別設定のお遊び話6

沼の底にて新たな道が

 

千尋の手に、一粒の薬が握られている。

 

沼の底の銭婆の家は、相もかわらずの素朴さで、しかし、

しっかり地に足がついた力強さと暖かさを感じさせてくれる。

怖い魔女と言い聞かされて、それでも、はくを助けたい一心で訪れた

あの時と、それは、寸分も変わっていなくて。

白い壁に藁葺き屋根の農家。

この世界で、湯婆婆と張り合うことができる

ただひとりの、強力な魔力を有する魔女の住い。

それなのに、その日常には魔法の欠片も感じることはないのだ。

「魔法でやったら、なんにもならないからね。」

そう言って、家事全般はもちろん、日々の食材の用意や

衣服を作るための布地作りまで、ほとんどを

自力で賄い、自給自足の暮らしをおくっている。

千尋が暮らす、トンネルの向こうの人間社会もほんの

数十年前までは、この銭婆と似たような生活を

送っていたものが、大半であったのだから、それは、

どの世界に生きるものであっても本来あるべき、

ごく自然な生き方なのかもしれない。

もっとも、今となっては、それこそ天変地異でも起こって、

文明とよばれるものが機能しなくならないかぎり、

そんな生きかたにもどることはできないだろうが。

この銭婆は、魔法を使いさえすれば、それこそ、

人間が今おくっている以上の便利で機能的で

楽な暮らしができるだろう。

しかし、銭婆の選択は、そうではなく。

魔女でありながら、魔法をひけらかさない。

それでいながら、すべてのことに通じていて、

求める者には、助言を惜しまない。

そこには、見得も損得も無く、出来ないことは

出来ないといいながら、やるべき事の道は示してくれる。

少なくとも、千尋が見知ったあの僅かな時間、

銭婆はそういう人だったのだ。

千尋は、だからこそ、銭婆に会いたかったのかもしれない。

何を求めているのかは、自分でもわかってはいないまま・・・

はくが、なぜ銭婆の元へ誘ってくれたのかも理解しないまま・・・

 

千尋の手に銭婆から渡された、一粒の薬が握られている。

 

「はく竜ちょうどよかった。お前に伝言がきているよ。

どうやら、魔法の依頼らしい。ほら、さっさと行って来な。

千尋の相手はあたしがしているから。」

琥珀が部屋に入ろうとしたとたんの言葉にきょとんと

振り向くと、しかめっ面の琥珀が銭婆を睨でいて、

しかし、そんな龍の怒りなどどこ吹く風とでもいうように

受け流した銭婆は、さらに追い討ちをかける。

「働かざる者喰うべからず。この世界の一番の理はお前さんも承知のはずだろ。」

全身で千尋の側にいたいと訴えていた琥珀を蹴りだす勢いで追い出すと、

銭婆は厚い木の扉をバタンと閉め、ゆっくりと振り返った。

 

