第8章 ブルーサンダーの秘密
―――と思ったのだが……
《うー、やっぱりまずったかなあ……》
フィンは激しく後悔していた。
彼らの馬車―――メイ曰く“ベル君”は今、フレーノ卿の領地、ファーラ地方の街道をひた走っている。
ここはハビタルから少し離れた平原地帯で、見渡す限りの小麦畑が広がるかと思えば、一転して深い森に覆われたり、小さな湖沼が点在する湿原が現れたりする。そんな変化に富んだ光景だったのだが、フィンにはそれをゆっくり楽しんでいる余裕はなかった。
なぜなら馬車の中には彼とメイだけでなく、斜め前にファリーナが座っているのだ。
彼女はハビタルの厨房でお菓子作りを担当しているそうで、とびきりの美女というわけではなかったが、その清楚な雰囲気に好感が持てる、フィンと同い年くらいの女性だった。
現地の住人として彼女も他に漏れず“涼しそうな”衣装を纏っており、健康的な手足にお臍、ふんわりと膨らんだ胸元には深い谷間が覗いている―――などと普段ならばまずそこが気になってしまうものなのだが、今フィンの心をかき乱しているのは全く別な思いだった。
《夕べの説明……やっぱり耳に入ってないんだろうなあ……》
あの後フィンはメイと厨房の料理人に連れられてファリーナの下宿まで向かった。
そこで彼女はやつれた様子で伏せっていたのだが、彼がフレーノ卿の無実を晴らせる可能性があると言った途端にまさに跳ね起きて、そのまま彼の前に平伏したのである。
そこで、あくまで“もしかして”の話だから、やっぱりダメなこともあるだろうからと口を酸っぱくして説明はしたのだが―――それから彼女がフィンを見るときの眼差しは、まさに“神”を見る目なのである。
《行ったけどやっぱり分かりませんでしたじゃ、むしろ一生恨まれないか?》
どちらかというとそうなる可能性の方が遙かに高いのだが―――しかもメイはメイで……
『大丈夫ですよ。この方は都からやってきてフォレスにお仕えしているル・ウーダ様なんです。だからきっと何とかしてくれますよ』
などと全くわけの分からない理由で彼女を焚きつけてるし……
―――そんなことをぼやいていても始まらない。
《ともかく今はいろいろ考えておかなきゃ……》
ハビタルからフレーノ卿の屋敷まではずいぶん時間がかかる。フィンは出発してからその間、卿の馬車が盗まれたのだとしたらいったいどんな手口だったのだろうか? ということを考え続けてきた。
そもそもあれは彼がその場の思いつきで口走ったことなのだが―――ベラは魔導師の本場だから、魔導師が“敵”の仲間にいることはそれほど不思議ではない。
だが力ある魔導師というのはまさに高給取りだ。
馬車を持ち上げて壁越えさせられるような力があれば、大岩を飛ばして城門にぶち当てたりすることもできるわけで、それだけで十分に他国の魔導軍へ派遣できる実力になる。すなわち金のためにそんな危ない橋を渡るとは思えない。
だが―――今回の場合は義憤に駆られて仲間になったということはあり得るかもしれない。何しろフィンから見てもロムルースは、国長としては少々どころでない問題がありすぎる。
だがそれなら罪を関係ないフレーノ卿になすりつけようとするだろうか?
