cinema / 『ミリオンダラー・ベイビー』

『cinema』トップページに戻る
『light as a feather』トップページに戻る


ミリオンダラー・ベイビー
原題:“Million Dollar Baby” / 原作:F・X・トゥール(ハヤカワ文庫NV・刊) / 監督:クリント・イーストウッド / 脚本:ポール・ハギス / 製作:クリント・イーストウッド、ポール・ハギス、トム・ローゼンバーグ、アルバート・S・ラディ / 製作総指揮:ロバート・ロレンツ、ゲイリー・ルチェッシ / 共同製作:ボビー・モレスコ / 撮影:トム・スターン / 美術:ヘンリー・バムステッド / 編集:ジョエル・コックス / 音楽:クリント・イーストウッド / 出演:クリント・イーストウッド、ヒラリー・スワンク、モーガン・フリーマン、アンソニー・マッキー、ジェイ・バルチェル、マイク・コルター、ブライアン・F・オバーン、マーゴ・マーティンデイル、ネッド・アイゼンバーグ、ブルース・マクヴィッティ、ルシア・レイカー / レイクショア・エンタテインメント製作 / 配給:MOVIE-EYE×松竹
2004年アメリカ作品 / 上映時間:2時間13分 / 日本語字幕:戸田奈津子
2005年05月28日日本公開
公式サイト : http://www.md-baby.jp/
丸の内ピカデリー1にて初見(2005/05/28)

[粗筋]
 巷間、ボクシングは野蛮なスポーツと言われる。だが、ただ野蛮なだけの競技なら、これほどまでに人々を惹きつけ熱狂させることが出来るのだろうか? 人生を捧げてもいい、と思うほどに?
 かくいうわたし――スクラップ(モーガン・フリーマン)という通り名で呼ばれるこのわたしも、ボクシングに人生を捧げてしまったひとりだ。かつてタイトルの直前まで迫りながら、肝心の試合で引き際を誤り、判定負けの挙句に片眼の視力を失い、リングを降りた。だが、今なおリングそのものにはしがみついている。“ヒット・ピット”と名付けられたジムの住み込み雑用として、若者にときどき口を挟みながら辛うじて食いつないでいる。理解してもらえるかは知らないが、決して後悔はしていなかった。やるだけのことをやり遂げてからリングを降りたのだから、満足している。
 しかし、フランキー・ダン(クリント・イーストウッド)はそのことを理解しているのかどうか。かつてわたしのトレーナーであり、行方をくらましたマネジャーの代わりに最後までわたしをサポートし、マネジャーでないがゆえにタオルを投げられず、わたしの片眼を守れなかったことを、フランキーは未だに後悔している。もともと頑固であった男はそれ以来より慎重になった。機が熟したと見るまでは、決して若者をタイトルマッチのリングに上げない。
 若者がその“悠長”とも感じられる態度に苛立っていることを気づけないのが、恐らくフランキーの最大の欠点だろう。八年かけて手塩に育て上げ、タイトルを狙える位置にまでようやく押し上げたビッグ・ウィリー(マイク・コルター)に、ある晩とつぜん三行半を突きつけられた。トレーナーではないが、ボクサーを“商品”として扱う術に長けたマネジャーのミッキー・マック(ブルース・マクヴィッティ)に引き抜かれたのだ。功に急ぐ若者を恨むほど人間の出来ていないフランキーではなかったが、それでもこの裏切りにはだいぶ応えていた。
 そんな彼のもとに下された新たな“天使”の名は、マギー・フィッツジェラルド(ヒラリー・スワンク)。初めて彼女がフランキーに握手を求めたのは、彼がビッグ・ウィリーのセコンドに着いた最後の試合の直後だった。前々から彼のセコンドとしての才覚、トレーナーとしての実績に敬意を持っていたマギーは、是非自分にもコーチをして欲しい、と願い出る。だが、様々な理由から女性のトレーニングを受けることを拒んでいたフランキーは、態度を覆すことなく彼女を拒絶した。
 マギーは幼い頃に父親を喪い、働く気概のない母に代わって13歳からウェイトレスとして働き、二年前からボクシングを始めたという。独学でトレーニングを積み、前座の試合とはいえリングに立ち勝利さえした根性は天晴と言えるだろう。マギーはその根性を糧に、フランキーにアプローチを続けた。六ヶ月分の月謝を先払いでわたしに渡し、ジムに出入りすることを正当化した。目障りだと訴えるフランキーの視界の隅でひたすらにサンドバッグを打ち続けた。
 正直に言えば、最初にマギーに膝を屈したのは、わたしだ。夜更けまでトレーニングを続ける彼女を見かねて、簡単なアドヴァイスを試みた。スピードバックさえ持っていないマギーに、物置に眠っていたフランキーの使い古しを貸し与えた。
 翌日、フランキーはすぐにマギーが自分のスピードバッグを叩いていることを見咎めた。だが、長年ギリギリの生活を強いられていたためにスピードバッグを買う金もなかった、と訴えるマギーに、とうとう仏心を起こしたようだ。自分のものを買うまで、という彼女に、スピードバッグを使うことを許した。或いは、このときの舌戦で、彼女からボクシングを奪えば何も残らないことに気づいてしまったのかも知れない。
 やがてマギーはスピードバッグを購入した。自分自身の誕生日を祝うために。怠惰な生活に慣れきり、145kgにまで体重を増やしたマギーの母は働くことが出来ず、生活保護とマギーからの仕送りだけで暮らしている。その話を聞いてしまったフランキーもまた、とうとうマギーに屈服した。決して自分の言うことに逆らわないこと、時が来たら信頼できるマネジャーに預けること――そういう条件付きで、彼女のトレーニングを引き受けた。
 それから、マギーが“一試合で百万ドルを稼ぐ女(ミリオンダラー・ベイビー)”になる才能を示すまで、さほど時は必要としなかった……

