太陽と魔法のしずく 第8章 ファンガールズ

第8章 ファンガールズ


 六月の末―――コラリオン離宮の上には、この時期にありがちな低い雲が垂れこめ、小雨の降る蒸し暑い天気だった。

 そんな不快指数の高い日だというのに……

「でーすからいったい何がお気に召さなくて、アルクス様はわたくしをお召しにならないのでございますか? もし何か至らぬところがございましたら、はっきりとおっしゃって下さいませんか?」

 チャイカの前ではさっきからずっと、このコレット姫がキンキンわめき続けている。

《ああ、はやく夏が来るとよろしいのに……》

 離宮は南の大海に面した丘の上で、眼下には真っ白な砂浜が広がっている。チャイカはそこで海水浴ができることを心待ちにしていた。

《アルクス様も海はお好きだとおっしゃってましたから……》

 そんなチャイカのようすに、姫はますます激高する。

「チャイカ殿? 私の話を聞いておられますか?」

「はい。もちろんでございます」

 チャイカはそう答えて丁寧にお辞儀をするが―――というか、もう同じことを十回は聞かされている。

「でしたらご存じでしょう? アルクス様は私のどこがそれほどお気に入られないのでしょうか?」

 チャイカは目を伏せて困惑した。

 なぜなら彼女はアルクスが姫を召し出さない理由をよく知っていたからだ。

《でもそんなこと、面と向かっては申せませんし……本当にどう致しましょうか……》

 彼女はサルトス王家の血も引いている、まさに高貴な姫なのだ。そんな相手にアルクス曰く、アソコの具合が良くないからだ―――などと口が裂けても言えるわけがない。

「決して姫様をお気に入られないというのではございません。ただこの後宮には他の姫君も多々おられますれば……」

 チャイカは精一杯言いつくろおうとするが……

「でしたらコルチェなどを何度もお召しになっているのはいったいどうしてなのでしょう? そもそもあの者はただの端女ではございませんか!」

 そうなのだ。せめて他の姫が相手だったのなら、彼女ももう少しあきらめがついただろうに……

「どうかお気をお鎮めになって下さいまし。私とてアルクス様のおそばにお仕えしておりまするが、あのお方が何をお考えになっておられるのか、分からないことも多いのでございます」

 侍女などに手を付けるのなら、もう少しコソコソやって欲しいのだが……

「それをそれとなく聞き出すのがあなたのお役目でしょうが!」

「それに関しますれば、私も努力しておりますが、何と申しましてもアルクス様でございますし……」

「本当に努力なされておられるのですか? その場をごまかそうと適当な事をおっしゃっているのではありませんか?」

 チャイカは辟易した。

 彼女がアルクスの身辺の世話役を任されてしまった以上、高貴な姫といえどもアルクスに何か言いたければチャイカを通さねばならないのだ。なのに自分はしがない奴隷の身なのである。普通ならそういった役割は高官の娘とか、もう少しちゃんとした身分の者を起用するものなのだが……

