第3章 生きていたル・ウーダ
その翌日、朝食を取った後フィンはアウラと一緒に離宮の奥庭を散歩していた。
この時間帯でもアキーラはもう暑いが、木陰に入るといると涼しい風が吹き抜けていく。
《ああ、きもちいいなあ……》
フィンは大きく深呼吸して、ちらと横のアウラを眺めた。
彼女も同様に薄目を閉じてそよ風を満喫しているようだ。その肌がうっすらと汗ばんでいる。
《彼女と水浴びできたらいいんだけどなあ……》
あの池は本当に気持ちよさそうなのだが―――視察旅行中は適当な川があったらよくそうやって遊んでいたものだ。しかし今の彼の立場ではこのベラトリキスの庭にいるだけでもまずいのに、そのメンバーと泳いでいたことがバレたりしたら何がどう誤解されるか分からない。彼がアウラの恋人というのは対外的には秘密事項なのである。
―――というか、昨夜はメイがそれでひどい目に遭っていたという話で……
《あんなのを誤解されてたら、もう一緒になんて歩けないぞ?》
昨日の騒ぎは身内の間で収まったから良かったもの、これが外に漏れたりしていたら大スキャンダルだ。今の彼女たちはまさに大スターなのだから……
しかし彼にとっては小さなラッキーだった。なぜならそのせいでアウラの夜の予定がキャンセルになって、代わりにフィンが忍んでいくことができたのだ。今ここで彼女と散歩できているのもそのためだ。
《でもなあ、あれでそんなに落ち込んじゃうなんて……》
聞けばフィンとメイが逢い引きしていると勘違いして、サフィーナが落ち込んで噴水脇の木に登って降りてこなくなったとか……
《ちょっと困っちゃうよなあ……》
そこまで好かれてしまうなんて、まさに男冥利に尽きるとは言えるのだが……
そこでまたちらっと横のアウラを見ると―――今度は彼女と目が合った。
「ん?」
「いや、ちょっと夕べの話思い出してて……」
アウラはうなずく。
「そうなのよ。ほんとにサフィーナったら健気で……」
いや、確かにそうなのだろうが、彼女に言われてしまうと返す言葉がないわけで―――そんな彼女の素振りを見ていると……
《何かアウラまでサフィーナのこと応援してたりしないか?》
えっとそれってどういうことだ? まさか三人一緒とかで……
………………
…………
……
《いや、ないない! それはないって!》
こういうときはうっかり自分に都合のいい妄想をしてしまいがちだが、絶対彼女の場合は何も考えてないから―――などとと混乱していたときだ。
木立の向こうから別な人影が現れた。メイとそのサフィーナだ。
「あれーっ? フィンさん、アウラ様と?」
メイが元気よく手を振ってくる。
「やあ」
フィンも手を振り返したが―――顔が引きつったりはしていないだろうか?
「フィンさんもお泊まりだったんですかあ?」
彼女はいつもの調子でにこやかに話し出す。
「え? まあな。ほら、夕べの練習がなくなったとかでアウラが空いたからね」
「あはあ! なるほどっ」
彼女は盛大に同意した―――と、そこでアウラがサフィーナに尋ねた。
「あなたも泊まってきたの?」
「え? うん」
サフィーナが小声でうなずく。
それを見がメイが、矢継ぎ早に話しだす。
「そーなんですよ。昨日はひどい目に遭いましたから。サフィーナさんと一緒にもうやけ食いですよ? もらったお菓子みんな食べちゃいましたから。他の人に分け前はなしです! 本当だったらみんなにちょっとずつ分けるくらいはあったんですけど。みーんな二人のお腹の中ですっ!」
「あはは、大変だったねえ」
と、そこで今度はサフィーナがアウラに言った。
「えと、それで今日は?」
「じゃ、今からやる?」
「うん」
サフィーナがこくっとうなずくと、アウラはフィンに手を振った。
「じゃ、行くから」
「あ、ああ……」
「頑張ってねー」
「うん」
メイがにこやかに手を振るとサフィーナも手を振り返した。
《うー……》
いそいそと薙刀の練習に向かう二人を見送りながら、フィンは言葉がなかった。
こうやって見ると何だか歩き方まで似てきてるみたいだし……
「でも、ほーんとに困っちゃいますよねえ……」
メイがため息をつきながら言った。
「え? 昨日のこと?」
「はい。みんな悪気はないんですけどねえ。こういうときになるとすぐ調子に乗っちゃうし……」
「あはは。そうだよねえ」
フィンも苦笑いしながら答えるが……
「もうこんな誤解されないように、フィンさんの方から誘っちゃたらどうですか?」
ぶはっ!
いきなりのストレートだった。
「えと、でもなあ……」
「アウラ様だって言ってるんでしょ? だったらフィンさんがOKって言っちゃえば……」
あ? いや、その……
「でもその間、アウラ様どうしてるのかなあ? 一人じゃ寂しいんじゃ……だったら一緒にしちゃったりとかは?」
ぶはーっ!
途端にフィンの頭にいつぞやのハビタルで、アウラとパサデラ三人で過ごした夜がフラッシュバックする。
「あ、でも三人だと一人余っちゃいますよねえ。それってどうするのかなあ?」
などと真面目に考えこんでいるが……
《あはははははっ!》
それは可能なのだ。
フィンは決して絶倫というわけではないから、一人で二人を満足させろと言われたら少々困ってしまうのだが、あのときはフィンの上で二人が際限なく絡み合い続けていた。そのついでに彼のモノがあちらやこちらに出たり入ったりしていて……
《いや、いや……》
それはダメだろう? パサデラというのはプロの遊女なんだし……
《ってかこいつは……》
カワイい顔をしてとんでもないことを突っ込んで来やがる……
《あのときのあの子はどこ行っちゃったんだよ……》
―――などとフィンが半分錯乱しかかっていると……
「あ、それはそうとですねえ、ちょっと考えてみたんですよ」
「あ?」
「秘密兵器のことなんですが……」
「え?」
一瞬何の話かと思ったが―――そういえば昨日の午後、メイがそんな担当にされていた記憶が蘇る。
「夕べお茶いっぱい飲んだせいで目が冴えちゃって……サフィーナさんは横でころんって寝ちゃうし。それでいろいろ考えてみたんですが……」
「へえ。何かいいアイデアが出たかい?」
メイはうーんとうなずいた。
「いいといいますか……まず今の私たちにとって、秘密兵器レベルの存在といえばやっぱり、シアナ様とリディール様ですよね」
「ん、まあそうだけど」
「あのお二人に本気になってもらったら、結構すごいんじゃないんですか?」
フィンはうなずいた。
「あ、まあそれはそうだけど……でもいかなシアナ様でも五千の敵を一撃で吹き飛ばしたりは無理だよ。それにそういう魔法を使うときは、相手がよく見えて精神集中できる状態にしなければならなくって、そうすると要するに古典的な魔導陣を張ることになるわけだ。これって大昔からある作戦だしね」
「あー、やっぱりそうですか」
「そういう話は最初にアリオールがしててね、で、色々説明したんだけど、ちょっと今のレイモン軍には向かない作戦なんだよな」
「向かないと言いますと?」
メイが首をかしげる。
「ああ。魔導陣というのは壁役歩兵でがっちりと魔導師を守る布陣なんだけど、これはすごく静的な構えで、むしろ守りに向いてるんだ。でもレイモン軍は騎馬隊が身上で、その突破力を生かした攻めのときに真価を発揮するわけで……」
「あー、そうなんですか」
メイは大きくうなずいた。
