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日米全面対決の遠因.....日本軍の南部仏印進駐

 大東亜戦争(太平洋戦争)開戦直前の昭和15年、 近衛内閣は何とか日中戦争を終結の方向にもっていこうと苦慮していました。    短期決戦を目指して始まった支那事変(日中戦争)でしたが、戦局を打開できず、 長引く泥沼の日中戦争はいまや戦争の目的さえ判らなくなっていたのです。    その根本原因は、列強各国が当時重慶に拠点を構えていた中華民国の蒋介石に、 様々な支援輸送路(援蒋ルート)を使い、武器や食料の支援を行っていたことでした。

 日本はフランス政府側に対して繰り返し、北部仏印(フランス領インドシナ北部)やビルマルートを通って行われる、支那に対する米英の援助ルートの閉鎖を申し入れますが、受け入れられませんでした。    それどころか、工業資源に乏しく海外からの輸入に頼る日本は、戦争に必要な石油や鉄くずなど戦略物資の多くをアメリカから輸入していましたが、1939年(昭和14年)7月、 日米通商航海条約の破棄を通告されてしまいます。  これらを断ち切られたら日本は窮地に陥ります。   ところが、それから2か月後の9月1日、ドイツがポーランドに侵攻したことで、 イギリス・フランスがドイツに宣戦布告し、第二次世界大戦が勃発します。

 これは国際社会から孤立し「...積極的に国難打開に乗り出す」ため、大政翼賛運動と大東亜共栄圏思想 を唱えていた近衛内閣にとって、マサに渡りに船の出来事でした。  東南アジアを植民地支配していたオランダやフランスはドイツの侵攻によりドイツの影響下に置かれ、その兵力を減らさなければなりませんが、 英米の経済ブロックから抜け出したい日本にとって、この機会にその地域の資源を手にできる絶好のチャンスが訪れたのです。

 「バスに乗り遅れるな」のスローガンに乗っかった日本は、枢軸国ドイツ・イタリアに急接近し三国同盟を結び、1940年(昭和15年)9月23日、 フランス領インドシナ北部(仏印)へ進駐を開始します。   この進駐は石油やボーキサイト、ゴムなどの資源を確保するとともに、 支那への物資援助ルートを遮断することにより支那事変の解決を早期に図る目的でした。

 ただ、この行動は当然アメリカの警戒心を招くことになります。 日米通商航海条約は1940年1月26日に失効しましたが、日本軍がいずれ南部仏印進駐する第一歩と捉えたアメリカは対日態度を硬化させ、 さらに鉄屑や石油の輸出の制限に踏み切ります。  これにより日本国内には、1930年代後半(昭和10年頃)から行われてきた米英蘭中諸国による日本に対する石油や屑鉄など戦略物資の輸出規制・禁止による経済的な対日包囲網、 いわゆるABCD包囲網の打破という世論が高まり、 日米開戦の要因となっていったのは必然でした。  これを契機に日本は 太平洋戦争への道を突き進むことになります。

 ちなみに、もはや日中戦争の目的さえ失っていた日本は、中国と粘り強く日中和平工作を行っていましたが、 アメリカに対しても、1941年11月20日から25日の間、日米戦争の行方について戦争か妥協かという最後の交渉が行われていました。  ここで日米暫定案が、 まとまりそうになります。

 これを知ったソ連の手先、ラフリン・カリーは、重慶で蒋介石の顧問をしていたラティモアに、「まとまりそうなので、蒋介石から『日米妥協に断固反対する』という電報を打たせよ」と指示します。    蒋介石はすぐさま、「日米が妥協すれば、中国国民はアメリカから離れ、対日戦線は総崩れとなり、米中関係はおしまいとなる。  日米が戦争になれば、絶対にアメリカが勝つ」と電報を打ったといいます。     結果、日米交渉は決裂し、日本は真珠湾攻撃に踏み切ったわけです。   蒋介石はこの報を知ると「これで救われた」と漏らしたといいます。  しかし、21世紀になっても日本にはいまだに堂々と「日本悪玉論」 が蔓延っているのです。

 日本は中国大陸における満州権益を守るため、大陸に勢力を拡大していったわけですが、  米国も1937年頃から、国民党軍の支援として戦闘機と米国人パイロットを中国現地に派遣しています。   ただ、その当時日米は中立関係にあったため、パイロットは義勇兵という形で参戦するため、 米軍を一旦退役しています。  この部隊名は「フライングタイガース」の名称で知られます。(Wikipediaより)(2024.7.14)


    

日本を開戦に追い込んだ米国の謀略

 西洋列強に食い物にされ半植民地となっていた中国を辛亥革命で支援し、さらに日露戦争に勝利し満州権益を手にした日本は、欧米列強にとって邪魔者以外の何者でもありませんでした。    特に中国利権争いに出遅れ虎視眈々と利権を狙うアメリカにとって、中国で存在感を発揮する日本は目の上のタン瘤だったのです。

 時の米国大統領・フランクリン・ルーズベルトも日本を毛嫌いしており、 「日本人だけ隔離して衰えさせる」と、日本抹殺を決意していました。  そんな日米関係ですが、 実は、日露戦争当時はおおむね良好でした。 しかし、戦争終結とともに、互いに中国を巡る利権争いからギクシャクし始めます。

 日露戦争に勝利した日本はロシアの満州権益を手にしたわけですが、ここに米国人実業家ハリマンが満州鉄道の共同経営を持ち掛けます。   これを一旦は日本政府も了承したのですが、小村寿太郎外相が国益上の観点からこれを破棄します。  これがきっかけとなり、 アメリカは邪魔者日本排除を決意。  中国大陸に勢力を拡大していく日本に対し、 中国権益拡大を阻止するためあの手この手で揺さぶり、国際社会から孤立させようと画策していくのです。

 アメリカがまず手を打ったのが、それまで容日反共だった蒋介石に接近し援助を行うことでした。  アメリカは蒋介石の国民党に多額の借款を与え、 武器を売却するなど間接的支援を行います。   大東亜戦争直前には、米軍が編成した「フライングタイガース」という、義勇軍飛行隊と称していますが、 れっきとした正規軍まで派遣し中国空軍を支援していたのです。  これは国際法を無視する行為であり、 アメリカは開戦前から対日戦に踏み切っていたわけで、 日本軍による真珠湾攻撃を奇襲というなら、アメリカの欺瞞工作こそ卑怯な違法行為です。

 何としても日本の中国利権を奪いたいアメリカは、次々と日本排除の策略を繰り出します。   1921年11月のワシントン会議では、 第一次世界大戦でドイツに勝利し得られた山東半島の権益を中国に返還させられるなど、あからさまな「日本つぶし」を仕掛けたのです。  1933年(昭和8年)3月に国際連盟を脱退したのも、 満州の中立化を図り、アメリカが中心となって管理するという、労せずしてアメリカが満州利権を手中に収めるという、到底日本が飲めるはずのない、アメリカ寄りの内容に抗議するためです。(2024.7.12)


日米の戦争は避けられない運命だった

 世界の歴史は戦争の歴史といっても過言ではありません。  ヨーロッパにおいても 激しい領土争い が長年に渡り繰り広げられてきました。  植民地どころか国そのものが消滅する戦いが過去何度も起こってきたのです。

 もし日本が太平洋戦争で白人勢力をアジアから駆逐しなかったら、 今でも世界地図は植民地のままの国が大部分を占めていたはずです。  日本がアジア・アフリカ を統治してきた西洋人を打ち負かし、 独立解放へと導いた国だったというのは歴史の事実なのです。

 フィリピンの中学校教科書には、「...日本の勝利はアジア民族に大きな影響を与えた。  その第一はアジア人が西洋人に劣っていないこと、西洋の大国にも打ち勝てることを証明した。  第二に 西洋の帝国主義に圧倒されていたアジア諸国国民のナショナリズムを掻き立て、フィリピン、インドネシア、 インドなどは日本をアジア解放のチャンピオンと仰ぎ見た...」、と記述されているそうです。   自国の「非」を山ほど書く日本の教科書とはエライ違いなのです。

