別設定のお遊び話8

その眼(まなこ)を

 

「千尋、お使いを頼まれておくれ。」

まだ、この世界の存在というわけではない千尋は

琥珀が刻んだ印と銭婆との契約でのみ守られている

不安定な存在で、それはある意味、この世界に

うろついている影たちの依り代となるべき格好の餌でもある。

しかし、この娘の背後に控えている、最強の魔法使いである

2人の存在を知らない者もこの世界にはいないはずで。

銭婆は、一つ頷くと電車の切符を渡す。

帰りは必要ならばわたしの名をお呼び。

そう言って銭婆は千尋を琥珀のテリトリーである

遠い町まで送り出したのだ。

 

沼の底から4つ目の、5本の柳が立っているその駅で

一端降りた後、戻りの電車が来るのを待ってそれに乗る。

そうして3つ戻った駅が、琥珀の住いのある町だ。

いいかい、必ず戻りの電車に乗るんだよ。同じ駅で停まるようでも

こちらから向う電車では決して行き着くことは出来ないのだから。

「・・・結局、沼の底の次の駅ということなの?」

「いいや、沼の底から7つ目の駅なのさ。」

「?」

「よいから、言われたとおり間違えないようにね。」

 

千尋は、懐かしい海原電鉄の赤いシートに座って窓の外を眺める。

そうして一つ目の駅をよく観察した。駅員さんもいないような、

油屋から沼の底にくるまでにあった駅と同じように何も無い、

フラットフォームが長く伸びているだけの駅。

この駅まで戻ってくればいいのね。

そうして、千尋はじっと辛抱強く駅の数を数えていった。

 