 チャイカがそんな風に困り果てていたときだった。

「あの、コレット姫様? こちらでしたか」

 入ってきたのは、地味な風体の侍女だ。彼女がそのコルチェなのだが―――その姿を見て姫がまたむっと額に皺を寄せる。

「何の用?」

 侍女はおどおどと答える。

「あの、ポルフィラ様がお呼びなのですが……」

 その名を聞いて姫は押し黙った。ポルフィラとは国王の寵愛の厚い後宮の御局(おつぼね)なので、そのお召しを無下にするわけにはいかないのだ。

「……わかりました。それではよろしくお願いしますよ!」

「承知致しました」

 姫はつんとふり返って、そのまま行ってしまった。

 姫と侍女の姿が消えるのを見送ると、チャイカはふうっとため息をついて近くのクッションに座りこんだ。

「くくっ。大変だったねえ」

 ふり返ると屏風のかげからまだ若い少年―――アルクス王子が顔を出している。

「アルクス様? いらっしゃったのでございますか?」

「うん。暇だったし」

「どうしてまたこのようなところに?」

 この時間はたいてい彼は別室でお楽しみのはずなのだが……

「あれ? せっかくうるさいのを追い払ってあげたのに、感謝もしてくれないのかな?」

 チャイカは慌てて首を振った。

「いえ、そのような……でもアルクス様はコレガとご一緒だったのでは? もしかしてあの娘が何か粗相でも?」

「いやいや、すごくよかったんだけど、なんていうか、敏感すぎじゃない? 一人でのびちゃってさあ」

「それは、ご無礼を致しました……あの娘はまだ未熟でありますゆえ……」

「いや、次回からはこっちも注意して扱うさ。だからさ……」

 アルクスはにやっと笑ってチャイカの横に座ると、袖口から手を差しこんで彼女の胸をまさぐりはじめた。

「まあ、アルクス様、私めは汗をかいております。身を清めてまいりますから……」

「いや、ちょっとくらい汗臭い方が、君はいいから」

 彼女の乳首がつままれて、背筋にびんと電気のような快感が走る。

「そんな……どうしていちいち私めなんぞを……かように多くの麗しい姫君がいらっしゃいますのに……」

「ふふっ。なに言ってるんだ? 君だってよく分かってるだろ? 僕は美食家なんだよ? 料理っていうのはどんなに器や盛りつけがきれいでも、結局は美味しくなくっちゃね」

 アルクスはチャイカの両の乳房を若さに似合わぬ老練な手つきで揉みしだく。チャイカは喘ぎそうになるのを我慢して尋ねた。

「あの……コレット様はそんなにダメでございましたか?」

「ま、そうだね。どこの姫ってのもそうなんだけど、要するに雑念が多すぎてさ。だからコルチェちゃんみたいなのがずーっと純粋に美味しいんだよ」

 アルクスはちょっと愛撫の手を止めると、ぺろっと舌なめずりした。

「でもそういうことならば、私めが教育してさしあげることもできるのでございますが……」

「でもそれってマンツーマンでつきっきりになるんだろ?」

「あのようなお方をきちんと教育いたそうとすればそうなりますが……」

「だったら、君の生徒はもうすぐ来る予定じゃないか」

 生徒!―――確かに前々よりアルクスには彼女を任せると命じられていたが……

「でも……そのお方の具合はだいじょうぶなのでしょうか?」

 予定よりももう一月近く到着が遅れているのだが……

「本当に悪ければそう報告が来るだろ?」

 アルクスはまったく気にしていない風だ。

「承知致しました……」

 彼がそう言うのならしかたない。チャイカがうなずくと、アルクスは慣れた手つきでチャイカの服の止め紐をほどいて豊かな両胸をむき出しにした。

 それからチャイカの胸に頬ずりをして、乳首を軽く口に含んで舌先で転がしはじめる。

「あんっ!」

 もう声が出てしまうのを抑えられない。ここで心配していてもしかたがないから、チャイカはアルクスに身をまかせた。

 やがて彼の指が下履きの中にすべり込んでいき、敏感な部分に指を這わせはじめる。

「あ…あ……」

 それだけで軽く逝ってしまいそうになる。もうこうなったら……

「アルクスさま……この端女をどうか……」

 彼女も本気になって彼を受け入れようとしたときだった。


「アルクス殿下はこちらでしょうか?」


 表から侍女の声がした。

「あん?」

 顔を上げると開きっぱなしの入り口から侍女が中をのぞき込んでいる。そこからは二人が何をしているのか丸見えだ。しかし彼女はそういうことは全く気にせずに、少し目を伏せただけで報告を続ける。

「バシリカより火急の使者が参っておりますが……」

「火急? 火急って、いったいなんだい?」

 いいところを邪魔されて、アルクスはあからさまに不機嫌な声だ。

「それが、メルファラ大皇后様に関してのご報告なのです」

「あ、そうか! 来る日が決まったんだね?」

 アルクスの声が明るくなるが、侍女が黙って首を振る。

「ん? どうした」

「それが……なんでも大皇后様の体調不良というのは、アキーラ大守の真っ赤な嘘だったそうで……」

 それを聞いて思わずチャイカの乳房を掴む手にぎゅっと力がこもる。

「痛っ!」

 チャイカの悲鳴にアルクスがあわてて力を緩めた。

「それで?」

「本当は逃げだして、レイモン国内を荒らし回っているそうなのですが……」

「はあ?」

 アルクスが侍女をぎろっとにらむ。

「あの、それで使者の方をお通してよろしいでしょうか?」

「ああ」

 アルクスがうなずくと侍女は下がり、すぐにバシリカからの使者が入ってきた。

 だが侍女と異なり、男はアルクスとチャイカの状況を見るなり目を見張った。

 何しろチャイカは半裸の姿でアルクスの膝の上に抱かれており、少年の手は彼女の胸や下履きの中に伸びていて、今でもその指はリズミカルに彼女を愛撫し続けているのだ。

「あの、アルクス様?」

「なんだい?」

「使者の方がいらっしゃってますが……」

「だから?」

 離宮内の侍女などならともかく、相手は公式の使者だ。さすがにまずいのではと思ったのだが、アルクスはまったく動じていない。

 そんなやりとりを使者は目を丸くして見つめている。

 そこでチャイカは言った。

「ああ、申しわけございません。私めのことはどうかお気になさりませぬよう、ご報告をお続け下さいませ」

「は、はあ……」

 とはいえ、使者はまだ若い男で、まさに目のやり場に困っている。

 そんな彼にアルクスが冷たい声で尋ねた。

「で、いまの話は本当なのかい?」

 使者は慌てて姿勢を正すと、報告をはじめる。

「はい。大皇后様の到着があまりにも遅いので、ジュノス様がアキーラに問い合わせましたところ、大皇后様はご病気だとの答えだったのですが、実際のところはルンゴの村にて逃亡し、その後レイモン国内で様々な破壊工作をなさっているとのよし。グスタール様は内々に処理しようと事実を伏せていたことが判明いたしましたので、このように報告に上がった次第です」

「なんで破壊工作なんかしてるのさ?」

「それは多分、逃亡のための囮かと。グスタール様はシルヴェストの工作部隊が入りこんだなどとも申しておりますが……」

「ふーん。わかった。それで?」

 その問いに使者はあからさまに困惑した。

「それで、といいますと?」

「それでどうしたの?」

「いえ、ですから私どもにはグスタール様を処分する権限はございませんから、こうして報告にあがったのですが……」

 だがアルクスはわざとらしく首をかしげる。

「処分? どうして?」

「え?」

 使者は問い返されて絶句する。

 間違いなく彼はここでアルクスがグスタールに対して激怒すると思っていた。確かに普通ならそうなるところなのだが……

「ってか、処分とかの前に、まずやることって決まってるだろ? 彼女を僕の前にとっとと連れてくることじゃないか。君たちのところの全軍を差しむければ足りるだろ? 足りなきゃシフラの父上にも相談すれば?」

