ハビタルの48時間 第1章 闖入者

ハビタルの48時間

第1章 闖入者


 侍従に案内されたのは、いつか王女の話を聞かされた部屋だった。

 あのときは冬の夜だったが、今日は窓を開け放してあって、さわやかな陽光が部屋に差し込んでいる。

 フィンが部屋に入ると、アイザック王は相変わらず学者のような風体で書類を片手に何かやっていた。彼は振り返りもせず言った。

「ああ、良く来たな。そこにかけたまえ」

「恐れ入ります」

 フィンはソファに腰を下ろして待った。王はしばらく奥で何かごそごそしていたが、やがて出てきてフィンの向かいにどっかりと座った。

「今日もまたいい天気なんでな、こうして空気を入れ換えておかなければならんのだよ」

「本が多いとけっこう湿気ますからね」

「そうなのだよ。だがこうやって夏の間中部屋を乾かしても、一冬超すとまた元に戻ってしまう。まったくこの地は本にとってはあまり良くないな」

「都もこんな気候なんですが、銀の塔では専門の魔導師が空気を乾かしていますよ」

「うーむ。そのような者を雇う余裕があればな……一度考えたことはあったのだが、ティアにどやされてな、あきらめたよ」

 そう言って王は笑った。

 なにしろ魔導師を雇う費用は莫大である。都やベラならいざ知らず、地方の小国がそういったためだけに魔導師を雇うのはかなり無茶な話である。

 そんな調子でしばらく世間話をした後、王がふと真剣な表情になった。

「それで今日ル・ウーダ殿をお呼びしたのは他でもないのだが……」

 もちろん予想通りの展開なのでフィンはあわてなかった。

「以前お伺いしました、こちらへの仕官のお話でしょうか?」

 それを聞いて王は微笑んだ。

「ああ、そうだ。考えるには十分な期間であったと思うが」

 フィンはうなずいてから即座に答えた。

「はい。もちろんです。お受けしたいと思います。本来でしたらもう少し早くこちらからお話をすべきかとは思ったのですが」

 それを聞いて王はさらにうれしそうに微笑んだ。

「そうかそうか。なに、こちらは全然気にしてはおらんよ」

 とりあえず王は返事が遅れたことに関しては怒ってはいないようだ。

 これだけで済めば良かったのだが、フィンにはまだ言わなければならないことがあった。

「ただ、ちょっと、よろしいでしょうか?」

「なにかな?」

 王は少し眉をひそめた。フィンは王の顔を見ながら答える。

「私は見ての通りの若輩者です。以前のお話では、場合によっては都とベラの調停といったところまで話が発展しそうなのですが、いきなりそうなりましても、その、ご期待に添えない場合もありますかと……」

 それを聞くなり王が笑い出した。

 フィンは何かまずいことを言ったのだろうかと心配になった。

 だが王は続けてこう言った。

「ははは、いや、まったくだな。心配されるのも無理はない。そりゃいきなりベラと都の間を調停してこいとか言われたら、わしでも途方にくれるだろう」

「ええ? それでは?」

「もちろん今すぐどうこうとは考えておらん。まずはル・ウーダ殿の了承が欲しかっただけなのだ。それなくしては今後の計画を練ることさえ不可能だからな。そうであろう?」

 そう言いながら王はフィンを見つめた。

「今後の、計画、ですか?」

 フィンは今ひとつ話の流れが分からなかった。

「ああ、そうだ。今後の計画だ。ベラと都の確執は長い。一朝一夕でどうこうなる話ではない。言い換えれば五年、いや十年……もしかしたら一生かかるほどの大事業になるやもしれぬ。その上失敗したら命を失うやも知れん。そういったことをするのだから、腰を据えてじっくりと計画を練らねばな」

「確かにそれはその通りです」

 フィンは相づちを打った。

「しかしそうなると一つ問題がある」

「問題といいますと?」

「それはわしがずっとこれを仕切っていくわけにはいかないということだ。当然のことながらいつかは次の者に道を譲らねばならん」

 それを聞いてフィンはやっと王の懸念に気づいた。

「そ、そうですよね……」

「分かるな? この事業を始めてしまったら、中途半端なところで止めるわけには行かん。そしてそれを継いで仕上げねばならんのは、あ奴なのだ」

 それを聞いてフィンは考えた。

《エルミーラ様が……だが彼女以外に誰が?》

 王は遠大な計画を考えている。

 それは確実に長くそして険しい道になるだろう。

 一度動き始めれば簡単には後戻りもできないだろう。

 エルミーラ王女はそんな中でフォレスを背負って立って行かなければならないのだ!

