ハビタルの48時間 第9章 真実の行方

第9章 真実の行方


 ハビタルに到着したときにはもうとっぷりと日は暮れていた。

「ああ、あそこですよ」

 運河の畔の、パウロムの指さした先には大きな鎌の形をした看板があって、軒先のランタンに灯火にファルクス工房という文字が揺らいでいる。

 一行が馬車を止めて中に入っていくと、そこでは若い職人がまだ馬車の修理を続けていた。

「親方はどこかな?」

「ああ、これはパウロム様。奥にいますが……」

「至急呼んできてくれたまえ」

「え? はい……」

 若い職人は奥に駆けこんでいった。

 しばらくして四十過ぎのいかつい顔をした男が現れた。その顔には驚きと悲しみが入り交じったような表情が浮かんでいる。

「どうなさいました? こんな時間に?」

「いや、ちょっとあなたに訊きたいことがありまして」

 パウロムが尋ねた。

「なんでしょうか?」

 親方が訝しそうに答える。

「去年でしたか、当家のあのブルーサンダーの修理をお頼みしたと思いますが」

 親方は大きくうなずいた。

「はい。よく覚えていますよ。あれが何か?」

「あのとき扉を交換なされたのですかな?」

「はい。フレーノ様が傷が残るのは嫌だとおっしゃられて。ベルッキまで注文しましたよ?」

 親方はどうしてそんなことを訊くんだという表情だ。

「その交換した傷のついた扉なんですが、それが今どちらにあるか分かりますかな?」

「ああ、それならうちにありますよ?」

「え?」

「は?」

 後ろにいたフィンまでが声をあげる。

「あの、そちらはどなた方で?」

「ああ、ちょっとした知り合いの方々なんですよ」

 親方はちょっと首をかしげたが、それ以上は何も言わなかった。

「いえ、フレーノ様にこちらの扉はどうしましょうかって尋ねたんですが、適当に処分しておけなんて言われましてね、でもあんなもの簡単には処分できませんから……そのあたり、お聞きになってなかったんですか?」

「いえ、私は聞いておりませんでしたので……で、その扉、少し拝見させて頂けませんかな?」

「はあ。そりゃ構いませんが……」

 親方は工房から出て裏手の方にある倉庫に入っていった。

「本当にいいお方でしたよ。いや、さすがにお断りしたんですが、いいからやると。それで看板にでもしようかとも思ったんですが、あんな紋章が入ってるんじゃ使えませんしねえ……ああ、ここですよ。ここに……」

