/ 『女王蜂』
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『light as a feather』トップページに戻る女王蜂
原作:横溝正史 / 監督:市川崑 / 脚本:日高真也、桂千穂、市川崑 / 製作:馬場和夫、田中収 / 企画:角川春樹事務所 / 撮影:長谷川清 / 美術:阿久根厳 / 特殊美術:安丸信行 / 編集:小川信夫、長田千鶴子 / 衣装:長島重夫 / 音楽:田辺信一 / 演奏:東宝スタジオ・オーケストラ / 出演:石坂浩二、中井貴恵、高峰三枝子、司葉子、岸恵子、仲代達矢、萩尾みどり、沖雅也、加藤武、大滝秀治、神山繁、小林昭二、伴淳三郎、三木のり平、草笛光子、坂口良子、白石加代子、石田信之、佐々木剛、佐々木勝彦、冷泉公裕、高野浩幸、常田富士男 / 配給:東宝
1978年作品 / 上映時間:2時間19分
1978年02月11日公開
DVD最新盤2004年05月28日発売 [amazon:単品|4作品セット]
TOHOシネマズ六本木ヒルズにて鑑賞(2006/12/05) ※『犬神家の一族』リメイク版公開記念特別上映[粗筋]
昭和二十七年。頼朝の落胤の血を引くという伝説を留める血筋である大道寺家のひとり娘・智子(中井貴恵)が、かねてからの取り決めに従い、十九歳の誕生日を迎えると共に、生地である伊豆・修善寺から義理の父・銀三(仲代達矢)の暮らす京都へと居を移すことになった。
だが、その晴れの日は血の惨劇によって汚された。智子の美貌に打たれ求婚した3人の男達のうち、遊佐三郎(石田信之)が修善寺の大道寺邸にある時計塔のなかで殺害されているのが発見されたのである。現場には、彼によって呼び出されたという智子の姿もあったが、しかし当の遊佐もまた、時計塔へ来るように、という趣旨の智子名義の手紙を携えていたのだった。
折しも同じ日、探偵の金田一耕助(石坂浩二)が修善寺を訪れていた。彼は弁護士の加納(大滝秀治)を介して、ある筋に届いたという一通の脅迫状を託されていた。智子の京都移住を取り止めろ、さもなくば悲劇が起きるだろう――驚くべきことに、まったく同じ文面の脅迫状が銀三のもとにも届いていたのだ。
現地入りした警察の等々力警部(加藤武)は、智子が遺体と共に発見される直前まで現場にいたという謎の青年・多聞連太郎(沖雅也)が怪しいと睨むが、犯人にしてはあまりに軽々しすぎる行動に、金田一は別の犯人がいることを直感する。と同時に、自らに調査を依頼した人物の身許も鍵に繋がっていると判断、独自に捜し出して接触を図った。
その人物は、やんごとなき家系に連なる東小路家を守る隆子(高峰三枝子)。実は智子の、生まれる前になくなった父・日下部仁志(佐々木勝彦)は、隆子の息子だったのだ。仁志と銀三は親友同士であり、青年時代に頼朝伝説に惹かれて修善寺を訪れ、仁志が智子の母・琴絵(萩尾みどり)と結ばれたそのときにも銀三は一緒であった。やがて銀三は婿養子として琴絵・智子母子と大道寺家の名前とを守り、同時に東小路家の助力のもと事業で成功していた。
仁志は琴絵との運命の出逢いののち、三ヶ月後にふたたび訪れた修善寺で不慮の死を遂げている。遊佐殺害の際、智子を誘い出すための文面に記されていたとおり、そこに何かの秘密が隠されているのか、それこそが事件の真相と繋がるのか――
様々な謎が未解決のなか、智子は京都へやって来た。そして、ふたたび殺人事件が起きるのだった……[感想]
『犬神家の一族』、『悪魔の手毬唄』、『獄門島』と続いた市川崑監督・石坂浩二主演による金田一耕助シリーズの通算4作目である。前作までにその雰囲気と、別々の役柄に同じ俳優を用いる家族的な作風を確立し、それを丹念に引き継いでいるので、その意味では不安なく観られる。
だが、出来は『獄門島』に続いていささか厳しい。もともと大前提が大変に入り組んだ原作であるため、2時間半足らずの尺に収めるのが難しいのは事実だが、それにしても序盤がまるっきりダイジェストになっているのは問題である。10分足らずのあいだに、事件の背景となった19年前の出来事から作中の現在である昭和二十七年までを一気に描いており、人物関係やそれぞれの事情がまるっきり把握できない。しかもこのダイジェスト部分でさえ、“女王蜂”たる智子に三人の男が求婚したこと、そのうちのひとりがいの一番に殺害されるに至る経緯が大幅に省略されており、事件の全容さえ把握しづらい。
無論、流れのなかで追々描かれていくのだが、それでも全般に整理が行き届いていない印象が濃い。ほとんどの出来事が唐突に感じられるのである。この違和感はだいたいの背景が出揃う中盤まで消えない。結果的に、中盤までがとても長く感じられる。
そしてもうひとつ、物語にとって極めて重要な“女王蜂”たる大道寺琴絵・智子の母子に魅力が感じられない、魅力的に見えるように描かれていないのがいけない。もともと脇に芸達者が揃い、シリーズ独自の雰囲気が色濃いなかで存在感を発揮することが難しいのも事実だが、それでも魅力的に見せるための工夫がほとんど窺えないのは問題だろう。その佇まいの可憐さや気品などをもっと丹念にクローズアップして欲しかった。
この工夫の乏しさはそのまま、作品全体にあるべき華やかさを大幅に損なっているように思う。原作では孤島にある大道寺家から修善寺の旅館、そして東京まで多くの舞台を用意しており、それぞれに彩りを添えているのに対し、本編は映画版シリーズとしての統一感を意識したせいか山村を中心に話を展開し、唯一華やかであるのは第2の事件が発生する京都での野点ぐらい。結果として終始地味な印象を与えてしまっているのが勿体ない。
しかし、序盤を徹底的に刈りつめたぶんだけ、後半の描写は盛り沢山で密度が高く、見応えがあったのも事実だ。曲者揃いの俳優陣がそれぞれに力を発揮して、人間関係の綾が織り成す悲劇を見事に彩り、映画としての厚みも牽引力も確かだ。
また、ミステリの世界では“事件を食い止められない名探偵”として名高い金田一耕助にも、本編では比較的頑張っているような雰囲気が演出されていることも指摘しておきたい。実際には最後の最後でヘマをやらかすものの、もっと繰り返されていたかも知れない惨劇は確実に食い止めている。その意味では、正しく“探偵映画”としての矜持も保っていると言えようか。
とは言え終盤にもいささか説明の足りない感覚がまだ残っている。あれでは動機が完全には解らず、またちょっと気を緩めて観ていると、結局真犯人が誰だったのかわからない、という状況にも陥りかねない。最後の最後でもういちど、脚本の整頓の甘さが祟っているように感じられた。
常連と化した俳優陣の工夫を凝らした位置づけ、その演技や演出による遊びでシリーズを通して観ている客へのサービスを盛り込みながら、原作の趣向を極限まで盛り込みつつドラマを盛り上げようとした意欲は素晴らしい。だが、更に新しい犯人まで構築しようとした(成功したとは言い難いが)『獄門島』や、ドラマ性の工夫が出色であった『悪魔の手毬唄』と比べると見劣りしてしまう。万事勿体ない仕上がりであった。(2006/12/05)