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天龍寺

仏教が日本に初めて伝えられたのは、百済から欽明天皇時代の538年10月13日だと云われている。その後、仏教の扱いは、政治的なものがあり、蘇我氏が中国との友好関係を保つために国粋派の物部氏を退け採用した。その後、推古天皇の即位に伴う聖徳太子が皇太子となると敬虔な仏教徒となり、四天王寺や法隆寺を建立し、仏教が国教となった。以来、聖武天皇による東大寺の建立など仏教研究も盛んに行われるようになった。しかし、奈良仏教も腐敗堕落や玄肪や道鏡などが政治的野心を持ったがための失脚など、戒律の乱れが生じていた。こうした背景もあり、794年(延暦13)に京都・平城京への遷都が行われ、最澄や空海による新たな教えが広められ、一般大衆への広がりも見えるようになった。当時の人々の最大関心事は、病気とか死であり、古代からの神道ではこの腫の問題解決が出来ず、僧侶による読経や祈祷が受け入れられるようになった。又、日本古来の神道との合体が図られた「本地垂迹説」も現れた。しかし、空海や最澄の教えは、朝廷や貴族、学者、僧侶といった人々の関心事にしか過ぎず、一般大衆から浮き上がった存在であった。
平安後期から末法思想は、頃の貴族達に浄土の世界への願望を高めていったという。それが、阿弥陀仏への信仰であり、西方浄土への願いとして阿弥陀如来を祀るお寺を創建するという流れになった。この末法思想は、仏陀の教えを三段階のフェーズに分け、「正法」、「像法」、「末法」と区切り、「正法」は、釈尊が入滅後500年或いは1000年間の間は、正しい教えが行われ、証果があるという。次の「像法」は、正法の後500年又は1000年の間は、教法は存在するが、真実の修行が行われず、証果を得るものがないという。そして、「末法」は、像法の後の一万年の間、仏の教えがすたれ、修行するものも悟りを得る事も無くなり、教法のみが残ると云われ、この「末法」時代が、1052年(永承7)に始まると信じられていた。
絶大な権力を手中にし栄華をきわめていた藤原道長も自らが建てた法成寺の阿弥陀堂に横たわり、九対の阿弥陀如来像の手に結んだ糸を握ったまま、死出の旅路についたという。このような来世への願いと現世の生活といいた両面から、東方の浄瑠璃浄土の薬師如来と西方の極楽浄土の阿弥陀如来を祀る伽藍配置が多くあったという。しかし、こうした伽藍配置も残余するものは少なく、京都では浄瑠璃寺のみだろう。そして、西方の極楽浄土を表したという平等院が、末法思想に対する思いが見える。そして、この末法時代から新たな鎌倉仏教の誕生へと進んでいく。

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平等院

平安の時代、宇治は貴族達の別荘が数多くあったという。琵琶湖から流れ出した瀬田川の流れが宇治川と名前を変える。その宇治川の辺に多くの堂宇が建立されたという。そんな堂宇のなかで今の世にも伝えられてきたのが、平等院である。かっての壮大な伽藍は残っていないなか、鳳凰堂が創建当時の姿を残している。この伽藍の創建は、当時隆盛を極めていた藤原道長の息子関白藤原頼道であった。父道長が没した62歳を迎える前年の61歳で、父の別荘跡に建てられた極楽浄土の世界、それは、関白といえども持つ死後への不安を少しでも和らげようとした極楽往生を願う思いであったのであろうか。しかし、それは 自らの為であり、国家や民衆といった次元がないように感じられる。それでも、今こうして平安貴族の優雅さを単純に感じ楽しめるのも矛盾しているが。
鳳凰堂。伝説の瑞鳥の姿に似ているという伽藍の全容が、阿字池の対岸から見ることができる。そして、正面上部の小窓から、本尊の阿弥陀如来の顔を拝顔できるという心憎いほどの演出がなされている。この阿弥陀如来像は、仏師定朝の晩年の作といわれ、その頭上には豪華な天蓋がある。堂内部の周囲の扉、板壁の絵を始め、柱、壁、天井にも華やかな模様が描かれていたという。今でも、その名残りを見る事が出来るが、かえって時代の流れによって趣きを感じる事が出来る。又、雲中供養菩薩像が、長押上で雲に乗り、歌ったり、踊ったり、楽器を奏でたりした姿は、何とも優雅だ。これらの雲中供養菩薩像は、鳳翔館で身近に観れるようになった。