 大戦中、日本は「大東亜共栄圏」という、 欧米列強国によるアジア植民地支配からの解放を掲げ、1943年(昭和18年)11月5日、 東京で近代史上初めて有色人種のみが一堂に会したアジア地域の首脳会議を開催していたほどの国でした。 自由と平等、民主的などとはかけ離れていた当時の世界情勢の中、 有色人種国の代表らは宗主国気取りする米英の抑圧からの解放を求めて集まったのです。

 世界中の有色人国家から資源を搾取していた白人国家にとっては、有色人種国家でただ一国、 世界の一等国の仲間入りを果たし、 人種差別撤廃と大東亜共栄圏構想 で有色人国家の自主独立を掲げる日本の存在は目障りなものでした。  このまま、劣等民族である有色人種の自立など許したら、 白人国家が持つ植民地を解放しなければならず、そうなればもともと資源不足である西洋列強諸国は破産です。    そこで欧米列強は日本から次々に利権を奪い、 日本を国際連盟から脱退せざるを得ない立場に追い込んだのです。

 経済封鎖に追い込まれた日本は、 その後最後通告のハル・ノートを突き付けられ、 止む無く米国との戦い(大東亜戦争) へ突き進まざるを得なくなったわけですが、 この背景には日米分断を企てるソ連コミンテルン(共産主義組織)の策略があったことが戦後明らかになっています。

 1941年(昭和16年)12月8日の真珠湾攻撃から2カ月後、ルーズベルト大統領の命令により日本にルーツを持つアメリカ国民(日系人)は財産を全て没収され、 女・子供関係なく強制収容所に送られています。 現代でも人種差別は至る所で見受けられますが、 当時の有色人種に対する白人の差別は、現代から考えれば想像を絶するものだったのです。

 いずれにせよ、世界で白人列強による植民地争奪戦が続く限り、日本と白人列強との戦争は避けられない運命であり、 日本は勝ち目のない戦いへと突き進まざるを得ない立場に追い込まれていったのです。    日本の敗戦後、占領したアメリカはアジアにおいて欧米列強国が繰り広げていた帝国主義の終焉を早めさせたこの忌々しい日本に対し、 この島国の連中が再び戦いの場に出て来れないよう武力を持つことすら禁じる 新日本国憲法を作ります。(2016.11.07)


 

開戦前から対日戦に踏み切っていたアメリカ

 日本が半植民地化されていた中国を列強支配から抜け出させ、共にアジア解放へ進もうとする動きを苦々しく思っていたアメリカは、 日支提携を阻むため、日本に向かう留学生を顎足つきで米国留学へ誘導し、 反日思想を吹き込み反日感情を高め、祖国に帰った留学生たちの力によって中国から日本を排除するよう様々な工作活動を行います。

 当初「親日」だった蒋介石は、共産党軍や軍閥との内戦を勝ち抜くため、ソビエトとつるんだり、 中国共産党と連繋するなど、 相手かまわず自分にとって都合のいい相手を求めており、そこに食い込んでいったのがアメリカでした。   その後、 蒋介石はアメリカの援助が無いと政権維持が出来ないところまで米国に依存していきます。     これでは米国の意図を無視して対日和平へ動けるはずもなく、以降、蒋介石は強固な「抗日姿勢」へ変貌していきます。

 このような情勢から、中国大陸における日本は徐々に「四面楚歌」状態に置かれていきます。    上海の「日本人居留区」でも排日運動が激しさを増していき、 「日本人僧侶襲撃事件」、「三友實業社襲撃事件」など日本人が中国人に襲撃され死者まで出る騒ぎが頻発します。

 そしてとうとう、1932年(昭和7年)1月28日、上海市内において中華民国軍(十九路軍)が「日本人居留区」に攻撃を仕掛けた 第1次上海事変が起こります。  激しい市街戦が繰り広げられますが、 3月3日、十九路軍の退却により日本軍は戦闘の中止を宣言します。    この戦闘では、初めて実戦に参加した加賀航空隊が、中国側パイロットとして戦闘に参加していた 米軍人操縦の中国軍機を撃墜しています。     当時、中国権益を狙っていた米国は、秘密裏に米軍パイロット部隊を派遣し大東亜戦争開戦前から対日戦に踏み切っていたのです。     これに日本は抗議しますが、米側は退役軍人がやったことだとシラを切ります。   大東亜戦争直前には、米軍が編成した「フライングタイガース」 という義勇軍飛行隊まで派遣し中国空軍を支援しています。

 狡猾な米国は、かなり前から日中が友好関係になり、半植民地となっていた中国大陸から西洋列強が追い出されるのを阻むため、 中国の若者を米国に留学させ、反日思想を吹き込み、日本を中国から排除する動きを誘発する工作を行い、さらに国際世論を味方につけるため、 上海爆撃事件 を日本軍のせいにしたり、『ライフ』誌による捏造写真をニュースとして全米に放映するなど、 せっせと排日プロパガンダ攻撃を仕掛けたのです。

 蒋介石は、それまで親身になって中国統一化を支援していた日本をアッサリ袖にし、手を結ぶ相手を、愚かにも自分たちを植民地支配している列強の仲間、 米国に乗り換えたわけですが、梯子を外された格好となった日本の立場を考えれば、 このまま大人しく中国大陸から手を引くわけにいかないのは当然でした。   そんな中、勃発したのが第1次上海事変だったのです。(2024.7.15)


日本を邪魔者と見なし排除を図るアメリカ

 中国大陸に着々と勢力を広げる日本の存在に、警戒感を強めたアメリカは、日本の力を削ぐことを目的として、1921年11月12日、 アメリカによる日本孤立化作戦だった 「ワシントン会議」を主催します。

 中国は当時多くの国から権益を奪い取られ半植民地状態されており、 日本も勢力を拡大しつつありました。  中国権益確保に乗り遅れていたアメリカは、このままでは自分の取り分が無くなってしまうため、取りあえずこれ以上の中国への内政干渉を原則禁止する 「九カ国条約」を強引に日本に結ばせ、時間稼ぎしようとします。     さらに、この機会を利用し日英同盟を破棄させることにも成功しています。

 「九カ国条約」は、中国利権拡大を図る日本にとってはダメージですが、中国進攻に乗り遅れ中国に権益を持たないアメリカには関係ないわけで、 中国権益と無縁の米国だからこそ、「東アジアの平和秩序のためにも、中国にこれ以上干渉するのはやめよう」というキレイごとを口にできたわけです。    もしワシントン会議の主役であるアメリカが、他の列強同様中国に権益を持っていたなら、こんな取り決めなどするはずはないのです。

 そもそも、そんな正義ツラするアメリカからして、当時はメキシコからはテキサスとカルフォルニアを奪い(米墨戦争・1846〜48年)、 太平洋側に進出してハワイを略奪し(1898年ハワイ併合)、 米西戦争(1898年対スペイン戦争)によってキューバ、プエルトリコ、フィリピン、グアムなどをスペインから奪取し、植民地にするというようにすさまじい勢いで太平洋地域に勢力を拡大 しており、いずれ中国や満州の権益確保も視野に入れていたのです。  まさに、「どの口が言う」なのです。

 さらに、日本は、第一時世界大戦後のヴェルサイユ条約によって、ドイツから南洋諸島(パラオやミクロネシア諸島など)の委任統治権を引き継いでいましたが、 フィリピンを植民地化していたアメリカにとって、南洋諸島はフィリピンとアメリカ間の航路を完全に遮断する位置に存在しており ここを日本に統治される事態は大きな脅威でした。  そのため、「ワシントン会議」において、「四カ国条約」を制定し、 「太平洋諸島を奪い合う行為は禁止する」ことを日本に押し付けたのです。

 このように、日本抹殺を図るアメリカは、「ワシントン会議」を利用し、 日本の権益を根こそぎ奪おうとしたわけです。   もともと、根深い白人至上主義に凝り固まったアメリカは、 有色人国家を植民地支配して資源を奪い奴隷とするのが、自分たちの当然の権利としていました。  そこに登場した、日露戦争勝利により満州権益を手にし、 第一時世界大戦の貢献により山東省のドイツ権益を引き継ぐなど、中国大陸進出への足場を着々と築く、有色人国家・日本の存在は、 まさに目の上のタンコブだったのです。

