邪馬台国への道 第1章 邪馬台国論争

第1章 邪馬台国論争

 本章では主に初めて邪馬台国論争に触れる人向けに、これまでの様々な説とその問題点について概観することにします。


倭人伝の道程記述

 すべての始まりは魏志倭人伝に書かれていた邪馬台国への道程記事でした。その“魏使倭人伝”とはいったいどんな文書だったのでしょうか?


◆魏志倭人伝

 魏志倭人伝というのはそれ自身が独立した文書ではなく、中国の史書である『三国志』の中の一項で、正式名称『三国志巻三十・魏書烏丸(うがん)鮮卑(せんぴ)東夷(とうい)伝倭人条』の略称になります。もちろんそんな長い名前を一々書いているわけにはいきませんから、本書でも『魏志倭人伝』あるいは単に『倭人伝』と記すことにします。

 この三国志というのはゲームなどでも有名なあの魏・呉・蜀が三つどもえで争いあった時代のことで、魏書とはそのうちの魏の歴史を記した文書です。

 書かれた時代は西暦280年代と考えられていて、編纂したのは晋朝の史官だった陳寿(ちんじゅ)という人です。

 この倭人伝の中に、景初2年(西暦238年)に邪馬台国の卑弥呼という女王から朝貢があったという記録があります。そこには当時の倭国の位置や地理、歴史、風俗習慣、魏との交渉録などが詳細に記述されていました。

 これ以前にも倭人に関する記録は散発的にはあります。例えば後漢書には建武中元2年(西暦57年)後漢の光武帝が倭の奴国王に「漢委奴国王(かんのわのなこくおう)」の金印を授けたことなどがありますが、これほど詳しく倭國の様子が記されていたのはこの魏志倭人伝が初めてです。

 3世紀当時、日本ではまだ文字が使われていません。最も古い日本の史書は古事記や日本書紀などですが、これらが書かれたのは7世紀にまで下ります。それ以前のことを知りたければ考古学的な手段に頼らざるを得ません。

 それゆえにこの魏志倭人伝は当時の日本を知るための最重要の一次資料に位置づけられているわけです。


◆邪馬台国への道程

 さてこの倭人伝の中には邪馬台国へ向かう際の経由地やそこからの方向・距離、さらにはその場所の簡単な解説までが記述されています。

 以下は当該部位を抜粋した物ですが結構な長さがあります。しかし4~6章で道を辿っていく際に再録して子細に論ずる予定なので、ここではざっと流し読みしておいてもらえば結構です。

倭人は帯方の東南大海の中にあり、山島に依りて國邑(クニとムラ)をなす。(もと)は百余國。漢の時、朝見する者あり。今、使訳(使者と通訳の)通ずる所三十國。

(帯方)郡より倭に至るには、海岸に(したが)いて水行し、韓國をへて、(あるい)は、南し(あるい)は東し、その北岸狗邪韓(くやかん)國に至る。七千余里。

始めて一海を渡ること千余里、対馬國に至る。その大官を卑狗(ひこ)といい、副を卑奴母離(ひなもり)という。居る所は絶島にして、方四百余里ばかり。土地は山険しく深林多く、道路は禽鹿(きんろく)(こみち)(獣道)の如し。千余戸有り。良田無く、海物を食して自活し、船に乗りて南北に市糴(してき)(米の買い出しを)す。

また、南に一海を渡ること千余里、名づけて瀚海(かんかい)(大海)という。一大國(一支(いき)國)に至る。官をまた、卑狗(ひこ)といい、副を卑奴母離(ひなもり)という。方三百里ばかり。竹木・叢林多く、三千ばかりの家有り。やや田地有り、田を耕せどもなお食するに足らず、また南北に市糴(してき)す。

また、一海を渡ること千余里、末盧(まつろ)國に至る。四千余戸有り。山海に()いて居る。草木茂盛し、行くに前人を見ず。好んで魚鰒(ぎょふく)(魚やアワビ)を捕らへ、水深浅となく、皆沈没して之を取る。

東南に陸行すること五百里、伊都(いと)國に至る。官を爾支(にき)といい、副を泄謨觚(しまこ)柄渠觚(ひここ)という。千余戸有り。(よよ)王有るも、皆女王國に統属す。(帯方)郡使の往来(するとき)常に(とど)まる所なり。

