エピローグ 秘書官危機一髪
紅葉のような手のひらをメイがつんとつつくと、きゅっと掴んでくる。
「あはー、カワイ~」
思わず頬が緩んでしまう。
「でしょう?」
グルナも終始満面の笑みだ。
ガルサ・ブランカ城の離宮の一室で二人の前に寝ているこの赤ん坊は、もちろん王女様の御子、ハルディーン王子である。
「すごく赤ちゃんみたいになってきましたねえ」
「もう一ヶ月だし」
時が経つのは早いものだ。あの大騒ぎは真冬のさなかだったのが、フォレスではもう夏が過ぎ、秋に差しかかっている。
エルミーラ王女は八月の初頭につつがなく健康な王子様を産み落とされた。
その間、もう目の回るような忙しさだ。
いきなりのご懐妊ということで、もちろんそんな準備がなされていたわけがなく、それだけで様々な雑用が山のように発生する。
また王子誕生の一報が届いたら即座にロムルースが駆けつけてきて、それから王女にとうとう追い返されるまで三週間のあいだずっと滞在していたのだ。
もちろん隣国の国長様のお世話に粗相があってはいけないわけで。
また、出産後しばらくは表だっての公務につくことはできないので、するとその類の仕事は秘書官にまわってくるのだ。
おかげでいきなりメイが偉い人たちの前で色々と説明する機会が増えてしまった。まあ、基本は王女様のご様子をお伝えしてお帰り頂くことになるわけだが……
「でもその服、いいわねえ」
グルナがメイの制服を見ながら言った。
「ええ? 何だかまだ慣れないんですけど」
メイがいま着用しているのは今度新しくデザインされた女性秘書官の制服だ。
これまで着ていた侍女の制服はもっとこう可愛らしいデザインだったのだが、今度のはパリッとしたスーツにタイトなスカートと、いきなり学校の先生にでもなったような気分だ。
だがこれからは王女様が本格的に政務に参加するようになるわけだから、秘書も侍女と兼任というわけにはいかない。そんなわけでついにメイが晴れて見習いの立場から正式な“秘書官補佐”の役職に就いたのだ。
《補佐が取れるのはまだまだ先だろうけど……》
こうして彼女は新たな一歩を踏み出したというわけなのだが―――それはメイだけではなかった。
「グルナ! これはこっちで良かったか?」
セリウスの声がする。
「あ、いえ、玄関の方に持っていって下さい」
「分かった」
そんなやりとりをメイがニヤニヤしながら眺める。
「ん? 何よ?」
「あ、いえ、もう呼び捨てなんだなーと」
「いいじゃないの!」
グルナがちょっと赤くなる。
彼女たちもまた大きな人生の転機を迎えたばかりなのだ。
というのはエルミーラ王女が王子の世話にかかりきるわけにはいかないので、その守り役というのが必要になるのだが、それにグルナが任命されたのだ。
彼女は王女とは昵懇であるし、実家では小さな弟たちの世話もしていたから適任であった。そしてもう一人、ベラからセリウスがその役を言いつかって送りこまれてきたのである。
《何だか瓢箪から駒みたいな話なんだけど……》
あのときメイは単なる思いつきであんなことを口走ってしまったのだが、王女はそれをよく覚えていた。そしてどうやらロムルースに『生まれてくる誰かさんの子供のお世話に、信頼できる人を一人送ってもらえないかしら。例えば……』などと囁いたらしい。
《セリウスさんも驚いただろうけど……》
だが彼もまたこれが単なる子守ではないことをよく理解していた。表向きは父親不詳であっても、ロムルースの子であることは公然の秘密である。さらにエルミーラ王女の政治的な思惑についてもよく分かっていた。
《それにグルナさんだっているし……》
とうの昔にグルナの心は決まっていた。だからこちらの仕事が一段落したらセリウスの元に嫁いでいったことだろう。王女はそれが少々気に入らなかったようだが……