「千尋。」

「銭婆おばあちゃん、あのわたし・・・」

俯いて言葉につまった千尋を優しく抱き寄せると銭婆は悲しそうに微笑んだ。

「あのばか者は、お前に断りもなくお前を花嫁にしてしまったようだね。」

はっと顔をあげた千尋を、その大きな胸に抱き寄せ

椅子に導くと、暖かい飲み物を差し出す。

「お飲み。落ち着くから。」

あの時と同じく素朴ながら心のこもった手作りの菓子が机に並び、暖かく

薫り高い紅茶が供せられる。銭婆は、カップを持ったままの千尋をじっと見つめる。

そうして、深いため息を吐いた。

「戻ってから健やかに育ってきたようだね。美しくなったこと。」

「ほえっ?やだ、おばあちゃん、そんなこといわれたの

初めてだよ。わたし、全然美人じゃないし。」

銭婆の言葉に顔をあげてびっくり眼で答えた千尋の魂の輝きは、

6年前のあのときとまるで変わらなく、成長するにつれて、本来持っている

輝きが次第に曇り澱んでいく人間の中にあっては、たしかに稀有な存在なのだろう。

はく竜といい、かおなしといい、神崩れであるもののけたちが欲しくて欲しくて

躍起になったのも無理はない。別れ際、はく竜に鱗を仕込まれ龍神のしるしを

身に帯びてしまったこの娘を守るためにあの竜のもつ神としての力を使って、

(奪って?)懸命に守ってきたのに・・・

修行が完成したとたん、あの竜がしたのはこの娘を力でもって娶ることだった。

・・・わかってはいることだったけど、裏切られた気分だねぇ。

銭婆は、心の中で、一番弟子で、かつ、すでに自身を

凌駕するほどの魔力を帯びてしまった竜をののしる。

なぜなら、今、このときの千尋のオーラは

悲しみと戸惑いの色に染まっているのだから。

 

ぜっんぜん美人じゃないし、などとぶつぶつ

言いつづけている千尋をみながら銭婆は考え込む。

さて、どうしたものか・・・

6年の間見守ってきたこの少女を、今更、不幸せのままにしておく気はない。

しかし、幸福とは、与えられるものではなく、自分のその手で掴まなくては意味がないのだ。

銭婆は年経た魔女の経験から、一つの答えを導き出した。

琥珀が奪った選択の機会。

それを与えられた時、この娘はどのような道を選ぶだろう。

それは、ある意味この娘にとっても一種の賭け。琥珀が自身の幸福のため

危険な道を選んだように、この娘も自身の幸福に至る道は自分で選ぶべきなのだ。

銭婆は、千尋に問う。

「千尋。お前さんははく竜のことをどう思っているんだね。」

千尋の瞳が揺らぎ、その視線が宙をさまよう。

し〜んとした沈黙が続く中、身じろぎもしなくなっていた千尋の耳に、銭婆がカップを

ソーサーにおく音が響いた。その音で、ようやく視線を銭婆にむけた千尋は

自身の思いをつっかえつっかえ話し出す。

 

会いたいけれど、会いたくない。

好きだけれど、好きじゃない。

嫌いだけれど、嫌いじゃない。

受け入れたいけれど・・・・

拒否してしまいたいけれど・・・・

相反する己の思いに自分の中が混乱していて。

その複雑な思いを一言でなど話せなくて。

はくは優しいけれど、はくが怖いの。

こんな想いをわたしにさせる

はくが憎くて憎くて、そうして愛しくてたまらない。

 

ぽろぽろと流す涙は見ているほうも切なくて。しかし、銭婆は静かに言った。

「なにもかも、遡れば、お前さんがしたことの報いなのだよ。」

「え?」

銭婆の言葉に千尋は目を見開く。

 

あの竜が優しいと言い切ったのはお前。

湯婆婆の手先になって闇の汚辱に塗れていた

あの竜を助けたかったのもお前。

あの時、あの竜が事切れるままにしておかず、

命を与えたのはお前だろう。

 

そう、あの時この娘はすでに一つの選択をしているのだ。

「あ・・・」

「後悔しているかい?」

「まさか・・・」

千尋は強く首を振る。あんなめに会わされても、

はくを助けたことを後悔したことなど一度もない。

同じことがあったら、なんどでも繰り返すだろう。

「だったら、仕方がないね。」

銭婆は微笑む。

「自分がしたことの責任をとらなくては。」

「責任?」

千尋の眉が寄せられる。

「あの竜の本性をお前も知らなくてはならないよ。あれが、優しいばかりの

存在ではない、ということはお前さん自身も思い知っただろう?」

 

『あいつ、湯婆婆にやばいことやらされているんだって。』

『あんなやつ、二人もいたら堪んないぜ。』

『この竜はね、わたしのハンコを盗んだ泥棒竜だよ。』

『・・・そのうち目つきはきつくなるし笑わなくなるし・・・』

 

リンさんも銭婆おばあちゃんも釜爺さんも、この世界に迷い込んだ

わたしにとって手を差し伸べ、道を示してくれた大切な人たちで、

そんな人たちの言うことなのに、わたしは信じなかった。

信じられなかった。

信じたのは、何よりも信じたのは・・・・・

はく、あなただった。

そうして、そうして、裏切られたはずの今も・・・

 