「あと、そういう大魔法は敵味方の区別がないから、混戦になったら迂闊に使えないし、それにやっぱり二人だけじゃ……さすがにアラーニャちゃんにはまだ無理だし。何よりもこちらにはこの二人がいることが知れ渡ってるわけで、だったら相手だって対策してくるだろうし……」
メイはその説明にいちいちうなずきながら聞いていたが……
「あー、やっぱりそうですか……でもですよ? だったら小鳥組作戦をやったらどうでしょう」
「小鳥組?」
「はい。あれで夜襲を仕掛けたりしたらどうです?」
ああ、確かにあれはちょっとした秘密兵器と言っていいだろうが……
「確かに嫌がらせとしては有効だろうけど、今回は相手の規模が段違いだしなあ……少々削ったところでびくともしないだろうし……」
「それじゃ敵の司令官をやっつけるのは?」
フィンは首を振る。
「いや、今度は本当に危険だから。向こうの弓兵の規模も段違いだし、もう最後の最後の土壇場って状況でもないと……二人のどちらかでも失ったら目も当てられないし……」
「あー、やっぱそうですかー……それじゃですね」
「まだあるのか?」
メイはにっこりとうなずく。
「はい。そこで考えたんですが、大きな花火を作って打ち込んでみたらどうでしょう?」
「花火?」
「はい。あれの大きいのってすごい音がして、遠くでボーンっていっても、お腹にずしっとくるでしょ? あれをいっぱい作ってバンバン打ち込むんですよ」
フィンは目を見張った。
「あー、なるほど……」
「どうでしょう?」
メイがニコニコしながら尋ねるが―――フィンはまた残念そうに首を振った。
「うん。実は昔そういうことを本当に考えた人はいたんだ」
フィンはそれをガルサ・ブランカの図書館で読んだことがあった。
「え?」
「確かにね、花火の原料の火薬ってのを使って、そんな爆裂弾というのを作った人がいるんだけど……」
「はい」
「戦場で炎の雨を降らされたせいで、味方に大被害が出ちゃったんだな」
「えー、そうだったんですか?」
「うん。炎の雨っていうのは戦闘大魔法の基本技だから、戦場に出てくるような魔導師ならみんな使えるし」
メイは今度は明らかに落胆したようだが……
「でもほら、今度の敵にはあまり魔法使いはいなかったんじゃなかったですか?」
またフィンは首を振る。
「あー、今のところはそうだって聞くけど、呼び寄せようと思ったらすぐに来られるし、それにまずそういう爆裂弾を作れる人がいないし。その本では開発途中に事故で何人も死んだって書いてたし……」
「えー、そうだったんですか……」
「うん。確かにうまくいけば秘密兵器っぽいけど……今から開発しようとしたって間に合わないだろうなあ」
「あー……」
二人がそんな話をしていたときだ。遠くからお盆を持ったアルマーザが飛んできた。
《え? アルマーザが?》
―――と思ったのは一瞬で、彼女の腰を後ろからアラーニャが抱えていたのだ。
「あー、お二人とも、おはようございまーす」
アルマーザがにこやかに挨拶する。
「おはよう」
フィンが手を振ると、メイが後ろのアラーニャに尋ねた。
「あは。結局そういう形で?」
「はい。これが一番危なくないんです」
アラーニャが苦笑いしながら答えているが……
「何が危なかったんだ?」
彼はノゾキ騒ぎの詳細を聞いていなかった。
「あ、それがアルマーザさんがアラーニャちゃんのおっぱいを触っちゃうんですよ」
「あ?」
ぽかんとするフィンにメイが説明する。
「飛行魔法中にですよ? それですぐ落っこちちゃうから……これなら絶対触れませんよね?」
フィンは何となく状況を理解した。
確かに後ろ向きで手に盆を持っていたらさすがに無理だろうが……
「あ、でもこれ、背中が気持ちよくって……あは」
アルマーザは相変わらずだ。
《あはははは……》
この二人組は何だか本当によく分からないが―――とそこでアラーニャが尋ねた。
「お二人で仲良く何のお話ですか?」
メイの額にちょっと青筋が立つ。
「あはは。ちょーっと秘密兵器についてですよっ!」
「秘密兵器?」
「そーです。昨日もこういうお話をしてたんですからねっ!」
メイは二人をぎろっとにらんだ。
「あーん、ごめんなさい」
「あはははは。あれはちゃんと謝ったじゃないですかー……あ、ちょっと降りていい」
「え? うん」
アラーニャがすとんと着地すると、なぜかアルマーザが興味津々で尋ねてきた。
「で、その秘密兵器ってどんなのです?」
目がキラキラしているが……
《こういう話が好きなのか?》
彼女とはあんまりたくさん話したことはないのだが……
「それが思いつかなくって困ってるんですよ」
メイが二人に今の話のあらましを語った。
「あー、難しいんですねえ」
「そりゃそうさ。そんな簡単にできたなら、今まで誰かが作ってただろうし」
「ま、そうですよねー」
と、そこでフィンはアルマーザに尋ねた。
「ところでそのお盆、どこかに持ってく途中じゃなかったのか?」
アルマーザの手にしているお盆には紅茶のポットとティーカップが四つ乗っているが……
「あー、これは練習のために持たされてるんですよ」
「あ、そうなのか」
だったらここで油を売っていても問題ないわけだが……
「でも、それだったらこういうのはどうです?」
いきなりアルマーザが言った。
「あ、どんなんだ?」
「ほら、小鳥組なら夜中にこっそりと忍び込んだりできるじゃないですか、そこで食べ物とか飲み物に毒を入れちゃったらどうですか?」
フィンは一瞬そういうこともできるかと思ったが……
「あー、でも、少なくとも五千人分だぞ? すごい量になるけど……それに一カ所に固めて置いてあるわけでもないし……」
それだったら食料を焼き討ちしていった方がいいかとも思ったが、敵の補給線はそんなに長いわけではないし、あっという間に補充されてしまうだろう。
「あ、だったらこういうのはどうですか?」
アルマーザが続けた。
「どういうのだ?」
「戦場に毒の入った食べ物を置いておくんですよ」
「いや、そんなもの食べないだろ? 普通」
「でも戦うとお腹が減るじゃないですか」
「いや、そうかもしれないけど、そんな怪しい物を食べたりはしないだろ? そもそもそんな広いところにどうやって置くんだ?」
「だから兵隊さんがみんな持って行って、退却するときに置いてくるんです。そうすれば広い範囲に一挙に置けますよね?」
頭がいいんだか悪いんだか……
「だからやっぱり落ちてた物を拾って食べたりはしないと思うけど」
アルマーザはまだ食いついてくる。
「美味しそうなお酒とかでもですか? 毒はなくとも酔っ払ったら戦力半減ですよ?」
「だから、そんなあからさまな物を飲まないって」
「ということは、どうやって飲ませるかということですね?」
アルマーザが腕組みして考え始めた。
《いや、だから……》
少なくとも彼にできる発想でないことは間違いないが―――と、そこでメイがはたと手を打った。
「あ! そういえばリディール様、あのときシアナ様のお酒を抜いてましたよね?」
「は? なんだそりゃ?」
フィンは不思議そうにメイを見る。
「あー、あのときはフィンさんはいませんでしたか……実は都にいたときですけど、ルナ・プレーナ劇場にレイシアンの歌を見に行ったんですよ。そしたら酔っ払ったシアナ様が出てきてアウラ様とケンカになって……」
………………
…………
「んな、なんだって?」
フィンはまだ王女達が都にいた頃の話を詳しく聞けていなかった。
「いやあ、こっちも真っ二つになった黒焦げになるところでしたが……」
はああ? いったいどういう状況なんだ?