 そう言ってチャイカの乳首をくりっと愛撫する。すでにできあがりつつあったチャイカは、声が出そうになるのを危うくこらえた。

 アルクスはそんな彼女をおもしろそうに見つめ、それから使者を上目遣いでじろっとにらむ。

 使者は慌ててうなずいた。

「は、もちろん……承知致しました……」

「それと彼も一緒にね」

「彼?」

「出迎え役のル・ウーダ・フィナルフィンだよ。これってまさに彼の不始末だよね?」

「しかし、ル・ウーダ様はお亡くなりになられたとか……」

 それを聞いたチャイカは思わずびくっと身震いした。

 それに気づいたアルクスが彼女をぎゅっと抱きしめると、男に尋ねた。

「へえ? 死んだって君、死体を見たの?」

「いえ、私は……」

「じゃあ、うわさ話じゃなくって、死んだっていう証拠をもってきなよ。じゃなきゃ生きた彼をね」

「……承知しました」

 使者は予想外の展開に頭がついてきていないようで、そのまま言葉もなくそこに突っ立っている。そんな彼にまたアルクスが冷たく尋ねる。

「んで、まだ何かほかにあるの?」

「いえ……」

 アルクスがぎろっと彼をにらむと、使者は慌てて部屋を去っていった。

 その後ろ姿を見送ると、アルクスはにやっと笑ってまたチャイカの体を弄びはじめる。

「さて、続きをしよっか」

「えっとその、アルクス様?」

「なんだい?」

「いまの話、本当なのでしょうか?」

 それを聞いてアルクスはおもしろそうにチャイカを見つめる。

「本当も何も、フィン君はそうするつもりだったんだろ?」

 チャイカは目を伏せてうなずいた。

「そのように承っておりましたが……」

「だったら計画どおりってことじゃないの? もちろん死んだなんてのは嘘っぱちでさ」

「しかしそれならどうして破壊工作などを?」

 チャイカが知っているかぎりでは、フィンはそんなことは言っていなかったし、そのような準備もしていなかったはずなのだが……

「さあ、逃げるに逃げられなくなってじたばたしてるんじゃないの?」

「それならばよろしいのですが……」

 チャイカはどうも不穏な気分になっていた。あのフィナルフィンというのは、なにやら土壇場で思いもつかないことをやってのける男だ。だからこそ彼女が―――マスターになってほしかったのだが……


「なに? 僕が死んでた方がよかったのかい?」


 その声音にチャイカは心臓がどきりとする。思わずふり返ると、彼女を抱きしめて微笑んでいるフィナルフィンの姿があった。

「はわっ!」

 体がいきなりかっと燃え上がってくるが―――同時にアルクスの能力のことを思い出す。

「あの、アルクス様……」

 チャイカが目を伏せて呼びかけると、その姿が元のアルクスに戻る。

「あれえ? どうしていつもこうしてあげたら五割増しくらいで燃えちゃうんだい? ご主人様を差し置いてさあ」

 ニヤニヤ笑うアルクスにチャイカは答える。

「申しわけございません。私めは卑しい女でございますから……」

 とはいいつつ、燃えさかった炎はもう消せそうにない。

「ふふっ。あっという間に準備ができちゃったね」

 アルクスがチャイカの秘所をまさぐった指を差しだすと、とろっと愛液が糸を引く。

「あ、アルクス様……」

「いいって。別に気にしてないし。それに君はよくしてくれてるから……」

 アルクスは自分の猛ったモノを剥き出すと……

「ご褒美だよ!」

 と、後ろから一気にチャイカを刺し貫いた。

「あああああっ!」

 体の中で蠢く肉の快楽にもう抗えず、彼女の喉からは獣のような喘ぎがもれ始める。

 そんなチャイカを味わいながら、耳元でアルクスはささやいた。

「そのうち本物にもじっくりこうしてもらえるようになるよ」

 本物⁈

 そう聞いた瞬間、体がますます火照ってくる。

《本当にそんなことに?》

 確かにそうなったのなら嬉しいのだが―――彼女は悦楽に悶えつつも、なにか釈然としていなかった。



 アキーラ市の郊外には長い馬車の列ができている。

 その中の一台、野菜や果物を満載した馬車の上で、メイ一行は暇をもてあましていた。

「あっはっはっはっは。あのときのアリオール様の顔、怖かったですねえ」

 退屈しのぎの会話は、いつしか例の地下室での邂逅の話になっていた。

「そりゃ見てみたかったわあ」

 そう答えたのは三十歳前後の、色気たっぷりの“お姉様”である。

 彼女はアイオラ。かつてはドゥーレンの秘密組織の一員で、今ではシルヴェスト・レイモン合同諜報機関の中心的人物となっている女性である。

「アリオール様ってわりと冗談の通じない方なんですか?」

 尋ねたのはリサーンだ。

「そうでもないと思うんだけど……ちょっと今回のは度を超してるんじゃないの?」

「ま、そうですよね」

 横でハフラがうなずく。

 ―――この四人が荷馬車上で退屈していた理由は、彼女たちがこれからアキーラに行ってアイオラの経営する酒場で働くことになっていたからだ。

 もちろんそれは表向きの話。真の任務は近々行われる“アキーラ奪回作戦”の事前工作を行うためである。

 アキーラはかつてのレイモン王国の都である。彼らの蜂起における最終目的がこの街の奪回になるのは必然だった。

 だが以前に襲ったディロス駐屯地のような小さな砦とは違って、ここは比較的小規模だったとはいえ、城壁に囲まれた都市なのだ。

 しかし今の彼らに悠長に攻城戦を行っている余裕はない。従ってある程度十分な人数が集まった時点で、一気に攻め落とさなければならなかった。

 そのため少人数の部隊が内部に潜入して、内側から城門を開けてそこから本隊が突入するという手はずになっていた。

 外壁を登ることに関してはファシアーナやニフレディル、それにアラーニャがいるので難しくはないが、彼女たちでも一度にそう多人数は上げられない。そのため侵入地点の安全が確保できなければならないわけだが、さすがにアキーラでは城壁上の見張りも立っていた。