《動機はともかく、そういう魔導師が仲間だったとしてもだ……》
馬車を魔法で持ち上げていたりすれば、間違いなく遠くから見えてしまう可能性が十分にあるわけで……
フレーノ卿はその日の朝出ていって、帰ったのが翌日の午後だった。彼がそんな遠乗りに行くのはかなり気まぐれで、そのときも朝になってからいきなり思い立って行ったのだという。
すると敵はあらかじめ卿が外出することを知り得なかったということで、何らかの手段でフレーノ卿が出ていったのを知ってから急いで事に及んだことになるわけだが……
《首領が急に呼び出されたとか言っていたのとは付合するんだけどなあ……》
しかしそれだと馬車の窃盗は白昼堂々と行われたことになる。
《ファリーナが言うには車庫のあたりは人気が少ないそうだけど……》
でもやはり馬車を飛ばすというのは、見つかる危険も大きいだろうし―――それだけでなく、馬車を車庫から出す方も問題だった。
瞬間移動なんてのはさすがに論外だ。これはそもそも送り出し地点と到着地点に別々の魔導師がいて、その二人が心話でリンクして初めて可能になる技だ。そんなことができるのは超高位の魔導師だけで、都でも数名いるかいないか。ベラでも同様だろう。しかも失敗することも多々ある。
《そんなことするくらいなら車庫ごと持ち上げる方がまだマシだよな?》
そう思って笑い出しそうになったが……
《あれ? でも屋根とかに細工があったんならどうだろう?》
その場合、車庫建設のときから仕込んでいたことになるだろうが……
《でももしそうならいろんなことができるよな?》
例えば秘密の扉があったりして―――これなら調べてみる価値はあるだろうか?
あと、魔法にも馬車を持ち上げるような大技と違って、繊細な念動力で鍵を開けたりすることができる者もいる。だがこれはこれで相当に難度の高い技だし……
《ってか、そのへんはやっぱり合い鍵だよな?》
フィンはなまじ魔法には詳しいせいでそんな方向ばかり考えてしまうが、常識的にはこちらのほうが普通である。ならば家人をごまかしたり、熟練した盗賊が侵入したりとかいった手段を使えば可能なのだが―――そうなると彼らがちょっと行ってみたところで、証拠をつかむことなど無理なのではないか?
そう思うとため息が出てきてしまうが……
「どうしました? お腹すきましたか?」
メイがフィンをのぞき込んでいる。
「え? あ、そうだな……」
ハビタルを発ったのはまだ日の昇らぬ早朝だった。あれからずいぶん走っている。
「じゃあお弁当、食べましょうか。皆さんが作ってくれたのがあるんですよ」
メイが何段にも重なった重箱を開け始める。
「うわ、何だかマジすごいな……」
館の料理人たちが、揺れる馬車や馬上でも食べやすいようにと、道端によく屋台が出ているような蒸し饅頭をメインにした弁当を作ってくれたのだ。
ところがその中に入っている具というのが、まさにベラ最高の業で仕上げられた山海の珍味なのだ。しかも夜っぴて作ってくれたそうで、フレーノ卿の件に関してはみんな本当に心を痛めているらしい。
《うう、期待に応えられるかなあ……》
最高に贅沢な肉饅頭をかじりながら、なんだかますます気が重くなってしまう。
《ともかく落ちこんでいても仕方ないよな……》
フィンは少し別な方向から考えてみることにした。
聞けばフレーノ卿が持っていたブルーサンダーとかいう馬車は、ものすごく目立つ馬車らしい。
暗殺団の首領との密会があったのは、フレーノ卿の領地から少し外れた場所にある田舎の村だった。だとしたら屋敷からその村までの街道筋に誰かしら目撃者がいるはずだ。
だがネリウス長官の配下が付近を聞き込んだにも関わらず、目撃者は誰もいなかったという。
《ってことで、裏道を行ったってことになってるんだが……》
そんな裏道は地図に載っていないことが多い。だがフレーノ卿はよく遠乗りに行っているので領内の道に詳しかった。そのことも卿が首謀者という傍証とされていたが……
《もちろん敵にも道案内がいるんだろうけど……》
すなわち領内に仲間がいる可能性が高いわけだが―――そんなことをこれから聞き込むわけにもいかないし……
と、そのときフィンはふっと気になってファリーナに尋ねた。
「あ、ファリーナさん。このあたりの裏道も道はひどいんですか?」
「え? そうですねえ。主街道をはずれたらひどいんじゃないでしょうか」
「そんなところを走ったら、やっぱり馬車は汚れてしまいますよね?」
「ええ、まあ多分……荷車とかはいつもドロドロですから」
それからフィンはメイに尋ねる。
「なあ、メイ。そういうところをそんな高級車で行って大丈夫なのか?」
それを聞いたメイは大げさに首をふる。
「全然大丈夫じゃないですよ! ベルッキのランドーはすごく繊細なんです。あんまり凸凹したとこを飛ばしたりしたら壊れちゃいます。そういうところだったらラットーネの方をお勧めしますね。あそこのは本当に頑丈ですから……」
たしかフレーノ卿の供述にも、あの馬車は大切だからそんなところには乗っていかない、とあったが―――だからこそあえてそうしたという解釈も成り立つわけで……
「でもそれなら、戻ってきたときには馬車もドロドロになってたはずだよな?」
「そういうことになりますねえ……でも馬車が汚れてたなんて話はありませんでしたよね?」
「ああ。ってことは、どこかで汚れた馬車を洗って返したってことになるな?」
犯人は律儀な奴なのか?
