cinema / 『16歳の合衆国』

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16歳の合衆国
原題:“The United States of Leland” / 監督・脚本:マシュー・ライアン・ホーグ / 製作:ケヴィン・スペイシー、バーニー・モリス、パーマー・ウェスト、ジョナ・スミス / 製作総指揮:マーク・デイモン、サミー・リー、スチュワート・ホール / 撮影:ジェームズ・グレノン / プロダクション・デザイン:エドワード・T・マカヴォイ / 編集:ジェフ・ベタンコート / 音楽:ジェレミー・エニック / 音楽提供:BC・スミス / 音楽監修:トレイシー・マックナイト / 衣装:ジェネヴィーヴ・ティレル / 共同製作:ダラ・ウェイントラウブ / 出演:ドン・チードル、ライアン・ゴズリング、クリス・クライン、ジェナ・マローン、レナ・オリン、ケヴィン・スペイシー、ミシェル・ウィリアムズ、マーティン・ドノヴァン、アン・マグナスン、ケリー・ワシントン、シェリリン・フェン、ウェスリー・ジョナサン、マイケル・ペーニャ、マイケル・ウェルチ、ロン・カナダ / サウザンド・ワーズ&メディア8エンタテインメント提供 / トリガー・ストリート製作 / 配給:Asmik Ace
2003年アメリカ作品 / 上映時間:1時間44分 / 日本語字幕:松浦美奈
2004年08月07日日本公開
公式サイト : http://www.16sai.jp/
新宿シネマスクエアとうきゅうにて初見(2004/08/07)

[粗筋]
 知的障害を持つ少年ライアン・ポラード(マイケル・ウェルチ)が殺害された。犯人は、リーランド・P・フィッツジェラルド(ライアン・ゴズリング)。彼はライアンの姉ベッキー(ジェナ・マローン)の恋人であり、まだ16歳の学生だった。
 地方都市を騒がせたこの犯行について、リーランドは何故か多くを語ろうとしなかった。自分が殺したことは認めながらも、肝心の動機については一切説明していない。そんな彼に、少年院に教師として勤務するパール・マディソン(ドン・チードル)が目をつけた。まともに本を書き上げることが出来ない作家でもあったパールは、自分の本の題材にしたい、という下心を隠しつつリーランドに接近する。
 同じころ、リーランドによって家族を失ったポラード家は、いいようのない哀しみに包まれていた。家長のハリー(マーティン・ドノヴァン)は車の助手席の下に拳銃を隠して、リーランドが護送される警察署の前へと赴く。だが、けっきょく拳銃は取り出せなかった。ポラード家の長女ジュリー(ミシェル・ウィリアムズ)は事件以来毎日鬱ぎ込み、ベッキーはかつて交際していた薬物中毒の男のもとに転がり込み、ふたたび薬漬けになってしまう。そんな風に家族が崩壊していく様を、ジュリーの婚約者であり、家族を亡くしたために長年ポラード家に身を寄せているアレン・ハリス(クリス・クライン)は痛ましげに見つめていた。
 リーランドとの交流が続くうちに、パールは本格的に彼の犯行動機を知りたくなっていった。リーランドは実に繊細な感受性の持ち主で、看守に言わせれば「ハエ一匹傷つけそうにない」若者だった。そんな彼がよりによって、抵抗も出来ない知的障害の少年を手にかけたのか? リーランド自身が十分に理解していないように思われるその動機を解明する糸口を掴もうと、パールはリーランドの父親であり、アメリカ嫌いでパリに滞在し続ける変わり者の作家アルバート(ケヴィン・スペイシー)に接触する。極度に鋭い眼力を備えたアルバートは僅かな会話からパールが作家志望であることを見てとると、「自分たちを利用しようなどと考えるな」と痛罵すると共に、リーランドを解く鍵を彼に求めても無駄だ、と切り捨てる。十年も前からリーランドにパリまでのチケットを送っていたはずだったが、リーランドは父の元をいちども訪れていなかったのだ……