《でもこれなら万事丸く収まったわよね?》
王子の守り役ということなら、これからも王女とずっと一緒にいることができる。確かにメイ達もグルナがいなくなるのはちょっと寂しいと思っていたのだ。
「えっと、式は来年の春って言ってましたっけ?」
「そうなの。あの人が、フォレスでの仕事を早く覚えないとって」
「相変わらず真面目ですねえ」
「うふ」
などと話しているとまたセリウスがやってきた。
「お二人とも。王子様のご機嫌ばかり取ってないで、こちらも手伝って頂けませんか?」
「あ、はい!」
そうだった。赤ん坊がいるとついこうやって遊んでしまうが、今は引っ越しの最中なのである。
王女様は夏をこの庭の離宮で過ごされたのだが、そろそろ秋風も吹きだしたので西棟の王女のフロアに移ろうというのだ。今日メイはその手伝いに来ていたわけで……
彼女は渋々ハルディーン王子の側を離れて片付けの続きを始めた。
行李に王女の衣類を詰めこみながらメイは尋ねた。
「セリウスさん、こちらはどうですか?」
「ああ、涼しいのはいいですね。ハビタルだとまだ夏ですから」
「あはは。そうですよねえ。あのときはもう死ぬかと思いましたが」
「以前来られたときですか?」
あの初めてのベラ行きの話はこれまでも何度かしたことがある。
「はいー。暑気あたりでぶっ倒れたりしましてー」
「それは危ない。死ぬときは死にますから。我慢したらいけませんよ?」
「はい。もう身に染みて……」
そのとたんに開いた窓からすうっと涼しい風が吹きこんできた。
「しかし、こちらはもう朝晩は肌寒い日があるとか……」
「こちらは初めてですか? だったら冬は結構大変ですから、ちょっと覚悟しておかないと」
セリウスはにっこり笑う。
「はい。頑張りますよ」
そこで思わずメイは……
「でもセリウスさんなら……」
グルナさんがしっぽりと暖めてくれますよ、などと口走りそうになって思わず口を塞いだ。
「私が?」
「いえいえ、セリウスさんならどこでもやってけますよって」
メイは慌ててごまかした。
《うー、なんかもう最近王女様に毒されてるんじゃないかなあ?》
無垢な王女が悪い側近に影響されて云々というのならともかく、その逆というのはどうなんだろう?
―――などと話しながら片づけを続けていると、グルナが呼ぶ声がした。
「メイ! 何だか王女様がお呼びみたいなんだけど?」
え? 午前中は用がないんじゃなかったっけ?
メイが出てみるとバネッサ―――今度王女付きになった若い侍女が伝言を届けに来ていた。
「えっとご用は?」
「いえ、ちょっとメイ様に来て欲しいと言いつかっただけで」
うー。なんかこんな風に様付けされるのもまだ違和感バリバリなのだが―――だがメイはもう王女様の側近の一人として、公式の会議などにも出席する立場なのである。彼女たちから見たらもう“偉い人”なのだ。
「分かりました。すぐ行くからって伝えてね?」
「はい!」
バネッサは元気に駆けていった。
「何なのかしら?」
「さあ……」
まあ、この様子なら至急の用事ではなさそうだが―――本当に急いでいるときには必ずそのように言うはずで……
「また何かに落書きしたとか?」
ぶーっ!
「あははは! やだなあ、もうそんなことありませんって!」
「うふ。だったらいいけど」
ぐぬー。グルナさんに言われるとダメージがでかいのだが……
ともかく今作業中の行李に荷物を詰め終える。
「ではちょっと行ってきます」
「早く戻ってきてね」
グルナがニコニコ手を振った。
「はいー」
とは言いつつも……
《うー、あれはひどかった……》
もしまた何かドジっていたらどうしよう?