「そうなりますねえ。ブルーサンダーがあんなになってたら、私ならもう泣いちゃいます」
「しかし……泥棒が車庫で洗車してるわけにはいかないから……どっか洗える場所が必要だったってことだよな?」
「そうなりますねえ……まあ綺麗な川があれば、あとブラシと桶とかを積んでおけば……」
ともかく犯人達はそういう準備をしていて、戻ってきたあとは馬車を車庫に戻す前に近くの川岸でじゃぶじゃぶ洗ってたってことか? なんとなく間抜けな光景に見えないこともないが……
そのときだ。
「あ、見えました。あそこです!」
ファリーナが指さした先には、森に覆われた低い丘の上に、灰色の土壁に囲まれた屋敷が見えた。
ほどなく馬車は屋敷の正門の前に到着した。頑丈な木の扉が大きく開けはなたれており、その脇には門番が二人立っている。彼らはいきなりやってきた見知らぬ馬車の前に立ち塞がったが、そこにファリーナが飛びだしていった。
「ディルさん! エディさん!」
「ああ? ファリーナちゃんじゃないか⁉ どうしたんだ」
「それが、このお方がお館様の無実を証明しに来てくれたんです!」
と、馬車から続いて出ようとしていたフィンを指さした。
《ちょっと! その紹介は、だから……》
もちろん門番は仰天した。
「本当ですか?」
「いや、だからまだ……」
彼らはその先を聞こうともせず……
「おい! パウロム様に、それから旦那様にもお伝えしろ!」
「承知しました!」
一人はそのまま奥に駆けこんでいく。
「さあ! どうぞこちらにお越し下さい!」
ファリーナと残った門番がきらきらした目でフィン達を中に誘うが……
《いや、だからね……》
彼らが立派な木造の屋敷の玄関にたどり着くと、中から五十歳を越えたくらいの白髪の男と、四十台ぐらいの女性、それに十歳くらいの少年が息せき切って飛びだしてきた。
「あの人を助けて頂けるのですか⁉」
「やはり父上は無実だったのですね?」
少年と女性が同時に尋ねる。
「いえ、だからもしかしたらその証拠が掴めるかもしれないと……えっと?」
その剣幕にたじたじなフィンに、白髪の男が答えた。
「ああ、申し遅れました。私はこの屋敷を預かっておりますパウロム。こちらが奥方のレグリナ様、こちらが当代のご当主になります」
「あ、フレーノ・アルドルです」
少年が慌てて礼をする。
《そういえば家名断絶は免れたんだっけ……》
普通このような反逆行為が行われれば家名は断絶、領地は没収というのが相場だが、他の家臣たちのとりなしで何とかそうならずに済んだと聞いていた。
「あの、ともかく最初に申し上げますが、私たちは決して良き報せをもたらしに来たわけではありません。ただ、図らずもフレーノ卿の、何と言いますか、運命に関わってしまいまして、それで私たちにできることはないかと、ただそれだけなのです」
それを聞いてやっと彼らも少し話がうますぎると気づいたようだ。
「それであなたはどちらのお方で?」
パウロムがやや不審そうな表情で尋ねる。
「あ、自己紹介が遅れておりました。私はフォレスの名代としてやって参りました、ル・ウーダ・フィナルフィンと申します」
その名はさすがに彼を驚かせたようだ。
「ル・ウーダ⁉ ではその……」
「はい。私たちがたまたまハビタルを訪れたために、処刑が日延べされてしまったのです」
「…………それでそのお方がいったい何を?」
「車庫や裏口、それに馬車などを見せて頂きたいのです。例えばそこで馬車が何者かに盗み出されたといったような証拠が見つかれば、もっとちゃんとした再調査が必要ということになって、意味ある日延べをお願いできるかもしれません」
パウロムは明らかに落胆気味にうなずいた。
「……承知いたしました。どうぞこちらに……」
そのあとに続きながらフィンも内心ため息をついていた。
《そりゃそうだよなあ……こんなんじゃ……》
こんな理由では普段なら間違いなく門前払いだろうが、もう藁にもすがる気分なのだろう。