 東アジア制覇を目論み、中国大陸権益も手中に収めようとしていたアメリカは、「有色人種にもかかわらず」、アジア唯一の自主独立強国・日本に対し、 日露戦争中の1904年から、日本を仮想敵国と定め封じ込める目的で、 排日政策を推し進め陸海軍統合会議が「オレンジ計画」の作成に着手していました。     「食うか食われるか」の時代、日米対決はいずれ避けられない運命だったのあり、 あの戦争は全て日本が悪かった、とはいえない時代背景があったのです。(2024.7.14)

  

アメリカの日本孤立化作戦「ワシントン会議」

 1921年(大正10年)11月12日、第一次世界大戦以降、中国に勢力を広げる日本の存在に、アメリカは警戒感を強め、ハーディング大統領が提唱して、 「ワシントン会議」が開催されます。

 この会議の目的は、「ドイツ権益」を継承し 「二十一箇条要求」、 「シベリヤ出兵」などで頭角を表してきた日本を、 これ以上発展させないよう封じ込める目的を秘めていたもので、「日本孤立化作戦」というべきものでした。    中国進出に出遅れ、中国権益を狙うアメリカとしては、 日本がこのまま中国権益を拡大し続けていくことは、到底容認できるものではなかったのです。

 日本抹殺を図るアメリカは日本の権益を根こそぎ奪うべく、1921年米英本位の世界新秩序構築を大義名分として「ワシントン会議」を開催、 海軍の軍縮案(ワシントン海軍軍縮条約)を提案。   米・英・日の主力軍艦保有の比率を、10:10:6にし、 さらに各国が今建造中の軍艦も建造を中止して廃棄させようとします。  これは、日本は米・英より格下であることを受け入れさせようとする内容であり、 イギリスにとっても世界最強の海軍国家の地位を放棄しなければならない、はなはだ不利益な内容でした。

 日本は当初、1919年(大正8年)に行われた第一次世界大戦の講和会議「パリ講和会議」で主張が通らなかった前例もあり、この会議の目的に懐疑的でした。  そもそも、 東アジアの問題なのに、列強が会議を主催するというのもオカシナ話なのです。  しかし、結局「軍縮と地域問題は不可分」という英米の主張を受け入れ、参加を決意します。

 会議ではアメリカはいきなり「軍縮条約」を持ち出します。   各国海軍の軍備を制限するため「米英日の主力艦の保有比率を、五対五対三にしよう」 と提案したのです。  イギリスとしては、大戦で経済的にも疲弊しており、比率もアメリカと同じなので文句はありません。

 しかし、日本の米英の6割という比率は、本来であれば米英日は対等にしてしかるべきなのに、あまりにも有色人種・日本を見下したものでした。  そもそも、 会議の目的は「日本封じ込め」であり、条約の成立は日本の出方にかかっていました。

 当時の日本政府は大人でした。   出席者が注目する中、首席全権の加藤友三郎は『米国案のすばらしい目的に感動し、喜んでこの提案を受諾する。 日本の軍備に大削減を加える決意で協議に応じる用意がある』 と宣言し満場の拍手を浴びます。   正直、当時の日本の実情保有比率は米英の6割にも満たないのが現実であり、本当は7割が希望ではあったものの、 資金的にもせいぜい6割が精いっぱいのラインだったのです。

 さらに第一時世界大戦特需の終焉により 戦後恐慌といわれる不景気に見舞われ、軍艦建造の拡大に躊躇しており、提案を受け入れざるを得ない状況にあったのです。   サスガ、米英の情報分析能力は侮れなかったわけです。    ただ、日本は一方的に譲歩を迫られたわけではありません。  マニラとグアムの米軍基地の不拡大という約束を取り付けています。

 会議ではあと二つ条約が取り決められます。  まず中国問題に関しては、中国への今以上の内政干渉を原則禁止する 「九カ国条約」が結ばれました。  これはそれまで中国権益の分け前にあずかっていなかったアメリカが、 とりあえず日本がこれ以上中国利権を拡大するのを阻止しようとしたものでした。

 中国の独立と領土を守るため、という建前でしたが、言い換えれば、列強は抜け駆けせず平等に中国に進出しようよ、というものでアメリカは列強に追いつきたかったのです。    しかも、これを機に、1917年(大正6年)11月に締結していた「石井-ランシング協定」を破棄させています。

 「石井-ランシング協定」とは、第一次世界大戦中、日本とアメリカは共に連合国側として戦っていましたが、中国をめぐる日米の衝突を「とりあえず」避けるための協定で、 中国における日本の特殊権益をある程度アメリカが認めていたものでした。   また、九カ国条約とは別に、日本は第一次世界大戦中にドイツから奪い取った 山東半島の権益を、中国に返還することも承諾させられます。

 もう一つは「四カ国条約」です。  これはアメリカ・イギリス・フランス・日本が、それぞれ持つ太平洋諸国の植民地や権益を、 互いに奪い合ったりするのはやめて、現状維持しようという条約でした。   このときの外務大臣・幣原(しではら)喜重郎は、ワシントン会議で定められた平和秩序(ワシントン体制)を守っていくことを自らの外交方針としますが、 日本国民からは「軟弱外交(幣原外交)」 と批判されていくこととなります。

 一方で、日本が「ワシントン海軍軍縮条約」に列強と足並みを揃えたことは、 それまで「中国のドイツ権益を日本に渡すこと」、 「関東州(中国の遼東半島南部)の借用権利を99年延長すること」、 とした「二十一箇条要求」や、 (尼港事件)が原因で長期に及んだ「シベリア派兵期間」などのアジア進出政策により、 国際的に強い非難を浴びていた日本にとって、世界の非難をかわしつつ、国際的な日本の孤立化を防ぐことに成功した、ともいえます。

 この会議で日本が最も痛手を被ったのは、「日英同盟」 が破棄されたことです。  イギリスとしても、アメリカに対し日本と共同で抑止するために同盟は必要と言う声もあったものの、 ドイツの脅威が去ったことや、同盟関係でありながら第一次世界大戦ではヨーロッパに派兵しなかった日本に対する不満もあり、日本は継続を強く望んだものの、 結局イギリスとの軍事同盟は解消されてしまったのです。

 これで、これまで日本外交の土台でもあった「日英同盟」は破棄されました。  1917年のロシア革命により、日露戦争後に日本とロシア帝国がお互いに権益を認め合った 日露協約も破棄されていますから、アメリカによる日本孤立化作戦は成功したと言えます。

 当時の日本はアメリカとの関係悪化を避けるため、涙を呑んで不利な条約を受け入れ、列強国と協調的な関係を構築しようとしたわけですが、 戦後出版された数多の「「トンデモ近現代史本」は、 日本だけ悪者にする「支那事変(日中戦争)」本が多すぎます。(2024.8.19)


 

国際連盟を脱退した要因....アメリカによる妨害

 満州国建国前、蒋介石の国民党政府は、「満州事変(柳条湖事件)は日本の侵略行為である」と国際連盟に訴え、 1931年9月18日に起きた柳条湖事件の事実関係調査を求めていました。  それを受け、 当初はあまり乗り気でなかった国際連盟は、その後「国際連盟日支紛争調査委員会」いわゆる (リットン調査団)を設置。 日本・満州・支那へ派遣し、 聞き取り調査を行います。

 しかし、「侵略行為」を調査する国際連盟の白人列強からして、メンバーのイギリスは世界各地に植民地や権益を持つ国であり、 他の白人列強も同様に世界の有色人国家を植民地支配していたわけで、強盗が泥棒を断罪するわけにもいかず、日本の行動についても、 最終的には「やむを得ない軍事行動だった」としています。

