智積院(ちしゃくいん)の沿革 |
智積院そのものを知らずにいた。泉涌寺から東大路通を妙法寺まで歩いていたとき、智積院の伽藍を観て、初めて訪れてみた。案内板に宗団として、川崎大師や成田山新勝寺、高尾山薬王院など関東地区ではなじみの寺院が記されていたのが眼にひき、境内に入った。境内の収納庫に入り驚かされたのが、長谷川等伯一派による障壁画であった。何故、この寺院に伝わっているのか良く理解できなかった。国宝に指定されている「楓図」や「桜図」などが、庫内に広がっているさまに圧倒される。桃山時代を代表する長谷川等伯派と狩野派は、対立関係になり、やがて徳川家の庇護の元狩野派が名を残した。そんな経緯もあるかもしれないが、何となく長谷川等伯の画を好む自分になっている。画の素養や鑑識眼などない自分であるので、芸術論ではないところからの好みだ。又、庭園は、利休好みといわれる桃山時代の作風を伝えるという。等伯、利休好みの庭園と、何となく似つかわない感じを受けた。
そんな疑問も後で理解できた。現在の智積院には、もともと豊臣秀吉が幼くして死んだ長男鶴丸を弔うため建立した祥雲禅寺であり、それが徳川家康により豊臣家絶滅により寄進されたものであった。更に、皮肉は、この智積院は、真言宗新義派であり、覚鑁上人が、平安末期、高野山の座主になり衰微した宗風の建て直しを図ったが、教義の対立から根来山に移り、分離独立した。丁度、比叡山延暦寺と園城寺(三井寺)の関係に良く似ている。この根来寺を核として新義派として隆盛を極めたという。しかし、その後豊臣秀吉に反抗し、1585年(天正13)に根来山は焼き討ちにあい、滅亡してしまう。このとき高野山に逃れたのが、根来山塔頭寺院の学頭の玄宥僧正で、後に根来の再興を願い、家康により豊臣家ゆかりの寺院の寄進を受けた。祥雲禅寺の近くには、秀吉によって創建された京都の大仏寺方広寺もあるが、家康により、祥雲禅寺は、智積院となり、方広寺は、小さな寺院となってしまった。何時の時代も倒された施政者側は、その痕跡を消されてしまうのが歴史の常だ。人間の持つ業なのであろうか。
豊臣家から徳川家への権力が変わったことによる事実が、ここ智積院で知る事ができた。
そんな歴史を持つ智積院だが、今ではおおくの修行僧が学ぶ修行道場となっている。
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