一行は屋敷の裏手にやってきた。
そこは広い裏庭になっていたが、あちらこちらに木立があって見通しはあまり良くなかった。
車庫は確かに母屋から離れていて、ここなら少々音を出しても気づかれにくい。また裏門は目と鼻の先だった。
《つまりこっそり出そうと思えば出せたってわけか……》
裏門は頑丈な木でできており、内側から鍵がかけられるようになっている。
「ちょっとこの先を見ていいですか?」
フィンが閉じた裏門の先を指さす。それを聞いてパウロムが……
「それでは鍵を持ってきましょう」
と、引き返そうとしたが、フィンがそれを呼び止めた。
「いえ、それには及びません」
フィンは彼にできる数少ない軽身の魔法でぴょんと跳び上がる。パウロムはおっと声をあげたが、もちろんそれ以上は驚かない。
裏門の外はちょっとした空き地になっていたが、その先はすぐに深い森に続いている。
「この森は広いんですか?」
「そうですな。歩けば抜けるのに小一時間はかかりますか」
ともかく何かをコソコソするには向いているわけだ。あとで馬車が洗えるところを探してみるか?
フィンはまた飛び降りてきて尋ねる。
「裏門はあまり使われないのですか?」
「そうですな。表から出すのを憚るようなものが出た場合に使われます。汲み取りやゴミ出しや、それに病人などが出たときもそうですが……ただあの日はそういうことがありませんでしたので」
「そうですか……」
この構造だと裏門は内側からは開けられるが、外からは無理だ。すなわちどうにかして鍵を手に入れて裏門から出ていっても、鍵が開いているのが見つかれば閉め出されてしまうことになるわけだが……
《盗まれたとしたら犯人はその日にゴミ出しがないことも知ってたってことか?》
これがフレーノ卿なら裏門が使われる日取りは分かっているわけで―――これはむしろ彼の方に不利な状況だ。
また飛び上がったとき塀の上からは館の上の部分がはっきり見えていた。ということは塀越しに馬車を出し入れしていたら、上階からは丸見えということでもある。
《うーん……何だかますますダメっぽくなってきてるんじゃ……》
まさに可哀相なファリーナをぬか喜びさせただけの結果になってしまうのか?
「あの、それでは車庫の中を見せて頂けますか?」
内心落胆しつつも、フィンは車庫に最後の望みをかける。
「はい」
ブルーサンダーの車庫は、かなりしっかりとした建物だった。パウロムが扉を開ける前に鍵をよく見せてもらったが、これにもとりたてて言うべきことはない。
鍵を開けると扉はほとんど音もなく開き、その中にあった豪華な車体が日の光を浴びてきらめいた。
「うわあ! すごいですねえ! 初めて見ましたよ。ブルーサンダー!」
メイが感動の叫びをあげる。
「これは……」
こういうことにはあまり興味がなかったフィンも思わずため息を漏らした。
繊細な彫刻が施された車体には金色に輝く車輪がついていて、その上には巨大な甲虫を思わせる客室が乗っている。全体が黒漆で艶やかに塗り上げられており、枠組みには金や宝石の象眼が施されていた。何よりも目立つのが側面の扉に虹色にきらめくフレーノ家の紋章だ。
それは確かに王女の馬車にも匹敵するような豪華な乗り物だった。
「うわー、近寄ってみてもいいですか?」
「はい。構いませんよ?」
パウロムがうなずくとメイはほとんど駆けよらんばかりに近づいていって、また歓声を上げる。
「ぴかぴかですねえ……」
「ええ、しばらくは使っていませんから」
パウロムが言うにはこの馬車が最後に使われたのは事件のさらに一月ほど前、フレーノ卿がハビタルに行ったときで、それ以来使う機会がなかったという。
もしこれが密会に使われたとしたなら、終わったあとさぞ一生懸命に洗ったのだろうが……
《うーん……》
何だかしっくりこない―――フィンは首をかしげながら車庫の内部を点検しはじめた。
だが壁をじっくり見て回っても、床を見てもとりたてて変わったところはない。
