cinema / 『テキサス・チェーンソー ビギニング』

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テキサス・チェーンソー ビギニング
原題:“The Texas Chainsaw Massacre : The Beginning” / 監督:ジョナサン・リーベスマン / 原案:シェルダン・ターナー、デイヴィッド・J・ショウ / 脚本:シェルダン・ターナー / 製作:マイケル・ベイ、マイク・フレイス、アンドリュー・フォーム、ブラッド・フラー、トビー・フーパー、キム・ヘンケル / 撮影監督:ルーカス・エトリン / 美術:マルコ・ルベオ / 編集:ジョナサン・チブナル / 衣装:マリ−アン・セオ / 特殊メイクアップ:KNBエフェクツ・グループ / 音楽:スティーヴ・ジャブロンスキー / 出演:ジョルダナ・ブリュースター、テイラー・ハンドリー、ディオラ・ベアード、マット・ボマー、リー・ターゲセン、シア・バッテン、マリエッタ・マリク、テレンス・エヴァンス、R・リー・アーメイ、アンドリュー・ブリニアースキー / プラチナ・デューンズ&ネクスト・エンタテインメント製作 / 配給:角川ヘラルド映画
2006年アメリカ作品 / 上映時間:1時間32分 / 日本語字幕:村田恵
2006年11月11日日本公開
公式サイト : http://www.texaschainsaw.jp/
丸の内TOEI2にて初見(2006/11/11)

[粗筋]
 1973年、初めてその全容が暴かれた“テキサス・チェーンソー大虐殺”事件。その本格的な端緒は、1969年にあった――
 一連の惨劇で重要な役割を演じるトーマス・ヒューイット(アンドリュー・ブリニアースキー)は1939年に生まれた。精肉工場で働くスローンという女が労働中に産み落とし、仕事の疲れと出産のショックで絶命したために、経営者の手でゴミ捨て場に放り込まれたが、ルダ・メイ(マリエッタ・マリク)によって助け出される。知的障害に加えて顔面が変形する奇病のため幼い頃から迫害され、成長してようやく得た居場所は奇しくも精肉工場だったが、1969年、突如閉鎖されたことに憤り、経営者をハンマーで撲殺する。保安官はトーマスを説得する意図でヒューイット家の長子チャーリー(R・リー・アーメイ)を呼び出すが、チャーリーはトーマスを逮捕しようとした保安官を撃ち殺し、そのバッヂを奪うのだった。
 同じころ、テキサスを横断する一台の車があった。乗っていたのはエリック(マット・ボマー)と恋人のクリーシー(ジョルダナ・ブリュースター)、エリックの弟ディーン(テイラー・ハンドリー)とその恋人ベイリー(ディオラ・ベアード)の4人。ベトナム戦争への徴兵を受け、基地に赴く傍らテキサス横断旅行と洒落こんでいた。既にいちど従軍して戻ってきた経歴のあるエリックは心得を弟に諭すが、当のディーンは徴兵を逃れ、ベイリーと一緒にメキシコに向かう計画を立てていた。
 車中、密かに徴兵カードを焼こうとしたことでそれが兄に知れ、口論となっていたとき、バイクで背後からやって来た女(シア・バッテン)に銃を向けられ、応戦しようとした瞬間に道路にいた牛に衝突、車は大破してしまう。女はなおもエリックたちに銃口を向け、金品を寄越すように命じるが、そこへ見透かしたように一台のタクシーが現れた。
 ――この瞬間、男女4人の悪夢と、その後4年間に及ぶ惨劇の幕が、本格的に切って落とされたのだ。

[感想]
テキサス・チェーンソー』は、ハリウッドに“スプラッタ・ホラー”というスタイルを定着させた歴史的傑作『悪魔のいけにえ』のリメイクとして製作された。なまじオリジナルが古典と化しているだけにネガティヴな評価も多かったが、現代の撮影技術と洗練された映像・演出のセンスにより、現代的に再生することには成功していた。事実、オリジナルを知らない世代に支持されたことで興行的な成功を収め、それが続編である本作に結実した。
 オリジナルにも『悪魔のいけにえ2』という続編が存在するが、しかし本編はそのリメイクというわけではなく、あくまでリメイク版『テキサス・チェーンソー』の前日譚という立ち位置にある。同作で描かれながら謎として残されていた要素を、殺戮一家誕生の出来事まで遡り、理由を提示するという趣向になっている。
 ただ、率直に言えば、そのあたりの謎解きは決して驚くようなものでも新奇なものでもない。残虐行為の流れのなかで普通に盛り込まれたそれらは概ね想像に難くないもので、提示されたところで「あ、そうだったんだ」程度の感慨しか齎さない。前作を知っていても、リンクしたという驚きには乏しい。ひとつだけ、ヒューイット一家の異常性を剔出する上で重要な描写に用いられていた点は評価したいが、他は一種、前作から続けて鑑賞した観客へのサービスのようなものであり、それ以上でもそれ以下でもない。
 また、これも正統的な前日譚として描かれている、しかも舞台がテキサスの一軒家と精肉工場ぐらいしかない特性ゆえ致し方のないところなのだが、すべての惨劇の舞台が前作とまったく同じであるため、絵的にあまり代わり映えがしないのも気に掛かった。世界が地続きであることを如実に伝える手法ではあるが、しばしば悪い意味での既視感を招いている。
 とは言え、いわゆるスプラッタ・ホラーとしての迫力、凄惨さは前作を上回っていると思う。前作ではいかにもPV出身監督らしいヴィジュアル・センスが光っていたが、その一方で凝りすぎたカメラワークがしばし失笑を買うところもあった。本編の監督ジョナサン・リーベスマンは『エルム街の悪夢』の系列に並ぶクリーチャー主導型のホラー『黒の怨』によりその手腕が評価され、『13日の金曜日』新作の監督候補に名前が挙がっているという人物だが、そうしたキャリアに相応しく、どうすれば恐怖を演出できるか、という一点について非常にわきまえている。今作の場合、しばしはカメラを登場人物と同じような視点に置き、加害者となるレザーフェイス(それを被るのは物語の後半のほうではあるが)やその家族の行動を、車の中や机の下から間接的に描くことで、なまじ直接に見せるよりも肌の粟立つような恐ろしさを表現する技を随所に用いて成功しているのだ。特にレザーフェイスがその名で呼ばれる所以となる重要なひと幕の描写は様々な感情がひとかたまりになって押し寄せ、観賞後もフラッシュバックするほど鮮烈な印象を留める。
 前作の良かった点である、テキサスの焼け付くような陽射しを浴びた、焦げついた風景の描き方、闇と光のコントラストといった映像表現をなるべく残している点も好感が持てる。序盤で簡単ながら登場人物たちの背景を描いたお陰で感情移入の度合いが深く、そうした光景とも相俟って悪夢が間近に迫っている感覚、強烈な焦燥感をより強めているのである。
 被害者たちはとことん惨く扱われ、その行為の不条理さ非道ぶりに目を瞑れば、いっそ颯爽としているとも見えるチャーリーを筆頭に、加害者となるヒューイット一家の言動には馴染みのあるような人間味は一切垣間見せない。その徹底ぶりは、すれたホラー愛好家をもゾクゾクとさせるような怖気に満ちている。
 これといって新味はないものの、描きうる恐怖を全力で描き出そうとしている姿勢に一本芯が通っており、完成度は申し分ない。それ故に――よほどホラーが好きな人でないとなかなかお薦めしにくい。心臓の悪い方は間違っても近づかない方がいいだろう。

(2006/11/11)


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