 建前上、国際連盟としては満州国の正式承認は認められないが、 この時点では日本政府も万里の長城を境に、それ以上戦線を拡大させていく気はないだろうから、いずれおさまるところにおさまる妥協点を探ろう、 という風向きだったとされます。   肝心の中国側でさえ、満州利権を日本に譲ったり返してくれと言ったりと、 外国勢力や身内の介入によって右顧左眄しており、満州については日本と対立一本やりではありませんでした。

 しかし、これまで中国権益と無縁で、虎視眈々と満州利権を狙っていたアメリカが、 この機会を見過ごすはずはありません。  リットン調査団は「侵略」と断じていないものの、 満州についての報告書の結論は、日本と支那から満州を取り上げ、満州を非武装地帯とし、満州の中立化を図り、国際連盟が管理する、としたのです。

 国際連盟が管理するというと聞こえがいいですが、中身はアメリカが中心となって管理するというものであり、 アメリカが、労せずして満州利権を手中に収めるということです。   こんなアメリカに都合いい内容では、到底日本が納得できるはずもなく、 国際連盟を舞台とする交渉は完全に行き詰まります。

 1933年(昭和8年)3月27日、とうとう日本は国際連盟を脱退し、孤立路線を歩むことになりますが、 この背景には、何としても満州権益を得たいアメリカの日本排除の策略があったわけで、日本は好き好んで脱退したわけではなかったのです。     日本の行動について、 「罪は満州侵略ではなく、国際連盟を蔑視したという事実である」(コロンビア大学教授のF.Rエルドリッヂ氏)という指摘もあります。

 満州国の建国について、戦後は日本が満州を侵略したかのような流れが生まれましたが、 そもそも、満州の権益はロシアから日本に移っており、当時の漢民族にしても、 「万里の長城」以北の満州を「化外の地」と蔑んでおり、 支那(現中国)の一部であると考えてもいませんでした。  抗日へと宗旨替えした南京政府も、一時は日本の満州権益を認めていたのです。     日本の満州進出は中国に対する侵略である、というのは後出しジャンケンなのです。(2024.7.12)


  

日米交渉妥結を破壊した「ハル・ノート」

 日本とアメリカは、もう一歩で戦争を回避できるところまで交渉が進んでいたが、あと一歩というところで、 ソ連スパイの妨害により邪魔され悲惨な戦争へ追い込まれていった、という歴史があります。

 1941年11月20日から25日の間、日本とアメリカは戦争か妥協かという最後の交渉が行われていました。  ここで「B案」という日米暫定案が、 まとまりそうになります。   これを知ったソ連の手先、ラフリン・カリーは、重慶で蒋介石の顧問をしていたラティモアに、 「B案でまとまりそうなので、蒋介石から『日米妥協に断固反対する』という電報を打たせよ」と指示します。   ホワイトもカリーも在米GRUメンバーでした。

 蒋介石はすぐさま、「日米が妥協すれば、中国国民はアメリカから離れ、対日戦線は総崩れとなり、米中関係はおしまいとなる。  日米が戦争になれば、絶対にアメリカが勝つ」と電報を打ったといいます。     結果、日米交渉は決裂し、日本は真珠湾攻撃に踏み切ったわけです。  蒋介石はこの報を知ると「これで救われた」と漏らしたといいます。

 「ハル・ノート」は日米暫定案を最終的に打ち壊したわけですが、これを起草したのが、 ハリー・デクスター・ホワイトです。  さらに、「ハル・ノート」にはソ連の情報機関も絡んでいたとされます。   ソ連の作戦名はホワイトにちなんでロシア語 「雪作戦」と呼ばれていました。

 日米開戦の端緒となったとされる「ハル・ノート」が出された経緯には、日米分断を図りたいソ連勢力による、日米交渉妥結を食い止めるための、 スパイ大ドンデン返し作戦があった、というわけです。

 ただし、日米暫定案といっても、ハルは「....暫定協定が日本に与えるものは非常に限定された量の棉花、石油と若干の物資供給という極めて僅かな『雛の餌』にすぎなかった」と表現しており、 果たして日本がもろ手を挙げて賛同したかは不明です。

 いずれにせよ、日米暫定案は決して日本が全面的に受け入れられる内容ではないことは、米国も認識していたのです。  さらに、ハルは米国の最終会議の最中、何度も外部からの電話で呼び出され、 そのたびにハルは暫定協定案に消極的な態度をとるようになったとされます。

 この電話の相手は誰かはいまだ判明しませんが、国務省顧問・ハーバート・ファイスは、電話の相手を「大統領であったかもしれないし、日本の軍部の行動の最近の情報提供者であったかもしれない」と推定しています。      ただ、ハルはこの会議では暫定協定案の放棄について言明はしなかったとされます。

 日米暫定案がご破算になったのは、ルーズベルトが「日本側は中国からの全面撤兵を含む全般休戦の交渉をしていながら、他方ではインドシナに向って遠征軍を送ろうとしている」 ことに、「烈火のごとく立腹した」ためとされます。  一方、ルーズベルトは以前から南方の日本軍に対する資材や兵員の輸送が行われていたことを承知していたはずで、 日本軍の「通常の行動」になぜ「烈火のごとく立腹した」のかは不明とされます。

 そのため、蒋介石に『日米妥協に断固反対する』という電報を打たせよ、というソ連の手先、ラフリン・カリーの逸話が絡むわけで、まさに歴史とはスパイが暗躍するサスペンスドラマの実録版の世界なのです。(2018.12.11)


  

米国内のスパイ網を炙り出した「VENONA」

 1943年ごろから米陸軍の超秘密の暗号解読機関が、カーター・クラークという米軍将軍の指示で、ルーズベルト大統領にも秘密にして、 ソ連情報部(KGB・GRU)のスパイたちが、アメリカ国内からモスクワの本部に報告する電報を傍受・解読していました。

 この作戦は、後のNSA/アメリカ国家安全保障局)とイギリスの政府暗号学校(後のGCHQ/政府通信本部)が協力して行ったされ、この極秘プロジェクトは 「ヴェノナ文書」と呼ばれます。  1945年くらいから解読が進捗し 以前からアメリカ国内広範囲にソ連スパイが存在していることが判明します。

 しかし、暗号を解読していることをソ連が知ると作戦はパーになるため、共産主義と見られる議員やマッカーシー上院議員らを利用して、気づかれないよう攪乱させる欺瞞作戦を行います。  彼らにわざとソ連スパイの情報をリークし議会で追及させる方法で、 暗号を解読している事実を隠蔽したのです。

 これにより1930年代から1940年代にかけて、アメリカ政府機関、アメリカ国内の民間シンクタンク、民間平和団体、宗教関連団体、出版社などが、事実上ソ連に乗っ取られていた 事が判明したわけです。  次のトルーマン政権も含め1933年から1952年まで20年近くアメリカ政権中枢はソ連の手の内にあったわけです。

 ソ連の一連の暗号文書を解読したファイル群は「ヴェノナ文書」、もしくは「ヴェノナファイル」と呼称され、1995年からこの「ヴェノナ文書」が公開され始めます。  これによると、 ルーズベルト政権ではワシントンの連邦政府内部には常勤スタッフだけで二百数十名、正規職員以外で三百人近くのソ連の工作員、あるいはスパイやエージェントがいたことが確定しています。

 この「ヴェノナ文書」によって、日本を米国との戦いに引きずりこむため、日本が絶対飲めない条件 を突き付けたハル・ノートの草案作成 には、ソ連軍情報部の協力者だった米国の財務次官補ハリー・デクスター・ホワイト が関わっていたことが確認されたのです。

 「VENONA」プロジェクトが実行されなかったら、ソ連スパイ暗躍は表ざたにならなかったわけで、 戦後の冷戦にアメリカが敗北していたかもしれません。   利用されたとはいえ、マッカーシーの告発・反共運動はアメリカの危機を救ったとも言えます。  これら解読文書の多くは 米国CIAやNSAのホームページにて公開されています。

 近年では、イギリス情報部も1920年代からコミンテルンの秘密通信の大半を傍受・解読していたとする『MASK作戦』という本が出版されています。     一方、日本は昭和初期あたりまでは、優秀な軍人が諜報活動に活躍していましたが、世代交代後の日本軍は「情報」に関心が無くなったのか、 「情報戦」ではいいところなく敗北しています。(2018.12.11)