 そこまで言って親方は絶句した。

「どうなされました?」

「いや、ここにあったんですが、ちゃんと梱包して……」

 混乱している親方にフィンが尋ねる。

「えっと、なくなってるってことですか?」

「はい……おい! パッコ! パッコ!」

 その叫びに答えて先ほどの若い職人が駆けこんできた。

「何でしょう? 親方」

「ここにあった包みはどうした! フレーノ様のブルーサンダーの扉だ!」

「え? いえ、知りませんよ?」

 それから工房にいた他の職人や使用人が集められたが、扉の行方を知っている者は誰もいなかった。

 どうやら盗まれたということらしいが、その倉庫は人の出入りが激しく、どさくさ紛れに梱包した物を持って出ていっても誰も気づきそうもないということだった。

 顔を見合わせているフィン達に親方が尋ねた。

「えっと、パウロム様? あの扉がどういったご入り用だったんで?」

「いや、親方、実はなあ……」

 パウロムの説明を聞きながら、親方の顔がだんだん青ざめていって、最後は蒼白になった。

「ま、ま、ま、ま、まさか、あの扉を使って偽馬車で?……ど、どうしましょう? 私は何も知りませんですよ?」

「えっと、あのあとこちらを辞めた人とかはいませんか?」

 フィンが尋ねると親方は混乱気味に答える。

「え? ああ、そういえば若いのが一人……」

「その人が今どこにいるかなんてのは……」

 親方は首をふった。他の者も当然だれも行方を知らなかった。

 いかつい親方の両目から涙がボロボロこぼれ出してくる。

「なんてことだ、あっしのせいで、あのフレーノ様が……いったいどうやって償いをすれば……」

 彼はとうとう床に突っ伏しておいおいと泣き出した。

《うわ、ちょっとこれ、どうすりゃいいんだ?》

 とはいっても手がかりはここで途切れてしまったのだ。今から誰が盗んだか調べている暇なんてまさにないし……

 と、そのときだ。

「あのー、ブルーサンダーの修理って他の工房でもやってるんですか?」

 と尋ねたのはメイだ。

「はい? いえ、うちだけですよ?」

「じゃあ、ベラにあるブルーサンダーはみんなご存じなんですよね?」

「ええ、まあ、はい」

「それって、何台ありますか?」

「えっと、四台ですが……」

 それを聞いたフィンとパウロムが同時に叫んだ。

「たった四台ですと?」

「そうか! メイ! 偉いっ!」

 さらにメイが親方に尋ねる。

「あの扉、もちろんブルーサンダー以外には付けられませんよね?」

 それを聞いて親方も彼女の意図に気がついた。

「ああっ! はい! もちろんですよ。一台はフレーノ様のもので、もう一台はパティオ様の奥方、マルデアモールのものと、ラビス卿のところですが……」

 そこでパウロムが驚愕した。

「ラビス卿ですと? あの男が?」

「ご存じなんですか?」

 フィンが尋ねるとパウロムはむっとした表情で答える。

「隣のバサール地方の領主なのですが、代々当家とは仲が悪いもので。最近も所領の境界に関して少々もめ事が……どう考えても向こうの言いがかりなのですがな……」

「そうなんですか……って、あれ? 確か暗殺団の首領と密会したって村は……」

 パウロムが目を見ひらく。

「おお! あれはきゃつめの領内ではないですか‼」

 こ、これは! ほとんどビンゴなのでは⁉

 だがここで慌ててはならない。フィンは深呼吸すると親方に尋ねた。

「あの、他の持ち主はどんな人なんですか?」

「ああ、パティオ様は大きな小麦問屋で、奥方にその馬車を買って差しあげたんですが、これは違いますね」

「どうしてです?」

「朱塗りなんですよ。だから色が合いません」

「おおっ! 朱塗りのブルーサンダーですかっ! なんだかナゾナゾにできそうですね?」

 メイが感動したように口走るが、さすがに場違いなのに気づいて空咳をしてごまかした。

《まったくこの子は……》

 それはともかく……

「で、もうひとつのところは?」

 それに答えたのはパウロムだ。

「マルデアモールはハビタルでも最高級の窓なし御殿ですよ」

 “窓なし御殿”とは“窓のない部屋”というのと同様に、高級遊郭を指す隠語だ。思わずフィンの脳裏にはアサンシオン内部の光景が駆けめぐる。

「え? あ……じゃあそこの送迎に?」

 だが親方が首をふる。

「いえ、まあ送迎にも使うでしょうが、巷では“夢の馬車”って呼ばれてましてね、そこんところはうちで改造したんですが、シートがこう縦になってましてね、エストラテの川岸を流しながらしっぽりと……」

 要するにそれって―――あんな馬車の中で夜風に当たりながら、最高の美女とあんなことやこんなことを……

「おお……それは……」

「でも多分この時期は出づっぱりでしょうから、そういうことに使うのは無理なんじゃないでしょうかねえ」

 親方はそう言ったが、思わずフィンは……

「いや、やはりそこはきっちり確認しておかなければっ!」

 と、意気込んで叫んでしまって……

《あ……しまった。これってなんか疚しい下心があるって思われなかったか?》

 慌ててあたりの男たちの表情を見ると―――あ、これは理解してくれてる目だ!

 だがメイは⁉

「そうですよねっ! そこはきっちり調べておかないといけませんよねっ!」

 うん。間違いなくそんな馬車を見たがってる目だ。

 ともかく次の目的地は決まった! 消去法で攻めていく以上は、消せる物は確実に消しておかなければならないのは事実であるからして―――それにハビタル市内で決着がついてしまえばその方がいいに決まってるし……

《えっと……あれ?》

 だがもしそのマルデアモールの馬車がクロだったとすると、今度こそ敵の本拠地に入りこんでしまう可能性もあるということにフィンは気がついた。

「では参りましょうか」

 そこでフィンは逸るパウロムを押さえる。

「あ、ちょっと待って下さい」

「いかが致しました?」

「いえ、ほら、これからはもう犯罪の捜査みたいなことになるわけじゃないですか? でも私たちはごく普通の一般人で、何の権限もないんですよ。もし相手が協力的じゃなかった場合、手の打ちようがないですよね?」

「それはそうですが……」

 目を伏せるパウロムにフィンは続ける。

「だったらまずネリウス長官に協力してもらえないか頼んだ方がいいと思うんです。ちょうど昨日会ったばかりだし、長官もこの件に関してはかなり無念に感じておられるご様子だったので」