「そこで怒ったリディール様が、シアナ様のお酒をぼんって抜いちゃったんですよ」
「うへえ……」
確かに彼女なら可能だろうが……
「だからお酒を抜く魔法があるんなら、お酒を入れる魔法もあるんじゃないんですか?」
あ?
なんだか一瞬すごいアイデアにも聞こたが……
「いや、そういうまどろっこしいことせずに、体の水分を抜いちゃえば相手は死ぬけど」
「えー? ちょっとそれって可哀相じゃないですか?」
「いや、でも戦闘中だし……」
そこにアルマーザが口を挟む。
「でも、そんな五千人分も水分を抜いたら、あたりがびしょ濡れになっちゃいませんか?」
心配するポイントがずれてるじゃないのか? というか……
「いや、ちょっと待て。敵全員から一気に抜いたりはできないって」
「え? じゃあリディール様が一人一人順番に五千人相手に? それじゃちょっと無理でしょう?」
「うー」
アルマーザに突っ込まれてメイが頭を抱えているが……
《いや、色々根本的にダメだから……》
そんな話で変に盛り上がっていたときだ。
「あ、リーブラ様、メイ秘書官様、こちらでしたか」
やってきたのはレイモンの侍女だ。
「あ、なんだい?」
「アリオール様がお呼びですが」
「僕たちを?」
「私もですか?」
侍女はうなずく。
「はい。何でも内密の話があるとかで」
なんだろう?
「あー、分かった。ありがとう」
「ありがとう」
そこでフィンとメイはその場を離れてアキーラ城に向かった。
二人が案内されたのはいつもの大会議室ではなく、違う階にある豪華な客室だった。
そこにはアリオールとラルゴ、それにエルミーラ王女も既にやってきていた。
《何なんだ? 内密の話って……》
この様子では確かにそのようだが―――でもどうして王女が呼ばれているのだ? それにメイまで……
「ああ、リーブラ殿、よく来てくれた」
「何か分かったのですか?」
でもそれなら内密にする必要もないと思うのだが……
「いや、そういうわけではないのだが、実は君にちょっとしたお願いができないかと思って……それには君の主君の同意も必要なのでな、エルミーラ様にもお越し頂いた」
お願い?
フィンが不思議そうに王女を見ると……
「ま、アリオール様のお話を聞いてみて下さいな」
「はい……」
「あと、あなたはお話をしっかり記録しておいてね」
「え? はい」
メイもうなずいたが、同様にわけが分からないという表情だ。
「えっとそれで?」
フィンの問いにアリオールが答えた。
「ああ。実は捕虜を尋問していて少々おもしろいことが分かったのだよ」
「おもしろいこと? ですか?」
いったい何だ?
そこで彼が目配せするとラルゴが話し始めた。
彼はアリオールとあの地下室でも一緒にいた男だ。現在は周辺のアロザール残党狩りの指揮をとっている、最も信頼できる部下の一人だが……
「実は昨日ある捕虜を尋問していたのですが、その捕虜はメルファラ大皇后だけでなく、ル・ウーダ・フィナルフィンも見つけ出して連れてこいと命じられていたそうなのです」
「え? 僕を?」
フィンは驚いた。
「はい。そこでル・ウーダはクォイオで惨殺されていたはずだが? と問い返したところ、実は生きていてどこかに囚われているのではないかと主張するのです」
「僕が生きていて?」
「はい。そこで再度他の捕虜にも尋ねてみたところ、ル・ウーダ・フィナルフィンが生きていると考えている者がかなりおりまして……」
念入りに偽装したはずなのだが―――生存がバレるようなドジをどこかで踏んだのか?
「でも、ル・ウーダの死体というか、骨はあちこちで見せて回ったんですが……」
「はい。その話もしたのですが、骨になったら誰か分からないだろうと。聞けばどうやらもっと上の、アルクス王子直々にそのような命が出ているようなのです」
「アルクス……ですか……」
フィンは納得した。あいつになら確かにバレてて全くおかしくないが……
《でもどうしてそこまで俺にこだわってるんだ?》
確かにアルクスをこうやって裏切っているのは確かだが―――でも、そもそもアロザールには期限付きの仕官だということは向こうも納得してるはずだし、それでそんなに怒るのか?
フィンが首をひねっているとアリオールが尋ねた。
「確かアルクス殿下は読心の魔法が使えるとか?」
「はい。だからこちらの意図を知られていたということは十分考えられますが……」
「ならば彼は君が裏切ることに気づいていたのに止めなかったということか?」
「だと思いますが……なにしろあの状況では普通、私一人が裏切っても何もできないと思うじゃないですか?」
「まあ、確かにその通りだ……」
彼らがこのようにしてレイモンを解放してしまうなど、フィン自身を含めて誰も夢にも思っていなかった。
「ということは君たちなどとっとと捕まると思っていたのにこんな事態になってしまって、殿下は当てが外れておかんむりということかな?」
「あー……かもしれませんね。まんまと出し抜かれたような形でしょうから……」
そう言いながらフィンは背筋がぞっとしてきた。
確かに袋のネズミと思っていた獲物がこうして罠を食い破って逃げてしまったわけだが……
《そういう場合ってむしろ余計に腹が立つもんだよな……》
ということは、ここでもう一度捕まったら何をされるか分かったものではないということで……
それを聞いたアリオールが深刻な表情になる。
「うむ……だとしたらますます危険な話になるのだが……」
「え?」
「いや、これを聞いてラルゴとも話していたのだが……実は君がな、クォイオで捕虜になった後に無理矢理協力させられていたならどうかと」
「え?」
「そしてここから逃げだしてきたというのなら、ロータで歓迎してもらえるのではないかとな……」
「え? あ!」
それって―――確かにいい考えではないか‼
とにもかくにも今は秘密兵器の情報が喉から手が出るほど欲しいのだ。しかし小鳥組などで強引に行くのはリスクが大きすぎる。
《でもこれなら向こうが出迎えてくれるわけで……》
分からなければとっとと逃げ出してしまえばいいだけだ。それならば危険はずっと少ないわけで―――だったらやるっきゃないのでは?