―――あれは一行がベラから戻ってきてすぐのことだった。
すると当然そこで王女ご懐妊の経緯を皆に説明しなければならないのだが、その説明会は城の高官だけでなく各地の諸侯も出席する、最大規模の会議になるのであった。
そんな場所でメイやグルナが矢面に立つのはちょっとということで、説明役は経験豊富な城の事務官にお願いすることになった。
まあ、夜っぴてみんなで原稿は作ったから、彼もそれを読み上げるだけで済んだのだが、報告の後に質疑応答が行われて、ご懐妊発覚時に滞在していたガルザ村ではどのようなことをしていたのかという話になった。
そこでメイがつけていた政務日誌を読んでもらうことになったのだが……
「……このようにガルザ村長より馬泥棒対策に関してベラの警吏部隊を回して欲しいとの上申があった。必要な規模を確認するため、辺りの視察を行うことになったが、天候が不順なため、回復を待つこととなった」
と、そこで事務官は一瞬、妙な表情になるが、更に続けた。
「獣専用ミートパイ。味の決め手はカルダモン、クローブ、コリアンダー。それにベルアブラット。カッコ。これをケチると村沈む。ハートマーク。カッコ閉じ。むかしむかしあるところに、とても裕福な谷間の村がありました……」
会場は異様な沈黙に包まれたが、さすがにそこでアイザック王が割りこんだ。
「なんだね? それは?」
「あ、いえ、このように記されておりまして……」
そのときメイは顔面蒼白で仰け反っていた。
《ぎゃあああああああ! 消し忘れてたーーーーっ》
王は首をかしげる。
「それはどういう意図だ?」
「いえ、私には……」
事務官は首をふる。
「書いたのは誰だ?」
メイは真っ青な顔で手を上げた。
「これは?」
王がじろりとメイを見つめる。
「あー、その、ガルザの村に伝わる、ミートパイに関する伝承で……」
「ほう? なかなか興味深いが、それが政務と何か?」
「いえ、その、特に関係は……」
「そういうことなら自分の日記帳に記しておきなさい」
「はい」
「そこは飛ばしていい。続きを」
「はっ」
その後のことはもう朦朧としていてあまり覚えていないが―――
《どーーーして読んじゃうのよ! 関係ないこと丸わかりじゃないのよ!》
だが事務官の職務として、そういう朗読の際に勝手な要約をすることは許されなかった。
《だってあの後すぐにあのご懐妊騒ぎなんだし……》
おかげでちょっとその伝説をメモってたことが頭から飛んだからって、仕方ないではないかっ! うー、思いだしたらまた腹が立つ!―――のだが、もちろんこれは百パーセントメイのチョンボだった。
などということを思いだしてしまって鬱々しながら歩いていると、中庭に人だかりができているのが見えた。
《あれ? もしかして……》
行ってみると果たせるかな、リモンが親衛隊の新人と試合しようとしているところだ。
親衛隊とは王家の人々を守るのが使命だ。だから相手がどんな敵であっても―――変わった武器を持った若い女性だったとしても対応できなければならない。
そこでアウラがいない今、リモンとガリーナがその役割を務めていたのである。
あの後アウラはフィンと一緒に中原に旅立っていったが―――今頃はシルヴェストを過ぎて、サルトスに向かってる頃だろうか?
《そういえばアスリーナさんや、イービス様、元気かな?》
あれから何度か手紙はやりとりしたが、貴重なサルトス出身の魔導師としてアスリーナは結構忙しい毎日を送っているらしい。
「それでは、始め!」
審判の号令が下って試合が始まった。至急とは言われてないからこの試合くらい見て行ってもいいだろう。
そう思って見つめていると、リモンがふうっと深呼吸して構えを中段から八相に変えると、つつつっと相手との間合いを詰めていった。
「イヤアアアアアッ!」
鋭いかけ声と共に気合いの入った右袈裟懸けが襲う。
相手の新人は何とかその一撃は避けたが、リモンは間髪を置かずに突きの連続を加え、今度は左袈裟、さらには反対から薙ぎ上げ―――といったように、めまぐるしく変化する斬撃を叩き込み続ける。
《あは。また踊らされてる……》
新人はもうそれを避けるだけで精一杯で、端から見れば踊っているように見えるわけで―――アウラが伝授した秘密特訓の成果がこの一気呵成の連続攻撃だった。
“アウラ流”の薙刀術は間合いの勝負である。相手との間合い感覚を徹底的に鍛えることで、僅かにリーチが長いという利点を最大限に活用し、相手とのパワー差を相殺しているのだ。
