第9章 シェフ殿ご用心!
シーガルからの使者と会見を終えて一人になると、アキーラ大守グスタールはへなへなと床の上にへたりこんだ。
《なんと……首の皮がつながったぞ……》
まさに絶体絶命だった。いったいどんな処分が下されるのか? 命はあるのか? せめて生きてさえいられれば、どういう立場になろうとまだ何とかなる―――まさにもうそんな諦めの境地だったのだ。
ところがどうだ? 単に叱責の言葉だけで、それ以上の処罰は一切なしなのだ。
《どういうことなのだ?》
正直、あのアルクス王子にそんな広い心があるとは思えない。単なる気分でぽんぽん人の首をはねるような奴なのだ。それがどうして今回はこんなに寛大な処置で?
《いや、もうそんなことを考えている場合じゃない!》
そうなのだ。確かに眼前の危機は去ったかもしれないが、状況が好転しているわけではない。
王子の命令は「ともかく大皇后を連れてこい!」ということだ。それができなければ今度こそどのようなことになるかは、火を見るより明らかだ。
だが……
「いったいどうすればいいのだ?」
グスタールは頭をかかえた。
王子は事態の深刻さを過小評価している。それゆえにこのような軽い処分ですんだのだろうが……
《でも、迂闊なことをしたら大皇后は自殺してしまうのだぞ?》
あのルンゴでの出来事は―――最初はフランコが失敗の言い訳をしているのだと思った。
だがその場に居あわせた者は誰もが、大皇后は本気だったと言っている。
そんなバカなことはあり得ないとしたものだが―――もし本当だったなら、下手をうてばそれこそ致命的だ!
さらに鬱陶しいことには、地元の女どもがその言葉を完全に真に受けていることだ。
おかげでただでさえいろいろやりにくいところが、ますますやりにくくなっている。先日も市場でそんな騒ぎがあったとか何とか……
「だからどうしてだっ! まったく意味がわからん!」
白銀の都の大皇后が、どうしてそんなにレイモンなんぞに荷担するのだ?
そこまで輿入れが嫌だというのであれば、どうして最初から断らなかったのだ?
ここまでやってきて急に気が変わったとでもいうのか?
だいたいそんな少人数で国内を荒らしたからといって、結局どうなるというのだ?
確かにそのために少々指揮系統が混乱したりはしたが、依然としてレイモン全土はグスタールの支配下にあるのだ。
それにこれまでは事を隠密裡に運ぼうとしたせいで、探索に人員が投入できなかったが、もうこうなった以上は手勢すべてを探索に向けることができる。
国境封鎖は晴れてバシリカ駐留軍や東方に展開している軍勢に依頼できるし、これなら絶対に居場所を突き止めて包囲することはできるだろう。
だが問題は―――それ以上の手出しができないということなのだ。死なれてしまったら元も子もないのだから……
《いったいどうしてなのだ?》
いつも考えはここでループしてしまう。
「うぬぬぬぬ!」
グスタールは立ちあがると部屋の中をうろうろと歩きはじめた。
そのとき使者を送りにいったフランコが戻ってきた。彼の顔にもほっとした表情が浮かんでいるが……
《それというのも、こいつがあそこで大皇后を捕まえられなかったから……》
確かにその場で捕らえるのは危険だったかもしれないが、せめて跡をつけるとかいったことはできなかったのか?―――などと終わったことを蒸し返してもしかたがない。
そもそもグスタール本人も含めて、ルンゴに本物の大皇后が現れるなどとは誰も信じていなかったのだ。
本物の一行は絶対に北のルートに逃げるはずだった。
フランコを派遣したのは、現れた大皇后が“本物ではない”ということを証明させるためだ。フランコは彼と一緒に大皇后と謁見しており、その顔を見間違えるはずはなかったからだ。
「だからどうしてなんだ!」
「はいっ?」
いきなりのグスタールの叫びにフランコが驚いて彼の顔を見た。
「いったい大皇后様は何をお考えなのだ⁉」
「はあ……」
もちろんそう問われても彼が答えられるわけがない。グスタールも別に答えは求めていなかった。
「大皇后様は、どうしてレイモンから逃げだそうとしないのだ?」
「それにつきましては……これまでは逃げようにも逃げられなかったからと、そういうことでは?」
「だったらどうして今度は北へ行かなかった?」
「それは……罠だということが見抜かれたせいでは?」
「それでも逃げる素振りくらいは見せてはいいではないか? 荒らし回るだけでなく!」
「そう言われましても……ただ……」
フランコは何かを思いついたようなようすだったが、すぐに首を振った。
「ただ、何だ?」
「いや、大したことではありませんので」
「とりあえず言ってみろ」
そこでフランコは少し首をかしげながら答える。
「いえ、ですから実は何も考えていないかも、と思ったのですが……」
「何も考えてないだと?」
「相手は女性ばかりの集団ですから、理屈だって動いてはいないのではと……」
グスタールは心底失望する。
「馬鹿も休み休み言え! それでは侵入してきた女戦士の一団は何なのだ! 奴らは何かの目的のために送りこまれたのであろう?」
「いえ、ですので、大したことがないと申し上げましたので……」
まったく本当に役に立たない! そう思ってグスタールは大きくため息をついた。
「ともかく今後はもっと探索は行いやすくなりますから……」
そんな彼を慰めるようにフランコが言うが……
「そんなことはわかっておる! 問題は見つけたあとだろう?」
フランコはうっと口をつぐんだ。
大皇后を見つけたあと、本当にどうやって連れてくればいいのだ?
