cinema / 『カーテンコール』

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カーテンコール
監督・脚本:佐々部清 / 原案:秋山光彦 / プロデューサー:臼井正明 / 撮影:坂江正明 / 美術:若松孝市 / 照明:守利賢一 / 録音:瀬川徹夫 / 編集:青山昌文 / スクリプター:山下千鶴 / 助監督:山本亮 / キャスティングプロデューサー:空閑由美子 / 製作担当:吉崎秀一 / 音楽:藤原いくろう / 製作プロダクション:シネムーブ / 出演:伊藤歩、藤井隆、鶴田真由、奥貫薫、井上尭之、藤村志保、夏八木勲、津田寛治、橋龍吾、田山涼成、粟田麗、井原剛志、黒田福美、福本清三、田村三郎、水谷妃里 / 配給:COMSTOCK
2005年日本作品 / 上映時間:1時間51分
2005年11月12日公開
公式サイト : http://www.curtaincall-movie.jp/
上野スタームービーにて初見(2005/11/12)

[粗筋]
 橋本香織(伊藤歩)が数年振りに郷里・下関の地を踏んだきっかけは、東京での思いがけない挫折だった。
 アルバイトから正社員への登用を賭けて、大物官僚と清純派女優とのスキャンダルを二ヶ月にわたって追い続け、遂にスクープをものにしたが、記事の掲載された翌日に当の女優が自殺を図り、上からの圧力もあって香織は謹慎を命じられる。そんな彼女の状況を見るに見かねた、彼女の恋人でもある上司は、自分の先輩が編集長を勤める福岡のタウン誌への転勤を命じる。郷里にも近いから、という彼の配慮であり、いつか必ず呼び戻すから、という言葉に縋って、香織は西へと移る。
 タウン誌に移った香織が初めて任された仕事は、読者からの投稿に端を発する企画だった。映画産業が最盛期を迎えた昭和三十年代後半、下関にある古い映画館・“みなと劇場”で、上映と上映のあいだに歌や形態模写を披露して観客を喜ばせていた“幕間芸人”がおり、その人を捜して欲しい、という趣旨の手紙に触発されて、企画はスタートする。簡単な読み物であるため経費は些少、日程も取材に三日、執筆に二日と切りつめられたものだったが、香織は快諾して郷里へ赴いた。
 五十四年間にわたって映画を流し続けたみなと劇場は老朽化が著しく、年がら年中閑古鳥が鳴いているような有様だった。取材に訪れた香織に現在の支配人(田村三郎)は、くだんの幕間芸人について、ぼんやりと記憶はしているがなにぶん幼い頃の話なのではっきりとは覚えていない、という。先代の支配人(田山涼成)はしばらく前に亡くなり、その妻はボケが始まっていて、話に要領を得ない。早くも手懸かりを失ったか、と思ったところへ、劇場の従業員・宮部絹代(藤村志保)が声をかける。あなたが捜しているのは、安川修平さんのことだと思います。
 絹代がみなと劇場に就職したのは昭和三十三年、安川修平(藤井隆)が劇場で働きはじめたのはされから三年後のことだった。何か事情があって正社員にはならなかったが、自分でガリ版のビラを作ったり呼び込みをしたりと熱心な働きぶりで、宣伝担当として町の人からも親しまれていたという。
 そんな彼が舞台に立つようになったのは、ちょっとした事故が原因だった。座頭市物語の上映中、いい場面で映写機が故障、観客が騒ぎ出しそうになったとき、咄嗟にスクリーンの前で座頭市の形態模写をして観客の注意を惹きつけ、興奮を収めた。このときの“芸”が評判となってしばしリクエストが寄せられるまでになり、そうして安川修平の“幕間芸人”としての仕事が始まった。
 ほんの一年程度で地元ではスターも同然の存在となった修平だったが、誠実な性格の彼は決して奢ることなく、最初の頃と同様に宣伝や営業、また当時存在したみなと劇場二番館での上映のためにフィルムを乗せて劇場を往復する、という雑務もきちんとこなし続けた。
 多忙を極めたその夏、修平は彼にとっての休憩時間である映画の上映中、頻繁にロビーにいる女性に気づく。ちょうど橋幸夫と吉永小百合の『いつでも夢を』が大ヒットを飛ばしている折だったので、二人のファンだと早合点した修平は、何故上映中に劇場を出るのか、と訝るが、そんな彼に女性は含羞の面持ちで、「あなたが舞台に立つまで、休憩です」と応える。
 それが、のちの妻、良江(奥貫薫)との出会いだった。ロビーでの逢瀬を経て、その年の暮れにふたりは結婚する。二年後には娘の美里が生まれ、安川家は穏やかな幸せに包まれていた。
 だが、絶頂を誇っていた映画界は、この頃からじわじわと斜陽に向かっていく。昭和四十三年の夏頃から修平の給与は削られ、年末、支配人は経費削減のために二番館の閉鎖と共に、幕間興行の中止を決断する。それはつまり、修平を解雇する、ということであった……

