ふたりのミニミニ大作戦 第1章 王女様のヒミツのお願い

ふたりのミニミニ大作戦


第1章 王女様のヒミツのお願い


 サルトス王国の首都ガルデニアの南区では定例の大市が開かれていた。

 その間を縫うように一台のブレーク―――無蓋の四輪馬車が走っていく。その後部座席でメイはご機嫌だった。

《あはっ! やっぱ市場っていうのは心が和むなあ……》

 見渡す限りの露店の群れだ。そこには他の地域では見たことのない様々な食品に食材、生活用品などが並んでいる。

 何よりもこの市場が他と違うのは、ガツンと漂ってくる独特の香りだ。

「色々なスパイスがあるんですねえ」

 メイが思わずそうつぶやくと横に座っていた赤毛の女性―――アスリーナが答えた。

「あはは。サルトスの料理は基本スパイスたっぷりですからね」

 聞くところによるとサルトスは山がちで、牛や豚、羊といった家畜だけでなく、野山で狩れる獣の肉もよく食べられているのだが、そういった物は得てして臭みがあったりする。それをごまかすために香辛料をたくさん使って料理するのが一般的になったのだというが……

《でもあれってもう洗練されてるって言わない?》

 城で出てくる食事もそういった独特の味付けが多いのだが、最初は変わっていると思っても食べているうちに癖になってきたりして、元宮廷料理人の意見としては単に味をごまかしているのとは間違いなく一線を画していると思うのだが……

 なのでここの地域では他ではなかなか手に入らないようなスパイスも流通していて、それらの混じった匂いが市場を包み込んでいるのだ。

 それだけでなく見たこともないようなキノコとか、色んな種類のナッツ類とか、色とりどりのベリーとか、他ではあまりお目にかかれない物も多い。

《うふふふっ!》

 思わず笑みが浮かんでしまうが―――メイがガルサ・ブランカ城の厨房に勤めていた頃は、食材の調達が主任務だった。だからこんな風に色々な物を売っている露店を見ると、条件反射的に心が躍ってしまうのだが……

「あーっと……」

 手綱を握っていたクリンが声を上げて馬車を止めた。前をたくさんの人たちが行き来しているので、しばらく待っていなければならないのだ。

「人少ないって言ってましたけど、結構多くありません?」

 メイが尋ねると、アスリーナは笑って答える。

「いやあ、本当ならもっとギチギチなんですけど。メイさんなんかうっかりしたら流されちゃいますよ」

「あはー。そうなんですねー」

 サルトス王国は現在は戦時中で、主力軍が遙か北のアイフィロスの方に行ってしまっているため人出はいつもより少ないらしい。まあ確かにそのせいか、行き交う人も女性の比率が高い。

《しかし、このブレーク、なかなかの逸品よね?》

 彼女がいま乗っている馬車は城の使用人用なのだが、フレームもしっかりしていて揺れも少ないし、塗りもなかなか上品だ。

 同乗しているのは操車しているクリン、その横にサフィーナ、後ろの座席にメイとアスリーナの四名だ。

 もちろん本当ならば愛車ハミングバードで来たかったのだが、そんなことをしたらとんでもない人だかりができてしまったのは間違いない。

《あはー。パレードの先頭だったもんなあ……》

 何やら奇跡的な大中央突破の後、カロンデュール大皇とメルファラ大皇后、そして彼女の女戦士たち(ベラトリキス)はガルデニアに滞在することになった。しかしサルトスは田舎の上、ベラ派の国家だ。白銀の都の大皇が最後に訪れたのはもう前世紀の話で、今回のように少なくとも半年以上長期逗留するなど、もはや空前の事態なのである。

 となれば必然的に一行がガルデニアに入ったときにはあたり一面の観衆で、そんな中メイのハミングバードが大皇の一行を先導して入ってきたわけだが……

 一行が乗ってきたのは大中央突破で使われた軍用のベルリンで、乗り心地はともかく、その見かけは無骨一辺倒だ。なのでメイのハミングバードはその場で浮きまくりだったのである。

《うう……それにちょっと派手な格好だったし……》

 解放活動中にはハッタリを効かすために色々と怪しい格好をさせられていたのだが、そういうの着続けているとだんだん自分でも麻痺してくるのである。

《ドン引いてるのが見ても分かったし……》

 メイが大皇一行を先導して入ってくると、観衆が一様に一瞬息をのんでそれから歓声を上げて手を振り始めるのがよーく見えてしまうのだ。何しろ見慣れぬ前傾したピンク色の幌のついた二輪馬車に、そんなひらひらした格好をした少女が乗っているのだから。

《いや、少女じゃないんだけどねっ!》

 正直、大皇や大皇后以上に彼女の容姿は知られまくってしまったのだ。

 ―――というわけで今回はお城で借りたブレークに乗って、服装も現地のちょっとしたお館のメイド服といった出で立ちで、ティア様仕込みの地味メイクを施してきているのだ。

《ふふっ、さすがにこれでバレることはないわよね……》

 こういうのもアキーラ開放中にはよくやっていたことなのでこれまた慣れっこなのだが―――と、そこでアスリーナが尋ねてきた。

「あ、ところでちょっと早いんですけどお茶していきません?」

「え? 別に構いませんが……いい場所があるんですか?」

 アスリーナがにっこり笑う。

「はい。とっときの場所が。それじゃクリンさん? 二つ先の角を右に曲がってください」

「はーい!」

 こうしてアスリーナが同行しているのはメイと旧知の仲というだけではなく、“ベラトリキスのメイ秘書官”がもはや重要人物だったからだ。メイ自身はいまだにエルミーラ王女のオマケという気持ちで一杯なのだが……

《アスリーナさんも結構忙しいのよねえ……》

 彼女は今はサルトス王宮の宮廷魔導師という立場で、イービス女王の片腕でもある。実際メイ達がアコールにやってきたときには女王の代理として、サルトスを代表して会見しに来ていたのだ。

