cinema / 『SAW』

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SAW
監督・原案:ジェームズ・ワン / 原案・脚本・出演:リー・ワネル / 製作:グレッグ・ホフマン、オーレン・クールズ、マーク・バーグ / 製作総指揮:ステーシー・テストロ、ピーター・ブロック、ジェイソン・コンスタンティン / 撮影監督:デイヴィッド・A・アームストロング / プロダクション・デザイナー:ジュリー・バーゴフ / 編集:ケヴィン・グリュータート / 音楽:チャーリー・クロウザー / 衣装:ジェニファー・スーラージュ / 出演:ケアリー・エルウェズ、ダニー・グローヴァー、モニカ・ポッター、マイケル・エマーソン、ケン・リョン、マッケンジー・ヴェガ、ショウニー・スミス、ベニート・マルチネス、ダイナ・メイヤー / 配給:Asmik Ace
2004年アメリカ作品 / 上映時間:1時間43分 / 日本語字幕:松浦美奈
2004年10月30日日本公開
公式サイト : http://sawmovie.jp/
VIRGIN TOHO CINEMAS 六本木ヒルズにて初見(2004/11/02)

[粗筋]
 目醒めたとき、アダム(リー・ワネル)は浴槽のなかにいた。飛び起きたとき、周辺は真っ暗闇。俺は死んだのか、と叫ぶ彼に何者かの声が「いや」と応えた。やがて、相手がスイッチを発見したようで、部屋に灯りが点り――異様な現実がアダムの眼前に曝けだされた。
 そこは老朽化したバスルームだった。自分と対角線上にひとりの男、部屋の中央には左手にテープレコーダー、右手にした銃で頭を撃ち抜いたと思しき男が倒れている。そして対角線上にいた男も自分も、部屋の隅にあるパイプに足首を鎖で繋がれていた。
 想像を絶した状況に混乱するアダムに、対角線上の男は落ち着くように言い、自分について語った。彼の名はローレンス・ゴードン(ケアリー・エルウェズ)、外科医だという。自宅に帰る途中だったが、気づけばこんなところに監禁されていたという――理由も何も解らない、という点でアダムと状況は変わりなかった。アダムは臓器密売を疑うが、その種の外傷は自分にもアダムにもない、とゴードンは保証する。
 横手にある扉が開かないものかとゴードンが四苦八苦していると、自分の躰をまさぐっていたアダムは、ポケットに見知らぬものが入っているのに気づいた。ビニール袋には「アダムへ」という宛名書きした紙片の「聴け」という文字とともに、一本のテープが封入されている。ゴードンのポケットにも同じく紙片とテープ、それに一個の弾丸が入っていた。
 アダムがどうにか中央に倒れた男の手からテープレコーダーを回収し、テープを再生する。アダム、という呼びかけから始まるテープが宣告するのは、彼の死。そしてゴードンに託されたテープに録音されていたのは、六時までに正面にいるアダムを彼の手で殺せ、というもの。果たされなければゴードンの妻アリソン(モニカ・ポッター)もダイアナ(マッケンジー・ヴェガ)も命はない。
 更にテープの声は説明する。中央に倒れた男は遅効性の毒物に自らが犯されていくことに耐えられず自殺を選んだということ、勝利のための手懸かりは部屋の随所にあり、特に“X”を記した箇所には重要な宝物が眠っていることなど。そして、不気味な冷静さでこう告げた。
“さあ、ゲームを始めよう”