東南、()國に至る、百里。官を兕馬觚(しまこ)といい、副を卑奴母離(ひなもり)という。二萬余戸有り。

東行、不彌(ふみ)國に至る、百里。官を多模(たま)といい、副を卑奴母離(ひなもり)という。千余家有り。

南、投馬(とま)國に至る、水行二十日。官を彌彌(みみ)といい、副を彌彌那利(みみなり)という。五萬余戸ばかり。

南、邪馬壹(やまい)國(邪馬臺(やまたい)國)に至る。女王の都する所。水行十日・陸行一月。官に伊支馬(いさま)有り。次を彌馬升(みまと)といい、次を彌馬獲支(みまわき)といい、次を奴佳鞮(なかて)という。七萬余戸ばかり。

女王國より以北はその戸数・道里は略載すべきも、その余の旁國(ぼうこく)は遠絶にして()(つまび)らかにすべからず。

次に斯馬(しま)國有り。次に己百支(いはき)國有り。次に伊邪(いや)國有り。次に郡支(とき)國有り。次に彌奴(みな)國有り。次に好古都(はかと)國有り。次に不呼(ほこ)國有り。次に姐奴(きな)國有り。次に対蘇(とす)國あり。次に蘇奴(さな)國有り。次に呼邑(こゆ)國有り。次に華奴蘇奴(かなさな)國有り。次に()國有り。次に為吾(いが)國有り。次に鬼奴(きな)國有り。次に邪馬(やま)國有り。 次に躬臣(くじ)國有り。次に巴利(はり)國有り。次に支惟(きい)國有り。次に烏奴(あな)國有り。次に()國有り。此れ、女王の境界の尽くる所なり。

その南に狗奴(くな)國有り。男子を王となす。その官に狗古智卑狗(くこちひこ)有り。女王に属せず。

(帯方)郡より女王國に至ること萬二千余里。


◆国名の一致

 さて、この道程記述を眺めてみると見知った国名が出てきます。

 最初の朝鮮半島最南端にあったと思われる狗邪韓國の次に『対馬國』が現れますが、これはまさにそのままです。

 続いて出てくる『一大國』ですが、これはどう見ても『一支國』すなわち壱岐の誤記と考えられます。そのため一般には一支國と呼ばれることが多いようですが、本書においては原文どおり一大國と記述することにします。

 次の『末盧(まつろ)國』ですが、佐賀県唐津付近は昔から『松浦』と呼ばれていました。この呼び方は相当に古く、少なくとも万葉集の時代にまで遡ります。

 その次にある伊都国ですが、糸島半島はかつて南の山側が『怡土(いと)郡』北の半島側が志摩郡と呼ばれていたのが合体してできた地名です。

 さらに続く『()國』ですが、博多周辺はかつてそう呼ばれていて、今でも那津(なのつ)という地名が残っています。前述の漢委奴国王の金印が出土したのは博多湾沖にある志賀島で、このあたりが奴國と呼ばれていたことはほぼ確実だと考えられています。

 その後に続く『不彌(ふみ)國』と『投馬(とま)國』についてはよく分かりませんが、最後の『邪馬壹國』が『ヤマト』だとすれば、これはまさに大和への道程を記した文書だと考えられるわけです。


 ―――と、ここで「邪馬壹國がヤマトだとすれば」などとわざわざ断ったのは、実は国名に含まれる『壹』の文字は『壱』の古字であって『台』の古字『臺』ではないという指摘があるためです。もしそうならば邪馬壹國は『やまいこく』であって、大和とは無関係になってしまいます。これは特に畿内論者にとっては致命的な話になるのでいろいろ議論されている重要なポイントです。

表1 各國の比定地
国名比定地
狗邪韓國大韓民国釜山市周辺
対馬國長崎県対馬市
一大國長崎県壱岐市
末盧國佐賀県唐津市周辺
伊都國福岡県糸島市周辺
奴國福岡県福岡市周辺
不彌國不明
投馬國不明
邪馬壹國畿内大和地方?