「これは……必要なことなんですよね?」

 フィンは思わずそう尋ねていた。

 平和な時代であっても一国を統べるのは容易な話ではない。

 それなのにそんな計画を遂行しはじめてしまったら、フォレスは戦争に巻き込まれてしまうかもしれない。少なくとも様々な厄介な問題は起こるだろう。

 その問いに対して王は沈鬱な顔で答えた。

「わしは必要だと思う。でなければフォレスは滅ぶと」

 フィンははいともいいえとも答えられなかった。

《滅ぶだって?》

 そこまで断言ができるのだろうか? だが王の言葉はハッタリとも思えなかった。

 絶句しているフィンを見て王は微笑んだ。

「これが杞憂に終われば最もいいのだがな。だがこれはいろいろと考え抜いた結果なのだ。間違いならそれでよいのだ。単に取り越し苦労をするだけだからな。だが運悪く正しかったとすればどうだ? 準備なしにそのような嵐に襲われてしまったら……それこそ悲劇だ」

 フィンは黙ってうなずいた。

 王の言うことはおおむね理解できる。この冬図書館に籠もって歴史を調べてきたことは無駄ではなかった。

 だがこのことについて王やナーザと本気で話し合ったことはなかった。

 なのでフィンは王に尋ねた。

「それは……中原の問題ですね?」

「ああ。そうだ」

「もう少し詳しくお話をお聞かせ願えませんか?」

「うむ。いずれ近いうちにそういった機会を設けようかと考えておる。これはなかなか込み入った話なんでな。ル・ウーダ殿の他にも何人か集めてだ」

 確かにそれはそうだろう。フィンはうなずいた。

「分かりました」

 それを聞いて王はほっとしたようにため息をついた。

 それから王は黙ってしばらく窓外の景色を眺めた。

 フィンもつられるように景色を見たが、特に変わったようなところはない。

 しばらく二人はそうしていたが、フィンはだんだん居心地が悪くなってきた。退室していいのだろうか? だが王はそういったサインを出してはいないようだが……

 と、そのとき急に王が独り言のようにつぶやいた。

「もしもミーラが王子だったら……わしはこんなことを考えもしなかったかもしれないな」

「と、言いますと?」

 フィンの問いに王は答えた。

「あ奴があんな風になってしまってからな、わしは許してしまったことを何度も後悔したものだ」

 そう語る王の表情は、あの晩、王女の決意の話を聞かされた晩に見せた表情だった。

「何といっても王とは見かけほど安楽な身分ではないからな。これが王子であれば、大学にでも行って勉強してこいと言うだけで良かっただろう。だが事が娘のことになるとどうしても親というのは心配性になってしまうものでな。だがそれが幸運だったんだろうな。多分……」

 王はしばらく目を閉じる。

「というのはな、わしは思ったのだ。果たしてあの娘にそんな重責を負わせて良いものなのかどうかとな……いや、能力の問題ではない。あ奴はわしの想像以上に努力し、変貌した……だから不憫なのだ。女というだけでもう十分大きなハンデだ。その上とんでもない評判までついておる。それだけでも前途は厳しいという他はないだろう?」

「ええ……それはそうです」

 フィンはうなずいた。それは間違いない。

 大聖が渡ってきて以来多くの国が興ったが、その歴史の中で女王は、いなかったわけではないにしてもその数は決して多くない。

「だからわしは考えたのだ。わしがあ奴にしてやれることは何かと。そしてできる限りのお膳立ては整えてやりたかった。そのためにはまず予測を立てなければならなかった。あ奴が今後どのような世界と対峙して行かなければならないのか。せっかくあれだけの本を集めたのだ。少しは役に立ってもらわなければな」

 王はやや自嘲気味に笑った。

「それまでわしはずっと古い歴史とか遺物の研究をしていたのだ。だから現在の情勢のことなどにはあまり興味を持っておらなんだ。せいぜい国境を侵犯しようとしてくるエクシーレに注意しておく必要があっただけだ。全く良い身分だったと思ったよ。ところが調べていくうちにだんだんわしは背筋が寒くなってきた。いったいどんな所にミーラを放り出そうとしているか気づいたときにはな。まったくどういうことなんだろうな?」