二人はしばらく無言だったが、やがてフランコが目を上げる。
「確かフィーバス様の配下に、そのようなことの得意な部隊があるそうですが……」
グスタールはぎろっとフランコをにらむ。
「その部隊にさらって来させるというのか?」
「はい。さすれば……」
グスタールは考える。
確かにその部隊の話は聞いていた。リーダーはフェデルタと言ったか? 都に潜入してハヤセ・アルヴィーロを失脚させてきたとか。間違いなく能力はあるだろうが―――しかしその気になれば自殺なんて一瞬でできる。無理矢理さらってくるというのは、間違いなく大変危険な賭だ……
グスタールは首を振った。
「まだ居場所も分かっていないのだ。呼び出すにはまだ早い」
最後はそうせざるを得ないかもしれないが、時期尚早だ。
グスタールはまた大きくため息をつくと、自分に言いきかせるように考える。
《落ち着け! 落ち着くんだ!》
そう。なにはともあれまずそれだ。パニックになってもしかたがない。
彼は何度か深呼吸すると心を落ちつける。
「まずはともかく、もう一度問題点を明確にするのだ」
フランコもうなずいた。
「それは……大皇后様が、なぜか本気でレイモンに荷担しようとしていることですか?」
「そうだ。だが普通はそういうことはあり得ないな? レイモンは長年、都の宿敵であったのだ」
「要するにそこですね? どうして大皇后様がそのようにお考えなのかということが……」
「まさにその通りだ! 本当に何をお考えなのだ? 大皇后様は……」
そう言ったところで、グスタールははっとして顔を上げた。
「ただ……“何をお考えになっていないか”ならば……」
「お考えになっていないこと? ですか?」
「ああ! そうだ。例えば少なくともここから逃げだそうとはしていないな?」
「え? それは……確かにそういうことになりますが……」
彼らはこれまで彼女が国外逃亡をするためにいろいろ工作していると考えてきた。
だがそれがそもそもの間違いだったのだとすれば?
「だとしたらあの工作の目的はなんだ? 逃げるための陽動でないとしたら?」
フランコは目を見張る。
「大皇后様は……まさか本気で我々を倒す気……なのだと?」
グスタールは首を振った。
「さすがにそれはあり得ん! だが……大皇后様は少なくともどこかの国の工作部隊と接触はしている。そうだな?」
「それはほぼ間違いないかと……」
「だとすればその工作部隊を送りこんだ国の目的のため、あのような行動しているということになるな?」
「その国の目的……ですか?」
フランコがそう問い返した瞬間、心のなかにぱっと明かりがともったような気がした。
「そうだ! 目的だ! それが大皇后様が命をおかけになるに値するものだったとしたらどうなる?」
「いったい……どんなものが?」
「それが分かれば苦労せんわ! 例えばあのお方がそうすることで、何か戦況を逆転できるようなものがあるとかだ」
「戦況の……逆転ですか? どうすればそんなことが……」
「例えばの話だ! ほかに何かないのか⁈」
「そのようなことを急に言われましても……」
「分かっておるわ! だが、ともかく我々がそれを押さえることができれば、大皇后様も諦めて投降なさるのではないか?」
「ああ、確かに!」
そうなのだ。命をかけているものを失ってしまえば、もうそれ以上突っ張る必要もない。
もちろんその瞬間に世をはかなんで―――という可能性もあるだろうが、それこそ交渉次第だ。なにしろアルクス王子の妃になるということは、やがては世界を統べる王の妃ということだ。決して悪い待遇ではないわけで……
「ともかくまだそれが何かは分からんが……その“工作部隊”が鍵を握っているはずだ! もしそのメンバーの誰かを捕まえることができて、奴らの目的を知ることができれば……」
フランコが嬉しそうにうなずいた。
「はい! 道が開けますね?」
「ああ……」
完全に詰んでいたわけではなかったのだ。まだ手は残されている!
そう思った瞬間グスタールの緊張がとけて、どっと疲れが沸きあがってきた。
なにしろあれ以来、夜もろくろく眠れていないのだ。
だとすれば……
「そういえばフランコ。最近は外に出ていなかったな?」
「はい。この騒ぎで」
ルンゴ以来、まさにそんな精神的余裕がなかったのだが、こうして希望の光が見えたいま急に腹が減ってきたのだ。
「ならこのあいだおまえが言っていた店に行ってみるか?」
「はい。喜んでお供いたします!」
ともかく少し酒でも飲んでストレスを発散させなければ―――この城の料理はまずすぎるのだ。
あれから一週間。ポプラ亭は大繁盛だった。
「おーい、リサちゃーん。一品もう一つ追加~」
「はーい」
「こっちにはポテトフライも」
「はーい。あれぇ? 皆さん、お酒とか足りてますか~?」
「おー、じゃあビア追加で」
「はーい。コルネさーん、一品、ポテトフライ、ビア二杯追加で」
「分かりました~!」
メイは厨房から大声で返事する。
なぜ彼女が偽名なのかというと、彼女だけが大皇后の従者としてアキーラ城に来ており、そこの兵士などに名前が知られている可能性があったからだが……
《うお~~! 忙がしー!》
もう余計なことなど考えていられないほどの戦場だ。以前にガルサ・ブランカ城の厨房に勤めていた頃のことを思いだしてしまう。
あのときも客人などが来たときにはとんでもない忙しさになったものだが、それなりに充実した毎日だった。だが……
「コルネさ~ん、三番さんの炭焼きステーキまだ~?」
リサーンの問いにメイはちらっと焼き網の上を見る。
「もう二分待って」
「了解~!」
あはははは。
充実しているのは同じなのだが、ここでは少々複雑な気持ちなのである。
この店のオーナーはアイオラだったが、先述の通りいまや彼女はレイモン・シルヴェスト秘密組織の中枢人物だ。おかげでどうしても外回りの任務が多くなってしまう。今日もそのため留守だった。
そこでメイ達は人手不足になった酒場を手伝うことにもなっていた。もちろんメイは厨房だが、リサーンとハフラは料理はあまり得意でなかったのでホールの方に回ってもらっていた。
ところが―――そこでリサーンは“イケイケリサちゃん”というあだ名で大人気になってしまったのである。
《いや~、本当は目立っちゃいけないんだけど……》
何しろ彼女たちは世を忍ぶ仮の姿。変に目をつけられたりしたら本来の任務に支障を来してしまうのだが……
「は~い、みなさん、お料理なくなってませんか~? 今日のお勧め一品は、小牛のソテーのカレーラ風になってまーす」
「カレーラ?」
