メイの初恋メモリー 第3章 また会う日まで

第3章 また会う日まで


 短期留学もちょうど折り返し地点になる二月の半ば過ぎ。

 メイは学園の郊外をひた走る馬車の上でまたリザールに謝っていた。

「ごめんなさい。うっかりしちゃって……」

「いや、僕だって忘れたことあるし、最初はそんなこともあるさ」

 というのは、うっかり彼女が外出届を書き忘れたせいで、出発が予定よりもずいぶん遅れてしまったからだ。

 魔導大学は全体が大きな堀で囲まれていて、幾つかあるゲートにも頑丈な門と守衛所がある。魔導師の養成とはまさにベラの国家機密なので当然なのだが、メイのような普通科の学生でも出入りの際にはやはり届けを出さなければならなかった。

 だが彼女の留学期間は僅か三ヶ月弱。大学の外に出ている余裕などないと思っていたから、そのあたりの手続きに関してはほとんどうろ覚えだった。そのためゲートを出る段になって初めて届がないことに気づいて大慌てをしていたのだ。

 だが、そんなトラブルも実際に彼らのブレーク―――無蓋の四輪馬車が走り始めたら、吹っ飛んでしまう。

「ちょっと寒くないかい?」

「いえ? 大丈夫ですよ? 今日は天気もいいし」

 二月だから風はちょっと冷たいが、寒さ対策なら万全だ。しかも空は快晴で、まさに絶好のドライブ日和だ。

「へえぇ……」

 メイは流れ去っていく辺りの景色を眺めながら思わず歓声をあげる。

「何かおもしろい物があった?」

「いや、本当に雪がないんだなって……」

 リザールは一瞬ぽかんとしてからうなずいた。

「え、ああ、そうか。フォレスじゃこの時期は雪が積もってるんだよね?」

「そうなんですよ。だから馬車じゃなくって橇で走るんですよ」

「王女様もそんなこと言ってたねえ……でも綺麗なんだろうね。その景色……」

 だがメイは全力で首をふる。

「えっ? そんなの白いばっかりですぐ飽きちゃいますって! こんな風に地面が見えてる方がずっと嬉しいですよ?」

「そんなもんかなあ? ただ茶色いだけだろ? この季節なんて……」

 うーむ。人にはいろいろ見解の相違というものがあるようだ。だが確かにこの時期なので、あたり一面は枯野原でやや殺風景なのは否めない。

「ほら、あれを越えたらうちの管轄地だよ」

 リザールが指さす先に森に覆われた低い丘が見えた。

「ああ、本当にまっすぐ来れば結構近いんですね」

 彼とはあれから主に昼休みに会っていた。

 だが昼休みというのは本当にすぐ終わってしまうものだ。だから既に先月の時点で、休みの日にはどこかに行かないかと誘われていたのだ。

 だがその頃はまだいろいろ要領が分からないせいで、週末もレポート書きなどで手一杯だった。だがリザールだけでなくイービス王女やアスリーナなどからも適切なサボり方の助言を頂いて、やっと何とか余裕が出てきつつあったのだ。

《実際体持たないもんね……》

 人というのは適宜休息しないと生きていけない生物なのである。

 だがこの時期のこの地方はかなり天候が不安定だった。先週もその前もみぞれ交じりの雨が降っていて―――雪じゃないところがまた驚きなのだが―――今回が三度目の正直なのである。

 道は森の中に入り、登りになってくる。路面はかなりぬかるんでいて、ブレークの車輪などはもうどろどろだ。

「やっぱりあんまり道よくないですねえ」

「大体どこもこんな感じだと思うけど」

 魔導大学への主街道はもう少し整備されていたのだが、この道は脇街道で、リザールの実家への近道なのだが状態はこの有様だった。

《それでもクレアスに行ったときよりはマシだけど……》

 あのときは本当にひどかった。ここはいちいち止まらずに走れるだけまともである。ただこのブレークは無名の工房製だが作りはしっかりしているので、本来ならばもっとスピードが出せるはずなのだが……

 そんなことを思っていると馬車は森を抜けて、眼前には広い麦畑が広がった。

「うわーっ!」

「ここからがうちの土地だよ」

「広いですねえ!」

「そんなことはないさ、ここに見えるので全部だけど」

「それでも広いですよー」

 その土地はちょっとした谷間になっていて、開墾されたところが麦畑や牧草地でまだら模様になっている。まん中を流れる川の畔に小集落が見えて、その先にある屋敷がこのあいだ訪ねたリザールの実家だ。

