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天龍寺

「嵯峨野に今なお伝える王朝文化の門跡寺院

大覚寺(だいかくじ)の沿革
 正式名称 旧嵯峨御所大覚寺門跡
 真言宗大覚寺派大本山
 810年(弘仁元)頃 嵯峨天皇の離宮嵯峨院として造営
 876年(貞観18)  嵯峨天皇の娘(淳和天皇皇后正子)が開山
 1268年(文永5)  後嵯峨上皇の入寺
        その後、亀山上皇、後宇多上皇も入寺し「嵯峨御所」と呼ばれる
        亀山上皇以降、この皇系は、大覚寺に住持し「大覚寺統」と
        いわれ、後の南北朝として対立していく
        応仁の乱で焼失、荒廃したが、信長、秀吉、家康などの寄進、
        後水尾天皇からの建物寄進を受け、再興。

嵯峨野は、古くから秋草や虫の名所として平安の貴族に愛された地であったという。その野に嵯峨天皇をはじめとする貴人たちが別荘を築き、嵯峨天皇の離宮が、大覚寺へと発展していく。そんな嵯峨野は、今でも多くの人をひきつけている。嵯峨天皇は、平安遷都後、平安京を都としての基盤を確立した天皇であると共に文芸に優れ、空海、橘逸勢と共に三筆と云われた。特に、中国・唐の文化に憧れ、空海を嵯峨院に何度となく呼び、語り合ったという。嵯峨の地名は、一帯の景観が唐・長安近郊の嵯峨山に似ていることからついたというが、そんな嵯峨という地名も空海との話から出てきたのかもしれない。空海が、高野山の開山、東寺の下賜などによって真言密教を広められたのも、嵯峨天皇の支援があったからこそといえよう。やがて、門跡寺院・大覚寺として栄え、やがて南北朝対立の基となった南朝・「大覚寺統」の流れのなか持明院統の北朝と対立したが、1392年(明徳3)の両統の講和で南朝の後亀山天皇が大覚寺で、北朝の後小松天皇に神器を渡し、後亀山天皇は、寺の小倉殿で隠遁したという。今では、写経や嵯峨御流としてのいけばなや書道など、嵯峨野の地らしい風流な趣きが参観する人々の心が安らぐ所になっている。
そんな大覚寺には、二度程訪れている。最初は、関西移住したばかりの年の晩秋だった。嵯峨野散策から大覚寺まで足を延ばしたが、嵐山から結構離れていたが、途中の路はのどかで気持ちの良い汗をかいたことを思い出す。二度目は、それから数年して、大沢池で行われた観月会の催しを見物に行った。観月会は、9月の中秋の名月の時、龍などを飾り付けた船で池を一周する優雅なものだが、晩秋の11月に特別に催された。大徳寺の東側に広がる大沢池は、嵯峨天皇時代から残る唯一のもの。池の麓にある茶室で一休みし池を望みながらの一服も優雅であった。又、写経の真似事をしたのもここ大覚寺ではなかったかと思う。最初から般若心経全てなどとても写経できるものではないので、お経の一部を写経したが、難しいものでとても奉納できる代物ではなかった。精神の統一・安定が必要だし、ある程度の書道の心得も必要だ。次に機会があれば、その後の自分が進んでいるのか、後退してしまっているのかを知る意味で試みてみたいとも思う。
大覚寺の再興を図った後水尾天皇が寄進した宸殿や正宸殿には、多くの襖絵が残されているが、最も傑作と云われているのが、狩野山楽の「紅白梅図」。山楽は、秀吉の小姓だったが、秀吉に画才が認められ、狩野永徳の弟子となり頭角を現し、伏見城や大阪城の障壁画製作でも活躍したという。そんな山楽に家康が命じたのがこの「紅白梅図だという。この絵には、中央に咲き誇る紅梅を徳川家になぞらえ、片隅でひっそりと咲く白梅を豊臣家になぞらえたという。事の真実は不明だが、絵の中に自己の思いを抽象的に著すのは今も昔も変わらないし、そうした逸話が残るのも親秀吉、反家康という京の人々の心中が感じられる。
こうして、大覚寺の事を思い出していると、この大覚寺が真言密教の寺院という趣きが感じられない。同じような経緯の仁和寺とま違う。やはり、親政だけではなく文芸という分野に秀でた嵯峨天皇の思いが、強く残っているからであろうか。
今一度、ゆっくりと訪ねてみたい大覚寺だ。

大沢池に浮かぶ龍船

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真言密教の道

大覚寺の画像がありませんので、次に訪れたらアップデートします。

大覚寺の大沢池での観月会。
暗くなった池に浮かぶ船上で、舞う姿は幻想的でした。