しかし相手も一流ならば落ちついていれば対応される。それがあの頃の状況だった。
そこでこの連続攻撃なのだ。
薙刀には様々な太刀筋がある。慣れれば剣術側も対応できるとはいっても、同じやり方で済むわけではない。太刀筋ごとに違った受け方、捌き方をしなければならないのだ。
同じ袈裟懸けでも右と左では受け方が異なるし、横薙ぎ、薙ぎ上げ、リーチのある突き、ほぼノーモーションから出せるくねり小手など、それぞれに対する対処法はみな異なってくるのである。
確かにここにいるのは一流の剣士達だから、分かっていれば受けられる。
だがこのような怒濤の連続攻撃を食って、果たしてその全てに正しく対応できるだろうか? うっかり間違えばその瞬間に勝負がついてしまうのだ。
しかも彼女たちは昨年、近間の攻防を徹底的に訓練していた。すなわち攻撃をかいくぐって間合いを詰めても、そう簡単には仕留められなくなっているのだ。やりそこなったらまた1からやり直し! なのである。
相手にとっては大きなプレッシャーだ。すると今度は焦りにつながりミスを犯しやすくなるわけで……
《あは。あのときは二人で五人抜きしちゃったもんね……》
今年の三月。アウラ出立の少し前にベラで特訓のお披露目をしたときには、リモンとガリーナの二人でフォレスとベラの親衛隊員からなる五人を抜いたのだ。『二人で五人なんてまだまだですね』などとガリーナは言っていたが……
《ロパスさん達、ほとんど顔面蒼白だったし……》
今回は以前のリモンの五人抜きの時とは訳が違うのだ。あのときはみんなまさに油断していたし、薙刀の太刀筋について誰もよくは知らなかった。
だが今回はそうではない。特にフォレスの親衛隊員はもはや薙刀術に対するエキスパートと言ってもいいくらい研究をつんでいたのだが……
―――そこで思わずメイはアウラに尋ねていた。
「あの、これって二人ともみんなより強くなっちゃってませんか?」
剣士達にじろっと睨まれてメイは思わず肩をすくめるが、アウラはしれっと首をふった。
「ううん? そうでもないんじゃないかな? 勝とうと思うんなら簡単な手があるし」
それを聞いた剣士達が意外な表情になる。
「簡単な手が、ですか?」
「うん。だってあれやってたらものすごく疲れるのよ。だからずっと逃げまわって相手がヘバるの待てばいいんだけど。あ、だから冬の間は走り込みはずいぶんやったけどね」
それを聞いた剣士達は一斉に渋い顔になった―――
あはは。確かにそうすれば勝てるのだろうが―――彼らにも彼らのプライドという物があるわけで……
そしてそのことはもはや周りにもよく知られていた。
「おいこらー! 逃げるなー! 新人ー!」
なのでそんなことをしていると主に若い女の子からそういうヤジが飛ぶのである。
《あはは。何かもう、カワイそうかな?》
彼の場合はおそらく逃げているわけではなかったのだが―――そこで新人はこれではいけないと逆襲に転じようとして一気に踏み込んだのだが……
「イヤアァァ!」
待っていたかのようにその瞬間、彼の首筋にぴたりと薙刀の刃が当てられていた。
《あは。寸止めも上手になりましたしねえ……》
リモンが相手に恐れられていた理由の一つに、寸止めが下手だったことがある。彼女の弁では『アウラ様には当たったことがなかったので』だそうだが……
そうなのだ。寸止めといえば―――試合の後、薙刀を立てて一息を付いているリモンの左手にキラリと輝く物があった。
《これもびっくりだったけど……》
そう。婚約していたのはグルナだけではなかった。
リモンの婚約者はルカーノといって彼女より一つ年下で、今年の春に親衛隊員となった若くてわりとハンサムな男だ。
彼は元々リモンと同じ町内の生まれで、小さいころから互いに顔見知りであったという。リモンが言うには『近所の悪ガキだったんだけど』とのことだが、彼の方から見たらずっと憧れのお姉さんだったらしい。
そして強くなれれば迎えに行けるだろうと頑張っていたら、リモンはなぜか王女付きメイドになっており、ならば城の衛士になればいいと頑張っていたら、彼女は親衛隊メンバーになっていた。
普通なら心が折れそうな所を彼は更に頑張って、ついに親衛隊から声がかかったのだが―――その新人テストの対戦相手が何とリモンだった。
《あの試合は上から見てたけど……》
その頃リモンはまだまだ寸止めなどの技術は未熟だった。そして若きルカーノは先ほどの新人のように翻弄された挙げ句、衆目の前でこれ以上なく見事にKOされてしまったのである。