 なのでそんな要人を道案内人として使うというのはまあ普通はあり得ないわけだが―――彼女は横で何やら鼻歌を歌っている。

《アスリーナさんも息抜きが必要だったんでしょうねえ……》

 最初はちょっとお忍びで市場の方を見てきたいから道案内はいないかとお願いしただけなのだ。何しろガルデニアの町というのはひどく入り組んでいて迷いやすいのだ。

 ところがそうしたらなにやら彼女が大喜びでその役目を買って出てくれたのである。

 最初は生まれてからお城暮らしの人が道案内なんてできるのかと少々疑ったりもしていたのだが、彼女の案内はまさに的確であった。

《それに一緒にいると楽しいし

 ごつい兵隊さんだったら緊張してしまっただろうが、おかげでとてものんびりと市場を見て回ることができたのだ。

「あのお店ですか?」

 クリンの指した方に石造りの小洒落たカフェがある。

「あ、そうですよ」

 アスリーナがうなずくとクリンは店の横に馬車を止めた。

 一行が店内に入ると中は暖かく、甘い香りが漂っていた。

 中は石壁ではなく彫刻された黒っぽい木の内装になっている。何だか落ち着く雰囲気だ。

 四人が空いていたテーブルに座ると奥からカフェの店主らしいおばさんがメニューを持って現れたのだが……

「あらまあ、リーナさんじゃないですか!」

「あはは。お久しぶりです」

 どうも彼女は馴染みのようだ。

「そちらの方々は?」

「あ、私のお友達で。遠くからいらしたんで」

「ああ、そうなんですか。ゆっくりしていって下さいね」

 おばさんがにっこり笑う。

「あ、はい……」

 メイがうなずくとおばさんは小声でアスリーナに尋ねた。

「今日はあちらの方は?」

 彼女は苦笑しながら答える。

「あは。いやー、変な役付になっちゃったせいでなかなか」

「変な役付って……あはは、でしょうねえ……」

 おばさんは何やら納得したようすでうなずく。

《変な役付の人って……》

 ということはここにはイービス女王とお忍びでよく来ていたということなのだろうか?

「それじゃ決まったら呼んで下さいね?」

「はーい」

 そこで一同はメニューを広げる。普通のお茶やコーヒーなどもあるようだが、何やらちんぷんかんぷんな物も多数ある。

「えっと……この辺ってどんなのですか?」

 メイが尋ねるとアスリーナがにっこり笑う。

「ああ、このあたりはみんなスパイス入りのミルクティーと思えば。スパイスの種類で名前が色々あって」

「もしかしてアコールで頂いたみたいな?」

「あ。はい。あそこで出したのは……これですね」

 あのお茶はなかなかの美味であったが、しかしここはまた別な物にチャレンジしてみるのも良さそうだが……

「じゃあこれとかは?」

「これはもう少しパンチがありますけど、でもこれをこちらのお菓子と一緒に頂くのもいいですよ?」

「それは?」

「ナッツを糖蜜で固めたようなお菓子なんですけど、すごーく甘くて。でもその後にそのお茶を飲むと口の中がなんか丁度よくなるんです」

「ああ、じゃあそれにしてみます。サフィーナは?」

「ん? あそこで出てきたの美味しかったな……もしかしてあのクッキーもあるのか?」

 サフィーナが尋ねるとアスリーナがうなずいた。

「あ、ありますよ」

「んじゃ、それで」

「分かりました。クリンさんは?」

「え?」

 彼女が一瞬口ごもるが……

「お腹が減っているのなら、こちらのスコーンなんかどうですか? ジャムをたっぷりのせて、これもスパイスミルクティーと一緒にとか?」

「あ、それがいいです!」

 あはは。彼女は育ち盛りなのでいつでもお腹を減らしているのだ。

《あれ三つも食べてたし……》

 昼食は市場に出ている屋台のピタ―――袋になったパンに色々な具材が入ったものなのだが、結構大きくてメイなどは一つでお腹いっぱいだったのだが。

 こうして午後のお茶が始まった。

《うむ。確かにこれって強烈に甘いけど……》

 アスリーナが言ったとおり、そのお菓子を食べた後だとつんとスパイスの効いたミルクティーが格別に美味しく感じられる。

《アスリーナさん、田舎田舎って言うけど、絶対侮れないわよね。これって……》

 少なくとも食文化に関して言えば見所がいっぱいありそうだ。

 そんな調子でしばらくお茶を味わった後、メイは何の気なしに尋ねた。

「それにしてもアスリーナさん、ここのご主人と知り合いなんですか?」

「あはは。小さい頃からよく来てましたからねえ」

「小さい頃から? 誰かが連れてきてくれたんですか?」

「いや、姫様とですが」

「姫様って……イービス様と?」

「はい」

 予想通りなので、なるほど―――と、納得しかけて、メイは首をかしげた。

「あ、もちろんお守り役の方も一緒なんですよね?」

 王女などという立場の者はそんなに簡単にこんな町中のカフェに出入りすることなどできないのが普通だ。

 ところがアスリーナは首を振る。

「いや? 最初は二人でですよ?」

「二人で?」

 えっと―――それってイービス様とアスリーナさん二人きりということか?

「はい。というか私は姫様に強引に連れてこられたんですけどね」

「はい?」

 首をかしげるメイに彼女がにっこり笑う。

「いや、それがですね。姫様ったらもう、小さい頃から部屋の中でじっとしてるってのができないんですよ。それですぐ先生の目とかを盗んではどこかに行っちゃうんです。そういうときには必ず私も連れてかれちゃいまして」

「はあ……」

「最初は城の中の探検だったんですけど。いや、あれも大変でしたけど」

「まあ、そうですよねえ」

 メイ達が滞在しているガルデニア城は町の中央の山の上に建っている巨大なお城なのだ。

「でもそのうち城の中は探検し尽くしちゃって、それで今度は下の町を探検しに行ったんですよ」

「はあ……って、どうやってお城を出たんですか?」

 普通子供二人では城外になど出してくれないと思うのだが……

「あは。だから城の中はいっぱい探検してたんで、子供が抜け出せるような抜け道をいくつも見つけてたんです」

 ………………

 …………

「え?……いや、それってまずいのでは?」

 アスリーナはあっさりうなずく。

「はい。いやもう、初めてのときはもう大変なことに」

「大変ってどんな?」

「それこそこの町ですから。迷ってしまって帰るに帰れなくなって」

「あはは。ですよねー……でもそれじゃどうやって帰ったんですか?」

「ほら、尾根の砦があるじゃないですか。あそこを通れば尾根伝いにまっすぐお城まで行けるでしょ?」

「ああ、確かに……でも、入れてもらえたんですか?」

 確かあそこは軍の管轄で、一般人は立ち入り禁止のはずだが……

「もちろん、入ろうとしたら門衛においこらって止められて」

「ですよねー」

「でもそこで姫様が『あたしフィリア・イービス・ノル・サルトスといいます~。お城に帰るから連れてってください~』とか言うんで、門衛の人、目を白黒させてて……あ、二人ともわりと身なりはしっかりしてたし、それで砦の偉い人が呼ばれて、その人が謁見とかしていて姫様の顔を覚えていて、その後はもう大変な騒ぎでしたね。あはは」

「いやあ、お察しします……」

 その手の騒ぎというのには何だか心当たりがありすぎて……

「で、二人とも疲れてたし、兵隊さんにおんぶしてもらって城まで帰ったんですが、今度はお城が大騒ぎになっていて」

「あ、お二人がいなくなったから?」

 またアスリーナがうなずく。

「はい。あたしたちが誘拐されたのなら絶対に城の中に手引きがいるはずだから、見つけ出して首をはねろとか、そんな感じで」

「あははは」

「もう、めっちゃ怒られました」

「そりゃそうですよねー」

「なのに姫様ったら全然懲りなくって……」

「あー……」

 そのあたりも何でか心当たりがありすぎるのだが……

「で、次回は万全の対策をしていったんですが」

「対策?」

「はい。まずは町で迷わないように地図を持って行って、身分で揉めないように王家の紋章入り指輪をしていって、あとちょっと町まで行ってくるだけだって書き置きも残していって」