「しかしいま言ったとおり、まさに危険な任務だ……」
アリオールが続けようとするところをフィンは遮った。
「いえ、やりますよ?」
その即断に彼は少々驚いたようだ。
「え? だがここはもう少し考えた方が良くないか?」
だがフィンは首を振る。
「いえ、やらない選択なんてありませんよ。これを逃して振り出しに戻ったりしたら、今までやってきたことがみんな無駄になってしまうじゃないですか」
アリオールとラルゴが顔を見合わせる。
それを見てフィンは少し可笑しくなった。
「それに、これなら今までやってきたことに比べて格段に楽ですよ」
「楽……だと?」
アリオールとラルゴが驚くが―――フィンはにっこりと笑う。
「だってアキーラの解放は最初二十三人しかいなかったわけだし、その前は二人でアラン王の首を取りに行ったりとか……でも今回はこの国すべてがバックアップしてくれるわけですから……」
思い起こしてみれば無茶な状況だらけだが―――よくやり過ごして来られたと自分でも少々感心してしまうが……
その様子を見ていたエルミーラ王女が言った。
「ほら、言ったでしょう? リーブラ様ならやって下さるって」
アリオールとラルゴはしばらく目を丸くしてフィンを見つめていたが、それから彼と、そしてエルミーラ王女に向かって深々と頭を下げる。
「ならばお願いしてよろしいですか?」
「はい。もちろん」
「どうぞ。ご存分に」
まさに暗闇の中に一条の光が差したような気分だったが―――本当にちょこっと光が見えただけだった。
「それでどのようにロータに行けばいいんでしょうか?……って、あれ?」
そう尋ねてからフィンはこれが一筋縄ではいかないことに気がついた。
「ああ。そのル・ウーダ氏は今、アキーラ城に囚われているわけだ。すなわち彼はこの城を脱出してロータに逃げ込まなければならないのだが……」
………………
…………
……
《いや、もしかしてこれって、かなりと言うか、ほとんど無理筋なんじゃ?》
彼がロータにたどり着いたのなら、当然そこでどうやって逃げてきたと尋ねられるだろう。そこで納得のいく武勇伝を語れなければ、むしろ怪しまれてしまうことになる。
《もし八百長を疑われたりしたら、そのままアルクスの所に送られて……》
フィンは一同の顔を見る。アリオールがうなずいた。
「うん。そういうわけで“彼”が今どういう状況にあるかというあたりから、相手に疑われないような設定を作らねばならないわけだ」
………………
「……わかりました」
まさにこれは極秘の話題であった。
それからアリオールがメイに言う。
「で、秘書官殿。あなたの記録した“設定”を元に、関係各所の調整を行うことになりますゆえ……」
「は、はいっ!」
メイもはじかれたようにうなずいた。彼女の任務もまた重大であった。
こうして彼らはまずル・ウーダ氏が大皇后側についた経緯を考え始めた。
―――ル・ウーダ・フィナルフィンは、護衛の兵士と共にクォイオまでやってきた。そこで女戦士の集団に奇襲されて、護衛は全滅。彼一人が残された。
命はもはや風前の灯であったが、そこで彼は涙ながらに訴えた。
自分は都でうだつが上がらなかったのでこんな辺境の国まで流れてきて、そこでたまたま成功しただけだ。今度の役目も別に都や大皇后に仇なすつもりなど毛頭なく、単に都の慣習に詳しいから任命されただけだと……
その真摯な様に彼は何とか許してもらえたのだが、もちろん今後は彼女たちに味方してアロザール側の情報を流せという条件付きである。でなければ命はないと脅される。
その女戦士達の業前は凄まじく、元々文人だった彼では全く歯が立たない。
そこでやむなく協力していたのだが―――
「確かにあの方々は凄腕ですからな……」
ラルゴが感嘆したように言う。
あのあと何度かレイモンの剣士たちが、アウラやリモン、それにシャアラやマジャーラと手合わせしていたのだが、薙刀組だけでなくヴェーヌスベルグの二人にも大いに手を焼いていた。
《あの二人じゃ素手でもかないそうもないし……》
その上、恐ろしい魔法使いまでが加わっては、ル・ウーダ氏が脱走しようという気分にはならなかっただろう。
だが……
―――しかしその頃の彼にはまだ余裕があった。
なぜなら大皇后一行が行おうとしていることはまさに無茶苦茶、もはや正気の沙汰とは思えない。この人数でアキーラ解放など完全な妄想だ。あっという間に破綻して、そうなれば自由になれるに違いないと彼はそう思っていた。
ところがなぜかそれがとんとん拍子に上手くいって、やがてアリオール達と合流することになる―――
《そこで彼は初めて焦ってきただろうが、もはや手遅れだったわけだ……》
それまでは二十人そこらの女戦士達だけだったのでまだ隙はあったのだが、今度は呪いの解けたレイモン兵多数が彼を見張っているのだ。
―――そこでル・ウーダ氏はここでジタバタしても仕方ない、ともかく機会を待つのが最善だと、とりあえず恭順の意を示しておとなしくしていた。
ところがそんな願いも空しく、彼の手の届かないところであれよあれよとアキーラが解放されてしまう。
ル・ウーダ氏は愕然とした。頼みの綱だった大守グスタールは今やアキーラ城の地下牢の中だ。
しかし、もしこのままレイモンが独立できるのであれば、今のままでいるのも有りか? と思った矢先である。第二の秘密兵器の情報が出てきたのは……
そんな物を出して来られて勝ち目などあるはずがない。
そうしてレイモンが再度アロザールの支配下に入った後に、おめおめと救出されたのだとしたら、どのような処罰を受けるか分かったものではない。
それを回避するにはせめてその前に脱出するしかない。
できれば何か土産を携えて―――
「……と、そのように虜囚のル・ウーダ氏は考えていたわけだ」
「そうですね。おおむねそんな感じでいいのではないでしょうか?」
アリオールの言葉にフィンはうなずいた。
「しかし、これだと早々に死んだことにしてしまったというのは、彼にとっては大悪手だったわけだ」
「ああ……そうですよね……」
もしル・ウーダ氏が本気で救出を待っていたのなら、生存をアピールしていた方がいいはずだ。それなのにいきなり死んだことにしたというのは、最初から裏切る気満々だったと取られてもおかしくない―――というか、その通りなのだが……
ともかくこれでは単に都合でコロコロ裏切る男としか思われない。そんな奴に秘密兵器の情報など流すだろうか?