 しかし本書の議論においては道程の方向や距離、国の戸数などの数値は重要ですが、国名がどう読まれようと関係ありません。従って今後は邪馬台国のことは『邪馬壹國』と記述してルビは振らないのでおくので、お好きな読み方で読んで下さい。


 さて、各国の名前の対応をまとめてみると右の表1のようになります。


 こうやってみると大筋において魏志倭人伝は、3世紀に大和朝廷が実在していたことを示しているように見えます。

 それならば不彌國や投馬國などの詳細不明な国も、福岡から大和へ行く途中にあるはずなのだから、道程をもう少し詳しく調べてみればその場所はすぐに判明すると考えられます。


 そこで記事にある方角や距離を元に邪馬壹國への“道程表”を作ってみることにしましょう。


◆距離の単位

 倭人伝の距離は途中までが“里”という単位で表されていますが、まずこれを現在の単位に変換する必要があります。

 当時の中国の“1里”の長さは“300歩”と決められていました。1歩の長さは約1.4mなので、1里の長さは約420mということになります。

 ただこれがそこまで厳密だったかどうかは分かりません。単位名が“歩”とあるように当時の距離計測の手段が歩測だったことは明らかです。実際、1.4mというのは普通の成人男性の複歩(歩測の際に2歩を1歩と数える方法)の1歩ととほぼ一致します。

 しかし歩幅というのは個人差があります。1.4mというのはやや身長が低めの人で、背が高ければ1.6mくらいまでは十分あるでしょう。従って1里という長さは元々そのぐらいの誤差は見込まれるということです。

 1歩が1.4~1.6mとすれば1里は420~480mですが、ここでは計算を楽にするためにもうすこし大雑把に1里は400~500mとしておきます。


 続いて倭人伝では途中から距離が里程ではなく日程表記になっています。

 そこでまたどうしてそんな記述になっているのか、また水行1日、陸行1日というのはどの程度の距離なのかを見積もる必要があります。


◆日程記述の理由

 倭人伝では途中まで、すなわち帯方郡から不彌國までの距離は里程で記述されていますが、不彌國から先は日程で記述されています。この理由についても古来より取りざたされてきたポイントなのですが、本書においてはその中で最もスタンダードな解釈をします。

 それは当時の日本には長さの絶対的な単位の概念がなく、距離を表すときは歩いて○○日、船で○○日、といったように時間で表していたということです。


 そのようなやり方は現在でもごく普通に行われています。日常生活においてはむしろそちらの方が便利だとも言えるでしょう。

 例えば電車に遅れずに乗りたいような場合「駅まで7分」と言われるのと「駅まで500m」と言われるのでは前者の方が圧倒的に親切です。メートル単位で言われてしまったら、まず自分の歩く速度を知っていて、その値で割り算をしないとかかる時間がわかりません。

 しかし歩く速度には個人差があります。それどころか場所が田舎だったので答えた人が「駅まで車で7分」のつもりだったとしたらもう目も当てられないことになります。

 従って記述に正確を期したい場合はもっと客観的な基準、すなわち絶対的な距離の尺度が必要になってきます。しかし当時の倭人はそういう点についてはまだまだ大らかだったのです。

 しかし大陸ではもうそんなわけにはいきませんでした。しっかりした国家が形成されていて、国土の開発を行ったり税金を徴収したりするためには、距離や面積についての厳密な定義が必要になってきます。


 さてここで引用文中の伊都國の部分を見直してもらうと、そこに「(帯方)郡使の往来(するとき)常に(とど)まる所なり」と書かれています。これは帯方郡からの役人は、伊都國まではやって来るけれどもその先にはあまり行かなかったことを示しています。

 郡使が何度も往来していたなら、その間の距離が何里になるかは見当がつくでしょう。また不彌國は伊都國からかなり近い場所なので、郡使の行動範囲内に入っていたのでしょう。

 しかしそこから先の、船で何日もかかる投馬國や邪馬壹國までは行ったことがなかったのです。だとすればそこまでの距離がどれだけになるかは現地人に聞くしかありませんが、彼らは何里かなどと聞かれても答えられなかったわけです。

 それを聞いた倭人伝記者も、実際にそれが何里になるか簡単には換算できませんでした。当時は歩測で距離を測っていましたが、使者が目的地に向かう際に歩数までをいちいち記録していたとは思えません。また海路となると舟の速度は一定ではなく、こうなると距離の計測はもっと難しいことになります。