「違う。あの怖い人がはくの本性のはずない。」

叫ぶように言った千尋自身も、自分の言葉に唖然とする。

そんな千尋に、銭婆は、頷いて、そうして静かに確かめた。

「・・・それが、お前の選択、かい?」

 

千尋の手に、千尋自身が道を決める、

そのための、一粒の薬が握られている。

 

銭婆は、2つの選択肢を千尋に与えた。

お菓子が片付けられた机の上に並んだのは、

短剣と一粒の薬。

銭婆はもう一度問う。

命を助け、純潔を奪われたお前にはこの短剣を使う権利がある。

しかし、あの竜の命を奪う、それ以外の選択をするというのならば

お前にこの薬を与えよう。欲しいのならば、ね。

この薬は、すべてを無に返す薬。

これを飲めば、お前の中から今度こそほんとうに

ありうべからざる記憶が失われる。この世界のことも、琥珀のことも、

わたしのことも。そうして、お前の体はリセットされる。

体に刻まれた竜の印しも、魂に刻まれた竜の印しも

すべて消え、生まれたままのなんの印しも帯び

ていない素の体に戻ることができる。

「そんな薬があるの?」

起きたことを無くする薬?すべてを忘れてなかったことにしてしまう薬?

「そうだよ。」

銭婆は頷く。

この魔法は、いかなはく竜でも破ることは出来ない。

なぜなら、これは理の薬なのだから。

意に染まぬ神隠しにあった人間に最後に与えられる恩寵なのだから。

 

「いずれにしても、はく竜と契ったお前は、

時がくればこの世界につれてこられる約束になっている。」

千尋は、ぎくっと体を強張らせた。

『高校を卒業して式を挙げたら、すべてを許し琥珀の妻となる。』

そんなお前の言霊は記録され、違えることは許されない。

このまま時を過ごしていけば、お前の運命は

お前の気持ちに関わり無く定まってしまうだろう。

「銭婆おばあちゃん、わたし・・・」

「お選び。力でもって選択する道を奪われたお前に、わたしからできる贈り物だよ。」

先にお守りの髪留めをあげたように。

 

そうして、千尋は選んだのだ。

 

千尋のその手の中にある一粒の薬。

薬を飲むことを選択するのか、飲まないことを選ぶのか。

その自由を手にいれて、千尋は、いままで張っていた気が緩むのを実感した。

はくを許して妻になるか、はくを許さないまま妻になるのか、

いずれにしても妻になる道しか示されていなかったこの先に、二つの道がみえたのだ。

はくを許し、はくを愛し、はくとともに生きる道と、

恐ろしいはくも、千尋が好きな優しいはくも、

すべてのはくを忘れて、一人の人間として生きる道と。

千尋は、手の中の薬をそっと摘むと、父に入学のお祝いに買ってもらった

銀のロケットの中に入る。ハート型のその中に、薬はぴったりと納まって、

千尋は微笑んで、そのロケットを首から下げた。

 

そうして、千尋は微笑みながら顔をあげ、一つの願いを口にした。

「はくのことを知りたい。今のままではどちらも選べないから。

このまま、はくの行動に流されるのはいや。

はくがわたしをあんなめにあわせたのは、わたしが命を助けた

その報いだというのなら、わたしがしたことの意味を見極めたいの。」

だから・・・

千尋は銭婆に向って頭を下げる。

「銭婆おばあちゃん、夏休みの間、おばあちゃんの

おうちでお世話になりたいの。わたしにできることをして

働くから、アルバイトとして使ってください。」

こちらの世界、はくが属するこの世界での、はくを知りたいの。

「・・・契約を交わさなければならないよ。」

銭婆は、千尋の瞳を覗き込み、ここについたときとは全く異なる光を見つける。

それは、自分の道を定めた時に見せる、この娘が持つ強く輝く光で。

 

そうして、千尋は銭婆と契約を交わしたのだった。

 

 

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千尋さん、本領発揮。

素っ頓狂な行動はさすがです。