 そこでまずその見張りをどうにかする必要があった。

 ―――ところがその見張りというのにはアロザール兵だけではなく、地元の消防団員もたくさん混じっていたのである。

 城壁の上からは市内で起こった火事を見つけやすい。しかもつい最近までアキーラが攻められるということはほとんど想定されていなかった。そのため城壁の見張り台は長年ずっと消防団の管理下にあったのである。

 そして男たちが動けなくなったいま、消防団員は現地の女性で編成されていた。すなわち彼女たちに頼めば確実に協力が見込めたのだ。

 それ以外にも市内の人に協力してもらえたら効果のあることは多々あった。そこで作戦にどのように携わってもらうか説明してまわる必要が出てきたわけである。

 だがもちろんそれを男が行うわけにはいかない。また説明役は単にメッセージを伝えるだけではなく、どのような作戦が行われるかきっちり理解していなければならない。

 なぜなら状況に応じては計画を微修正する必要も出てくるわけだが、そんな判断をいちいち中央に伺っているわけにはいかないのだ。

 そこで白羽の矢が立ったのが、メイとハフラ、リサーンだった―――というより、彼女たちが一緒になってこの作戦を立案したのだ。何しろこれまでも何度となく実戦をこなしており、特に魔導師との共同作戦という意味では彼女たちが現在最高のエキスパートだったのだから。

 そんなわけだったのだが……

「……にしても、遅っいわよねえ」

 リサーンがぶつぶつこぼしている。

 アキーラの城門では検問が行われていたのだが、なにやらそれがやたらに非効率で、そのため門外にはこのような荷馬車の列ができているのだ。

「何やってるのかしら?」

 数台前の馬車で何やら揉めているようで、人だかりができている。

「あー、ちょっと見て来ましょうか?」

 メイがそう言うとアイオラもうなずいた。

「そうね。じゃ、あたしも一緒に行くわ。これお願い」

 彼女はリサーンに手綱を託して、二人は馬車を降りた。

 近づくと兵士が馬車の荷を開けて何やらわめいている。

「だからこれは何だというのだ!」

 荷を運んでいた女が膝をついて懇願している。

「すみません。分からないんです。運んでくれって頼まれただけで」

「知らない物を運んでいるのか?」

「ですから引っ越し荷物なんです。箱の中までいちいち見ませんって」

 二人は人だかりをかき分けて前に出た。

「どうしたんですか?」

 アイオラが野次馬の一人に尋ねると、彼女が荷馬車を指さす。

「何か怪しい装置が乗せられてるんだって」

「怪しい装置?」

 彼女が指さした箱には木組みの枠のような部品が詰めこまれていた。

「本当だわ。何なのかしら?」

 それを見てアイオラも首をかしげるが……

《は?》

 ところがメイには一目でその正体が分かってしまった。

「あのー? それって機織り機じゃないですか?」

 思わず反射的にメイは答えていた。

 ベラでエルミーラ王女とともに各地を巡幸した際、因縁の深いフラン地方には何度も行っていたのだが、そこでフラン織りの工房を何度も見学していた。あそこの織機とは少し形式が違うようだが、どう見たってこれは織機である。

「機織り機?」

 あたりの人々がふり返る。

 注目をあびてしまってメイは少し慌てた。

「え? ほら、その部品に縦糸を巻いて、交互に上下させるんです。それからそのシャトルで横糸を通して、そのリードで押し込んでこう、ぴちっとさせて……」

 と、身振り手振りも交えて説明すると、それを見ていた検問の兵士が尋ねた。

「ああ? 本当か?」

「本当ですよ。こっちじゃ機を織らないんですか?」

 メイの問いにアイオラが答える。

「あー、まあこっちじゃ機織りは盛んじゃないから。知らない人も多いんじゃない?」

「それでどうしてお前はそんなことを知っている?」

 そう問われてメイは少し慌てた。

「いえ、知り合いに機織りする人がいて」

「どこの知り合いだ?」

 げ! 何かヤバい感じではないか?