 万全って……

「それで二回目はちゃんと戻れたんですけど、やっぱりめっちゃ怒られて……ってか、町の地図ってけっこうな国家機密だったんですねー」

「あはははは」

 特にこの町ではそうかもしれない。

「ところがそこで姫様が、王家の者なら庶民の暮らしも見ておかなければとか屁理屈をこねはじめて」

「はあ……」

「そしたらダフネ様が、それならば見てきてもいいが、帰ったら報告書を書けと。それなら行ってきていいとおっしゃって」

「え?」

 ダフネ様とは前ハグワール王の王妃で、イービス様の母君だが……

《確かイービス様がベラにやってくるときもそんな騒ぎだったような……》

 魔法が使えるようになったと嘘をついて来てみたら、普通科の入学手続きが済んでいたとか何とか―――この王妃様、アラン王の妹姫だけあってただ者ではないのだ。

「ってことで晴れて正面から堂々と町歩きに出て行けるようになったんです。いややっぱり縄ばしごで崖を降りるのはちょっと怖かったからですねえ。まだ魔法も使えなかったし」

 ………………

 …………

「縄ばしごで? 崖を?」

 アスリーナがあっさり答える。

「じゃないと抜け出せないじゃないですか。あのお城」

「……まあ、確かにそうですけど……で、イービス様は報告書を書いたんですか?」

 まさかアスリーナさんが書かされたってオチなんじゃ?

 だが……

「あ、まあ、何というか姫様って決して学ぶことが嫌いってわけじゃなくて。ただお城の座学ってのは退屈でしょ? でも町で色々見聞するってのは別じゃないですか」

「それはそうですよねー」

 どうも疑ってすみませんでした。

「ってことでそれからは三人であちこち歩き回ってて」

「三人?」

「はい。さすがにあたしたちだけじゃ危険じゃないですか。どんな人がいるか分からないし。で、護衛ってことでディアリオ君がつけられることになって」

「あ、あのすごく強そうな」

 イービス女王と謁見するときは必ずあの人が護衛についていたが……

「はい。でもそうしたらまた姫様、調子に乗っちゃって、今度は北区の方にまで行っちゃって」

「えっと……北区って確か結構ガラが悪い場所でしたよねえ」

「そうなんですよ。で、案の定変なのに絡まれてしまって……というかこっちから絡んだんですけど」

「こっちから? 絡んだ⁇」

 アスリーナはあっけらかんと笑う。

「あはは。それが昼間っからダラダラしてるのがいるんで、それを見た姫様がいきなり『どうしてあなたたちはお仕事してないの? 辺境の方で人手が足りないそうだから紹介しましょうか?』とか何とか……」

 ………………

 …………

「そりゃ怒りまよすね」

「ですよねー。それでディアリオ君ボコボコにされちゃって」

「え? あの人が?」

 アウラでも彼には一目置いているようなのだが―――アスリーナが首を振る。

「いや、まだその頃はまだ若くて。それでも強かったんですけど、相手は大人四人だし。結構頑張ったんですけどねえ」

「うわあ……で、どうなっちゃったんですか?」

「まあそこに運良く兵隊さんが駆けつけてくれて。でもそれで今度はディアリオ君がめっちゃ怒られてしまって。さすがに姫様もちょっと凹んでましたね」

「あはは。確かに自分のせいで人が怪我するってのは辛いですもんね」

 サフィーナが怪我をしたときは本当に胸が潰れそうになってしまったが……

「ですよねー。でもそれでディアリオ君、それからものすごく練習して、おかげでとうとう御前試合で準決勝までいったんですよ」

「へええ。そうなんですか」

「あとついでにその四人は捕まって本当に辺境送りになりましたが」

「あはははは!」

「というわけで、その頃からよくこのお店には来ていて、おばさんとも仲良しなんです」

「はー。そうだったんですか」

「ですからこの町のことならまあ何でも聞いてくださいね!」

 いや、何かこう、圧倒される話だが―――まあうちの姫様も他から見たら別な意味でそうなのかもしれないが……

 一同がそんな話をしているとぼそっとサフィーナが言った。

「そろそろ帰らないと遅くなるんじゃないか?」

「あ、もうこんな時間」

 確かに日がそろそろ傾いている。そこでクリンが言った。

「あ、じゃわたし先に馬車回してきます」

「うん。お願いね」

 それから一同が勘定を済ませて店を出ると……

「じゃあみなさん。乗ってくださーい」

 彼女が既に待っていたが、そこでアスリーナが尋ねた。

「えっと、帰り、本当に大丈夫ですか?」

「任せてくださいっ! 一度来たら忘れませんから!」

 クリンが胸を叩く。行きはアスリーナに案内してもらったのだが、帰りは彼女一人で大丈夫だと豪語していたのだ。

「じゃあお願いしますね? ふふっ

 ん? 何やら不穏な笑みなのだが―――某王女様といっしょにいると、そういう笑みには敏感になってしまうのだが……

 馬車はガルデニアの通りを走り始める。

「にしても、本当にぐねぐねしてるよな」

 サフィーナが言った。

「そうよねえ」

 メイも方向音痴ではないのだが、ここでは一回で道を覚えられる自信は無いのだが―――しかしクリンは自信ありげに馬車を駆っていく。確かに彼女の方向感覚というのは大したものなのだ。