驚いたのはリモンの方だ。彼女が慌てて介抱していると、息を吹き返したルカーノがいきなりリモンの手を握って言った言葉が『あなたに勝てたら、結婚してくれますか?』だったのだが……
《あはは。思いだしても可哀想な光景だったけど……》
天才的なアウラとは違い、彼女は努力一本でその座をつかみ取った。なのであの五人抜き以来、密かに彼女を慕う男女は数知れなかった。
だがリモン本人は超然としていてそういう者達を相手にしなかった。
本人の弁では単に忙しくてそんな暇がなかっただけとのことで、別に男を避けていたわけではなかったらしいのだが……
ともかくそんなわけで多くの男女が虎視眈々と牽制し合っていたところに、ルカーノがかくもあっさりと告白してしまったのだから―――まあ、そのときは寄ってたかってボコボコにされたのも止むを得なかった。
《でも結局勝ったのかしら?》
婚約できた以上、勝てたのであろう。親衛隊に声をかけられる以上、腕が確かなのは間違いない。
《それにいい人なのも間違いないし……》
メイが見てもまさに実直で一途な人だ。だからリモンも気に入ったのだろう。
《それに同じ親衛隊同士だから仕事の兼ね合いもないし……》
グルナのときにもそうだったのだが、結婚する相手によっては仕事を辞めなければならないこともよくある。だがその場合、リモンの替えというのはそうそうはいないのだ。
しかし相手が親衛隊の仲間ならそんな心配もない。
要するに非の打ち所のないカップルと言って良いのだが―――しかし、それが発覚したのは数日ほど前だったが、主に若い侍女達の間で阿鼻叫喚の騒ぎとなった。
何しろガリーナが来てからというもの、リモン派とガリーナ派はことあるごとに張り合っていた。そのリモンに虫が付いてしまったのだから―――おかげでリモン派は分裂して、ガリーナに鞍替えする“裏切り者”と、何があろうと付いていくという“リモン原理主義派”に分かれていたりして……
《あー、もう真剣にどうでもいいですね。ははは》
迂闊に近づいたら命に関わりそうなので、もちろんメイは両者からは距離を置いていたが……
《そういえばガリーナさんは……》
彼女も親衛隊のメンバーで、普段なら一緒にいるのだが……
《また王妃様のところかな?》
何だか最近彼女はルクレティア王妃のお気に入りになりつつあって、わりとこうして姿を見せないことが多い。
何しろベラの後宮は王妃が育った場所だ。そこから来たガリーナだから、色々と話が合うらしい。それに常々王妃はエルミーラ王女にアウラやリモンなどの女性の護衛が付いているのを羨ましがっていたともいう。
《うーん。これだったらもっと薙刀部隊を拡充しないと……》
その話も既に出ていて―――そもそもアウラを含めて三人ではローテーションも色々大変で、ほとんど休みなしなのだ。
そんなわけで今度ベラに行ったときに後宮の警備隊員をもっと引き抜こうかという話にもなっている。
《ロザビーさん達とか、確かにあそこで腐ってるよりはいいかも……》
しかしこれには色々政治的な話も絡みそうで……
《グレイシーさん、怒らないといいけどなあ……》
というか、セリウスを引き抜いたときにもかなり難色を示したと伝えられる。後宮というのは彼女の管理下にある場所だ。エルミーラ王女がらみともなれば、どう考えてもただでは済みそうにないのだが……
ならばこちらで養成すればという話もある。若い侍女の間で薙刀を習いたがっている娘も結構出てきているからだ。するとどこかに道場が必要になるし、師範を一体誰にするかとか、いろいろと問題は山積なのだが……
《ともかく一つ一つ片づけてかないとね……》
このあたり、今メイが焦ってもしょうがないわけで―――さて、それはそうと今は王女様に呼ばれているのであった。ここでリモンの応援ばかりしているわけにもいかない。
そこでメイはその場を離れ、西棟に入ると王女の執務室、柊の間に向かった。
「メイですが?」
そう言ってノックすると……
「どうぞお入り」
と、中から返事をしたのはコルネだ。
《こいつは相変わらず……》
普段ならここで客の出入りを管理するのも秘書官であるメイの役割だ。だが今日は王女の公用は休みなのでグルナの手伝いに行っていたのだが……
中に入るとコルネは執務室の掃除をしているところだった。
「あー? 遅かったじゃないのよ。先ほどから王女様がお待ちよ?」
「え?」
別にそんなに急いで来いとは言われていなかったのだが?