戻ってきた駅は一つ目で見た駅とは全く異なったものだった。

釜爺が行きっぱなしだと言ったとおり、戻りの電車は

元の駅に戻るわけではないらしい。

変なの。

千尋は肩を竦めて、周りを見回す。

ここは、どうやら油屋があった不思議の町よりも大きな町らしく。

今はまだ、夕方前で人通りもまばらなその町は昭和30年代の

古きよき日本にあった田舎の都会といった風情で、雑多な

小さい店と、大きなビルのような建物が並んで建っている。

もっとも、人間である千尋には一つ一つの店が何を商っているのか

その外見や看板からはいまいち理解できなかったが。

千尋はメイン街らしいとおりをてくてく歩く。ときおり

すれ違う黒い影のようなものは千尋に対してその存在さえ

気付かないかのようにすっと通り過ぎていって、しかし、しばらく

行ってからふっと立ち止まり千尋の背中をふり返って見ている。

どこか違和感を覚えたかのように揺らめきながら立ち止まっている

影は千尋の姿が視界から消えるまでそこに立ち尽くしている。

中にはふらふらと千尋についてこようという影もあったが

一定の距離以上に近付くことは出来ず、やがて諦めたかのように

消えていく。そんな周囲の様子に、つゆとも気付かず、千尋は

はくの家があるという町外れまで銭婆に書いてもらった

地図を頼りに、たどりたどり歩いていった。

時間にして一時間も歩かなかっただろう。

次第に建物の数がまばらになり、其処彼処に小さな林や

田畑が見えてきて、直ぐにその家はあった。

一見すると普通の平屋の民家のようで、しかし鄙びた周囲からは

白く塗られた壁と赤いかわら屋根の家はその新しさも加わって

目立っている。真新しい木の垣根に囲まれた小さな庭は

まだ手付かずなようで雑草が伸び放題伸びているが、草を掻き分ける

ようにして作ったような一筋の小道が玄関に向って続いていた。

「はく、のおうち?」

緑に塗られた木のドアには、竜を逆さにかたどったような

不思議な紋章が彫られていて、これが、はくの魔法使いと

しての目印らしい。千尋は、小さく息を呑むと

ドアをノックした。しばらく待っても、なんの反応もなく

千尋は、どうしようかと躊躇う。もう一度、今度は

先ほどより強く叩くがやっぱりドアの内は静まり返ったままで。

どうやら、留守らしい。

千尋は、困惑したかのように眉を寄せると小さくため息を吐いた。

「ん、どうしようかな。」

子どもの使いじゃあるまいし、このまま帰るというのも

なんかいや。せっかく、来たのだし。

千尋は、しばらく考えると、家の周りをぐるりとまわり始めた。

白い壁に手をついてゆっくりゆっくり家の周りをたどっていく。

「わぁ。」

思わず感嘆の声がでたのは裏庭を見つけた時で、

こちら側は、表と異なり手入れされている芝生の中に

小さな花壇があり、涼しげな陰を落している大きな木が中心に

立っていて、その下には、木のテーブルと椅子が据えられ

居心地良さそうなこじんまりとした空間となっていたのだ。

庭の外側は小さな森で、そこからはきれいな小川が

流れ出していて、それは、庭の片隅を通って、はるか先、

朧に見える林の方まで続いている。

そんな、童話に出てきそうな庭にしばらく見とれていた千尋は

はくが戻るまでこの庭で待つことにしたのだ。

 

ふと顔をあげたのは、何かの気配を感じたからだった。

千尋はいつの間にか庭のテーブルに突っ伏して

寝入っていた自分に気付く。周囲はすでに薄暗く、空を見上げると

夕空の茜色が、深い藍色に変わりつつあり、星の輝きがちらほらと

見えていて。別名、逢魔が時と呼ばれる時間帯。

千尋は、何かに促されるまま、立ち上がるとほんのわずか白く浮き

上がって見える家の壁に添って声のするほうに歩き出した。

 

『・・・・・』

『・・・・・・・・・』

『・・・・・・・』

低くしかし辺りに響き渡るような声がなにかをたえず

言いつづけている。家の角を曲がったとたんはっきりとしてきた

エコーがかかっているようなその声の言っている内容は

千尋には判別はできなかったが、その声の纏う

雰囲気から、千尋は足が震えるのを抑えることが出来なかった。

すでに暗くなっている垣根の向こうの道に何か黒い固まりが

蠢いている。その中心に僅かに光を放っているような白い影

が立っていて、千尋にはすぐにはくだということがわかった。

瞬間、動けなくなったのははくの周囲にいるものが、いつか

見たことのあるものたちだったからで、千尋は目を大きく見開く。

あれは、たしか・・・はくが落された湯婆婆の部屋にあった穴の底

に蠢いていたものに似ている。なんでこんなところに・・・

と、考える間もなく次の瞬間それははくの身体に覆い被さるように

一斉に襲い掛かってきて、千尋は思わず悲鳴をあげていた。

躊躇った時間があったとしてもそれは、半瞬にも満たないもの

だっただろう。千尋は考えるよりも先にはくのもとに駆け出す。

いやっ、いやっ、はく!!