 

日本を毛嫌いしていたルーズベルト大統領

 時の米国大統領、フランクリン・ルーズベルト(任期:1933年3月4日〜1945年4月12日)の母方の祖父(デラノ家)は、支那で大々的にアヘン貿易を行い財を成しており、 その関係からか、ルーズベルトは中国に親しみを抱き、反対に日本を毛嫌いしていたとされます。  この辺りの事情も、日米対立に影響していたのは間違いないでしょう。

 勘違いされがちですが、薄氷を踏む戦いだった「日露戦争」において、 戦争終結後の日露講和条約(ポーツマス条約)を取りまとめる仲介役を担ってくれたのが、セオドア・ルーズベルト(任期・1901年〜1909年)でした。

 「彼らを四つの島に閉じ込め滅ぼしてしまえ」と遺言したほど、白人と対等に振る舞う黄色い日本人が大嫌いだったフランクリン・ルーズベルト大統領時代のアメリカは、 排日政策を推し進めます。    カルフォルニア州の多くのレストランでは「犬とジャップは立ち入るべからず」としていたのです。 東京裁判の判事レーニングは 「太平洋戦争は人種差別が主因のひとつだった」としています。

 1933年にアメリカがソ連を承認していますが、この辺りからアメリカの政権中枢に共産主義プロパガンダが浸透してコミンテルン連絡員が入り込み、ルーズベルト政権はコミンテルン工作に侵食されていったともされます。    このコミンテルンが日米開戦を促す謀略を仕掛け、 最終的に日米交渉を破綻させ日本に戦争を決意させたハル・ノート作成へ結びつくわけです。

 いずれにせよ、これまで有色人を奴隷としてこき使い、資源を強奪していた白人列強の縄張りに、「日露戦争」に勝利し、世界の一等国(列強)の仲間入りした、 有色人種の小国・日本が、突然入り込んできたのですから、この有色人種の新参もの・日本の振る舞いは、これまで有色人種国家を食い物にして、 散々甘い汁を吸ってやりたい放題だった、アメリカ・イギリス・フランス・オランダといった白人列強にとって、面白いはずはありません。

 これで列強が日本を警戒する動きをますます強めていったのも、当然の成り行きでした。     以降、中国大陸政策をめぐる日本と白人列強の対立が、ますます高まっていくことになります。 ルーズベルトは大東亜戦争真っ最中の1945年4月に急死しますが、 もし彼がが生きていたら、日本の戦後の運命は大きく変わっていたはずです。

 というのも、1945年2月、ルーズベルトはヤルタ会談でソ連首相スターリンに、 『日本を打倒するためソ連も対日戦争に参加してほしい』と持ち掛けたのです。  そしてその見返りとして太平洋の出口となる千島列島をソ連のものにする秘密協定を結びます。    ルーズベルトの部下は千島列島は昔から日本の領土であると忠告しますが、日本分割統治を目論むルーズベルトは耳を貸しません。

 つまり、敗戦後の日本は、戦後のドイツや韓国のように、アメリカとソ連に占領された分断国家となるはずだったのです。  それがルーズベルトの方針だったのです。  このような、 当時の日本が置かれた立場を理解していないと、日本が米英相手の無謀な戦いを続けざるを得なかった事情を見失います。

 ドイツはルーズベルト死後の5月7日に降伏しますが、その翌日陸軍長官スチムソンが国務次官グルーに、ソ連の対日参戦計画と原爆開発について打ち明けます。     駐日大使も務めたグルーは、日本が原爆投下によって壊滅することは避けたいと考え、日本に対し事前に、ルーズベルトが考えていた政策を発表して、 惨禍を未然に防ごうとポツダム宣言を作成します。(2024.8.15)


日本を二度降伏させたアメリカ

 アメリカの歴史教科書のなかには、「日本は二度降伏した」と書いてあるものがあるといいます。  一つは1945年8月15日の大東亜戦争の敗戦ですが、 もう一つは1853年(嘉永6年)のペリーの黒船来航です。  ペリーの目的はアメリカ合衆国大統領国書を幕府に渡すことでした。

 1854年2月13日(嘉永7年1月16日)、ペリーは再び浦賀に来航し決断を迫ります。  日本の小学校教科書には「...ペリーは友好と貿易を求める大統領の手紙をもって、 幕府に強く開国をせまりました」としています。  しかし、実際はそんな生易しいものではありませんでした。  いよいよ日米双方が面談という日、アメリカ側は箱を奉行所の役人に渡します。

 その中には二本の白旗と手紙が入っていました。 その手紙には、「日本が鎖国の国法をたてに通商を認めないのは天の道理にそむき、その罪は大きい。  通商をひらくことをあくまで承知しないならば、 我々は武力によってその罪をただす。  日本も国法をたてに防戦するがよい。  戦争になればこちらがかつに決まっている。  降伏するときは贈っておいた白旗を押し立てよ。    そうしたら、アメリカは砲撃をやめ和睦することにしよう」(教科書が教えない歴史 藤岡信勝)

 実際、ペリー艦隊は砲門を陸に向けいつでも火を噴けるようにしていました。  ペリーは日本の回答が得られなかった場合「祖国が侮辱されたもの」とみなし、いかなる結果を招こうがすべて日本側に責任があると言明しています。   まさに 「砲艦外交」の見本のような恫喝ぶりですが、実はアメリカは最初からケンカ腰ではありませんでした。 1837年に漂流民を届け通交を求めようと来航したモリソン号は、日本側から相手にされず砲撃を受けるなどされ追い返されています。   この経験からアメリカは優柔不断でノラリクラリと交渉を先延ばしする日本に言うことを聞かせるには、話し合いではなく武力で威嚇して交渉すべきだと学んでいたのです。

 当時は武力を背景に強い者が弱いものを支配するのが当たり前であり、当時の国際社会はルール無用の弱肉強食の世界がまかり通っていました。    日本などほんの数カ国以外の有色人種国家は、白人列強により植民地支配されていたのです。   お人好し日本人はここが理解できておらず、 韓国を併合したのは可哀想、 満州を支配したのはやりすぎ、などと当時の世界情勢も知らずに日本を批判するわけです。  しかし、 当時は「やらなければ、やられてしまう」時代だったことは理解しておくべきで、善悪という概念とは無縁の、お花畑理論は通じない世界だったのです。   いつの世も「平和を望むだけでは平和は守れない」のです。

 アメリカ・ペリーの言い分を受け入れるしかなかった日本は、関税の額や割合を独自にきめることもできず、外国人の犯罪を日本側で裁くこともできない不平等な条約を結ばざるを得ませんでした。    これを見た欧米諸国は我も我もと、日本に不平等条約を押し付けてきたのです。   日本が不平等条約を改正できたのは、 「日露戦争」に勝利し一等国の仲間入り ができた1911年(明治44年)になってからでした。

 日本は武力によって屈服させられたわけですが、これをバネに日本は明治維新を経て新しい国づくりへと邁進していったのです。  日本の指導者たちは、 当時の国際社会の掟を受け入れ、たとえ不平等な条約であろうが忠実に守り、強い国になってから交渉により条約を改正させました。

 日本の力で中国の支配から逃れ、近代国家へ発展させてもらった韓国は、 「日本は我々を35年間支配した」と日本に文句ばかり言いますが、 もし日本が併合しなかったら、今頃はロシアの属国にされ、ロシア語を話す社会主義の国になっていたでしょう。    日本が「韓国併合」へ舵を切ったのには、 それなりの理由があったのです。

 そもそも韓国は「植民地支配被害国」などではありません。    韓国人は自国政府が押し付けた嘘まみれの歴史ではない、 本当の史実を勉強して、少しは日本に感謝し見習ってもらいたいものです。(2024.7.14)

  
 

