきなり襲いかかってきたのだ。
「ひぇぇっ!」
そのまごう事なき本気の形相にフィンは慌てて避けようとしたのだが、あまりに不意を突かれたので完全に逃げ遅れていた。
だがその刃はフィンにざっくりと突きたてられる寸前、ぴたりと止まった。
彼女の腕を押さえていたのはアウラだった。
「お姉様! お離し下さい! 今日こそはこの男に引導を与えてやるのです!」
「エステア! 落ちついて」
「でもお姉様!」
彼女はもう完全に逆上しているようだが……
「リエカ‼」
そこに飛んだのがアリオールのきつい声だ。
途端にリエカがしゅんとなる。
アリオールは今度は優しい声で彼女に命ずる。
「お前の気持ちは分かるが、いまは座ってろ」
「……はい」
リエカはアウラと一緒におとなしく戻っていった。
それからアリオールはふり返るとフィンに向かって笑いかける。
「はっはっは。ずいぶん嫌われたものだな?」
「いえ、その……」
口ごもるフィンにアリオールがにた~っと笑いかける。
「で、それも含めてこれってまさか、このあいだの仕返しじゃないよな?」
「違いますって!」
フィンが真っ青な形相で否定する。
「まあよい。それが本当なら、まさに大事の前の小事なのだが……」
アリオールはまたじろっと真顔になって尋ねた。
「だが一つ尋ねたいんだが……君がそこまでする理由はなんだ?」
「え? それは、その……」
口ごもるフィンにアリオールは冷たくたたみかける。
「今回の件の首謀者は君だろう? そもそもアロザールの王国評議会の相談役が、どうしてレイモンのために戦っているのだ?」
フィンはけほんと咳をすると首を振る。
「それは、そもそも僕はアロザールの味方ではなかったからです」
「味方ではない?」
「そうです。単に目的が同じだったので行動していたら、何だかいつの間にかああいう立場になってしまいまして……」
「どういう目的だ?」
「レイモンの覇権を阻止することです。ただいろいろその手段が異なっていて、アロザールにとっても僕の行動がまずかったみたいなんですが……」
「だったらどうして奴らは君を私のところからさらっていったりしたのだ?」
「それは、なんというかその、古い知り合いがおりまして……」
「知り合いだ?」
その声からは不審の様相がありありと聞こえてくる。
そこでエルミーラ王女が口を挟んだ。
「アリオール様。そのあたりに関しましては後ほどまたゆっくりお話しできると思います。ともかくフィーネさん……いえ、ル・ウーダ様はまさに一時期アロザールの“敵の敵”だっということだけなのですよ」
アリオールはじろっとエルミーラ王女を見る。
「なるほど。よく分かりました。すなわち今のあなた方の敵の敵が、私達なのだということですね?」
それを聞いた王女がにこっと笑う。
「ああ、アリオール様がご心配なさるのも無理はございませんね。もしまた状況が変わったら、また元の敵同士に戻ってしまうかも、ということでございましょう?」
アリオールはちょっと眉をひそめる。
「有り体に言えばそういうことになりますが……」
エルミーラ王女もうなずいた。
「確かにそのような可能性はあるかもしれません。たとえば……」
王女はそういってアリオール達の顔を見回す。
「もしあなた方がファラ様の……いえ、大皇后様の命を奪おうとなさったような場合は、私たちも全力でそれを阻止する方にお回りしますが……」
それを聞いたアリオールが慌てて尋ねる。
「なぜそのようなことを⁉」
王女は再びにっこりと笑う。
「ですので“たとえば”の話でございます。そのようなことでもなければ、もはや今後あなた方を敵に回す理由がないということをお伝えしたかったのです」
だがまだアリオールは納得できない顔だ。
「しかし、あなた方の祖国はそうは思わないかもしれませんよ? 私たちは長年、都の仇敵でしたし、ベラとも同様に敵対しているのですが?」
エルミーラ王女は目を伏せた。
「そうですね。もしそうなった場合は申しわけありませんが、私や大皇后様の祖国の助けは望めず、私たちだけの微力なお手伝いしかできなくなるということです」
アリオールは目を見ひらいた。
「あなた方が……祖国に敵対すると?」