と、そのとき奥から若い侍女が出てきた。
「コルネさん。奥のお部屋は終わりましたが」
彼女はマリオーネといって新しく王女付きになった侍女の一人だ。
「ああ、それじゃちょっと一休みして、王子様のお部屋にかかってちょうだい」
「はい。分かりました」
若い侍女はすたたたっと奥に戻っていくが―――そんな指示を出しているコルネの服には、純白のフロアマスターの襟章がついていた。
フロアマスターというのはずっとグルナが就いていた役職で、このフロアの―――すなわち王女付き侍女のリーダーである。
彼女が秘書の仕事で忙しくなってきた一昨年、一時リモンがその役に就くことになったのだが、それからすぐに彼女が護衛部隊の方に入ってしまったせいで、またグルナがかけ持ちをしていたのだ。
秘書の仕事の方は当初からかなりメイがサポートできたので、しばらくはその体制で進んでいたのだが、グルナがセリウスと結婚してしまうとそうもいかなくなる。
そこでグルナの結婚にはメイとコルネが一人前になることという条件が付いていたのだが……
《絶対に王女様の嫌がらせよね?》
メイの場合は自他共に時間の問題と思われていたが、あの頃のコルネは相変わらずのドジまみれだった。
あのあら探しのことも考え合わせたら、グルナとセリウスの結婚を邪魔するために王女が条件を出したとしか考えられないわけで……
でも人間、死ぬ気で頑張れば少しは変われるらしい。
《けっこう様になってるじゃないの……》
この春から新たに三名王女付きの子が増えている。先ほどのバネッサ、今のマリオーネ、それにもう一人ユビリルという子だが、そんな後輩ができたせいか見違えるようにしっかりしてきた―――ように見える。
まあ元々こいつはやればできる子だとは思っていたのだが―――それに嫌がらせの話をしてやったらかなり本気で凹んでいた様子だ。それで発奮してこうなったとするならば、むしろ王女様のナイスサポートだったというところか?
「えっと、それでご用って?」
「ああ、それがね、さっきエクシーレから王女様の出産祝いの品が届いたの」
「あ、そうなんだ……」
だとすればメイとすればその品目を調べて、お礼状なんかも準備しなければならない。
「どのくらい?」
「結構あるわよ。ちょっとした馬車一杯くらい」
「げーっ!」
「あ、でも毛糸とかが多いみたいだから。品数はそれほどでもないかも」
「あー、それならいいかな?」
ちまちました物を大量に送られると面倒なのだが……
しかし―――メイはちょっと疑問だった。
《こんなんで今呼び出すかしら?》
お祝いの整理とかならそこまで緊急の話ではないし、今は引っ越しの方が先決のような気がするのだが―――と、そこにコルネが言った。
「ああ、それとね、お祝いと一緒に手紙が来てたみたいで」
「手紙?」
「うん。それをね、王女様、何だかすごく真剣な顔で読んでて、それから急にバネッサにメイを呼んで来いって言って。でもそのときは何だかニコニコしてたけど」
「はい?」
こういう品と一緒に送ってくる手紙と言えば、お祝いの言葉と送り状みたいな物だと思うのだが……
《真剣に読んで? それからニコニコしてた?》
何だか嫌~な予感がしてくるのだが……
「王女様は?」
「奥の部屋よ」
そこでメイがそちらに向かうと、エルミーラ王女が長椅子の上でくつろいでいた。
彼女は入ってきたメイを見て、何やら怪しい笑みを浮かべる。
《えーっ⁈》
王女のお側勤めもそろそろ二年になる。するとまあ、彼女がこんな顔をするときは大抵ろくでもない何かが待っているということを学習するわけで……
「えーっと、なんでしょう?」
「見て、メイ。すごいでしょう?」
警戒するメイに王女が相変わらずニコニコしながら、部屋の隅に積み上げられたエクシーレからの出産祝いの品々を指した。
「あー、本当ですねえ」
それには素直に感嘆するしかない。
まず目につくのがまん中にある見事な作りの剣と盾だ。誕生したのが男の子の場合、エクシーレでは普通に贈られるという。
その他金銀財宝とか、かなり腕のある細工師によると思われる子供のおもちゃとか、さらにはコルネの言っていた最高級の毛糸の束や衣類なども積みあげられている。メイとしては一番それが気になってしまうが……
「うわあ。暖ったかそうですね。あれで服を編んだら……」
エクシーレはその開祖が羊飼いだったくらいで、そこで産する毛織物製品には定評があった。
「うふ。そうね」
だが王女は相変わらず不可思議な笑みを浮かべている。
そこでメイは尋ねた。
「あの、それで今コルネから聞いたんですけど?」
「ん? 何を?」
「何かお手紙が来てたとか?」
王女が何やら大げさにうなずいた。
「ああ、あれね。わりと重要なお話だったから、あなたの意見も聞いておきたいと思って」
「重要な? お話ですか?」
「ええ。これなんだけど……」
王女はぴらぴらとエクシーレ王家の紋章が入った封筒を振った。
「えっとこれにね。ティベリウス様から、セヴェルス様を王婿にすることを考えてもいいって書いてあって」
………………
…………
「えーっ! 本当ですか?」
その話の重要性はメイにもよく分かった。
「そうなのよ。私も読んでびっくりしちゃって」
「それで王様はもうご存じなんですか?」
だとすれば午後からは緊急会議か? そうなるとどんな資料を用意すればいいのだろうか?―――などとメイの頭は動き出したのだが……
「ううん。まだだけど? 先にあなたと話しておきたくって」
「え? 私に?」
どういうことなのだ? そういう話なら真っ先にアイザック王にするべきなのでは? それこそメイなんて後回しでいいはずだが?