 従って報告の正確を期するなら変に里程に換算するよりは、かかった時間をそのまま記述する方が誠実なやり方だったとも言えるわけです。


◆陸行1日の距離

 それではまず人が陸路を1日にどの程度移動できるかを見積もってみます。

 倭人伝にはそれに関する重要な記事があります。

その地には牛・馬・虎・豹・羊・(かささぎ)なし。

 すなわち当時の日本には牛や馬がいなかったということで、これは陸上を旅しようと思ったら自分の足で歩くしかなかったことを意味しています。

 従って陸行の速度とは歩く速度で、その速さは一般には時速4㎞程度です。

 そうすると1日何時間ぐらい歩けるかが問題になりますが、例えば江戸時代には東海道を江戸から京まで約2週間で歩いていました。ここから当時の人は1日に35~40㎞は歩いていて、時間に換算すれば1日約10時間になります。

 これは特に冬場などは日の出と共に歩きはじめて、日暮れまでずっと歩いている計算になりますが―――こんなことができたのは、江戸時代には街道や宿場町がきちんと整備されていて、日没ぎりぎりに旅籠に駆け込んでも食事や寝場所に困ることはなかったからです。


 弥生人であっても江戸時代の人間に体力で劣ることはなかったでしょう。しかしそんなインフラ整備を弥生時代に期待はできません。従って彼らが歩かねばならなかった道は江戸時代の街道と比較してはるかにお粗末な道だったはずです。


 当時は前述の通り牛馬がいなかったので、道路とは人が踏み分けてできた小径にすぎませんでした。あまり流行っていない山の登山道のようなものです。

 そんな道ではひとたび集落を離れると凹凸は激しく、足下の石ころや木の根っこに注意しながらゆっくり歩いていかないと転倒して怪我をしてしまいます。

 しかし前述の時速4㎞というのは、障害物のないところを前を見ながらすたすた歩いている速さです。足下を確認しながら一歩一歩歩いていたら速度はもっと遅くなるでしょう。すなわち実際には時速2~3㎞程度しか出せなかったわけです。


 弥生の旅にはそれ以外にも様々な困難が考えられます。

 まず、小さな川にも橋が無かった可能性があります。たとえ小川でも跨げないほどの広さがあれば大きな障害です。足を濡らすのは冬場は特に辛い物だし、石に苔がついて滑るかもしれません。

 大きな川ではもっと大変です。渡った後には確実に濡れた体を乾かさなければならなかったことでしょう。特に大きな川ならば渡し船があったかもしれませんが、そんな場所は限られていたでしょうし、渡し守が常駐している保証もなかったでしょう。

 また道標があったかどうかも分かりません。地元の人が山菜採りに行く経路の方が使用頻度が高く、街道筋よりはっきり道がついていたかもしれません。そんな場所を迷わず行こうとすれば、まず地元の案内人が必要だったでしょう。

 その上、寝る場所の確保も考えなければなりません。泊めてもらえる集落がなければ野宿することになります。そのためには最低限、水場と火を焚いて横になれる場所が必要になりますが、暗くなってから探すのでは手遅れです。従ってまだ早い時間でも良い場所があれば早めに旅を切り上げなければならなかったでしょう。

 持参の食糧が尽きてしまったら、食べ物の確保まで自前で行う必要が出てくるかもしれません。


 ―――と、このように当時の陸行では歩くこと以外に様々な困難があったとすれば江戸時代のように距離を稼ぐのは無理で、1日あたり大体15~25㎞程度だったのではないかと推察します。


◆水行1日の距離

 続いて水行1日の距離ですが、これはさらに難しい問題です。水行といっても大型船で玄界灘を越えている場合と、瀬戸内海や有明海のような波静かな水面を小舟で行く場合では話が違ってきます。

 しかしここで出てくる不彌國以降が日本国内であると考えれば主に後者の、沿岸航海に使われるような小さな舟であったと考えるのが自然でしょう。


 ではそんな小舟がどの程度の速度を出せたかですが―――まず現代の1人乗りのシーカヤックでは最大時速10㎞くらいは出せるそうです。もちろん今の船と当時の船を単純に比較はできませんが、船にかかる抵抗は水の摩擦抵抗が速度の2乗、造波抵抗が速度の3乗に比例すると言われています。そうすると逆に時速5㎞で漕いでいる場合は摩擦抵抗は1/4、造波抵抗は1/8となるわけです。