「そうなってしまったら、もうやむなきことと思っておりますが?」
エルミーラ王女はそう言ってアリオールをまっすぐ見返した。
その眼差しに彼女の強い意志を見て、アリオールはメルファラに目を向けた。
「大皇后様も?」
その問いにメルファラもしっかりとうなずいた。
「はい。と申しますか、これは私の方から皆様にお願いしたことなのです」
「え?」
メルファラは驚くアリオールの目を直に見据えて言った。
「私がルンゴにて申し上げましたことは、まごうことのない私の意思なのです。そこで私はこの首をあなた方に差しあげると申し上げました。従いまして、これはもうあなた方のものなのです」
アリオールの顔から少し血の気が引く。
「いや、でも、しかし……」
「信じて頂けませんか?」
「いえ、そういうことではないのですが……」
彼が怯んでいるのは無理もなかった。首をそんな簡単にくれると言われても……
そんな彼にメルファラはおもしろそうに微笑みかける。
「それではこう言えばいかがでしょうか? 私は都にいるときは、命のない人形のような、まさに単なる飾り物にすぎませんでした」
それは少々意外な言葉だった。アリオール達は驚いて彼女を見る。
「その人形が少々欲をだして、自分の命を願ってしまったのだとすれば、いかがでしょう?」
アリオールは驚いて彼女を凝視する。
「命を……願う?」
「はい。その人形にとっては、とても大切なことだったのです」
アリオールはそのまましばらく無言でメルファラの顔を見つめていた。そして心の中で彼女の言ったことを反芻する。
「もしそうならば……」
彼はそう小声でつぶやき―――次いでふっとフィンの方にふり返った。
「これは……どういうことなのだ? 君の筋書きではないのか?」
いきなり問われてフィンは言葉につまった。
いや、ある意味彼がこういう方向性をお膳立てしたと言って良い。
呪いが解けることが判明し、メルファラを助けるためにレイモンの人々に協力してもらおうと決めたときから、彼らはその信頼をいかに得るかということを考えざるを得なかった。
単に利用しようとしていたのであれば、当初は騙せたとしてもいずれは露見する。そうなったらおしまいだ。
そのためには結局、彼らもまた本気でなければならなかったのだ。
確かに当初いろいろな展望を描いたのは事実だ。
だがその中には彼女がここまで本気になるという“予定”は全くなかったのだ。
本気の人々の行動力の前にはあざとい筋書きなど意味をなさない。むしろ彼は大海の中で翻弄されている気分だった。
「そもそも筋書きなんてありませんよ」
そう言って首を振るフィンに、アリオールはにじり寄る。
「それではレイモンで工作していたこととかはどう説明する? いったい誰の命で行動していたのだ?」
「それは……」
口ごもるフィンを見て、いきなりエルミーラ王女が吹きだした。
「だめですよ。ここで笑ったら……」
それを横のメイがなだめているが……
「どういうことです?」
不審そうなアリオールに、エルミーラ王女が答えた。
「いえ、要するにそれはファラ様のためだったのです」
「あ?」
ぽかんとするアリオールに、王女は続ける。
「都にいらっしゃった頃からル・ウーダ様はファラ様に懸想なさってらっしゃって。それでファラ様をお救いするためだけに、あちらこちらで勝手な振る舞いをなさっておいでだったのです」
「なんと?」
「あの、エルミーラ様?」
「ちょっと……」
アリオール、フィン、それにメルファラが困ったように彼女の顔を見る。
「あら? わたくし何か間違ったことを申しあげましたか?」
「いえ、そうではありませんが……」
そこにアルエッタが勝ちほこったように言った。
「ほら! あたしの言ったとおりじゃないですか!」
「ん? なんて言ったの?」
と、尋ねるリエカにアルエッタはアリオール達を睨みながら答える。
「さっきフィンさんが大皇后様のことを好きだから助けようとしてるって言ったら、みんなに笑われたんですよ?」
「いや、でもほら、エッタちゃん。普通はねえ、いくらなんでも……」
ヴォランがしどろもどろで弁解する。
「だってそうだったじゃないですかー!」
男たちはたじたじだ。アルエッタは調子に乗ってさらに爆弾発言をぶちかます。