 王は笑い、さらに続けた。

「ともかくだ。最後の本格的な戦争が起きてから三十年。各国共に一見非常に平和な状態が続いているように見える。だがこれが実に脆いバランスの上に成り立っていたのだ。遅まきながらこれに気づいたとき、わしはあの決定を取り消そうかとも思った……だが、あ奴は自分の約束を間違いなく果たしつつあった。わしはその決意と努力を無にしたくはなかった。それに今後フォレスに災難が降りかかったとき、別の者に王位を継がせたからといって、よりよい対応ができる保証があるだろうか?」

 そう尋ねると王はフィンを見た。

 フィンは小さく首をふるしかない。それを見て王が言った。

「だとすれば残るはあ奴に道を示すと同時に、いかにあ奴を支えてやれるかだ」

 それを聞いたフィンは目を見はった。それって……

「わし自身はそんなに長く支えていられるわけではない。とすれば、それができる者を探し出しておかねばならない。そうだろう?」

「はい……」

「なにしろな、フォレスはこのような田舎の小国だ。あたりを見回してみてもそれほどの人材がいるわけでもない。とりあえずは奨学金制度なども作ってはみた。だがその芽が出て来るまでにはまだまだ時間がかかる。だから今はそういった人材が一人でも欲しいのだ。ル・ウーダ殿、これがまさに貴公にお願いしたいことなのだ。そしてあ奴を、エルミーラを支えてやってはくれまいか?」