「えっとー、メリスの先にある川沿いのきれいな町なんですって。そこで取れる上等のナッツのソースがかかってるんですよ~」
「へえ? じゃあそれ、頼むぜ」
「ありがとうございまーす。コルネさーん。一品一つ追加~!」
「分かりました~!」
そんな風にひらひらしたちょっと露出度の多めのドレスで―――といってもベラのそれに比べたらささやかな物なのだが―――男に囲まれる仕事というのは、彼女にとってはまさに天職だったのだ。
そしてハフラの方なのだが……
―――とそのとき、店の扉が開いて新しい客が入ってきた。
「いらっしゃいませ」
リサーンが奥の客の相手をしていたので、近くにいた彼女が応対する。
来たのは二人でかなり上等な身なりだ。メイのところから顔はよく見えなかったが、どうやらかなり位の高い将校クラスのようだ。
この店にはそういった客もけっこうお忍びでやってきていた。
客は大混雑の店の中をちょっとむっとしたような様子で眺める。
「あの、申しわけありませんが、ご覧のようにお客様がいらっしゃいますので、ご相席でよろしいですか?」
「相席だと?」
客は不満そうだ。だが……
「できるだけ多くの方に楽しんで頂きたいんです。お願いします」
そう言ってハフラがお辞儀をすると―――少々露出気味のドレスからこぼれ落ちそうな胸の谷間に、男たちの目が吸いついた。
それから二人は慌てて顔を上げると、まあ仕方ないというようすでうなずく。
《ははは。かかったなー?》
この店の制服は出来合いのものを借りたのだが、ハフラには少々小さめでかなりぱっつんぱっつんになっているのだ。
しかも……
「お飲み物はいかがいたしましょうか?」
「まずはビアだ」
「承知いたしました。ビア二杯ですね?」
といったところでハフラがちらっと後ろをふり返る。見ると後ろのテーブルの客の手がお尻に伸びているのだが―――彼女はくねっとお尻を振ってその手を外すと、何事もなかったかのように続けた。
「お食事はいかがいたしますか?」
すると客の一人が逆に尋ねる。
「すぐできるものを見繕ってくれ。それと今日の一品は?」
「小牛のソテーのカレーラ風でございますが」
するともう一人の男が驚いたように尋ねた。
「カレーラ風? アイフィロスのか?」
「はいそうですが」
「よし。持ってきてみろ」
「承知いたしました」
どうやらその客はカレーラ風ソースを知っているらしい。
《やっば~……まさか現地人じゃないわよね?》
そのソースはフォレスから都に来る途中の宿で、いつものごとくにメイが厨房に遊びに行って教えてもらったものなのだが……
《実際に作ってみるのは初めてなんだけど……》
レシピどおりしっかり作ってるし、コツもしっかり聞いてるし、味もあのときの物に遜色ないはずなのだが……
「コルネさーん。一品を追加お願いします」
「分かりました~」
それからハフラはくるっとふり返ると、先ほど彼女の尻をなでていた男にいきなり、ほとんど触れんばかりに顔を寄せた。
「なにか、ご用でしょうか?」
「え? いや……」
「ご用なのでお呼びになったんじゃないんですか?」
そういって胸をぷるんと震わせると、男の首筋に息がかかる。男は顔をさらに赤くして……
「え、ああ、じゃあ焼き串を一皿追加で」
「ありがとうございます。コルネさん! 焼き串一皿追加です」
「分かりました~」
―――と、まあ、こんな感じで彼女も“むっつりハフラちゃん”という名で、人気者になっていたのだった。
そのうえ……
「あ、ハフラぁ! 取り皿三つとって!」
奥のリサーンがハフラに言うと……
「はい」
ハフラがいきなりお皿を投げ渡しはじめるのだ。
それをリサーンが次々に受け取っては客に配っていく。二人の間は四メートル近くは離れているのだが……
それを見た客のあいだからまた歓声が起こる。
「いえーい!」
リサーンがまた調子に乗ってみんなに手を振っている。
そんなことはヴェーヌスベルグの頃からよくやっていたというのだが―――そんな芸も二人の人気をさらに押し上げるものとなっていた。
というわけで、先日もアイオラに怒られていたのだ。
―――アイオラはほとほと呆れたような様子で言った。
「だーかーら、あまり目立つようなことはしないでって言ったじゃないの!」
「いやあ、控えてるつもりだったんだけど……」
リサーンは平然としている。
「どこがよ?」
「だから、抱きついたり押し倒したりはしてないし……」
「あのねえ、あなたが育ったのがどういうところかは知らないけど、こっちじゃ知らない人にいきなりそういうのはダメなの!」
横で聞いているメイも苦笑いするしかない。
確かに最初はアロザール兵が相手でも無愛想にはするなと釘を刺されていた。
なにしろこの酒場は元々情報収集のため“アロザール兵にも親切な店”を標榜していたのだ。だが度を超したら逆効果になってしまう。
実際に付近の事情を知らない店からはそろそろ白眼視されてきているし……
「それとハフラ! あなたは触られたらもうちょっと騒ぎなさい!」
「どうしてですか?」
同じく彼女は意味がよく分かっていない。
「どうしてって、こっちじゃそれが普通だから!」
「でも、触ってもらえるのって嬉しくありませんか?」
アイオラははあっとため息をつく。
「だからそれも時と場合なのよ!」
「分かりました……」
わりと困ったことに、この二人はヴェーヌスベルグ育ちのせいで、そういった距離感にたいへん疎いのであった。
「まったく……繁盛するのは嬉しいんだけど……」
「あはは、売り上げも上がってますしねえ」
メイは帳簿管理の手伝いもしていたが、彼女たちが来てから売り上げは五割増しになっていた。
「本当にこんなときじゃなかったら、いい子たちが来てくれたって大喜びなのに……」
再びアイオラが大きくため息をついた―――
実際に彼女たちの主任務も順調で、色々な所との根回しはおおむね終わっており、あとは運を天に任せるだけなのだ。すなわち決戦の日は間近なのだということだが―――そうなればここの生活も終わりである。
《それってちょっと寂しいかなあ……》
やっぱりこういうのって結構好きだし―――などとメイが思っていたときだった。
「ねえ、ちょっと来てくれない?」
ハフラが厨房をのぞき込んでいる。
「え? あたし?」
「うん。なんかさっきの客が、料理人を出せって聞かなくって……」
彼女はずいぶん困った表情だ。
「えええ? どうして?」
「それが、いいから呼んでこいって、しつこくって」
いったいどういうことだ? 失敗しているはずはない。他の客からクレームは来てないし―――それとも料理に虫でも入っていたのか?