それからまた飛び上がって屋根に仕掛けがないかどうか調べるが―――やはり変わったことはない。
《まあそうだよなあ……普通は……》
そんな仕掛けなら間違いなく巧妙に隠されているはずだし、フィンはそんな仕掛けの専門家でもない。
ため息をついて下を見ると、相変わらずメイが「あー」とか「おー」とか言いながら馬車の回りをぐるぐる回っている。
《もしかして馬車が見たかっただけなんじゃないのか? あの子……》
それからフィンが車庫の奥の方を調べようとしたときだ。
「あれーっ?」
メイが馬車の下に潜り込んでいるが……
「どうしたんだ?」
「いえ、ル・ウーダ様、なんか変なんですが……」
「変って?」
フィンはそのまますとんと馬車の脇に飛び降りる。二人の様子を見ていたパウロムも近づいてきた。
「いえ、これなんですけど……」
そう言ってメイが人差し指を突き出したのだが……
「…………汚れてるな?」
「そうなんですよ。汚れてるんです」
「そんな馬車の下なんて少しくらい汚れてるだろう?」
ところがメイが首をふった。
「いや、ほら、この馬車で密会に行ったんなら裏道を通らなくちゃならないから、泥をかぶっちゃうって話でしたよね?」
「ああ、そうだが……」
「でもこれって泥汚れじゃないんですよ? 積もってた埃で」
「あ?」
要するにどういうことだ? フィンの不思議そうな表情を見てメイが勇んで説明を始めた。
「えっとほら、見て下さい。このもう感動的な透かし彫り。これって適当にやってるんじゃないんですよ。元々は車体を軽量化するために空けてた穴なんだそうですが、それをこんな芸術作品にしちゃったんですよ。ベルッキは。そしてですねえ……」
メイが手招きして馬車の下に入りこむ。フィンとパウロムはちょっと顔を見合わせると、馬車の下を覗いた。
「ほらほら。さすがベルッキです。見て下さい。こんなところも全然手を抜いてないんですね」
指さされたところは外からは見えないのに、ちゃんと彫刻がなされていた。
「で、何が変なんだ?」
「だからですねえ、こんな彫刻のところって、泥をかぶったりしたらもう掃除がメチャクチャ大変なんですよ。こんな隙間に泥が詰まったらちょっと洗ったくらいじゃ落ちなくって、もう細い綿棒とかでちまちま取らないといけなくなって……以前一度お手伝いしたことがあるんですが、もう大変の何のって……」
「君、馬車屋のバイトもしてたのか?」
「いえいえ、遊びに行ったらやってみるかって言われたんで……でも今から考えたらタダ働きさせられたんですよねえ。あはは。さすがにあれは二度とやりたくないって思いましたもの」
んで、要するに何なんだ?
「だからその、もう少し分かるように説明してくれないか?」
メイは大きくうなずいた。
「あ、だから見て下さいよ。もしこの馬車が泥水をかぶったのなら、ここには泥がいっぱい詰まってるはずですよね」
「あ!」
だんだん彼女の言わんとしていることが分かってくる。
「その汚れは泥じゃないんだな?」
「そうなんですよ。これは土埃みたいなのが時間をかけて溜まったもので。泥だったらもっとざらざらしてるし」
「ってことは……この馬車は泥はかぶってないと?」
「そういうことになりますね」
「でもそれこそ必死に洗ったって可能性は……」
「だったらこの埃も落ちちゃいますよね? 二ヶ月じゃこんなに埃は溜まらないと思うし」
フィンとパウロムは顔を見合わせた。
「じゃあ何か? この馬車はあの密会には使われてないってことか?」
「そうなんじゃないですか? 泥をかぶらずに行ける裏道があったなら知りませんが……」
フィンはパウロムに尋ねる。
「そんな経路はあり得るんですか?」
彼は首をひねる。
「え? いや、どうでしょう? 街道沿いならともかく、どこも似たような物だと思いますが……もちろん絶対とは言い切れませんが……」
だが街道沿いで馬車は目撃されていない。
ということは?