《おかげで散々怒られたし……》

 あの大中央突破のとき、言われた道と違っていることに多くの兵士たちが気づかない中、彼女は方向違いを即座に見抜いていた。

《ま、あんな平原に比べたら分かりやすいわよね》

 ガルデニアでは町の中央に王宮があって、町のどこからもよく見えるのだ。そこに向かっていけばいいはずで―――と、思ったのだが……

「あれ?」

 唐突にクリンが馬車を止めた。

「どうしたの?」

「おかしいなあ……ええ?」

 彼女がなぜか頭を抱えている。

 前方を眺めると……

「ありゃあ。何だか行き止まりだな?」

 サフィーナがあたりを見回しながら言った。この先はちょっとした広場になっているのだが出入りできるのは今来た道だけなのだ。

「ええ? どうして?」

 呆然としているクリンにアスリーナが言った。

「うふっ! 引っかかったわね?」

「え? 何にですか?」

「ともかくここは戻るしかないから」

「……はい」

 クリンががっくりと肩を落として戻り始める。

 それからしばらく行った四つ辻でアスリーナが言った。

「あ、そこ右ね」

「え? ここを?」

「そうなの」

 首をかしげながらクリンが言われたとおり馬車を進めるが……

「あーっ⁉」

「ふっふーん!」

 その光景にメイとサフィーナも目を見張る。

「ここってさっきの角、じゃなくって?」

 一瞬元に戻ってきてしまったのかと思ったが……

「そーなの。そっくりだけど別なの」

 この四つ辻とさっき曲がった四つ辻はそれを囲む建物がほとんど同じ形をしていて、まるで同じ場所に見えるのだ。

「えーっ! そんな、ひどいです!」

「どうしてこんな構造に?」

 サフィーナの問いにアスリーナが答える。

「何でも敵の目を欺くためなんだそうだけど……」

 それを聞いたクリンが驚いたように言った。

「あー、じゃあ、建物の形とかを目印に進軍してたらさっきの行き止まりの広場に行っちゃうってことですか?」

 アスリーナはうなずいた。

「そうなの。あそこは敵が攻めてきたらキリングフィールドになっちゃうのよ」

「あはははは」

「でも普通ひっかかるのは地元の人ばっかりで。でも法律で建物の形を変えたらいけないって決まってるから。みんなぶうぶう言ってるけど」

「あはははははは」

「で、どうする? クリンさん。わたしがナビゲートしますか?」

「えっ?」

 そこでクリンが思わず考え込む。

《あはは。一度見た道は忘れないとか言った手前……》

 そこでまたアスリーナがニコッと笑う。

「じゃあ間違えそうになったらそのときは教えるというのは?」

「あー、それでお願いします」

 クリンが不承不承うなずいた。

 そのときまではメイもあまり実感していなかったのだが、このガルデニアという町は単に込み入っているのではなく、意図的に分かりにくくなるよう設計されていたのだ。

《フィンさんとか結構青くなってましたもんねえ……》

 こちらに来てからすぐ彼やアリオールなどが町の視察に行って、愕然とした顔で戻ってきたのだ。そしてここを攻めることにならなくて本当に良かったと心底ほっとした表情で話していたのを覚えているが……

 ガルデニアという町はちょっとした山の周囲に築かれている。

 中央の山の上にガルデニア城があり、そこからX状に四本の尾根が伸びていて、全体が丸く城壁で囲まれている。

 各尾根沿いには小さな砦が数珠つなぎになった長城が築かれていて、ここを通れば城まで直行できるが、もちろん一般人は立ち入り禁止だ。ただし非常時には民間人を上に導く経路にもなるわけだが。

 尾根と尾根の間の谷間部分に市街が広がっていて、それぞれ東区、西区、南区、北区と呼ばれていて、別の区に行くには尾根に掘られたトンネルや切り通しを通っていくことになる。

 東区は職人が多く住んでいて工芸品の店が多い。南区が今来ている場所でここは食品を扱う店が多い。西区は織物が盛んで衣料品などの店があり、北区は主に兵士が住んでいて剣や武具を見るならここだが、住人はけっこう荒っぽく女子供が行くのはちょっと危なかったりする。

 また、各区は階段状になっていて、下の“平台”には一般市民が、上の“高台”には貴族や将校が居住しているが、高台から平台に下るのは簡単だが、平台から高台に向かう場合は先ほどのように大変分かりにくくなっている。

 普通の町だと城へ向かう中央通りという物があるものだ。

 ガルサ・ブランカもそんな大通りがあって、セロの戦いの後そこで凱旋パレードが行われたことをよく覚えているが……

《あは。ナーザ様を中心にアウラ様とリモンさんが両翼だったのよね

 しかしここガルデニアでも市街に太い通りはあるのだが、これは同じ階層間を移動するための物で、一見つづら折りの坂道が上まで続いているように見えるのだが、それはフェイクで、まっすぐそちらに向かったりしたらその手前の石垣に囲まれた広場で行き止まりになってしまうのだ。

 そんな場所に迂闊に大軍で突っ込んだりしてしまったら……

《上から弓でガンガン撃たれちゃうのよね……》

 まさにキリングフィールドなのである。

 実際に城に向かう道はもっと目立たない一見脇道のような細い道で、しかも途中に分岐が多く間違えたらすぐに行き止まりになってしまう。

 また、道は見通しが悪く曲がりくねっていて、交差点も変な角度で交わっている。

 上から下に行く場合はとりあえず低い方へと向かっていれば何とかなるが、下からだとあえて一旦下ってからまた上がっていったり、目立たないトンネルや切り通しで別の区を経由してみたり、さらには先ほどのようなトラップが仕掛けられていたりして、結局すべての分かれ道を全部覚えておくしかないのだ。

 そんな構造なので、敵が城壁を突破して中に侵入できてもうっかりそれにハマったらそれこそ袋の鼠で、分かっていても少数に分散して行動しなければならない。

 ところがそれを迎え撃つサルトス軍だが、この地域は全体が山や森で大軍でぶつかるような戦いがやりにくく、こんな構造の街を防衛するためにも個人の剣技と弓術を極める方向に進歩してきた。