「メイちゃんの実家も農場だったよね?」

「あはは。もっともっと狭いですからー。ま、白き湖が見える綺麗な場所とかはあるんですけど、景色じゃお腹いっぱいになりませんしねえ」

「ああ、そりゃそうだけど……」

「それに冬は雪で埋まっちゃって……いいなあ。冬でも作物が作れるって」

「そっか。フォレスじゃ夏しか畑は作れないのか……」

「そうなんですよ。だからもう夏の間に色々みんなやらないといけないから、大忙しなんです」

「それじゃ冬はみんな何やってるんだい?」

「それはいろいろありますよ? うちなんかじゃお父さんが器用だったんで、木工細工とかやってますが。だからフォレスには職人さんが多いんです」

「へえ、そうなんだ……」

 リザールは曖昧にうなずいた。確かにこのような土地で育ったなら、山国の生活が想像しづらいというのは仕方がない。

《まあ、正直貧乏だったのよね……》

 メイはそんな貧乏農場で野山を駆けまわって育っていた。やがては自分も両親と同じようにフォレスの片田舎で過ごしていくのだと、それ以外の将来など想像もつかなかった。

 だが、そんな彼女に大きな転機が訪れた―――それは両親が彼女を学校に通わせてくれたことだ。

 ガルサ・ブランカには交易で儲けている商家がたくさんあったから、読み書きや計算などができれば、そういうところに雇われることだって可能なのだ。

 だが学校というのはお金がかかるので、貧乏な子供達には無縁の場所だった。

 ところが近年になってアイザック王が無料の初等学校を作ってくれたために、メイにも勉学の道が開かれたのである。

「学費が無料なのかい?」

「そうなんですよ。それで二年間、読み書きとか計算とかいろいろ習えるんです。でもそこって町の中だから、家から往復三時間かかりましたが」

 それを聞いたリザールが目を丸くした。

「三時間⁉」

「あ、わりと帰りなんかにはワゴンなんかに乗せてもらったり、こっそり乗ったりしてましたから。あはは」

「こっそり?」

 メイは笑ってうなずいた。

「いるんですよー。乗ってるの見つけたら怒るケチな人が。だからそういうのには後ろからこそっと近づいて、しれっと乗るんです」

 あれはなかなか楽しいゲームでもあった。

「あはは。でも冬なんかは? 橇にこっそり乗るの?」

「いえ、それはむしろスキーが使えるんで楽だったり」

 リザールはおおっとうなずいた。

「冬はスキー通学だったんだ」

「はい。あっちじゃ滑れなきゃ生活できませんから」

「でも坂道登るときは?」

「ああ、慣れればスケートするみたいにさーっさーって上がってけるんですよ?」

「そうなんだ」

 リザールは何だか想像も付かないという表情だ。まああれは結構コツがいるんで練習が必要なのだが。

「雨の時が一番嫌でしたけど、でもやっぱ楽しかったですよ。それに学校でいい成績取れたおかげで、お城へ勤められるようになったんですから」

「ああ、そういうきっかけだったんだ……」

「そうなんです。うちみたいな所がお城にコネなんてありませんから」

 城勤めというのはもちろん、庶民の娘にとっては最大の憧れの職業だ。そもそも一般民が城の中に入れること自体がほぼないのである。王様や王妃様、お姫様や色々な偉い人々と一緒にいられる仕事なんて、まさに夢だった。

 だからコルネと一緒にお城で働かないかと誘われたときには、本当に信じられない気持ちだったのだ。

 だがそこでメイは迷わず、厨房で働くことを希望した。

「どうしてなんだい? 侍女の方がかわいい服とか着られるんじゃないのかい?」

「あ、まあそれはそうなんですけど……」

 もちろん侍女というのが一番華やかな仕事なのは間違いない。綺麗な格好で王侯貴族にお仕えできるだけでなく、運がよければ玉の輿という可能性まである。そうでなくとも城勤めの経験者というだけで国に帰れば箔が付くのだ。

 しかしそのとき彼女は一つの夢を持っていた。それというのは……

「レストラン?」

「そうなんですよ。村の近くに景色がいい所があるから、そこにレストランを開けたらいいなって」

 そもそもメイは料理が好きだった。

 彼女には兄と弟がいたが姉妹はいなかった。その上母親が少し病弱だったので、小さい頃からずっと家事手伝いをしてきたのだが、彼女の手料理をみんなが喜んで食べてくれるところを見るのは、とても幸せな気分だった。

 そんなとき、近くのおじさんが茶飲みにやってきて、村の茶店が流行らないという話をしていったことがあった。

「うちの村ってエクシーレからの街道沿いにあるんで、結構人通りが多いんですよ。だからそのおじさん、茶店を開いたんですが、あんまり儲からないって愚痴だったんですけど」

「どうしてなんだろう?」

「場所が中途半端なんだそうで……村からガルサ・ブランカまで、馬車だと一時間もかからないんですが、町まで行けば美味しいレストランとかもあるし、だったらとっとと行っちゃえってことになるみたいなんです」

「ああ、そうなんだ……」

「歩きの人は休んでいくけど、そういう人ってあまりお金持ってないし……」

「あは、そうだよね……でも、それじゃしょうがないんじゃないのかい?」

 だがメイは首をふる。

「でも、プラーヌムからの人は早立ちをしてくるそうなんですよ? 距離があるから」

「プラーヌム?」

「いっこ向こうの宿場町なんですけど、普通に発ったらガルサ・ブランカが二時くらいになっちゃうんです。それだと中途半端なんで、朝早く発って昼くらいに着くようにするらしいんです」

