陸奥国の国人領主。大内義綱の子。通称は太郎左衛門・勘解由左衛門。備前守。廉也斎と号す。陸奥国安達郡小浜城主。
出自を多々良姓大内氏(周防国大内氏)の支族と称すこの大内氏は陸奥国安達郡塩松城に拠り、はじめは石橋氏を主家としていたが、永禄11年(1568)に定綱の父・義綱が田村氏に内応して石橋氏を滅ぼし、天正年間の初期には定綱が二本松義継と結んで田村氏からの自立を図るなど、情勢に応じて周辺の諸領主との離合を繰り返して勢力を維持した。
天正10年(1582)には伊達輝宗が相馬(弾正大弼)盛胤から伊具郡小斎城を奪取したことを祝賀するため、小斎の陣所に輝宗・政宗父子を訪ねている。
天正12年(1584)の冬には政宗の伊達氏家督相続を祝して伊達氏の本城・出羽国米沢城に赴き、このときに伊達氏への服属を打診されて承諾し、米沢で越年して天正13年(1585)春に小浜城に帰ったが、その後に米沢には戻らず、4月頃には態度を翻して蘆名氏へと通じて政宗と敵対する。このため、同年閏8月に伊達勢によって要衝・小手森城を攻め落とされるところとなり、9月25日には小浜城を捨てて二本松義継を頼り、次いで蘆名氏のもとへ逃れた。
天正16年(1588)2月には中新田の合戦(大崎合戦)で苦戦する伊達勢の虚を衝いて伊達領の安達郡苗代田城を攻めているが、同年4月には高野親兼・伊達成実を介して政宗に謁し、その麾下として服属した。
天正17年(1589)に所領を賜り、弟・片平親綱とともに家格を一族に列せられている。
以降は伊達家臣として諸戦に参陣した。槍術に秀でていたという。