『千尋!来るなっ!』

それがはくの声だと気がついたのは、黒いものに向って手を伸ばした

瞬間で、次に気付いたときは千尋ははくの腕の中にいた。

身動きもとれない程強く抱きしめられている顔をなんとか横に向けると

周囲は歩一歩の距離を空けて、黒く蠢くものたちに囲まれていて

絶え間なく伸びてくる黒い手は何かにはじかれるように

その距離を突き抜けてくることはできない。

「千尋、動くなっ!」

厳しい声は普段聞いたことの無いもので、しかし、千尋はこの声の

響きを一回聞いている。そのことに気付いた瞬間、千尋は

はくの腕の中で震えだした。

「帰れ。お前達にあれを渡すわけには行かない。」

『お・ま・え・ご・と・く・う』

「懲りないというのならば、今度こそ存在を消す。」

『よ・こ・せ』

『く・う』

「だめだ。お前達には奪えない。諦めて帰れ。」

はくが何かをしたのだろう。周囲の空間がもう一歩分空く。が、

蠢く影はしかし、その気配を緩めることはなく、それどころか

その影をいっそう濃くしたようだ。ざわっとした気配が一瞬静まった後、

千尋は粘つくような視線が自分の背中に張り付くのを感じる。

『・・・・・・』

『に・ん・げ・ん・・・・』

『に・ん・げ・ん・い・る』

『な・ま・み・か・ら・だ』

『む・こ・う・い・く』

『そ・れ・よ・こ・せ』

『い・ん・い・ら・な・い・に・ん・げ・ん・ほ・し・い』

存在に今気付いたかのように歓喜迸るかのような声が一斉に

まるで襲い掛かってくるかのように千尋の耳を覆った。

思わず目をつぶり目の前の白い布に顔を埋める。

・・・・・・・

固く張った背中は、しかしいつまでたっても異変を感じることは

なかった。粘つくような気配が、次の瞬間には消え去っていて。

気が付いたときには、大きく肩を上下させているはくの腕の中で

周囲は、まるで先ほどまであった黒い影が夢幻(ゆめまぼろし)だった

かのように優しい暗闇と虫の声に包まれていて、千尋ははっと上を向く。

・・・・夢ではなかった。

激しい息遣いをしながら厳しい眼差しを一点に

据えているはくの瞳は赤く光っている。

ひっ。

思わず息を呑み硬直してしまった千尋を無視するかのように

その腕を放すと、琥珀はそれに向ってゆっくりと歩を進める。

はくが向った先には、小さく凝(こご)ったかのような黒い塊があって。

千尋ははくの動きをその大きく見開いた瞳で追うことしかできなかった。

「・・・それで、千尋に何をしたいと?」

楽しそうに、それは楽しそうな声音がはくの姿をしたものから

聞こえてくる。語尾にくすくす笑いが続いているのは

空耳ではないようで、返事もまたず黒い塊を手に

握りこんだ琥珀はその赤い目を黒い影に近づけていった。

『・・・・・・』

囀(さえず)るような小さな声が何を言っているか千尋の耳には

判断できなかったが、対するはくの言葉に千尋は息を呑んだ。

「ふふ、許せるわけ無いだろう。さあ、どんな風に消えたい?

このまま、握りつぶしてやってもいいけど、それではつまらないな。」

「ああ、いいことがあるよ。かおなしが声を欲しがっていた。

あれに取り込んでもらおうか。聞きづらい声だけれどね。」

出てきた名前にはっと心付いた千尋は思わずその唇を動かす。

「・・・はく?」

小さな、瞬(まばた)きほどの小さな声だったのに、琥珀は聞き逃さなかった。

赤い瞳のまま千尋のほうに身体ごと向き直ると、琥珀はふっと笑む。

千尋は、その顔にますます固まって・・・

「やっぱりやめた。お前などに構う暇がもったいない。」

千尋から手の中の塊に視線を戻すと、その笑みを浮かべたまま

まるで息をするような自然な動作でその手を握りこんだのだ。

そうして、そのまま体にそって下ろされた手の中にはすでに何もなく

琥珀はまるで何ごともなかったように千尋に向って歩を進める。

がくがくと振るえている千尋の足は地面に張り付いたように

動かず、ただ琥珀が近付いてくるのを目で追うばかりで。

次第に大きくなるその姿が、手で触れることにできる寸前で

唐突に、琥珀は歩みを止めたのだ。

「千尋?」

首を傾けながら千尋の顔を覗き込んでくる瞳は赤いままで、しかし、

その表情は千尋が見慣れている優しい琥珀そのものに変わっていた。

「千尋?怖いの?」

がくがくと震える千尋に少しだけ表情を歪めると、

赤い瞳の琥珀はそっと微笑む。その笑みは先ほどのものとは

全く異なっていたけれど、千尋は体の震えを抑えることが出来なかった。

「すまない。そなたの許し無くばそなたに触れないと約束したのに。」

「だけれど、そなたがいけないのだ。あのような闇の眷属の中に

飛び込もうとするのだもの。そなたを守るためには仕方がなかった。」

だから、許して欲しい。

何も言わず固まっている千尋に、赤い瞳のはくは

浅いため息をつくとその目蓋を伏せる。

「すまないね。この瞳はしばらくは消せないのだ。陰魔法を使ったから。

いやだろうけど、我慢ついでにもう一度、そなたに触れることを許して欲しい。」

家の中に入ろう。

幼子に言い聞かせるかのように言われた内容を頭で理解するより早く、

千尋は目蓋を伏せたままの琥珀に抱き上げられていたのだった。

 

 

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