『猫魔侘剣奇伝』

あとがき


 ふう〜、暑いですね〜。この小説書いたのが冬場だったかな〜? 九州の夏を思い出しながら書きましたよ。
 お気づきの方もおられると思いますが、これは以前に書いた小説を新たな設定で書き直したものです。“化け猫の侍”というキャラクターを何年か前に突然思いついて、それから色々なストーリーが勝手にできてきたので、「別に時代設定とか無理に昔に拘る必要ないじゃんか?」と思いついた訳ですね。
 そもそも、正統的な時代小説にチャレンジしようとしたものの、どうも、書いていて乗れないんですね〜。何か物足りなくなってしまうんですよ。
 やっぱり、特撮ドラマで育ってる私としては、時代劇といっても『赤影』『妖術武芸帖』『ライオン丸』『嵐』になっちゃうんですよ。
 若山先生の時代劇作品だって、『子連れ狼』『鬼一法眼』『賞金稼ぎ』って、特撮っぽいでしょう?
 私の好きな時代劇って、『必殺』『斬り抜ける』『おしどり右京捕り物車』『無法街の素浪人』『影の軍団』『乾いて候』みたいな、やっぱり非正統派の作品ばっかりだし。
 特に時代劇って基本的にファンタジーなんだから、妙に当時の生活を忠実に描くなんてセコイことせんでえ〜やん?と思っちゃう訳ですよ。
 赤影なんて、千年蝦蟇とか金目像とかアゴンとドグマが戦うところとか、そういうところが楽しかったんだし、昔の話って妖怪が出てくる話が多いじゃないですか? 何で、そういうオイシイ話をネタに使わないんだろうと思うんですよ。『どろろ』なんて、まったくそういう話でしょう? 『魔界転生』なんて私的にバイブルですよ。
 荒山徹の『竹島御免状』なんて、「俺が書いたんじゃないか?」って思えるくらいだったんですけど、作者の「これだけは書きたかった」という気持ちはよく解る。

 だから、「どうせ、主人公が半分妖怪なんだし、敵も人間である必要はないじゃん?」と思った訳ですね。今回は。

 読まれたら解ると思いますが、この話はプロローグとエピローグなんですよ。本編がごっそり抜けています。
 どうしてか?というと、“本編を気合入れて書いていたら30年くらいかかりそう”だからなんですね。
 だって、二、三百年生きて、その間、日本の隅々、ひょっとすると外国まで旅していろんな妖怪を倒してきている筈なんです。それを全部書いていたら物凄い長編になってしまいますからね。
 まあ、水戸黄門とか近衛十四郎の主演ドラマみたいな感じになる訳ですよね。
 それに、別に江戸時代に限らなくても明治・大正・昭和・平成と『帝都物語』と『ハイランダー』を足したみたいな展開にもできますからね。ちょっと自分でも「こりゃあ、広げ過ぎたな〜」と反省しましたけどね。
 イメージ的には、サンジェルマン伯爵みたいなキャラが面白いだろ?って思った訳ですよ。主人公が歴史上のいろんな重要人物と関わりがあったりするのって楽しいでしょ?

 今回はお試し新耳袋風にしてみましたが、“妖怪武侠小説”みたいな大長編になったら面白いだろうな〜と思ったりしております。夢は漫画化、アニメ化、実写映画化ですけどね〜。

2010年8月 長野峻也


 長野先生より原稿を受け取って読んでみたら、久しく小説なんか読んでないのに、スルっと読めました。さすがに文を書きまくっている人は違う。長年溜めこんだオタク人生の澱を固形燃料に加工して一気に燃焼させることが、この人なら出来るかもしれません。燃えろ燃えろ!

