cinema / 『バベル』

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バベル
原題:“Babel” / 監督・製作・原案:アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ / 脚本・原案:ギジェルモ・アリアガ / 製作:ジョン・キリク、スティーヴ・ゴリン / 共同製作:アン・ルアーク / 撮影監督:ロドリゴ・プリエト,A.S.C.,A.M.C. / 美術:ブリジッド・プロシュ / 編集:スティーヴン・ミリオン / 衣装:マイケル・ウィルキンソン / 音楽:グスターボ・サンタオラヤ / キャスティング:フランシーヌ・メイスラー、奈良橋陽子 / 出演:ブラッド・ピット、ケイト・ブランシェット、ガエル・ガルシア・ベルナル、役所広司、アドリアナ・バラッザ、菊地凜子、エル・ファニング、二階堂智、ネイサン・ギャンブル、ブブケ・アイト・エル・カイド、サイード・タルカーニ、モハメド・アクサム、ムスタファ・ラシディ、アブデルカデール・バラ、マイケル・ペーニャ / アノニマス・コンテント製作 / 配給:GAGA Communications
2006年メキシコ作品 / 上映時間:2時間23分 / 日本語字幕:松浦美奈
2007年04月28日日本公開
公式サイト : http://babel.gyao.jp/
TOHOシネマズ六本木ヒルズにて初見(2007/04/28)

[粗筋]
 モロッコの広原で放牧を営むアブドゥラ(ムスタファ・ラシディ)がライフルを購入したのは、ヤギの張り番をさせている息子ふたり、アフメッド(サイード・タルカーニ)とユセフ(ブブケ・アイト・エル・カイド)に持たせ、近頃ヤギを狙っているコヨーテを退治させるためだった。3キロメートル先まで狙える、というライフルの効果を疑う兄アフメッドに対し、弟ユセフは腕が悪いからだ、と言ってきかない。見晴らしのいい山頂から、まずアフメッドが乗用車に向けて発砲するが、反応はなかった。続いてユセフが、遥か彼方のバスに向かって引き金を引く。しばらくは問題なく走っていたバスに「ほらな」と得心顔をしていたアフメッドだったが、間もなく停車する姿に、悪寒を覚える。果たして数時間後、町から戻ってきたアブドゥラは、アメリカから訪れた観光客が銃撃され、テロの噂が立っていると伝えたのだった――
 リチャード(ブラッド・ピット)とスーザン(ケイト・ブランシェット)の夫婦は、子供達を昔から雇っている乳母アメリア(アドリアナ・バラッザ)に預け、モロッコを旅していた。不幸な出来事が原因で妻とのあいだに生じた溝を埋めるためにリチャードの提案した旅だったが、スーザンはとうてい楽しむことなど出来ず、ストレスを溜めこんでいる。そして、バスに乗って広原を移動しているさなか、まったく予期しないときに事件は起きた。突如として飛び込んできた銃弾が、スーザンの首筋を貫いたのである。リチャードはバスを止めさせ、懸命に傷口を押さえるが出血は止まらない。同乗者に医師は存在せず、行くにも戻るにも病院のある集落は遠い。仕方なく、ここから近いという添乗員(モハメド・アクサム)の村に赴き、応急処置を施すことにする。銃撃の噂は瞬く間に世界中に伝わり、折りからの不穏な国際情勢を背景に、テロの可能性も詮議されるようになっていく。そのことが、スーザンの治療に大きな影響を及ぼす――
 舞台は変わって、東京。聾唖の高校生・チエコ(菊地凜子)は苛立ちを募らせていた。数ヶ月前に不幸な出来事で母を喪って以来、父ヤスジロー(役所広司)に対する反発が強まっている。反動のように、或いは年頃なりの好奇心と周囲からの突き上げもあって性への関心を強め、刺激的な服装を選び下着を穿かずに人前に出るような真似を繰り返すチエコだったが、耳が聞こえないため手話でしか会話が出来ず、奇妙な声を上げる彼女を男達はまるで化け物のような眼で見、余計にチエコの苛立ちを煽るのだった。そんな彼女の自宅に、ふたりの刑事が現れる。数ヶ月前の事件についてまた蒸し返すのか、とうんざりする一方、刑事のひとり・ケンジ(二階堂智)の風貌が好みのタイプであったことに、密かに胸をときめかせるのだった――
 アメリアは焦っていた。旅に出た雇い主の子供ふたりの面倒を見ていたが、出先で不幸があり、親たちが帰る目処は当面立ちそうもない。折悪しく、アメリアにとって大切な日が近づいてた。郷里メキシコに残してきた息子が華燭の典を挙げるのである。雇い主はそれを承知していたため、出先から電話で、仲介者に頼んで別の人を寄越すよう話してあると言ってくれたが、しかし仲介者からは他に人がいない、と言われてしまう。困窮した挙句、アメリアは預かる子供ふたり、マイク(ネイサン・ギャンブル)とデビー(エル・ファニング)のふたりを一緒に連れて行くことにした。気懸かりは運転手代わりの甥サンチャゴ(ガエル・ガルシア・ベルナル)の軽薄な言動であったが、もはや時間はない。わが子の待つメキシコへと、アメリアは急いだ――
 ――そうして、モロッコで放たれた一発の銃弾は、思わぬかたちで各所に波紋を齎していった――