[感想]
 クリント・イーストウッドの映画を劇場で観たのはこれが四度目になる。映画にのめり込む遥か以前に鑑賞した『パーフェクト・ワールド』、マイクル・コナリーの長篇を原作にした『ブラッド・ワーク』、デニス・ルヘインの小説を見事に消化しアカデミー主演・助演男優賞を得た『ミスティック・リバー』、そしてF・X・トゥールのボクシング小説に基づく本編。いずれも基調となるカラーを変化させながら、重厚なドラマを構築しており、程度に違いはあれど強く印象に残っている。
 昨年公開された『ミスティック・リバー』は間違いなく歴史的な傑作であると思うが(なまじ原作者がミステリ畑の人間であっただけに、正しく評価されにくかった厭味があるようだが)、その翌年に発表した本編で更にその頂点を飛び超えてしまった。
 本編はF・X・トゥールという作家が唯一著した作品集に収録された同題短篇をメインに、『凍らせた水』という短篇を混ぜ合わせて脚色している。同題短篇ではフランキー自らが語り手となり、マギーとの出逢いからトレーニングを引き受け、そしてある選択を迫られるまでのさまを自ら綴っているが、映画では後者の語り手であるスクラップがナレーションという形で視点人物に座り、感情描写に程良い距離感を齎している。
 三人の人生と、彼らに関わる人物が交錯し複雑化していた『ミスティック・リバー』に対し、本編はかなり人間関係が整理され、物語はほぼ主人公であるトレーナーのフランキーと彼に指導を仰ぐ女性ボクサーのマギー、そしてナレーターという格好でふたりを見守る雑用係のスクラップの三名に絞られている。三人の人生に関わる人々でスクリーン上に登場するのはマギーの母と妹一家ぐらいで、あとは名前がちらっと出てくるか、極めて曖昧に仄めかされる程度だ。その絞り込みのお陰で物語が充分に整理され、ひとつひとつの描写を丁寧に行っているので、味わい深い場面が非常に多い。たとえば、自分を捨てていったボクサーの試合をテレビで観戦しながら手足を動かしているフランキー、彼に言葉で言い負かされ涙ぐみながらも目の光は衰えていないマギー、リング上での些細な仕種や、またスクラップとジムを訪れるボクサーたちとの交流、などなど。
 こうしたくだりに説得力が備わっているのは、メインの三人がそれぞれにボクシングの作法を見事にものにしているからだ。マギーに対してフットワークを教える際のフランクの足捌きは、力強さこそやや欠けているものの経験値の豊かさを思わせるし、かつてプロであったスクラップもまた終盤手前で見事な動きを披露し、その前後の言動を裏打ちする。だが最も素晴らしいのはマギーを演じたヒラリー・スワンクである。冒頭では二年の経験からパンチにそれなりの力はあるが躰捌きがなっておらず、まだ腕の振りに鋭さがなく素人っぽい。しかし、フランキーやスクラップの薫陶を受けるようになると次第にそれをものにしていき、中盤あたりでは見事にプロに変貌してしまった。成長過程さえ再現してしまったその演技にはひたすら脱帽もので、二度目のオスカー獲得も当然と思う。
 そうして説得力充分にステップアップの過程が描かれたのちのクライマックスは、たとえ原作を読んでいなくとも事前の情報から察していた人は多いだろうが、それでもかなり衝撃的だ。まさにそれまでに育まれてきたフランキーとマギーの絆が真っ向から試される展開であり、彼らの選択に異議を唱えたくなる向きも多いだろう。しかし、本編の描写にはそれを黙らせてしまうくらいの力強さがある――そこまでに提示された彼らの生き様は、こういう結末を選ぶしかなかったものであり、迷いながら、悔いながらも決して曲げなかったその姿勢は、理解するにせよしないにせよ美しく映るはずだ。
 当初気になっていたのは、原作を読んでいたせいもあるのだが、フランキーとマギー主体のエピソードとスクラップ中心のエピソードを如何に融合するか、という点であったが、スクラップが関わったエピソードがきちんと物語に更なる重厚感を齎し、また彼のナレーションが最後に見事な形で作品を締めくくっており、実に上手い。展開を知っていただけに、恐らくほかの観客よりも冷静に作品を鑑賞していたはずの私だったが、この部分には不覚にも(きちんと伏線が張ってあったにも拘わらず)驚き、やられた、と思いながら震えてしまった。
 CGは一切使わず特殊効果も最小限、クリント・イーストウッド自らが手がけこちらもアカデミー賞の候補になった音楽も極力使用を抑え、終始静かに、しかし情感豊かにこの苦悩の深い物語を描ききっている。救いがあるとは言い難い結末なのだが、不思議といつまでも快い余韻が胸に残り、反響を繰り返して躰中を駆け抜ける。しばらく言葉を失ってしまうほどの大傑作、である。いいから観て。

 余談であるが、実は本編終盤の主題は、第77回アカデミー賞のある部門を獲得した別作品ともろに被っている。描き方がまったく違うのでそういう意味での問題はないのだが、それでもこの時期にこういうテーマの作品が同時に選ばれるというのも興味深い――とりあえず、アカデミー賞の審査委員は現在の大統領がそうとう嫌いなのではないか、と勘繰ってみたり。

(2005/05/28)


『cinema』トップページに戻る
『light as a feather』トップページに戻る