cinema / 『スキャナー・ダークリー』

『cinema』トップページに戻る
『light as a feather』トップページに戻る


スキャナー・ダークリー
原題:“A Scanner Darkly” / 原作:フィリップ・K・ディック(ハヤカワ文庫SF・刊) / 監督・脚色:リチャード・リンクレイター / 製作:アン・ウォーカー=マクベイ、トミー・パロッタ、パーマー・ウエスト、ジョナ・スミス、アーウィン・ストフ / 撮影:シェーン・F・ケリー / 美術:ブルース・カーティス / 編集:サンドラ・アテア,A.C.E. / 音楽:グレイアム・レイノルズ / 出演:キアヌ・リーヴス、ロバート・ダウニーJr.、ウディ・ハレルソン、ウィノナ・ライダー、ロリー・コクレン / 配給:Warner Bros.
2006年アメリカ作品 / 上映時間:1時間40分 / 日本語字幕:野口尊子
2006年12月09日日本公開
公式サイト : http://www.scanner-darkly.jp/
シネセゾン渋谷にて初見(2006/12/14)

[粗筋]
 いまから7年後の未来、アメリカ、カリフォルニア州オレンジ群。街の様々な場所に仕掛けられた監視カメラによって、一般市民の犯罪の兆候が秒刻みで警察に送り届けられる時代に、“物質D”と呼ばれる麻薬が蔓延していた。カプセル剤の形で流通し、手頃な価格で気軽に入手できる“物質D”は、常用者を確実に破滅に導くと言われている。
 出所を探るために、保安官事務所では囮捜査官を街に放っていた。事務所での勤務中はスクランブル・スーツという高度な技術を用いた迷彩服を纏い、街ではジャンキーのなかに紛れて潜伏、監視カメラと並行して彼らの動向に目を光らせている。
 ロバート・アークター(キアヌ・リーヴス)もまた、フレッドという暗号名を持たされた捜査官のひとりであった。アークターとして、雑学マニアで誇大妄想狂の気があるジム・バリス(ロバート・ダウニーJr.)、脳天気なアーニー・ラックマン(ウディ・ハレルソン)と同居し、身辺に無数の虫が徘徊していると言っては飼い犬もろとも洗い続けるチャールズ・フレック(ロリー・コクレン)と交流がある。しかし、彼らのあいだに溶け込むために“物質D”を常用し続けた結果、アークターの脳は着実に薬毒に侵蝕されつつあった。
 そんななか、上司であるハンクから、ある人物を重点的に監視するよう命令が下された。匿名の情報提供があり、その人物が何らかの組織と繋がっている可能性があるのだという。その監視対象とは――ロバート・アークター。
 ジャンキーの密告は出任せが多い、と指摘するフレッドだったが、事務所では万一の可能性を鑑みて重点的に監視を行うよう彼を促した。アークターの住居に監視カメラを仕掛け、住人たちを含む動向を見守り、組織との繋がりを示唆する行動などをチェックすること。
 疑惑を抱かれるようなことは何もない、と思いながら、自分で自分を監視し、それに気づかないふりを貫かねばならない緊張感は、“物質D”の濫用によって混濁しつつあったアークターを急速に追い詰めていく――

[感想]
 生前は不遇を託っていたが、死の直前に製作が開始された『ブレードランナー』を契機に急速に評価を高め、現在までに多くの作品が映像化、今後も企画が用意されているという、いまや伝説的な存在となったSF作家のフィリップ・K・ディックであるが、愛読者にとって満足のいく形での映像化はあまりない。いずれもそれぞれの監督の個性が色濃く脚色に影響していたり、娯楽映画の文法に収めるために大幅な改竄が施され、原作にある哲学的なイメージ、沈鬱な後味などが殺されてしまうことが多かった。例外的に成功していたのが『クローン』だが、これは原作が短編であり、基本的な流れとクライマックスがきちんとなぞれていた以外はオリジナルの要素で飾ることで完成させている。
 そう考えてみると、本編は奇蹟のような作品と言えよう。原作は長篇、しかもディック自身の経験が多く反映された内省的な物語であり、その描写はドラッグ中毒者ならではの酩酊感に富んでいる。およそヴィジュアル化が不可能に近い内容であるにも拘わらず、ほぼ満足のいくクオリティにまで再現されているのだから。
 そのために用いられた表現手法は、いちど本物の俳優を使って撮影した実写映像をもとに、それらを1コマ1コマトレースして、アニメ風に着色していく、というものである。本編の監督リチャード・リンクレイターが2001年に製作、好評を博した『ウェイキング・ライフ』でいちど採用した手法であり、その成功が監督をして本編の映像化を促したものだと思われる。
ウェイキング・ライフ』で使われていたような、場面によって人物像がサイケデリックに変容したり、テーブルで交わしている会話につれて人物の姿が空に浮かぶ雲に変わる――といった過剰な趣向は本編にはない。無名の俳優を中心に起用していたあちらに対し、本編は主演がキアヌ・リーヴスに共演もウィノナ・ライダー、ロバート・ダウニーJr.と顔の売れた俳優がメインに揃っている。そのためにあまり行き過ぎた趣向を作画に凝らせない、という事情もあっただろうが、あまり随所に奇天烈な映像を盛り込んでいては、作品本来のアイディアが殺されてしまう可能性もあったと考えられる。
 たとえば、主人公アクターが保安官事務所に赴いて上司と話をしたりモニターを確認しているとき、或いは冒頭のように麻薬捜査官として話をするときに着用する最先端の迷彩服スクランブル・スーツの表現である。あれはただ単に実写に合成しただけでは、技術によってはそうとう陳腐に映る危険があったが、作品全体のベースをアニメに統一することで、この特異なアイテムをごく自然に表現することに成功している。
 終盤における、アークターの捜査官というアイデンティティーとジャンキーとしての生き方が混濁していくさまを表現するうえでも、この実写を下敷きにしたアニメーションという表現手法が活きている。非日常がごく自然なかたちで物語に混入していき、違和感として次第に膨張していって、最後にはアークターを喰らうさまがスタイリッシュに、しかし悪夢的なトーンで再現されているのだ。実写を意図的にアニメーションに変換することで、現実から乖離していくような、麻薬中毒者の感覚をも体現していることにも注目していただきたい。
 もとが知性的な映画作りを得意とするリンクレイター監督だけあって、脚色も巧みだ。原作通りとは言い条、長篇の尺を僅か100分程度に収められるはずもなく、必然的に取捨選択が求められる。人によっては大幅な改変を施すこともあり、故に小説などの映画化はオリジナルの愛好家から期待されないのが常だった。だが本編はその取捨選択が絶妙で、原作の大枠のアイディアを殺すことなく、過剰な要素は削り、必要なものは残し、更には原作に欠けていた伏線の補強まで施して、終盤における映像ならではのサプライズを演出しながら、印象深いラストシーンも完璧なかたちで再現している。
 如何せん物語が全篇ジャンキーの妄想をそのまま映像化したような代物であるうえ、小説ならば地の文で行われる解説も排除し、しばし意図的に謎掛けをそのまま投げ出している箇所もあるので、受け身で鑑賞しているとひたすら困惑するだけ、という可能性もあり、迂闊に誰しもに薦めることは出来ない。しかし、それ自体意欲的であった『ウェイキング・ライフ』の手法を更に押し進め、映画としてのテーマ性をも深化させた本編は、原作ファンが安心して鑑賞でき、しかもかなり屈折した映画ファンをも唸らせる、やはり驚異的な傑作であると言えよう。

(2006/12/14)


『cinema』トップページに戻る
『light as a feather』トップページに戻る