筑前国古処山城に拠る国人領主・秋月氏は北九州の大大名・大内氏、大内氏の滅亡後は大友氏に従属していたが、弘治3年(1557)に九州侵攻を目論む毛利元就に通じて大友氏に叛いたため追討を受け、当主の秋月文種以下多くの家臣が討死を遂げ、ほぼ壊滅状態に陥った。
このとき文種の遺児・種実は落ち延びて毛利氏を頼り、永禄10年(1567)までにはその支援を得て古処山城に復帰を果たした。
大友氏に宿怨を抱く種実は大友氏に反抗する龍造寺隆信・筑紫広門・高橋鑑種・立花鑑載ら、そして毛利氏と結び、古処山城に拠って決起する。このときの秋月氏の兵力は6千ほどといわれるが、これに対し大友氏当主・大友宗麟は重臣の立花道雪(戸次鑑連)・臼杵鑑速・吉弘鑑理らに2万の軍勢を率いさせ、秋月討伐を命じたのである。
大友勢は古処山城を扼す安見ヶ城を陥落させると、ここを本陣として立花隊が布陣した。この安見ヶ城の位置する地が休松である。そして吉弘隊は道場山、臼杵隊は観音岳に陣取って古処山城の攻撃態勢を固めた。この安見ヶ城が陥落した時期は不詳であるが、8月14日には小石原川沿いの甘水・長谷山などで立花隊と秋月勢が1日に7度も激突するという激戦が展開されており、この合戦は立花道雪の奮戦によって秋月勢が駆逐されている。
これらの緒戦に敗れた秋月種実は急使を遣わして毛利氏に助勢を請うとともに、古処山城に籠もって防備を固めた。
そして9月になり、大友陣中には毛利勢が大軍を率いて九州に侵攻するとの情報が届く。大友勢に従軍していた諸将らはこの報に浮き足立ち、自領へ引き上げる者も出てくる始末であった。
この事態に対処するため、大友勢は筑後川を防衛線として後退することを決めたが、この動きを察知した種実は好機と捉え、9月3日の夜に4千の兵とともに城から打って出て、2里ほどを隔てた休松へ向けて強襲したのである。
この不意の夜襲を受けた吉弘・臼杵の両隊はにわかに崩壊し、小石原川沿いに敗走して立花隊の布陣する安見ヶ城へとなだれ込んだ。このために立花隊にも混乱が伝播し、同士討ちさえ起こす状態だったという。
この戦闘では種実方が火を放って攻め立てたともいわれるが、夜戦においては地の利を知る秋月勢が優勢であった。
統制を失った大友勢は筑後国の山隈方面へと撤退するまでに4百人以上の戦死者を出したといわれるほどの損害を被ることとなり、とくに立花道雪の5人の弟もこの戦闘で戦死したという。