 パウロムが大きくうなずいた。

「なるほど! 承知しました」

 こうしてまず一行はベラの警吏部へと急いだ。



「なんと! そのようなことが!」

 フィン達の話を聞くとネリウス長官はそう叫んで、悔しそうにがっくりと肩を落とした。それからきっとパウロムを睨む。

「パウロム殿! どうしてそれをもっと早く言ってくれませんでしたか?」

 パウロムもうつむきながら沈痛な声で答える。

「申しわけありません。私はてっきり扉は単に修理しただけと思っておりまして……」

「そういうことならば、その線をたどってみなければ話になりませんぞ⁉」

 警吏部に着いたのは業務が完全に終わってしまった後だったが、運良く長官は書類の整理に追われて残っていた。

《そりゃ悔しいよな……》

 言われてみれば単純な話なのだ。それを見落としてしまって、もう少しで手遅れになってしまうところだったのだから。

 だが、ネリウスにも事情があった。彼には調べねばならないことがたくさんあったのだ。

 捕らえられた暗殺団や目撃者の証言をチェックしたり、街道の探索、フレーノ卿のアリバイの調査など。そのあたりを彼がしっかり潰しておいてくれたおかげで、こうしてフィン達が道を見いだすことができたと言ってもいい。

「私もちらりとは考えたのですよ……偽の馬車を作るならどうするかとは……しかし本物だったとは……」

 フレーノ卿の馬車が使われたのであれば、彼が当日どのような行動を取ったかを再現しなければならない。ところがそれが難航している間に、ロムルースがあんな処断を下してしまったのである。

 さらにそのあとすぐにフォレスに対するエクシーレの動きがあり、ベラから軍を出すとか出さないとかの騒ぎまで起こって、話はうやむやになりかかっていたのだ。

 長官はこれではまずいと思いつつも、国長が直々に処断を下してしまった以上、明らかな証拠が出てこないかぎりは話を蒸し返すことはできなかった。

 そんなところにやってきたのがフィン達だ。長官はまさに渡りに船と、大喜びで協力を約束してくれたのだが……

「この状況を長様にお伝えして頂けるでしょうか?」

 パウロムが心配そうに長官に尋ねている。

「それは間違いなくお伝えしますが……」

 長官は言葉を濁す。

《だよな……》

 彼が口ごもる理由はまさによく分かった。なにしろロムルースという男はあんな勝手な思い込みで先触れもなくガルサ・ブランカにまでやってくるような奴なのだ。いったんこうと思いこんだら、視野が完全に固定されてしまうタイプなのはもう間違いない。

「ロムルース様がお聞き入れ下さる可能性は、五分五分といったところでしょうか……」

 ははははは!

 パウロムはがっくりと肩を落とす。

 普通ならばフレーノ卿が首謀者だという証拠に対して重大な疑義が発生しているのだから、少なくとも処刑は一時中止してその件に関して再調査するのが筋だ。

《そうできるくらいなら最初からあんな処断は下してないだろうしなあ……》

 ここでまだ手を緩めるわけにはいかないのだ。

「ではともかく残りを潰してしまいましょうか?」

「そうしましょう」

 続いてネリウス長官も加わって、一行はマルデアモールに向かった。



《いやー、さすがだなー、あはははは!》

 そこはベラでも最高の郭である。その内部はまさに贅を尽くした豪華さ、艶やかさだった。

 彼らが通されたのは事務的な用件で尋ねてくる客用の客間だったので、まだおとなしい内装だったのだが、来る途中にちらりと見えた中の方はもう、花鳥風月の間に肌も露わな美人が戯れている壁画に囲まれて、その間をそれにも勝る美女達がそぞろ歩いている。

