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半年振りに京都を訪ねた。10月末ということで紅葉には、未だ早いもののその雰囲気が感じられればと思い栂ノ尾・高雄に行くことにした。実に7年ぶりとなる。97年11月に阪急嵐山駅におり嵯峨野散策のつもりで下車したものを、駅前に高雄行きのバスがあり、そのまま乗り込んでしまった。その頃は 未だ京都の地理も不案内で、嵐山高雄パークウェイなる道があることも知らなかった。この時は、高雄から栂ノ尾に向け散策したが、今回は、京都駅からJRバスの周山行きで栂ノ尾まで行き、高雄へ向けて散策することにした。

清滝川を渡ったバス停栂ノ尾を降りる。数軒の御茶屋が開いていた。未だ昼食にも間があるので、横目にしながら高山寺への参道を急ぐ。
雨はやんだものの、雲が垂れ込み薄暗い雰囲気だ。

しばらく登ると、高山寺の門が眼に入る。

高山寺(こうざんじ)
開創:774年(宝亀5) 光仁天皇
沿革:鎌倉時代、明恵上人が中興開祖。
    1206(建永元年)後鳥羽上皇の勅額「日出先照高山之寺」(ひいでてまずてらすこうざんのてら)により高山寺と称した。


 

塔頭の石水院(国宝)の内部。
石水院の広縁には、何気なく善財童子が安置されている。しかし、高山寺を有名にしているのが、「鳥獣戯画」である。今は、実物は東京・京都の国立博物館にあり、石水院には、その摸本がガラスケースのなかに陳列されている。曇空のもと、そのままでは鑑賞できず懐中電灯を借りる。

石水院の南側広縁から外を見る。ひんやりとした空気で、座って見るには至らなかった。未だ紅葉には早く昨日の雨のせいかモヤが立ちこんでいる。
西広縁側庭園光景。紅葉の時期に来たいものだ。

石水院を出て、金堂に向かう。森の中を歩いているような感じとなる。軽いハイキング感覚で登っていくと深い木々の中に金堂が現れる。金堂前から階段を降りる。こちらが、表参道。今回は、逆の順序で参拝だった。
表参道を降り、周山街道に出て清滝川を渡る。高雄錦水亭があり昼食と思ったが、予約客で不可と断れる。食事は、しばらく我慢し、西明寺へ向かうことにする。

西明寺の入り口には、清滝川に赤い橋(指月橋)がかかっている。清滝川沿いに紅葉を始めた木々も見える。

70段以上の石段を登ると山門、山門をくぐると小さな境内表面に本堂がある。石灯籠が印象的だ。

西明寺(さいみょうじ)
沿革:824〜34(天長年間)に空海の弟子智泉により神護寺別院として創建され、その後荒廃したが、1602(慶長7)に、明忍により再興される。現在の建物は桂昌院(徳川 綱吉の生母)の寄進と云われている。本尊は、釈迦如来像。


暗い本堂の中で、懐中電灯を借用し、釈迦如来像を拝顔。なんとも優しいお顔であった。

ここで、桂昌院の名前を聞くとは思わなかった。洛西 善峰寺も再興したと云われている。

西明寺を後にして、裏参道を下り、再び清滝川を渡り、神護寺に向かう。10月末の平日とあって、茶屋などの店は閉まっている。行き交う人も少ない静かな川沿いを下る。

j神護寺の入り口に到着。ここから、約350段の石段を登る。冷えた体も汗ばんでくる。途中で茶屋も空いている。腹ごしらえは、帰りとしよう。やっと山門が見えてきた。

山門をくぐると広々とした境内が広がる。

神護寺(じんごじ)
沿革:824年(天長元年)に高雄山寺と和気清麻呂が建立した河内の神願寺と合併した。
現在の諸堂は、大師堂を除き、応仁の乱で焼失し江戸時代以降の再建。


最初に神護寺に呼ばれたのは最澄だった。最澄は、ここで日本で初めて灌頂(頭に水を注ぎ仏位を授ける儀式)を行った。しかし、その後809年(大同4)に空海が入山し、真言密教の拠点となる。

さらに石段を登ると金堂になる。昭和10年に京都の豪商山口玄洞によって寄進・再建された。
本尊は、薬師如来像だが、近くから拝顔できない。神護寺と云えば、源頼朝の像画が有名だが、これは、神護寺復興に力を注いでいた文覚が伊豆に流され、そこで頼朝に出会い、その後の歴史の変遷から神護寺復興に源頼朝の支援を得たという。そんな縁がこの像画を残した背景だろうか。

金堂前から、毘沙門堂を見る。未だ紅葉していない中で、少し色づき始めたかえでが印象的だ。

地蔵堂前広場から、錦雲渓方向。ここから、厄除けを願いながら、素焼きの陶器を投げる「かわら投げ」の名所。このかわら 無事 清滝川までたどり着けば願いがかなうとも云われるが、これは結構大変だ。

左下は、桃山時代の再建といわれる大師堂。
そして、毘沙門堂。

期待した紅葉は、未だ早かったが、7年振りに訪れた栂ノ尾・高雄は、静かなひと時を過ごさせてくれた。次は紅葉真っ盛りの時期にきたいものだが、人の多さにうんざりするかもしれない。

栂ノ尾・高雄