[感想]
 映画道楽が高じた結果、ごく一部を除いてどんなジャンルであってもたいてい許容できるようになってしまった私だが、それでもいちばん好きなスタイルというのがある。具体的に挙げると、『CUBE』であり、『セブン』であり、『メメント』であり――乱暴に分類すれば、映像の暴力性を自覚してそれをスマートに演出しつつ、序盤に魅力的な謎の提示があり、それが終盤にいたって何らかの形でカタストロフィを迎える、という類の映画にいちばん刺激を感じる。実際、『セブン』なんかDVDが常に手の届く範囲にあって何度観たか解らないほどだ。
 しかし、そういうタイプの作品というのは実際のところそう頻繁にお目にかかれるものではない。『セブン』を超えた、などと謳われているから期待して劇場に足を運ぶと――まあサスペンスとしてそれなりにいい出来ではあるがインパクトで遥かに及ばなかったり、どんでん返しはあるが明らかにタイプが異なっていたり、と失望することが殆どだ。だから、似たような謳われ方をしていてもあまり期待をかけずに観に行くのが常だった。
 本編は違う。そもそも発端となるシチュエーションが非常に、私の嗜好をそそるものだった。ここからどのように物語を展開していくのか、密室から如何にサスペンスを構築していくのか、そしてどう決着をつけるつもりなのか――興味は尽きなかった。それ故に、久々に大きすぎる期待を抱いて劇場に足を運んだために、却って激しい失望を味わう覚悟すらしていた。
 だが、本編はそのプレッシャーを見事にはね除けた。異常な状況が明らかになる冒頭の鮮烈さ、丹念な心理描写。案に相違して中盤からは過去と現在とを絡める格好で話が外部に飛び火していくが、そこに不自然さを感じさせず、密室内での緊張感を更に高める効果さえ齎している。
 なるべく興を削がないようにと粗筋では直前で止めたが、本編では重要な鍵を握る人物として、通称“ジグソー”なる猟奇犯罪者が登場する。歪んだ正義感から被害者を拉致し異様な状況に陥れ、生死を賭した選択を強要する、という実に独創的なキャラクターである――本編が『セブン』になぞらえられるのもこの犯罪者の存在あってのことと言えるが、『セブン』が独善的で被害者に脱出する術を与えないのに対し、本編は“ゲーム”という体裁のもと被害者に選択を強いる。この犯罪者像と、この人物のえげつない犯行の様子だけでも実に衝撃的であるのに、描かれるのはまさにその犯行の渦中なのである。監禁されたふたりがその事実に気づいた瞬間から、ジョークの可能性は消され、事態は更に深刻化していく。ゴードンの妻子に、事件の捜査官までが物語に絡み、こうしたシチュエーション・スリラーにありがちな中弛みなどすることなく、くんぐんとテンションが上がっていく。
 そして、何よりも凄まじいのはクライマックスである――それまでの出来事を見事に伏線として昇華し、悪夢のような余韻を残す。殆どの台詞やストーリーが計算ずくであったことに気づかされるこのラストは、ブラックアウトする場面の向こう側に更に凄惨な出来事を予見させながら、しかし思いがけない爽快感さえ齎す。
 ただ、反面、そうしたヴィジュアルのインパクトを演出することに執心しすぎたためか、あちこちに不格好さや不自然な箇所を残しているのも事実である。代表的なあるポイントについては、この感想の下の方に背景色で記しておくので観賞後に御覧いただくとして、とりあえずネタバレでないと確信して明言しておきたいのは、本編で現在進行形として描かれる犯行の形態が、従前の“ジグソー”の犯行と性質がかなり異なってしまっているという点である。ほかのケースは常に被害者がひとり、“ジグソー”の拘わり方も統一されていたのに、アダムとゴードンの巻き込まれたケースだけが極度に逸脱している。“ジグソー”の信念や、自ら手を下さないという特徴はあっても基本的な性質はシリアル・キラーと変わりないことからしても、この差違はかなり不自然だ。また、ラストのどんでん返しにしても、もっと根源的な疑問を容れる余地がある。
 しかし、その大部分は(下に背景色で記した点を除いて)恐らく製作者も承知のことだろう。承知のうえで、最終的に観客に与える衝撃を優先して構成していったに違いない。そう確信するほどに、本編の作りは丁寧で手が込んでおり、そして異様な熱気が立ちこめている。物語の構成も巧妙であれば、本当に残虐な部分を隠したり早送りで瞬間的に流したりしながらも衝撃の重さを緩めない演出も巧み、俳優たちの演技も申し分がない。
 中盤の緊張感とラストの衝撃、それによって圧倒的な疲労感を観客に与えるためだけに作られた、信念に満ちたスリラー。『セブン』『CUBE』など、知性と映像の暴力的な美しさに傾倒した作品を愛する向きならば痺れること間違いない、今年の大収穫である。――但し、グロテスクな映像や痛ましい表現に耐性のない方はご注意ください、っていうかその点では凡百のホラー映画の比ではありません。

 プログラムによれば、この監督と主演&脚本コンビは既に次回作『Shhh』に着手しており、それは更にストレートな“幽霊譚”になるという。古今東西、特に昨今のホラーに対する愛着を隠さない製作者たちであるだけに、否が応でも期待は高まる。
 ただ……心配なのは、本国でのヒットを受けてはやばやと『SAW2』の企画も成立の見通しだ、という報道が先日あったこと。同じスタッフであればいいんだけど……いま現在製作中の新作があるふたりが携わることはあるのだろうか? それが無理であれば、かなり危険なことになりそうなのだが。『CUBE2』のように、ある意味でオリジナルを汚すような代物にならないことを祈るばかり。

(2004/11/04)



















































 そんなわけで、以下ネタバレ込みの疑問点とその解釈。
 本編のどんでん返しのヒントは、実は冒頭にある。アダムは水の満たされた浴槽のなかで、溺れる寸前のところで目醒めた。その拍子に浴槽の栓が抜け、彼の目の脇を何かの鍵が落ちて、排水溝に呑みこまれていく。このショッキングな冒頭から異様な現状が明らかになるあたりで幻惑されてしまうが、よく考えるとこの出来事はそのまま犯人を暗示しているのだ。
 何故なら、仮に意識を失っていたとしても、水の中に落とされればかなり早い段階で意識を回復するし、そもそもアダムの目の前を鍵が横切っていく、という描写自体が、直前まで犯人が現場にいたということを示唆する。だが、同じ部屋にいたゴードンは既に目醒めていたのだ。扉は彼の真横にある。そこから人が出て行けば、幾ら暗闇といえど気づかなかったはずはない。つまり、犯人はあの部屋から出て行っていないのである。即ち、第三の人物――部屋の中央に転がっている人物こそが犯人である、というわけだ。
 ただ問題となるのは、ゴードンが目醒めたそのタイミングが曖昧になってしまった点である。もしアダムが浴槽に浸けられる前であれば、当然そこで動く人の気配を察したはずだ。タイミングとしてはアダムが浴槽を飛び出してから次にゴードンが彼に呼びかけるまでしかないわけだが、それにしては彼は状況を正確に分析しすぎている。もっと緻密に、疑問の余地を容れずに作るのであれば、アダムを強制的に覚醒させてしばらく経ってからゴードンが目醒めるようにしなければならなかったはずだ。なまじよく計算が行き届いているだけに、ここの描写は特に違和感を齎す。
 しかし、このくらいならば些細な問題として排除してもいいだろう。冒頭でいきなり犯人に直結するような描写を施す大胆さ、またそのことに気づいたときふたたび訪れる衝撃をきちんと計算した上で脚本を練り、演出していることがよく解る。それで充分なのだ。


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