 しかもアサンシオンの遊女達ならそんな公共の場ではまだ節度のある衣装を着けていたのだが、ここではもう最初から限界ぎりぎりだ。

《パサデラってもしかしてここにいるのかな? あはっ

 あのときどの郭にいるかとも聞いてこなかったが―――そんな邪念の渦巻くフィンの横では……

「……そのようなわけですので、お宅で使っておりますブルーサンダーの使用記録のような物があればお見せ頂きたいのです」

 ネリウス長官が真面目に仕事をしている。

「もちろんお見せいたしますわ」

 郭の女将が脇にいた小娘に二言三言言うと、彼女はすぐに下がっていった。

「でもあの頃はほとんど毎日川岸に出ていたと思いますがねえ」

「でしょうな。巡回していた者が羨ましがっておりましたからな」

 こういった郭では馴染みの客なら遊女を自分の屋敷に呼び出すことができる。もちろんそのためには十分信用があり、かなり高額の“出張料”も払わなければならないのだが。

 そんなサービスの一環としてこの郭には“夢の馬車”で一晩、エストラテ河畔や夜景の見える丘を巡るコースがあるという。

《さすがベラならではだよな……》

 フォレスやフィンの故郷は高原地帯なので夏でも夜は肌寒いことも多い。そんな中、野外で薄着で過ごすのは少々辛いものがある。

 だがここでは夜風がそんな戯れにちょうどいい涼しさだ。すなわちこの季節はみんなそれを狙ってくるので、馬車が休んでいる暇などないのである。

 そこに馬丁と見える男が帳面を持って現れた。馬丁は一行に大きく礼をすると答えた。

「えっと、お尋ねの日なんですが、その日はマリキータがレグラム様とご一緒でしたよ」

「まあ、マリキータが? じゃあちょっと呼んでおいで」

 言われて小娘がまた駆けだしていく。

「お仕事中申しわけありませんな」

 ネリウスが女将にそう言うと、彼女は笑いながら手を振った。

「いえいえ、今日ちょっとドタキャンがありましてね、たまたまこの子空いてるんですのよ。まったく年甲斐もなく……いえ、通って頂けるのは嬉しいんですけど、そろそろお腰もお弱りになってると思うんですけどねえ。おほほほ」

 あははは。小金を持っている元気な爺さんがいたわけか……

「ところでそのレグラムとは?」

「ああ、ウルガ商会の跡取りの方なんですが、こちらのお得意様で。ご贔屓にして頂いております。おほほほ」

 そんな会話をしていると、小娘に連れられて肌も露わな美女が入ってきた。彼女がマリキータらしいが……

《うわーっ!》

 あのときはかなり酒も入っていたから良かったがが、素面で見るにはちょっと目のやり場に困りすぎる格好だ……

 ところがマリキータはフィンの顔を見た途端にいきなりすり寄ってきた。

「まあ! ル・ウーダ様じゃありませんか? どうしてこちらに?」

「え? 」

 驚いてフィンが彼女の顔をよく見ると……

「あれ? あそこにいたっけ? 確か……ブルー・アースって言った?」

 美女は満面の笑みを浮かべると……

「まあ! 覚えてて下さったんですか? うれしい!」

 途端に彼女はフィンの横に座って体をぴたりとくっつけてきた。甘い香りが鼻腔をくすぐり、その柔らかい感触が―――あう、あう……

「あの、ル・ウーダ様と言ったの? 今……」

 女将が驚いた顔で彼女に尋ねる。

「はい。よき知らせをもたらした張本人なんです。この方が

「まあまあまあまあ、そうだったんですか! このお方が……それじゃいかがでしたか? あの子は。パサデラは。なにか失礼なことは致しませんでしたか?」

「い、いえ、とても素敵な夜でしたよ」

 やはりパサデラもこの郭にいるのか?―――なんてのはともかく、男たちの目線が痛いのだが……

「それじゃ今晩はゆっくりしていかれるの? ねえ……それともパサデラでないと、いや?」

 うわーっ! そんな耳元で囁くなって!

 フィンは全精神力を振るって彼女をそーっと押しのける。

「いや、だから今日はちょっと別件でね、実は二ヶ月くらい前に夢の馬車でお出かけしたときのことを、そちらの方に話してもらおうと思って」

「ええ?」

 そこでマリキータは初めてその場にネリウス長官や警吏がいることに気づいたという風だ。

「あらまあ、何かまずいことがございまして?」

「いえ、その日の晩、こちらの夢の馬車がどこにあったかを知りたいのです。記録ではあなたがレグラムという男と一緒だったとありますが」

 そんな彼女を前にしてもネリウスは冷静だった。

「え? あの日ですか? ええ。確かに日暮れからレグラム様と一緒に、川岸を流しておりましたが……あの、どこまで詳しくお話ししたら? あの方としたことを逐一お話ししなければ?」

 したことを逐一ってなんだろうなー。あはははは。

「いえ、どのコースを通ったかとかを教えて頂ければ結構です」

 ネリウスはあくまで真面目だった。

「まあ、それでしたら御者任せでしたから詳しくは……ああ、でもドッチャ橋のたもとにしばらくおりましたわ。そこでレグラム様、張り切りすぎて川に飛び込んじゃったりして、そうしたら足が攣って溺れかけて、騒ぎになってしまって……」

 何をどう張り切ったらそうなるんだ?

「なるほど。よく分かりました。今の話を御者とレグラムにも確認してこい」

 ネリウスは連れてきた警吏の一人にそう命ずると、深々とマリキータに礼をした。

「今日はありがとうございました」

「まあ、こんなんでよろしいんですの?」

「はい。とても参考になりました」

 ともかくこれならその日、この郭のブルーサンダーが市内にいたのはほぼ確実に証明されるだろう。だとすれば残りはラビス卿の物しか残っていないことになるが……

 一行は後ろ髪を引かれつつも、早々にマルデアモールから引き上げた。もちろんもう少しいてみたかったという気持ちは男なら仕方ないわけだが、今は一刻一秒を争うときなのである。

