cinema / 『ハンニバル・ライジング』

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ハンニバル・ライジング
原題:“Hannibal Rising” / 原作・脚色:トマス・ハリス(新潮文庫・刊) / 監督:ピーター・ウェーバー / 製作:ディノ・デ・ラウレンティス、マーサ・デ・ラウレンティス / 製作総指揮:ジェームズ・クレイトン、ダンカン・リード / 撮影監督:ベン・デイヴィス / プロダクション・デザイナー:アラン・スタルスキー / 衣裳デザイナー:アンナ・シェパード / 編集:ピエトロ・スカリア、ヴァレリオ・ボネリ / 音楽:アイラン・エシュケリ、梅林茂 / 出演:ギャスパー・ウリエル、コン・リー、リス・エヴァンス、ケヴィン・マクキッド、ドミニク・ウェスト、リチャード・ブレイク、スティーブン・ウォルターズ、アイヴァン・マレヴィック、ゴラン・コスティックチャールズ・マックイグノン、リチャード・リーフ、インゲボルガ・ダクネイト、アーロン・トーマス、ヘレナ・リタ・タチョヴスカ / 配給:東宝東和
2006年イギリス・チェコ・フランス・イタリア合作 / 上映時間:2時間1分 / 日本語字幕:戸田奈津子
2007年04月21日日本公開
公式サイト : http://hannibal-rising.jp/
TOHOシネマズ六本木ヒルズにて初見(2007/04/21)

[粗筋]
 1944年、リトアニア。代々受け継いできた古城に暮らしていたハンニバル・レクター(アーロン・トーマス)は、侵攻するナチの目を逃れるべく、森のなかのロッジに家財道具を移し、隠遁生活を始める。暮らしぶりは決して楽ではなかったが、幼いミーシャ(ヘレナ・リタ・タチョヴスカ)との交流を軸に、ハンニバルはそれでも穏やかな日々を過ごしていた。
 しかしその平穏は唐突に破られる。水の補給に、戦車を中心とする一隊が訪れて間もなく、ロッジがナチの戦闘機に発見され交戦状態に陥り、兵士たちを迎えていた両親や使用人たちがことごとく死亡、兵士たちも全員絶命し、戦闘機も墜落――生き残ったのは幼いハンニバルとミーシャふたりきりとなってしまった。
 あり合わせの食糧を分け合い、どうにか命を繋いでいたハンニバルだったが、間もなく次の危機が訪れる。ロシア人でありながらナチの内通者となって戦時の混乱を渡り歩いていた五人の男達が、同行していたナチ将校の死を契機に森のなかを彷徨い歩き、ロッジを発見してしまったのである。兄妹を拘束し、僅かに残っていた食糧を貪り尽くしたあと、彼らが目を向けたのは――
 それからしばらくの記憶は、ハンニバルのなかで朧気になっている。間もなく彼はソビエト軍によって発見されたが、このときハンニバルはひとりきりであった。
 孤児院として利用されていたレクター城に収容され、そこで成長したハンニバル(ギャスパー・ウリエル)であったが、ショックのために口が利けなくなっており、陰湿ないじめの対象となっている。しかし、夜毎悪夢に苛まれ、その都度独房に押しこまれながら、ハンニバルは奇妙な逞しさを覗かせ、恐れられていた。
 そしてある夜、ハンニバルは独房の隅に開けた穴から脱出する。彼が目指したのはフランス――父に宛てられた書簡から、叔父の住所を発見し、遥かな旅を経て辿り着いた地には、だが既に叔父は亡く、その妻である日本人・ムラサキ(コン・リー)がひとり暮らしていた。ムラサキ夫人はハンニバルを快く受け入れ、ハンニバルもそのエキゾチックな美貌と、日本の文化を織りこんだ生活様式に魅せられ、多大な影響を受けながら、戦争後初めての平穏な時に身を浸す。
 だがある日、ムラサキ夫人と共に赴いた市場で、彼女に対して卑猥な中傷の言葉を向ける肉屋の男がいたことが、ハンニバルの心に昏い炎を灯す……