極東に領土紛争のタネを蒔いたルーズベルト

 ルーズベルトはヤルタ会談でソ連首相スターリンとの間で、日本の領土である千島列島をソ連のものにする秘密協定を結びましたが、それ以外にも、中国とソ連の間でも、 国境地帯で領土問題が起きるようにし、実際、その後の中ソは領土争いで戦争をしています。

 さらに、ルーズベルトは1943年11月のエジプト・カイロで行われた、アメリカ合衆国大統領・フランクリン・ルーズベルト、イギリス首相・ウィンストン・チャーチル、中華民国国民政府主席・蒋介石が集まって、 連合国の対日方針と戦後のアジアに関する会議(カイロ会談)の席上、 中国の蒋介石に『沖縄が欲しくないか』と持ち掛けています。

 この時は、蒋介石が『沖縄はすでに長い間日本の領土である』としてルーズベルトの提案は受けませんでしたが、このように、ルーズベルトは第二次大戦を終える前に、ソ連・中国・日本の国家間に、 領土をめぐる紛争が起きるよう仕向けたのです。   ここには、この三か国が友好関係を結び一致協力してしまえば、アメリカは極東から追い出される、 という警戒感があったわけです。(2024.8.15)


  

日本の「人種平等案」を葬ったアメリカ

 オランダ人は「ケチ」という定説は事実のようで、戦後連合国は対日賠償請求を放棄したのに、 オランダは捕虜への補償金名目で1500億円をせしめています。      また、オランダ人の有色人への蔑視と虐待ぶりは相当なものだったという話は有名で、 戦後も日本軍兵士224人を処刑しています。     フランクリン・ルーズベルトも実はオランダ出身で、 彼と会談した英国公使も「ルーズベルトは有色人種への差別が格段に強かった」と本国に書き送っています。(戦後歴史の真実・前野徹)

 この席でルーズベルトが公使に語ったのが、「インド系、あるいはユーラシア系とアジア人種を、さらにはヨーロッパ人とアジア人種を交配させ、それによって立派な文明をこの地に生み出していく。  ただ、日本人だけは除外し、もとの島々に隔離して衰えさせる」というものです。   この思想は日本に開戦を決断させたハルノートに、 そのまま反映されています。

 1914年(大正3年)にヨーロッパを戦場とした第一次世界大戦が勃発しますが、この戦争では、勝った国も負けた国も大きな被害を受けました。   もう二度と悲惨な戦争を起こさないようにしようと 国際連盟が創設されたのは、アメリカ大統領ウィルソンの提案によるものでしたが、戦争の悲惨さを体験した各国もこぞってこれに賛成します。

 そこで1919年(大正8年)にパリ講和会議が開催され、国際連盟の規約について討議されます。  日本はこの会議で「人種差別をやめよう」 という「人種平等案」を規約に盛り込む提案を行います。    白人による人種差別は有色人種の日本人にも被害が及び、当時アメリカに移住していた日本人たちは酷い差別を受けていたのです。

 当初いくつかの白人国家がこれに反対しますが、日本は粘り強く交渉を進め修正案を出します。  こうした努力が実を結び、採決が行われ、日本案に賛成は11票反対は5票というた結果となります。  反対した国は、アメリカ、イギリス、ブラジル、ポーランド、ユーゴスラビア、ルーマニア。    賛成した国は日本(2票)をはじめ、フランス(2票)、イタリア(2票)、ギリシャ、チェコスロバキア、ポルトガル、中華民国でした。

 これで誰もが日本の提案が通ったと思ったのですが、ウィルソンは「日本の提案は全員が賛成していないので否決された」としたのです。  当然日本は 「これまでの会議では多数決で採決してきたではないか」と猛抗議しますが、ウィルソンは 「このような重要な問題は全員が賛成しなければならない」として、日本の画期的な提案を葬り去ったのです。

 アメリカは当時黒人と白人の間で人種問題を抱えていました。  もし日本提案が通れば、その影響で国内の人種問題がさらに拡大していくことを恐れたのです。     案の定、アメリカでは、差別を受けていた黒人が講和会議での日本の差別撤廃案へ期待していましたが、賛成多数であったにもかかわらず、 ウィルソンが議長裁定により法案を成立させなかったという自国政府の行動に対し、多くの都市で人種暴動が勃発。  100人以上が死亡、数万人が負傷しています。

 ただ、日本の「人種平等案」にかける思いは、太平洋戦争中も変わりませんでした。   1943年(昭和18年)11月5〜6日、東京で近代史上初めて有色人種のみが一堂に会し、 アジア地域の首脳会議(大東亜会議)が開催されます。    この会議では大東亜共栄圏の綱領ともいうべき、(1)共存共栄、(2)自主独立と互助敦睦(とんぼく=友好を促進)、(3)伝統尊重、 (4)経済発展、(5)人種差別撤廃と資源解放、という大東亜共同宣言が採択されています。(2018.12.11)


  

ルーズベルトとトルーマン

 アメリカは「日本を原爆の実験場にした」わけですが、 もしルーズベルトが死亡しなかったら日本に原爆が落とされることはなかったかもしれません。  日本に原爆投下を指示したのはトルーマンですが、ルーズベルト政権の副大統領だったトルーマンは、 ルーズベルトの死去で偶然大統領になったわけですが、歴代米国大統領の中では珍しく大学を出ていません。  トルーマンが大統領になったとき、 世間では誰もが彼を「ミズーリの田舎の雑貨屋だ」などと小馬鹿にしたといいます。

 同盟国指導者の中に突然飛び込んでいく羽目になったトルーマンとしては、唯一優位に立てるのが原爆だったわけです。  そのトルーマンは自分が原爆のことを知らされたのは大統領になってからと嘘をついていますが、 ルーズベルトから聞いていなかったはずはアリマセン。   日本への原爆投下はトルーマン新大統領と彼の協力者、国務長官バーンズが就任後四カ月足らずで決定したわけですが、 そこには厳密なタイムスケジュールがありました。

 この二人が原爆投下の厳密な計画を立てたのは間違いありませんが、この内容については何も文字には残されていません。  原爆投下の準備が整ったのは8月1日とされますが、原爆実験予定日は、 当初7月初めでしたが実際は7月16日に行われています。

 原爆投下直後、日本が正式に降伏した時、トルーマンは大喜びしたとされますが、20万人以上の市民を虐殺した罪悪感を感じないはずは無く、 朝鮮戦争で原爆使用を主張したマッカーサーは解任されています。(2024.8.17)


  

「アメリカの本心」を理解できていない日本人

 アメリカの日本に対するスタンスは基本的に「日本企歴史を真摯に見つめ、反省し、正当化などしてはならない」というものです。  中国や韓国との間に横たわる歴史問題について、 日本の立場も考慮して仲介役を果たしてくれる、などという甘い考えを抱いてはなりません。

 アメリカは原爆を投下するまで日本の降伏を許さなかった残酷な国です。    さらに、日本を兵糧攻めにして大東亜戦争へ追い込んでもいます。  イザとなれば日本に対し何でもありで仕掛けてくる国なのです。   そんな国が、中国と日本が友好的になることを望むはずは無いのです。    歴史問題解決には、米国の厚い壁が立ちふさがっているのです。(2024.7.12)


戦争の背後にあった当時の時代背景

 時代が違う過去の出来事を、いまのルールに生きる現代人が自分の基準で裁くことはできません。  白人列強が有色人国家に武力で侵攻し、植民地支配していた時代、列強相手の戦争へ突き進んだ日本にも、 それなりの言い分はあったのです。

 日本は、1914年(大正3年)7月28日から1918年(大正7年)11月11日にかけて、連合国と中央同盟国間で行われた世界規模の戦争、 「第一次世界大戦」の「戦争景気の恩恵」により、 1916年(大正5年)以降、「農業国から工業国」へと代わり、重工業・化学工業が発展、産業の動力として電気が盛んに利用されるようになります。 人口も爆発的に増えていきますが、 それまで日本人移民を大勢受け入れていたアメリカは、 1924年7月1日、「排日移民法」により日本人の移民を全面禁止したため、日本に大きな衝撃を与えます。