 郭を出たときにはもう夜も更けていた。横でガルガラスが大あくびをしている。無理もない。彼らは早朝からフレーノ卿の館まで行って帰ってきたところなのだ。フィンも先ほどから襲い来る眠気とずっと戦っていた。

「それでは参ることに致しましょうか」

 だがパウロムはすぐにでも行く気満々だ。

 うわ、ちょっと待てよ……

《そこって同じくらい遠いんだよな?》

 ラビス卿の領地はフレーノ卿の隣だという。すなわちここから往復したらやはり一日がかりになってしまうのだ。しかし……

《もしこれが何かの間違いだったりしたら……》

 可能性は大きいとはいっても、それ以外の証拠は一切ないのだ。それにファルクス親方が管理していたブルーサンダーは四台だけだったとしても、領外から持ち込むことだって不可能ではない。

《そんなことになったら貴重な時間を……》

 とは言っても他に選択肢はなかった。残った時間を考えればこれに賭けるしかない。聞いた話からして、賭けに勝てる可能性はかなりありそうだ。だが……

《少なくとも失敗は許されないよな?》

 何もないところからここまで来ることができたのだ。ゴールはもう目と鼻の先かもしれない。だとすればもう決してここで失敗するわけにはいかないのだ。

「えっと、ちょっと待って下さい」

 フィンは再び逸るパウロムをとどめる。

「どうなされました?」

「焦ってしくじっては元も子もありません。必要な準備があればしていかなければ……」

「ん、まあそれはそうですが、具体的には何を?」

「まずは、夜道ですからちゃんとした道案内と、食糧や水も調達しておかないと。それから……」

「それから?」

「例えば、行った先でラビス卿がどう出てくるか、ある程度考えて対応しておかないとまずいかもしれませんし……いきなり襲われるなんてことも、ないとは限りませんし……」

 パウロムはそれを聞いてうっと口ごもる。

「それだったらあっしらに任せてくれればいいんじゃないですかい?」

 ガルガラスがぽんぽんと自分の剣を叩くが……

「いや、それは最後の手段にしたいんだが……ここはベラ領内だし」

 フォレスの兵士が暴れたりしたら無用の混乱を招きかねない。

 それを聞いたネリウスが答えた。

「もちろん腕の立つ者を引き連れていきましょう。だとしたらもういちど警吏部へ戻らなければ……」

 こうして彼らは再び警吏部へ向かった。

 その馬車の中でフィンは眠気と戦いながら考えた。

 そうなのだ。問題はあちらでラビス卿がどう出てくるか? 彼が何をしようとも迅速に対応できる準備をしていかなければならないが……

《例えばもう逐電してたってこともあるだろうし……》

 そう思ってフィンはふっと笑う。

 そんなことになっていればもう彼らにできることは何もない。その場合は彼らの力が及ばなかったということだ―――だが、ラビス卿が逃げたということはそれこそ事件に関わりのある証拠と捉えることもできるわけで、全くのゼロ成果ではないわけだが……

《それでロムルースが納得してくれればいいんだがなあ……》

 そうなったらもう祈ることしかできないだろう。

 それよりも問題はラビス卿がまだ領地にいた場合だが……

《騙されて馬車を貸してたような場合なら、協力してくれるよな? いくら仲の悪い相手だって、無実の罪で処刑されようとしてるんだから……》

 フレーノ卿の裁判の詳細が公開されているわけではない。一般の人々は彼がロムルース暗殺を企てて捕らえられたということしか知らないのだ。ラビス卿もそれに自分の馬車が関与していたことを知らない可能性は十分にある。

 パウロムの話ではそのラビス卿はいけ好かない奴らしいのだが、悪党ではないとのことである。あの男にそのような大それた真似ができるわけがないと。

 その評価が正しければ、ラビス卿もまた被害者なのかもしれない。

 しかし……

《何らかの理由であくまでしらを切ってくる可能性もあるよな?》

 最大の問題はこれだろうか?

 いきなり襲ってきたとかならほぼクロ間違いなしだから、そのままふんじばってしまえばいい。しかし知らぬ存ぜぬで通されたらどうすればいい?

《そもそも証拠なんかないんだし……》

 そんな状況ではネリウス長官がいるとはいっても、あくまでラビス卿には協力を要請することしかできないのだ。だがそこで数時間ロスするだけで処刑は終わってしまうかもしれない。

