cinema / 『弓』

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英題:“The Bow” / 監督・脚本・製作・編集:キム・ギドク / 製作総指揮:鈴木径男、池田史昭 / 製作補:カン・ヨング / 撮影監督:チャン・ソンベク / 美術:キム・ヒョンジュ / 音響:チャン・ヒョンス / 装置:チョン・ソル・アート / 衣装:キム・キュンミ / メイクアップ:キム・ギソン / ライン・プロデューサー:チャン・ソクビン / 音楽:カン・ウンイル / 出演:チョン・ソンファン、ハン・ヨルム、ソ・ジソク、チョン・グクァン / 配給:東京テアトル、Happinet Pictures
2005年韓国作品 / 上映時間:1時間30分 / 日本語字幕:全雪鈴
2006年09月09日日本公開
公式サイト : http://www.yumi-movie.net/
Bunkamura LE CINEMAにて初見(2006/10/16)

[粗筋]
 沖合に碇泊した船で暮らし、日ごとに訪れる釣り客を受け入れ収入としている老人(チョン・ソンファン)がいる。その漁船にはもうひとり、同居人が存在した。その少女(ハン・ヨルム)は10年前、7歳のころに老人がどこからともなく連れてきたのだという。以後、ずっとこの漁船が彼女の世界のすべてだった。
 老人にはいま、楽しみにしていることがある。間もなく少女は17歳を迎える。その日、老人は彼女を妻として娶るつもりだった。カレンダーの運命の日に印を付け、一日一日が過ぎていくごとに潰していき、晴れの日が近づくのを心待ちにしていた。日頃から客に対しても無愛想な老人は少女にだけ笑顔を見せ、彼女に色目を使う者は客であっても許さず、威嚇のために矢を放つ。少女もまた、そんな老人とのあいだに信頼関係を結び、危険な方法による“弓占い”に進んで手を貸すのだった。
 ある日、釣り客として企業のお偉方(チョン・グクァン)とその息子の青年(ソ・ジソク)が訪れた。少女は青年が音楽を聴いていたヘッドフォンと携帯オーディオに興味を示す。他の客のように厭らしく触れてくるでもなく、快くヘッドフォンを貸してくれた彼に、少女は好感を抱いた。だが、老人にとっては他の客と大した違いはない。親しげにするふたりに割り込む老人に、少女は初めて不快の表情を向ける。
 明くる日、船で帰る間際に青年は、ヘッドフォンと携帯オーディオを少女に譲る。少女は初めて得た“おもちゃ”に心を躍らせ、いつまでも流れてくる音楽に耳を傾けていた。それ故に、老人が客を陸に送り、戻ってきたことに気づかなかった。老人は憤り、少女の耳からヘッドフォンをむしり取って床に投げつける。少女が老人を見る眼差しに、暗い怒りが宿るようになったのは、このときからだった。
 少女は老人に対して、冷淡な態度を取るようになる。土産として持ち帰った首飾りを引きちぎり、挑発するように客の肩へとしなだれかかり。緊迫するあいだも、老人はカレンダーの日付を潰し続けた。
 やがて時を経て、青年がふたたび漁船を訪れた。初めて快い親しみを与えてくれた青年に、少女は弾けるような笑みを向け、歓待する。だが老人の嫉妬はいよいよ燃えさかり、仲睦まじくするふたりに向かって矢を放つのだった。対する少女も、老人に対して憎悪の目を向けるようになる……

[感想]
 キム・ギドク監督の作品は一種、“甘美な毒”のような特性が備わっている。受け付けない者はどうしても受け付けられないが、いったん嵌ってしまえば中毒に近い感覚を齎す。しかも低予算、短期間での撮影をモットーとする彼は実にコンスタントに新作を供給し、質までも安定しているので、いったん観始めるとなかなか抜け出せない。
 彼の作風の特色は、剥き出しの暴力と残虐な描写に、アジアの空気を濃密に湛えた官能性と、もともと絵画を学んでいた彼ならではの美しい映像、そして90分前後に収められた手頃な尺あたりが挙げられる。最新作である本編も、こうした基本をまったく外していない。
 そもそも、前提となる状況そのものに犯罪の影がそよいでいるのも、近年のキム・ギドク作品の特色と言えよう。『サマリア』では売春を、『うつせみ』では不法侵入を導入にし、本編ではまず拉致監禁という出来事が大前提にある。
 しかし本編における、被害者であるはずの少女は、老人に対して憎悪を示すどころか、全幅の信頼を抱いているのが序盤の数十分程度でひしひしと伝わってくる。無垢で神秘的な笑みを終始老人に対して向け、“弓占い”のために海へと吊したブランコを揺りながら、自分に向かって矢を放つ老人の姿に不安を微塵も覗かせない。だが、発端からのそうした描写の強度が、後半での歪みを既に預言しているようで、怖気を誘う。
 この常軌を逸した信頼関係に動揺を齎す青年の位置づけも見事だ。超然とした老人と少女、俗物さを剥き出しにする釣り客に紛れて、ただひとりの常識人、バランス感覚を備えた人物として現れる。彼がいることで、老人と少女の関係の異様さ、そして脆さを客観性に浮き彫りにする。観客が異様に感じる点をきっちりと指摘し、疑問を明瞭にしたうえで関わる彼の存在はそのまま観客を物語のなかへと導く媒介の役割を果たしていると言えよう。
 だが、そうして破滅へと進むかに見えた物語は、クライマックスで恐らく観客の予測を超えた飛翔を遂げる。いったいどこからこんな結末を思いつくのか、と青年同様に呆気に取られる終盤だが、しかし実のところ伏線は丹念に張り巡らされているのだ。老人のそれまでの準備、少女の意識の変化、随所に用いられた象徴の意味するところは、最後にこの着地を必然的に選ぶ。予測は出来ないが、しかし検証すればするほどあれ以外の落ち着きどころはない。我々が普通に思い浮かべるような決着ではおよそ真っ当な後味が期待できないが、本編のラストシーンには寒々しいおぞましさと、不思議な快さ、更には神々しさまでが共存している。
 巧妙なのは、この結末に観客の代弁者である青年を最後まで留まらせ、常識的で理解しやすい行動を繰り返させていることだ。そうすることで、老人と少女を中心とする物語の非日常性、幻想性がいっそう際立つと共に、物語のあとに少女が導かれるであろうこれからの生活に影をさしかける。
 あからさまに犯罪性と残虐性をちらつかせる背景、あまりに常軌を逸したクライマックス、そうしたものが積み重なって留まる余韻は清澄で、描かれたものには野蛮な純粋さが光る。およそ他の作り手では不可能な到達点へあっさりと観客を導くこの作風は、間違いなく観る者を選ぶ。どうしても受け入れがたい、と感じる観客も多いだろう。それだけに、万人にお薦めできる、とは絶対に言えないが、だが、だからこそ端倪すべからざる傑作であることは間違いない。『サマリア』『うつせみ』の精神をきっちりと引き継ぎながら、また予測のつかない結末を導き出した本編は、少なくとも旧作を観て感銘を受けた人ならば必見だと言い切れる。

(2006/10/17)


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