 その口ぶりは静かだったが、それは一国の国王であるのと同時に、娘の行く末を思いやる父親の顔でもあった。

 フィンは理解した。

 王はエルミーラ王女を支えていく家臣団を育てようとしているのだ。

 だがそれはそれだけでなく、次世代のフォレスを背負って立つ指導者グループでもある。

《これって……想像以上の責任だよな……》

 面白いとかそういったレベルの話ではない。

 ―――だが、フィンは嬉しかった。

 霧が晴れて目前の道がぱっと開けたような気持ちがする。

 答えはただ一つしかあり得なかった。

 フィンは立ち上がり、王の前に跪いた。

「分かりました。ル・ウーダ・フィナルフィン、喜んで尽力させて頂きます」

 聞いた王はほっとしたように笑った。

「はあ、それを聞いて安心したよ」

 フィンはもう一度王に礼をした。内心重荷を下ろしたような気分だった。

 と、同時に緊張が解けてどっと疲れが出てくる。

 フィンは立ち上がって部屋から下がろうとしたのだが……

「それはそうと、どうだ? 一局」

 そう言って王が部屋の隅の碁盤を指さしたのだ。

 フィンはちょっと言葉に詰まった。何しろ最近は寝不足で頭が今ひとつ回っていない。

 こちらに来てから王と何度もは対局していたが、彼は侮れない打ち手だった。

 少なくとも二人の実力はほぼ互角だ。当然手を抜くわけにはいかない。普段ならば最も面白い対戦相手だったのだが、こんな状態で相手するのは失礼かもしれない……

 そう思った所に王が続ける。

「昼からはちょっとティアと一緒に出かけなければならないんだが、それまでにはもう少し間があるしな」

 それを聞いては断るわけにもいかない。王は多忙なのだ。こうして碁を打てるような機会はなかなか少ないのである。

 仕方なくフィンは答えた。

「はい。喜んで」

 それを聞くと王はにこにこしながら碁盤を出してきた。

 二人はゲームを始めた。

 だが互いに石を打ち合っていても、フィンはそれに集中できなかった。眠い―――そしてなぜかアウラのことが思い出される……

 序盤のうちはそれでも良かった。二人ともそこそこの腕とは言っても、まだアマチュアレベルだ。序盤のわびさびを語るレベルには達していない。

 だが中盤以降の戦いになれば話は別だ。

 特に王の棋風は結構乱暴で、フィンがそこまでは来ないだろうと思っていた場所に平気で打ち込んできたりする。

 しかも打たれてみれば結構厳しい手の場合も多く全く気が抜けない。

 もちろん冷静に対処できれば良いのだが、そういった状況になるとフィンの方もついやり返してしまい、盤中で大乱戦が始まってしまうのが常であった。

 今回もそんな戦いになったが何とか頑張った結果、フィンが少し有利な状況で終盤を迎えていた。

 ところがそんなときにフィンは大きなミスをしてしまったのだ。

 王が隅の形を決めに来たとき、そこにはもう手がないと錯覚して、手入れが必要な場所を放置して別な所に打ってしまったのだ。

 果たして王はそのミスを逃さず急所に置いてきた。それを見てフィンは愕然とした。

 だがどうしようもない。結局そこはコウになり、コウ立ての続かなかったフィンは投了するしかなかった。

 王はにこにこ笑いながら言った。

「ル・ウーダ殿らしくないな。これは前にわしが食った筋ではなかったかな?」

 実際王の言ったとおり、以前フィンはそれと似たような手で王に勝ったことがあった。彼はうなだれて答えるしかない。

「はい、面目もありません……」

 どうも元気がないようなので、王はフィンの顔をのぞき込んできた。

「さっきから何かだるそうにしておるように見えるが、もしかして具合でも悪かったかな?」

「いえ、そういうわけでは……」

 フィンは思わず口ごもる。それを聞いて王がにやりと笑った。

「ならば良いが……だが夜更かしはそこそこにしておくのが良いぞ?」

「い、いえ、その……」

 フィンはさらに口ごもる。まぶたにアウラの姿が浮かぶと―――途端に顔がかっと熱くなった。

 それを王は見逃さなかった。

「はは。まあ、アウラ殿はなかなか美人であるしな」

「い、いえ、あの……」

 フィンはますますしどろもどろだ。王はさらに追い打ちをかける。

「ははは。わしにもそんな時期があったな。あのころはわしもティアも若かった。一日中でもそうしていたかったよ! にしてもそうだな。ル・ウーダ殿。いつまでも中途半端な状態では困るな。それでアウラ殿とは今後はどうなされるおつもりだ?」

 フィンは絶句した。いったい何と答えればいいのだ?

 そんな彼の態度が何かおかしいことに、そろそろ王も気づいてきた。

「ん? どうしたのだ? ル・ウーダ殿。貴公らの仲は城中の誰もが知っておるし、今更恥ずかしがるようなことでもあるまい? それにアウラ殿はいま貴公の部屋にお住まいなのだろう? そろそろそのあたりをはっきりさせておかなければとわしも思っておった所なのだが……」

「いえ、はい……」

 フィンは焦った。いったいどうしてくれよう。この際あのことを王に話してしまった方がいいだろうか?

「どうしたのだ? それともアウラ殿に何か?」

「いえ、違うんです」

 フィンは考えた。

 これはもうフィンとアウラだけではどうしようもない話だ―――だがいったい誰に相談すれば良いというのだろう? こんな話を王に相談? そんな恥ずかしいことが……

 だがここでごまかして、それでどうする? 何か解決のあてでもあるのか?

 正直そんなものはなかった。だとすれば……

 フィンは腹を据えた。というより半分やけくそだった。

「いや、あのちょっと何と言いますか、恥ずかしい話ではあるんですが……」

 そしてフィンは王に、彼とアウラの間にある問題に関して話し始めた。

 最初は笑いながら聞いていた王もことと次第を知るに及んで、笑顔がなくなった。

「そういうわけで、昨夜もあまりよく寝てないんです。本当にどうしたらいいのか……」

 王もしばらく絶句する。

「うーむ。そんな話は聞いたこともないな。だが確かにそんなにひどいことをされたとなると、そういうことがあるやもしれん」

「はい……」

「だが……少なくともわしもどうして良いか分からん。ともかく調べてみることにしよう。で、そういうことであればル・ウーダ殿、帰って休まれるが良かろう。こんなことで体を壊しても仕方ないしな」