 敗戦後、昭和天皇は日米開戦の遠因 として、「....加州(カリフォルニア)移民拒否の如きは 日本国民を憤慨させるに充分なものである(中略) かかる国民的憤慨を背景として一度、軍が立ち上がつた時に之を抑へることは容易な業ではない (『昭和天皇独白録』より)」と述べています。

 1929年(昭和4年)、世界経済の中心となっていたアメリカ・ニューヨークのウォール金融街で株価が大暴落。  銀行や工場などが次々倒産するなど、 混乱が世界中に広がり「世界恐慌」となり、 日本も、1930年〜1931年にかけ倒産する企業や失業者の増加で日本経済は大打撃を受けます。

 列強は「世界恐慌からの脱出」を図るため、様々な政策を取るようになります。   植民地を多く持つ大国アメリカ、イギリスやフランスは、1930年代初めから、本国と属領との結びつきを強め、他国から安い輸入品が入ってこないよう 高い関税をかけ輸入を阻止する保護貿易政策を行い、身内以外の国からの輸入を阻止する 排他的な 「ブロック経済圏」を形成して恐慌を乗り切ろうとします。

 これにより、米英仏は、自国圏内の貿易だけでも経済を回復させることができましたが、ブロック経済からはじき出され、資源が乏しく植民地の少ない国、 特に日本、ドイツ、イタリアは大きな影響を受けます。   これらの国は、この現状を打破するため、「領土を確保するため他国に侵攻すべき」、 「軍事に力を入れ軍事産業を盛りあげよう」、という世論が高まります。

 アメリカが引き起こした世界恐慌は いくつもの国の運命を狂わせ、結果として第二次世界大戦勃発の一つの要因となっていきます。  イタリアとドイツは、 過激に国を引っ張っていく「ファシズム」体制、思想が台頭。    ドイツでは1933年1月30日、ナチスのヒトラー内閣が誕生、イタリアでは1925年1月、 野党勢力を弾圧した国家ファシスト党のムッソリーニが中心となり、独裁体制が構築されていきます。

 日本においても、1932年5月の「五・一五事件」や 1936年(昭和11年)2月の「二・二六事件」といった 軍部らによるクーデターが頻発。   武力を背景にした軍政国家の実現を目指す動きが表面化していくようになります。     このような流れで、日本、ドイツ、イタリアでは軍国主義の風が吹き、民主主義国家との対立が深まります。   アメリカが引き起こした世界恐慌は、 いくつもの国の運命を狂わせ、結果としてこの三国は、1940年(昭和15年)9月27日、日独伊三国同盟を結び、連合国と対峙する枢軸国勢力となっていきます。(2024.6.4)


日本に戦争を決意させたソ連コミンテルン

 第2次上海事変では、あの 義和団と同じ粗暴で残忍な中国人が5万人、 米独から渡された最新鋭の武器を手に日本人租界を襲います。 すぐ隣にはアメリカ、フランスの租界が広がっていましたが、彼らは屋上から日本人と中国人の戦争を見下して酒盛りをしていたともされます。

 欧米人は凶暴な中国人が彼らの領域には絶対に侵攻しないことを確信していました。  なぜなら、彼らは米国に金で雇われ日本を裏切った 蒋介石が指揮を執る軍隊であることを承知していたからです。 蒋介石は以降、 米国にすがりながら、抗日戦争を続けたのです。  このように、米国は日中戦争のすべての局面で決定的な役割を果たしたのです。

 しかし、「人道主義国家」の米国は自分の策謀術数(けんぼうじゅっすう)は隠し、日中の戦いはきっと性悪の共産主義者、コミンテルンが争わせたのでしょうと、すべてソ連の画策のように思わせたのです。    朝日新聞も、この「コミンテルン画策説」を忠実に守り継承しています。

 アメリカは、日清・日露戦争を戦い、多くの血を流しやっと手にした中国利権を、日本から根こそぎ奪い取った挙句、 有色人国家・日本を前近代国家へ逆戻りさせようと、強硬な経済封鎖に追い込んで いったわけですが、この「日本抹殺包囲網」を受けた結果、当初は米国相手に戦うなど狂気の沙汰である、と考えていた軍人たちの中にさえ、 この期に及んで米国に平和的解決を求めても無駄であり、 座してアジア・アフリカ諸国のように白人列強に牛耳られ支配されるより、生き残りをかけた対米戦争もやむなし、という空気が芽生えていったのは、 当然の成り行きでした。

 ただ、この時点においても、日本経済の生殺与奪を握っていた米国と戦うなど無謀であるとして、 和平の道を探ろうとする日本は、アメリカとの交渉において、中国大陸からは日中の和平が成立した後に撤退すること、フランス領インドシナからの撤退については、 日中の共同防衛が実現した後に行うと回答します。   しかし、この提案は、 すでに日本抹殺を決意したアメリカおよびイギリス、オランダ、オーストラリアを翻意させるまでには至らず、 1941年(昭和16年)11月26日、アメリカは日米交渉の最終段階で、 日本が到底受け入れられない要求、 いわゆる米国が仕掛けた外交上の暴挙とされる「ハル・ノート」を突き付けてきたのです。

 これは、日清戦争以降、これまで多数の犠牲のもと築き上げてきた日本の立場を無視した、日本存亡に直結する厳しい要求であり、「日本に対して大国の地位を放棄しろ」、 「有色人は大人しく貧乏国のままでいろ」、と言っているのに等しいものでした。   アメリカはもはや日本と交渉する気など無く、 日本に最初の一弾を撃たせるための最後通牒を突き付けたのです。

 これによって、日本は否応なく「生き残るための戦い」へと追い込まれました。    日本軍による1941年(昭和16年)12月8日の真珠湾攻撃は、宣戦布告なしで攻撃したとされていますが、実態は駐米日本大使館側怠惰によるミスで伝達が遅れ、 最後通告をハル長官に手渡したのが、真珠湾攻撃後すでに50分が経っていた、という背景があったためで、決して不意打ちではありませんでした。

 大東亜戦争の性格づけについて、「計画戦争」か「受動戦争」かという議論がありますが、 戦後になり、大国アメリカに無謀な戦いを挑んだ「大東亜戦争」を日本に決心させた、「ハル・ノート」作成の背後には、 日米分断を企てるソ連コミンテルン(共産主義組織)の思惑があったことが、 「ヴェノナ文書」で明らかになっています。(2024.6.4)


「戦争犯罪国家」の汚名を着せられたままの日本

 戦後もそろそろ100年になろうかという現代においても、政治家はおろか日本社会は東京裁判の呪縛に囚われたままでいます。     日本人が現代文明への冒涜ともいうべき「東京裁判」を、このまま唯々諾々と受け入れていいはずはありません。     中国・韓国人ならまだしも、当の日本国民からして、日本を戦争犯罪国家と決めつけた悪質なプロパガンダに囚われたまま、 「あの戦争は、全て日本が悪かった」、 「自分たちの国はかつて侵略戦争をした」などと考えるのは、 まさに「愚かな自虐史観」にほかなりません。

 日本は戦いに勝利した連合国と、厄介な近隣諸国、そして国内に巣食う反日メディアによる、手を変え品を変えた様々なプロパガンダによって、 「白人支配を断ち切った日本はアジアの解放者」という、 先の戦争で日本が果たした役割は闇に葬られたまま、 「日本は国際法違反の残虐非道な侵略戦争を行った」という、嘘まみれの倒錯した固定観念をガッチリ植え付けられたままでいます。    「日本は良いこともした」と考える人も、それを口に出してしまうと「右翼、軍国主義者」と批判されてしまう社会がいまだに続いているのです。

 そういう風潮に輪をかけていったのが、自国の非を嬉々としてブチあげる、反日メディアや進歩的文化人など、 天皇制反対、日の丸は揚げるなと主張する、いわゆる祖国を否定する反日思想の持ち主によるプロパガンダ洗脳です。   メディアの世界にも、田原総一朗氏のように、 テレビ番組でこれから日本を背負って立つであろう新人政治家に対し、日本が戦争に至った経緯 は日本に非があったか否か、という「踏み絵」を迫り、「日本擁護論」を述べようものなら、血相変えて否定・批判する人物がいまだに居座る現状があります。(2016.6.23)