「でもフィンさんって、アウラさんのことが好きだったんじゃないんですか?」
「ぶはーっ!」
露骨にフィンが咳きこむ。
そんなフィンの肩をアリオールが叩いた。
「そのへんもじっくり話を聞きたいところだが……それよりエッタ、皆さんの飲み物を用意してくれないか」
「あ、はい。分かりました」
アルエッタは立ちあがるとしたたたっと階上に上がっていった。
場にちょっとほっとした空気が垂れこめる。
それからアリオールがエルミーラ王女に尋ねた。
「エルミーラ様、それでお尋ねしますが、この男がレイモンで工作を行っていた理由というのは要するに、単にレイモンが都を攻めたら大皇后様に危険が及ぶかもしれないからと、そういうことなのですか?」
王女はうなずいた。
「はい。ル・ウーダ様は都の魔導軍の内情にもお詳しかったので、普通に負けてしまうことを危惧されていたのです」
アリオールは目を見ひらく。
「それではこれにはフォレスは?」
王女はうなずいた。
「まったくこちらには関係しておりませんでした。正直帰ったらお灸をすえてやらねばと思っていたところなのですが……」
「しかし彼を中原に派遣したのでしょう?」
「それはそうです。いつか戦うかもしれない相手を調査しておくのは当然ですから。でもこちらは中原の情勢を調べてこいと言っただけで、戦いを阻止せよなどとは命じておりません」
「ではあれはこちらに来て、我々が都を攻めようとしていることを知って、彼が勝手にやったことだと?」
「そうですね?」
エルミーラ王女の問いに、フィンはうなずいた。
「はい。そうです」
アリオールはびっくりしたような表情でフィンと王女を見つめる。
「しかしそれでは王女様がこちらにいらした理由は?」
それを聞いて王女はアウラの方をふりかえるとにこっと意味ありげに笑う。
アウラがうっといった表情になる。
「それはこのアウラがファラ様のお屋敷に押し入ってしまって、怒ったファラ様に私たちが呼びつけられてしまったからなのです」
「はあぁ?」
男たちは目を白黒させた。
「それってフィンが帰ってると思ったから……」
「別に私は怒っていたわけではございませんが……」
アウラとメルファラが同時に口をはさんだが、王女は気にせずに続ける。
「ともかくそうして私たちは都に参ったのですが、そこでファラ様と大変親しいお友達になれたのです。ところがそこでわが国の臣下が、ファラ様に大変な失礼をしようとしていることを知りまして、矢も楯もたまらずこうして同行して参ったのです」
そう言って彼女はその“臣下”ににっこりと笑いかけた。
フィンも引きつった笑顔を返す。
見ていた男たちはそのようすから、王女のいったことがおおむね真実だと理解した。
アリオールはしばらくそんな彼女たちを見ていたが……
「そうですか……しかしそれにしてもどうしてまた彼を仕官させたりしたのです?」
彼の問いにエルミーラ王女はなぜか微妙な笑みを浮かべる。
「それは……ちょっとした出会いがありまして、都の方がやってくるのは珍しいことですし、しかもアウラ様までがご一緒で……それでしばらくお客人として逗留して頂いていたら、何やら気があってしまったと、そのような経緯ですが」
アリオールはちらっとアウラの顔を見る。彼女の顔にも何やら微妙な笑みが浮かんでいる。
「しかし……フォレスといえばベラと非常に親密な間柄。良く彼を使う気になりましたね?」
「それは父が考えていたからです」
「父? フォレス王のアイザック様ですか? いったい何を?」
「それはベラと都の連合です」
エルミーラ王女はあっさりとそう答えたが、それにはアリオールだけでなく、ほかの男たちも驚愕した。
「なんと?」
王女はまたにっこりと笑うと説明する。
「あの頃、父は中原のとある大国をどう押さえ込むかということに心を悩ませておりました。そしてそのためには結局、長い目で見ればベラと都が協同して事に当たるほかはないという結論になり、そのためには都の小公家のお方の力が大変有用になると考えたからです」
「中原の……大国ですか……」
アリオールはくっくっくとうつむいて笑い出す。