そのときエルミーラ王女が言った。
「でもル・ウーダ・フィナルフィンを生かしておいては、私たちが信用されなかったと思いますが」
「え?」
一同が王女の顔を見る。
それを聞いていたメイも言った。
「あー、ですよねー。ものすごく嫌われてましたものね。村の人とかから」
アリオールもうなずいた。
「ああ、確かにそうだ……リエカは別にしてもな」
あはははは。
そこで王女が言った。
「あ、それではこのようなお話ならどうでしょう? そのル・ウーダ氏は素直に恭順の意を示していたので最初はそのまま連れて行こうとしていたのですが、ちょっと目を離した隙に村人にリンチにされそうになっていたと……それを見たファラ様が哀れんで、死んだことにして差しあげた、とかなら?」
「あ、それなら何とかなりますか?」
「ファラ様のお優しさも際立ちますし」
「ふむ」
アリオールはうなずいた。
《確かに―――村人が“ル・ウーダ”を語るときの目は、まさに憎悪に満ちてたもんな……》
事情を知らない彼らがそう思うのも無理はないとはいっても、自分がそのように思われるのはけっこう堪えたが……
「ふむ。そのように大皇后様に哀れんで頂いていたとなれば……ここでは地下牢ではなく、もう少しマシな扱いでもいいわけだ」
「マシな扱いとは?」
「城にはそういうお客用の部屋もあって。ほら、この部屋も実はそうなのだが、カギがなければ中からも出られない」
そう言ってアリオールがカギを見せた。
改めてよく見ると窓には頑丈な鉄格子がはまっていて、一見は立派な客間なのだが、その実特殊な虜囚―――例えば人質としてやってきた他国の王族などを住まわせておくための部屋だということが垣間見える。
「しかし抜け出す難しさはそうは変わらないのではありませんか?」
王女の問いにアリオールがうなずく。
「もちろんですよ。簡単に抜け出せては意味がありませんからな」
「この部屋からどうにか出たとしましても……外には衛兵がうろうろしておりますね」
「ああ。詰所を三つは通り抜けなければならないでしょう」
地下牢からよりはマシだろうが、逃げ出すなんてどう考えても無理そうなのだが……
と、そこでメイがフィンに尋ねた。
「でも魔法を使えば何とかなるんじゃないんですか?」
「え? でも僕は魔法を使えないことになってるんで……」
アロザールでは彼が魔法使いであることを知っているのはほんの一握りだったし、ここでもリーブラ氏はごく普通の人間ということになっているが……
「でもそれっていざというときに使うために隠してたんでしょ?」
「あ、まあ確かに……」
ここでル・ウーダ氏が力の出し惜しみをしている場合ではなかった。
そこで再度フィンは部屋の中をじっくりと観察した。
石造りの壁や鉄格子の窓は彼の力ではどうしようもなさそうだ。
扉は頑丈な板に鉄枠が填まったものだが―――フィンは近寄っていってよく観察するが……
「あー、カギの部分は鉄の枠と完全に一体化してるか……」
「そうなると難しいのか?」
アリオールの問いにフィンは答える。
「はい。木の板にカギが埋まってるような場合なら一発で吹っ飛ばせるんですが、これだと板の部分を焼き落として出るしかなくって……その前に廊下が煙だらけになっちゃいますが……」
「それは……まずいな」
「力任せに出るのは僕一人じゃちょっと無理ですよ……それにあのときはアウラがいたから少々の無理は効いたんですが……」
彼女がいなければ部屋から出ても王の居室まで突っ走ることはできなかっただろう。
「ああ、ドゥーレンからその話は聞いた。なかなかの武勇談だな」
「恐れ入ります。が、ともかく一人だと……例えば何とかしてカギを手に入れたとかなら鉄格子のない窓から逃げられますが……でもその先が……」
窓から飛び降りてもまだアキーラ城内だ。
そこから何とか脱出できてもまだ城壁に囲まれたアキーラ市内で―――さらにそこから出られたとしても、今度はロータまで逃げて行かなければならないわけで……
もちろん即座に追っ手が来るのは間違いないし……
フィンは気が遠くなってきた。
「あー、これじゃちょっとどうにもならないと思うんですが……」
と、そこでアリオールがにやりと笑う。
「でも手助けがあったとしたら?」
「手助け? 一体誰の?」
「アロザールの諜報組織だ」
「え?」
フィンだけでなく王女の目も丸くなる。
「グルマンというのはある程度はできる男のようで、奴はこの付近に諜報員を潜入させているのだ」
「どうしてそんなことを知って……って、もしかして?」
「ああ。泳がせているんだ」
「なるほど……」
それを聞いて王女だけでなく、メイまでがおおっと言ってうなずいた。
現在、元レイモンを支配していたアロザール軍がロータを拠点にある程度の勢力を保っていられるのは、司令官のグルマンが残勢力を集めて踏みとどまっていたからだ。そして最初は一挙にトルボ砦を目指そうという話になっていたのだが、その際の最も大きな障害でもあった。
《ロータの橋を落とされたりしたら面倒だもんな……》
しかもそれだけでなく、こちらの状況を調査し、場合によったら反攻すべく諜報員を送り込んできていたのだ。
「その諜報員とはどのような者達なのです?」
エルミーラ王女の問いにアリオールが答える。
「レイモン人で、みんな妻子を人質に取られています。なので見かけではわかりにくいですが、なにしろ急造の組織だ。素人集団なんで簡単に足がつきましたよ」
こういった場合、組織を摘発するのは簡単だろうが、そこを彼はよく分かっていた。こうやって泳がせておけば、このように逆利用できるということを……
《あのときもこんなことになりかかっていたわけで……》
ドゥーレンたちのシルヴェストの秘密組織も危ないところだったのだが―――もはや大昔の話だが……
そこにメイが尋ねる。
「えっと、その人達に協力をお願いするんですか?」
アリオールが笑う。
「あはは。まあ、ある意味そうかな。ただし本人たちは自力で考案した“ル・ウーダ氏奪還作戦”を実行中だと思うだろうが……」
「えー? ああ……」
メイは分かったような分からないような表情だが―――確かになかなかややこしい話である。
彼らはまだ自分たちがレイモン軍の監視下にあるとは気づいていない。アリオールはそんな彼らを上手く誘導して、囚われのル・ウーダ氏を救い出させようとしているわけだ。
しかし相手がそんな素人となると彼らだけに任せておくわけにはいかないわけで……
「ではそんな作戦をこちらで考えて差しあげようと?」
「そうなりますね」
王女の問いにアリオールはにっこり笑った。
こうして一同は囚われのル・ウーダ・フィナルフィン奪還作戦を、アロザールの諜報組織の立場で考えることになった。
「さてそうなるとまずしなければならないのが、その組織にル・ウーダ氏の情報を流さなければならないということだ。城に彼がいるという確証がなければ奪還作戦などする意味がない。またその際には彼が本気で逃げたがっていて、重要なお土産があるとでもしなければ、グルマンは動かないだろうな」
「確かに……で、その当てはあるんですか?」
「ああ。その諜報員は近郊の村に潜んでいるのだが、城の衛兵の中にその村出身の者がいる。彼にちょっと里帰りをしてもらって、城の中のようすをペラペラ喋ってもらおうかと」
「ああ、なるほど」
フィンはうなずいた。と、そこでメイが尋ねる。
「例えばどんな感じでペラペラ喋るんでしょう?」
「ああ、そうだな。彼は衛兵だから城にどんな客がいるかは知っているだろう。そしてあるとき、その男が実はル・ウーダだということを立ち聞きしたとか。もちろん上司からは釘を刺されただろうが、酔うと口が軽くなる者は多いしな」
「あー、なるほど……えっと、それでそのル・ウーダって人が逃げたがっているっていうのはどうやって分かるんですか?」
メイは軽い調子で尋ねたのだが……
「え?」
思わずアリオールが口ごもる。
《いや、これってかなり難しくないか?》
そのル・ウーダ氏にとってアロザールに帰りたがっているということは、レイモン人には絶対に知られてはならないことだ。
「あ、あの?」
いきなり空気が深刻になってメイが少し慌てるが……
「いや、まさに重要な問題だな。それは……」
そこでラルゴが言った。
「例えば……いちど逃げ出そうとして捕まったことがあったとかなら……」
「でもそれならこんな待遇はしてもらえないだろう?」
アリオールが豪華な室内を見回しながら言う。
「ですよね……」
一同は考えこんだ。
《彼が心の奥底に秘めていることをその衛兵がどうやって知ったか? だって?》
というか、そんなことにもし気づいたのなら彼は間違いなく上司に報告するだろうし、そうなればル・ウーダ氏は地下牢送りだ。
と、そのときだ。エルミーラ王女がふっと顔を上げる。
「あ、それでは歌などはいかがですか?」
「歌?」
一同が注視すると王女はうなずいた。
「はい。ほら、お風呂の中などでつい鼻歌を歌ってしまう方はたくさんいらっしゃいますよね? それで彼がアロザールの歌を歌っていたとしたら……」
歌を歌ってた?