「ああ……」

「だから思ったんですよ。うちの村くらいの所に美味しいレストランがあったら、みんな寄ってくれるんじゃないかなーって」

「え?」

 リザールは首をかしげる。メイはにっこり笑って説明した。

「普通の時間にプラーヌムを発ったら、ちょうどうちの村のあたりでお腹のすく時間になるでしょ? ここで食べられれば早立ちしなくて良くなるわけで」

 リザールはちょっと考えてから、あっという顔でうなずいた。

「ああ、そういうことか……それをメイちゃんがそれを考えたの?」

 メイは得意げに笑う。

「えへ。習いたての算数が役に立ちました」

「ああ、その店で出すために、お城でおいしい料理を覚えようって思ったのかい?」

「はい。そうなんですよ」

 あともう一つ、メイは見知らぬ人の前では上がってしまうので、人前に出ない仕事の方が嬉しかったというのもあるのだが……

「そこで五年頑張ったせいで、一応正式な料理人になれたんですよ。リザールさんにはお世話になったんで、一度ちゃんとしたのを作ってあげたいんですが……」

「ああ、それは楽しみだな」

 リザールは嬉しそうに笑うが……

「ただちょっと授業が終わらないと……」

「まあ、そりゃそうだよねえ」

 当初よりは少しは余裕が出てきたとはいっても、メイのスケジュールがパンパンなのは相変わらずだ。イービス王女に出している料理は下宿のあり合わせで適当に作っているだけだが、本格的にやろうとすれば準備が大変なのだ。

 と、そこにリザールが尋ねた。

「でもそれだったらもうずいぶん夢に近づいてるんじゃないのかい? それがどうして王女様の秘書なんかに?」

 もっともな質問だった。

「あはは。それがですねえ。ちょっとまあ、才能の限界を感じていたと言いますか……」

 このところメイは料理人としてやっていくことに対して行き詰まりを感じていた。

 決して彼女の料理が下手だったわけではない。宮廷料理人を名乗らせてもらえる以上、とりあえずは国王に出したって恥ずかしくない程度の料理は作れるのだ。実際何度もそんなディナーをこしらえたこともある。

 だが親衛隊がフォレス最強剣士の集まりであるのと同様、ガルサ・ブランカ城の厨房とはすなわち、フォレス最高の料理人が集まってくる場所なのである。

 そんな中ではきちんとレシピどおりに作って出せるだけではもうダメで、さらにその上のプラスアルファが求められるのであった。

「例えば同じ料理でも、その日のコンディションで色々微妙に違ったりするんですよ。ちょっと今日は暑いから酸味を少し強めにして爽やかにしようとか……」

「そんなことも考えなきゃならないんだ?」

「プロならば当たり前なんですよ。お客様の好みとかお疲れの具合とかを見て調整するなんてのも」

「へえ……」

 そしてもっと残念だったのが、彼女には創作料理の才能があまりなかったことだった。

 彼女の後輩にジュリという本当に才能のある娘がいたのだが、彼女はよく賄いでオリジナルの料理を出してきた。たまには外れもあったが、おおむねみんなから好評で、中には実際にその料理が宴に出されたこともある。

「ジュリちゃんの作ったのって、もう最初は変としかいいようがないんですよ。どうしてこんな物混ぜるんだーって感じで。なのに食べてみると結構癖になったりして……唐辛子ケーキとか……」

「唐辛子ケーキ?」

「何かもうあり得ないって思うでしょ? でもこれがなぜか結構いけちゃったりして……」

「うーん」

 リザールは味を想像しようとして挫折したようだ。

「ともかくそんな人達がごろごろいるんですよ。お城の厨房って」

 そう言って肩を落とすメイにリザールが言った。

「でもそんな人の中で正式な料理人になれたって事は、君だって何かの才能があったって事だよね?」

「あはー。まあ、確かにあれって才能だったのかも知れませんが……」

「ほら。何が得意だったんだい?」

「それが倉庫係の才能だったんですが……」

「は?」

 リザールはあんぐりと口を開けて固まってしまった。

「だからお料理を作るには材料が必要ですよね? 必要な物を常にストックにキープしておかなければならないわけで」

「そりゃそうだろうね」

「ところが何かみんなそこが結構ルーズで……」

 リザールはぽかんとした。

「でも……そんなんじゃ料理できないだろ?」

「はい。だから色々多めに買っておくんですよ。要るか要らないか分かんないものも、とりあえず買っとけーみたいな感じで……」

「はあ……」

「だから足りなくて困るってことはあまりなかったんですけど、中途半端に余ったり、使わなかったような物がいっぱい溢れちゃって」

 メイが入ったときストック内がごちゃごちゃだったのはそういう理由だった。

「お城ってお金持ちだから、なんだかそれでも良かったみたいなんですけど、もううちだったらもったいなくってたまらないから、暇なときに色々整理してたんですよ。そうしたらいつの間にかストックの管理担当みたいになってて」

「はあ……」

「それで発注とかもするようになると、下働きじゃまずいんで料理人の肩書きをくれたんですよ。きっと……」

「いや、でもそれだって重要な仕事だよね?」

「まあ……それはそうなんですけど……」

 どんな料理でも食材や調味料がなければ作れない。だから彼女が厨房にとってなくてはならない存在になっていたのは間違いない。実際、王女のお付きになるという話はもっと前に出ていたのだが、メイの後任を決めるのに難儀していたために昨年末までずれ込んでいたような物なのだ。

「ああ、それじゃ秘書官っていうのは、そんなところを王女様に見込まれたって事なのかな?」

「それは、多分そうなんでしょうねえ。他にあんまり考えられないし……」

「でもそれって大出世じゃないか? 嬉しくないの?」

「大出世?」

 彼に言われるまでメイはこれをそんな風に思ったことはなかった。

《でも……考えたら……》

 秘書官というのは単に身の回りの世話をしている侍従とは違って、王女の仕事に直接関わるもっと重要な職務を遂行する立場だ。そんな風になることを巷では出世と呼んでいるような気もするが……