 メイがちょっと焦ってきたときだ。アイオラがその兵士の顔をのぞき込むと、甘ったるい声で言ったのだ。

「あらぁ もしかしてこのあいだいらっしゃった方?」

 兵士がアイオラの顔を見つめる。

「なんだ? ポプラ亭のおばちゃんじゃないか」

 ポプラ亭というのはこれからメイ達が向かおうとしている酒場の名前だが……

「お・ば・ちゃ・ん?」

 アイオラはすごい形相で男をにらみつけた。

「いや、姉ちゃんだよな。あはは」

 兵士は慌てて手を振って愛想笑いを浮かべる。

 ありゃ心の中で姐ちゃんって言ってるぞと思ったが……

「で、この子ってあたしの連れなんですけどぉ

 兵士はメイとアイオラの顔を見比べて首をかしげた。

「あん? あんたの? 娘にしちゃ大きすぎるようだが?」

 再びむっとした顔でアイオラが男をにらむ。

「違うわよっ! 仕入れに行ったら行くところがないって泣いてたから、連れてきてあげたのよ!『バシリカで両親ともに死んじゃったの……』と・か・で‼」

 最後の句に思いっきり力を込めて彼女が詰めよると、兵士はばつが悪そうに目を逸らした。

 アロザール兵といえども全員がゲスなわけではなく、バシリカやアキーラでの仲間の蛮行に心を痛めている者も多かった。この男はそういったタイプだったようだ。

「だったらこの子が機織りのこと知ってたのも分かったでしょ?」

「え? ああ、まあな」

 バシリカ周辺の旧ウィルガ領は様々な織物の産地としても有名だった。

「じゃあこの人の疑いは晴れたってことでいいのね?」

 アイオラが機織り機を運んでいた女を指さして尋ねる。兵士はばつが悪そうにうなずいた。

「ああ、分かったよ。行っていい」

「ありがとうございます。ありがとうございます!」

 女はぺこぺことお辞儀をしながら、馬車を出していった。

 それから検問はスムーズに動き出し、ほどなくメイ一行も市内に入ることができたのだが……

「何かすごく適当よねえ」

 リサーンが御者台から後ろをふり返ってつぶやく。

「ですよねえ……」

 メイもまったく同感だ。

 正直この検問はデタラメとしかいいようがない。

 それというのも、元々アキーラでは攻められるようなことをまったく想定していなかったので、市内の出入りは自由だったためだ。そのため通行証のようなものもなかった。

 そのようなところに“大皇后の女戦士たち(ベラトリキス)”が暴れはじめて、やっと検問がはじまったわけだが、相手は彼女たちの正体をまったく知らないのだ。従ってその指示は「怪しそうな者は通すな」といったアバウトな物にならざるを得ないわけだが……

「でも怪しい奴を捕まえろって、どんな基準で怪しいって言うのかしら?」

 ハフラの言うとおり、ここを通っていくのは地元の女ばかりなのだ。そんな彼女たちが派手な武装をしているようなことはなく、馬車に積んでいる物も食料品や日用雑貨、それにときどき引っ越し荷物といった調子だ。

 確かに荷馬車の中に兵士を隠して云々ということは考えられるが―――そうやって一生懸命に野菜籠などをひっくり返している兵士達を見ると、まさにご苦労様という感想しか出てこない。そんなことするわけないことはメイ達には分かりきっていたからだ。

「怪しい奴ねえ……」

 リサーンが首をかしげて考えこむと言った。

「たとえば、都とか東方訛りの人とかがいれば怪しいんじゃない?」

 それを聞いたアイオラがメイに言う。

「そりゃそうね……でも、メイちゃんってこっちの言葉、上手よねえ?」

「あはは。前に一度それでひどい目にあってまして」

 あのときに東方訛りで正体がばれてしまったことは、まさに苦い思い出なのだ。

 それでメイはこちらに来てからというもの、地元の訛りを一生懸命にマスターしていた。またハフラとリサーンはもっとひどい西方訛りだ。従って訛りでばれる心配はないといっていい。

「あとは……すごい美女だったらとか?」

 ルンゴで姿を現した大皇后の噂は、今やレイモン全土に広まっていた。その彼女が絶世の美女だというのは事実だが、なぜかその取り巻きまでとびきりの美女揃いということになっていたのである。

 おかげで検問でも美人はしつこく問いつめられたりしていたのだが―――エルセティア流のブスメイクによって、彼女たちはまさに安全なのであった。

《ちゃんとしてたら二人とももっと見栄えがするのに……》

 リサーンはきりっとしていたら意外に美人顔だし、ハフラも派手ではないが笑うと何というか母性的な感じで、何よりも胸が―――ぐぬぬ。

 メイの場合はみんながカワイイとは言ってくれるのだが……

《どう見てもあれって愛玩動物を見る目よね? ぶつぶつ……》

 などと勝手にやさぐれていると……

「ぷはーっ!」

 いきなりハフラが吹きだした。

「どうしたのよ?」

「いや、あのドレス着たアリオール様なら絶対止められてたかなって思って」

 それを聞いた全員が爆笑した。

「あれは傑作だったわねえ」

 アイオラがうなずいた。

「エッタちゃんもルルーもノリノリだったし」

「そうそう。本当にアリオール様のドレス作っていいんですか? なんて目が輝いてましたねえ」

「アリオール様はいつか絶対殺す、みたいな顔でフィーネさんにらんでたけど……」

 四人はまた顔を見合わせて爆笑した。

 というのはこの時期にはもうかなりの数の兵士が復帰していて、すでに各地で様々な攪乱工作をはじめていたのだ。

 おかげで本物の女戦士が前線に出る機会はずいぶん減って楽になっていたのだが―――ここで重要なのが、呪いが解けつつあるということは最重要機密であって、男が動けるところを決して見られてはならないということだった。