「じゃああそこに現れた馬車は偽物だった公算が高いってことになるけど……いやでもメイ! そんなことできないんじゃなかったのか?」
それを聞いたメイは眉をしかめて豪華な馬車を指さした。
「だって、こんなのの偽物をどうやって作るんですか? プロが見てもばれなかったんですよ?」
その現物を前にしてはフィンも返す言葉がなかった。目の前にある絢爛豪華な乗り物は、そのパーツ一つでさえ偽造するのが途轍もなく困難なことは明らかだ。
そのうえ目撃者には馬車職人も含まれていた。
「偽物を作ろうったって、もうそのへんの職人なんかじゃ絶対無理で、ベルッキ本人をさらってくるしかありませんよ?」
いや、それって本物って言うんじゃ? というのはともかく……
「それに職人がいても大きな工房は必要になるし、専用の工具だっているし……まあ工房はどこかの悪い領主が館の地下に作ってたりして……ああ、でも組み立てだけじゃなくって、こんな飾りとかはまた別な職人さんが作るから、そういう人もさらってこないといけませんよねえ……」
確かに気が遠くなりそうな話だ―――と、そこでメイが宙を見上げて少し考えこむ。
「あーでも……」
「でも?」
「いや、ないですね。他のと見間違えるなんてことは……」
「見間違えるって?」
「ですからブルーサンダーには同型車があるんですよ」
「同型車?」
「ほら、王女様のフェザースプリングは一品物なんで、本当に唯一無二って言えるんですけど、ブルーサンダーとかは同じ図面から作るんで、同じような見かけのものはいくつもあるんです。全部図面が違ってたら部品の管理とかが大変でしょう?」
メイはあっさりと説明するが……
「ちょっと待てよ! それじゃそういうのを持ってる奴がいたら……」
だがメイはちっちっちと指を振る。
「でも見て下さいよ。この紋章」
彼女は馬車の扉に象眼されたフレーノ家の紋章を指さした。
「そもそも、こんなすごい紋章が入ってるのは珍しいんですよ。これ入れるだけでがんと値段が跳ね上がっちゃうんで……それにあとで売りたいときにも困るし。だから普通は紋章なしが多いんですよ。だったら見間違えることもあるかなって思ったんですが……」
「ああ、そういうことか……」
現場で目撃された馬車には明らかにフレーノ家の紋章が入っていたと証言されている。
「でも上から紋章を描いたとかは?」
と、尋ねたフィンに返ってきたのは、何か残念な人を見るようなメイの眼差しだった。
「無理ですって。見て下さいよ。これ……すごいでしょ? 綺麗ですよねえ。惚れ惚れしちゃいますよねえ……この白、虹色に光ってるでしょ? これはサルトスの先のテルネラ海岸でとれる大きな貝から作るそうなんですよ。これを扱える人はガルサ・ブランカにも何人もいませんし、紋章の縁取りになっている金細工もそうですよ。それぞれがみんなもう名匠クラスの職人さんが手がけたものなんで……だからもうガルサ・ブランカじゃないと紋章を入れることもできないんですよ。それにこの塗りも見て下さい。深みがあって艶やかで、この扉のカーブそのものがまさに匠の技ですよ……あはは……」
なにやらうっとりとウンチクを垂れ続けるメイを横に、パウロムがぼそっとつぶやいた。
「はあ、だからあんなにお金がかかったんですか……」
「何にですか?」
フィンが尋ねるとパウロムがため息まじりに答える。
「いえ、昨年のことなんですが、ちょっとした事故で扉に大きな傷が付いてしまって……その修理代に金貨が十二枚も必要でしたよ……」
「金貨十二枚?」
「ええ? そんなにも?」
フィンとメイが同時に声をあげる。
それは相当の大金だ。平均的な庶民の年収クラスではないか―――フィンは何ともコメントしようがなかったのだが……
「あのー、扉の修理にそれって、ちょっとぼったくりすぎなんじゃないですか?」
メイが首をかしげている。
「は?」
パウロムが驚いてメイを見る。
「傷が付いたのを直したんですよね? だったらパテで埋めて、きっちり磨いて塗り直すんですが、いくら何でも金貨十二枚なんて……足下見られたんじゃ……」
「いえ、私は馬車のことはよく分かりませんから、お館様の言うなりに出しただけなんですが……」
「どの扉ですか?」
パウロムが左前の扉を指さしたので、メイは顔を近づけてその扉を調べる。
「どこに傷なんてあるんですか? 埋め直したんなら、よく見れば分かるものなんですけど……」
「いや、そのあたりだったと思いますが……」
メイはパウロムの示したあたりをもう少し調べてから、次いで隣の扉と見比べると……
「あっ! なんだ! よく見たら扉ごと新しいじゃないですか! それなら納得ですよ。フレーノさん、傷が分かるのが嫌だったんで扉ごと交換しちゃったんですよ、きっと。それならそのくらいかかってもおかしくありませんから……」
扉を? 交換した?
