京都と奈良の境になる当尾の丘陵地帯。奈良の都から見て山の背にあたることから山城と云われ、その南端に位置する。奈良時代末期から平安時代初期にかけ、政治と結びついて世俗化した南都六宗を厭い、ここ南山城に小堂を建て、やがて寺となっていった。浄瑠璃寺や岩船寺を始めとした多くの寺院が並び塔が林立する様子から「塔の尾根」と呼ばれたことから「当尾」になったとか。念仏行者の修行道場だったこの地では、彼らが祈りを託した石仏群が至る所に残っている。 |
岩船寺(がんせんじ)の沿革
真言律宗 高雄山 岩舟寺
729年(天平元) 聖武天皇の祈願で行基が一宇を建立
806年(大同元) 空海の甥 智泉大徳が報恩院を開山
813年(弘仁4) 堂宇建立に伴い岩船寺と号す
最盛期には広大な境内に三十九の坊舎があったが、1221年(承久3)の承久の変によって大半が焼失し荒廃。
江戸時代に徳川家の寄進で修造された。
かって、大きな伽藍を誇っていた岩船寺だが、今では静かで落ち着いた山寺の感じだ。本堂の中は薄暗い。中央に本尊の阿弥陀如来像は946年(天慶9)の作と云われ、周囲を鎌倉時代作の四天王像が祀られている。
小高い丘には、朱色の三重塔が建っている。丁度、化粧直しが終わった時だったので、鮮やかさが引き立っている。まるでつい最近建立したかのようで、色あせた寂びた姿をイメージしている者にとっては、化粧前を見てみたいと思うのも我侭なのであろう。
当尾には、数多くの石仏が点在している。鎌倉時代から室町時代の石仏群は、確認されているものだけで約百体。その多くは、鎌倉時代初期奈良の東大寺再興のため来日した、南宋の石工とその子孫が築いたと云われている。