 ―――要するに各地で工作している兵士達は、みんな女の格好をした“女装兵”だったのである。

「ドレスアップしたアリオール様とかラルゴさんの軍団が来たら、そりゃ怖いわ」

 あはははは。

 一度メイ達もそんな兵士の部隊を見せてもらったことがあったが……

《いやあ、壮観だったですよねえ……》

 一応小柄な人たちを選んでいるとは言っていたが……

 だがそういう格好でも、アリオールというのはまさに将軍だった。

「アリオール様って結構かっこいいですよねえ……」

 それを思いだしてメイが思わずそうつぶやいたのだが……

「あらぁ? メイちゃんも彼みたいなのが好み?」

 アイオラがニヤニヤしながら尋ねてくる。

「いえ、それは違いますって。ちょっと大きすぎるし」

 以前ならいきなりこんなことを問われたら、思わずあの“リ”のつく奴の記憶がフラッシュバックして挙動不審になっていたのだが、さすがに最近は余裕で受け流せるようになっていた。

 のだが―――そこにリサーンが突っこむ。

「ってか、そんなこと言ってたら、あなたと身長の合う男なんていないじゃない?」

 メイはむっとした顔でリサーンをにらむ。

「いーじゃないですか。だって本当におっきい人は苦手なんだし。そんな意味じゃなくって、アリオール様の、威厳があって堂々としてるってところがカッコいいんじゃないかな? ってことですけど?」

「まあ、そりゃそうよねえ。じゃなきゃ一緒に働く気になんかならないもの

 アイオラは何やら顔を赤らめているが……

「アイオラさんこそ、アリオール様みたいなのがお好みなんじゃ?」

 メイはそう逆襲したつもりであったが……

「そりゃそうでしょ

 アイオラはあっけらかんとしている。

「ヴォランさんがいるのに?」

「あれはあれ、これはこれなのよ

 リサーンの突っ込みにも彼女は堂々としたものだ。

 あはは。なんというか、こういうのも清々しくていいかもしれないが……

「でも、アリオール様ってリエカさん一筋ですよね?」

 ハフラのその言葉はアイオラをうちのめした。

「そーなのよ。本当に……でもそれこそ体じゃかなわないし……」

 どよーんと曇ってしまったアイオラにメイは、だからヴォランがいるからそこまで悩むことはないのでは? と言いたかったが、まあ気持ちは分からないでもない。

 あれから彼女たちはアリオールの隠れ屋敷で共に生活していたのだが、そうすればお風呂などでリエカと一緒になるような機会も出てくるわけだが……

《ありゃあ、クリスティさんとタメ張れるわよねえ……》

 かつて都で仲良くなったバーボ・レアルのプリマ、クリスティは、ヴィニエーラ時代のリエカ―――エステアの先輩であったが、あのファシアーナ屋敷の露天風呂の光景は今でもまぶたに焼きついている。

 アーシャやマウーナ、それにメルファラ大皇后などのお身体も大変すばらしいのであるが、彼女たちはいわゆる天然品。それに対してあの身体は、まさにそのために作り上げられた芸術品ともいうべき代物だった。

 リエカさんの体はメイの目から見ても、それに勝るとも劣らないすばらしさなのだ。本当に心の底から顔の傷が残念だとしかいいようがない。

「でもリエカさんもおもしろい方ですよね?」

「そうそう。アウラ様やフィーネさんへの態度とか、もうおもしろすぎて」

 ハフラ、リサーンがそう言うと、アイオラは大きくうなずいて答える。

「まったく……リエカちゃんがあんな子だったとか、こうなって初めて知ったけど、意外だったわねえ……」

「前はどうだったんですか?」

「いや、本当にまじめで控えめな子だなという印象しか」

 聞いた話ではドゥーレンの組織に彼女が入りこんでいて、彼女の裏切りによって組織は潰されてしまったのだという。

 だから彼女と共に働くということはアイオラにとっては相当に心穏やかでなかったのだが、リエカの顔を焼いたのが元はドゥーレンの仲間だったネイードという男で、死にかかっていた彼女をアリオールが助けたそうなのだ。

 そこで実際に何が起こったのかは両者とも黙して語らないので分からないが―――そんなことを聞かされては同情せざるを得ないだろう。

 それにリエカの方も喜んで裏切ったわけではなかった。ドゥーレン工房の生活は彼女にとってもたいへん楽しかったらしい。

《ま、ともかく仲良くできるのが一番よね!》

 その点に関してはアルエッタとまったく同意見である。

 ―――そんなことをお喋りしているうちに、荷馬車はアキーラの中央広場にさしかかった。

 今日は市の立つ日で、広場は一面の露店や買い物客などでごった返している。

「うわ……すごい人出……」

 その光景を見てハフラとリサーンが目を丸くした。

 それを見てアイオラが不思議そうに尋ねる。

「あら、あなた方、来るときにバシリカを通らなかったの?」

「いえ、そこはスルーしてきたので。カルネ村から直接クォイオに向かったんです」

 ハフラの答えにアイオラはうなずいた。

「ああ、そうだったの。街も市場もあっちの方がずっと大きいんだけど……ただ、今はそうね……」

 彼女が暗い顔になる。

「アイオラさんはあちらのご出身でしたっけ?」

「まあ、草原の小さな村だったけど……小さいころに戦争で焼かれて、それでメラ姉ちゃんに拾われて……」

「あ、そういえばウィルガの大地、でしたっけ?」

 メイが尋ねると、アイオラはうなずいた。

「そう。だからバシリカには思い入れあってねえ……でもドゥーレンほどじゃないと思うけど。あの人、バシリカ生まれだから」

「そうだったんですか……」

 レイモン国内でシルヴェストの諜報工作をしていたドゥーレンの一派は、元々“ウィルガの大地”という反政府組織だった。彼らは滅びたウィルガ王国の再興を掲げて戦っていたが、結局は夢破れて崩壊、離散していた。その主要メンバーがアラン王に見いだされて、それ以来ずっとレイモン国内で諜報活動を行っていたという。