平等院の沿革
 1052年(永承7)  藤原頼道により創建
 1053年(天喜元) 鳳凰堂完成
 1336年(建武3)  楠・足利の戦いで大半の伽藍焼失

浄瑠璃寺

京都府の南端である相楽郡加茂町に浄瑠璃寺がある。この辺りは、当尾(とおの)の丘陵地帯の一角で、鄙びた感じで迎えてくれるようだ。浄瑠璃寺へは、JR関西線加茂駅からバスで約20分と、街中とは離れた静かな場所にある。寺前には、お決まりの土産物などを扱う店少なくもなく、浄瑠璃寺への細い参道が続く。さすが此処まで来ると参詣客も少なく、静かな田園の中を歩く感じとなる。京都の古寺に来ているという感じではない。
山門を潜ると正面に苑池が広がり、左手(東側)に薬師如来を祀る三重塔、右手(西側)に九対の阿弥陀如来を祀る阿弥陀堂が建つ。まづ三重塔に向かう。塔内に薬師如来が祀られていて、訪ねた日が丁度8日であり、開扉されていた。振り返ると、苑池の向こう側(彼岸)に阿弥陀堂が静かに建っている。今居る所が、此岸。薬師仏は、東方浄土の教主で現実の苦悩を救い、西方浄土へ送り出す遺送仏といわれる。一方、阿弥陀仏は、西方未来の理想郷である極楽浄土へ迎えてくれる来迎仏である。薬師に遺送され、彼岸の阿弥陀仏に迎えられ西方浄土の世界に至ることを端的に示す配置になっている。
かっては、浄瑠璃寺のように、東側に薬師仏、西側に阿弥陀仏を祀り、その間を此岸と彼岸の境を示す苑池を配置する寺院も街内にも数多くあったという。しかし、今ではこうした伽藍構成をしているのは、ここ浄瑠璃寺以外にはあまり見られないという。
苑池を巡り、阿弥陀堂に向かう。池の南側は、直ぐに木々が生い茂る。そんな中、少しだけ足を踏み入れると「まむし注意」の表示がある。大きくもない境内だが、そんな表示を見るのも、ここ浄瑠璃寺の場所というものを感じさせてくれる。
阿弥陀堂の堂内に入ると、九対の阿弥陀如来像に圧倒されてしまう。九対仏は、教典「観無量寿経」に記された、九品往生によって造られたもので、人は現世の行いによって上品往生から下品往生までの九つの段階に分けられ、どの段階で現世を終えたかで、往生の仕方や浄土の有り様が異なると説かれている。この九対仏は全国三十三寺で造られたが、現存するのは浄瑠璃寺のみだ。しかし、この浄瑠璃寺は、上流貴族などの頃の名家が創建されたものではないのも興味がある。地方の小さな権力者だったとも云われる。それだけ末法の考えが、広く知れっていたこと、そして、西方浄土への極楽浄土への世界への憧れが如何に強いものであったかを知る事ができる。人の持つ弱さ、死への不安、そして死後の世界への思いは、平安の時代から現代まで変わらずにきているものと思う。
堂内には、吉祥天立像も祀られているが、この日は開扉されておらず、拝顔することは出来なかった。
春秋の彼岸の中日には、三重塔の後ろから昇った太陽が、阿弥陀堂の真後ろに沈むそうだ。そんな中日に、日の出から日没までを薬師仏と阿弥陀仏と共に過ごせれば己の浄化が出来るかもしれないと思いつつ、浄瑠璃寺を後のした。

浄瑠璃寺の沿革
 真言律宗 小田原山 浄瑠璃寺
 諸説あるようだが、寺伝によれば、
 1047年(永承2)  義明上人が一堂を建立(本尊薬師如来)
 1107年(嘉承2)  九対阿弥陀堂造
 1178年(治承2)  三重塔を移築
 1212年(建暦2)  吉祥天像造

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