「んー、どうなんでしょうねえ? あんまり嬉しいって気分でもないんですが……」

「そうなのか?」

 リザールは不思議そうに首をかしげる。

 だがこれについては最近、とみにその重さが分かってきて憂鬱になっていたところだった。

「だって秘書官って結局、王女様とか王様のやってることが分かってないといけないんですよ? 政治とか、外交とか、軍事とか……」

「あー、確かに、そりゃ大変そうだねえ」

 リザールが目をそらして笑う。

「そうなんですよー」

 ここまでのつきあいで彼がそんな方面にはわりと疎いことが分かっていたので、メイもそれ以上は無理に話題を振らないようにしていた。

《それにそれって、王女様と一蓮托生ってことでもあるんだし……》

 彼女が短期留学に来てから一月半。教わったことは半分も分かっていないような気がするが、それでもいくつか確実に理解できたことがあった。

 それはこれから彼女の行く道が、とんでもなく険しいものになるかもしれないということだ。

 先日、イービス王女たちとの雑談の中でしれっと出て来た“国家機密”だの“国際問題”などというのもそうだ。普通の女の子とはまさに無関係なそういったものが、既にメイの人生に普通に入り込んで来ているのだ。

 だがそのくらいならばまだある程度は想定できた。しかし先日聞いたある話が、メイの心にずっと重くのしかかっていた。


 ―――それは先月末のことだった。歴史学の授業が一段落して、教授と雑談モードに入っていた。授業といっても一対一なので、講義の最中でも質問し放題で、その結果ずっと二人で対話しているような物なのだ。おかげで最近ではどの教授とも、授業以外のいろんな雑談ができるようになっていた。

 そのとき教授はメイがよく勉強してくることを褒めてくれたのだが……

「だって一人しかいないんだから、サボれないじゃありませんかー」

 メイの答えに教授も笑って答えた。

「いや、人間というのはいついかなる時でもサボれるものなんだよ? だから君のそのやる気は敬服に値するわけだ」

 一応これって褒めてもらっているんだろうか?

「だって王女様がずっと頑張ってるんだし、私も頑張らなきゃって思うんです。王女様が道を間違えちゃわないようにって」

「道を間違えないように?」

 教授は首をかしげた。

 そこでメイは以前グリムールにも話した王女の逸話を教授にも話した。

「ほら、一人だったらやっぱりうっかりすることだってあるでしょ? だから一緒に見ていてくれる仲間が欲しいんじゃないんですか? だから私も王女様の道が間違ってたら分かるように、勉強しなきゃって」

 教授はなぜかそれを聞いて眉をひそめた。

「道が間違っていたら……分かるようにですか?」

「はい。だからこれからも先生、よろしくお願いします!」

 メイは気軽な気持ちでそう言ったのだが、そこで教授はなぜかじっと考えこんでしまったのだ。

《ん? どうしたんだろう? 私なんか変なこと言った?》

 教授はしばらくして顔を上げると、何やら沈痛な表情で答えた。

「メイ君。君にはとても大変なお願いをされてしまったな……」

「はい?」

「残念ながら、私の力ではその期待には添えないと言わざるを得ない」

「え?」

「それが正しいか間違っているか誰にも分からないということは、この世にはいくらでもあるのだからな……」

 ………………

「え? でも……」

「ああ。もちろんもう少し思慮が深ければ全然別な結果になっただろうということも、歴史の上には溢れておる。だから君が学ぶことには大いに意味がある。だが……そう。君はヴァレンス公の判断についてはどう考えるかね?」

「え?」

 ヴァレンス公―――ベラ初代首長の判断というなら、やってきた大聖一行に抗ったというあの故事のことか?

「彼は大聖が東の帝国を一夜にして滅ぼしたということを知らなかったのだろうか?」

「いえ……」

「そんな敵に抗って勝てると思ったのだろうか?」

「いえ……」

「だとすればそれは蛮勇、すなわち間違いだったのではないかな?」

「え? でも……」

「そう。結果として我々は大聖があのようなお方だったことを知っているから、彼は間違えなかったとは言える。だが、彼はそうなることを知っていたのだろうか?」

「えっと……」

「では……彼の判断は正しかったのだろうか? 間違っていたのだろうか?」

 ………………

 教授は少し悲しそうにメイを見る。

「人の道とはそのようなことばかりだ。王女様の道とて例外ではない……それでももう一度言うが、もう少し思慮が深ければ全く異なった結末に至ったであろうことも、歴史の上には溢れておる。そのことは忘れるでない」

「……はい」

「君がそんな王女様の道を照らすささやかな明かりの一つとなれるように願っておるよ」

 ………………

 そのときのメイはただうなずくことしかできなかったのだが―――


《これって……どーにかなるものなの?》

 それまでのメイは色々と面倒なことにはなったとは思っても、まだまだ気楽だった。要するに悪いことや間違ったことをしなければいいのだ。だからそれを教えてもらうために学校に来ているのだと思っていた。

 ところがその学校の偉い先生が自分にも分からないという。実際……

《ヴァレンス公がどうして大聖様に抗ったかだって?》

 東の帝国を一夜で滅ぼしたような人に逆らうなんて、まさに無茶の極みだ。だから物の本には初代首長が賢くて大聖様の本質を見抜いたからだ、と書いてあるのも読んだことがあるのだが……

《でもそんないい人だって最初から分かってたら、むしろ喜んでお迎えするのが普通じゃない?》

 どっちにしてもおかしいように思うのだが……?