《生れ故郷があんなになったんじゃ……》

 草原の古都バシリカは、先年のアロザールの侵攻を受けて炎上していた。メイもまだ実際に見たわけではないのだが、その報告を読んだだけでどれほど酷いことになっているかありありと想像できた。

「じゃなきゃ、アリオールに手を貸そうなんて思わなかったでしょうね。あの人、骨の髄からレイモンを憎んでたから」

「そうなんですか……」

 ドゥーレンというのは一見はやさしそうな初老のおじさんなのだが、ときどきその眼差しに鋭い光が宿ることにメイは気づいていた。

《うーむ。なんというか、かなり呉越同舟みたいな状況なんですねえ……》

 彼らがこのアイオラを中心にしっかりした組織を構築してくれていたおかげで、今度のアキーラ奪回作戦はすらすらと計画できていた。

《なんかあっという間って感じだったけど……》

 正直ルンゴの処刑のときには、もうどうにでもなーれという気持ちだったのだが、アリオール達に接触できてからというもの、あれよあれよという間に物事が進んでいったのだ。

 そしてメイ達が今日アキーラに来ているのは、もはや最後の仕上げというべきものなのだ。

 ―――要するにアロザールがもっと穏やかな攻め方をしていたら、ドゥーレンとアリオールが協力するなどということもなく、中原の解放ももっと難航していたかもしれなかった。

《要するに因果応報、自業自得ってことよねっ!》

 人を呪わば穴二つなのである。

 それからメイは作戦の内容を反芻する。

《ともかく侵入ポイントと経路よね……》

 今度の作戦はまさにスピードが命だった。そのため移動経路などは綿密に計画されていたが、そこの最終確認なども任されているのだ。

 メイは周囲を見回す。アキーラの地図は何度も見てだいたいのところは把握しているはずだが、やはり実際に見てみないと分からないことも多い。

 そんな風に彼女がきょろきょろしていたときだ。


 がたーん!


 そんな音とともに、馬車の前にころころといくつかオレンジ色の果物が転がってきたのである。

「あん?」

 リサーンが慌てて馬車を止める。

 見ると果物を売っている露店にアロザール兵が二人絡んでいる。兵士が台を蹴っ飛ばしたせいで、商品の果物が路上に散乱していたのだ。

「このガキが! 腐ったもんなんか売ろうとしやがって!」

「ですから、お取り替えしますぅ!」

「ざけんな! それで済むと思ってるのか?」

 ―――そんな会話が聞こえてくる。

 メイはちらっとアイオラの顔を見るが、彼女は黙って首をふる。

 確かにこういう光景は日常茶飯事であった。

 彼女たちが活動していた間も、各地で村の人々が同じような目にあっていたのを目撃している。そんな場合にいきなり割って入るのがまずいということもよく分かっていた。

 だが―――いま兵士達が絡んでいる相手は、年端もいかない少女だった。

「えっと……どうします?」

 ハフラもふり返ってアイオラを見る。

 アイオラの目にも怒りが満ちていたが―――やはり彼女は悔しそうに首を振る。

 メイには彼女の気持ちが痛いほど分かった。何しろ今は隠密行動の真っ最中なのだ。目立つ行動は極力避けなければならない。ならないのだが……

「きゃああぁぁぁぁ!」

 兵士の一人がその少女を殴り倒したのだ。軽い少女は簡単に吹っ飛ばされて近くの露店に突っこんでいく。

 それを見た瞬間、メイは頭が真っ白になった。

《あ・ん・な・小さな子供を……》

 メイにとってはまさに他人ごとではない。

 その気持ちはみんな同じだった―――いきなり御者台のリサーンが立ちあがると……


「おいこらぁ! そこの薄のろっ!」


 その叫び声にあたりの視線がリサーンに集まった。

《うわっ! ちょっと……》

 メイは彼女を止めようと思ったのだが……

「ちっちゃな子供をグーで殴るとか? あんた、まさに人間のクズよねっ!」

「なんだとぉ?」

 兵士が激高してリサーンをにらみつける。

《うわっ。これって……》

 こういう場合どうすれば? などと考えている間もなく、リサーンは畳みかける。

「だいたい何? 果物が腐ってたって? 交換してくれたんでしょ?」

 そう言ってリサーンが殴られた少女を見ると、彼女は弱々しくうなずいた。

「だったらいいじゃないのよっ!」

「なんだとぉ?」

「お金払ってあげて、とっとと消えなさいよ! 子供いじめてたことは黙っててあげるから」

「なんだとぉ?」

「それともミカンを買うお金もないの? それってただのドロボーでしょ? 給料ももらえないノロマなの?」

「なんだとぉ?」

 その男はかなりボキャブラリが貧困なようだ。

「あたしもねえ、わりと男って好きな方なんだけど。でも……あんたみたいなゴミだけは相手にしないからねっ!」

 そう言ってリサーンは男をびしりと指さしたのだが―――今の彼女はまさに冴えない田舎の不細工な娘だ。あたりから失笑がもれる。

 そこまで言われて男は完全にキレた。

「このアマがぁ……」

 男はつかつかと歩み寄ってくるとリサーンを馬車から引きずり下ろした。

「なにするのよ! こいつ!」

「こ・の・ブスが!」

 そう叫んで男がリサーンに殴りかかろうとしたときだ。


 げしっ!


