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天龍寺

琵琶湖を源に発した瀬田川が、京都と滋賀の山間を通り、宇治川となり、流れの急な川となる。源の瀬田川とは、まるで趣きが異なる。そんな宇治は、奈良から京の都への出入り口としての重要拠点だけでなく、古来から風光明媚な地として、都人は宇治に多くの別業(別荘)を造ったと云われる。そんな宇治はいつ頃からか「憂し」という言葉が重なり、雅な中にも憂愁を湛えた場所としてしられるようなった。そんな世界が、源氏物語の「宇治十帖」などの世界で語られているが、既に飛鳥時代の歌人 柿本人麻呂が、「もののふの 八十(やそ)宇治川の網代木に いさよう波の 行方しらず」と既に宇治川を詠んでいる。そんな宇治川も平家に対して決起した源頼政軍との戦い、そして平家軍を京の都から追い出した木曽義仲軍と源義経軍との戦いなど、京の入り口という戦略拠点であるが故の歴史もある。
宇治へは、京阪線かJR奈良線によって、行くことができる。初めて訪れたのは、未だ暑さが残る九月中旬であった。京阪線の宇治駅からすぐに、初めて宇治橋の上から瀬田川の流れを見た時、あの琵琶湖から流れ出た川とは思えない激しさを感じたものだった。橋のたもとには。「お通」というお茶屋がある。吉川栄治の「宮本武蔵」のお通が休んだ所からきているという。小説の世界と現実の世界が妙にマッチしてしまうのも宇治だからこそだろうか。宇治は、お茶の産地でも有名な所で、足利義満によって「宇治七茗園」として御用茶園が作られて以来、宇治は時の権力者たちが喫する抹茶を作り続けてきた一方、庶民が飲む煎茶の製法を確立もした。徳川時代の御茶壷道中は有名だ。
そんな宇治は、いつの季節に訪れても、遠い昔に思いを馳せられる所だ。   →平等院

宇治上神社

平安中期に平等院が建立された後、藤原氏の庇護の下で、鎮守社として大いに栄えたが、今はひっそりとたたづんでいる。本殿は、平安時代後期の建造で、一間社流造の小さな内殿が三棟並び(左殿は、莬道稚郎子(うじのわきいらつこ)、中殿は、応神天皇、右殿は、仁徳天皇を祀る)これが一つの覆屋でつながれた特異な様式になっている日本最古の社殿建築。本殿の前に建つ拝殿は、鎌倉時代だが、平安時代の住宅建築様式を取り入れた寝殿造り風の建物で、その優美な姿から、宇治離宮の遺構とも伝えられる。

宇治橋と宇治川

宇治市営の茶室「対鳳庵」

三室戸寺

三室戸寺の沿革
 本山修験宋
 770~781(宝亀年間) 光仁天皇が、現在地の約1km西に流れる志津川上流の山中に開いた寺が起こり
 室町時代に全山焼失し、現在地に再興
 1573年(天正元)  織田信長により焼かれる
 江戸時代になり、本堂、鐘楼などが再建

京阪線宇治駅の手前の三室戸駅から、宇治川とは反対の山方向に歩いていくと三室戸寺がある。つつじや紫陽花などの咲く「花の寺」で有名である。梅雨の6月下旬に紫陽花を見にいった。山懐に抱かれるように、赤い山門から、急勾配の参道が続いている。創建当初は、御室戸寺であった三室戸寺の謂れは、光仁・花山・白河三帝の御室であったからとも。そんな、いわれのある寺も、足利義昭に加勢し、織田信長と争ったことにより、伽藍が焼き払われたという。
参道の右手には、紫陽花が咲き誇る「与楽苑」の庭園が広がり、梅雨空の下で鮮やかな色を見せている。石段を登り、本堂、三重塔、鐘楼などの伽藍が並ぶ。本尊は、千手観音で秘仏とのことだが、西国三十三所観音霊場の十番目となる。

三室戸寺の紫陽花

県神社

県神社(あがたじんじゃ)という名前も珍しい神社。平等院の南門から西へ100mのところにある小さな神社だが、大和朝廷の直轄地であった宇治県(あがた)の守護神であったという。祭神である木花開耶姫(このはなのさくやひめのみこと)の神話にちなみ、良縁・安産の神として信仰をあつめ、藤原道綱母も、「蜻蛉日記」に記されているとのこと。

橋寺(放生院)

宇治橋の東端からすこし南に歩くと、橋寺がある。さほど高くない石段を登ると、小さな境内が広がる。流れの速い宇治川では、しばしば橋が流失され、そのための再建工事で死んだ馬や乱獲された魚類の霊を慰めるために盛大な放生会を開いたのが、橋寺であり、いつしか「宇治橋の守り寺」として呼ばれるようになった。

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