 しかし今のベラ首長国が白銀の都に並ぶ魔導王国となれたのは、彼がそうしたからに他ならないわけで……

 もしそのときメイがヴァレンス公の秘書官をやっていたらどうだろう?

《絶対ケンカはやめましょうって止めてるわよね……きっと……》

 だがそれは間違っていたということになるわけで―――あれ以来、何度考えても頭がこんがらがるばかりだ。

 そしてそれからもう一つの大変な事実、すなわち……

《女王様って、それでも決めなきゃならない立場なのよね? 分からなくっても……》

 それを理解した日の夜はほとんど眠ることができなかった。

《どうしてあんなにニコニコしてられるのかしら?》

 間違えたら首を刎ねられちゃうんだけどとか……

 そしてさらにもう一点。

《えっと、そういう場合……私も一緒だったり……するわよね?》

 秘書官とは女王様のすぐ側でその決定にも関わるお仕事だ。だとすれば女王様がそんな目に遭ったのなら、彼女の首だってついでに刎ねられてしまうのでは?

 ………………

 …………

 ……

 あはははは!

 そんなわけで、これが手放しで喜べる話ではないことに最近気づいて、かなりブルーになっているところだったのだ。

「……ちゃん? メイちゃん?」

「え? あ、なんでしょう?」

 リザールが不思議そうに彼女の顔を見ている。

「どうしたんだい? 何だかぼうっとしてたけど?」

「あ、ごめんなさい。ちょっと、夕べも遅かったし……」

「あんまり根を詰めすぎるのも良くないから。王女様に君の面倒を見るって言ったのに、倒れられちゃったら困っちゃうし」

「あは、ごめんなさい……」

「それよりここだよ? ここが一番見晴らしがいいんだ」

 馬車が坂道を登りきると、眼前が一気に開けてリザールの農場が一望にできた。

「うわあ、すごい!」

「この時期はちょっと寂しいけど、春になったら綺麗なんだよ?」

「春って、もうすぐですよね?」

「うん……ほら、そこなんかもう芽が出かかってる」

 足下は枯野原かと思っていたが、その間から緑の草の芽が見え隠れし始めていた。

「うわー、二月なのに?」

「ここじゃ普通だよ? 留学が終わる頃にはこのあたりもお花畑になってるかな」

「うわあ、見てみたいですねえ」

「帰りがけにまた寄ってくれればいいんじゃない」

「あ、それもそうですね」

 思わず心が弾んでくる。

「そんなに嬉しい?」

「だってフォレスは二月なんて真冬の最中なんですよ? こんな時期に春の息吹が感じられるなんて、もう得したーって気分じゃないですか」

「そうなんだ……」

 リザールは全くぴんとこないようだ。

「フォレスの話って全然聞いたことないんですか?」

 彼はうなずいた。

「ああ、父さんは小さかったから何も覚えてないって言うし、じいちゃんもフォレスの話はあまりしてくれなかったなあ」

「ああ……」

 彼の祖父エイブラムは権力闘争に負けてこの地に流れてきたのだ。あまり思いだして楽しい場所ではなかったのだろう。

「おじいさんってどんな方だったんですか?」

「ん? 物静かな人だったなあ。覚えているのはベランダに座って、いつもじっと山の方を見てたことかな」

 エルミーラ王女に聞いた話とは少し違うような―――だがあんな事件の後なのだ。少々性格が変わってしまっても不思議ではない。

「山って、フォレスの方の?」

「うん……じいちゃん、やっぱり帰りたかったんだろうな……」

 国を追われて異国の地で生涯を閉じた王子。もう故郷に帰れなくなった人……

 もし自分がそんな目にあったなら?―――そう思ったときだ。

「でも僕にはこの景色の方が大切なんだ。ちっぽけな話かも知れないけどね」

 思わずふり返ると、リザールが微笑んでいた。

 その笑顔になぜか胸が熱くなってくる。

《……ちっぽけなって……》

 この光景だって彼女にとっては十分大きかった。

 確かに今身に降りかかっている話に比べれば、小さいかもしれない。しかし……

《私なんかで……いいのかしら?》

 そして何度となく自問してきた疑問が再びわき上がってきてしまう。

 彼女は元々、単なる田舎の農場の娘なのだ。お城勤めできただけでも破格と言えるのに、王女様のお側に仕えさせてもらって、こんな勉強までさせてもらって―――そんな期待に彼女が応えられるのだろうか?

 それこそ最初は一生懸命頑張れば何とかなると思っていたのだが―――世の中それだけではどうにもならないことが溢れている。

 そんな中で彼女にいったい何が……

「ねえ、メイちゃん」

「はい?」

 と、メイがふり向いた瞬間だった。

 リザールの顔がすっと近づいて来ると、二人の唇が重なったのだ。

 ………………

 …………

 ……

「うにゃああああああああああああああああああ!」

 思わず一メートル五十センチほどメイは飛び下がる。

 だがリザールは涼しい顔だ。

「びっくりした? あは、何だかすごく難しい顔してたから……」

「ふぁふぁふぁ……」

「ふぁ?」

「ふぁーすときすをーっ」

 ………………

 …………

「……え? もしかして初めてだった?」

「初めてですーっ! ってか、どんな人にもこんなことするんですかーっ」

 リザールは笑って手を振る。

「あは。ごめん。でもどんな人にでもないから」

「え?」

「料理上手な人がずっと一緒にいてくれると、人生幸せだろ?」

 ………………

 …………

「え? え?」

 料理上手な? ずっと一緒に? それって……

「一般論だけどね」

 いっぱんろん?