 もし最悪の場合―――イービス女王が黒幕だったときにはここを一気に攻めなければならなかったわけだが……

《あはは! レイモンの騎馬軍団には一番向いてない所なのよね……》

 フィン達はそんなことになったら、マグナフレイムで町ごと焼き払うしかなかったとか言っていた気がするが……

《いや、本当にそんなことにならずに済んで良かったけど……》

 かようにこの町の構造は少々意地悪なのだが、食べ物は美味しいし風景も綺麗だ。メイは既にここが好きになっていた。

 ―――そんなことを考えていると、一行の乗ったブレークは高台からさらに城の正門へ向かう坂道に差し掛かっていた。

 ここからだとガルデニアの南区すべてが一望の下だ。

《あはは、いい景色なのよねえ……》

 城が山の上にあるだけあって、そこからの眺望は絶景なのだ。

「はあ、ここまで来たらもう間違いませんよね?」

「うん。もう大丈夫よ?」

「はあ……」

 ここまで既に二回ダメ出しをされていたクリンががっかりしたようなため息をつくが……

「でもクリンさん、すごいわねえ」

 アスリーナが言う。

「え?」

「いや、もっと引っかかるって思ってたから。あそこの五叉路とかよく間違えなかったわねえ」

「あ、そうですか?」

「うん。普通は絶対分からなくなるんだけど」

「えへっ!」

「クリンさんならすぐここで暮らせるようになりますよ?」

「あは! ありがとうございますっ!」

 このように立ち直りが早いところはクリンちゃんのチャームポイントの一つだ。

「しかしアスリーナさん」

 ここでメイは尋ねた。

「はい?」

「町までって結構距離ありますよねえ」

「まあ。そうですね」

 アスリーナはうなずいた。

「子供の頃ここを歩いて行ったんですか?」

「いやいや、最初だけですよ? 遠いじゃないですか」

「じゃ、何か近道が?」

「はい。歩いて行くのなら階段の道があるんですよ。初めてのときは知らずに馬車道を歩いて行って、町に着いたころにはヘトヘトでしたけど」

「あ、そうなんですね」

「ま、ちょっと見ただけじゃ絶対分かりませんが。その辺の家の間の隙間をぐねぐね行く細ーい道なんで。覚えるまで結構迷いましたねー。あはは」

 ―――などという話をしているうちに、一行はガルデニア城の正門に到達した。

 がっしりとした石造りの城門で、その背後は森と崖が半分ずつといった険しい山が聳えている。

「あ、お役目ご苦労様ー!」

 アスリーナが門衛に手を振ると、彼らが一斉に敬礼した。

 城門を過ぎると大きな前庭があって正面には石造りの城があるが―――これまで様々な場所の王宮を見てきた目からは、森の中の小さなお城に見える。

 しかしそれはまさに木を見て森を見ずで、実はガルデニア城とはその後ろに聳える山全体に広がる城塞群で構成されているのだ。

 クリンは城の脇に向かう車道に入っていった。道はカーブして螺旋状に山を登っていくが、その先にまた別な城が現れて前の城の三階と空中回廊でつながっている。

《ここも本当に複雑な構造なのよね……》

 馬車道の他にも歩道の石段がいくつも見えるが―――この城の中の探検だけでも何年もかかってしまいそうに見えるのだが……

「えっと、アスリーナさん?」

 またメイは尋ねた。

「はい。なんでしょう?」

「以前魔道大学にいたときですが……」

「はい」

「イービス様、城の木という木には登ってしまったとか言ってませんでしたか?」

 あのときは城といえばガルサ・ブランカ城のイメージだったので、その中庭などにある木立くらいのつもりだったのだが、ここはもう完全な山の中に見えるのだが……

「あはは。いや、ほら、それみたいな登っても折れちゃいそうな木には登ってませんよ?」

 ………………

「じゃあ、丈夫な木にはみんな?」

「多分そうなんじゃないですか? 登った木には印を付けたりしてましたし。木を傷つけるなって庭番のおじさんに怒られてましたけど」

「そーなんですか……」

 イービス女王というのは何だか動きがゆっくりなのでそんなイメージではないのだが、実は見かけによらずアウトドア派だった。

《うちの王女様ももう少し運動した方がいいと思うんだけど……》

 こちらの王女様はその気になればいくらでも部屋の中でじっとしていられるのである。

「じゃ、あの山のてっぺんにある大きな木とかにも?」

 サフィーナが尋ねるとアスリーナがうなずく。

「そりゃもちろん。あそこはもうお気に入りの場所で」

「あはは。シアナ様みたいだねえ」

「シアナ様って……ファシアーナ様ですか?」

「ん」

 訝しげなアスリーナにメイが説明する。

「えっと、あの方も本当に高いところがお好きで。作戦中だと木の上の見張所を巣にしてましたし、都じゃ幽霊屋敷の尖塔の上に住んでたんですけど……」

「え? えええ?」

 さすがにアスリーナも今ひとつイメージが湧かないようだ。

《いや、そういえばあそこには悪い思い出もあるんだよなあ……》

 リアルに死にかけたというのはあのときが人生―――三度目だったか?

 ………………

 …………

《何でそんな何度も死にかかってる人生なんだろう?》

 しかもそれがラストでもなかったりするし―――などということをまた考えていると、道は別な城の前の広場に出て行き止まりになった。馬車で上がれるのはここまでだ。

 一同は馬車から降りた。

 クリンが車庫に馬車を返して戻ってくると一同は城の中に入っていった。

「あ、みなさんお疲れーっ!」

 アスリーナが手を振ると衛兵たちが敬礼する。

 それから一行は城に入り、まっすぐ奥へ続く通路に向かった。

 その先は吹き抜けのホールがあって、そこにはエレベーターというものがあった。

 アスリーナがぶら下がっている紐を引くとカランカランという音が鳴り響く。すると上の窓から兵士が顔を出した。

「あ、よろしくーっ!」

 アスリーナが手を振ると兵士が敬礼する。

「どうぞお乗りください」

 そこで一同がエレベーターに乗って扉を閉めると、がらがらっと音がして籠が上がり始めた。

《いつ来てもちょっと気の毒な気がするんだけど……》

 これを人力で上げるのは大変だと思うのだが、反対側に錘が付いているのでそれほどでもないらしい。またこれを使えるのは王族や要人だけなので普段は結構暇な仕事なのだそうだが……

 そのため一般の兵士や使用人などが上がり下りする場合はどこか遠くにある階段を使う必要があって、それがまた迷路みたいになっていてすぐ迷ってしまうという。

《確かに探検には面白いところなんだろうけど……》

 このガルデニアという町や城を作った人はちょっと神経質過ぎなのではないだろうか?

 エレベーターが上まで上がると反対側の扉が開いた。

 その先には尾根をくりぬいた短いトンネルがあって、それを抜けると明るい光の差し込む窓がある通廊となる。

 窓から外を覗くと、そこは絶壁の上で眼下にガルデニアの町が一望できた。

《いやあ、これはも本当にすごいんだけど……》

 最初来たときは心底びっくりしたものだが……

 その通廊をしばらく行くとぱっと開けた場所に出るが―――今度はこれまでとは別世界に来てしまったかのようだ。

 その広場は綺麗に手入れされた庭園だった。

 比較的小ぶりだが幾何学的な園路が張り巡らされており、この時期だからあまり花は咲いていないが、春から秋にかけては色とりどりの花で埋め尽くされるという。

 その先にこれまでと違った、真っ白なお城が建っていた。

 ここは“白亜御殿”といって特に貴重な来賓をもてなすための城で、全体が大理石張りになっているためこんな雪のような色に見えるのだ。これまでの灰色っぽい石で建てられた地味な城に比べると雲泥の差だ。

 とは言っても、その造りを見ていくとアキーラの水月宮や天陽宮などに比べたら無骨と言わざるを得ないが……

「あ、アスリーナさん。今日は本当にありがとうございました!」

「いえいえ。また何かあったら呼んでくださいね」

 アスリーナはそう言って、足取りも軽やかに山頂にあるガルデニア城の本殿に向かっていった。

《ここに住んでたら本当に体が丈夫になるわよねえ……》

 そんなことを思いながら残されたメイたちは白亜御殿に向かった。ここにいま彼女たちは滞在しているのである。

 御殿の入口には両側に門衛が立っているが―――彼らが着用しているのは見慣れたフォレス軍の制服だ。先日ネブロス連隊がやってきてからは彼らがここの警備を行っているのだ。