「まあ、確かに私達も都と結ぼうとしておりましたから……とんでもないことを考えるのは親父殿だけではなかったのですな……」
それから顔を上げるとまた尋ねた。
「それで、彼がアロザールに味方した理由もご存じですか?」
「はい。アロザールはレイモンに敵対する立場なので協力したと。ただ、アロザールはレイモンの都攻めを阻止する意図はなかったようなのですが」
「それはどうして……いや、呪いがあったからですか?」
王女はうなずいた。
「そのようです。戦線が膠着すれば、背後からああしてレイモンを攻め落とせる自信があったからでしょう。でもそのためには都攻めが早期に決着してはまずかったので、都でも別な工作を行っていたようです」
アリオールはそれを聞いて目を見ひらいた。
「それでは……アルヴィーロ氏が失脚したのも?」
「はい。アロザールの手の者が暗躍したからと……ついでにこの子ががんばったからですが」
そう言って王女はメイの顔を見る。
「え? いえ、あれは……あはは」
「どうなさったのです?」
メイは頭を掻きながら答える。
「いやまあ、ちょっと秘密情報を届けただけなんですよ」
アリオールは驚きの表情でその少女のような秘書官を見ていたが……
「そうですか。その武勇談はまたゆっくりお聞かせ願いたいものですな」
アリオールは王女の方に再び向くと尋ねた。
「しかし、どうしてアロザールはそんな手の込んだことをしたのでしょう? 我々の意図が分かっていたなら、都攻めには非常に少数の軍勢しか投入されないことは分かっていたはず。南方の軍勢の数は結局変わっていないのに……」
王女はアリオールのその質問にもすらっと答えた。
「それはどうやら、ファラ様を手に入れるためだったようですね。こうしないと彼らは都を助けたことにはなりませんから」
「なんと?」
そこにいた男たちが思わず声を上げる。
「レイモンに攻められている都を助けた、という名目が欲しかったから、ということですか?」
それまで黙っていたドゥーレンが思わず尋ねる。
「そうなのですよね?」
王女が再びフィンに尋ねる。
「はい。その通りです」
フィンがうなずくと、男たちは驚愕したが―――それからちらっとメルファラの顔を見るとなぜか納得したようにうなずいた。
それはまさに傾国の美女という表現にぴったりだったからだが―――それに気づいたメルファラが少し不愉快そうに眉をよせる。
それを見て慌ててアリオールが尋ねた。
「それでル・ウーダ殿はこのことを知っていたのか?」
フィンも即座に首を振る。
「いえ、まさにもう青天の霹靂で……」
「ということは……出迎え役についたということは?」
「はあ、最初から途中で逃げるつもりでした。そのために警備を甘くしたりとかいろいろ工作はしたんですが……」
「ほう? それでどうなった?」
「そうしたら、いろいろその、予期しないことが起こってまして……王女様がいらっしゃってたとか……それで単純に逃げられなくなってしまいまして……いや、多分単に逃げていたら捕まってたと思いますが……そうしたら運良く呪いを解く方法が分かったんです。それでもうこうなったら毒食らわば皿までと……」
アリオールはしばらくフィンの顔を見つめていたが、続いて大きな声で笑い出した。
それを聞いていたドゥーレン達も一緒に笑いはじめる。
それからアリオールは再びメルファラに向き合うと、真剣な表情で尋ねた。
「最後にもういちどお聞きします。大皇后様……」
「はい。なんでしょう」
「レイモンを救うということがあなたのご意志だと信じて……よろしいのですね?」
メルファラはにっこりと微笑みを返すと、それからきっぱりと答えた。
「はい。今は」
するとやにわにアリオールがふらふらと立ちあがると、がくんと床に膝をついてメルファラに敬礼を捧げたのだ。
「ガルンバ・アリオール! 私はあなたのような美しく気高いお方のためにこの命捧げられることを、心から感謝致します!」
続いてドゥーレン、ラルゴ、ヴォランが同様にメルファラに忠誠を誓う。
それから再びアリオールはベッドに這い上がると、そこにいたフィンに向かってにこやかな口調で言った。
「ではル・ウーダ殿。その小事とやらをさっさと済ませようじゃないか」
だがもちろん彼の目は―――笑っていなかった。