「い、意地悪な人ですねーっ!」

「あはは。でも元気が出たみたいで良かった」

 確かに無駄に元気は出た。

「それじゃうちに行こうか? お昼を作って待っててくれるはずだから」

「……あ、はい」

 リザールは実家に向かってブレークを走らせ始める。

 その車中でメイの頭の中は完全なカオスになっていた。

 そうなのだ。彼女には夢があった。レストランを作りたいという夢が。

 実際、お城の厨房に勤められたというのは最大の幸運だった。だが、そこからレストランに行きつくまでには、さらに多くの障害があるのだ。

 例えばその資金をどうするか? 今の給金では十分なお金が貯まるまでにおばあさんになってしまうだろう。だとすると出資者を探すしかないが―――もちろんそんなコネなどあるはずがない。

 そして王女の秘書官となる話……

《こっちの方がお給金は高いんだけど……》

 だが今度はお金が貯まってもレストランなどをやっている暇などなさそうだ。

 だとするとこの道一筋でいくことになるわけだが……

《でも私なんかが……》

 その度に毎回この思いが頭をもたげてくる。

 そう。夢というのは叶わないから夢なのだ。でなければそれは予定という。

 だとしたら?

 そもそも夢見る前のメイは何だった? ごく普通の農場の娘だ。そんな娘の行く先に一番ふさわしいのは、やっぱり農場のおかみさんなのでは?

《ちっぽけなんかじゃないし……》

 そんな彼女にとってリザールの農場は、むしろ大きすぎるくらいだ。平凡な少女にとっては、まさに願ったりの未来なのでは?

《って、だから一般論だって言ってたじゃないのーっ!》

 こういうのを自意識過剰というのではないのか?

 先ほどのリザールの言葉。からかわれているのは間違いない。そんなのに期待したってどうせ後でがっかりするだけだ。

 それでも―――この農場を切り盛りしている自分の姿を想像することは難しくなかった。そこで子供達に囲まれて平穏に過ごす日常……

 隣に座っている人がこの人かどうかは分からないが―――その思いは快かった。

 それからのイスマイルさん達と過ごした午後のひとときも楽しかった。

 だから別れ際にリザールにこう尋ねられたとき……

「来週もまた会えるかい? 今度は二人でじっくり……」

 メイは気づいたらうんとうなずいていた。



 ところがそれから三週間後……

「あの、ごめんなさい。本っ当にごめんなさい。今週末もちょっとダメになっちゃって……」

「ええ? またなのかい?」

 仏の顔も三度というか、さすがに温厚なリザールでも声に少々険がある

 何しろ週末デートは既にメイの都合で二回お流れになっていて、今週こそはと思っていたところなのに、またまた割り込みが入ってしまったのだ。

 最初の一回目はエルミーラ王女だった。急遽予定が変わって週末にやってくるから一緒に過ごしましょうというのだ。

 王女はこの時期、ロムルースと共に地方の視察を行っているはずで、こちらに来る予定など全くなかった。だがいくら急でも王女の願いを無視するわけにはいかない。


 ―――やってきた王女一行はなにやらえらく警戒厳重だった。

 アウラやナーザ、ロパスなどのフォレスからの護衛隊に加えて、ベラの兵士や魔導師までが加わっている。王女様はこんな厳重な警備はお好みではないはずなのだが……

 メイは不思議に思って尋ねた。

「あの、王女様? 今時分は確か、南西部の奥だったと思うんですが……何かあったんですか?」

 それを聞いた王女が笑って答えた。

「ああ、それがねえ、この間ガリカの町でちょっと襲撃されちゃって」

 ………………

 …………

 ……

「はいぃぃぃ?」

 襲撃?

「って、誰かに襲われたってことですか?」

「襲撃なんだからもちろんそうよ?」

 王女は平然としている。

「えっと、あの、それで……」

「でもアウラがいたから抜いた瞬間に取り押さえられてたし、全然だいじょうぶだったわよ?」

「……え?」

 メイが思わずアウラを見ると、アウラも全く当然という様子でうなずいた。

「あいつ一人だけ浮いてたし。ミーラに危険なんてなかったから」

「そうだったんですか?」

「でもそのおかげでルースが護衛を増やしちゃって、おまけに行き先の安全が確保できないと行かせてもらえないのよ。それで暇ができちゃったから、メイちゃんの様子を見に行こうかってことになって……」

 などと笑顔で言うのだが……

「いや、でも、それって、危ないんなら仕方ないじゃないですか?」

「もう、ルースはちょっと心配しすぎなのよ」

 王女はやれやれといった表情で首をふるが―――いや、これは心配するのが普通なのではないだろうか?