 しかし……

「あ、どうも。今戻りましたー」

「はっ! おかえりなさいませ!」

 若い兵士が敬礼してメイ一行を通す。

《うー……これも何か慣れないんだよなあ……》

 ガルサ・ブランカ城にいた頃は王女付きの侍女になった後でも、ふっ! ほら行け! といった感じで顎で指図されるのが普通だったのに、今ではこれなのだ。

 確かに王女だけでなく彼女も世界的に名を売ってしまったわけで、新参の彼らが畏まるのは仕方がないのは理解できるのだが、彼女がエルミーラ王女のオマケという本質は変わっていないはずなのに……

 そんなことを考えながら中に入ると、そこは広いホールになっていた。

 城の床も天井も真っ白な大理石張りになっていて、同じく真っ白な柱には見事な彫刻が施されている。天井からはキラキラしたシャンデリアがぶら下がり、壁のあちこちに写実的な絵が織り込まれたタペストリが下がっている。

 ホールの中央は天井がドームになっていて、天窓がステンドグラスなので日が差すと床に美しい模様が浮かび上がる。

 特別な謁見などが行われる際にはここが利用されることになるが、今日は何もないので静かなものである。

 そこを抜けていくと奥には見事な黒い大きな一枚板の扉があって、その前に今度はレイモンの制服を着た守衛が立っていた。

「あ、どもー」

「お帰りなさい! メイ様! サフィーナ様!」

 レイモン人にこのような扱いをされるのは慣れてしまったのだが―――というわけでこの先がカロンデュール大皇とメルファラ大皇后、そしてその女戦士たち(ベラトリキス)の居住エリアとなる。

 扉を抜けると通廊に囲まれた、小ぶりだが美しい中庭が現れた。

 左右の通廊に沿って二つの大理石張りの宮殿があって、右の少し大きい方が大皇と大皇后の逗留している“大観殿”、左の少し小さい方がメイやエルミーラ王女、それにヴェーヌスベルグ娘たちが入っている“来迎(らいごう)殿”だ。

 小さいと言っても部屋数は彼女たち全員が一人一人個室をもらっても全然有り余るくらいにあるし、むしろ大皇様方のいる方は広すぎると思うのだが―――その玄関の前にはローブを着た魔導師が二人立っていた。彼らは入ってきたメイ達に気づいたようだ。

「お? あれ、マイウスさんじゃないかな?」

「え? あ、本当だ!」

 そこでメイが手を振ると彼も手を振り返してきた。

 彼―――クアン・マリ・マイウスとはクルーゼのアルマーザ・オン・ステージで特殊効果をやってもらって以来、結構親しくしているのだ。

 それからメイ達が来迎殿に向かうと、そこには都行きのときからずっと随行してきた親衛隊兵士がいた。

「あ、どもー」

「はい」

 この白亜御殿に滞在している“貴人たち”は様々な国に関わっているため、その警備も何だかワールドワイドになってしまっているのである。

 こうしてやっと今の住処に帰り着いたわけだが、来迎殿の玄関ホールに入ると奥から年配の婦人が現れた。

「お帰りなさいませ」

「ただいま。みんなは奥ですか?」

「はい。皆様いらっしゃいますよ」

「わかりました」

 彼女はリトリーさんといって、この来迎殿の管理人をしている方である。

 一行が奥に向かうと両開きの扉が現れて、その先から何やら声が聞こえてくる。

『えっ? マジ? そんな良かったんだ?』

『え……もうわ……感動し……』

 この大きな声はマジャーラだが、もう一人は誰だ? ラクトゥーカの声ではないが……

 そこでクリンがさっと扉を開いてメイとサフィーナを中に導く。

 中にいた一同の目がこちらを向く。

「あ、ただいまー」

「あー、おかえりー」

 近くで話をしていたマジャーラが答える。その前にいたのはアヴェラナ―――カロンデュール大皇のところの一番若い侍女だが……

「あ、それじゃ私は」

 そう言って彼女はたたたっと帰って行ってしまった。

 しかしマジャーラと彼女が?

「アヴェラナさんと何話してたんですか?」

「あー、それがこれ読んでたら、彼女が都で舞台を見たって言うからさ」

 そう言ってマジャーラが戯曲の本を見せる。

「ラクトゥーカがな、おもしろいからぜひ読んでみろって言うからさ」

 マジャーラは何だか本気で演劇にハマっているようだが、その戯曲はメイも知っていた。

「おお、これは名作ですよね……それをアヴェラナさんが見たと?」

「ああ。なんかいきなり寄ってきて、それって“妖星月旦”ですか? とか言うから。それから色々話してたんだが」

「へえ……」

 向こうの方から寄ってきてって? メイのイメージでは何だか取っつきの悪い子に思えるのだが―――それとも彼女も大の演劇ファンなのだろうか?

「で、彼女そもそも何しにここに来てたの?」

「ああ。アルマーザがまた今日は大観殿にお泊まりだからってさ」

「あはは。そうですか」

 彼女は何故かもうカロンデュール大皇に大変気に入られてしまって、最近では身の回りの世話まで始めているのだ。おかげでもはやあちらにいることの方が多いのだが、一応はこちらの住人で部屋もこちらにある。

 アラーニャがいれば彼女とつるんでいることも多いのだが、その彼女はファシアーナとニフレディルと共に魔道軍の本隊と訓練するためアコールに出張中だ。

《これが終わったらもう妾妃確定よね?》

 いやあ、何か本当に彼女で大丈夫なのかと他人事ながら心配になってしまうのだが……

 しかしこればっかりはメイが心配しても仕方がない。

 それから彼女は窓の方に向かって外の景色を眺めた。

《でも凄いわよねえ……》

 窓からはガルデニアの東区全体と南区の一部が一望できる。

 ここは東側に大きく開けていて、この窓から見る朝日はそれは見事で、そのため来迎殿と呼ばれている。

《それに夜景も綺麗なのよね……》

 この白亜御殿はガルデニア城でも特に景色の良いところに建てられている。大皇や大皇后の逗留している大観殿からはここよりももっと素晴らしい景観が眺められるのだ。

 アキーラの後宮は確かに美しいところではあったが、回りは高い壁で囲まれて庭しか見えなかった。

《そういう意味じゃこっちの圧勝よね

 そんなことを思いながらメイは振り返るが……

《…………》

 しかしここの連中はそういうことにはあまり関心が無いようで、今はみんなそれぞれ本を読んでいた。

 少し奥のゆったりした椅子に座っているのはハフラだ。彼女の読んでいるのはこの中原に来てハマっているロマンス本だろう。

 その近くのソファに寝っ転がってあーうー言っているのはリサーンだが、読んでいるのは当然詰碁の本だ。今日は碁会が無いのでここでごろごろしているらしい。

 大中央突破にはフィンとティアの父、ル・ウーダ・パルティシオンも同行していたが、彼は中原全体で囲碁の名手として名を知られていた。そこでこちらに来るとさっそく地元の棋士と連絡を取り合って城の一角で碁会を開いていたが、そんな日には彼女もそこに入り浸りだった。