[感想]
『アモーレス・ペロス』『21グラム』の2本で国際的に評価を高めつつあったアレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ監督が、実に四ヶ国に跨って撮影を実施した大作である。
 イニャリトゥ監督――というより前出2作とトミー・リー・ジョーンズ監督による『メルキアデス・エストラーダの3度の埋葬』の脚本を手懸けたギジェルモ・アリアガのスタイルなのかも知れないが、いずれも時系列や視点をシャッフルし、自在に物語を繰り広げていく点に特色があり、本編はその趣向をいっそう深め複雑さを増している。
 但し、一般に多視点やこうした構成に工夫を凝らした作品にあるような、結末で複数のエピソードが合流し意外性を演出したり観客に対して隠していた関係性を暴き出す類の作品ではない。銃撃事件、という世界的に流布した情報がBGMのように随所で鳴り響くが、別の国に存在する登場人物同士がじかに接することは基本的になく、物語は視点それぞれで別に完結する。
 だが、それらが1本の映画の中できちんと結びついているのは、きっかけが共通しているという事実にばかり因っているのではない。すべての物語は、たとえ家族であっても理解し合えない想いや感情が齎す、或いはこよなく愛しているとしても社会的な制約からいつか引き裂かれてしまう、そういった愛にまつわる悲劇を描いている。文化は異なっていたとしても、確実に共通する関係性を軸に、同じ文脈で語りうる様々な悲運を、多くの視点を用いることによって重層的に描いた作品だからなのだ。
 そうして観ていくと、本編にあまり奇矯な人物が登場しないことは大きなポイントとなっているのが解るはずだ。平均的な人物像を踏襲している、或いは舞台となる土地の文化的な常識を押さえて考えれば浮かんでくる標準的な人物ばかりが中心となっている。それ故の驚異的なリアリティ、ごく自然に世界に溶け込み違和感を与えない、地に足の着いた造型が見事だ。癖のある役を好んで選ぶブラッド・ピットも、本編においては普通の、生活は安定していても妻とのあいだに生じた溝に悩む中年男として、見事に作品のなかに埋没している。
 唯一、得意な存在感を示しているのが、ハリウッド初進出ながらも本編の演技が高く評価され、アカデミー助演女優賞候補にも挙げられた菊地凜子が演じる、聾唖の女子高生である。同じ枠内に存在しながら異文化・異言語が交わるために生まれる交流不全、という大きなテーマのなかに組み込まれているものの、標準的な人物像、という要素から彼女だけが突出している。聾唖という設定自体は決して特殊とは言わないが、性への憧れをああも露骨に示し、意図的に悪びれてみせるキャラクターというのは決して尋常ではないだろう。
 作中、自ら「本物の化け物を見せてやるよ」という物言いをするくらいだが、この言葉はしかし、彼女自身がその特異さを認識していることを証明している。認識しているからこそ、彼女の行動にはどうしようもない焦りと、かつての悲しい出来事によって軋んだ心が滲み、強い印象を齎しながらも物語に浸透している。難役であることは間違いなく、なるほど高い評価を得るわけだ、と頷ける。
 ただ、彼女と同時に注目して欲しいのは、アメリカ人夫婦の子供を預かる乳母を演じたアドリアナ・バラッザである。アメリカとメキシコの中間点に存在する人物像として決して特異な部分はないのだが、それ故に、たった一つの安易な判断によって悲劇を招いてしまう人物を生々しく、切々と演じたその巧さが光っている。最後に見せる涙は、菊地凜子演じる少女よりも普遍的で、また観る側の共感を集めるはずだ。菊地凜子と共にアカデミー助演女優賞候補に挙がったため、票を食い合ったような印象を与えたが、しかしノミネートは納得の演技である。
 前述の通り、本編で描かれる幾つもの物語は、決して最後に結びつかない。寧ろ散らばって、それぞれの悲しみのうちに決着を見る。だが、その底流にある主題は、散り散りであるからこそ明瞭であり、散り散りであるが故にすべての登場人物のみならず、観客でさえも結びつけてしまう大きさを感じさせる。話が結びつかない、映画全体としての結論を出していないことで本編に芳しくない評価を与える人もあるだろうけれど、しかしそんな人の心にもきっと何かの芽を植え付けているだろう。そこから何を育てるのかは、人それぞれだ。
 そんな豊かなメッセージ性を宿した、本当に優秀な映画である。――ただ、それ故に受け身ではなく、積極的に物語を捉え解釈しようとする意識がないと、何も浮かび上がってくるものがない危険も大きいため、大作扱いされて大規模公開されるのが相応しかったのかは少々疑問に思える。『21グラム』にしてもそうだったが、本来ミニシアターで長期的に上映されるほうが相応しい作品だったのではなかろうか。無論、大々的に宣伝が打たれ、全国的にロードショーされた方が、それだけ多くの人の目に留まるわけだから、作品本来の意図には適っているのだけれど。難しいところか。
 いずれにせよ、私自身は充分な大傑作と評価する。アカデミー賞では、作曲部門のみしか受賞に至らなかったものの、単純に作品としてのクオリティを問うならば、『ディパーテッド』よりも上だったとさえ言い切りたい。

(2007/05/02)


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