「うーっ!」

 フィンは思わずうなっていた。

「どうなされましたか?」

 パウロムが不思議そうにフィンの顔を見る。

 そこでフィンは今考えたことをみんなに話した。

「奴がとぼけたら、ですかな?」

 ネリウスが眉をひそめる。

「そうです。そうする可能性は十分にあるんじゃないかと思うんですが……」

「いや、しかしいくらなんでも無実と知っていてとぼけるなんてことがあるでしょうか?」

 フィンは首をふった。

「でもほら、例えば身内を人質にとられてやむなく、とかいったことだってあるかもしれないし……それにそもそもラビス卿が無関係である可能性もまだあるんですが……」

 一同は言葉を失った。

 そのときだ。メイが口を挟んだ。

「あのー……それじゃ真実審判師の人に来てもらったらどうなんですか? あの方がいれば言ってることが嘘か本当か分かるんだし……」

「え? いや、そりゃちょっと……」

 フィンは口ごもった。

「あ、確かにあのおじいさんを今から起こすのはちょっと可哀相だとは思うんですが、でもそうも言ってられませんよね?」

 どうやら彼女はこのあたりのことについてはよく知らないらしい。

「いや、そういうわけじゃなくってね、真実審判というのはちゃんとした手続きがいるんだ。そうですよね?」

 ネリウス長官もうなずいた。

「はい。確かに……このような場合だと普通は無理です」

「そうなんですか?」

「フレーノ卿を少々恨んでいて、同じ型の馬車を持っているというだけでは……」

 メイは納得いかぬ表情だったが、それ以上は食い下がってこなかった。

《でもなあ……》

 確かに真実審判師がいれば今の問題は完全クリアなのは間違いない。

 だとすれば?

 ここは彼も少々腹をくくらなければならないようだ……

 フィンは大きく深呼吸するとネリウスに言った。

「えっと……ならばこの件はご本人に訊いてみるしかありませんね?」

「ご本人というと、まさか……」

「はい。グリムール様ですが」

「今からですか?」

 ネリウスが驚いた顔でフィンを見る。フィンはうなずいた。

「はい。事は急を要しますので。それに何かありましたら私のせいにして構いませんから」

「ル・ウーダ様が?」

「はい。こういった場合、都ではときどき話の分かる御仁もいらっしゃるので……私がそう言ってごねたとでも」

 ネリウスはしばらくぽかんとフィンの顔を見ていたが、やがて軽く礼をすると言った。

「ありがとうございます。それでは参りましょうか。魔導師会館に」

「お願いします」

 こうしてフィンはわけの分からぬといった様子の仲間を引き連れて、再び魔導師会館に向かうことになったのだった。



 とは言っても……

《うげーっ! また来ちゃったよ……》

 魔導師会館の玄関前で、フィンは体が震えてくるのを感じた。

 正直単独では絶対来たくない場所なのだが―――言いだしたのは自分なのだ。今回は仲間が大勢いるとは言っても、無理な話を持ちかけようとしている責任者の立場だ。

《やっぱやめりゃよかったかな~》

 などと心中で嘆いていると、メイがすたすたとそのまま会館に入っていく。

《おいおい!》

 一同はやや慌てぎみに彼女の後を追った。

 もう夜も更けている。会館の中は薄暗く、人の気配はない。ただ何らかの理由で急遽魔導師が必要になる場合もあるので、宿直が残っているはずなのだが……

「こんばんわ~! ごめんくださ~い!」

 メイが大きな声で叫ぶと、奥の扉が開いて光が漏れ出してきた。

「どなたですか?」

 眠そうな目をして出てきたのはまだ若い魔導師だが……

「あれ? フェリエさんじゃありませんか!」

「あ? あなたは、フォレスから来た……メイさん?」

 それから彼はその後ろにがやがやと男たちがいるのを見て、目を丸くした。

 そこに今度はネリウス長官が出てきて言った。

「宿直の方とお見受けするが、緊急の用があって参りました。グリムール殿にお取り次ぎ願いたい」

「はぁ?」

 魔導師フェリエは一瞬ぽかんとしてから……

「あの、しかしグリムール様はもうお屋敷にお戻りに……」

「ではそこに案内して頂きたい。館長の公邸は確かこの付近だったと思いますが」

「それはそうですが……」

 フェリエは渋るがそこに口を出したのがメイだ。

「お願いします。グリムール様がいらっしゃったらフレーノ卿の無実が証明できるかもしれないんです!」

「ええ?」

「その可能性が十分にあるのです」

 ネリウスの言葉にフェリエはうなずいた。

「わかりました。それでは準備して参りますから少々お待ちを……」

 彼はいったん奥に戻ると、ローブを着て戻ってきた。

「こちらです」

 グリムールの公邸は会館から一ブロックほど離れたところにあった。

 屋敷の門番はローブを着たフェリエを見ると、何も言わずに彼らを中に案内してくれた。

《こういった場合の流れはこうなってるんだ……》

 例えば事故や火事などがあって、巻きこまれた人々を助けたいような場合には魔導師の力はまさに絶大だ。だから都でもそういうときにはすぐに出動できるように、夜間でもいつも数名ほどは待機しているものだ。ベラの魔導師会館はそういう場合の窓口の機能も有している。