 だとすれば重くて効率の悪かった当時の船でもこのくらいの速度なら十分に出せたとも考えられるわけです。

 また漕ぎ手はプロの船頭で、しかも複数人が交替して漕いだと考えれば、時速4~6㎞くらいならば十分に可能だと考えられます。

 このぐらいの速度が出れば、1日6時間で24~36㎞進むことができます。8時間とすれば時速4㎞でも32㎞進めます。


 従って本書では水行1日では約25~35㎞進めると考えることにします。


 なお、最後にもう一点、これは水行でも陸行でもいえることですが、距離をこのように数えた場合、端数は切り上げになるということです。例えば水行する距離が40㎞だった場合は1日では行きつけませんが、2日目は半日もかからないでしょう。しかしこういった場合でも表示上は水行2日になるわけです。


吉野ヶ里にあった丸木舟のレプリカ
吉野ヶ里にあった丸木舟のレプリカ.JPG
道程後半の水行では多分このような小舟が使われた。。

◆現実とあわない邪馬壹國への道程

 さて以上より邪馬壹國への道程は次の表2のようになります。


表2 邪馬壹國への道程(原文準拠)
国名戸数経路の方角移動方法距離Km換算
帯方郡
乍南乍東水行7,000里2,800~3,500Km
狗邪韓國
渡海1,000里400~500Km
対馬國1,000戸
渡海1,000里400~500Km
一支國3,000戸
渡海1,000里400~500Km
末盧國4,000戸
東南陸行500里200~250Km
伊都國1,000戸
東南100里40~50Km
奴國20,000戸
100里40~50Km
不彌國1,000戸
水行20日500~700Km
投馬國50,000戸
水行
陸行
10日
1ヶ月
250~350Km
450~750Km
邪馬壹國70,000戸
  • 1里は400~500m
  • 水行日程の距離は一日25~35Kmと推定
  • 陸行日程の距離は一日15~25Kmと推定

図1-1 倭人伝記述をそのまま辿ると……

 ―――しかし、こうして里程や日程を㎞に換算してみると、少々不穏な気持ちになって来るでしょう。地理の時間はずっと寝て過ごしていたという人であっても、これは少しばかり数値が大きすぎると思うのではないでしょうか。


 実際、表2を元に何も考えずに線を引いてみると、右の図1-1のように邪馬壹國はフィリピンの東海上にある⁉ という結論になってしまうのです。前項の議論を読んでいればお分かりのとおり、里程・日程から㎞への換算にはかなりの誤差があるのは確かですが、この違いはもはやそれどころの話ではありません。

 もちろんここから、実は対馬國・一大国は九州本土・沖縄のことで、末盧國から不彌國までは台湾にあって、投馬國と邪馬壹國はフィリピンにあった! と結論できないこともありませんが―――本書ではさすがにそれはないと考えます(そういう本はすでに出てますし……)


 すなわち魏使倭人伝の道程記述は確実にどこかが間違っていて、それを額面通りに信じることはできないのです。

邪馬壹國比定地に関する各種の説

 邪馬壹國がフィリピンでないのなら一体どこなのでしょう?

 少なくとも魏志倭人伝が日本についての記述だとするのなら、それは日本国内のどこかになります。そしてその場所については江戸時代から様々な研究者が様々な説を出しています。

 それらを大別すると『畿内説』と『九州説』の二つになりますが、まずはそれについてざっと解説しておきます。


◆畿内説

 これは邪馬壹國は畿内、すなわち現在の京都、奈良、大阪近辺にあったと考える説です。この説を最初に出したのは江戸時代の新井白石です。白石自身は後に九州説に立場を変えますが、この畿内説は現在主流になっている考えです。

 その基本的な根拠は前章でも述べたとおり、邪馬壹國の国名『ヤマタイ』が『ヤマト』すなわち大和と酷似していることにあります。また倭人伝の時代は記紀(古事記・日本書紀)によれば神功皇后(じんぐうこうごう)の治世となり、卑弥呼=神功皇后と考えればまさに話が合うというわけです。

 現在の天皇家は初代の神武天皇から万世一系ということになっていますが、正直なところ第26代の継体天皇以前に関してはその実在が危ぶまれていました。

 神功皇后とは第15代の応神天皇の母后にあたり、邪馬壹國が畿内にあったのなら、まさに当時の大和朝廷の存在が中国の史書によって証明されることになるわけです。

 そこで邪馬壹國が畿内だったのなら、魏使はどういう経路を通って行ったのでしょうか。それを描いてみたのが下の図1-2です。


図1-2 畿内説のルート例

 これを表2の道程表と比較してみてどうでしょう?