「ああ! なるほど!」
アリオールがぽんとテーブルを叩く。
「彼が思わず歌った歌をその衛兵が聴いていたと……しかし彼はそれが何の歌かは知らなくて、諜報員にこんな歌を歌っていたと教えるわけですか?」
「はい。そのような感じで」
「あ、でも諜報員の人もレイモン人じゃ?」
メイの言葉に一同はまたあっといった表情になるが―――すぐにアリオールが答える。
「いや、それならばギルが……ああ、こちらから組織に送り込んでいる内通者なのだが、彼が知っていたことにすればいい。アロザール兵が歌っているのを聞いたとかで」
「あ、そういう人がいるんですか。それなら大丈夫ですね……と」
メイが筆記している間にエルミーラ王女がフィンに尋ねてきた。
「それでリーブラ様、何かそのような歌に心当たりはございませんか?」
「え?」
心当たりはあった。
彼がシーガルにいた際に家族ぐるみで親しくしていたファーベルだが、彼は酔うとよく歌っていたのだ。
《確かにあれならふさわしいとは思うけど……》
しかしこの話にはちょっとした問題があった。
「どうだろうか?」
アリオールも促すが……
「あることはありますが……」
「どんな歌です?」
「向こうで親しくしていた生粋のアロザール人がよく歌ってたんですが……カモメの歌っていうんですが……」
「カモメの歌ですか。どんな歌でしょう?」
「それが、故郷から遙か離れた海までやってきた船乗りが、ふるさとの港や残してきた家族を思って歌う歌なんですが……」
エルミーラ王女の目が輝いた。
「望郷の歌ですか? 確かにふさわしいですわね。どのような歌なのでしょう?」
「それがけっこう感動的な歌で……最初は普通に故郷を偲ぶ歌みたいに始まるんですけど、実はそれが船が難破して海に一人放り出された男の歌なんです」
「えっ?」
王女だけでなく他の一同も意外そうに首をかしげる。
「なのにその男は、しょうがない、これでは泳いで帰るしかないって北に向かって泳ぎ出すんですよ」
「泳ぐって……でも……」
フィンはうなずいた。
「はい。どこまで行けるかは分からないが、たとえその身が波間に消え去っても、魂は白いカモメになって故郷に帰れるだろうって……」
一同は絶句した。
実際フィンが初めて聞いたときも言葉が出なかった記憶があるが……
「それでカモメの歌、なんですか……すごい歌ですわね? で、どのような歌なのですか? 歌ってみせて下さいな」
あーっ、ついに言われてしまったっ!
「そうだな。私も聞いてみたいな」
アリオールも興味津々だ。
「あの……」
「なんだ?」
「歌わないと……ダメですか?」
一同は驚いた表情でフィンを見た。
「いや、君だって場合によったら歌って見せないといけないだろう? 少々下手でも構わないから聞かせてくれないか?」
それはまさにその通りだった―――そこで仕方なくフィンは歌ったのだが……
………………
…………
……
場に何やらとても残念な沈黙が訪れた。
「とてもいい歌……のように思えますが……」
「ああ、多分……な……」
ラルゴとアリオールは一生懸命フォローしてくれたが……
「でも、ティア様はあんなにお上手なのにどうして……」
エルミーラ王女がとても正直な感想を述べる。
《本当に血がつながってるのか? って目だな? いやつながってなくてもいいけど……》
そしてメイは何やら哀れむような目つきでじーっと見つめている。
《だからそういうのが一番効くんだって……》
それからアリオールが首を振る。
「まあ、音楽が苦手な君がつい歌ってしまうほど感動したというわけだな。それにしてもその歌は……そんな絶望的な状況なのに、よくそんなに前向きで……」
王女もそれを聞いて尋ねる。
「……ですわね。生粋のアロザール人とはそんな人々なのですか?」
フィンはうなずく。
「あ、はい。わりと本気でやりかねないかも……みんなすごい芯の強さを持ってると思いましたが……」
確かファーベルは一日くらいなら浮いていられるとか言ってたし……
と、そこで王女が一同に言った。
「ああ、ではそのル・ウーダ氏がアロザールに帰りたかった理由が、こんな人々の心意気に惚れたから、というのはどうでしょう?」
「ああ、なるほど」
アリオールたちも同意する。
確かに、心意気に惚れたというのは掛け値なしの真実だった。フィンだってあんな状況で行ったのでなければ、あそこで暮らしてもいいかなと思ったくらいなのだ。
そこでラルゴがしみじみと言う。
「確かにかつてのアロザールは、あれだけウィルガの圧力を受け続けても結局折れることはなかったですからな……」
そのあたりの歴史はフィンも読んで知っていた。アロザールの産する海産物は内陸の国では貴重品だ。そのため継続的にウィルガ王国の侵攻をうけていたのだ。
だが確かに湿地帯が多い地勢で攻めにくかったとはいえ、彼らは国土を守り通した。
《あのクーレイオン古城なんかもそうだったんだよな……》
そして業を煮やしたウィルガがそれならばと手を出したのが、北の草原にあったレイモン王国だったのだ。彼らはこんな小国など簡単にひねり潰せると思っていただろう―――ところが、その窮鼠に噛みつかれて猫は死んでしまったのだ。
《ある意味、アロザールが頑張ったせいで今のレイモンがあるとも言えるんだよな……》
フィンがそんな感慨に耽っていると、アリオールがにこやかに言った。
「ではリーブラ殿には少々歌の練習をしてもらいましょうか。諜報員が聞いて分かるくらいには」
あはははっ!
それを聞いた王女が尋ねる。
「しかし、今のでは元がどんな曲か分かりませんが?」
あははははははっ!
