下野国の国人領主。那須政資の子。那須高資の異母弟で、母は大田原資清の娘。通称は次郎。修理大夫。
はじめ下野国那須荘の森田城に在って森田姓を名乗っていたが、天文20年(1551)1月に異母兄の高資が千本資俊(道長)に謀殺されたため、那須氏の家督を継いで下野国烏山城主となった。
弘治元年(1555)の冬、古河公方・足利義氏に誓詞血判を提出して臣従する。義氏の元服にともなうものであろう。それに伴い、義氏の後ろ楯となっている北条氏との交誼も結んでいる。
弘治3年(1557)の冬頃、佐竹義昭とともに宇都宮広綱の重臣・芳賀高定を支援し、壬生綱雄を宇都宮城から逐った。兄の高資はたびたび宇都宮氏と抗争し、天文18年(1549)には宇都宮尚綱を討っている(五月女坂の合戦)が、資胤は宇都宮氏との融和路線に転じたといえる。
永禄3年(1560)、陸奥国の蘆名盛氏や白川(小峰)義親の侵攻に対抗し、弟の福原資経や黒羽城主の大関高増を先鋒として南奥の小田倉で防戦し、苦戦を強いられながらも撃退することができた。
永禄4年(1561)3月には、相模国の北条氏を討伐するために越後国から越山してきた上杉謙信の招集に応じて、下野国榎本に出陣している(越山:その1)。だが資胤は永禄6年(1563)までには北条方に転じたらしく、那須衆のなかでも上杉派であった大田原氏や大関氏などが資胤から離反している。
永禄6年には大関高増が常陸国の佐竹義重と結び、資胤を烏山城に攻めた。資胤はこれを迎え撃って撃退したが、以後、永禄9年(1566)8月には治武内山、永禄10年(1567)2月には大崖山などで佐竹氏らの侵攻を迎え撃つなど、永禄11年(1568)9月頃に大田原・大関氏らと和睦するまで断続的に戦闘が続けられた。
永禄12年(1569)末までには佐竹氏や白川氏とも一時的に和議を結んだようだが、翌元亀元年(1570)には佐竹氏から攻撃を受けている。佐竹氏との和睦が成立したのは元亀3年(1572)6月であった。この頃には資胤も、年々強まってくる北条方の軍事的圧力を脅威に感じていたようである。
この後、一時的な断絶はあるものの概ね佐竹氏とは協調し、天正6年(1578)5月頃に結成された佐竹氏を盟主とする反北条氏連合(いわゆる「東方之衆」)にも名を連ねている。
天正7年(1579)10月に佐竹氏が甲斐国の武田勝頼と同盟を結ぶと、那須氏もこれに同調して武田氏と結んだ。
なお、天正8年(1580)3月には武田氏との音信は子の資晴が主に担っており、天正10年(1582)半ば頃までには代替わりしたようである。
天正11年(1583)2月11日に没した。法名は江月院蘆錘玄雪。