泉涌寺(せんにゅうじ)の沿革 |
山内に清水の湧出があり、泉涌寺と改められた。東山連峰の麓には、清水寺や泉涌寺のように、こうした清水が湧き出ているところが幾つかあったのだろう。そして、皇室の菩提寺であったことからか、おてらではなく「みてら」と呼ばれる。そんな、泉涌寺を知ったのは、京都を訪ねて数年してからだ。一度訪ねてみようと思いつつ中々訪れなかったが、冬の東福寺を訪ねたあと、あまり分かっていないまま初めて訪れた。東大路通から東に折れ泉涌寺通りをしばらく歩くと大門に着く。珍しい光景が眼に入る。足元から下り坂の参道になり、眼下に仏殿を見下ろす事が出来る。普通は、伽藍を仰ぎ見るものだが、ここでは違う。まるで、すり鉢の底に下りていくような感じで、底の僅かに広がった平坦な場所に伽藍が並んでいるようだ。泉涌寺は、戦前までは皇室の菩提寺だったこともあり、非公開だったが、戦後は開放された御寺だが、季節柄か参詣客も少ない。泉涌寺として開いた俊芿(しゅんじょう)は、真言密教の修行にはげみ、天台の奥義を極め、宋への留学もした高僧だという。この時代、平家の滅亡、源氏の再興、そして承久の乱による皇族の運命などを見ていた俊芿であった。この俊芿に、後鳥羽上皇などの上皇や北条正子や秦時などの受戒をした。このような経緯があったためだろうか、鎌倉幕府の意向によって即位した後堀河天皇、そして僅か二歳の四条天皇に譲られたが、十二歳で亡くなられた。しかし、鎌倉幕府に反感を持った京都や奈良の寺院は、四条天皇の葬礼に奉仕しないというなか、泉涌寺があえて引き受けたという。あくまで、仏教本来の姿を示しただけだったのだろう。以来、皇室との深い結びつきが出来、南北朝九代にわたる天皇の葬儀、江戸時代初期の後水尾天皇からは、天皇の他、皇后、皇族の葬儀も多く行われるようになり、皇室の菩提寺としての性格を持つようになった。
東山より昇った月が、丁度鴨川に映る地を月輪と称したという地。そこにそびえる東山南端の月輪山の麓に位置する泉涌寺。それは、かっての京の埋葬地の一つの鳥野辺に近い。ここ泉涌寺からほど近くに、藤原氏出身の后の火葬場跡の陵があることを後ほど知った。藤原定子に仕えた清少納言も、定子を慕い晩年を泉涌寺山内で過ごしたとも云われる。一条天皇の后だった藤原定子、その定子を苦しめ、定子の兄弟を左遷・没落させた円融天皇の后詮子もここに眠っている。定子にとって伯母にあたる詮子の弟が、藤原道長。「この世をば わが世とぞ思う 望月の欠けたることもなしと思えば」と詠った道長。厳しい権力闘争の影に、時の女御も翻弄された歴史が眠る。
平安朝のきらびやかな宮廷内のドロドロした戦い、武門間の覇権を争った戦い、そして幕府と朝廷の戦い、日本の戦いを見続けてきたようなみてらだ。
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大門から仏殿を眼下に見下ろせる光景。
仏殿は、1668年(寛文8)、徳川家綱により再建された。
御在所は、1855年(安政2)建造の御所の御里御殿を明治時代に移築したもので、襖絵の多くは狩野派の手による。
大門を入って左手奥に楊貴妃観音が祀られている。1255年(建長7)、宋より請来したといわれ、唐の玄宗皇帝が亡き楊貴妃の冥福を祈って造られたという伝説がある。