 脳天に棍棒が打ち下ろされて、男はそのまま前のめりに気絶した。

「ありがとっ!」

 リサーンがハフラに親指を立てる。馬車の上からハフラがにやっと笑った。

 殴ったのはもちろん助手席にいた彼女だ。

《こういうところの息は滅茶苦茶合ってるのよねえ、この二人……》

 荷馬車にはぬかるみにハマったときやこんな場合のため、丈夫な棒きれが常備してあった。後ろに乗っていたメイからは、リサーンが因縁をつけはじめたときからハフラが準備を始めていたのがよく見えていた。

 だがしかし……

「お・ま・え・ら……」

 敵は二人いた。

 今度の奴はさらに激高して、剣に手をかけて走り寄ってくる。

《うわ、ヤバっ!》

 本来なら即座に離脱というのがセオリーだが―――まだリサーンが馬車に乗りこもうとしている最中だ。ならばしかたがない。

 メイは懐から必殺の特製胡椒玉を取りだすと、男の顔に投げつけた。


「ぐわあああぁぁぁぁっ!」


 男が思わず顔をかきむしるが、そんなことをしたらもっとひどくなるぞ?

「このガキがあっ!」

 男は盲滅法にこっちに飛び込んでくる素振りをみせた。と、そのときだ。


 べしゃっ!


 男の顔にトマトがぶつかって派手に潰れた。

「ぬがぁぁぁぁ!」

 見ると投げたのはアイオラだ。

 一瞬あたりに沈黙が訪れ―――今度は四方八方から果物や卵や生肉やらが飛んできて、男はもう見るも無惨な姿になった。

「やーい。バーカバーカ!」

 それをさらにリサーンが煽る。

「貴様ぁぁぁっ! いったい何者だぁ? まさかお前らがあの大皇后の……」

「はあ⁈ “様”をつけなさいよ! 潰れた芋虫みたいな格好して! そうよ! 決まってるじゃないの! あたしらは大皇后様の……」

 メイから血の気が引いた。ちょっとリサーンは調子に乗りすぎているのではないか?

 もしここで彼女が自分たちの正体を……


「大ファンなのよーっ!」


 あたりから大歓声があがる。

 リサーンはさらに調子に乗ってあちこちに手を振りはじめるが……

「ほら! 座って!」

 ハフラが彼女の脇腹にパンチを打ち込むと、いきなり馬車を発進させた。

「ふぎゃあ!」

 リサーンが勢い余って後ろに座っていたアイオラの上に倒れ込む。

「あ、どうも、ごめんな……」

 リサーンは謝ろうとしたが、額に青筋を立てて頬をひくひくさせているアイオラの顔を見て硬直した。

「あ・ん・た・ねえ……」

 アイオラはいきなりリサーンの額を両拳で挟んでぎりぎり締めあげた。

「うぎゃあああああ!」

 リサーンの断末魔が響きわたる。

《あはははは!》

 ありゃかなり全力のようだが―――いや、彼女が怒るのもしかたがない。なにしろ自分たちは目立ってはいけないのだ。だというのに市場のヒーローになったりしてしまって……

「ごめんなさいっ。本当にごめんなさいぃぃっ!」

 リサーンはマジ泣きの様相だ。そこでやっとアイオラも手を放した。

 御者台のハフラがぼそっと言う。

「まったく……いつかその子はやらかすと思ってましたけど……」

「だってほらぁ、あんな小さい子がいじめられてたんだし……」

 リサーンがこめかみをさすりながらこぼす。

「ま、そうですけど」

 そのことに関してはアイオラも相当腹に据えかねていたのは間違いない。

「結局、正体もばれてないし」

「当たり前です!」

 アイオラがまたぎろっとリサーンをにらむ。

「それにほら、アイオラさんだって投げてましたよね? トマトをいっぱい」

「そりゃ、ああなったら手伝うしかないじゃないの!」

 その表情を見て思わずメイは言った。

「でも、ちょっと気分よかったんじゃないですか?」

 アイオラはメイに拳骨を突き出す。

「あなたも食らいたいわけ?」

「いえいえー!」

 アイオラは大きくため息をつく。

「とにかく危ないことはしないでほしいのよ。本当に命に関わるんだから」

 そうつぶやく表情に暗い影が落ちた。

 メイ達はそれ以上言葉が出せなかった。彼女が端的な事実を述べていることはよく分かっていたからだ。

 そうしてしばらく荷馬車の上は無言だったが……

「あのお店ですか?」

 ハフラの指さした方を見ると“ポプラ亭”と看板が掛かっているのが見える。

 ちょっと小さいようだが、小綺麗な感じだ。

 アイオラがにっこり笑う。

「そうよ。あそこが私の酒場よ」

「うわー。結構良さそうなところですねえ」

「ええ。もちろん。それに楽しいわよ。夜は特にね」

 うむ。メイとしてもまだ故郷の村にレストランを出す夢を諦めたわけではない。従ってこういうところに来ると少々心が躍ってくるのだ。

《よっしゃーっ! それじゃがんばるぞーっ!》

 ともかくこれからが最後の正念場なのだ。それを乗りこえれば―――本当にファラ様の夢を叶えてあげられるかもしれないのだから。