「あの、でもどうしてその犯人は、王女様を狙ったんですか?」

「ああ、それがどうもねえ、田舎の方だとわりと本気で、私がルースを魔法で骨抜きにしてるって信じてる人がいるみたいで」

「え?」

「この間の戦争も私のせいだ、みたいな……」

 その手の話はメイもチラチラとは聞いていた。イービス王女との間でも、エルミーラ王女がロムルースに悪い魔法をかけているといううわさ話が出たこともある。だがそれはただの笑い話のはずだったのだが……

《ってか、あの人がダメなのは王女様とは関係ないじゃないの!》

 何だかメイは腹が立ってきた。しかし……

「でも各地で兵隊にとられた人は、セロでひどい目にあってるしね。そんなのを信じてしまう人がいてもおかしくないわね」

「あ……」

 それもまたそうだった。

「だからそのあたりは行った先できっちり説明はしてるんだけど、なかなか浸透させるのが大変なのよ」

「きっちり説明って……あの戦いの経緯をですか?」

「そうだけど? どうして?」

 王女が不思議そうにメイを見る。そこで彼女はイービス王女と出会ったこと、そこで王女の行動を尋ねられたときに言葉を濁した話をした。

「え? サルトスのイービス様? すごい人とお知り合いになれたじゃないの!」

 確かに身分的にいえば本当にすごい人なのだが……

「でも、そうだったの……別に話してくれても良かったのよ? あまりメイちゃんには説明してなかったけれど」

「え? そうだったんですか?」

「ええ。証拠だっていっぱいあるし、関係各王家には既にそんな説明をした書簡を送ってるし……それじゃ今度イービス様がいらしたらお話ししておいてくれる?」

「え、それは、はい……」

 要するにただの杞憂だったということか?

 だがエルミーラ王女はそんなメイににっこり笑う。

「でも慎重になってくれたのは嬉しいわ。秘密なんて物はうっかり喋ったらそれでおしまいだから。その判断は良かったと思うわよ?」

「え? あー、ありがとうございます」

 うーむ。まあともかく、失敗というわけではなかったようだ。

「それでリザール君は元気?」

「え? あ、はいっ! いつもお世話になっておりますっ!」

 そんなメイを見て王女はクスッと笑う。

「そうなの? 会ったらよろしく言っておいてね?」

「はいっ!」

 などという会話があったりしたのだったが―――


 話を聞いたリザールもしばらく絶句していたのだが、王女はちょっと修羅場をくぐりすぎて危険に関する感覚が鈍くなっているんじゃないかと本当に心配になってくる。

 その王女一行が帰っていった後、今度下宿にやってきたのは初老の紳士だった。

 メイがその顔を見忘れるわけがなかった。なぜなら彼は例の事件で一緒になった、フレーノ卿の執事パウロム氏だったからだ。


 ―――不思議そうな表情の大家さんに取り次がれて、メイもびっくりした。

「うわあ、パウロムさんじゃありませんか」

 パウロム氏は大きく頭を下げる。

「こんなに早くまたお会いできるとは思っておりませんでしたよ。メイ様」

「あはは。“様”なんてやめてくださいよ」

「いえいえ、本当にあのときはひとかたならぬお世話になりましたから。メイ様がいらっしゃらなければ本当にどうなっていかことか」

「あー、いえ……」

 確かにそこに関してはちょっとは役に立てたと思っているのだが……

「あの、でもどうして私がここにいることが?」

 この留学の話はあまり他に知らせていないはずなのだが……

「ああ、それなのですが、主人が来期からこちらに通うことになりまして、手続きに参ったところ、メイ様がこちらにご留学なさっているという話を聞きまして」

「フレーノ卿がこちらに?」

「はい。修辞学を学びたいということで」

 修辞学? って、そういえばあの人、グリムール様にそんなことを言われてたような……

《でもあれこそ言葉の綾って言うんじゃ?》

 フレーノ卿が歯に衣を着せなさすぎるので、もうちょっとどうにかしろと言う意味だと思うのだが―――それを真に受けてあの歳で大学に通うというのが、まさにフレーノ卿らしい。

「でも領地でお仕事とかがあるんじゃないんですか?」

「それはアルドル様に家督を譲られておりますので、問題はないのですが」

 そういえばフレーノ卿は死刑が決まったときに子息に家督を譲っていたのだった。

「ただ空席ができた大臣のポストに就いてくれと言われておりまして……」

「え? それって……」

 一地方領主が大臣なんて、これは大抜擢というのでは?

「もしそうなったら学生大臣だななどと笑っておられましたが」

「あはは。まさにそうですねー」

 何と言っていいかコメントに困るが……

「そこでなのですが、メイ様。今週の末などお暇はございますか?」

「え?」

 もちろん予定はもう埋まっている。メイはそう答えようと思ったのだが……

「実はメイ様がこちらにいらっしゃるという話を聞いて、主人が今度買った新車の初乗りにメイ様をお誘いしたいと申しまして」

 なにやら聞き捨てならない単語が混じっているのだが……

「新車? ですか?」

「はい。ファルクス親方が一年かけて作ってくれた、ベルリンですか? それが納車されまして。主人が申すには、遠乗りをするには最適なんだそうで」

「ファルクス親方って、ファルクス工房の親方ですよね?」

「もちろんで……」

「行きますっ!」

 あの後ちょっと調べたみたら、ファルクス工房とはベラでは老舗中の老舗で、現親方も名人として名高かったのだ。あのときはさすがにそんな話をしているわけにもいかなかったが、そもそもブルーサンダーの修理ができるという時点で半端な腕ではないわけで―――だったらこれは乗ってみるしかないではないか?