[感想]
21グラム』と同様に、時系列と視点の錯綜する、込み入った編集をしている。だが、そのわりに困惑することがないのは、悲劇が起きる前と起きたあとで、登場人物の表情ががらっと変わっているのが画面からよく伝わってくるからだ。役者たちの演技もさることながら、感情を伝えるカメラワークの巧みさゆえだろう。
 さして飾っているようにも感じられないのに、描かれる情景は非常に美しい。事件や描かれる出来事の惨さとは裏腹に――というよりは、あれほど惨い出来事から少しでも救いを見いだせるように、という配慮なのかも知れない。凝ったカメラワークをしない代わりに、犯行直後、わざと刺した自分の手を眺めたあと、肩を縮めてその場を離れていく姿を遠くから捉えたり、リーランドとベッキーの不安定な関係を窺わせる会話を雨の降る夜に行わせたり、のちのち重要な場所となる公園の遊歩道をリーランドとベッキー、そしてライアンで歩く姿を映すあたりなど、何気ない情景が実に美しく撮影されている。
 映像が美しいだけに、個人の身勝手さや相反するような優しさ、それ故の哀しみがよけい強烈に浮き彫りとなっている。愛する家族を殺されたポラード家の人々はライアンの死を嘆きながら、肝心の加害者であるリーランドに直接憎悪を向けることはしない。かつてはライアンに対して優しさをみせた彼がどうして真逆の行為に及んだのか理解出来ないこともそうだが、現実に家族を何者かに殺された人間の反応もこれとさほど代わりはないだろう。憎むよりも先に哀しみが立ち、己に原因を求めてさえしてしまう。ハリーは拳銃まで持ち出しながら、護送されるリーランドを遠巻きに見つめるだけで終わらせ、ベッキーはドラッグの深みへと嵌っていく。
 そんなポラード家の人々でさえ、追いかけてくるマスコミに対してリーランドを「化物」と表現する。だが、それは多分、追いつめられたが故に咄嗟に出て来た言葉に過ぎないだろう――だが、どうしてそんな言葉が出てくるのか。もっと早い段階からリーランドは“悪魔”と評され、同じ少年院に収監された黒人の若者はリーランドに「悪魔崇拝なのか」と訊ねる。少年が更に弱い者を殺したことから、すぐさまにレッテルを貼られているのだ。
 だが、映画を観ていくなかで、どんな観客であっても次第に違和感を抱くはずだろう。まさにハエ一匹殺せない少年が何故、親しみさえ感じていたはずの知的障害の少年を殺したのか――それ以上に、なぜ動機さえはっきりと説明出来ない少年に、そんな“怪物”というレッテルを安易に貼ってしまうのか。恐らく本編が何よりも訴えたいのは、その一点なのだと思う。リーランドの動機自体も、特異でありながら哀しい共感を呼ぶものとして提示されるが、もっと肝心であるのは、そんな少年でさえ、私的な事情を顧みられることなく安易に「若くして罪を犯した異常な子供」として世間から裁かれてしまうという現実に、少しでも疑問を感じさせたかったのだ。
 その謎が解かれていく様を描くために、本編はパッチワークのような編集手法を選択したのだろう。「人生は断片の総和よりも大きい」という科白が何よりもこの作品を象徴している。描かれているのはあくまで断片だが、それが象徴する彼らの人生は留まることなく拡がっている。断片から放たれるメッセージのこの饒舌さはどうだ。一見無意味な挿話と感じられるパールの自堕落な暮らしぶりの描写にさえ、物語を貫くメッセージを拡張し、印象的な幕切れへの伏線が秘められている。
 何よりも素晴らしいのは、あれだけの出来事のあと、回想シーンの締め括りとしてあの場面と科白を置いたことだ。物語は最後まで悲劇のままで終わる。だが、織りなされたパッチワークは、まだ悲劇を迎える前のリーランドの呟きで最後を飾る。その途方もない哀しみと同時に、限りない優しさを湛えた科白が、事件の前の出来事であるにも拘わらず、微かな希望を感じさせてくれるのである。
ボウリング・フォー・コロンバイン』『エレファント』とともに、少年犯罪を異端として安易に遠ざける傾向に対して異議を唱えながら、決してネガティヴに浸りきらない名編。ケヴィン・スペイシーが惚れ込んだというのも頷けます。

(2004/08/08)


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