「どうしようか? 怒ってるわけじゃないみたいなんだけど」
「分かった。行ってみる」
そこでメイは恐る恐る、彼女を呼び出したという客の前に出ていった。
元々彼女は人見知りをする方なので裏方が性に合っていたのだが―――まあ、エルミーラ王女の秘書官なんかをやらされたおかげで、いざとなればなんとかなる自信はできていたが……
だがしかし―――その客の顔を見てメイは目の前が真っ白になった。
《うげぇぇぇぇぇ! この人って……アキーラの大守じゃないのよ!》
この男の顔はよく知っていた。
こちらに来る途中、アキーラ城に滞在したときに彼女たちを出迎えた男だ! 確かグスタールといっただろうか? その彼にほかならないのだが……
《ど、どうしてこの人が……》
まさか自分の正体に気がついて呼び出したとか?
だがメイはそのときのことを思いだして首を振る。
《違うでしょ? あのときはこの人、ファラ様やエルミーラ様の方ばかり見てて、侍女なんかには目もくれてなかったし……》
いや、パミーナの方はちらちら見ていたか? 何しろ彼女はファラ様のドレスが入るほど、実はスタイルがいいのだ。だがメイに関しては一目見るなり鼻で笑われただけだろ?
―――などと普段なら別な意味で落ちこんでしまいそうな理由で自分を落ちつかせるが……
「ん、何をそんなにおどおどしている?」
「いえー、そんなー!」
大守は怯える子供をあやすように、にっこりと笑った。
「怖がらなくていい。別に取って食おうというわけじゃないからな。はっはっは!」
酒のせいか、すごく上機嫌なようだ。
《えっと……どういうこと?》
内心ガクブルのメイを大守はにこにこ笑いながら見回して、それからちょっと意外そうな表情になる。
「おぬし、名は何という?」
「えと……コルネといいますー」
「ほう? ずいぶんと小さいようだが、歳は?」
いきなり歳を聞きますかーーっ!
「あのー、今年で二十一歳でー……」
それを聞いた大守はあからさまに驚いた顔になった。
「あん? そうだったのか、すまんすまん。いやずいぶん若く見えたものだから……」
よけいなお世話だーっ!
とは思いつつも、メイはぺこぺこお辞儀をする。それからその意図がいったい何なのかと思いながら彼を見あげていると……
「あん? わしの顔になにかついているか?」
「い、いえーっ!」
「それともどこかで会ったかな?」
うわわわわ!
「そんなことありませんー。先週こちらに来たばかりでー……」
「ほう? これまでどこに?」
「そのー……バシリカですがー……」
それを聞いた途端に大守は眉をひそめた。
「バシリカ? アイフィロス出身ではないのか?」
「えーっ! どうしてですか?」
「いや、このカレーラ風ソースがまさに絶品であったから、そちら出身なのかと思ったのだが」
「い、いえー。バシリカのお店に、アイフィロスから来た人がいて、その人に習ったんですっ!」
「おお、そうだったのか。あそこならそういうこともあるだろうなあ」
大守は嬉しそうにまた笑う。
旧ウィルガ王国の都であったバシリカは、中原の文化の中心地だった。その中には伝統ある料理も含まれていて、各地から料理人が修行にやってきていたのだ。
それにしてもこの大守は純然に喜んでいるようにも見えるのだが―――そう思うとメイは思わず尋ねていた。
「あの、た……じゃない、お客様は、アイフィロスのお方なんですか?」
「トルボなのだよ。まあ傭兵だったんだが、そのせいでカレーラにも何度か行って……よい町だった……」
「そうですよねえ」
カレーラはアルバの支流アルト川の畔にある古い町で、メイもよく覚えていたから思わずうなずいてしまったのだが……
「ん? おぬし、カレーラに行ったことがあるのか?」
しまったぁぁぁ! バシリカ出身っていう設定だったぁぁぁ!