《でも、真実審判の依頼だとは思わないだろうなあ……》

 真実審判とは通常はややこしい手続きを踏んだ挙げ句に実行される物だ。夜中に叩き起こされる案件ではない。

 果たして、起きてきたグリムールはかなり不機嫌なようすだったが、やってきた一同の面々を見て不思議そうな顔をする。

「それで、いったいどのような事故が起こったのですかな? それにどうしてル・ウーダ様がいらっしゃる?」

「夜分申しわけありません。それなのですが……」

 ネリウス長官がグリムールにこれまでの経緯を手短に話すと、それを聞くにつれて彼の表情も真剣になっていった。

 だが……

「なるほど……状況は分かり申した。しかし、今のお話ではそのラビス卿が事件に関与しているという証拠はござらんのでは?」

「それは……そのとおりですが……」

「またそこのファルクス殿はベラにはその型の馬車は四台しかないとおっしゃるが、国外から持ち込まれたという可能性はいかがかな?」

「それも……否定はできませんが……」

「ということは単に珍しい馬車を持っていたという理由で彼を真実審判にかけろと、そういうことになりますな?」

「……確かに、形式上はそのようになりますが……」

「あなたもこのような職務にあれば、女王の禁忌のことはご存じでしょうな?」

「それはもちろん……」

 “女王の禁忌”―――それはかつて大聖と共にやってきた二人の女王が魔導師のために残した規範である。

 この世界の魔導師は元を辿ればすべて大聖と、あの東の帝国を滅ぼしたとされる二人の女王に行きつくのだ。これはその彼女たちが残した定め、というより魔導師の心得と言った方がいいかもしれないが、それは女王の禁忌と呼ばれて都でもベラでも同様に尊重されていた。

 すなわち彼らがそれを守ってくれているのなら、フィンも彼らと同じテーブルで話ができるということなのだ。

 そこでフィンは二人の会話に割って入った。

「グリムール様」

 老魔導師はまるで初めて見たかのようにフィンの顔を見た。

「なんでしょうか?」

「ネリウス様には私が無理を言ってお頼みしたことなのです。なので彼をあまり責めないで下さい」

「ほう? あなたが?」

 フィンを見つめる目は、まさに深淵のようだ。

《うわぁぁぁ!》

 こんな場合でなければ即座に謝って逃げだしてしまいたいところなのだが―――そのときちらりと横にいるメイが目に入った。彼女がフィンを見つめる眼差しは……

《あはははは!》

 まさに英雄を見る眼差しだ!

 この子の夢を壊さないためにも、フィンは頑張らなければ……

「しかし嬉しかったです。あなたの口から女王の禁忌という言葉を聞くことができて……」

「ほう?」

「私たちもまた、常にあの方々の教えを心にとどめながら日々の責務を果たしておりますので……」

「そうでしたか」

 もちろんこれが都でもベラでもずっと守られてきたということは周知の事実だった。白銀の都とベラ首長国が長い間対立しつつも、最終的な破滅に至らずに済んだのは、互いに同じ祖先から別れた兄弟であるという気持ちがあったからだ。

 相手もまた同じ規範を守っていると信じていられればこそ、一番深いところで相手を信頼することもできる。

「ですから私も、真実審判を濫用することがあってはならないことは理解しているつもりです」

 グリムールは黙ってうなずき、目で続きを促す。

「ですが黒の女王はこうもおっしゃいました。我らは汝らに道を示した。しかし道とは思わぬ場所へと人を誘うこともある。常に目を開き、自らの足で歩め。目に見える道より踏み出したところに……」

 グリムールがその続きを述べる。

「真の目的地があることもあるのだと?」

「……そのとおりです」

 すると彼は黙ってじっとフィンを見つめた。

《うわ! ヤバい、怒ったか?》

 グリムールは静かに首をふった。

「ならば同様に決して曲げてはならなぬこともあることはご理解頂けるでしょうな? たとえ人の命がかかっていようとも、まだ罪なき者の心の中を一方的にほじくり返すことがどれほど悪しきことかを……」

 そういってきっとフィンを見つめると……

「もしこれが些細なことだと思っておられるのであれば、私は断じて否と答えざるを得ませんな」

 ………………

 …………

 ……

 やはり……ダメだったのか?

 もちろんフィンも知っていた。

 かつて人々が圧政に苦しんでいた東の帝国とは、魔法使いによって支配されていた国だった。

 魔法とは圧倒的な力だ。フィンのような三流魔導師でさえ、人を焼き殺すことだってできるし、高いところに放り上げて叩き落とすことだってできる。いま目の前にいるグリムールなら、その気になれば町を一つ葬り去ることさえ朝飯前だろう。

 だがそれ以上に人の心の中とは、その人の最後の聖域だ。真実審判師とはその場所にずけずけと踏み込んでくる力を持つ者なのだ。

 物理的なパワーならまだ人の力でも対抗できるだろう。

 だがそんな力から人はどうやって身を守ればいい?