だがアリオールは笑って首を振る。
「いえ、大丈夫ですよ。こちらにも図書館という物はありますから。歌詞が分かれば楽譜も入手できるでしょう」
「ああ、そうですわね……では楽譜が見つかりましたら、ティア様の方にお渡ししておいて下さいな」
アリオールは一瞬首をかしげたが、すぐにうなずいた。
「ティア様に?……ああ、はい。承知しました」
それを聞いてフィンは慌てて尋ねた。
「え? どうしてティアに?」
王女がにっこりと笑う。
「歌の先生が必要ありませんか?」
「え? でも先生なんて他にもいるんじゃ?」
「だってこのことを知る人は身内だけにしておいたほうがいいでしょう?」
「…………」
確かに身内で一番歌がうまいのは彼女だった。
「……楽譜を探して、ティア様と歌の練習、っと。ティア様、張り切りますよね。きっと」
「ですわね。ふふっ」
いや、張り切るというより、これ以上なく付けあがるぞ? そして一生ことあるごとに蒸し返されて……
《やっぱやめてもらった方がいいんじゃないか? これって……》
だが反対するのならもっと良い案を出さねばならないわけで―――と、フィンが煩悶している間にも会議は進む。
「さて、では続きですが……えっと、何の話でしたか?」
メイがノートを見ながら答える。
「衛兵の人がペラペラ喋るってところで、で、あと、お土産の話がありますね」
アリオールはうなずいた。
「さて、これもどうしましょうか? グルマンが思わず欲しがるような物とは……」
そこでエルミーラ王女が言った。
「例えば、ファラ様の国内巡行のご予定とかはどうでしょう? 各地の方々が待ちわびているのでしょう?」
「ああ、それで待ち伏せができると?」
アリオールの問いに王女がうなずいた。
「はい。実際に可能かどうかはともかく」
それを聞いてラルゴもうなずいた。
「ああ、確かに大皇后様を手に入れられれば今回の失策も帳消しでしょう。それなら食いついてくるかもしれませんね……リーブラ殿はいかがです?」
「あ? はい。悪くないと思います」
向こうも必死なはずだから、こういう餌があれば少なくとも興味は示すはずだ。
アリオールはうなずいた。
「ふむ……ではこうして彼らがル・ウーダ氏を救出する気になったとしたら、今度はどうやって彼と連絡を取り合うかということなのだが……」
これもかなりの難問だった。
「ともかく最低限その諜報員がアキーラ城内に入れないと仕方ありませんか?」
「そうだな。しかも定期的に出入りできないと困るから……出入りの商人などになるか」
「しかしそういう商人は何代も続いた老舗ばかりですが?」
ラルゴの問いにアリオールが首をかしげながら答える。
「うむ……ならば出入りの荷車などにこっそり仕込むとしたらどうだ?」
「それだと……城内でそれを受け取る役が必要ですが……」
「うーむ。今更この時期にそんな者を雇い入れるわけにはいかないだろうな」
「既にいる者に裏切ってもらうということは……」
「どうかな……この城にいるのは裏切るくらいなら死を選ぶような者ばかりということは相手もよく知っている。簡単に裏切ったりしたら逆に怪しまれかねん」
と、そこでフィンが尋ねた。
「その村出身の衛兵とその諜報員は知り合いなのですか?」
「同じ村出身で顔なじみだとはいうな」
「ならばその彼の紹介でその商人に雇ってもらえるようにするとか? 荷運びの人足は必要ですよね?」
「ああ、それなら可能か?」
そんな商人に協力してもらえば何とかなりそうだ。
「しかしその彼とル・ウーダ氏はどう接触を?」
「それは……」
ラルゴの問いにフィンもアリオールはまた首をかしげるが―――そこでメイが尋ねた。
「あのー、こういう所に入れられた人って、お散歩くらいさせてもらったりできないんですか?」
途端にアリオールが目を見張る。
「ああ、確かに中庭の散歩くらいなら許可されるだろうな……ならば偶然ぶつかったりということもあり得るか……」
「えー? でも毎回ぶつかってたら変なんじゃないですか?」
アリオールはにっこりと笑う。
「あ、いや、一度コンタクトがとれれば、その後は中庭のどこかに手紙を隠してやりとりするような事はできる」
「あー! 確かにそれなら大丈夫ですね!」
メイはにっこりと笑って筆記を続けた。
《あは。みんなで考えていれば意外と何とかなるものだなあ……》
こうして彼とアロザールの組織が連絡を取り合えるようになったのなら……
「あとはどうやってル・ウーダ氏が城を抜け出すかだが……」
ここが一番の難問だった。
ともかく城を抜け出してアキーラ市外まで出られれば、諜報員のエスコートが見込める。
問題はどうやってそこにたどり着くかだが……
「城を抜けるのに、諜報員の力はやはり当てにならないんでしょうね?」
フィンの問いにアリオールはうなずいた。
「彼らが潜入して君を助け出すようなことか? それはまず無理だろう。何と言っても素人集団だからな。熟達した工作部隊でも一朝一夕には無理だろうし」
それどころか、何年も準備したあげくにやっとできるかどうかという案件だろう。
―――と、そこでフィンは彼がアリオールの屋敷から救出されたことを思い出した。
《あいつらなら……?》
プリムスの他に何名かそういう荒事を行える魔導師があちらにいるのは確かだが……
だが少なくとも彼らはアロザールの魔導軍ではなく、フィーバス配下の独自部隊だった。グルマンはそれを動かせる立場ではないわけで―――ただ、アルクスを通せば話は別だが……
しかしあのときは深夜で、囚われていたアリオールの屋敷もごく普通の屋敷で警備もそれほどではなかった。
それに対して今回は警戒厳重なアキーラ城だ。守備兵力も半端ではなく、その上ファシアーナやニフレディルというレジェンド級の魔導師が滞在していることが明らかなわけで……
《それこそ死ぬ気で来ないとダメだよな……》
リスクを考えればこちらが小鳥組を使えないように、彼らもおいそれとは使えないはずだが……
「ん? どうした?」
急に考え込んだフィンにアリオールが尋ねる。
「いや、ほらいつか僕はあなたの前からさらわれたことがあるじゃないですか……」
そして彼は今の考えていたことを話した。
「……確かに、奴らが来ると少々厄介だろうが……でも、そのためにはアルクス殿下に依頼が必要なのだな?」
「そうなりますが……」
「なら大丈夫なのでは? 殿下にしたら何も今すぐにそんな危険を冒してそんな虎の子の部隊を投入せずとも、もう少しすればル・ウーダ氏は確実にやってくるのだからな」
「あ!」
そうだった! 事を急がねばならないのはグルマンの方だけだ。秘密兵器の力で彼が手に入ったとしても、それは彼の功績ではないわけで……
「それじゃやはりル・ウーダ氏はほぼ単独で脱出しなければならないわけですね」
「そういうことになるな」
と、そこでメイが尋ねた。
「でもお城に来てる連絡係の人は何かできないんですか?」
それを聞いてアリオールは少し考え込んだが、首を振った。
「ああ、彼ならば人足だから入れるのは城の中庭までだし、作業が終わればとっとと帰らねばならない。当然城の出入りの際には門衛のチェックが入るから、行きと帰りで人数が違っていたりしたら即座に止められる」
「ああ、それじゃもちろん……荷車の中なども調べられちゃいますよね」
「当然だな」
と、そこでまたメイが尋ねた。
「えーっと、でもフィンさんなら……魔法で壁越えして逃げられるんじゃないですか?」
「白昼堂々とか?」
「あー……」
確かにそれは可能かもしれない。
しかし夜陰に紛れてというのならともかく、昼間ではほぼ間違いなく見つかって大騒ぎになってしまいそうなのだが……
「あー……でもこれしかないですかねえ……」
うまいこと隙を突いて見つからずに脱出できれば、彼の場合は屋根の上を伝って逃げたりもできるわけで……
そこにアリオールが尋ねる。
「君は市の外壁を登れるのか?」
「え? いや……どうでしょう。飛び降りるのはできますが、登る場合は手がかりが必要で……練習しないと何とも……」
「ぶっつけ本番じゃ厳しいか」
「そうですねえ……」
ここで試行錯誤してる間に見つかるというのも間抜けだが……
だが絶対不可能とも言えないわけで……
《いざとなればそうするしかないのか?》
―――そう思ったときだ。
「あー、でも……」
メイがアリオールの顔を見る。
「何だ?」
「その、もしそのル・ウーダって人が、魔法の力を隠してたとしますよね……」
「隠していたら?」
「アリオール様、シアナ様とかに支援を依頼したりしませんか?」
………………
…………
……
「あっははは! 確かに! そんな輩が相手だとすればな」
ははははは! ダメじゃん―――ってか、一番危険じゃないかっ! 確実に死ぬって!