 すごく大雑把には合ってないこともないようですが、正直あまりぴんとこないというのが普通の感想なのではないでしょうか。


 そこでまずフィリピン沖に向かう図1-1を思いだしてください。倭人伝の道程はまず基本的に南に向かっています。しかしどう見ても大和は九州の東であって南ではありません。

 また途中の経由国についても、九州島内の国についてはやたらに細かく記述しているのに、瀬戸内に入ってからが大雑把すぎます。途中に特記すべき地点は全くなかったのでしょうか? これでは広島の立場がありません。

 さらに九州から瀬戸内経由の海路ですが、いくら1,800年前だとはいえ30日もかかったでしょうか? 福岡から大阪までは大体450㎞とすれば、前述の水行1日が30㎞ならば半分の15日で着いてしまいます。

 同様に岡山から奈良までは約200㎞と東海道の半分以下ですが、こんな距離に1ヶ月もかかったのでしょうか?


 ―――などと次々に疑問点がわいてくることでしょう。そのうえ前節で述べた倭人伝の『邪馬壹國』は“邪馬台国”ではなく“邪馬壱国”であるといった指摘も加えれば畿内説で決まりとはとても言えません。

 本書の目的は他説の問題点を検証することにはないので、そんな様々な問題が出ていると指摘するだけにとどめますが、これらの多くは江戸時代からすでに言及されていることなのでした。


◆南部九州説

図1-3 南部九州説のルート例

 そんな畿内説に反論した最初の大物が本居宣長でした。彼は「不彌國から女王国の都までは南だと記されているのに、大和は東にある」と大和説を否定し、邪馬壹國の朝貢とは熊襲(くまそ)の類が勝手に天皇を騙ってやったことだと主張しました。ご存じのとおり熊襲とは九州南部を拠点として古代の大和朝廷に対して何度も叛乱を起こした一族です。

 九州の南部は山がちな地形ですが、えびの高原や人吉盆地などにはかなりの平地があります。また海岸の日向地方(宮崎)にも広い平野が広がり、有名な西都原古墳群などもあって、そこに大きな勢力が存在した可能性は否めません。また記紀神話でも高千穂が天孫降臨の舞台になるなど、出雲と並んで特別扱いされている場所です。


 そこで邪馬壹國が日向だとして、そこに向けての経路を図示してみたのが右の図1-3です。

 図には二通りのルートが記されていますが、これは日向へのコースが東まわりと西回りの2種類が提案されていたからです。


 まず東まわりルートですが、見れば確かにおおむね全体は南に向かっていて、その点だけは倭人伝の記述どおりですが―――要するに関門海峡から先が南に向かっているだけのことで、それ以外のところでは畿内説ルートと大差ないといったところでしょうか。

 西回りルートでは太宰府のあたりから水行が始まっています。確かにこのあたりを流れている筑後川の支流、宝満川はそこそこの水量があるので全く舟が使えなかったわけではないと思いますが、そもそもそんな場合を水行と言うかどうかが疑問です。

 また行った先で九州内陸を横断したりしていますが、それだったらやはり東まわりで行った方がいいのでは? などとこちらもやはりあまりぴんときません。


◆北部九州説

 九州説には南部だけでなく九州の北部だという説もあります。

 北部九州説に関しては明治時代の白鳥庫吉(しらとりくらきち)が有名です。

 彼は倭人伝の行程中の「(帯方)郡より女王國に至ること萬二千余里」という記述に注目します。

 表2の道程表を見てもらえば分かりますが、帯方郡から狗邪韓國までが7,000里、そこから末盧國までが3,000里、合わせて10,000里です。また末盧國から不彌國までは700里、総計が10,700里とすると残りが1,200里になります。


 この“1,200里”という距離ですが、これは実際に正しいと考えられている末盧國(唐津)から不彌國(福岡付近)までの距離“700里”の2倍弱でしかありません。唐津~福岡間の距離は約45㎞。そうすると「邪馬壹國は福岡近辺から80㎞前後の位置にある」ということになるわけです。