 そして一番奥の大きなソファの上ではエルミーラ王女が本を膝に乗せたままうたた寝をしている。

《あー。昨日もけっこう会議、長かったしなあ……》

 来年の春の侵攻に向けてレイモンとサルトスの部隊大移動など色々な懸案が目白押しだ。するとそれに関する会議にエルミーラ王女はフォレスやベラの代表として参加しなければならない。

《まあ、あたしも一緒なんだけど……》

 そういう意味ではメイもけっこうストレスは溜まっていたのだが、今日の市場巡りでそんなものは吹っ飛んでいた。

《王女様もどっか行けたらいいんだけど……》

 この間のガルブレス様のお墓参りはそういう意味ではいい気分転換にはなった。だが周囲を何十人もの護衛兵に囲まれていては、あまりゆっくりするというわけにもいかなかった。

《しょうがないんだけど……》

 メイなどと違ってエルミーラ王女はカロンデュール大皇、メルファラ大皇后と並ぶ超VIPだ。特にベラ・フォレスと都やレイモンの間を取り持つという意味では、唯一無二の存在なのである。

 ―――そんなことを考えていると……

「王女様ーっ! みなさーん。お茶が入りましたよー!」

 そんな無駄に元気の良い声と共にワゴンを押して入ってきたのはコーラともう一人、フォレスの侍女服を纏った小娘だが―――彼女は部屋の中を見渡すと……

「あ? アウラ様とかはまた練習中? コーラさん。声かけてもらってきていいかしら」

「分かりました」

 コーラがアウラとその練習相手のリモン、ガリーナを呼びに行く。

 その間に小娘はまず王女の元に行くが、彼女が寝ているのを見て起こさないようにそっとテーブルにお茶とお菓子を置いた。

 それから今度はリサーンの所に向かう。

「あ、リサさん、ここ置いときますよ?」

「ん。ありがと」

 リサーンが詰碁の本を睨みながら手を振る。

「ハフラさんはここでいいですか?」

「はい」

 ハフラは顔を上げてうなずいた。

「ハフラさん、今度は何読んでるんですか?」

「“ペルグランデの彼方”だけど」

「あ、それわたしも読みましたよ。面白かったですよ。でも……」

 あ! こいつ……

 この小娘はこうやって人の読んでいた本のネタバレをするという邪悪な行いをよくかましてくれたわけだが……

「でも?」

「いや、すごく面白かったから、寝不足にならないようにしてくださいね」

「ありがと」

 ………………

 さすがにベラトリキスのメンバーに対してそういうことをしないくらいの慎みはあったようだ。

「あ、マジャーラさん。こちらに置いときますね」

「サンキュ」

 それから彼女は大げさに辺りを見回すと、メイの後のサフィーナに向かって言った。

「サフィーナさん。帰ってたんですか?」

「ん」

「ごめんなさい。あなた方の分、用意してないんですけど」

 と、彼女と後ろのクリンに向かって言う。

「おいこら!」

 さすがにそろそろ突っ込んでやらねば。

「あ、よく見たらあんたもいたの? ごめーん。気づかなかったー」

 このガキは―――だがしかし……

「ふっ。大丈夫よ。町ですごく美味しいお茶頂いてきたから。あなたのお茶なんかなくてもねー

「ほー。そうですか。そりゃよございましたねーっ」

 そんな言い合いをしていると……

「お二人って本当に仲がいいんですねー」

「そだね」

 クリンとサフィーナの話し声が聞こえるが……

《あ? それだけは言うてはならぬことを?》

 メイが振り返ってぎろっと二人を睨むと……

「あ、それじゃ私、奥を手伝ってきますー」

「みんなどこいるんだろー?」

 二人はそそくさと去って行ってしまった。

 ―――もちろんこの小娘とは今回のフォレス・ベラ連合軍に看護師⁉ として従軍してきて、先日ネブロス連隊とともにやってきた、メイの旧友というか腐れ縁のコルネである。

《ま、来てくれて助かったってのは事実だけど……》

 正直、人手が足りていなかったのだ。

 というのは一行は少数の随行者と共に、ほとんど着の身着のままでこのサルトス王国を訪れていたのである。

 本来ならばカロンデュール大皇が最初にやってきたときのように、大勢の侍女や侍従を引き連れて、荷物も大量の馬車満載というのがまあ当然なのだ。

 しかし例の大中央突破では同行する者は乗馬スキルが必須で、持ってくる物も最小限にしなければならなかった―――要するにそういったVIPの身辺の世話ができる者が非常に少ないのである。

 もちろんガルデニア城に大勢の侍女はいるのだが、さすがにそんな要人に直接触れることは憚られる。

 というわけでカロンデュール大皇とメルファラ大皇后の世話はベルガの家の古参のルチーナ、パルティラ、ウィオーラと先ほどのアヴェラナ。それにパミーナにアルマーザ。時にはイーグレッタの小娘ラクトゥーカまでが駆り出される。

 同様にエルミーラ王女の身辺はリモンとメイが担当し、それをレイモンから同行してきたコーラとクリンが手伝うという形だった。

 しかしリモンは護衛任務があるしメイは秘書官任務でそれぞれ忙しい。王女が結構なことを一人でやってくれていたから何とかなっていたものの、こちらに来ると前よりも遙かにフォーマルな場も多い。

 なのでこうなったらクリンを特訓するしかないかと思っていたのだが、彼女は形式上は王女に仕える侍女だが、まさに新参だし生まれも育ちも全く違うしで、ちょっと一朝一夕にはいかないのではと頭を痛めていたところだった。