………………
…………
……
「なあ、メイ」
「なんでしょう?」
「同型車って元の図面が同じって言ったよな?」
「はい。そうですが?」
「だったら同型車同士なら、扉を交換することもできるのか?」
「え?」
メイは一瞬ぽかんとして……
「あ、あ、あああああ!」
フィンを指さして目を丸くした。
「その交換した扉が……ですか?」
「ああ、それができれば……」
「うわあ! ほら、その馬車って紋章が隠してあったって言いましたよね? そのうちの一枚が剥がれて見えてたって」
「ああ……あ、じゃあ隠してたのは……」
「別の紋章だったか、紋章がなかったからですよ! きっと!」
そこに目を丸くしたパウロムが割りこんだ。
「あの、もしかしてその交換した扉が別の馬車につけられて使われたということでしょうか?」
フィンとメイが同時にうなずいた。
「そうかもしれないってことです。っていうか、これならものすごく筋が通りますよね?」
そもそも馬車が盗まれたと考えるのも無理筋だったが、たとえフレーノ卿本人が使ったと仮定しても、終わったあと一人で馬車を洗っていたとか、いろいろと納得がいかないことが多いのだ。
だがこちらなら……
「それで、その交換した扉はどこにあるか分かりますか?」
「いえ、ここにはありませんが……修理を行ったファルクス工房に行けば分かるのではないでしょうか?」
「パウロムさん、その場所はご存じですか?」
「もちろんです。何度も行ったことがあります。ハビタルのカペレ運河の畔ですよ」
そこってもしかして来る途中に通ったところじゃないか? まさにとんぼ返りになるが―――ともかくそこなら夕刻までに戻れるのは間違いない。
「少々お待ち下さい。すぐに出立の準備を致します!」
パウロムは全速力で駆けて行ってしまった。
《うわ、けっこう歳くってそうだけど、大丈夫かな……》
心臓麻痺とかで倒れられたら困るのだが―――なんてのはともかく……
「いやあ、ほんとに来てみて良かったですねえ……」
メイが幸せそうな表情でつぶやいた。
「まったくだ……」
特に彼女と一緒に来られたというのは、まさに天佑だったとしか言いようがない。フィン一人では間違いなくファリーナや館の人々を悲しませる結果にしかならなかっただろうから……
だが、まさに喜びは束の間だった。
《これってさっきよりずっと厳しい状況なんじゃ……》
ハビタルに向かって疾走する馬車の中で、フィンの胃はきりきり痛くなってきた。
今回は彼の斜め前には白髪のフレーノ家の執事が恐ろしい顔をして座っている。その表情は犯人を見つけたら即絞め殺してやる! といった風情だ。
《もちろんそんなことしないだろうけど……》
問題はこのようにして真実の行方がおぼろげながらも見えてしまったということだった。
先ほどまでは、ファリーナにはかわいそうだったにしても、何も見つからなければ諦めて帰ればよかった。
だがこんな可能性が見えた挙げ句に結局ダメでした―――となれば、その後悔の度合いはこれまでとは桁が違ってきてしまうわけで……
《うぐーっ!》
などと思い悩んでも始まらない。ともかくこの間にこれからのことをいろいろ検討しておかなければならない。
《まず、その交換した扉を親方がどうしたかだが……》
フィンの脳裏に嫌な可能性が走った。
《ってことは、その親方が敵の一味ってことか?》
そんな所にのこのこ行ったりしたら、敵の罠に飛び込んでしまうことになるのではないのか? いきなり襲われたりはしないだろうな?