 パウロム氏はほっと胸を撫で下ろす。

「ああ良かった。主人がメイ様はとても馬車に乗るのがお好きみたいだから、せめてささやかな恩返しにと申しまして」

「いえ、そんなことありませんって。ありがとうございますっ!」

 こうして次の週末もリザールとデートはできなかった―――


「それで今度はどんなお方のお誘いなんだい?」

 リザールが少々皮肉っぽくメイに尋ねる。フォレス王国のエルミーラ王女や次期大臣のフレーノ卿に予定を潰されているわけだから、そう言いたくもなる気持ちはよく分かるのだが……

「あのー、それが……グリムール様なんです」

 リザールはあんぐり口を開けて固まってしまった。

「グリムール様って……あの?」

「はい……」

 この魔導大学でその名を知らない者は間違いなくモグリである。ハビタル魔導会館の館長グリムールはベラでも五指に入る大魔導師の一人で、この魔導大学の学長を務めたこともあるそうなのだ。

「どうしてそんな方が……」

「それがほら、この間フレーノ卿の事件に関わった話はしたと思いますが……」

「ああ。聞いたけど……」

「細かいところはまだですよね?」

「うん」

 詳しく話し出したら昼休みではとても足りない。だからこそ今度の機会の話題にと取っておいたのだが……

「実はそのときにちょっとお知り合いになりまして……いや、あのときはそんな偉い人だって知らなかったんですが……」

 メイはグリムールと関わった経緯を簡単にリザールに話した。

「……そんな感じでお知り合いになれたんですが、そうしたら私がここにいることを聞かれたらしくて、魔法の実演を見せてくれるって言うんです」

「魔法の実演?」

「はい。ほら、私、魔法学も習ってるんですが、座学ばっかりでしょ? だから特別に色んな魔法が使われてるところを見学させてあげようって。他にもタレガ様とペルキアーナ様もいらっしゃるとか……」

「えええええ?」

 この二人もベラトップクラスの大魔導師なのだ。

「だからその、ほんっとうにすみません」

「あはははは。それじゃあ仕方がないねえ……」

 リザールはもうあきれ果てたという表情だ。

「でもそうすると次の週は……」

「あのー、期末も近いので、ちょっともう無理なんじゃないかと……」

 メイの留学は三月末までだ。さすがに最後の追い込みで、遊んでいる余裕などない。

「だよなあ……」

 リザールは心底残念そうだ。

 だがそれはメイも同様だった。

「あの、それでリザールさん、四月の予定ってどうなってますか?」

「え?」

「実は四月になったら私わりとゆっくりできるんです。王女様も視察から戻られて、一休みするって言ってて」

 エルミーラ王女も一月から三月の間、各地の視察で旅から旅の生活だった。しかも途中に襲撃があったりして、結構色々ストレスが貯まっていたようだ。だからせっかくベラに来たことだし、四月はハビタルでゆっくり羽を伸ばそうという話になっていた。

「だからハビタルまで来られるのであれば、結構都合がつくと思うんですが」

 それを聞いたリザールの表情がぱっと明るくなる。

「ああ、そうなんだ……いや、実はハビタルには伯母さんがいて、こっちもちょっと遊びに行く予定だったんだよ」

「ええ? それじゃあっちで会えますか?」

「うん。会えると思うよ?」

「ああ、良かった……」

 メイは心からほっとした。

 何しろフォレスに戻ってしまったらさすがにもう会う手立てはない。手紙のやりとりくらいならできるにしても……

《そんな遠距離恋愛、何の約束もしてないのに……》

 そう思ってしまってから、その深遠な意味に気づいて顔から火が出てくる。

「うん? どうしたんだ?」

「いえ、なんでもないですー」

 だからリザールにはリザールの都合があるわけで、メイは王女様の紹介だから親切にしてくれているだけで、彼女が一人で勝手に盛り上がっているのに違いないわけで……

《でも……》

 たとえそんな約束ができなかったにしても……

《思い出くらいなら……?》

 途端に再び顔から火が出る。

「どうしたんだい? 顔が赤いよ?」

「いえ、だからなんでもないですー」

「風邪引いたりしてない? これから追い込みなんだから、体調には気をつけないと」

「はいー。ありがとーございますー」

 メイはリザールの顔を直視できなかった。



 昼間は春の気配が濃厚になってきていても、夜はまだ裸でいるにはストーブなしでは肌寒かった。

「まったく……絶対上手くいくんじゃなかったのか?」

 男が女に向かって不満そうに言った。

「私だってそうですよ。あんなすごい護衛がいるなんて聞いてないし……」

「でも別に襲撃は失敗したってよかったんだろ?」

「そのはずなんですけどねえ……全然何も堪えてないとか、どこかおかしいんですよ。あの王女……」

 男が鼻を鳴らす。

「それでこれからどうするんだよ?」

「こうなったらもう仕切り直すしかないでしょう?」

「呑気なものだな」

「急いては事をし損じますよ? だからほら、あの子のハートはしっかり掴んでおいて下さいね?」

「ああ。分かってるって」

 男はふふっと笑う。

「それにしてフレーノ卿だのグリムールだの、よくもまあそんな大物ばかり……でもだからチャンスなんですから」

「分かってるって。てか何か最近、向こうの方が積極的みたいで、もう触れなば落ちんって感じなんだけど……」

 それを聞いた女がたしなめるように言う。

「ちょっと、分かってますか? やり過ぎはダメなんですよ? あくまであの女の秘書って立場が重要なんですから……それとも実は、ああいうのがお好み?」

「とんでもない。あんなのよりも……」

「いやん、ちょっと、もう?」

「だって三週間もお預け食らってたんだぜ。あのくらいじゃまだまだ……」

「あ、いきなりそこなんて……」

 再び部屋には二人の睦言が響き始めた。