cinema / 『コックリさん』

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コックリさん
原題:“Bunshinsaba” / 監督・脚本:アン・ビョンギ / 原案:イ・ジョンホ / プロデューサー:キム・ヨンデ / 撮影監督:キム・ドンチョン / 美術:チョ・ソンウォン / 照明:キム・ゲジュン / 特殊メイク:キム・ヒスク / 出演:キム・ギュリ、イ・セウン、イ・ユリ、チェ・ソンミン、チェ・ジュンヨン、ウン・ソウ / A-POST PICTURES、TOILET PICTURES製作 / 配給:ブエナ ビスタ インターナショナル(ジャパン)
2004年韓国作品 / 上映時間:1時間32分 / 日本語字幕:全 雪鈴
2005年04月23日日本公開(R-15)
公式サイト : http://www.movies.co.jp/kokkurisan/
お台場シネマメディアージュにて初見(2005/05/02)

[粗筋]
 都市部から遠く隔たり、閉鎖的な村落にあるイヌァ女子高校。蒼然たる校舎で深夜、三人の生徒が机を囲み、ある儀式を行っていた――ソウルから転校してきたイ・ユジン(イ・セウン)を中心にした三人は、自分たちを執拗に苛める同級生たちに“呪い”をかけるため、分身娑婆――日本でいうコックリさんで悪霊を呼び出そうとしていた。そのために用意した小道具は、イジメに荷担している生徒の名前を記した紙とボールペン、それから30年前に不慮の死を遂げたキム・インスク(イ・ユリ)という生徒の使っていた机。
 命を賭ける、とまで言いきったユジンの儀式は成功した。翌日、さっそくイジメに加わっていた生徒のひとりイ・ヘジが謎の死を遂げたのである。黒いビニール袋を被り、その上から灯油を浴び、ライターで火を点けるという凄惨な状況は、しかしライターなどからヘジ当人の指紋以外検出されなかったために、自殺という結論に落ち着く。教師たちは生徒たちに対して妙な噂を流さぬよう厳重に注意するが、生徒たちの動揺は拭えない。三人の少女を苛めていた同級生たちはユジンらがヘジの死に関わっていると疑い、ユジンは“呪い”が成功したことを確信する。
 同じ日、イヌァ女子高校でもうひとつ奇妙な出来事が起きた。新たに赴任してきた美術教師イ・ウンジュ(キム・ギュリ)が初めての出席を取ったとき、ヘジの死により空席であったはずの出席番号29番で読み上げた名前はキム・インスク――30年も前に死んだはずの生徒だった。ウンジュはただの勘違いだと言い張るが、ほかの教師たちは不気味なものを見るような眼差しを彼女に向けるのだった。
 怪事は続く。ユジンの確信通り、日が変わると早くも第二の犠牲者が出た。ヘジとまったく同じ状況、同じ方法で死に至ったことに、警察までもが不審を覚える。帰り道でユジンを待ち伏せしていた同級生たちは、妙なことを口走った――死んだ仲間たちが最後に逢ったのは、あんたのはずだ。あんたは、死神じゃないのか……?