「ということは、あまりル・ウーダ氏は魔法に頼らない方がいいと……」
「あはは……そうなりますね……」
ラルゴの問いにフィンは苦笑いしながら答えるしかなかった。
うーむ。他にもっと安全確実な方法がないだろうか?
と、そこでエルミーラ王女が言った。
「でも庭まで出られるんなら、そこで入れ替わるというのはいかがでしょう?」
「やってきた諜報員と入れ替わるということですか?」
アリオールが尋ねる。
「はい。そうやって人足と一緒に出て行ってしまえば……数は合いますね?」
一同は顔を見合わせる。
《これってもしかして行けるか?》
しかしそこでラルゴが尋ねた。
「でも残された諜報員は?」
「まあ、その方には我慢していただくしかありませんが……」
あははは。だが、目的のためにはその程度の犠牲なら仕方ないか?
「だが彼には護衛もついていますよ」
「でも……二人がかりなら倒すことも可能なのでは?」
「まあ……しかし中庭には衛兵がたくさんいますし。人目につかないようにそのようなことができるでしょうか? しかも彼はそこで大急ぎで着替えなければならないわけだし……」
「…………まあ、色々大変だとは思いますが……」
細かい状況を考え始めると、これもかなり無謀な気がしてくる。
実際、やり損なって声を上げられただけで終わりなのだが……
しかも、そこでアリオールが付け加える。
「あと……仮に上手くそういうことができても、時間までにル・ウーダ氏が部屋に戻らなければすぐに捜索が始まるでしょうから、逃げる時間はかなり限られているでしょうな。その間にアキーラの城門を出られるかどうか……」
「ああ、それもそうですわね……」
王女ももうあきらめ顔だ。
そう。城から出られてもアキーラ市内から出られなければまだ袋の鼠なのだ。
「市の城門を出るには通行手形が必要ですよね」
フィンの問いにラルゴが答える。
「それを手配するのなら何とかなるでしょうが……それよりも今は検問が厳しいですからな」
「あなた方なら本物の通行手形を用意できるのでは?」
ラルゴは首を振る。
「いえ、問題は時間がかかるんですよ。手形の確認だけでなく、荷物の中をすべて検査しますし、入ったときのサインとの照合とか、おかげで数時間待ちはざらです。大変評判は悪いんですが、でもこんな状況なので皆おとなしく待っていてくれますが……」
「あー……」
いくら頑張って城を抜けてもこんなところで何時間も待たされていたら……
「それに逃亡が明らかになった時点で城門は閉鎖されるでしょうし」
と、そこでエルミーラ王女がぽんと手を叩く。
「あ、でもそれならとりあえず城を抜けた後どこかに隠れていて、夜になってから城壁越えをやったらどうでしょう?」
みんな一瞬はっとした表情になるが―――アリオールが残念そうに首を振る。
「あー、だがそうなると我々はル・ウーダ・フィナルフィンが逃げたと触れを出さねばならなくなって……アキーラ中の市民が全員探索に協力してくれるだろうな」
………………
…………
「あらまあ……それは大変ですわね。おほほほ」
そう。レイモンの解放作戦のときには国中の全てが味方だったのと同様、このル・ウーダ氏にとってはあらゆる人々が全て敵だった。しかも本当の事情をばらすわけにはいかないから、それこそみんな一生懸命に協力してくれるのは目に見えているわけで……
《あははははは!》
ちょっといいかなと思った作戦だったのだが―――そのときフィンの頭にもっと良さそうなアイデアがひらめいた。
「あ、それでは入れ替わるのは衛兵ということにすればどうです?」
兵士の格好をしていればいろんな所がフリーパスではないか。
アリオールもうなずく。
「ああ、それならかなり自由に動けるな……」
一瞬みんなもこれで行けるか? という表情になるが―――そこにメイが言った。
「あのー、入れ替わるって、フィンさんがやっつけた兵隊さんの服を着るんですか?」
「まあ、そうなるけど……」
「でも護衛の人ってみんな体が大きいですよねえ。フィンさんが着てもぶかぶかだったりしませんか?」
………………
…………
一同が吹き出した。
「あっははは。まさに!」
「そのような要人の護衛なら、確かにその通りでしょうな……」
「でも彼がすごく協力的でおとなしかったとしたら……」
何とかフィンはフォローしようと頑張ったが……
「ふむ。何とか体格の近い者が護衛だったとしようか。するとそれから彼は城を抜け出さねばならないが……あー、さすがに城の出入りの際には所属と名前、用件などを門衛に言わなければならないな」
「あー……」
それを聞いていたメイがまた言った。
「あ、それにフィンさん、完全な都訛りだし……」
………………
…………
「あはははは。まさにそれは怪しいな」
「ですね……」
―――あまりいいアイデアではなかった。
それからみんな腕組みして考え込む。
《えっと、要するにどういうことだ?》
まず第一に、このル・ウーダ氏が逃亡する際にレイモン側は手加減をしてはならないということだ。不自然に警備が甘かったりすると、相手に疑われてしまいかねない。だから彼の逃亡は全力で阻止されなければならないのだ。
その際に組織の協力は困難だ。
すなわち基本的に自力で何とかしなければならないわけだが、こっそりとこの部屋から脱出するのはほぼ不可能だ。
そこで散歩の時間を上手く利用するしかないが、その時間はあまり長くない。
魔法で強引に逃げたらまず大騒ぎになってしまって、ファシアーナやニフレディルが投入されてしまう。
また別の手で上手く城から出られたとしても、散歩タイムが終わると同時に追っ手がかかって、当然市の城門は閉鎖されてしまうだろう。護衛の死体などが見つかればそれ以上に早くだ。
ところが市の城門を抜けるには長い検問のおかげで数時間待ちだという。
しかも町の中にこっそりと忍んでいることもできないとしたら……
《ってことは……?》
これって要するに無理ってことなんじゃ?