 数少ない既読書から、話の雰囲気としては『吸血鬼ハンター"D"』『帝都物語』に近い感じかな? でも、そんなの本気で書こうとすると大変だぞ、と。
 なのでキャラ萌え要素を加えて、キャラで話を回す装置を設置したくなり、勝手に小細工を加えていきました。石堂良子は巨乳“ツン”キャラ、珠子はとぼけた性格ながら思い込みの激しい病みの要素があり、めちゃくちゃ強い、なかなか危険な存在です。又十郎は真面目さ故にちょっとアホなイケメン……。
 アニメで言ったらまだ1〜2話、キャラの出そろってない段階ですね。これからどうなるんでしょうか。ここで視聴者の方々に視聴を切られなければいいですが。

 自分は近年は特撮物や実写邦画・ドラマなどは見ていません。
 なんだかヌルい。フィルムで撮ってないとか、時代の熱気の後押しが無いとか、人間のギラギラした部分が無くなってドライになってるとか、いろんな要素があるかと思います。
 昔は学校の部活は映画部で、8ミリフィルムで映画を撮っていましたが、ビデオへの過渡期にさしかかり、皆不安を抱えたものです。今ではプロもアマチュアも、パソコンでの編集が普通になり、利便性の面では飛躍的に向上しているのはいい事でしょう。フィルムなんて過去の遺物、なにもいい事なんてありゃしないよ……と思っていましたが、撮影時の緊張感とか、フィルムの持つ質感の影響は、今考えると大きかったような気がします。「物質」の持つ魔力というのは、なかなか馬鹿にしたものじゃありません。目先の利便性の前には弱い力ですが、確実に心理に影響します。
 音楽でもそうですね。レコード→CD→データと遷移し、面倒な手続きやノイズが無くなり、喜んだものです。しかしレコードは聞く度にすり減っていくのだという、緊張感が視聴の姿勢に影響していた部分や、レコードのジャケの魔力というものは失われてしまった。
 本だっていずれは電子書籍がはびこることになるかもしれません。自分としては大歓迎です。

 懐古趣味にはひたりたくありません。時代の流れには誰も抵抗できないし、してもいつかは滅びてしまう。新しく獲得した利便性を武器に、昔は出来なかったことができる、その可能性の方に賭けてみたい。
 たとえ何か無くしたとしても、自分という人間としての存在が不変であれば、一番大事なものは永久に確保される。

——そんな人間讃歌できれいに話をまとめて安心したいところですが、「人間」という座にも疑いを持っています。自分としては2004年あたりからアニメの視聴の方に重点が移り、映画「アバター」にも個人的にショックを受けたことを考えると、人間としての存在というのは実はどうでもいい、見た目や動作がそれらしくあり、またかなりデフォルメされていても十分に代用できるということを再認識しました。そんなもので代用できて何の不都合も感じないなんて、生身の人間様は堕ちたものです。しっかりしてほしいものです。
 実はこれは何も新しい事ではないのですが。漫画なんかはただの線画なのにかなり前から特に日本人は親しんできました。そういうものに「人間」を感じる為には、ある程度の訓練が必要かとは思いますが、訓練すればどうにでもなってしまう。意外に人間の認識というのは適当にできている、もしくはかなり高度な補完能力を持っていると言うべきでしょうか。
 簡素化されたり、デフォルメされたデータを脳内で人間の形に復元するには、互いに共通の認識が必要で、それには人間という「本体」をキーとする必要があるでしょう。しかし、その「本体」もまた、デフォルメされた、極端に言えば偽物のデータの集積で、ねつ造する事が可能かもしれません。人間というのは、たまたまそこにある、静止した「状態」でしかない。それ自体にたいした意味はありません。問題はどう「動く」か、でしょう。流れない水は腐る。それでも「物体」としての魔力は有してはいる。さて、それはどれほどの力があるものか。弱い力か、意外に強い力か。

 実体などいらない、実体験など必要ない。
 今風に言えば「クラウド型」ってことですか。
 要は「人間」という座に甘んじて「居着いて」いてはいけないんじゃないか、人間である必要は無い、妖怪にでも何にでも進化して人間をやめてしまってもいい、何も思い残す事は無いのだ、と、夏目又十郎は考えるかもしれません。
 たまには人間だった時代を懐かしむこともあるでしょうが……しかし「懐かしい」というのはこれまた、どういった気の迷いなのだろうか……。

 というわけで、『猫魔侘剣奇伝—未来編—』では電子ネットワークの海に没入した又十郎が、華麗に電子戦を繰り広げます(嘘)。

2010年11月 糞怒士38


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