「いえっ! そのアイフィロスから来たグルナさんって人の故郷でっ! よく懐かしんでましたからっ!」
「そうかそうか」
大守はそういって笑うと、いきなり懐から金貨を取りだしてメイの手に握らせた。
「ともかく気に入ったぞ。取っておけ!」
金貨ぁぁ⁉
「ひぇぇぇ! その、こんなたくさん頂けませんっ!」
だが大守はメイの手を握ってにっこり笑う。
「気にするな! 久々にこんなうまいものを食べられて、わしは感動しておるのだ! 水を差すようなことを言うんじゃない!」
「それじゃ……あ、ありがとうございますぅ……」
メイはぺこぺこ頭を下げながら引き下がった。
厨房に戻った途端に緊張がとけて床に座りこんでしまう。そこにハフラとリサーンが慌ててやってきた。
「何だったの?」
「はひー。それが……料理がおいしかったからって、これもらっちゃって……」
メイが金貨を見せると、二人は目を丸くした。
「なんだ! 大儲けじゃないの。よかったじゃない!」
だがメイは大慌てで手を振った。
「よくないって! あれ、大守なのよ!」
「は?」「なに?」
さすがの二人もそれを聞いて固まってしまった。
「大守って、このアキーラの?」
「そう。前来たときに顔を見てるから。あっちは覚えてなかったみたいだけど……」
ハフラとリサーンが顔を見合わせる。
「どうして大守が来たのかしら?」
「お忍びくらいはするんじゃないの?」
「だったらいいけど……まさか……」
「まさか、なによ?」
「こっちのこと調べてたんじゃないでしょうね?」
ハフラの言葉にリサーンもうっと口をつぐむ。
「そんな……でも、そんなことしに本人が来る?」
「それもそうだけど……じゃあどうしましょう? 帰りがけとかにさっくりと暗殺しちゃう?」
「いやいやいやいや、それはダメでしょっ!」
ハフラのヤバすぎる提案にメイが思い切り突っこんでいると……
「おーい、リサちゃーん。お酒ないよ~!」
「ハフラちゃーん、ステーキWサイズ頼んじゃうぞ~っ!」
「あーっ、すみませーん。今行きまーす!」「はーい」
この忙しい時間帯に、それ以上陰謀を練っている余裕はないのだった。
その二日後の昼だった。
作業が一段落した休息時、三人はまたアイオラに説教されていた。
というのはリサーンとハフラが金貨をもらったメイに張り合って、さらにサービスに磨きをかけていたからだ。そういうところは二人ともかなりの意地っ張りだった。
「それでそんなにチップをもらったの?」
「はい……あんまり触らせたらオーナーに怒られるって言ったら、それじゃこれやるからって。なので……」
相変わらず罪の意識などまったくないハフラに、アイオラは大きくため息をついた。
「それじゃどうしましょう? 売り上げに入れておきますか?」
「それはあなたのだから取ってていいから……でも注意してよ? そろそろストーカーじみたのも出てきてるんだからね」
「はい……」
そこにリサーンが口を挟む。
「でも、もう昼間は終わったんでしょ? ちょっとくらい相手してあげても……」
「だめですっ! あいつらみんな溜まってるのよ? そんなことしたら本当に連れてかれるからねっ!」
「はあ……」
同様に恥の意識などかけらもないリサーンに、アイオラは火を噴きそうだ。
“昼間”というのは彼女たちの本来の任務のことだ。
彼女たちは店の仕入れなどにかこつけて、消防団などの関係者に真っ昼間堂々と接触していたのだが、その任務もほぼ終わってあとは実行を待つというタイミングだ。
そんなときによけいな騒ぎを起こされてはたまらない。
「ともかくあと三日だから、もうおとなしくしててね」
「わかりました……」
と言いながら二人はなにやら残念そうだ。
《あはははは!》
とはいってもやはりこれはアイオラの言うことの方が正論だろう。メイから見ても、やってくる客の眼は少々血走って見える。
前にも述べたとおりアロザール兵は現地の“男女”に対するレイプが厳重に禁止されていた。破ったと分かったら公開断種の刑なのだ。従って兵隊はそういったときには郭に行くしかなかったのだが、アロザール兵を客に取りたくないという娘も多く、どこの郭もいつでも満杯状況だ。
従ってそこらの男たちはおおむねいつでも欲求不満で、その劣情をあまり刺激する行為はよろしくないのである。
そのようなことを二人も思っていたと見えて、ハフラがぼそっと言った。
「でもどうしてあんな変なことで呪いって解けちゃうんでしょうねえ」
「ほんと! 変な呪いよね……あれで呪いがかかるってんならまだ分かるけど……」
リサーンも首をかしげる。
それを聞いたアイオラも大きくうなずいた。
「そうよねえ……本当にもうちょっとどうにかできなかったのかしら?」
「できなかったって何がですか?」
メイが尋ねるとアイオラが指で輪を描きながら答える。
「だからほら、あの解呪の方法よ。お触れは“男女”を犯すなでしょ? だったら女でもできなかったのかなって……それならあいつももうちょっと気が楽だったと思うのに……」
「もしかして……ヴォランさん?」
「まあね」
アイオラは同僚のヴォランという人と最近夫婦になったらしいのだが、彼がそういった解呪を受けたことに関して両者ともに憤懣やるかたないらしい。
「でも女の解呪って?」
リサーンが尋ねるとアイオラがうなずく。
「だから女を解呪してやったら、今度はその女が解呪できるようにならないかなって」
「ええ? でも呪いの解けた男の精液が必要ならああするしか……」
「でも精液を入れただけじゃだめだったんでしょ?」
「ええまあ……」
「だとしたらそういった“行為”の方が重要だったりするんじゃない。だったら……」
そのあたりの議論はこれまでも何度かなされていたのだが……
「えーっと……でもやっぱり、男だけ禁止っていうのが不自然だからじゃないんですか?」
だいたいこういう結論になっていた。
だがアイオラは食い下がる。
「まあそうなんだけど……そうじゃないかもしれないし……」
そんな彼女にリサーンが……
「でももしそうなら、アイオラさん、誰かとお尻ですることにならない?」
と、身も蓋もない発言をかました―――と、思ったのだが……
「別に、構わないじゃない。そんなの」
アイオラはまったく気にしたようすもなく、さらりと答える。
《ってことは……経験あるんだ……》
メイはリサーンとハフラと顔を見合わせた。二人の顔にも微妙な笑みが浮かんでいるが……
《あはははは! やっぱもしかしてすごいのかな? この人も……》
聞けば子供のころから反政府組織に入ってずっと活動してきた人なのだ。まさに彼女にとってはそんなことは大事の前の小事だったのかもしれないが……
と、そこにハフラが突っこんだ。
「でも、もしアイオラさんが解呪できるようになったとして、呪われてる人って勃つんですか?」
「ああっ!」
アイオラはまたがっかりしてへたり込む。
聞けば呪いにかかっていると、男としてもまったく使い物にならなくなるそうだ。
ということは、その“儀式”そのものができないというわけで―――ってか、なんでこんな会話をナチュラルにやってるのかなーっと、メイがそんなことを思ったときだ。
「そういえばこちらでも自然に解呪してしまった人はいるんですよね?」
ハフラの問いにアイオラがうなずく。
「ええ。聞いたことあるけど」
「私が以前見た例なんですが……」
彼女が話を始めようとしたときだった。
がんがんがん!
乱暴に店の扉を叩く音がする。
「あん? なによ?」
アイオラが出ていって扉を開けると、来客に文句をいう。
「あの、開店は夜なんですけど……」
人気が出たせいで先走って開店前にやってくる客も多い。少し前くらいなら入れて待っててもらってもいいのだが、さすがに今はちょっと早すぎないか?
