学問的で専門的なな奈良仏教から、人々への仏教への道を切り開いた最澄と空海。管僧として唐へ留学した最澄、私度僧として留学した空海。最澄は、一年後に帰国したが、私度僧である空海は、規則上20年間は帰還できないが、恵果和尚より真言密教の灌頂を受け、2年後に帰国した空海。最澄も密教については、空海の持ち帰った経典を借りたり、受学を得たりするが、やがて灌頂に対する考え方の違いからか、最澄と空海は袂をたつ。空海は、高雄山寺にて我国初めての真言密教の扉を開き、その後高野山の下賜を受け、高野山を根本道場として開創を始めた。さらに、朝廷より東寺の別当を命じられ、真言密教の道場として発展させた。日本の歴史上、空海の残した足跡には、非常に大きなものがあるといえる。今もって、弘法大師として慕われ、全国に多くの伝説を残したり、イロハの創始者、書の達人などといわれたりする空海。おそろしいくらいに時代を読め、時の中枢とのコミュニュケーション力にたけた偉人であったとも云えよう。空海の持ち帰った真言密教の世界は、宇宙の絶対真理を表す大日如来のもと、即身成仏で現される世界として、日本古来の山岳信仰とも結びついていった。この根本経典が「大日経」と「金剛頂経」で、この世界を視覚的に示そうとしたのが曼荼羅。東寺では、その曼荼羅を立体的に表現し、高野山では伽藍や寺院全体での広大な曼荼羅を表したという。そんな真言密教の流れなどは、後々になって知る。
最澄は、その後弟子の円仁や円珍などが唐に渡り、密教を学び、天台密教の道が進められていったが、その後天台密教の解釈によって円仁の弟子達と円珍の弟子達での争いになり、円珍の弟子達が比叡山を下り、園城寺を本山とした。一方、空海の真言密教も、空海のといた「三密加持」(人間も本来は仏であるのだから、その身体と言葉と意識が仏のそれと一体となるべく修行すれば仏になれると説いた)の解釈を巡り、この身はすでに仏であるから、追体験するという「本地身説法」の古義派と、仏になるための修行を必要とする「加地身説法」の新義派に別れ、新義派は、根来山に移り大きな勢力となったが、豊臣秀吉によって焼き討ちにあい、衰退し、奈良・長谷寺の豊山派と智積院の智山派に別れた。江戸時代、徳川家康によって、新義派がバックアップされたのも豊臣秀吉に対する家康の一つの対抗策であったのかもしれない。家康といえば、浄土真宗の大谷派を援助したり、臨済宗・南禅寺の以心崇伝や天台宗の天海をブレーンとしたり、徳川家の宗派である浄土宗を庇護したりするなど、宗教を時の政策とうまくいかしてきた施政者といえよう。
密教という言葉に対し、顕教という云い方がある。真言密教や天台密教から見た他宗派に対する云い方で、顕教では、その教えが一端お釈迦さまを経由して分かり易い言葉で説かれたという考え方だが、宇宙の絶対真理を大日如来としている密教では、言葉で言い尽くせない真理を、修行によって体得し、大日如来と一体となれる「即身成仏」という考え方である。天台宗ではその根本経典に「法華経」を基本としているところから、密教と顕教の中間という位置づけともいえる。尚、天台密教を台密といい真言密教を東密といい分けている。
寺院名 | 一口コメント | |
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高雄山寺 (神護寺) |
嵐山から更に清滝川を上ると高雄の山上に開けた伽藍堂が並ぶ。かって最澄が灌頂を行っていたが、その後空海が入山し、最澄やその弟子への真言密教の受戒などが行われ、拠点となった。 | |
東 寺 | 新幹線の窓から東寺の五重塔を眺めながら、どのようなお寺なのかと思っていた。そして、その寺が東寺と呼ばれ、かって羅生門を中心に西寺と対になっていたと知り、何とも奇妙な感覚になった。 | |
高野山 | 真言密教の根本道場として、比叡山と並ぶ壮大な伽藍が山上に建てられている。比叡山と違い、山の上が一つの町を形成している。 | |
醍醐寺 | 醐寺といえば、桜であるが、醍醐寺に初めて参観したのが2002年、桜も既に散ってしまった5月の下旬であった。醍醐山の山上を上醍醐と麓の下醍醐に分かれている。下醍醐の金堂、五重塔を見、秀吉が花見をしたというやりやまを越えると、上醍醐への登り道となる。 | |
仁和寺 | 門跡寺院として筆頭に格付けされる仁和寺。元々小松と呼ばれた地域で宇多天皇が父・光孝天皇がその風光を愛でた地でもあった。そこに伽藍建立の勅を下したが、その意思を継いだのが宇多天皇。宇多天皇は、菅原道真などを登用し、自らの親政を目指した天皇だが、 | |
大覚寺 | 嵯峨野は、古くから秋草や虫の名所として平安の貴族に愛された地であったという。その野に嵯峨天皇をはじめとする貴人たちが別荘を築き、嵯峨天皇の離宮が、大覚寺へと発展していく。そんな嵯峨野は、今でも多くの人をひきつけている。 | |
泉涌寺 | 山内に清水の湧出があり、泉涌寺と改められた。そして、皇室の菩提寺であったことからか、おてらではなく「みてら」と呼ばれる。 | |
智積院 | 智積院そのものを知らずにいた。泉涌寺から東大路通を妙法寺まで歩いていたとき、智積院の伽藍を観て、初めて訪れてみた。案内板に宗団として、川崎大師や成田山新勝寺、高尾山薬王院など関東地区ではなじみの寺院が記されていたのが眼にひき、境内に入った。 | |
長谷寺 | 近鉄長谷寺の駅から遠く、長谷寺方向が伺える。長谷寺駅といから、駅に近いのかと思うとそうでもない。 この辺りの地名は、初瀬(はせ)といい、お寺は長谷寺にした。元々は、「泊瀬」と書かれていたらしく、飛鳥時代よりも古い時代の大和王権の中心地であったという。 |