「はい。分かりました……ありがとうございます」

 そう言って立ったが途端に立ちくらみがする。彼がふらついたことに王も気づいたようだ。

「ああ? 大丈夫か?」

「はい、大丈夫です」

 フィンはそれを何とか我慢すると、王に一礼してから部屋を出ていった。

 その後ろ姿を見ながら王がつぶやいた。

「それにしても次から次に……まったく!」

 王は大きくため息をついた。



 王の間から戻ると、フィンは軽い昼食をとって、すぐにベッドで仮眠を取ろうとした。

 だが体は疲れて頭はぼうっとしているのに、目だけは妙に冴えてしまってなかなか眠れない。

 フィンは毛布に潜り込んで羊を数えてみたりしたが、結局あきらめるしかなかった。

 寝ていられないなら起きるしかない。

 フィンはふらふらと立ち上がる。だが起きて何をする? 最近は図書館に行くのも億劫だ。そんな調子なので昨日も図書館に行かずに、部屋でごろごろしていたのだ。

 だがまだ読んでいない本はたくさんある。それだけでなくフィンは、今日の王との会見で中原についてはもっともっと調べる必要性を感じていた。

《とりあえず、行くだけ行ってみるか……》

 フィンはもう一度顔を洗うと図書館に向かった。

 彼は閲覧室に入るとこの間まで読んでいた本を取りだした。

 だがやはり頭がうまく回らない。何が書いてあるのかさっぱり呑み込めないのだ。

 フィンは必死になって文字を追おうとした。だが今度は急に文字がぐるぐる回り出してきた。

 彼は文字を追うのを諦めて、椅子に深くもたれかかった。そうやって天井を眺めると、今度は急に眠気が襲ってきた。

《いかん! 何だよ! これは!》

 こんなところで寝てしまったら来た意味がない。フィンは再び本に集中しようとしたが、ふっとそのまま意識を失ってしまった。

「……フィン?」

 どこからか声が聞こえる……

 目を開けると―――見覚えのある腕輪が見えた。顔を上げると、ナーザが心配そうにのぞき込んでいる。

 フィンははっと体を起こした。

「大丈夫? 顔色が良くないわよ」

「え? あはは。大丈夫です」

 そのときまためまいがした。

「とてもそうは見えないわ。お医者様に見てもらった方がいいんじゃない?」

「え? そんな大したことはないんですよ。あはは」

「まあ、そうなの? だったらこんな所じゃなくて、夜ゆっくり寝た方がいいんじゃなくて?」

「え?……あはは。そうですよね。あはは」

 笑ってごまかそうとするフィンに、ナーザは真剣な表情で答えた。

「あまり笑い事ではないんじゃない? 私ね、先ほどアイザック様から相談を受けたの」

「え?」

 驚いてフィンは彼女を見つめる。ナーザは彼をじっと見つめると低い声で尋ねた。

「何かアウラとうまく行ってないんですって?」

 彼はしばし凍り付いたようにナーザの顔を見ていたが―――それから黙ってうなずいた。

「あの、すみません……」

「そうだったのね……いえ、謝ることはないわ。それに実はエルミーラ様も少し心配していたのよ」

 え? 王女が心配って?

「あの……何をですか?」

「アウラが時々ふさぎ込んでるんだって。でも尋ねても何でもないって言うだけで……」

「……そうですか」

 彼の前ではずっと明るく振る舞っていたようだが、アウラも彼女なりに悩んでいたのだろう。それに気づいてフィンはますます心苦しくなった。

 フィンがそれ以上答えないので、ナーザが更に尋ねる。

「それで、私にもそのことを話して下さらない?」

 ナーザに? 男同士でもなんだか恥ずかしい話なのだが……

 だが考えてみればこんな場合は彼女が一番頼りになるかもしれない。あの暗かったアウラを変えてくれたのも彼女だったではないか? ならば今度も何か名案を考えてくれのでは⁈

 そこでフィンは語り始めた。

「実はアウラは……ほら、前に言ってましたよね。あの冬の小屋でひどい目に逢ったって」

「ええ」

「それがまだ尾を引いてるみたいなんです……」

 フィンはつっかえながら、そのために正常な夜の営みができなくなってしまっていることを告白した。

「というわけなんですが……」

 ナーザもそれを聞いて目を丸くした。

「まあ……そんなことに?」

「いったいどうしたらいいんでしょう?」

 ナーザは考え込んだ。

「それは……難しいわね……」

 それを聞いたフィンは目の前が真っ暗になった。ナーザでもどうしようもないのか?

 よっぽど情けない顔をしていたのだろう。ナーザは苦笑しながら答える。

「そんな顔しないで。今すぐは分からないけど、直せないって決まったわけじゃないわ」

「直せるんですか?」

 思わずフィンは彼女ににじり寄る。

「そんなに急かないで。ともかくもう少し詳しくお話を聞かせて下さらない?」

 え?