そうメイが思った瞬間だった。
「料理人のコルネはいるか?」
「はいぃ?」
予想外の問いにアイオラが固まっている。
「だから料理人のコルネはいるか?」
「あの、彼女に何かご用でしょうか?」
「城からのお召しだ」
そう言うといきなり兵隊がアイオラを押しのけて、ばらばらと店内になだれこんできたのだ。
中にいたのはメイ、リサーン、ハフラだったが―――もちろんメイはひとり厨房のエプロンをつけている。
「お前がコルネか?」
「え? あの……」
メイはいきなりの展開に頭が真っ白だ。
「どうしてその子を連れていくんですか?」
リサーンがメイをかばおうとしたが、兵士は彼女も押しのけた。
「知らん。大守の命令だ! 来いっ!」
メイは兵士に腕をひっ掴まれると、そのまま城に連行されていった。
場には重い沈黙が垂れこめていた。
アリオールの隠れ屋敷には関係者がすべて集められていたのだが……
《こりゃ、正直まずいことになったぞ……》
フィンだけでなく、参加しているすべてのメンバーが心の中でそう思っていただろう。
「あの、申しわけありません。私がついていながら……」
報告を持ってきたアイオラは泣きそうな表情だ。
「それまで怪しい兆候はなかったのですよね?」
彼女に尋ねたのはドゥーレンだ。
「はい。そんな者が来ていれば気づくはずなのですが……」
アイオラは情報収集のプロだった。酒場に勤めてそこの客からいろいろと聞き出すことが彼女の本来の役割であり、それゆえに様々な種類の人物と接してきた長い経験がある。
要するに店をコソコソ探ろうとしている者がいたりすれば、彼女の目に止まらないはずがないのだ。
そしてもしそんな彼女を出し抜ける者がいたとしたら……
《相手はそれ以上のプロってことだよな?》
由々しきことはまさにその点であった。
彼女の弁では、これまでポプラ亭が敵に見張られている兆候は全くなかったという。確かに店の回りをうろつく連中はいたのだが、それはリサーンやハフラ目当ての鼻の下をのばした男たちだ。少なくともメイに関してはまったくそんなことはなかったのだ。
だが……
《彼女が喋ってしまったら何もかもが終わりなんだよな……》
なにしろ彼女はあと数日に迫った“アキーラ奪回作戦”の全貌を把握しているのだ。
本来、そんな人物がこんな前線で工作に参加するなどあり得ない。しかし今回は例外的状況だらけなのだ。
単にメッセージを届けるだけなら誰でもできる。しかし今回の任務では状況に応じて現場の判断で決断しなければならないことも多い。細かいことでいちいち中央にお伺いは立てていられないのだ。
男が表立って動けないという制約の中、そんな重大事を任せられる女性というのは極めて限られていた。
「メイ秘書官殿が……」
そうつぶやいたアリオールは、拳が白くなるほど固く握りしめている。他の男たちも同様だ。
アロザールの侵攻以降、レイモンの男たちの誇りはまさに踏みにじられ続けてきた。だから今回も、このような任務をあの小さな娘に託すのは反対だという意見も多かったのだ。
それは彼女の能力を疑っていたからではない。そうではなく、彼女達にはこれ以上の無理をさせたくないと、心底みんな思っていたからなのだ。
メイはすでに仲間内から“ベラトリキスのメイ秘書官”と呼ばれて人気者になっていた。
なにしろレイモン解放の道を開いた“大皇后の女戦士たち”というのだからどんな女丈夫が現れるのかと思っていたら、まず出てくるのが彼女なのだ。
ところが話していくうちに、その少女然とした娘が実際に戦いの実務を仕切ってきたことが分かってくると、今度は一種畏敬の念をもって彼女を見るようになっていくのだ。
《本当にどうしてメイなんだよ……》
文字通り、彼らは命がけだった。
この“事業”を始めたときには、生きて帰れる保証はいっさいなかった。
だから誰も表だって口にはしなかったが、たとえ上手くいったとしても仲間の何人かが失われるくらいは仕方がないと諦めていた。
だがその後はまさに望外の展開だ。ここまで受けた最大の被害というのがサフィーナのケガくらいで、あとはほとんどすり傷や打ち身といったレベルなのだ。
だからみんな、もしやと思い始めていた。
もしかしてこのまま行けるのでは? みんな揃って解放されるアキーラを見ることができるのでは? と……
「それで……作戦はいかがいたしますか?」
重苦しく口を開いたのはラルゴだ。
「やめるわけにはいかないだろう? ここまで来て……」
アリオールが答える。
「でももしその……情報が相手に渡っていれば、みすみす罠の中に飛び込むことに……」
「あの子は喋りませんよ。自分の立場は分かっているでしょうから……」
エルミーラ王女の声が震えている。
「しかし……喋らせる方法はあるわけで……」
王女はラルゴをぎろっとにらんだが、反論はしなかった。
そうなのだ。確かに彼女は自分の立場は理解しているだろう。だが、情報を無理矢理に引き出す手段というのは世の中にはいろいろあるのだ。
《向こうに真実審判師はいたっけ……》
アロザールの魔導師はほとんどが東部戦線に送られていて、レイモンにはめぼしい者はほとんどいないはず。それも彼らがやりやすかった一因だが……
《ってことは、それこそ“エレガントじゃない方法”になるわけだよな?》
フィンはいつぞやアリオールに拷問されそうになったことを思いだして、背筋が寒くなってきた。
《彼女がそんなことされたら……》
再び場が沈黙する。みんな同様のことを考えているのだろう。
そのときだった。
「うぅ……どうしてなのよ……捕まえるんならあたしを捕まえればよかったじゃない……」
リサーンの泣きそうなつぶやきが聞こえた。
「そうよね。何かやらかすならあんただって思ってたけど……」
ハフラが小声で突っこんでいるが―――いつもならここから所かまわず言い合いになるのが定番の進行なのに、今のリサーンにはそんな気力もないようだ。
《まったくどうしてメイだけが……》
そう思った瞬間だ。
「いや、ちょっと待て! それっておかしいんじゃないか⁉」
フィンは思わず叫んでいた。
「どうした?」
アリオールが不思議そうに尋ねる。
「いや、だからこれっておかしいですよね? メイだけが捕まって、リサーンやハフラやアイオラさんが捕まってないってのは?」
「え? あ……」
「そのときメイ一人だったってのならともかく、みんないたんでしょ?」
その場にいた者達は、メイが囚われたということに打ちのめされて、他の者が捕まらなかったという重大事実を失念していたのだ。
《ちょっと焦りすぎだろ! まったく……》
言われてみればすぐ分かることだ。もし相手がメイを大皇后一派と疑って捕まえたとする。それならば少なくともポプラ亭関係者はみんな捕まえるのが筋だ。
だとしたら?