 そうでないと、戦争中なにもできなかったという負い目を隠すため、 いつまでも日本を悪者にしておこうとする隣国や、 戦勝国による復讐劇にすっかり洗脳された、 祖国を否定する反日主義者のプロパガンダによって、 我々日本人の子孫たちが、未来永劫、「日本は戦争を起こした悪い国」という一方的汚名を着せられ、 唯々諾々と謝罪責務を負わされ続ける国のままになってしまいます。    日本はアジア諸国に偉大な足跡を残したという歴史の事実を、日本人はもっと理解すべきです。(2024.6.4)


 

今なお続くプロパガンダによる洗脳状態

 21世紀の現代においても、産経新聞以外の日本のマスメディアは、プレス・コードで報道機関を厳しく統制したGHQの呪縛に囚われたまま、 日本の正当性を主張する勇気もなく、「アメリカは正しい。 日本が悪かった」としてアメリカや中韓の言いなりになっています。     日本のほぼすべてのマスメディアは、日本人に罪悪感を刷り込んだ「WGIP」にまんまと洗脳されたまま、 戦勝国や中韓の思惑通り「史実でない」ことをさも「史実である」かのような偏向報道を続けているのです。     それにより大部分の日本人は、「日本が悪者」でないと困る勢力によって、 「先の戦争は、戦争に駆り立てた軍部が、 戦時指導者が悪かった」と責任をすり替えられ、洗脳されていることに、いまだに気づいていません。

 日本社会には、「日本は戦争を起こした悪い国」という信仰に近い思い込みで凝り固まっている、反日思想の持ち主たちが 日本国内にいまだに大勢蔓延っています。    この「反日教」の信徒たちは「太平洋戦争史」というものは 占領軍による「歴史修正主義者のお手本のようなシロモノ」であることに疑いを持たず、頭から信じ込んでいるわけです。     そのため、戦後長い間、大東亜戦争(太平洋戦争)に対して肯定的な意見を述べようものなら、 『右翼・軍国主義者』などとヒステリックな攻撃を受けるのが一般的で、その状況は今も変わっていません。

 しかし、敗戦も100年近くも経とうという今、「裁判とは名ばかりの復讐劇」とされる 「東京裁判」の判決を、 なんの疑いも抱かず無邪気に信じ込み、「枝葉の部分」の「日本は戦争で周辺国に迷惑をかけた」 という単純な見方だけで、あの戦争を検証していては、「森の部分」の アジアの指導者たちに自信を与えた日本の功績、 アジアのみならず世界を植民地支配から解放した「誇り高き国家・日本」、という存在意義も揺らぎかねません。

 日本のメディアも国民も、そろそろ「日本は戦争という罪を犯した国であるというプロパガンダの呪縛」から抜け出してもいい頃です。     反日勢力による今なお続く虚偽プロパガンダには、 「白人列強による植民地支配に終止符を打った」 という、日本が果たした人類史に残る偉大な功績を、 正々堂々と主張できる国になっていくべきです。(2024.6.5)


    

プロパガンダが「歴史」として定着する恐ろしさ

 「スペインの悪口を言ってる奴、そいつはスペイン人だ」という詩句があるそうです。  スペインは近代史において最初の覇権国家でしたが、 中南米のインディオを大量虐殺し、金銀や食料の掠奪に悪逆のかぎりを尽くした、という「闇の歴史」のため、いまだにスペイン人自らが自国の歴史に自信を持つことは出来ないといいます。

 原住民を虐殺し強奪したという話なら、イギリスから枝分かれした アメリカ人はフィリピンを自国の植民地にしようとした際、 フィリピン人に対して無慈悲な攻撃を行い111万を殺戮しています。   さらに、先住民のインディアンを冷酷残忍に扱った国であり、スペイン人の振る舞いと同じか、もっと残虐だったかも知れませんが、 誰もそのことは頓着せず、いまでは世界の最強国と成り上がっています。

 スペインとアメリカの差は「歴史歪曲の一奇書」の存在が影響しているためとされます。 修道士のバルトロメ・デ・ラス・カサスという人物が1542年に現地報告として国王に差し出した、 『インディアスの破壊についての簡潔な報告』という一冊の薄っぺらい本が、やがて世界の国語に訳され拡散していき、 いまではスペイン非道国家説がしっかり根を張ってしまった、というわけです。

 『....彼らは村に押し入り、老いも若きも、身重の女も産後間もない女もことごとく捕え、腹を引き裂き、ずたずたにした。』、『....彼らは母親から乳飲み子を奪い、 その子の足をつかんで岩に頭を叩きつけたりした。』、...などという残虐な殺戮話がこれでもかと書かれているそうで、たしかに、これが全て事実なら、 スペイン人も大人しくならざるを得ないでしょう。

 この背景には16世紀、スペインの敵国オランダやイギリスが、記述内容に対し何らの歴史検証も行わず、銅版画の想像絵つきで世界中にバラまき、 スペインを叩く強力この上ない武器として用いた、 という事情もあるようです。  1985年に『憎悪の樹』という反論書が出ましたが、 いずれにせよプロパガンダが「歴史」として定着してしまったわけです。 (地球日本史@『歴史歪曲の一奇書がスペインを暗黒国家にした』引用)(2020.8.20)


    

『ライフ』誌による捏造写真

 1937(昭和12)年8月28日、『ライフ』誌に、日本の爆撃機が中国の補給路を断つために、上海南駅を爆撃した時のものであるとする 「戦場で泣く赤ん坊」の写真が掲載されます。    この「泣く赤ん坊の写真」は、ただちに映画ニュースとして全米に放映されました。  新聞にも掲載され、世界中でも知られる写真となります。

 ところが、この写真は日本軍の爆撃が終わった後、硝煙が立ち込める駅に赤ん坊を連れてきて線路の上に置き、それを蒋介石がお気に入りだった報道カメラマンのウォンが撮影したものだったのです。    この写真は、戦時宣伝に過ぎなかったのですが、1975(昭和50)年になり、世界的写真週刊誌『ライフ』が改めて、見開き2ページで大々的に取り上げてから、あたかも史実であったかのように独り歩きしていったのです。

 中国における日本軍の行動について報道する西側メディアの姿勢には、悪しきプロパガンダの意図が見てとれますが、 いわゆる『南京大虐殺』なるものも、 いまや「世界の常識」とされてしまいました。  これも一種のプロパガンダだということを、日本人は知っておくべきです。

 『ライフ』誌には、この写真は捏造報道だったとして全世界に周知させる責務があるはずで、さもないと、捏造の歴史が史実として世界中の人々の記憶に残ってしまいます。  それは、 後世まで反日勢力に恐ろしい潜在的な影響力を及ぼすことになり、現に今の日本はそのような悪質なプロパガンダに悩まされているのです。(2024.6.4)


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(*1)......大東亜戦争(だいとうあせんそう Greater East Asia War)

大日本帝国と、イギリスやアメリカ合衆国、オランダ、中華民国、オーストラリアなどの連合国との間に発生した、「欧米諸国によるアジアの植民地を解放し、 大東亜細亜共栄圏を設立してアジアの自立を目指す」、という理念と構想を元に始まった戦争に対する呼称。

植民地化していた連合国側にとってはこの呼び方は都合が悪かったため、終戦後にはGHQによって「戦時用語」として使用が禁止され、「太平洋戦争」などの語がかわって用いられた。   その後1960年頃から一種のタブー扱いとされメディアでの使用は控えられている。

(*2)......WGIP

War Guilt Information Program(ウオー・ギルト・インフォメーション・プログラム)
米国が日本占領政策の一環として行った「戦争についての罪悪感を日本人の心に植えつけるための宣伝計画」。

日本政府も、相手が中国や韓国だと、たとえその歴史認識が明白なウソであっても「これまで政府関係文書には書けなかった」(政府高官) とされる。



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・"せっけい倶楽部ソフト"で間取り検討
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・電動丸ノコこぼれ話し
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