「その、詳しくって?」

 いったい何を詳しくだ? いや、この文脈からなら答えは一つだが……

 それに対してナーザも少し顔を赤らめながら言った。

「だから、そのときあなたがアウラにどうしようとしたか、そのあたりを具体的に詳しく、なんだけど……」

「う……」

 具体的にって、具体的にか⁈ そしてフィンはそのときの具体的なイメージをちょっと思いだしてみたのだが―――途端に顔から火が出そうになる。

「あ、あの……話さないとだめですか? やっぱり……」

 ナーザも顔を赤らめて答える。

「そうしてくれた方が……糸口が掴みやすいと思うけど……」

 ………………

 いくら何でも……だが……

 そんな調子でフィンがぐずぐずしていると、ナーザが冗談めかして言った。

「それとも実地じゃないとだめ?」

「じょ、冗談言わないでください!」

 そんなところを見つかったら、今度こそ殺される‼

 あまりの真顔の反応にナーザは苦笑した。

「ごめんなさい。でもこれは重要なことなの。だっていきなり彼女にこんな事聞けないでしょ?」

 それはそうだが……

「それにこれはエルミーラ様にとっても重要なことなのよ」

「エルミーラ様に?」

「ええ。だってあなたも王様に約束したんでしょう? エルミーラ様を一緒に支えて下さるって」

「え? それは、はい」

「それは彼女も同じなの。役割は違っても、私たちは彼女に期待しているの。だから彼女には元気でいてもらわないと。特に王女様の命を預かっている人なんだから」

 フィンはうなずいた―――考えてみれば当然のことだった。

 王女というのはいつどこでどういう理由で狙われるか分からない立場だ。その命を預かる役割なのだ。常に万全の状態で控えていなければいけない立場なのだから……

「それに彼女、こういった悩みを誰に相談すればいいのか分からないのね。エルミーラ様やあの女官達じゃあてにならないし……ともかく一度私が彼女と話す必要があるでしょうね。でもなるべく本人を刺激しないようにしないと。だからあなたからできるだけのことは聞いておきたいの」

 そう言ってナーザは真剣にフィンを見つめる。

 覚悟を決めるのにはしばらく時間が必要だったが―――これは仕方のないことなのだ。

 そしてやっとフィンは心を決める。

「分かりました……お話しします……」

 そうは言ったものの、具体的に何から話せば良いのだろうか?

 あの日の夜のことは克明に覚えているが―――それともアウラがバルグールに呼び出されたときのことから話さねばならないのだろうか?

 それとも部屋に入れてアウラの服を脱がせたあたりから?―――って、そんなところを冷静に話すことなんて―――それにもしかして全然手順がおかしいとか言われたら……

《うわあああ……》

 そのときだった。いきなり慌てた様子の女官がやってきたのだ。

「あ、ナーザ様。こちらでしたか!」

「どうしたの?」

「実は……」

 女官はナーザに何かささやいた。

 フィンは自分の事に夢中だったのでほとんど気にも留めなかった。ナーザは多忙なのでこういった事は良くある。

 だからフィンは女官の言葉を聞いてナーザが驚愕したことにも気づいていなかった。

「それじゃアウラがあいつに呼び出されて……」

 心を決めてフィンはやっとこのように話し始めたのだが―――それはいきなりナーザに遮られてしまった。

「あ、ごめんなさい。フィン。ちょっと急用ができちゃったのよ」

 そのとき初めてフィンは、ナーザの顔にひどく極まり悪そうな表情が浮かんでいるのに気づいた。

「ええ?」

「ごめんなさい。この話はまた後にして下さる?」

 ここまでしといてそれはないだろ! と叫びたかったがそうもいかない。

「ええ? はい……」

 フィンが曖昧に答えると、ナーザは軽く礼をしてから女官と一緒に小走りで行ってしまった。

 フィンは呆然とその後ろ姿を見つめるしかなかった。



 アウラは王の庭の真ん中にある池の畔でぼうっと考え込んでいた。

 王女はまた離宮で勉強をしている。三人娘達も自分の仕事で忙しい。

 誰か話し相手がいればもう少し気が紛れるのだが―――こんなときはどうしてもフィンのことを思いだしてしまう。

 アウラはため息をついた。

 彼女にもよく分かっていた。本当ならフィンと別な部屋に寝た方がいいのだろう。彼女はフィンがほとんど寝ていないことも薄々知っていた。

 だがアウラは一人で寝るのが怖かった。どうして今までずっと一人でいられたんだろう? それがまるで当たり前だったかのように―――もしもう一度前の生活に戻れと言われたらどんな気持ちになるだろうか?