「ではメイ殿が捕まった理由というのは、また別にあると?」
アリオールの問いにフィンはうなずいた。
「そうなんじゃないですか?」
彼らは話を聞いた瞬間から、相手にメイの正体がばれたと思いこんでしまった。
―――だが人を捕まえる理由はそれだけではないのだ!
「えっと、もういちど整理してみましょう。まず最初に僕たちは、何らかの理由で彼女の正体が割れたから捕らえられたって思いました。そうですね?」
全員がうなずく。
「ということは……別ルートから彼女の正体が知れたことになって、それを確認するために捕らえて尋問しようとしていることになりますが……だとするとその関係者も一緒に捕らえないのは不自然です」
それを聞いてアリオールが言った。
「しかし何か意図があってわざとそうしなかったということは?」
そこでいきなりフィンは言葉につまった。
《そんなことって……あるのか?》
例えば―――残りを泳がせて関係者をみなあぶり出そうとした? とか?
「アイオラ。付けられてはいないな?」
ドゥーレンがいきなり尋ねる。もちろん彼も今の可能性を考えたのだ。
だがアイオラは首を振った。
「それは抜かりありませんが……」
敵に尾行されないように行動するというのは、彼女にはまさに長年の習性となっている。
さらにこのアジトの位置は秘中の秘だ。そのために何もなくとも来るまでには何段階もの迷彩が仕掛けられている。
「彼女を追ってくる者はありませんでした」
隠れ屋敷の守備隊長もそう答えた。ここに来るものはすべて彼らの厳重な監視下にあるのだ。その監視網を出し抜くというのは極めて困難なはずなのだが……
それを聞いてアリオールが首をひねる。
「だとすればどういうことなのだ?」
「何かのメッセージですかな? 我々のことを知っていることを仄めかすような?」
答えたのはドゥーレンだが……
「それはあまりにも迂遠ではないか? そもそも、もし敵が我々の計画を知っているのなら黙って罠を張るのが最上策だと思うが?」
ドゥーレンもうなずいた。
「では……ル・ウーダ殿の言うとおり、メイ殿は何か違った理由で捕らえられたと考えた方がいいことになりますな」
「うむ……」
もしかしたら最悪ではない可能性に、場の空気が少し明るくなる。
「しかし一体どういった理由で?」
アリオールは腕組みしてしばし考えたあと、リサーンとハフラに向かって尋ねた。
「一番関係がありそうなのは……その二日前か? 大守が店にお忍びでやってきたそうだが?」
その日はアイオラがたまたま不在で、応対したのは彼女たちだったという。
彼の問いにハフラが答えた。
「はい。さきほど報告したとおり、やってきて彼女の料理を褒めて、チップをくれました」
「そのとき、大守は何か怪しい素振りをしていなかったか? もしくは連れの男が」
「いえ、別段不審な点はなかったと思いますが……」
ハフラは自信なさそうに答える。
「例えば、大守が実はメイ殿のことを覚えていて、知らないふりをしていたとか?」
「それだったら会った瞬間になにか顔に出ませんか? メイさんはずっと厨房で、表には全然顔を出してませんでしたから、そのとき初めて顔を見たことになりますが。でもあまり驚いたようには見えませんでしたし……」
「そうよねえ、なんか終始にこにこしてて、思ったより小さい子だねとか言ってたけど……」
ハフラとリサーンの言葉に、居合わす者達は首をかしげる。
そのときアイオラがつぶやくのが聞こえた。
「ああ、あたしが出かけてなきゃよかったのに……」
確かに彼女が観察していればもう少し何か掴めていたのかもしれないが……
「でもお仕事だったんでしょ?」
そばでお茶を配っていたアルエッタが彼女を慰めるが、アイオラは大きくため息をついただけだ。
そこでアルエッタがぽつっと言った。
「でも、メイさんって本当にお料理上手ですよねえ。びっくりしちゃった」
その言葉に深い理由はなかったと思うが、アリオールがそれを聞いて何げなく尋ねる。
「そういえばその日メイ殿はどんな料理で褒められたんだ?」
「確か小牛のソテーのカレーラ風ですが」
ハフラの答えにアルエッタが興味を示す。
「え? それどんなの?」
「子牛肉をソテーにして、カレーラ風ソースっていって、ナッツの入ったソースをかけるんだけど……」
「へえ! 何かおいしそう! どんな味なのかしら……あ、もしかして……」
アルエッタはいいことを思いついた! という表情でみんなを見回す。
「どうしたの?」
「その大守って、メイさんのお料理がおいしかったから連れてったんじゃ?」
………………
…………
……
一同は一瞬唖然として―――それから一斉に吹きだした。
「な、なにがおかしいんですかーっ! メイさんみたいに料理上手な人、滅多にいないじゃないですかーっ!」
「まあ、そうだけど、大守ってお城に住んでるのよ?」
アイオラが笑いをこらえながらさとす。
「でもメイさんだってお城の料理人だったんでしょ? そんなすごいお料理を出したから、これはすごいって引き抜かれたんじゃ?」
だがアイオラは首を振る。
「あー、ほら、ポプラ亭って兵隊向けの酒場だから、そんなお上品なものは出さないのよ。あの日のも要するに小牛のソテーだし。ソースは珍しかったけど」
「でもお城の料理がまずかったとか……ほら、男の料理人の人がいなくなって……」
アルエッタは食い下がったが……
「いえ、私もあちらに滞在したとき、お城のお料理を頂きましたが、それは素晴らしいものでしたが……」
そう答えたのはメルファラ大皇后だった。
「…………」
「それに城の厨房などに、それこそ素性の分からないような者を入れたりはしないでしょう」
最後にとどめを刺したのが彼女の父親のドゥーレンだ。
「うー……」
論破されてアルエッタが涙目になる。
フィンはちょっとかわいそうになったので助け船を出した。
「いや、でも彼女の言ったことにも何かヒントが隠されてるかもしれませんし……」
途端に彼女の顔が明るくなる。
「ですよね? ですよね!」
このアルエッタという娘はそういうところが何とも可愛い。こんな暗い会議のお茶くみなんかではなく、本当にいいお嫁さんになってもらいたいものだが……
「ともかくそういう何げないところに理由が秘められてるかもしれませんから……そういえば、アキーラに来るとき、機織り機がどうとかいうトラブルがあったとか?」
それを聞いたアイオラが答える。
「ああ、検問で怪しい機械がって止められてたんだけど、彼女がそれが機織り機だって教えてくれて……でもそれで?」
「いや、だからそんな感じでいろいろ考えてみたらってことで……市場の乱闘には彼女は関わってないんですよね?」
「いや? 目つぶしは投げてたけど……」
ええ? そうなのか?