「あのー、どういうことですか?」
その話を受けるかどうかは王女と王が決めることだし。結果がどうなろうとメイはその後を付いていくしかないわけで……
「でもね、それにはちょっと条件がついてるの」
「条件? ですか?」
メイは少し驚いたが―――すぐにあのティベリウス王のことだから、ただでそんな美味しい話を持ちかけてくるわけがないと気づいた。
「それでどんな?」
メイの問いに王女がさらりと答える。
「えっとね、その代わりにあなたを後妻に欲しいんだって」
………………
…………
……
は?
「あのー、聞き損なったような気がするんですが、いま何ておっしゃいました?」
すると王女は笑いながらはっきりと答えた。
「ティベリウス王は、メイ、あなたを後妻にしたいんだって」
………………
…………
……
「はいいいいぃぃぃぃぃ⁈」
後妻にしたいって、それはメイを嫁にしたいということか? それとも妻にしたいということか? それとも奥さんにしたいということか? あれ? いやそれってみんな同じことだったっけ? いや、だから後妻っていったわけだから、えーっと……
《ど、ど、ど、ど、どーいうこと?》
固まってしまったメイの横で、コルネも真っ青な顔で尋ねる。
「あの、今のって、本当なんですか?」
「もちろんよ。読む?」
「いやその……」
コルネも焦点の合わない目でつぶやいた。
「ティベリウス王って……ロリコンだったんだ……」
いや! だからもうそのネタはいいからっ!
そんなおバカのセリフのおかげでメイの頭にも少し血が巡ってきたが……
「あ、あの、その……」
まだまだしどろもどろのメイに王女が語る。
「それがね、ティベリウス様もそろそろ老い先短いから、最後に若くてカワイくて料理上手な子と一緒に隠居したいとか何とか」
「はあ?」
確かにあのエスパーダ号に乗せてもらったとき、釣った魚を捌いて見せたことがあったが……
《いや、でも……》
そこで王女が妙に真剣な表情になった。
「それにね? メイ。この間言ってくれたじゃない。あなたにできることなら何でもしてくれるって……」
え? いや、確かにそんなようなことを言った記憶はあるが―――王女が伏し目がちに続ける。
「でもさすがにこういうことでしょ? まずはあなたの気持ちを確かめておかないとって思って……」
にゃあにいぃぃぃ?
《えっとそれって……》
王女様が誰と結婚するか、またフォレスの王位を誰が継ぐかというのは、この国の、いやこの地域全体にとって、極めて重要なことだった。
今、そんなフォレスにとって最も大切なのは、エクシーレ王国との関係を深めることである。それができなければその先にあるさらに遠大な計画など、まさに夢物語。実現など不可能だ。
そしてエルミーラ王女は自身の手でこの国を継いで守っていくと決心しているわけで……
《ここで……私が犠牲になれば?》
そうすることで王女の最も望む結果となるのだとすれば……
そのことはメイにはよく分かっている……
分かっているのだが……
分かっては……いるのだが……
王女が首を振る。
「だからもしあなたがどうしても行きたいって言うんなら、こちらも考えなおさなきゃならないんだけど……」
「あ、あのですね、さすがにちょっと考えさせてもらえませんか? その、ほら、とても大切なお話ですからっ!」
王女の目が丸くなった。
「え?」
「だってほら、これって一生の問題ですから。あ、それは私なんてほら、大した人間ではないから、一生の問題っていっても王女様とかにとっては大した問題じゃないんですけど。でもほら、やっぱり私だってその……」
半分涙目で弁明するメイを王女はじっと見つめていたが―――やがて口元がぴくぴくと震えだすと……
「ぷーっ! あーっはははははっ!」
盛大に笑い始めたのだった。
「はあぁ?」
メイがぽかんとした顔で王女を見つめると、彼女はにやーっと邪悪な笑みを浮かべた。
「あなた、あんなおじいちゃんが好みなの?」
「は? そんなわけ……」
「でもずいぶん心が動いてるみたいだし」
「いえ、でも、その……」
って? あれ? 何だかしっくりこないのだが……?