 アウラは首を振る。だめだ。もうそんなことできっこない。

《でも……》

 それがフィンを苦しめているのだ。

 自分が普通の女なら一緒に悦びを分かち合うことができるだろう。だが彼女の体はどこか壊れているようなのだ。

『これはフィンなの! フィンなのよ!』

 そう思ってアウラは何度も我慢しようとした。

 だが傷の痛みがそんな努力を押しつぶしてしまう。結局気づいたときには彼女はフィンを突き飛ばしてしまった後なのだ。

 フィンは優しい。そういう彼女に怒ることもなく一緒に眠ってくれる。

《あたし……フィンに甘えてばっかり……》

 彼女も返してあげたかった。フィンの求める物を与えてあげたかった。

 こんな彼女をフィンはいったいどう思っているのだろうか? いつか愛想を尽かされてしまうのではないか?

 そんなことになったら―――そんなことになったら……

 そのときアウラは向こうから人がやってくる気配に気がついた。

《誰?》

 アウラは立ち上がった。ここは王家のプライベートエリアだ。侵入者を許してはならない。

 やってきたのは若い男だった。

 良い服装をしているが見慣れない顔だ。その上帯刀している―――帯刀だって? 王宮内で信頼されている警備兵以外には許されない行為だ!

 男はちらっとアウラを見たが、全く無視してそのまま奥に入っていこうとする。

「お待ち下さい」

 アウラは言った。男が立ち止まる。

「何だ?」

「この先は立入禁止です」

「知っている」

 そう言って男はまた歩きだそうとする。知っているくせに入る気か?

 アウラはその前に立ちふさがった。

「ご存じならばお引き取りを」

「お前は新参だな?」

「そうですが?」

「話にならない。引っ込んでいろ!」

 アウラはそろそろこの無礼な男に頭に来ていた。

「そういうわけには参りません」

 アウラは最大限の我慢をしながら言った。だが男はそんなアウラの努力を踏みにじった。

「そこをどけ! 無礼者!」

 これにはアウラの忍耐も切れた―――元々アウラの忍耐の糸はあまり太くなかったのだが。

「どっちが無礼者よ!」

 アウラは薙刀の柄で男の足を払う。男は不意を突かれて転倒した。

「貴様! 何を……」

 男は慌てて起きあがろうとして声を失った。喉元にぴたりと薙刀の刃が突きつけられていたからだ。

「衛兵!」

 アウラは叫んだ。その叫びを聞いて何人かの兵士が駆け込んできた。

「こいつを引っ立てなさい! 侵入者です!」

「は!」

 衛兵はそう言って男の顔を見るが―――途端に彼らも声を失った。

「どうしたのよ!」

「あ、あの……」

 兵士達は口をぱくぱくさせるだけだ。

 そのときだ。

「どうしたの? 何が起こったの?」

 どうやら騒ぎを聞きつけて、王女が出てきたらしい。

「ミーラ! 暴漢よ! 危ないから下がってて!」

「え?」

 そのときアウラに取り押さえられている男が叫んだ。

「エルミーラ! これはいったい何なんだ?」

 アウラは王女をなれなれしく呼ぶこの男に対して、ますます腹が立った。

《王女様に何て口の利き方?》

 アウラは本気で男を痛めつけてやろうかと思った。

 だがそれを聞いた途端に王女の目が丸くなると、彼女は慌てた様子でやってくる。

「ちょっと、ミーラ!」

 アウラは止めようとしたが、そうすると男を自由にさせてしまう。

 王女は近寄ってきてその男をまじまじと見下ろすと―――次いで大きな声で笑い始めたのだ。

「あーっはっはっは! 何よ! その格好‼」

 そろそろアウラも何だか様子がおかしいことに気づいてきた。

「エルミーラ!」

 男がまた叫ぶ。顔はもう真っ赤だ。それを聞いて王女が笑いながらアウラに言う。

「は、放してあげて!」

「え?」

「その人は暴漢なんかじゃないわ」

「え? でも……」

「そういえばまだ顔を知らなかったわよね。彼がね、ルースなの」

 十六トンの錘が落ちてくるというのはまさにこんな場合であった。