[感想]
 時系列としては『レッド・ドラゴン』『羊たちの沈黙』『ハンニバル』というかたちで並ぶ、稀代の殺人鬼ハンニバル・レクターを巡る一連の物語だが、本編はそんな彼が“怪物”となっていく過程を描いた、前日譚である。なまじ『羊たちの沈黙』の完成度が高いだけに、後日譚として提示された『ハンニバル』でさえ評価が大きく割れているぐらいであり、ハンニバル・レクターの神秘性を暴くが如き前日譚の製作が発表された時点で、世間的にはあまり芳しくない印象を齎していた。
 そのことを考えれば、本編はよく纏めた、と感じられる。製作とほぼ同時進行で原作を執筆していたと思しい原作者トマス・ハリス自らが脚本を手懸け、『真珠の首飾りの少女』でその手腕が高く評価されたピーター・ウェーバーが監督したことで、原作の雰囲気を壊すことなく、また文芸的な洗練を備えた、最善のかたちで映像化がなされ、その意味で不安を感じる出来ではない。プロット、台詞、映像、緊張感、すべてに知性が備わり、技を感じさせる。ただ、あまりにも小綺麗にまとまりすぎたために、先行する作品群ほど強烈なインパクトは備えていない、というのが正直なところだ。
 予め小説版を読んでの鑑賞だったが、さすがに原作者自らが携わっているだけあって、整理整頓は巧く忌憚がない。寧ろ、映画のプロットが先にあって、それを小説のために膨らませて構築しなおしたような赴きさえある。『ハンニバル』ではハンニバル・レクターの知性を“記憶の宮殿”というモチーフによって説明、小説版でもその構築過程を描くことで、世界観を旧作に連携させていく一方、尺や表現上の制約もあって映画版では用いられていなかったこれを、本編でも映画版ではばっさりと省略している。小説版ではこの知識の構築手段をハンニバルに伝授する人物が登場するが、映画版ではその痕跡さえ排除されているという気の配りようだ。そのあたりの丹念な配慮も、如何にも小説家らしい。
 しかし、そうした配慮故に、どうしても旧作ありき、という域を出ていないのが、全体に感じられる物足りなさ、尖ったものの乏しさに繋がっているようだ。あのシャープで無駄のない動き、隙のないウイットに包まれた言語感覚、異様なまでに豊富な解剖学への知識、そして美術センスの高さなどなど、先行する3作品で見せた個性の萌芽を随所に織りこんでおり、それらを見てきた人間ならば唸らされる描写が盛り沢山ながら、そうした色気が強すぎて、新参の観客をあまり意識していないように感じられる。
 また日本人としては、レクターの成長過程に日本文化が絡んでいた、という事実にときめくものがあるのも否定出来ないが、しかし全体に取って付けたような印象を覚えるのも否定出来ない。外国映画としては珍しく、ムラサキ夫人がハンニバルに手解きする剣道の作法がかなり正確で、その後のハンニバルの見せるアクションとも矛盾していないのは嬉しいのだが、ムラサキ夫人のいでたちや美術品の飾り方にはいちいち首を傾げさせられる。但し、ヨーロッパの内装や調度に日本の美術品を合わせようとすれば必然的に奇妙なかたちを選ばねばならず、実際にあの頃日本人が向こうの文化に入り込んだならあんな感じになったのでは、と好意的に捉えることも出来ようが、いずれにせよ、物語に対してこれらが大きく貢献しているわけではなく、その点もまた物足りなさに繋がっている。
 だが、旧作からの観客が本編に対して何よりも抱く違和感の正体は、これがハンニバル・レクターという稀代のシリアル・キラーの“活躍”を描いた知性的なサイコ・サスペンスではなく、少年が“怪物”へと変貌していく過程を描いた成長物語であり、ダーティな冒険ロマンであることに起因しているようだ。確かにその世界観や、ハンニバル・レクターという人物の生成過程としては受け入れられるものの、旧作を観て期待してしまうものとは、人にもよるがかなりの率で隔たりが大きい。加えて、そのつもりで観れば楽しめはするが、しかし旧作のように尖ったところがなく、訴えかけるものが少ないのだ。
 しかし、単品として出来不出来を問われれば、上質であると思う。それを認めなければさすがに失礼だ。アンソニー・ホプキンスとは容姿にあまり共通点がないにも拘わらず、きっちりとその前身を見事に体現したギャスパー・ウリエルの演技は賞賛に値するし、ヴィジュアル面の洗練度、台詞の完成度の高さでもケチのつけようがない。旧作を凌駕していない、と言ってしまうのは簡単だが、そもそも狙っている方向が違うのだから当たり前だ。ただ、その表現の細かなところの意味を理解するためには旧作をきちんと拾っていることが条件であり、そのあたりのジレンマは拭いきれない。
 緩みのないいい仕上がりなのだが、それ故に却って中途半端な印象を齎しているという、ある意味不幸な作品である。個人的には評価したいのだが、旧作を評価する人々に薦めていいかどうかは――その人がどういう理由で旧作を愛しているかに因るだろう。この場で個々に判断をつけられない以上、とりあえずご覧になった上で、御自身で判断してください、としか言えないのが何とももどかしい。

(2007/04/30)


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