[感想]
 駄目なところを逐一挙げていたらいったいどのくらいの文字数が必要になるのか予測がつきません。いちばんの問題点三つばかり採りあげて、そこについてのみ語ることとします。
 まず、話の流れが非常に恣意的でぎこちない。人物の感情表現はいい加減で観ていて共感できないものばかりだし、ある場面からいきなりなんの脈絡もなく次の場面に移動し、前後の繋がりが明白でないので戸惑うことが多い。こういう手法は、たとえば謎解きやサスペンスが主体となっている作品では奏功するが、ホラーでは逆効果になることのほうが多い。仮にそうして場面や視点の転換を繰り返すにしても、何処かに観客とほぼ同じスタンスで物語を眺めている第三者、或いは事件の渦中にありながらも当人に謎はなく混乱のうちに巻き込まれていく主役格のキャラクターが必要だが、本編にはそれに該当するものがない。そのために、観客はどの立場で何を恐れていいのかがまったく把握できず、作中の出来事から切迫したものを感じられないうちに物語自体が終わってしまう。
 このことがそのまま次の問題点、ホラー映画と銘打ちながらまったく怖くない、という致命的な欠陥に直結している。たとえば心理的な恐怖であるなら、机の下や扉の向こうといった物陰に何らかの気配を感じさせるような描写を予め用意しておいて、そののちに静かに物陰を登場人物の目の動きやカメラの移動によって示唆することで恐怖を盛り上げていくものだが、本編はそういう下準備をまったく施さないので、全篇予想外の所から何かを提示する、という手法でしか恐怖を表現できない――こういうのは普通のホラーでもいちばん単純なやり口で、失敗すればただの虚仮威しにしかならないのだが、この作品の場合虚仮威しにすらなっていない。意外な演出どころか、大半の出来事が予測の範囲内であるし、特殊な状況下における表情の作り方にも意外性や独創性がないので、伝わってくるものがまるでない。人物の頭上から、次第に目線が上へと動いていくさまを追っていくあたりなど、ごく一部でちょっと目を惹くカメラワークが認められるが、それすらも筋運びのなかで活かされておらず、逆に発想が勿体ない。
 監督はホラーばかり撮り続けて三作目になり、従来と同じやり方では恐怖を演出できない、として本編では血や残虐行為など生々しい描写をやや増やした、とコメントしている。そもそも旧作の出来がそんなに良かったかという疑問はさておき、そういう点に自覚的であるのは多少評価できるとしても、肝心のスプラッタ描写もまったく怖くもなければ驚きもしない、というのはもう根本的に演出が下手であることの表れだろう。だいたい、監督が指し示しているというその場面であるが、明らかに血が飛びすぎていて現実味に乏しく、スプラッタであることがまるで効果を上げていない。扱っているテーマがオカルトに迫るほどに、血飛沫の飛び散る範囲や人物の体力、心理的動向など現実に対する繊細な配慮が求められるのに、本編のスタッフはまともに顧みてさえいないように見える。
 そして第三の問題はもっと根源的だ――そもそも本編、“コックリさん”という素材を持ち出す必然性さえないのである。“コックリさん”というのは、術者の呪いや願いを実現するために、近在の霊を招いてその助力を請う、というもので、無作為に召喚を行うため時として質の悪い悪霊や動物霊を招いてしまい、術者や関係者に悪影響を齎す、というのが一般的な定義だった記憶がある。つまり、“コックリさん”という儀式で盛り上げられる恐怖というのはたとえば、この儀式に嵌るが余りあちこちで繰り返しその恩恵を謳ううちに常軌を逸していくとか、回数をこなしていくうちに質の悪いものに遭遇して予想以上の被害を受ける、といった具合のものになるはずだ。そういう意味では本編の展開は予測できないものではあったが、予測を裏切ればいいというものではない。前述の通り、恐怖というものを単なる虚仮威しや子供騙しで終わらせないため、持続する恐怖感を演出するためにはそれなりの下準備や配慮が必要だ。そのためにうってつけの材料と言える“コックリさん”の背景や約束をまったく活かすことなく、物語を実に安易な“復讐”の構図に持ち込んでいるのはいただけない。アン・ビョンギ監督は先行二作『友引忌』『ボイス』でも大前提を無視した展開や結末を用意して顰蹙を買っていたはずなのだが、どうやらまったく反省していないと見える。
 いやそれ以前の問題として、ここで説明されている事件の背景自体にも多くの疑問や矛盾点が見られる。ユジンらが最初の儀式で呼び出した霊の能力からすると、呼び出されるのを待つまでもなくその目的に従って何らかのアクションを起こすことが可能だったはずで、そもそも“コックリさん”の描写を冒頭に持ってくる必要さえない。作中、どんでん返しにもならないどんでん返し(ひっくり返すためには、観客がひっくり返された、と感じるための心理的伏線が必要なのにそれをまったく怠っているからだ)があるが、そこでの説明を受け入れれば尚更に“コックリさん”の必要性は薄れる。
 中盤、語られる過去の因縁には若干ながら瞠目するような発想が含まれているが、それすらストーリーのいい加減さがぶち壊しにしている始末だ。暈かして書くことが出来ないので以下伏せ字で記しておくが、(ここから)→過去の事件において、母親がその能力を用いて目の見えない娘の代わりにものを見、それを娘に伝えるという手順を踏んでいるという背景が描かれている。だが、そうだとしたら、娘は母に力を注がれているあいだしかものが見えないはずで、自分の視力の問題にも自覚的であったはずではないのか? 無自覚であったことを考慮に容れると、この母親は何らかの儀式に頼ることなく、自分の日常生活を営む一方で娘の目の代わりをこなすことも出来たはずだ。ならば、すべての因縁の始まりともなった事件を防ぐことも出来たはずで、発端における行動そのものが大いなる矛盾を孕んでいる←(ここまで)ということになる。序盤はいい発想だと思うが、ホラーというよりも最後にどんでん返しのあるスリラー向けの着想であり、またそのディテールを無視したような展開が着想そのものを台無しにしている。
 演出は駄目、シナリオは破綻し、折角の発想も殺してしまっている。ふだんどんな映画であっても評価できるところを見出してなるべく肯定的に語るのが信条の私でさえ匙を投げるほど酷い出来映え。実のところ、あり得ないほど無尽蔵に鏤められたツッコミどころの多さそれ自体を楽しんでいた節のある私としては、逆にお金を払って見に行った甲斐があった、と感じてしまったのだけれど、ごく一般の観客がそんな屈折した楽しみ方をするはずもなく、やはりどう考えてもお薦めは出来ない。旧作の感想でも述べたことだが、こんなものしか作れない監督が第一人者呼ばわりされている韓国のホラー映画業界が気の毒でなりません。映像美やサプライズも含めて昨年観たホラーのなかでもトップクラスの出来映えだった『箪笥』、ぎこちないが誠意を感じさせた『狐怪談』など、いいものもあるのになあ。

 なお、これだけ腐しておいて何ですが、万一次の作品も日本で公開されるようなら、必ず観るつもりでおります。ここまで来たら最後まで付き合おうじゃないか。――仏の顔も三度まで、と言いますし、ね。

(2005/05/03・2005/05/08文章をちょっと訂正)


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