 この計算が正しければ大和にはどうやっても行きつけません。従って邪馬壹國は九州内で、しかも九州の北部になければならないと彼は主張しました。


 そうして白鳥庫吉が邪馬壹國に比定したのは肥後国菊池郡山門(やまと)(現在の熊本県山鹿市付近)ですが、ここはまさに福岡から80㎞。内陸ですが菊池川河畔に豊かな平野が広がっていて、地名もまさに“ヤマト”です。しかも後には方保田東原(かとうだひがしばる)遺跡という大型の弥生遺跡も出てきて邪馬壹國の候補地としては十分と言える場所です。

 しかし彼のこの「道程の細かいことはさておき全体の距離に注目」という立場の場合、距離さえ合っていれば北部九州のどこと言ってもOKということになってしまいます。


図1-4 北部九州説比定地例

 そこで北部九州説の有名どころの比定地を示したのが右の図1-4です。

 この道程図には不彌國から先の線がありませんが、なぜならそこから各地に向かって“南に1ヶ月水行”しなければならないわけで、正直どうやったらいいかよく分からなかったからです。

 北部九州説に関してはこの“まともに線が引けない”というところが最大のウィークポイントになってしまうでしょうか。

 また不彌國から邪馬壹國まで日数が30日(解釈によっては60日)かかるわけですが、わずか80㎞を行くのにそんなにかかるなど、常識的には考えられません。

 しかも図にあるように人によって場所がまちまちで、畿内論者からはまず九州説論者の間で話をつけたらどうだと言われてしまうなど、この説も決定論にはなり得ませんでした。


◆放射説

図1-5 放射説ルート例

 さて戦後すぐに榎一雄(えのきかずお)が独特の解釈を発表します。それは倭人伝の道程記事の書き方が伊都國の前後で変わっていることに注目した物でした。

 というのは、帯方郡から伊都國までの道程記事は例えば「南に一海を渡ること千余里(中略)一大國に至る」というようにまず方位を記述し、続いて距離、最後に国名という順に書かれています。

 それに対して伊都國より後になると「東南、奴國に至る、百里」というように、方位、国名、最後に距離という書き方に変わっています。

 そこで彼は伊都國までは通常の連続した道筋記述ですが、それより後については伊都國を起点として右の図1-5のように放射型に周囲の国を記した物であるとしました。

 実際伊都國については「(帯方)郡使の往来(するとき)常に(とど)まる所なり」と特記されていて、そういうことがあってもおかしくないのかもしれません。


 しかしやはりそれで論争が決着したわけではなく、むしろますます混迷を深めていると言うべきだとは思いますが……。


本章のまとめ

 ―――と、ここまで非常に大雑把に畿内説と九州説について述べてきました。そしてこのほかにも邪馬壹國の場所は出雲や沖縄、四国やフィリピン、ユダヤ、そしてもちろんムー大陸など百花繚乱状態です。筆者はそれらを全て読んだわけではないので欠けていたり勘違いもあるでしょうが、いずれにしても一つ確実に言えることは、どの説も他者を納得させられるだけの説得力に欠けているということでしょう。


 もしこの中でどれか一つを選べといわれたら畿内説が一番無難なのかもしれません。

 しかし選挙をしているのならともかく、邪馬壹國の位置という歴史的事実を消去法で決めるべきではありません。

 そもそもなぜ邪馬壹國論争に決着がつかないのかといえば、ひとえに提示されたルートに説得力がないからです。どう見ても強引としか言いようのない経路を示されてここが邪馬壹國だと主張されても―――例えば大和の方角が違うと言われれば、出発点の道が南を向いていたからだとか、たった80㎞を1ヶ月もかからないだろうと言われれば、魏使は道行く先で歓待を受けたので村が現れるたびに宿泊していたからだ、などと答えられても―――納得できるはずがありません。

 かくして邪馬壹國の場所については、それが近畿か九州かといった大局的なレベルでさえも統一された結論は出ていないのが実情なのです。


 21世紀に入って数百年もの論争に疲労困憊したのか、魏志倭人伝の記述は本質的に矛盾しているのだからそれを元に邪馬壹國の位置を議論すること自体に意味がない、といった風潮も現れてきました。

 しかし、それを認めるということは邪馬壹國の存在その物を疑わなければならないということです。三国志という中国の正史にそんな夢物語が書かれていたのでしょうか?


 もちろん筆者はわざわざこうして手間をかけて原稿を書いている以上、そういった立場に与するものではありません。

 そしてその倭人伝の謎を解くカギが次章で述べる『一律数値誇張仮説』なのです。