[感想]
 つい先週、やはり昭和三十年代を舞台にした傑作『ALWAYS 三丁目の夕日』を観たばかりであるため、どうしても比較して考えずにいられない。何せ、同時代を起点にしながら、まったく反対の組み立て方をしているのだ。
 一部をセットで用意した他はすべてVFXによって昭和三十三年の東京を再現した『ALWAYS』に対し、本編は基本的にセットのみで再現している。現代の視点から回想として描く切り口が中心であるため、昭和三十年代から四十年代までの出来事をモノトーンで映すことで現在と対比させる、古典的な手法で古めかしさや懐かしさを演出している。
 冷蔵庫やテレビ、オート三輪などといった小道具で時代感覚を表現する手法を選ばなかった代わりに、時代の空気を彩るのは華やかなりし頃の映画産業の様子だ。現在のように場内禁煙ではなく、作品に対して遠慮無く野次が飛び、立ち見も出るほどの大入りが当たり前だった時代に、求められて“幕間芸人”という職業が発生したことがよく解る。
 同時にその後の衰退の様子も、痛いほどに生々しく伝わってくる。この辺が、「このままここに居続けたい」と感じさせるほどに往時の空気を完璧に再現し、失われていく哀しみを直接的に描くことを最後まで避けた『ALWAYS』との最大の違いである。活気に溢れた三十年代は終わり、生活や娯楽の形態が変化していくにつれて、ついて行けなかった人々を切り捨てていく四十年代以降があったことをかなり率直に描いている。感じる懐かしさは同様でも、この場にずっと居たい、と思う観客はまずいないだろう。これは欠点ではなく、あくまで時代との対し方の違いに過ぎない。痛みを決して包み隠さず描くのもまた正しい道のひとつだ。
 小道具や背景を充実させることで時代感覚を表現した『ALWAYS』に対し、映画業界の様子とその変遷を地方の劇場から描くことで時代の変化を伝えようとした本編は、それだけに脚本への依存度が高いが、観終わった時点で脚本に対する私の印象は決して芳しいものではなかった。時代の動きをそのまま反映したかのような過去のパートは兎も角、現代編はいささかメリハリに欠いているように感じた。回想を終え、安川修平が幕間芸人でなくなってからの足跡を辿るパートはどうしても沈鬱な成り行きになりがちであるのに加えて、そこから終盤へかけての展開は登場人物それぞれの行動に感情面での伏線が張られておらず、納得しがたかったり唐突であるものが多い。
 とりわけ引っかかるのは、映画産業の盛衰と共に作品の重要な鍵となっている、在日韓国人という素材の掘り下げが浅いことだ。登場人物のひとりが、「ここでは珍しいことではない」と口にするほど、地元における在日韓国人の扱いには微妙な問題がつきまとうようだが、その流れで済州島まで赴いているにも拘わらず、問題への考察も扱い方への配慮もやや不充分という印象を受けた。
 ただ振り返ってみると、こうした不充分さは寧ろ、物語全体から作りものめいた印象や、御都合主義という感触を取り払っているのだ。なまじフィクションに慣れ親しむと、無駄のない伏線や緊密な話作りに傾きがちだが、現実の出来事はそう都合良く運ぶことのほうが珍しい。ある問題の解決がそのまま社会問題を解きほぐす糸口になるなどという展開はまずあり得ず、また人々の行動だって予め伏線が張ってあったり、理詰めで片が付くようなことなど滅多にない。それを考えれば、決して緊密ではなくても、登場人物それぞれが場面ごとに迷ったり拒絶したり、最善の道を手繰ったりする本編の話運びは、いっそ生々しくすらある。父に対する発言とかつての自分の行動を想いあわせて困惑するヒロイン・香織や、本心では逢いたいと思いながらも、結果的に捨てられた事実への拘りから、周囲に薦められても逢いに行くことを承諾できず、最終的にああいう幕引きを迎えることになる修平の娘・美里などはその最たるものだろう。理屈には合わないけれど、感情的には充分に納得がいく。細かなパーツとしての伏線はない代わりに、人物像を丹念に練り上げているが故の成果である。
 人物像という点で、話のそうした説明不足を補ってあまりあるのは、人々がその面影を追い求める対象となる安川修平の魅力だ。映画好きと生来の誠実さから幕間芸人となるが、時代の変化について行けず、また劇場という空間を離れたあとでは存分にその才能を発揮できなかったばかりにああいう末路を辿りながら、しかし終盤で再会を果たした宮部絹代が言うように、その芸と、魅力的な笑顔だけは変わらない。若き日の精力的な、そして辛い日々によって傷ついていく姿を持ち前の芸達者さで見事に表現した藤井隆と、その彼が姿形に、歌声に年輪を刻んで渋みを増したさまを柔和に演じた井上尭之こそ、やはり本編最大の見所であり魅力である。重要な局面でふたりの安川修平が歌う『いつでも夢を』は、ほとんど飾りなくバラードとして歌われているだけに、この上なく沁みてくる。
 題材も展開も決してポジティヴではないが、しかし過去の罪も記憶も受け入れるかのような場面と、そこで語られなかった彼らの感情を代返するかのような表情で引かれる幕は、しみじみとしながらも前向きだ。前述の通り、描写の結びつきや必然性を重視した作りではないため、少々受け入れがたいという人もあるだろうし、幾ら予定調和を避けたからと言っても、あまりに不自然な行動も幾つか目につくけれど、『ALWAYS』同様に、いまだからこそ作り得る良き日本映画のかたちであることは間違いない。

 なお、本編に感銘を受けた方は、しばらく前の作品だが、中田秀夫監督『ラストシーン』という映画も御覧になることをお薦めしたい。本編と似たような趣向で、しかし劇場ではなく映画を撮影する現場での変化を描いており、引き比べると様々な発見があるはずだ。

(2005/11/12)


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