 ―――というわけでこいつが来てくれたのは大変助かったわけだが……

《今はちゃんとした格好してるわけね?》

 こいつは今はフォレスの侍女服を身に纏っている。これならばまあ許せるわけだが、白衣なんぞを着ていた日には絶対近寄りたくない危険人物なのである。

 ―――そんなことを考えていると、どやどやと奥の方から誰かがやってくる音がした。

 見るとアウラ、リモン、ガリーナにサフィーナも一緒だ。

「お茶入ったんだって?」

「あ、入りましたよ。いま持って行きますから」

 アウラが尋ねるとコルネが答える。

 一同が奥のソファーに腰を下ろしたので、彼女はその前にワゴンを押していった。

 と、その騒ぎにエルミーラ王女が目を覚ました。

「あ、王女様。そちらにお茶が用意できております」

「あ、ありがとう」

 王女は大きく伸びをするとメイの姿に気がついた。

「あら、お帰り。メイ」

「あ、ただいまです」

「どうしたの? 突っ立ってないでこちらに来れば?」

「あ、はい」

 そこでメイは王女の近くの椅子に腰掛けた。

 ふわふわして大変座り心地がいい。こんな午後には寝てしまうのもやむなしだが……

「で、どうだった? 町は楽しかった?」

 王女がにこーっと笑いながら尋ねてきた。

 ………………

「あ、はい。やっぱり国が変わると色々違いますねえ」

「ふふっ。そうなんだ。どんなところが?」

「例えば市場ですけど、もう売ってる物が全然違うんですよ」

 それからメイは市場の様子を説明しはじめるが、王女はそのあたりにあまりご興味はないようすで……

「そーなの。良かったわねえ……で、他にはどこに行ってきたの?」

「え? 広い市場なんでそこ回ってくるだけで終わっちゃいましたけど」

「えーっ⁉」

 一体何を驚いているのだ? このお方は……

「他にはどこにも行ってないの~?」

 ………………

「あと、アスリーナさんお勧めのカフェでお茶してきましたが?」

「じゃあ市場を見てお茶して帰ってきただけなの?」

「あー、まー、有り体に言えばそうなりますねえ」

 王女は大きくため息をついた。

《何なんですか? あ? もしかして……》

 これまでの旅の間、なぜか町の酒場に謎の旅の娘が現れて大騒ぎして帰って行くといった光景がよく見られたものだが……

「あのー……美味しそうなお店だったらちょっといっぱいありすぎて……」

 旅先でそういう穴場を見つけるには現地の人と仲良くならねばならない。

 メイの場合、暇になったら厨房に遊びに行っていたためすぐにそういうコネが見つかったのだが、こちらに来てというもの会議が多くてそんな余裕があまり無かった。

「でもほら、そろそろこちらの料理人さんとも顔なじみになってきてるし……」

「まー、それもそうなんだけど……」

 ………………

 …………

《まさか……もしかして?》

 王女様はあの“ご休息”をなさりたいということなのか?

 メイがじとっと王女の顔を見ると……

「うふふっ だってメイ、いつかなんか三通も紹介状をもらってきてくれたんだし……」

 は? 何の話だ?――― 一瞬メイは混乱したが……

「いや、あれはですねえ!」

 確かにかつてそんな物をもらって来たことはある。だがそれはこの王女様とフォレス王家の名誉を守るためにやむにやまれず行った行動の結果なわけで!

「だってメイばっかり遊びに行けてずるいんだもん」

 いや、何を拗ねてらっしゃいますか?

 何度も言うように、今のエルミーラ王女は白銀の都の大皇と大皇后に並ぶ超重要VIPなのである。彼女に何かあったりしたらそれこそ現在うまくいっている都とベラの関係が壊れてしまうかもしれないのだ。

 ところがこのサルトス王国というのはシルヴェスト王国から分かれてできた国で、古来から関係の深い間柄であった。すなわちシルヴェストから来て住んでいる人が少なくないのだ。

 今回サルトスはそのシルヴェストと敵対してしまったわけだが、そうなると国内に居住する多数のシルヴェスト人が敵国人ということになる。もちろんそのほとんどは危険ではないにしても、そんな中にこんな要人を護衛も無しに出ていかせるなどまさに論外なのである。

《まあ、フラストレーションが溜まるのも分かるんだけど……》

 とは言っても世の中できることとできないことがある―――そんなことを考えていると……

「王女様、もしかして郭でご休息をなさりたいのですか?」

 そうストレートに尋ねてきたのはガリーナだ。彼女もコルネと一緒にやってきていたわけだが……

「そーなの。なのにメイちゃん、なんだか意地悪で~

 いや、だからですね?

「でもここはガルサ・ブランカじゃありませんし、堂々とというわけには参りませんよね?」

 ガリーナが答える。

「やっぱりそうかしら?」

 いや、そりゃそうでしょ?

 そこでガリーナは腕組みして考え始める。

 彼女は元はベラの後宮に務めていたこともあって、このような場合の警備体制には詳しかった。おかげであちらではいつの間にか王女ご休息の際の警備責任者になっていたのだが……

「あー、やはりお忍びというのはなかなか……」

 彼女は首を振った。

 と、そこで話を聞いていたハフラが口を挟んだ。

「それなら郭から遊女の方々を呼んだらどうなんですか?」

「あっ!」

 ナイス! 王女がといった顔になるが―――メイがため息をつきながら突っ込んだ。

「あのー。どういう名義で呼び出すんですか? さすがに王女様の名前じゃまずいし。でもイービス様ってわけにもいかないし」

「あーっ!」

 王女ががっくりと首を垂れる。

 これが男性の王だったらその名義で呼んでもらって、ご相伴にあずかるというのも―――いやいやそれもダメだろう!

 とにかくこのサルトスでは王女様のご趣味のことはまだよく知られていない。都では単なる無名の田舎の姫だったのでバーボ・レアルとかに繰り出すことも可能だったのだが……

 と、そこでふっとガリーナが言った。

「あ、でも……どこかに仲立ちしてもらえる場所があれば……」

「仲立ち?」

 王女が首をかしげる。

「あ、ほら、郭ですからいろいろ表だっては通いにくい場合もありますれば、そういう場合の仲介をしてくれるところもあるものなのですが……」

「まあ、それは知らなかったわ!」

 ですよねー。このお方の場合いつも正面から堂々と行ってらっしゃったし……

「で、そういう場合どこかの貴族の夜会に参加するといった建前で行くことになるのですが、それならばその屋敷までは堂々と通常の警備で行って問題ありませんし」

「そこの中でみんなが待ってると?」

「はい。遊女たちは別経路でやってきてまして、そこでゆっくり過ごせるとそういうわけですが」

「まあ!」

 王女が満面の笑みになるが―――また仕方なくメイは突っ込んだ。

「でも初めての郭ですぐにそんなところを紹介してもらえるんですか?」

 ガリーナは首を振る。

「いえ、もちろん信頼の置けるお馴染みでないと……」

 ………………

 …………

 王女ががっくりとうなだれる。

《いや、そこまで残念がらずとも……》

 と、そのときだった。


「あーっ! そういえばタンディ、ガルデニアにいるんだった!」


 唐突にアウラが叫んだのだ。

「タンディ?」

 王女が尋ねる。

「うん。ヴィニエーラで一番仲良かった子なの」

「その方がこちらにきていると?」

 アウラの顔が一瞬曇るが……

「え? うん。あ……こっちで部屋を持ててるとか。だからあたしから彼女に頼んだら何とかならないかな?」

 ガリーナが驚いた顔で尋ねる。

「アウラ様がヴィニエーラにいたときからのご知り合いと?」

「うん」

「まあ! それは素敵ね

 王女がニコ~っと笑う。

「それじゃアウラ、お願いできるかしら?」

「うん。分かった」

 アウラがにっこりとうなずく。

「あとそれから……」

 王女がメイの顔を見る。

《あ! もしかしてこれは……》

 予想通りだった。

「メイも一緒に行ってきてくれる?」

「え? 私がですか?」

 思わず彼女はそう答えるが……

「だってアウラ一人じゃ……」

 ………………

 …………

 ……

「承知しましたーっ!」

 一人で都の大皇后の屋敷に乱入したという実績のある方には、ブレーキ役が必須なのであった。