フィンがちょっと驚いたところにハフラが答えた。
「あれで私達のことはばれてないと思いますが……それにそれこそ、捕まるならリサーンが真っ先に捕まるでしょう?」
「だよなあ……」
と、そのときだった。
「あれ?」
それまで黙っていたエルセティアがふっと声をあげたのだ。
「ん? なんだよ?」
フィンが不審そうに彼女の顔を見る。
「いやあ……違うわよね。きっと……」
彼女はそう言って首を振るが、なにやら不穏な表情が浮かんでいる。
「何がさ?」
エルセティアは目をきょろきょろさせながら答えた。
「だからほら、その大守ってメイちゃんの全身を舐めるように見てたって言ったでしょ?」
何か嫌らしい言い方だな? こいつが言うと……
「ええ、まあ……」
ハフラがうなずく。
「それに小さいなあとか」
「何が言いたい?」
フィンがエルセティアをにらむと、彼女は妙な笑みを浮かべながら言った。
「だからその、メイちゃんにはなんていうか“コドモの魅力”ってのがあるじゃない……」
「は?」
ってことはまさか……
「その大守って実は幼児体型好きで、メイちゃんがストライクだった! とかだったりして、あはははっ!」
あたりに一瞬の沈黙が訪れる。
次の瞬間、バターンと音がすると……
「それ、本当なの⁈」「いやーっ‼」
テーブルを叩いて立ちあがったのはリモンと―――サフィーナだ。
その剣幕にエルセティアが慌てる。
「違うって! だからほら、違うわよねって言ったじゃない」
そこに割りこんだのはアリオールだ。
「いや……でも可能性がないわけではない」
続いてラルゴがハフラに尋ねる。
「そういえば、最後に大守はメイ殿の手を握っていたと言っておられたな?」
「ええ、はい……」
「だとしたら……彼女を見初めたのをごまかすために料理を褒めたとか?」
「それって順序が逆では?」
冷静にハフラに問い返されてラルゴは一瞬言葉を失うが……
「ああ……では最初に彼女の料理が気に入ったのは事実だが、出てきたメイ殿がたいへん可憐であったため、気に入ってしまったということか? なにしろ金貨とは大枚であるし……」
それなら辻褄があうが―――って、マジかーっ⁈
「そんなこと!」「いやーっ!」
途端にまたリモンとサフィーナが同時に叫ぶ。
それから一同の視線が集まっていることに気づくと赤くなった。
《確か、リモンはずいぶん昔からメイと知り合いだったよな……》
そのつきあいはフィンとアウラがガルサ・ブランカに行く前にさかのぼる。聞けばアウラとの練習でボロボロになったところに、よくメイがお菓子などを持ってきてくれたとか……
《でも、サフィーナは?》
と思った瞬間、フィンはかっと顔が熱くなった。
《ってか、俺のせいじゃん……》
そうなのだ。メイはサフィーナの恋の成就のために、あれからずっと親身になって彼女に読み書きを教えていたのだ。ならば恩人の危機に彼女が激高するのも不思議はない。
だがともかく……
《もしそうなら、彼女の命は保証されてるわけだよな?》
気に入った娘の命をそう簡単に奪うはずがない。奪われるのは―――じゃなくって!
「えっとみなさん!」
フィンは騒然となりかかっている場に立ちあがって大きな声で叫んだ。
一同の視線がフィンに集まる。
「えっと、私達がいま考えなければならないのは作戦のことです! 彼女がさらわれたのが何か別な理由だったのなら、作戦を中止する必要はないと思うのですがいかがでしょうか!」
「あ、ああ。そうだな……」
アリオールもうなずいた。
そう。彼らにとって一番大切なことはアキーラの奪回なのである。もしそれに影響がないのであれば少々のことには目をつぶるしかないのだが……
《だからといって、放置できるわ・け・が・ないっ‼》
それはメイにとってはまさに一生の問題なのだから!
そこでフィンはそのあとを続けようとしたのだが……
「それでしたら一つお願いがあるのですが」
いきなりエルミーラ王女が割りこんだ。
「なんでしょう?」
「アキーラ城突入のメンバーを再考して頂けますか?」
!!―――まさにそれはこれからフィンが言おうとしたことだった。
「突入メンバーを?」
「はい。これまで突入は城の制圧と大守の確保が目的でしたが、それにあの子の救出まで入ってしまいましたので……そこでお手間にならぬよう、そちらには私の仲間に回ってもらおうと思うのですが」
そう言って彼女はリモンとサフィーナ、それに加えてその場の女戦士たちの顔を見わたしたのだ。
もちろん誰もがやる気満々の表情だ。
アリオールは王女の意図を察してうなずいた。
「承知しました。できれば皆様にはお休み頂きたかったのですが、そういうわけにも参りますまい」
「ありがとうございますっ!」
戦士たち全員が大きく礼をするする。
こうして事態は本当に最後の正念場に突入していったのだった。