 女王の禁忌とはそのような“魔法”から人々を守る盾なのだ。

 あたりを嫌な沈黙が支配する。

 フィンは何か言おうと思ったが、言葉が浮かんでこない。

 と、そのときだ。

「あのー、それじゃ、そのローブをちょっとだけ貸してもらうっていうのはダメですか?」

 いきなりメイが口を挟む。

「なんですと?」

 グリムールが目を細めてメイを見た。

「ほら、別に真実審判しなくても、誰かが後ろでそれ着て立ってるだけで、疚しいことがあれば喋っちゃったりして……」

 と、そこまで彼女が言ったときだ。


「それはならぬ!」

「ダメだって、そりゃ!」


 グリムールとフィンが同時に叫んだ。

「ひぇぇぇぇぇ! ごめんなさいごめんなさいごめんなさいーっ!」

 二人からステレオで怒られてメイは真っ青になって縮こまった。

 グリムールとフィンは思わず互いの顔を見合わせる。

 それから涙目のメイにグリムールが諭すように言った。

「お嬢さん。もし世の中に嘘つきの真実審判師がいたりしたらどう思いますかな?」

「えっ⁉ それは……すごく困りますけど……」

「でしょう? でも偽物の真実審判師というのは、その存在自体が嘘でしょう?」

「はい……」

「ですから私たちは絶対にそれを許してはならんのです」

「うう、すみませんでした……」

 グリムールはますます小さくなってしまったメイから目を上げるとフィンを見た。

「しかし……このことはベラの国内問題のはずでしょう? それなのにどうしてあなた方がこうまでして肩入れなさろうとするのです?」

 え? それは―――いったいどう言ったらいいだろう? 確かに彼らは無関係ではあるが、でもこれはフォレスの未来にも関わることかもしれないし―――などとフィンが躊躇したときだ。

「だってこのまま帰ってしまって、もし本当にフレーノさんが無実だったりしたら、一生後悔しちゃうじゃないですか! だから嫌だったんです! そりゃ私たち、フォレスからお使いに来てるだけですけど、でももう無関係じゃなくなっちゃったし……」

 メイの言葉の最後の方はもう涙声だ。

 それを聞いたグリムールはフィンの方を見る。

「はい。私も彼女と同じです」

 言いたいことは言われてしまった。

 そう。気持ちの問題なのだ。このまま帰ってずっと後悔するくらいなら、せめてなにかやって後悔した方がましだという……

 それを聞いたグリムールは軽く目を閉じると……

「一生後悔……ですか……」

 小声でそうつぶやいた。

 それからふっと目を開くと、グリムールはフィンに向かって微笑んだ。

「いや、どうも申し訳ない。どうやらわしはお連れさんを泣かせてしまったようだ」

 それから彼は涙ぐんだメイにも微笑みかける。

「どうです? お詫びにちょっとわしとドライブに行きませんかな?」

「え?」

 驚いてメイが顔を上げる。

「どこかお嬢さんの行きたい場所はありませんかな?」

 メイは一瞬目を白黒させていたが……

「あーっ! それじゃ、えっと、バサール地方とかでもいいですか?」

 グリムールはにっこりと笑う。

「おお、バサールですか。なかなか良い目のつけどころですな。美しい湖もあるし、ドライブにはうってつけといえましょうな」

「あ、ありがとうございますっ!」

 これってもしかして、そういうことなのか?

 グリムールはフィンやネリウスに笑いかける。

「そういうことなので準備ができたら呼びに来てくれたまえ」

「はーっ!」

 そして彼は一緒に来ていたフェリエに言った。

「事情は聞いたな? だから明日わしは休むと伝えておけ。それから馬車の用意もな」

「馬車、ですか? 私が?」

「当然じゃ。わしやこのお嬢さんに御者をさせるつもりか?」

「でも……」

 フェリエは躊躇するが……

「御者が嫌ならお前が動かしてくれてもいいんだぞ?」

「いえーっ! 喜んでやらせて頂きますっ!」

 彼はそのまますっ飛んで行ってしまった。

《あはは! 魔動車ってのはこっちでも罰ゲームか……》

 念動の魔法が使えれば馬がなくとも車は動かせる。だが少しならともかく、それで長距離を走ったり坂の上り下りをするのは、大抵の者にとっては完全な拷問なのだ。

 まあ、フィンには関係のない話だったのだが……

 ともかくこれで最後の大詰めだ。