《でもそれならガルガラス達がいるか……あの三人なら少々の奴らには後れを取らないよな。アウラみたいなのがそうそういるわけないし……》
それよりも問題はとぼけられたらだが……
「えっと、パウロムさん、お尋ねしますが……」
「なんでしょう?」
「そのファルクス工房には何度も行ったっておっしゃいましたが、親方ってどんな人ですか?」
「ファルクス親方ですか? 実直な方とお見受けしましたが」
「じゃ、その、フレーノ卿に何か恨みを抱いていたりしたことは?」
「恨み? あれほど馬車を買って、メンテナンスもお頼みしているのに? もちろん支払いが滞ったこともございませんが?」
フレーノ卿は馬車工房としてはこれ以上ない上客だったということか……
「そのファルクス工房というのは、大きいんですか?」
「ハビタルでは一番でしょうな。歴史もございまして、もう百年以上も続いているそうです」
「そうなんですか……」
要するにそれだけの社会的信用もあるってことで―――でも今度のようなことをしたことがばれたら、何もかも終わりだよな? ということは、少なくとも親方が直接は関係してないと考えた方がいいのか?
そもそも今度の偽馬車トリックだが、言われてみればとても簡単なことだった。もし扉のスペアがあるということさえ知っていれば、ちょっと馬車のことに詳しければ誰でも思いつけそうな話だ。
ただ、あの扉が簡単には偽造できないという頭があったからそれ以外の可能性を優先してしまったわけで、じっくり捜査できていればベラの警吏だっていずれは気づいていたことだろう。
だとしたら―――本当に犯人ならまずは逃亡を企てるのが筋だろう。だが……
「親方は先週はいたんですよね?」
「はい。別な馬車の修理を依頼しておりまして、その受け取りに館の者を行かせておりますが……」
フレーノ卿はそんな調子でファルクス工房とはかなり頻繁にやりとりをしていた。
すなわち親方はフレーノ卿処刑予定の週にも、まだ逃亡していなかったわけだ。
《まともな神経なら無理だよな?》
すなわちファルクス親方はまずこの一件とは無関係と考えるべきだろう。
ただし工房に手先が混じっていることはあり得るが―――それならあのあと姿を消した職人とかがいないか訊いてみればいいわけだ。
《だとすれば……》
今度は親方がその扉をどうした可能性があるかだが……
「パウロムさんは扉の交換についてはご存じなかったんですよね?」
「はあ、何とも面目ない話ですが……」
「だとするとその扉は、ファルクス親方が処分したってことになりますね?」
そこにメイがいきなり割りこんだ。
「えーっ! 処分なんてとんでもないですよ! ブルーサンダーなんですよ? 走る芸術品みたいな物だし。扉だけでも十分に価値がありますから。私だったら絶対捨てませんよ。壁に飾っときます!……ああ、でもうちにはそんなスペースないなあ……」
まったくこの娘は……
「だったら親方は自分で持ってたり、誰か欲しがってる人に売ったってことになるわけか?」
「買う人、絶対いますよ? 私だって金貨十二枚持ってれば買っちゃったかもしれないし」
本当か? そういう気持ちは今ひとつよく分からないが……
「ということは、工房になきゃ扉を譲った相手を探さなきゃならないってことか……」
「ああ……そうですねえ……」
いや、それって無理だろ? 絶対! 自分たちはベラの警吏ではないし、そもそも処刑まであと一日しかないのだ。それにもし売った相手が犯人なら、間違いなく高飛びしたあとに決まってるし……
《うわあ! やっぱもうダメか?》
せっかく見えた可能性だったのだが、相変わらずあまりにもか細い糸だった。