ずいぶん心が動いてるって??
そこで王女はまたじーっとメイの顔を見つめると意地の悪い声で言った。
「さっき私は『どうしても行きたいって言うんなら』……って言わなかった? ふふっ」
「え?」
………………
…………
……
「あ゛ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっ!」
やられた……
「ふふ。こんなのに引っかかるなんてまだまだねえ」
あ、あ、あ、あ……
「だってほら、その……」
王女はセヴェルス王子を王婿に迎えたいのではないのか?
そこで王女は急に真顔になる。
「そんなの、断るに決まってるじゃないの」
「え?」
「あの爺さん、あたしを試そうとしてるのよ。こんなのに喜んで食いついてたら足下を見られるのがオチよ。だいたい、考えてみるなんてねえ、考えたけどやっぱり止めた! とか言いだす気満々でしょ?」
………………
確かに、言われてみたらそうかもしれないが……
「それにね、あなたにはもう少し側にいてもらわないと」
「え?」
一瞬、胸がドキンとしたが……
「色々元手もかかってるしね」
はい、まあそーでしょーねー。
「とにかく本当にそんな正念場が来なきゃ、簡単にはあなたは手放さないから」
………………
…………
このお方、結構そんな正念場が多そうな気がするのだが……
「その……どうもありがとうございます」
まだしどろもどろのメイを王女はしばらくニコニコしながら見ていたが、それから立ちあがると窓際に行って遠くを眺めながらつぶやいた。
「まだ子狐だなって笑われるかしらね……でも衰えるばかりの老犬とちがって、子狐は成長するんだし……」
それからメイの方にふり向く。
「それで?」
「え?」
「あなたの返事は?」
「あー、お断りして頂いてよろしいでしょうか?」
「うふ。分かったわ。今回は貸しにしておいてあげる」
「えー?」
断るに決まってるって言ってたのに? もう……
まあこの程度で凹んでいては、この王女様のお側に仕えるなんて不可能だが。
と、そこで王女の顔にまたまた怪しい笑みが浮かんだ。
「あ、そうそう。そのロリコンで思いだしたんだけど……」
「はあ?」
今度は何だ?
「次はあなたも一緒に行くわよね?」
「行くって、どこにですか?」
「どこって、アンゲルッススよ。せっかく招待状をもらったのに、あそこだけ行けなかったじゃない」
ぶーっ!
「それにそもそもあれってあなたへのお手紙でしょ?」
そうなのだ。あのあと晴れてメイは王女とアウラに、パサデラとティグリーナからもらった手紙を見せることができたのだが―――もちろんその結果は誰もが想像するとおりであった。
そう。もはやあらゆるわだかまりのなくなった王女は堂々とマルデアモール、そしてアウデンティアでご休息なされたのである。
アンゲルッススに行けなかったのは単にスケジュールが合わなかっただけで、本人は行く気満々だったのだが……
「さすがベラの三大遊郭よねえ。ハビタルってすごいわあ」
もう完全に開き直りモードである。ガリーナもいるからセキュリティも万全だとか言っていたが―――だがアウデンティアから帰ってきた彼女は何だかすごくぐったりしていたようだが、本当にいざというとき大丈夫なのだろうか?
《あー、そろそろこっちの準備も本気でやらないと……》
ともかく秋にはまたベラに行く。
北部の視察が中途半端に終わっているし、その他にも懸念事項はいろいろある。足下を固めなければならないのはフォレスだけではないのだ。
そしてこれからはもうメイが王女の正式な秘書である。去年までとは責任の重さが違ってくるわけで……
《でも、ファリーナさんのお菓子、また食べられるかな?》
ベラにはもう見知った顔がたくさんある。
最初は右も左も分からない旅ゆきであったが、四回目ともなると少しは余裕が出てくるわけで……
《だったらどうしようかなあ? 行ってみるかなあ……アンゲルッスス……》
うーむ。ちょっと心が動いちゃったりしてるのだが……
しかし彼女たちは知らなかった。
丁度その頃、フォレスの西、パロマ峠の上で一人の男が頭を抱えていたことを。
「ああ、なんとご報告申し上げたらいいのか……」
男の名はタンブル。エルミーラ王女に皇子ご誕生との報せを携えて、シルヴェスト王国に派遣された使者だったのだが……
「ル・ウーダ様はともかくも……アウラ様まで……」
男は大きくため息をついた。
シルバーレイク物語 第5巻 女王候補の見習い秘書官(下) おわり